最終更新日 2025-08-28

小机城の戦い(1590)

天正十八年、武蔵の要衝小机城は、小田原征伐にて無血開城。主力不在ゆえの静かなる落城も、伝承は激戦を語る。戦国の終焉を告げる象徴的な戦いなり。

天正十八年 小机城の攻防 ―天下統一の奔流に消えた武蔵国の要衝―

序章:終焉の序曲

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。天下統一事業の最終段階にあった豊臣秀吉は、関東に独立勢力として君臨する後北条氏に対し、その討伐を決定した 1 。これは「小田原征伐」として知られ、単なる一地方大名の征服に留まるものではなかった。20万を超えるとも言われる空前の大軍が動員され、その進軍は戦国乱世の終焉を告げる画期的な軍事行動であった 3

本報告書は、この巨大な歴史のうねりの中で、武蔵国南部に位置する後北条氏の支城「小机城」が、いかにして天下統一の奔流に対峙し、そして歴史の舞台から姿を消したのかを徹底的に解明するものである。多くの史書において、小机城の最期は「無血開城」という一言で片付けられている 5 。しかし、その簡潔な記述の裏には、どのような戦略的判断、現場の緊張、そして後世に語り継がれるべき物語が隠されているのか。本報告は、史料と現地の伝承を丹念に紐解き、その謎に迫ることを目的とする。

第一章:武蔵の要害、小机城 ―戦略拠点としての価値―

第一節:地理的・経済的優位性

小机城は、鶴見川中流域の南岸から北へ突き出す台地上に位置し、その立地自体が極めて高い戦略的価値を有していた。城の北側は鶴見川が天然の堀となり、河岸段丘の崖が敵の侵入を阻む 9 。古くから鶴見川の舟運の拠点であり、対岸には鎌倉街道が通過していたことから、水運と陸上交通の結節点を押さえる地政学的な要衝であった 10 。さらに、この地は当時の主要港であった神奈川湊(現在の横浜港周辺)へと至る物流ルート上にあり、経済的な重要性も看過できない。この地理的優位性こそが、後北条氏にとって小机城を武蔵国南部支配の要たらしめた根源であった。

第二節:後北条氏の広域防衛網「支城ネットワーク」

後北条氏は、本城である小田原城を中心に、関東各地に一族や重臣を配置した堅固な「支城ネットワーク」を構築し、広大な領国を統治していた 11 。小机城は、この広域防衛網において不可欠な構成要素であった。南方の扇谷上杉氏への備えとして機能した江戸城と、相模国東部の支配拠点である玉縄城のほぼ中間に位置し、両者を結ぶ中継拠点としての役割を担っていたのである 10

さらに、小机城は単なる物理的な拠点に留まらなかった。狼煙や鐘、旗を用いた情報伝達網のハブとしても機能し、敵の侵攻をいち早く小田原の本城へ伝達する、いわば領国全体の神経系の一部を構成していた 15 。この迅速な情報伝達能力は、後北条氏の防衛戦略の根幹を支えるものであり、小机城の戦略的重要性を一層高めていた。

第三節:城郭の構造(縄張り)―後北条流築城術の結晶―

天正14年(1586年)以降、豊臣氏との決戦を想定し、小机城には大規模な改修が施されたと考えられている 16 。その縄張り(城の設計)は、後北条氏が培った高度な築城技術の集大成であった。本丸、二の丸、西ノ曲輪、東郭といった主要な曲輪群は、巨大な「空堀」と「土塁」によって複雑かつ強固に防護されていた 7

特筆すべきは、その防御思想の徹底ぶりである。縄張図を分析すると、堀は意図的に屈曲させられ、侵入者がどの地点から攻め寄せても、必ず二方向以上からの射撃に晒されるよう設計されていた 18 。これは、敵兵を十字砲火によって殲滅することを企図した、極めて実践的な構造である。近年の発掘調査では、城内で武具の生産や修理に用いる鍛冶や鋳造が行われていた痕跡も発見されている 19 。この事実は、小机城が単なる兵の駐屯地ではなく、兵站機能をも備えた自己完結型の軍事拠点であったことを示唆している。

これらの要素を総合的に勘案すると、小机城は単なる「支城」という言葉では捉えきれない、より高次の機能を有していたことがわかる。情報伝達網の中核であり、自己完結型の兵站能力を備え、後述する正規の軍団が駐屯していたことから、武蔵国南部における軍事・経済・情報を統括する「方面司令部」と評価するのが最も適切であろう。その陥落は、単に一つの城が失われるだけでなく、後北条氏の地域支配構造そのものが decapitation(斬首)されることを意味していたのである。

第四節:守護の任を負う者たち

この要衝の守りを固めていたのは、後北条氏が誇る精鋭たちであった。

城主・北条氏光: 当時の城主は、北条氏綱の四男・氏堯の子である北条氏光であった 20 。彼は、当主・氏政の弟たちに次ぐ高い格式を持つ一門衆であり、その配置は後北条氏首脳部が小机城をいかに重要視していたかを如実に物語っている 20

城代・笠原氏: 北条早雲の代からの重臣である笠原氏が、代々城代として小机領の実質的な支配を担ってきた 13 。天正18年(1590年)の時点では、笠原照重の子である重政がその任にあったとされる 7 。城主である北条氏一門と、在地支配に長けた譜代の笠原氏による二重の支配体制が、小机領の安定を支えていた。

在地武士団「小机衆」: 小机領の軍事力の中核を成していたのが、領内の在地武士29家によって編成された軍団「小机衆」である 13 。彼らは後北条氏の家臣団編成を記録した貴重な史料『小田原衆所領役帳』にもその名が記されており、公式に認知された正規の軍団であった 16 。平時はそれぞれの所領に居住しつつ、有事の際には小机城に馳せ参じる体制が整えられていた。さらに、戦況が逼迫した際には、領内の15歳から70歳までの成人男性を動員する総動員体制も準備されていたことが分かっている 10

第二章:対峙する両雄 ―開戦前夜の情勢―

第一節:豊臣軍の侵攻計画 ―網の目を断ち切る大戦略―

豊臣秀吉が描いた小田原征伐の全体戦略は、圧倒的な物量で小田原城を包囲するだけでなく、それと並行して関東各地に点在する支城を別動隊によって同時に叩き、後北条氏の支城ネットワークを完全に分断・無力化させることにあった 12 。これは、城と城の連携を生命線とする後北条氏の防衛網の根幹を断ち切る、極めて合理的な作戦であった。

小机城が位置する武蔵国方面には、遠征軍の総大将格である豊臣秀次、そして後の関東の支配者となる徳川家康を主力とする大軍団が投入された 3 。彼らの任務は、江戸城や小机城をはじめとする武蔵南部の諸城を速やかに制圧し、小田原城を完全に孤立させると同時に、戦後の関東支配に向けた布石を打つという、軍事・政治の両面において重要なものであった。

表1:小田原征伐における主要な軍団編成と進軍経路

軍団

主要指揮官

兵力(推定)

進軍経路・担当方面

備考

東海道軍(本隊)

豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康

約150,000

東海道を東進し、箱根を越えて小田原を包囲

小田原包囲網の中核 4

北陸道・東山道軍

前田利家、上杉景勝、真田昌幸

約35,000

上野国、武蔵国北部を制圧後、小田原へ南下

鉢形城、八王子城などを攻略 27

水軍

九鬼嘉隆、長宗我部元親、脇坂安治

約20,000

伊豆半島沿岸の諸城を海上から攻撃

下田城などを攻略 4

この表が示すように、後北条氏は陸路と海路から、複数の方面で同時に侵攻を受けるという絶望的な状況に置かれていた。一つの城でこの多方面からの同時侵攻に対処することは物理的に不可能であり、この圧倒的な戦力差が、後北条氏の戦略選択を大きく制約することになる。

第二節:後北条氏の決断 ―籠城策という名の賭け―

この未曾有の国難に対し、後北条氏首脳部が下した決断は「小田原城への主戦力集中と徹底籠城」であった。かつて上杉謙信や武田信玄といった戦国屈指の武将による猛攻を、難攻不落の総構(そうがまえ)によって凌ぎ切ったという過去の成功体験が、この戦略を後押しした 25 。関東全域から主力を小田原城に集結させ、長期籠城に持ち込むことで、巨大な豊臣軍の兵站が限界に達し、やがて撤退に至るという一点に望みを託したのである 30

この全軍籠城策の決定は、小机城の運命を決定づけるものであった。城主・北条氏光、城代・笠原重政、そして中核戦力である「小机衆」の主だった者たちは、ことごとく小田原城へ入城することとなった 6 。その結果、武蔵国南部の方面司令部たるべき小机城には、ごく少数の留守居役の兵と、徴兵されたばかりの経験の浅い領民が主体となる守備隊のみが残されたと推察される。堅固な城郭とは裏腹に、その内部は実質的に空洞化していたのである。

ここに、小机城の悲劇の本質がある。その運命は、両軍の将兵が刃を交える前に、豊臣と後北条の最高指導者が下した「大戦略」の段階で、事実上決定されていた。後北条氏の籠城策は、小机城が有効な守備兵力を持たないことを保証し、一方で豊臣方の支城撃破戦略は、その無防備な城が確実に攻撃目標となることを保証した。両軍の戦略が噛み合った瞬間、小机城の「戦わずしての開城」は、もはや避けられない結末となっていたのである。

さらに言えば、後北条氏の籠城策は、過去の成功体験に固執したことによる戦略的誤謬であったと言わざるを得ない。彼らが過去に退けた上杉謙信や武田信玄は、あくまで一地方の戦国大名であり、長期間の遠征には兵站上の限界があった。しかし、秀吉が率いるのは、全国の大名を動員した国家規模の連合軍であり、その兵站能力は過去の敵とは比較にならなかった 1 。全戦力を小田原に集中させたことで、後北条氏は広大な関東の領地を無防備に差し出すことになり、豊臣軍はその後北条領から徴発した物資で巨大な軍勢を養うことができた。そして、小田原城に籠もる将兵たちは、自らの故郷や居城が次々と陥落していく報をなすすべもなく聞かされることになり、その士気は壊滅的な打撃を受けたのである 3

第三章:静かなる落城 ―小机城、最期の数日間(時系列再現)―

小机城の最期は、戦闘の喧騒ではなく、情報の伝達と心理的な圧力によって静かに進行した。以下に、その数日間を時系列で再現する。

  • 天正18年3月29日: 豊臣本隊の猛攻により、箱根の要衝・山中城がわずか半日で陥落する 28 。後北条氏の西の防衛線が完全に崩壊したという報は、関東全域の将兵に深刻な衝撃を与えた。
  • 4月1日~2日頃: 小机城主・北条氏光が守備を任されていた足柄城が、戦わずして放棄される。氏光は小田原城へ撤退し、小机城は名実ともに城主不在となった 20
  • 4月上旬~中旬: 徳川家康を主力とする軍勢が武蔵国南部へ進駐を開始。小田原城の巨大な包囲網が完成し、各支城への圧力が日増しに強まっていく。
  • 4月10日: 小机城の南方に位置する玉縄城が、城主・北条氏勝の降伏勧告受諾により無血開城する 20 。これにより、小机城は南からの連携を完全に断たれ、戦略的に孤立した。
  • 4月10日~22日の間(推定):
  • 接近: 徳川軍の別動隊が小机城に迫る。具体的な部隊編成に関する一次史料は乏しいが、この方面では本多忠勝、榊原康政、井伊直政といった徳川麾下の猛将たちが活動しており、彼らの一部が小机城の接収に向かったと考えられる 7
  • 城内の状況: 主力たる小机衆も城主も小田原にあり、城内は極度の緊張に包まれていた。山中城の瞬時の陥落、そして近隣の玉縄城の無血開城という情報が、留守居の将兵たちの戦意を根底から揺るがしたことは想像に難くない。眼前に迫る徳川の大軍と、城内に残されたわずかな兵力。この圧倒的な戦力差を前に、抵抗は無意味な殺戮を招くだけであるという認識が支配的になっていったであろう。
  • 開城の決断: 豊臣方から降伏勧告が突きつけられる。城を守る責任者は、無益な抵抗を避け、領民の生命と財産を守ることを最優先し、城の明け渡しを決断したと推測される。具体的な交渉の過程は記録に残されていないが、大規模な戦闘行為が行われなかったことは確実であり、城は「無傷のまま」豊臣方の手に渡った 5
  • 4月22日: 小机城の北東に位置する江戸城も無血開城する 20 。これにより、武蔵国南部における後北条氏の主要拠点はすべて陥落し、豊臣軍は江戸・横浜方面の背後の安全を完全に確保した。

この一連の出来事は、小机城における「戦い」が、物理的な戦闘ではなく、情報戦と心理戦であったことを明確に示している。山中城、足柄城、玉縄城の結末という情報が、小机城に残された者たちの戦略的選択肢と士気を組織的に破壊していった。徳川軍の接近は、その心理的圧力に最後の쐐を打ち込むものであり、開城は軍事的な敗北の結果ではなく、圧倒的な戦略的・心理的圧力の下で下された合理的な決断であった。城の引き渡しという物理的な行為は、その帰結を確認する儀式に過ぎなかったのである。

表2:小机城開城前後の武蔵国南部における主要支城の動向

城名

陥落・開城日(推定)

守将(または関連人物)

攻略部隊(主力)

備考

山中城

天正18年3月29日

松田康長、北条氏勝

豊臣秀次、徳川家康

半日で陥落、後北条氏に衝撃を与える 28

足柄城

天正18年4月1日頃

北条氏光

徳川家康

戦わずして放棄 20

玉縄城

天正18年4月10日

北条氏勝

徳川家康

無血開城 20

小机城

天正18年4月中旬

(城代・笠原氏留守居)

徳川家康軍別動隊

無血開城 7

江戸城

天正18年4月22日

遠山景政、直景

徳川家康

無血開城 20

津久井城

天正18年6月25日以前

内藤氏

本多忠勝ら徳川軍

陥落 28

この時系列表は、後北条氏の武蔵南部における防衛線が、わずか1ヶ月足らずの間にドミノ倒しのように崩壊していく様を視覚的に示している。小机城の開城は、孤立した事象ではなく、この一連の戦略的崩壊プロセスの一部であり、その必然性を明確に理解することができる。

第四章:史実と伝承の狭間 ―「無血」の裏に隠されたもの―

第一節:史料が語る「不戦開城」

『北条記』をはじめとする後世の軍記物や各種記録の多くは、小机城が戦闘を経ることなく降伏した、すなわち「不戦開城」または「無血開城」であったと記述している 5 。これは、20万を超える軍勢が動いた小田原征伐という大局において、一つの支城が無抵抗で降伏したことは、特筆すべき戦闘とは見なされなかったためであろう。戦略的な観点からは、抵抗がなかった以上、それは「戦い」ではなかったのである。

第二節:地に刻まれた「激戦」の記憶

しかし、公式の記録とは裏腹に、城の周辺地域、特に現在の横浜市神奈川区には、小机城の落城に際して激しい戦闘があったことを示唆する地名や伝承が、今なお色濃く残っている 31

  • 九養塚・十三塚: 戦で亡くなった兵士たちを埋葬したとされる塚。
  • 磔原(はりつけっぱら): 降伏したにもかかわらず、残党として処刑された者たちがいたと伝わる場所。
  • 赤田谷戸: 流れ出た血で谷戸(谷状の地形)が赤く染まったという、凄惨な記憶を留める地名。

これらの伝承は、公式記録が語る「静かなる落城」とは全く異なる、血なまぐさい戦闘や殺戮のイメージを我々に突きつける。

第三節:二つの物語の統合 ―専門家としての見解―

史実としての「無血開城」と、伝承としての「激戦の記憶」。この二つの相容れない物語の乖離を、我々はどう解釈すべきか。これらの伝承が、全く別の時代の戦い、例えば文明10年(1478年)に太田道灌が小机城を攻め落とした際の激戦の記憶と混同された可能性も考慮すべきである 17 。しかし、天正18年の出来事として語り継がれている点を軽視することはできない。

ここに、一つの仮説を提示したい。それは、城の本体、すなわち組織としての小机城は、公式に「無血開城」した。しかし、その決定に従わず、徹底抗戦を主張する一部の小規模な部隊、例えば故郷の土地と深く結びついた在地性の強い武士や、家族を守るために武器を取った農民兵などが、城外の砦や周辺地域でゲリラ的な抵抗を試みたのではないか。そして、豊臣方はそれらを容赦なく掃討した。あるいは、開城後、豊臣方による見せしめや治安維持を目的とした残党狩り、処刑が行われた可能性も否定できない。

この仮説に立てば、二つの物語は矛盾なく統合できる。公式記録は「城」という組織の降伏という戦略的結果を記し、地域の伝承は、そこで散った「人々」の悲劇を記憶した。歴史記録における「無血」とは、必ずしも「一滴の血も流れなかった」ことを意味するわけではない。それは「組織的かつ大規模な抵抗がなかった」という、あくまで戦略的・政治的な表現なのである。局地的に発生した小規模な戦闘や処刑は、大局的な「無血」という評価を覆すものではないが、その地に生きた人々にとっては忘れがたい惨劇として記憶に刻まれた。二つの物語は、同じ一つの出来事を、異なる視点とスケールで捉えた結果生まれたものと結論付けられる。

第五章:戦後の軌跡と歴史的遺産

第一節:将兵たちのその後

小田原城の開城後、小机城に関わった将兵たちは、それぞれの道を歩むことになった。

北条氏光: 城主であった北条氏光は、小田原城の開城後、当主・氏直らと共に高野山へ追放された 20 。その後の詳細な動向は不明であるが、叔父の氏規をはじめとする北条一門の多くが後に赦免され、大名や旗本として存続していることから 34 、氏光もまた静かな余生を送った可能性が考えられる。

笠原重政: 一方、城代であった笠原重政は、後に徳川家康に召し出され、旗本として徳川家に仕えることになった 7 。これは、関東の新領主となった家康が、旧北条家臣団を積極的に登用することで、在地支配の安定化を図った政策の一環であった。小机城代の家系は、主家の滅亡後も、徳川の世で武士としての家名を保ったのである。

第二節:城の終焉と関東の新しい秩序

小田原征伐後、豊臣秀吉の命により関東へ移封された徳川家康は、江戸を本拠地とする新たな支配体制の構築に着手した 29 。その過程で、戦国の世のために張り巡らされた後北条氏の支城ネットワークは、もはや不要と判断された。武蔵国南部の要衝として栄えた小机城もその戦略的価値を失い、廃城とされた 5

小机城の廃城は、単に一つの城がその役目を終えたという以上の意味を持つ。それは、後北条氏という巨大な戦国大名勢力の完全な解体と、徳川による新たな支配秩序の確立を象徴する出来事であった。「小机衆」に代表される在地武士団も解体され、彼らの多くは武士の身分を捨てて帰農した。これは、絶え間ない戦争を前提とした中世的な武士の時代が終わり、近世的な幕藩体制へと移行していく、時代の大きな転換点であった。

この廃城という決定は、徳川家康の「平和のための非軍事化」政策の象徴と見ることができる。家康の目標は、関東において新たな戦争を起こすことではなく、安定的で長期的な統治を確立することにあった。小机城のような戦国仕様の城塞群を維持することは、多大なコストがかかるだけでなく、将来的な反乱の拠点となる潜在的リスクを抱え込むことになる。これらの城を意図的に破棄することは、戦国という時代の軍事インフラを解体し、「戦争の時代」から「統治の時代」へと移行するという明確な意思表示であった。小机城の静かな空堀は、この統治思想の根本的な転換を物語る、歴史のモニュメントなのである。

第三節:現代に息づく城跡

廃城となった後、小机城跡は大規模な開発の手が入ることなく、奇跡的ともいえる良好な状態でその遺構を現代に伝えている 9 。現在では「小机城址市民の森」として市民に親しまれ、往時の姿を偲ばせる壮大な空堀や土塁は、戦国時代後期の高度な築城技術を体感できる貴重な歴史遺産となっている 8

結論:小田原征伐における小机城の真の意義

天正18年の「小机城の戦い」は、刀槍を交える華々しい合戦ではなかった。しかし、それは後北条氏の戦略的限界と、豊臣秀吉が動員した圧倒的な物量・兵站・戦略思想を象徴する、極めて重要な歴史的局面であった。

小机城の「静かなる落城」は、個々の武将の武勇や城郭の堅固さだけでは抗うことのできない、天下統一という巨大な歴史の奔流を前に、一つの時代が終わりを告げた瞬間であった。それは、戦国という約150年にわたる長期の動乱が、最終的に個別の戦闘ではなく、国家規模の戦略と兵站によって終結させられたことを示す象徴的な出来事なのである。

武蔵国の要衝として後北条氏の関東支配を支え、そして静かにその役目を終えた小机城の歴史は、戦国時代の終焉と、その後に続く260年間の泰平の世「江戸時代」の幕開けを、我々に雄弁に物語っている。その地に残された壮大な遺構は、歴史のダイナミズムと、そこに生きた人々の苦渋に満ちた決断の重さを、今なお静かに伝え続けているのである。

引用文献

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  2. 小田原の役古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odawara/
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  4. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
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  6. [【神奈川県のお城】小田原城を含めた3つのお城] - 城びと https://shirobito.jp/article/646
  7. 小机城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kodukue.htm
  8. 小机城(飯田城) - あの頂を越えて https://onedayhik.com/recView?recid=r2023051609
  9. 小机城のあるまちを愛する会 「小机城ガイドツアー」 - よこはま縁むすび講中 https://yokohama-enmusubi.jp/report/kodukue-guidetour.html
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  11. 5.コラム:後北条氏の城郭ネットワーク - 嵐山町web博物誌 http://www.ranhaku.com/web05/c2/1_05.html
  12. 超入門!お城セミナー 第63回【武将】北条氏の小田原城はなぜ難攻不落と呼ばれるの? https://shirobito.jp/article/763
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  14. 第27回:小机城(圧巻の巨大空堀) - こにるのお城訪問記 http://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
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