最終更新日 2025-08-28

宝満城の戦い(1586)

宝満城の戦い(1586)-九州の趨勢を決した筑前攻防戦の全貌-

序章:九州の風雲 – 島津、天に迫る

天正14年(1586年)、日本の西端、九州は統一を目前にした一大勢力の炎に包まれようとしていた。薩摩の島津氏である。その勢いは、かつて九州に六ヶ国を領有し、北九州に覇を唱えた豊後の大友氏の落日と対照をなしていた。

全ての転換点は、天正6年(1578年)の日向国「耳川の戦い」に遡る 1 。この戦いで大友宗麟率いる大軍は島津義久の前に壊滅的な大敗を喫し、田原親賢、佐伯惟教、角隈石宗といった歴戦の重臣たちを数多失った 2 。この一敗は、大友氏の軍事的支柱を根底から揺るがし、その権威を失墜させた。これを機に、肥前国の龍造寺隆信をはじめとする九州各地の国人領主たちは、次々と大友の軛(くびき)から離反し、九州の勢力図は混沌の時代へと突入する 1

この混乱の中、着実に勢力を拡大したのが島津氏であった。そして天正12年(1584年)、「沖田畷の戦い」で肥前の龍造寺隆信を討ち取ると、九州の覇権争いは事実上、島津と大友の一騎打ちの様相を呈した 5 。もはや大友氏単独では、破竹の勢いで北上する島津軍を食い止める術はなかった。追い詰められた大友宗麟は、中央で天下統一を目前にする羽柴(豊臣)秀吉に臣従し、その庇護を求めるという最後の活路に賭けた 2

天正13年(1585年)、関白に就任した秀吉は、朝廷の権威を背景に九州の大名に対し「惣無事令(九州停戦令)」を発布する 5 。これは、大名間の私闘を禁じ、領土問題は秀吉の裁定に委ねよという、天下人としての中央集権的政策の現れであった。しかし、九州統一を目前にする島津義久にとって、この命令は到底受け入れられるものではなかった。秀吉の大軍が九州に本格的に展開する前に、大友氏を滅ぼし、九州全土を支配下に置くという既成事実を確立する。これこそが、島津氏が中央政権に対抗しうる唯一の道であった 5

島津の筑前侵攻は、単なる領土拡大を目的としたものではない。それは、刻一刻と迫る豊臣秀吉という未曾有の軍事力との全面対決を前に、戦略的優位を確保するための「時間との戦い」であった。豊後の大友本国を叩くには、背後を脅かす筑前国の大友方拠点、すなわち高橋紹運が守る岩屋城・宝満城、そして立花宗茂が守る立花山城を無力化する必要があった 7 。天正14年の夏、島津の刃は、この筑前防衛線へと向けられた。宝満城の戦いは、この九州の趨勢を決する壮大な攻防戦の一部として、その幕を開けることになる。

主要登場人物一覧

本報告書で詳述する筑前攻防戦の理解を助けるため、主要な登場人物とその関係性を以下に記す。

氏名

所属

合戦における役割

他人物との関係

高橋 紹運 (たかはし じょううん)

大友方

岩屋城主、宝満城主

立花宗茂・高橋統増の実父。立花道雪とは盟友。

高橋 統増 (たかはし むねます)

大友方

宝満城主(当時)

紹運の次男。宗茂の実弟。筑紫広門の婿。

立花 宗茂 (たちばな むねしげ)

大友方

立花山城主

紹運の実子(長男)。立花道雪の養子。

立花 道雪 (たちばな どうせつ)

大友方

(故人)

宗茂の養父。紹運の盟友。「雷神」と称された。

筑紫 広門 (ちくし ひろかど)

島津方(降伏)

肥前勝尾城主

統増の舅(義父)。島津軍の降伏勧告の使者となる。

大友 宗麟 (おおとも そうりん)

大友方

大友家当主

秀吉に救援を要請。

島津 義久 (しまづ よしひさ)

島津方

島津家当主

九州統一を目指し、筑前侵攻を命令。

島津 忠長 (しまづ ただなが)

島津方

筑前侵攻軍 総大将

義久の従弟。岩屋城攻めの指揮を執る。

伊集院 忠棟 (いじゅういん ただむね)

島津方

筑前侵攻軍 大将

島津家重臣。忠長と共に侵攻軍を率いる。

第一章:大友家の双璧 – 高橋紹運という生き様

筑前攻防戦の帰趨を理解する上で、その中心人物である高橋紹運の人物像を深く掘り下げることは不可欠である。彼は、単なる一城主ではなく、傾きかけた大友家を最後まで支え続けた精神的支柱であり、その生き様そのものが、この戦いの性格を決定づけた。

「風神」高橋紹運の器量

紹運は、豊後大友氏の重臣・吉弘鑑理の次男として生まれた 4 。早くからその武勇は知られ、同じく大友家を支えた立花道雪と並び称される存在であった。道雪が「雷神」と畏怖されたのに対し、紹運は「風神」と称され、二人は「大友家の双璧」として敵方から恐れられていた 4

彼の評価は、戦場での武勇だけに留まらない。その人柄は「度量寛大にして、高義真実の士」と評され、身分に関係なく誰にでも分け隔てなく接したため、家臣や兵卒から深く慕われていた 4 。その器量の大きさを示す逸話がある。紹運は、大友家臣・斎藤鎮実の娘と婚約していたが、祝言を前に彼女が天然痘を患い、顔にあばたが残ってしまった。父の鎮実は婚約の辞退を申し入れたが、紹運は「武門の誉れ高い斎藤家の娘である。容姿の美醜など全く気にしない」と言い放ち、彼女を正妻として迎え入れた 9 。後に「鎮西一の武将」と称される立花宗茂は、この二人の間に生まれている。このような人間的魅力と深い仁徳こそが、後に岩屋城で763名もの将兵が一人も裏切ることなく、彼と運命を共にするという、驚異的な結束力の源泉となったのである 4

耳川の戦い以降、大友家が衰退の一途をたどり、多くの国人領主が島津になびいていく中でも、紹運の忠誠心は微塵も揺らがなかった。「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが、私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」 11 。この言葉は、彼の武士としての哲学そのものであり、後に敵である島津の諸将さえも感嘆させることになる。

二人の息子への想い – 宗茂と統増

紹運の戦略家としての一面は、二人の息子への処し方にも色濃く表れている。盟友・立花道雪には男子がおらず、彼は紹運の嫡男・統虎(後の宗茂)の器量に惚れ込み、自身の養子として迎えたいと熱望した 13 。嫡男を他家へ養子に出すことは異例であり、紹運も当初は断ったが、道雪の度重なる懇願に折れる形で、最終的にこれを承諾する 3 。これは、大友家臣団の結束を最優先するという、私情を超えた大局的な判断であった。

養子に出す際、紹運は宗茂に「もし高橋と立花の間に戦が起こった場合はどうする」と問い、宗茂が「父上(紹運)に味方します」と答えると、「養子に行ったならばもはや高橋の人間ではない。立花勢の先鋒となってわしを討ち取れ」と諭し、備前長光の太刀を与えたという 14 。ここには、武士としての非情なまでの覚悟と、息子への深い信頼が込められている。

この決断により、高橋家の家督は次男の統増が継ぐこととなった 16 。天正14年、統増はわずか14歳で、父と共に筑前防衛の重責を担うことになる。紹運が後に岩屋城で下す決断は、この二人の息子たち、そして彼らが背負う家の未来を想ってのものであった。彼の選択は、単なる忠義の殉死ではなく、自らの命を駒として使い、息子たちに未来を託すという、父として、そして戦略家としての究極の選択だったのである。

第二章:岩屋城、玉砕の十五日間 – 豊臣への血路

宝満城の戦いを語る上で、その直前に行われた岩屋城の戦いを避けて通ることはできない。この戦いは、宝満城の運命を決定づけただけでなく、九州全体の戦局に決定的な影響を与えた、壮絶な前哨戦であった。

筑前攻防戦 詳細年表(1586年7月~9月)

日付(天正14年)

場所

出来事

主要人物

7月12日

岩屋城

島津軍が包囲、降伏を勧告。紹運はこれを拒絶。

高橋紹運、島津忠長

7月14日

岩屋城

島津軍による総攻撃開始。

高橋紹運、島津忠長

7月27日

岩屋城

籠城15日目、島津軍の最終総攻撃により落城。紹運以下763名全員が玉砕。

高橋紹運

8月6日

宝満城

筑紫広門の説得により、高橋統増が開城。統増は捕虜となる。

高橋統増、筑紫広門

8月中旬~

立花山城

島津軍が立花山城を包囲するも、宗茂の奮戦により攻略できず。

立花宗茂

8月24日

立花山城

豊臣軍先鋒の九州上陸を受け、島津軍が包囲を解き、筑前からの撤退を開始。

立花宗茂、島津忠長

8月25日

高鳥居城

立花宗茂が追撃を開始。島津方の星野兄弟を討ち取り、高鳥居城を奪還。

立花宗茂

8月末

岩屋城・宝満城

宗茂、勢いに乗り岩屋城と宝満城を奪還。島津軍を筑前から駆逐。

立花宗茂

攻防の推移(7月12日~27日)

紹運は、自らの戦略的決断に基づき、あえて筑前三城の最前線に位置する岩屋城に入った 8 。この城は防衛に最適とは言えず、息子の宗茂や黒田孝高からも撤退を進言されたが、彼は耳を貸さなかった 11 。彼の目的は勝利ではなく、自らを囮として島津軍の足を止め、その戦力を削ぐことにあったからだ。

天正14年7月12日、島津忠長、伊集院忠棟らを将とする数万(諸説あるが2万から5万)の大軍が岩屋城を完全に包囲した 7 。島津方は紹運の器量を惜しみ、幾度となく降伏を勧告した。しかし、紹運の決意は固く、前述の「恩を忘れることは鳥獣以下である」との言葉でこれを一蹴した 11

7月14日、攻城戦の火蓋が切られた 7 。城兵わずか763名に対し、島津軍は圧倒的な兵力で波状攻撃を仕掛ける。しかし、紹運の巧みな指揮と、死を覚悟した城兵たちの奮戦は凄まじく、島津軍は夥しい数の死傷者を出し続けた 20 。攻防は昼夜を問わず続き、鉄砲の轟音と兵たちの断末魔の叫びが谷間に響き渡ったという 20

籠城戦が半月近くに及んだ7月27日、焦燥に駆られた島津忠長は、損害を度外視した総攻撃を命じる 7 。数に劣る高橋勢は次々と討ち取られ、ついに城の守りは本丸を残すのみとなった。紹運自身も太刀を振るって敵兵17人を斬り倒したと伝わるが、衆寡敵せず、落城は時間の問題となる 20 。もはやこれまでと悟った紹運は、櫓の上に進み、敵味方が見守る中で潔く割腹して果てた。享年39。彼の後を追うように、残った城兵もまた、敵陣に突入して玉砕するか、あるいは自害し、763名全員がその命を散らしたのである 7

戦略的影響:ピュロスの勝利

岩屋城は陥落した。しかし、それは島津軍にとって、勝利とは名ばかりの甚大な代償を伴うものであった。このわずか半月の攻防で、島津軍が失った将兵は死傷者3,000名以上、一説には4,000名近くにものぼった 20 。守備兵763名を殲滅するために、その4倍以上の兵を失った計算になる。これは戦術的には勝利であっても、戦略的には限りなく敗北に近い「ピュロスの勝利」であった。

紹運の狙いはまさにこの点にあった。彼は息子・宗茂に「わしが命かぎりに戦えば、寄手の兵も三千ぐらいは討ってみせる。そうなれば、そちの立花城を攻める力も弱まるだろう」と語っていたとされ、その言葉通りの結果を自らの命と引き換えに実現したのである 22 。この甚大な損害と、貴重な15日間という時間の浪費は、島津軍のその後の作戦計画を大きく狂わせた。兵の士気は低下し、続く立花山城攻めに万全の態勢で臨むことができなくなった。高橋紹運と763名の将兵の死は、豊臣の援軍が到着するまでの血路を開く、あまりにも尊い礎となったのである。

第三章:宝満城、苦渋の開城 – 十四歳の決断

岩屋城で繰り広げられた壮絶な死闘の煙がまだ立ち上る中、戦いの舞台は宝満城へと移る。しかし、ここでの戦いは、血で血を洗う白兵戦ではなかった。それは、14歳の若き城主の心を標的とした、冷徹な情報戦であり、心理戦であった。

岩屋城落城直後の状況

父・高橋紹運と、彼を慕った家臣団全員が玉砕したという衝撃的な報せは、宝満城に絶望的な影を落とした。城主は、紹運の次男にして高橋家の家督を継いだばかりの高橋統増。元亀3年(1572年)生まれの彼は、この時わずか14歳であった 16 。城内には、母である宋雲院(紹運の妻)をはじめ、岩屋城から避難してきた多くの女性や子供たち、そして非戦闘員が籠っていた 11 。父の仇である数万の島津軍が眼前に迫る中、統増は、城兵だけでなく、家族の命をも預かるという、年齢にはあまりにも不相応な重圧に晒されることになった。

義父・筑紫広門による降伏勧告

岩屋城で手痛い損害を被った島津軍は、これ以上の消耗を避けるべく、宝満城に対しては武力ではなく策略を用いた。彼らが白羽の矢を立てたのは、筑紫広門であった。広門は肥前勝尾城主であったが、島津軍の侵攻の初期段階で降伏しており、この時は島津の麾下にあった 7 。そして彼は、統増が娶った妻・加袮の父、すなわち統増にとって舅(義父)にあたる人物だったのである 4

島津軍は、この広門を降伏勧告の使者として宝満城へ送り込んだ。義理の父から、父の仇である敵への降伏を迫られる。これは、14歳の統増の心を揺さぶるには、あまりにも残酷で効果的な一手であった。広門が具体的にどのような言葉で説得したかを記す史料は乏しいが、その内容は想像に難くない。「岩屋城の二の舞になることは必定である。これ以上の無益な抵抗はやめ、城兵と、そして何より城内にいる母上や妻の命を救うべきだ」「父君(紹運)は忠義のために壮絶な死を遂げられた。子は、家と家族を守るために生きる道を選ぶべきではないか」。父の死の直後、最も信頼すべき身内の一人からこのような論理で迫られた統増の葛藤は、察するに余りある。

開城と裏切り(8月6日)

数日にわたる苦悩の末、統増は決断を下す。天正14年8月6日、城兵と家族の助命を条件に、宝満城を開城したのである 5 。父のように玉砕する道ではなく、家臣と家族を生かす道を選んだ、苦渋の決断であった。

しかし、島津軍の対応は非情であった。彼らは開城の条件として提示した約束を反故にし、城主である統増を捕縛、捕虜としてしまう 11 。この裏切りは、統増の心に生涯消えることのない深い傷跡を残した。「統増一生の不覚」と後年まで語られるこの出来事は、父のように城を枕に討ち死にできなかったことへの後悔と共に、彼のその後の人生を決定づけることになる 16

宝満城の戦いは、物理的な戦闘がほとんど行われないまま終結した。島津軍の真の狙いは、城を力で攻め落とすこと以上に、高橋家の後継者である統増を無力化し、筑前における大友方の抵抗の象徴を完全に断ち切ることにあった。義父を使い、家族の命を盾にするという心理戦によって、彼らは最小限の損害で戦略的目標を達成したのである。城門が開かれ、若き城主が捕縛されたその瞬間、宝満城は戦わずして陥落した。

第四章:反撃の狼煙 – 立花宗茂の逆襲

父・紹運は玉砕し、弟・統増は捕虜となった。筑前における大友方の拠点は、立花宗茂が守る立花山城ただ一つとなった。絶望的な状況下で、宗茂の類稀なる将器が、戦局を劇的に反転させることになる。

立花山城の防衛と島津軍の撤退

岩屋城を攻略した島津軍は、続いて立花山城を包囲した。しかし、岩屋城で被った甚大な損害と、15日間という時間の浪費は、彼らの攻勢の鋭さを著しく鈍らせていた 11 。宗茂は、父が命を賭して稼いだこの時間を最大限に活用し、巧みな籠城戦術と奇襲を織り交ぜて島津軍を翻弄、鉄壁の守りを見せた 7

膠着状態が続く中、天正14年8月24日、島津の本陣に衝撃的な報せがもたらされる。豊臣秀吉の先鋒軍である毛利輝元の軍勢が、九州北部の豊前国小倉に上陸したというのである 19 。背後を突かれる危険性が現実のものとなり、島津義久は全軍に筑前からの撤退を命令。島津軍は立花山城の攻略を断念し、包囲を解いて撤退を開始した 23

電光石火の追撃戦

宗茂は、この好機を逃さなかった。敵が撤退を開始したと見るや、安全な籠城策を捨て、即座に打って出る決断を下す。これは単なる仇討ちや失地回復を目的とした行動ではない。これから本格的に九州へ展開する豊臣軍の「橋頭堡」を自らの手で確保し、秀吉の九州平定事業における先鋒としての役割を果たすことで、戦後の立花家の地位を確固たるものにするという、高度な戦略的判断であった。

包囲が解かれた翌日の8月25日、宗茂は手勢を率いて立花山城から出撃 25 。まず、島津軍が撤退路の確保と再侵攻の拠点として兵を残していた高鳥居城に狙いを定めた。城を守るのは島津に味方した星野鎮胤・鎮元兄弟であったが、宗茂はこれを猛攻の末に攻略し、星野兄弟を討ち取った 25 。この高鳥居城の戦いは、筑前における攻守が完全に逆転したことを象徴する戦いであった。

岩屋城・宝満城の奪還

高鳥居城攻略の勢いを駆り、宗茂はすぐさま進軍を続ける。次なる目標は、父・紹運が壮絶な最期を遂げた岩屋城、そして弟・統増が苦渋の末に明け渡した宝満城であった。島津軍の撤退に乗じた電撃的な作戦により、8月末までにはこの二つの城をも奪還することに成功する 13

この一連の反撃は、わずか数日のうちに行われた。これにより、島津軍は筑前から完全に駆逐され、高橋・立花家の名誉は回復された。捕虜となっていた弟・統増もこの過程で解放されたと考えられている 11 。父の死と弟の苦難を乗り越え、弱冠19歳の宗茂が成し遂げたこの目覚ましい武功は、後に豊臣秀吉から「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と絶賛されることになるのである 13

終章:合戦の帰結と歴史的意義

天正14年(1586年)夏、筑前国で繰り広げられた一連の攻防戦は、単なる局地的な戦闘に留まらず、九州全体の、ひいては豊臣秀吉による天下統一事業の趨勢を決定づける、極めて重要な歴史的転換点となった。

九州平定戦への影響

高橋紹運が岩屋城で見せた命を賭した徹底抗戦は、島津軍の進軍計画に致命的な遅延をもたらし、その戦力を大きく削いだ 11 。もし紹運の抵抗がなく、島津軍が迅速に筑前を制圧していたならば、彼らは豊臣の援軍が本格的に到着する前に大友氏の本拠地・豊後を完全に蹂躙し、九州統一を成し遂げていた可能性は極めて高い。紹運が自らの命と引き換えに稼いだ時間は、大友氏の滅亡を防ぎ、豊臣秀吉が九州平定を円滑に進めるための決定的な猶予期間となったのである 15

紹運の犠牲を礎とし、立花宗茂が立花山城を守り抜き、さらには電光石火の反撃で筑前の拠点を奪還したことで、豊臣軍は九州における確固たる前線基地を得ることができた。この一連の戦いは、島津の野望を打ち砕き、戦国時代の終わりを早める一助となったと言っても過言ではない。宣教師ルイス・フロイスが本国への報告書で紹運を「希代の名将」と絶賛したように、その功績は同時代人の目にも明らかであった 4

登場人物たちのその後

この戦いは、関わった者たちの運命にも大きな影響を与えた。

  • 立花宗茂 は、一連の戦功を豊臣秀吉から高く評価され、九州平定後、筑後柳川に13万2千石を与えられ大名となった。その武名は全国に轟き、後世にまで語り継がれる名将としての地位を確立した。
  • 高橋統増 は、兄・宗茂と共に秀吉の直臣となり、筑後三池に1万8千石を与えられた 16 。彼は宝満城での「一生の不覚」を胸に刻み、その後は兄を父のように敬い、その補佐役として生涯を捧げた。数々の戦で率先して敵陣に切り込み武功を挙げることで、その汚名を雪ぐべく戦い続けたのである 16
  • 島津氏 は、この筑前での躓きが響き、豊臣の大軍の前に降伏。九州統一の夢は潰え、薩摩・大隅・日向の一部を安堵されるに留まった 29

歴史的評価

高橋紹運の岩屋城での玉砕は、滅びの美学として語られがちであるが、その本質は、息子たちと主家の未来を切り開くために計算し尽くされた、高度な戦略的自己犠牲であった。彼の死は、物理的に島津軍を消耗させただけでなく、その後の九州平定戦における豊臣方の精神的支柱ともなった。

一方、宝満城における高橋統増の開城は、父の壮絶な死と対比され、時に不名誉な決断と見なされることもある。しかし、14歳の少年が、家族と家臣の命を救うために、計り知れない重圧の中で下した現実的な選択として、その人間的苦悩と共に再評価されるべきであろう。

宝満城の戦いそのものは、大規模な戦闘なき開城という形で幕を閉じた。しかし、その背景には、岩屋城での父の壮絶な死があり、立花山城での兄の奮戦があった。そして、この一連の筑前攻防戦が、九州の歴史、さらには日本の戦国史の大きな流れを変えたことは、紛れもない事実なのである。

引用文献

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  2. 島津の猛攻、大友の動揺、豊薩合戦をルイス・フロイス『日本史』より - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/07/131015
  3. 高橋紹運…豊臣秀吉に乱世の華といわれた男!敵も味方も惚れ込む忠義心と鮮烈な最期!! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=kTdA_YZhI4I
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  13. 立花宗茂の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/32514/
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