最終更新日 2025-08-27

安濃津城の戦い(1600)

安濃津城の戦い(慶長五年):敗北が紡いだ天下分け目の勝利

序章:見過ごされた前哨戦―安濃津城の戦いの歴史的意義

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが迫る中、日本各地でその前哨戦となる熾烈な戦いが繰り広げられていた。その一つが、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)を舞台とした「安濃津城の戦い」である。この戦いはしばしば、「東軍が西軍の城を奪取し、補給線を確保した」と要約されることがあるが、この認識は歴史の複雑な綾を単純化しすぎたものであり、実態とは異なる。本合戦の真実は、徳川家康率いる東軍に与した城主・富田信高が、毛利秀元を総大将とする西軍3万の大軍に居城を包囲され、壮絶な抵抗の末に城を明け渡した「籠城戦」であった 1

本報告書は、この戦術的な「敗北」が、なぜ関ヶ原の戦い全体における東軍の戦略的「勝利」に不可欠な布石となったのか、その力学を解き明かすことを目的とする。安濃津城でのわずか数日間の攻防が、いかにして西軍の戦略構想を根底から覆し、天下の趨勢を決定づけたのか。その詳細な時系列と戦略的意義を、当事者たちの動向とともに徹底的に検証していく。

伊勢国の戦略的重要性

安濃津城の戦いの背景を理解する上で、まず伊勢国が持つ地政学的な重要性を認識せねばならない。伊勢は、東海道と畿内を結ぶ陸上交通の結節点であると同時に、伊勢湾を介した海上交通の要衝でもあった 1 。この地を制することは、東西間の物流と軍事行動の主導権を握ることに直結する。

石田三成ら西軍首脳部にとって、伊勢の完全な平定は、彼らが描く決戦構想の絶対的な前提条件であった。その構想とは、まず畿内を制圧し、次いで伊勢と北陸を平定することで背後の安全を確保。その後、美濃・尾張国境の木曽川を防衛線として、西進してくる東軍主力を迎え撃つというものであった 4 。もし東軍が伊勢方面から回り込むような動きを見せれば、この構想は根底から崩れ去る。故に西軍は、安濃津城をはじめとする伊勢の東軍方拠点を迅速に排除すべく、3万という大軍を投入したのである 4

主役たちの肖像

この歴史の転換点に、三人の主要人物が運命を共にする。

富田信高(とみた のぶたか): 豊臣秀吉の側近として外交などに活躍した父・富田一白(いっぱく)の跡を継いだ、伊勢安濃津5万石の城主 6 。秀吉恩顧の大名でありながら、秀吉死後の天下の趨勢を冷静に見極め、徳川家康に与するという大きな決断を下した 3

分部光嘉(わけべ みつよし): 安濃津城の南に位置する伊勢上野城を本拠とする1万石の小領主。自らの兵力では西軍の大軍に抗し得ないと判断し、富田信高と運命を共にすべく安濃津城に入城。籠城戦におけるもう一人の主将として、その武勇を奮うことになる 2

富田信高の妻・宇喜多氏: 西軍の総大将格の一人である宇喜多秀家の養女(血縁上は姪)という立場にありながら、夫と共に東軍として戦うという数奇な運命を背負った女性 1 。『武功雑記』などの軍記物語において、夫の窮地を救うべく甲冑を身にまとい、獅子奮迅の働きを見せたと伝えられる。彼女の存在は、この戦いを単なる軍事衝突に留まらない、人間ドラマとして深く我々の記憶に刻み込んでいる 10

第一章:天下分け目への序曲―東西両軍の伊勢方面戦略

小山評定と伊勢諸将の帰還

慶長5年(1600年)7月、徳川家康は会津の上杉景勝討伐のため、諸大名を率いて東国へ出陣した。伊勢安濃津城主・富田信高、伊勢上野城主・分部光嘉ら伊勢の諸将も、これに従軍していた 3 。しかし、家康らが下野国小山(現在の栃木県小山市)に在陣中、石田三成らが大坂で挙兵したとの報が届く。ここで家康は諸将を集めて軍議を開き、反転して三成らを討つことを宣言する。世に言う「小山評定」である。

この評定において、富田信高や分部光嘉ら多くの豊臣恩顧の大名が家康への味方を表明。彼らは急遽、西軍の進攻に備えるべく、自らの領国へと引き返すこととなった 2 。特に家康は、交通の要衝たる安濃津城の戦略的重要性を深く認識しており、信高に対しては特に防備を固めるよう命じて帰還させたという 3 。この時点で、安濃津城が東西両軍にとって重要な意味を持つことは明らかであった。

決死の帰国劇

領国への帰還は、決して平坦な道のりではなかった。信高と光嘉は、東海道を西へ急ぎ、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)から船団を組んで伊勢湾を渡る海路を選択した 9 。しかし、伊勢湾の制海権は、いち早く西軍に与した九鬼嘉隆率いる水軍が掌握していた。

案の定、信高らの船団は洋上で九鬼水軍に捕捉され、絶体絶命の窮地に陥る 2 。万事休すかと思われたその時、信高は一計を案じる。彼は追跡してきた九鬼勢に対し、「我らも西軍に味方するために帰国するのだ」と偽りの言葉を投げかけ、油断した隙に包囲を突破。辛くも伊勢の阿漕浦に上陸を果たしたのである 2 。この逸話は、信高の胆力と機転を示すと同時に、関ヶ原前夜の情報戦の激しさを物語っている。地元の地誌『勢陽雑記』には、この時、小船100隻余りに多くの旗指物を立てて大軍に見せかけ、西軍を欺き退却させたと、やや誇張気味ながらもその機転を伝えている 12

西軍、伊勢へ進駐

信高らが命からがら帰国する頃、西軍の伊勢方面軍はすでに行動を開始していた。8月5日には、毛利秀元、吉川広家が伊勢国境の関に、長束正家、安国寺恵瓊が椋本(現在の津市芸濃町)に進駐し、安濃津城に圧力をかけ始めた 1

信高が不在の安濃津城では、留守を預かる妹婿の富田主殿が、この3万の大軍を前に戦わずして降伏することを申し出るという一幕もあった 1 。これは、圧倒的な兵力差を前にした現実的な判断であったが、帰還した信高はこれを一喝。籠城して西軍を迎え撃つことを決意し、城内の戦備を急がせた。

西軍の初動の遅れと東軍の「時間稼ぎ」

ここで注目すべきは、西軍の動きの遅さである。彼らが伊勢国境に到着した8月5日から、安濃津城への本格的な総攻撃が開始される8月24日まで、約2週間もの時間が経過している。この遅滞の背景には、西軍が抱える構造的な問題があった。

第一に、情報戦における混乱が挙げられる。信高の帰還船団を家康本隊と誤認し、一時的に後退するという失態を演じている 13 。第二に、指揮系統の不統一である。伊勢方面軍には毛利、長束、鍋島、長宗我部といった複数の大名家が参加しており、一枚岩の指揮下にあったとは言い難い。特に、小早川秀秋は三成からの伊勢攻めの指示に従わなかったとされ 14 、吉川広家はすでに東軍への内通を画策していた。このような足並みの乱れが、迅速な軍事行動を妨げたことは想像に難くない。

結果として、この西軍の初動の遅れは、富田信高らにとって籠城の準備を整えるための貴重な「時間」をもたらした。兵力の結集、食料の搬入、防御施設の補強など、この約2週間がなければ、安濃津城はこれほどの抵抗を見せることなく陥落していたかもしれない。合戦が始まる前から、東軍は意図せずして「時間」という戦略的優位を手にしていたのである。

第二章:籠城―圧倒的兵力差下の防衛体制

戦いの舞台・安濃津城

慶長5年当時の安濃津城は、織田信長の弟である織田信包によって本格的に整備された、輪郭式の平城であった 15 。信包の時代には5重の天守と小天守が聳え立ち、本丸、二の丸、三の丸が同心円状に配置されていたと伝わる 15 。周囲の低湿地帯と幾筋もの河川を巧みに外堀として利用し、防御に適した構造を持っていた 16

しかし、この戦いは後に「築城の名手」と謳われる藤堂高虎による大改修以前の出来事である 17 。したがって、その石垣や縄張りは、関ヶ原以降に主流となる高度な技術が導入される前の、戦国末期の様相を呈していたと考えられる。それでも、伊勢における最重要拠点の一つとして、相応の防御能力を備えていたことは間違いない。

籠城軍1,700の兵力構成

この城に立て籠もった東軍の兵力は、諸記録を総合すると約1,700名であった 1 。絶望的な数적劣勢の中、彼らは多様な出自を持つ混成部隊であった。

  • 中核部隊: 城主・富田信高が会津から率いて帰還した300余の兵と、城の留守居兵を合わせた直属の軍勢 3
  • 同盟軍: 伊勢上野城主・分部光嘉が、自城での防衛を断念して率いてきた手勢 2
  • 援軍: 南方の松坂城主・古田重勝が派遣した、小瀬四郎左衛門ら50名の精鋭部隊 9
  • 義勇兵: 周辺地域の地侍や、自らの郷土と家族を守るために武器を取った城下町の町人たち 9

さらに、城内にはこれらの兵士たちの家族や、戦火を逃れてきた周辺の住民たちも多数避難しており、極度の密集状態にあった 12 。彼らの存在は、籠城兵たちの士気を支える一方で、兵糧や水の消費を早め、また敵の砲撃に対する脆弱性を高める要因ともなった。

西軍3万の布陣

対する西軍は、総勢3万を超える大軍であった 1 。これは、西軍が伊勢平定をいかに重要視していたかを示す動かぬ証拠である。

その陣容は、西国大名の連合軍と呼ぶにふさわしいものであった。総大将は、西軍総帥・毛利輝元の名代として派遣された毛利秀元 1 。彼を補佐するのは、毛利一門の吉川広家。さらに、豊臣政権の五奉行の一人である長束正家、外交僧として知られる安国寺恵瓊、土佐の雄・長宗我部盛親、肥前の鍋島勝茂、そして毛利家中の猛将である毛利勝永や宍戸元続といった、錚々たる顔ぶれが名を連ねていた 1

以下の表は、両軍の戦力を比較したものである。この約18倍にも達する圧倒的な兵力差は、籠城側の絶望的な状況と、彼らが見せた抵抗がいかに壮絶なものであったかを雄弁に物語っている。

陣営

総兵力

総大将/城主

主要武将

東軍(籠城側)

約1,700名

富田信高

分部光嘉、小瀬四郎左衛門(松坂援軍)

西軍(攻撃側)

約30,000名

毛利秀元

吉川広家、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親、宍戸元続

第三章:安濃津城の攻防―二日間の激闘(時系列解説)

安濃津城を巡る攻防は、慶長5年8月23日から25日にかけて、壮絶を極めた。以下の時系列表は、その二日間の戦闘経過を概観したものである。この表を基に、合戦のリアルタイムな状況を詳述する。

日時

東軍(籠城側)の動き

西軍の動き

戦況・備考

8月23日

鉄砲隊60名(綾井・斎田隊)が突出、迎撃。弓削忠左衛門が狙撃支援。

長束・安国寺勢が塔世川北岸に着陣。先鋒が攻撃を試みるも撃退される。

緒戦は籠城側の勝利。

8月24日 払暁

全軍で防戦開始。

毛利秀元を主力とする全軍が総攻撃を開始。

-

8月24日 午前

城下町防衛部隊が撤退時に西来寺に放火。

城下町へ侵攻。神戸・半田に布陣。宍戸・鍋島勢は東方・北方へ展開。

城下町が炎上。黒煙が城内の混乱を招く。

8月24日 昼

分部光嘉が南口で奮戦、宍戸元続と渡り合い負傷。松坂援軍が東大手で奮戦後、入城。

各方面から猛攻。塔世山から大砲による砲撃を開始。

外郭で激戦。城の櫓などが破壊され始める。

8月24日 午後

富田信高が本丸門前で危機に。妻・宇喜多氏が出陣し信高を救う。上田・小河らが奮戦。

本丸へ殺到。

籠城側の英雄的活躍が続出するも、多勢に無勢で外郭が陥落。本丸へ追い詰められる。

8月25日

籠城継続困難と判断。

木食応其を仲介役として降伏を勧告。

和平交渉成立。安濃津城は開城。

8月26日

富田信高・分部光嘉、一身田専修寺で剃髪。

安濃津城を接収。鍋島勢は松坂城へ転進。

-

慶長5年8月23日(合戦初日):先駆けと迎撃

本格的な総攻撃に先立つ8月23日、西軍の先鋒である長束正家・安国寺恵瓊の部隊が、城の北を流れる塔世川(現在の安濃川)の対岸、茶臼山・薬師山に布陣した 12 。これに対し、富田信高は綾井権之助と斎田隼人を隊長とする鉄砲隊60名を川の南岸に派遣し、敵情を探らせた。

しかし、血気にはやる両隊長は信高の命令を無視し、独断で川を渡り敵陣への奇襲攻撃を敢行する 9 。制止も間に合わず、山上になだれ込んだ鉄砲隊は、西軍の先鋒部隊に次々と銃弾を浴びせ、大混乱に陥れた。この予期せぬ攻撃に、後続部隊の救援も間に合わず、西軍は多数の死傷者を出して後退した。

信高は、突出した部隊が退却時に追撃されることを危惧し、射撃の名手として知られた弓削忠左衛門に足軽30名を付けて援護に向かわせた 12 。案の定、西軍は追撃を開始するが、弓削は冷静にその指揮官を狙撃し、一発で仕留めてみせる。指揮官を失った追撃隊は混乱し、塔世山へと引き返した 12 。こうして緒戦は、籠城側の士気を大いに高める完勝に終わった。

慶長5年8月24日(合戦二日目):総攻撃と地獄絵図

【払暁~午前】全方位からの猛攻と城下の炎上

8月24日、夜明けと共に西軍3万の総攻撃が開始された。長束正家、安国寺恵瓊、毛利勝永らの軍勢は、城下の村々を焼き払いながら南西の神戸・半田方面に布陣 1 。毛利の重臣・宍戸元続は東の浜手から、鍋島勝茂・龍造寺高房の軍勢は北から城に迫った 1

城下町を守っていた東軍部隊は、西軍の猛攻に耐えきれず城内への撤退を余儀なくされる。その際、敵の拠点となることを防ぐため、城の北西にあった西来寺に火を放った。しかし、この火が折からの風にあおられて燃え広がり、城下町一帯を焼き尽くす大火災へと発展してしまう 9 。城の北から立ち上る黒煙は、南方を守備していた城兵たちに「すでに北から敵が城内に侵入したのではないか」という深刻な動揺を与え、逆に西軍の士気を大いに高める結果となった。

【終日】各戦線での死闘

城の全周で、血で血を洗う激戦が繰り広げられた。

  • 東方戦線: 松坂城からの援軍50名が、その真価を発揮する。隊長の小瀬四郎左衛門らは、地元ならではの土地勘を活かし、西軍が攻めあぐねていた葦の茂る沼沢地帯を突破。敵の攻撃を退けながら、見事城内への合流を果たした 12
  • 南方戦線: 分部光嘉が自ら槍を手に、押し寄せる敵軍に三度にわたって反撃を加え、これを撃退 9 。その中で、毛利家臣の猛将・宍戸元続と一騎打ちとなり、相手の脇腹を突いて深手を負わせるも、光嘉自身もまた重傷を負い、戦線を離脱せざるを得なくなった 2
  • 西方戦線: 総大将・毛利秀元と吉川広家が率いる本隊が攻めかかるが、城兵の決死の抵抗に遭い、容易に進撃することができなかった 1
  • 北方戦線: 城の北、塔世山の高台に据えられた西軍の大砲が火を噴き始めた。砲弾は城の櫓や多聞櫓を次々と破壊し、籠城側の防御施設は着実にその能力を削がれていった 1

【午後】本丸攻防のクライマックスと女武者の奮戦

午後になると、外郭は次々と破られ、戦場は本丸へと移る。城主・富田信高は本丸の門前にて自ら槍を振るって防戦するが、衆寡敵せず、ついに敵兵に囲まれ自刃を覚悟するに至った 1

その絶体絶命の瞬間、城内から一人の若武者が颯爽と現れた。緋縅(ひおどし)の具足に半月の前立てを打った兜をかぶり、片鎌槍を手に、瞬く間に敵兵5、6人を討ち倒し、信高を救出したのである 1

この謎の若武者こそ、信高の妻・宇喜多氏であった。『武功雑記』や『石田軍記』といった後代の軍記物によれば、彼女は夫が討死したとの誤報を聞き、「枕をともにしたくてここまで出てまいりました」と、共に死ぬ覚悟で戦場に飛び出したと記されている 1 。彼女は毛利家の名のある武士・中川清左衛門を討ち取ったとも伝えられ、その勇姿は窮地に陥った城兵の士気を極限まで奮い立たせた 1

このほかにも、大坪流馬術の達人・上田吉之丞が馬上から太刀を振るって敵を追い散らし、弓の名手・小河六左衛門が櫓の上から正確な射撃で多くの敵兵を射倒すなど、個々の兵士による英雄的な奮戦が記録されている 12 。しかし、これらの奮闘も及ばず、城兵は本丸へと追い詰められていった。

『武功雑記』の記述と歴史的事実

富田信高の妻の活躍は、この戦いを象徴する逸話として名高いが、その史実性については慎重な検討が必要である。この逸話を最も劇的に伝えるのは、『武功雑記』や『石田軍記』といった、江戸時代に成立した軍記物語である 10 。これらの史料は、物語としての面白さを追求する中で文学的な脚色が加えられることが多く、記述のすべてを史実と見なすことはできない 23

一方で、より史料的価値が高いとされる江戸前期の伊勢の地誌『勢陽雑記』には、彼女の活躍に関する記述が見られない 10 。これは、戦後まもなく富田家が伊予宇和島へ転封となったため、この武勇伝が地元である伊勢に定着する前に、語り部たちがその地を去ってしまった可能性を示唆している 10

しかし、複数の記録が、信高が危機に陥った際に謎の「若武者」によって救われたという点で一致しており 1 、彼女が西軍の主力である宇喜多一族の娘であることから、武芸の心得があったことは十分に考えられる 22

結論として、彼女が何らかの形で甲冑を身に着け、夫の窮地を救うために戦闘に参加した可能性は極めて高いと言える。軍記物語に描かれるような超人的な活躍は脚色であろうが、その核となる「武家の女性が戦った」という事実は、戦国乱世の終焉期における女性の役割の多様性を示す、非常に貴重な事例である。これは単なる美談としてではなく、当時の社会の一断面を伝える史料として分析する価値がある。

第四章:戦いの波紋―関ヶ原への影響と後日談

開城とその後

慶長5年8月25日、安濃津城内は惨状を極めていた。二日間の激戦で籠城側の死傷者は約600名に達し、本丸に避難していた非戦闘員の上にも西軍の砲弾が降り注ぎ、まさに地獄絵図と化していた 12 。これ以上の抵抗は無意味な犠牲を増やすだけであると判断した富田信高は、ついに降伏を決意する。

西軍は力攻めの損害を鑑み、高野山の高僧・木食応其を仲介役として城内に派遣し、降伏を勧告した 2 。木食応其は、かつて豊臣秀吉の紀州征伐の際に高野山を救った人物であり、秀吉や石田三成とも深い関係があったため、両軍から信頼される中立的な立場としてこの役に選ばれたのである 26

信高と分部光嘉は、この勧告を受け入れ、安濃津城を開城。8月26日、一身田にある専修寺にて剃髪し、高野山へ上るという形で城を明け渡した 1 。戦術的には、安濃津城は西軍の手に落ちたのである。

関ヶ原への戦略的影響

しかし、この戦術的敗北は、関ヶ原の戦い全体を見渡した時、東軍にとって決定的な戦略的勝利をもたらした。

安濃津城での3日間にわたる攻防は、毛利秀元率いる西軍の伊勢方面軍3万の足を完全にその場に釘付けにした 4 。問題は、この「時間」である。まさに西軍主力が安濃津城攻略に手間取っていた8月23日、東軍の先鋒である福島正則、池田輝政らが、西軍が濃尾方面の拠点としていた岐阜城を、わずか一日で攻略するという電撃的な勝利を収めていたのだ 4

もし、安濃津城が抵抗せずに開城していたらどうなっていただろうか。伊勢方面軍3万は、遅くとも8月20日頃には伊勢を平定し、美濃へと転進していた可能性が高い。彼らが岐阜城の救援に駆けつけるか、あるいは東軍の拠点である尾張・清洲城を牽制する動きを見せていれば、福島正則らも容易に動けず、岐阜城が持ちこたえた公算は大きい。そうなれば、西軍が当初描いていた「濃尾国境での決戦」という戦略構想が実現し、関ヶ原の戦いの様相は全く異なったものになっていただろう 4

つまり、富田信高らの壮絶な抵抗は、西軍の戦略構想を根底から覆し、戦いの主導権を東軍が握るための決定的な時間的猶予を生み出したのである。安濃津城の「敗北」は、関ヶ原全体で見れば、東軍の「勝利」へと繋がる極めて重要な布石であった 4

関係者たちの運命

戦いの後、関係者たちはそれぞれ異なる道を歩む。

  • 富田信高: 9月15日の関ヶ原本戦で東軍が勝利すると、徳川家康から安濃津城での籠城戦の功績を高く評価された。本領5万石を安堵された上、伊勢国内に2万石を加増される 1 。慶長13年(1608年)には伊予宇和島10万石余の大名へと栄転するが、後に妻の甥である宇喜多左門を匿ったことなどが幕府に咎められ、改易。不遇のうちにその生涯を終えた 3
  • 分部光嘉: 信高同様、籠城の功により1万石を加増され、2万石の大名となった。しかし、この戦いで宍戸元続との一騎打ちの際に受けた脇腹の傷が悪化し、翌慶長6年(1601年)11月、志半ばでこの世を去った 2
  • 西軍諸将: 伊勢方面軍の主力であった毛利秀元と吉川広家は、この後、美濃の南宮山に布陣する。しかし、関ヶ原の本戦では、東軍に内通していた吉川広家が「宰相殿の空弁当」の逸話で知られるように毛利軍の出陣を阻んだため、3万の大軍は戦いに参加することなく終わった 20 。また、鍋島勝茂は、父・直茂からの急使を受け、西軍を離脱して東軍に加わった 2 。安濃津城攻めは、結果的に西軍内部の不協和音と結束の脆さを露呈する戦いでもあった。
  • 安濃津城の未来: 戦いで焦土と化した安濃津城と城下町は、慶長13年(1608年)に新たな領主として藤堂高虎が入府すると、彼の手によって大規模な改修が施される。高虎は、高い石垣と広大な堀を持つ近世城郭として城を再建し、城下町を整備した。これが現在の津城の基礎となっている 2

結論:敗北が紡いだ勝利への布石

安濃津城の戦いは、その戦闘経過だけを見れば、西軍の圧倒的な兵力の前に籠城側が力尽き、城を明け渡したという「敗北」の記録である。しかし、その歴史的意義は、単なる勝敗の二文字では測れない。

富田信高、分部光嘉、そして信高の妻・宇喜多氏をはじめとする1,700の将兵と民衆が見せた3日間の壮絶な抵抗。それは、西軍の伊勢方面軍3万という巨大な戦力をその場に釘付けにするという、計り知れない戦略的価値を生んだ。彼らが稼いだ貴重な時間は、美濃方面における東軍の電撃的な勝利を可能にし、西軍が当初描いた決戦構想を完全に破綻させた。この一点において、安濃津城の戦いは、関ヶ原の戦い全体の帰趨を決定づけた、最も重要な前哨戦の一つであったと断言できる。

歴史の大きな奔流の中では、時に一つの「敗北」が、より大きな「勝利」への礎となることがある。富田信高夫妻、分部光嘉、そして安濃津の城に籠もった名もなき兵士や町人たちの犠牲と奮闘がなければ、天下分け目の戦いの結末は、全く異なるものになっていたかもしれない。彼らの戦いは、歴史の表舞台から見過ごされがちな局地戦が、いかに全体の戦略に重大な影響を及ぼしうるかを示す、不朽の教訓として語り継がれるべきである。

引用文献

  1. 安濃津城の戦い ~富田信高の関ヶ原~ http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/anotsu.html
  2. 安濃津城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%BF%83%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  3. 富田信高の妻 戦国武将を支えた女剣士/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/19736/
  4. 伊勢安濃津城の戦い~関ケ原前夜、西軍の戦略を打ち砕いた「籠城戦」 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/514
  5. [合戦解説] 7分でわかる安濃津城の戦い 「伊勢の関ヶ原前哨戦!絶体絶命の富田信高を救った妻」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=sN51-2Tyh8o
  6. www.city.uwajima.ehime.jp https://www.city.uwajima.ehime.jp/site/sizen-bunka/1516tomita.html#:~:text=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AE%E5%81%B4%E8%BF%91%E3%81%A7,%E4%BA%BA%EF%BC%89%E3%81%AE%E8%AE%83%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
  7. 富田信高(とみたのぶたか)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%AB%98-1095046
  8. 富田信高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%AB%98
  9. 関ヶ原の戦い@安濃津城 記事まとめ - ダイコンオロシ@お絵描き https://diconoroshi.hatenablog.com/entry/2024/10/12/113000
  10. イラスト)宇喜多氏(富田信高の妻) - ダイコンオロシ@お絵描き - はてなブログ https://diconoroshi.hatenablog.com/entry/2024/10/08/073000
  11. 宇喜多氏(富田信高の妻)の槍働き|ダイコンオロシ@お絵描き - note https://note.com/diconoroshi_mie/n/n824575016d22
  12. 慶長5年 安濃津城の戦い|ダイコンオロシ@お絵描き - note https://note.com/diconoroshi_mie/n/n9b4bd2353399
  13. 関ケ原決戦の勝敗を大きく左右した「前哨戦」 - 歴史チャンネル https://rekishi-ch.jp/column/article.php?column_article_id=120
  14. 関ヶ原の戦いで小早川秀秋は「開戦直後」に寝返り? “逆転”ではなく序盤で決まっていた https://dot.asahi.com/articles/-/201970?page=3
  15. 津城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%9F%8E
  16. 津城跡 | 観光スポット | 観光三重(かんこうみえ) https://www.kankomie.or.jp/spot/2886
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  18. かつては安濃津と呼ばれた【津城の歴史】をまるっと解説 - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/tsucastle/
  19. 津藩祖 藤堂高虎 https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011267/index.html
  20. 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-2/
  21. 関ヶ原の戦い@安濃津城8 追い詰められる城兵とその抵抗 - ダイコンオロシ@お絵描き https://diconoroshi.hatenablog.com/entry/2024/10/05/193000
  22. 絶体絶命のピンチに駆けつけたのは…白馬に乗った嫁⁉︎「関ヶ原の戦い」前哨戦の驚きの結末とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/111649/
  23. 『武功夜話』を巡って http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/bukou-gi.htm
  24. 通俗日本論の研究(番外編):井沢元彦氏の反論に答える | アゴラ 言論プラットフォーム https://agora-web.jp/archives/221206031745.html
  25. 古城の歴史 安濃津城 https://takayama.tonosama.jp/html/anotsu.html
  26. 木食応其 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%A3%9F%E5%BF%9C%E5%85%B6
  27. 「木食応其」―高野山を滅亡の危機から救った僧― | DANAnet(ダーナネット) https://dananet.jp/?p=2012
  28. 【関ヶ原の舞台をゆく②】関ヶ原の戦い・決戦~徳川と豊臣の運命を賭けた戦い - 城びと https://shirobito.jp/article/486
  29. 県指定 富田知信画像・富田信高画像 - 宇和島市ホームページ | 四国・愛媛 伊達十万石の城下町 https://www.city.uwajima.ehime.jp/site/sizen-bunka/1516tomita.html
  30. 夫を救うため女武者が単騎で出陣!安濃津城の戦いで見せた女傑・富田信高の妻の勇姿 https://mag.japaaan.com/archives/211313/2
  31. 空から見た関ヶ原の戦い - Network2010.org https://network2010.org/article/2086
  32. 吉川広家 陣跡 (不破高校 西) - 垂井町観光協会 https://www.tarui-kanko.jp/docs/2015113000043/
  33. 津藩祖 藤堂高虎 https://www.tokyooffice.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011267/index.html