富山の役(1585)
富山の役(1585年):豊臣秀吉による天下統一の画竜点睛
序章:天正十三年、天下の趨勢 ― 統一前夜の北陸
天正10年(1582年)の本能寺の変による織田信長の死は、日本の政治地図に巨大な空白を生み出した。この混乱の中から急速に台頭したのが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)であった。山崎の戦いで明智光秀を討ち、翌年の賤ヶ岳の戦いでは織田家の筆頭宿老であった柴田勝家を破ることで、秀吉は信長の後継者としての地位を事実上、不動のものとした 1 。
しかし、秀吉の覇権に異を唱える勢力は依然として存在した。その最大のものが、信長の次男・織田信雄と徳川家康の連合軍であった。天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いは、局地的な戦闘では秀吉軍が苦戦を強いられたものの、最終的には信雄との単独講和に持ち込むことで、秀吉の政治的勝利に終わった 3 。この和睦は、最大の対抗勢力であった家康を戦線から離脱させ、秀吉の天下統一事業における大きな障害を取り除くものであった。これにより、秀吉に敵対する地方勢力は、強力な後ろ盾を失い、孤立を深めていくことになる。
その筆頭格が、越中国(現在の富山県)を治める佐々成政であった。成政は信長配下のエリート武官である「黒母衣衆」の筆頭を務めた歴戦の将であり、北陸方面軍の重鎮として、かつては前田利家と共に柴田勝家の与力を務めた人物である 2 。小牧・長久手の戦いでは、信雄・家康方に与し、秀吉方の前田利家が治める能登・末森城を攻撃するなど、明確な敵対行動を取っていた 1 。家康が秀吉と和睦した後も、成政は北陸の地で反秀吉の旗を降ろすことはなかった。
天正13年(1585年)、紀伊(雑賀・根来衆)と四国(長宗我部元親)を立て続けに平定した秀吉は、ついにその目を北陸へと向けた 5 。この「富山の役」と呼ばれる軍事行動は、単に一地方大名を屈服させるための戦いではなかった。秀吉が動員した兵力は10万とも12万とも言われ、成政の推定兵力2万を遥かに凌駕するものであった 1 。この圧倒的な戦力差は、この戦役が軍事的な必要性以上に、政治的な意図を強く含んでいたことを示唆している。すなわち、天下に最後の抵抗を試みる旧織田家中の重鎮を、圧倒的な武威をもって屈服させることで、誰が信長の後継者であり、日本の新たな支配者であるかを天下に示すための、壮大な政治的示威行動だったのである。
第一章:孤立への道程 ― なぜ成政は秀吉に抗ったのか
佐々成政が、圧倒的に不利な状況にありながら秀吉への抵抗を続けた背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。その根底にあったのは、織田信長への強い忠誠心と、秀吉の出自や台頭の仕方に対する根深い不信感であった 4 。成政にとって、秀吉は主君・信長亡き後の混乱に乗じて成り上がった存在であり、信長の遺児である信雄を擁する家康との連携こそが、織田家への忠義を貫く道であると信じていたのである 2 。
この信念は、隣国を治める前田利家との関係を決定的に悪化させた。かつては織田家の同僚として北陸平定に尽力した両者であったが、賤ヶ岳の戦いで利家が秀吉方についたことで亀裂が生じ、小牧・長久手の戦いにおける成政の末森城奇襲によって、その対立は修復不可能なものとなっていた 1 。この地域的な対立は、秀吉対反秀吉という全国的な構図の代理戦争の様相を呈し、成政は北陸において完全に孤立した。
成政の戦略の根幹を揺るがす決定的な出来事は、天正12年(1584年)11月の徳川家康と秀吉の和睦成立であった 3 。この報に愕然とした成政は、秀吉との二正面作戦という前提が崩れ去ったことを悟る。しかし、彼は諦めなかった。ここから、戦国史の中でも特に dramatic な逸話として知られる「さらさら越え」が敢行される。
決死の賭け「さらさら越え」
家康の真意を問い質し、再挙を促すため、成政は常軌を逸した行動に出る。厳冬期の12月、僅かな供回りのみを連れ、富山城を出立。通常ならば交通が途絶する、雪深い飛騨山脈(北アルプス)を踏破し、浜松の家康のもとを目指したのである 3 。この「さらさら越え」という名称は、立山連峰のザラ峠を越えたという伝承に由来するが、実際のルートについては諸説ある 10 。しかし、松平家忠の日記『家忠日記』には、成政が浜松を訪れたことが記録されており、この極限状況下での踏破行が歴史的事実であったことは確かとされている 12 。
この行動は、単なる肉体的な偉業に留まらない。それは、信長時代に確立されていた大名間の連絡や同盟形成の仕組みが、完全に崩壊したことを象徴する出来事であった。本来であれば使者を通じて行われるべき外交交渉が、一国の大名自らが九死に一生の旅をしなければ行えなくなったという事実は、成政がいかに政治的に孤立し、旧来の秩序から断絶されていたかを物語っている。彼の必死の踏破は、旧織田家臣団という枠組みの中で、かつての同盟関係を再起動させようとする最後の試みであった。
しかし、その望みは無惨に打ち砕かれる。浜松で家康に面会した成政は再挙を説いたが、家康は首を縦に振らなかった 3 。家康の拒絶は、旧来の織田家の枠組みがもはや機能せず、新たな権力の中枢である秀吉と交渉することこそが現実的な選択であるという、冷徹な政治判断の表れであった。失意のうちに越中へ帰国した成政を待っていたのは、秀吉からの降伏勧告と、刻一刻と迫る大軍の脅威であった 6 。
第二章:北国征伐軍、動く ― 富山の役・時系列詳解
天正13年(1585年)夏、四国平定を終えた秀吉は、満を持して佐々成政討伐の軍を発した。その軍勢は、秀吉の権威と動員力を天下に示すに足る、壮大な規模のものであった。
表1:豊臣軍の編成(主要部隊)
部隊 |
指揮官 |
兵力(推定) |
典拠史料 |
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一番隊 |
前田利家 |
10,000人 |
『陸奥棚倉藩主阿部家文書』 |
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二番隊 |
丹羽長重 |
20,000人 |
同上 |
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三番隊 |
木村重茲、堀尾吉晴、山内一豊ら |
5,300人 |
同上 |
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四番隊 |
加藤光泰、池田輝政、森忠政ら |
7,000人 |
同上 |
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五番隊 |
蒲生氏郷、小島民部少輔 |
5,500人 |
同上 |
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船手衆 |
宮部継潤、細川忠興、因幡衆 |
4,000人以上 |
同上 |
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別働隊 |
織田信雄 |
5,000人 |
同上 |
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総計 |
(秀吉本隊等含め) |
70,000~100,000人以上 |
|
7 |
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この編成は、秀吉が織田家臣団を完全に掌握し、全国の大名を動員できる体制を確立したことを明確に示している。特に、総大将格として織田信雄を立てている点は、この戦いが旧主・織田家への反逆者を討つという大義名分のもとに行われたことを演出する、秀吉の巧みな政治的計算が窺える 6 。
侵攻のリアルタイム経過
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天正13年(1585年)7月下旬
秀吉、紀州・四国平定の成功を受け、佐々成政討伐のための動員令を発する 14。 -
8月4日
名目上の総大将である織田信雄が、自身の軍勢5,000を率いて京都を出陣。これが征伐軍の最初の動きとなる 14。 -
8月6日
戦端が開かれる。征伐軍の先鋒である前田利家隊が、加賀国鳥越城付近で佐々方の軍勢と交戦状態に入る 14。この戦闘が、富山の役の事実上の開戦となった。 -
8月7日
秀吉自らが本隊を率いて京を発つ。天下人自らの出陣は、この戦役の重要性を内外に知らしめるものであった 7。 -
8月8日~18日
秀吉本隊が北上する中、佐々成政は重大な戦略的決断を下す。広大な越中国内の三十六にも及ぶ支城での分散防衛は不可能と判断し、全兵力を本拠である富山城に集結させる籠城策を選択した 7。これは、領土を放棄してでも、一点に戦力を集中させ、決戦に備えるという悲壮な覚悟の表れであった。 -
8月19日
豊臣軍本隊が、加賀・越中の国境である倶利伽羅峠を越え、越中領内へ侵攻を開始 14。秀吉は富山城を一望できる呉羽丘陵の最高地点、白鳥城に本陣を構えた 4。この場所の選定は、城下の成政に絶え間ない心理的圧迫を与えるための、計算され尽くしたものであった。時を同じくして、東方からは秀吉に呼応した上杉景勝の軍勢が越後との国境である宮崎城方面まで進出 7。これにより富山城は東西から挟撃され、完全に包囲される形となった。 -
8月20日~25日:富山城包囲
ここから本格的な富山城の包囲が始まる。しかし、大規模な攻城戦は行われなかった。秀吉軍は城下の各所に放火して回り、成政の支配が既に及ばないことを視覚的に示し、城内の士気を削ぐ心理戦を展開した 7。
秀吉は、かつて備中高松城で用いた「水攻め」を検討したとも伝わる 7。城の周囲を流れる神通川を利用すれば、富山城を水没させることも可能であり、この脅威だけでも城兵に与えた恐怖は計り知れない。
この包囲の最中、大型の暴風雨(台風)が豊臣軍の陣を直撃し、被害をもたらすという天候の急変もあった 7。
圧倒的な兵力差にもかかわらず、佐々軍も完全に沈黙していたわけではない。丹羽長重の陣に夜襲を仕掛けたという記録も残っており、絶望的な状況下でも抵抗の意志があったことが窺える 7。 -
8月26日
万策尽きる。援軍の望みは絶たれ、圧倒的な大軍に包囲され、水攻めの脅威にも晒される中、佐々成政はついに降伏を決意。旧主の遺児である織田信雄を仲介役として、秀吉に降伏を申し入れた 7。
第三章:降伏の作法 ― 呉羽山での政治的決着
佐々成政の降伏は、単なる軍事的な敗北宣言ではなかった。それは、秀吉が構築しつつある新たな天下の秩序を、天下に示すための高度に演出された政治儀式であった。
恭順の儀式
8月26日に降伏の意思を伝えた成政は、富山城を出て、秀吉の本陣が置かれた呉羽丘陵の麓にある安養坊という場所へ向かった 4 。そこで彼は、武士としての過去の自身を葬り去る象徴的な行為を行う。すなわち、剃髪して仏門に入る姿(僧形)となったのである 4 。月代を剃り、墨染の衣をまとったその姿は、もはや一人の独立した武将ではなく、勝者の慈悲にすがる存在であることを意味していた。
この恭順の意を示した姿で、成政は10万の軍勢が埋め尽くす中を通り、白鳥城の秀吉本陣へと出頭した 4 。この一連のプロセスは、秀吉の周到な計算に基づいていた。旧織田家の重臣であった成政が、信長の息子である信雄の仲介を通じて降伏し、僧形となって秀吉の前にひれ伏す。この光景は、集結した諸大名や兵士たちの目に、秀吉こそが織田政権の正統な後継者であり、秩序の回復者であるという強烈なメッセージを焼き付けた。秀吉は、力で旧秩序を破壊したのではなく、逸脱した家臣を旧主の名代(信雄)をもって正す、という構図を巧みに作り上げたのである。
助命の理由
これほどの反抗を示した成政を、秀吉はなぜ処刑せずに助命したのか。その背景には、秀吉の冷徹なまでの現実主義と、天下人としての度量を示す政治的計算があった。
第一に、秀吉は成政の武将としての能力、そして越中統治で見せた行政官としての手腕を高く評価していた 19 。敵対した有能な人材をことごとく粛清することは、長期的な国家運営において得策ではない。
第二に、秀吉の視線はすでに次なる目標、すなわち九州の島津氏、さらには大陸(朝鮮半島)へと向けられていた 20。成政のような経験豊富な武将は、将来の征服事業において再利用できる貴重な駒であった。彼を助命し、自らの配下に加えることは、人材という観点からの投資でもあった。
そして第三に、寛大な処置を示すことで、今後の敵対勢力に対して「抵抗すれば滅びるが、降伏すれば命は助かる」という前例を作り、無益な消耗戦を避ける狙いがあった。織田信雄の顔を立てるという形式を取ることで、自身の寛大さをより効果的に演出したのである。
この降伏劇は、富山の役が単なる軍事作戦ではなく、豊臣政権の正統性を確立するための、一大政治イベントであったことを如実に物語っている。
第四章:戦後の越中と佐々成政の末路
富山の役の終結は、北陸地方の勢力図を根底から塗り替えた。戦後処理は、秀吉の論功行賞の原則、すなわち同盟者への報酬と、敵対者からの没収という形で行われた。
越中の再編と前田家の躍進
佐々成政は、越中一国の支配権を完全に剥奪された。一時的な扶持として、越中の東端にあたる新川郡のみの領有が認められたに過ぎない 22 。そして、没収された越中の中心部である婦負・射水・砺波の三郡は、この戦役で先鋒を務めた前田利家の嫡男、前田利長に与えられた 24 。
この領地配分は、前田家にとって決定的に重要な意味を持った。これにより前田家は、従来の加賀・能登に加え、越中の大部分を支配下に収めることになり、後の「加賀百万石」と称される巨大大名へと発展する盤石の基礎を築き上げたのである 24 。富山の役は、佐々氏の没落と、前田氏の飛躍という、北陸の二大勢力の明暗を分ける一大転換点となった。
佐々成政のその後
領地を失った成政は、妻子と共に大坂へ移住を命じられ、秀吉の側近である「御伽衆」の一人として仕えることになった 1 。これは名誉ある役職ではあったが、実質的には監視下に置かれた軟禁状態であった。
しかし秀吉は、成政の能力を埋もれさせるつもりはなかった。天正15年(1587年)、九州平定後に肥後国(現在の熊本県)を与え、再び大名として復帰させる。これは成政の統治能力への期待の表れであると同時に、国人一揆が頻発する難治の地を任せるという、極めて困難な試練でもあった 27 。
悲劇はここで起こる。与えられた機会に結果を出そうと焦った成政は、秀吉の指示に反して強引な検地を強行し、大規模な国人一揆を誘発してしまう 6 。この失政の責任を厳しく問われた成政は、翌天正16年(1588年)、秀吉の命により切腹。52年の波乱に満ちた生涯を閉じた。最後まで己の流儀を貫き通そうとした武将は、新しい時代の統治手法に適応することができず、悲劇的な最期を迎えたのである。
第五章:人物考察 ― 佐々成政の実像と伝説
佐々成政という人物は、単なる頑固な武将という一面的な評価では捉えきれない、複雑な魅力と悲劇性を内包している。
有能な為政者としての一面
戦場での勇猛さの影に隠れがちだが、成政は優れた為政者でもあった。越中統治時代、彼の最大の功績として挙げられるのが、大規模な治水事業である。当時、富山城下は「暴れ川」として知られた常願寺川の氾濫に度々悩まされていた。成政は、洪水の原因となっていた馬瀬口に、巨石を用いた堅固な堤防「佐々堤」を築いた 28 。これは洪水を防ぎ、城下町を安定させると共に、いたち川の改修などを通じて新田開発を促進し、越中の農業生産力の向上に大きく貢献した 29 。彼の治世は、領民の生活安定に直結するものであり、単なる武人ではない、民政家としての一面を強く示している。
時代に適応できなかった武人
成政の性格を定義づけるのは、織田家への揺るぎない忠誠心と、時代の変化に迎合することを潔しとしない不屈の精神であった。その武名は広く知れ渡っており、彼の死後、蒲生氏郷が成政のかつての馬印(金の三階菅笠)の使用許可を秀吉に求めた際、秀吉は「あの成政が使った武勇の誉れ高い馬印であるから、たやすくは許可できぬ」と述べたという逸話が残るほどである 21 。
しかし、信長の下で美徳とされたその実直さや剛直さは、秀吉が築く新しい政治秩序の中では、致命的な欠点となった。秀吉の天下は、敵対者をも取り込み、権謀術数を駆使して巨大な連合体を形成することで成り立っていた。政治的孤立という難局を、厳冬の山脈を踏破するという個人的な武勇伝で打開しようとした「さらさら越え」は、成政の思考様式を象徴している。彼は、秀吉流の柔軟な政治ゲームをプレイすることができなかった。肥後での統治失敗もまた、複雑な現地の事情を無視し、中央からの命令を力で断行しようとした、彼の不器用さの表れであった。彼は、自らが最も輝いた時代の価値観と共に生き、そして滅んでいった、旧時代の悲劇的英雄であったと言えるだろう。
伝説の中の成政
彼の劇的な生涯は、後世に多くの伝説を生み出した。その真偽は定かではないが、人々が彼にどのようなイメージを抱いていたかを知る上で興味深い。
- 早百合(さゆり)伝説 :「さらさら越え」からの帰国後、寵愛していた側室・早百合が不義を働いたという讒言を信じ、彼女を惨殺してしまう。早百合は死に際に「我が恨みにて立山に黒百合が咲けば、佐々家は滅びる」と呪いの言葉を残したという 21 。
- 黒百合伝説 :成政が秀吉の正室・北政所に珍しい黒百合を贈ったところ、側室の淀殿がそれ以上の黒百合を用意して披露し、北政所に恥をかかせた。これを恨んだ北政所が、成政失脚の一因となったという物語 21 。
これらの伝説は、成政が深い情愛を持つ一方で、激しい気性から悲劇を招く短気な人物として、人々の記憶に刻まれていることを示している。
終章:富山の役が歴史に残した意味
天正13年(1585年)の富山の役は、約50日間に及ぶ遠征でありながら、大規模な戦闘がほとんどないまま終結した 7 。しかし、この戦役が日本の歴史に与えた影響は、その軍事的な規模を遥かに超えるものであった。
第一に、この戦いは豊臣秀吉の覇権を決定的なものにした。旧織田家臣団の中で、最後まで公然と秀吉に反旗を翻していた重鎮・佐々成政を屈服させたことで、本能寺の変以来続いた後継者争いに、事実上の終止符が打たれた。これにより、秀吉は名実ともにかつての同僚たちの上に立つ、唯一無二の存在となったのである。
第二に、富山の役は、その後の秀吉による天下統一戦争の雛形となった。すなわち、①敵を遥かに上回る圧倒的な兵力を動員し、②複数の方面から同時に侵攻して完全に包囲し、③武威と心理戦を巧みに用いて敵の戦意を喪失させ、④降伏後は同盟者を厚遇し、敵対勢力を再編・転封するという一連の流れは、この後の九州征伐(対島津氏)や小田原征伐(対北条氏)でも繰り返されることになる。
第三に、この戦いは北陸地方の歴史を大きく動かした。佐々氏に代わって前田氏が越中の支配権を確立したことは、江戸時代を通じて最大の石高を誇る加賀藩の成立に直結した。この巨大な経済力は、三百年にわたり北陸地方の文化や産業の発展を支える礎となったのである 24 。
最終的に、富山の役は、織田信長が切り開いた「天下布武」の時代が終わりを告げ、豊臣秀吉による新たな中央集権体制が確立されたことを天下に宣言する、象徴的な出来事であった。それは、群雄が割拠した戦国乱世の終焉と、統一された天下の到来を告げる、歴史の転換点だったのである。
引用文献
- 【熊本城を巡る歴史旅】実は豊臣秀吉の親戚!?加藤清正と熊本城の関係 - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181025-kumamoto-1/
- 富山の怪談・佐々成政にまつわる早百合伝説の真実とは?惨殺された美女の怨念? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98188/
- 富山城の歴史 - 松川遊覧船 https://matsukawa-cruise.jp/reading/history-of-toyama-castle/
- 佐々成政と富山 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0201.html
- 豊臣秀吉の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34168/
- 忠節を貫いた自己信念の武将 佐々成政|まさざね君 - note https://note.com/kingcobra46/n/n84541b4ef0a1
- 富山の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%BD%B9
- 戦国武将が愛した城のある風景~北陸・富山編~ - 金沢について https://kanazawa.hakuichi.co.jp/blog/detail.php?blog_id=99
- 佐々成政(さっさ なりまさ) 拙者の履歴書 Vol.282~志高く 荒波に散る~|デジタル城下町 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf50873d596ec
- 萩原 大輔 (Daisuke HAGIHARA) - 「佐々成政のさらさら越え」ルート私考―村上義長の動向を糸口として - researchmap https://researchmap.jp/Hagiharada01/published_papers/35792421
- 佐々成政の人物像とは?厳冬のアルプス越えを成し遂げた越中の英雄 (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/16394/?pg=2
- 戦国越中の覇者 佐々成政 - 郷土博物館 終了した企画展 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/kikakuhaku/list/h25/2503/2503.html
- 佐々成政の浜松往復前後の政治過程 - 富山大学人文学部 https://www.hmt.u-toyama.ac.jp/uploads/suzuki58.pdf
- 「富山の役(越中征伐、1585年)」羽柴秀吉 VS 佐々成政!大軍包囲で圧倒、北陸の反秀吉派掃討作戦 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/174
- 白鳥城跡 しらとりじょうあと - 富山市 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/center/topics/siratori/siratori.htm
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- 二度敵対した秀吉からも「期待」された佐々成政 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/36248
- 愛憎表裏一体!?豊臣秀吉と佐々成政の関係 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=u0hrz9yadLE&t=0s
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- 北陸関連の図録・資料文献・報告書 第12回 富山市郷土博物館特別展「佐々成政の手紙 ー 古文書から浮かび上がる戦国時代」(編集・発行 - 南越書屋 https://nan-etsu.com/hokuriku-reference12/
- 越中の戦国時代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
- 富山藩の誕生と領地 - 博物館だより https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori07/tayori07.htm
- 前田利長と越中 - 博物館だより https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori25/tayori25.htm
- 前田利家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38366/
- 佐々成政 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF
- ⑦佐々堤|常願寺川たんけんブック-学習支援-|立山砂防事務所 - 北陸地方整備局 https://www.hrr.mlit.go.jp/tateyama/gakusyuu/tanken/sassa.html
- 暴れ川に挑んだ佐々成政と加藤清正 緒方英樹 連載9 - ソーシャルアクションラボ https://socialaction.mainichi.jp/2020/09/27/1108.html
- 常願寺川の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0410_joganji/0410_joganji_01.html
- 宮下橋 - 富山市観光協会 https://www.toyamashi-kankoukyoukai.jp/file_upload/100617/_main/100617_02.pdf
- 民衆を愛した佐々成政~真実だった、厳冬の北アルプス"さらさら越え" https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0204.html