小田原征伐(1590)
天正十八年、豊臣秀吉は北条氏を討つべく小田原征伐を開始。圧倒的兵力と石垣山一夜城の心理戦で北条氏を屈服させ、天下統一を完成させた。家康の関東移封は後の江戸幕府の礎となる。
天正十八年 小田原征伐全史 ― 戦国終焉のリアルタイム・ドキュメント ―
序章:天下統一、最後の一片
天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えた。天下統一事業の最終段階として豊臣秀吉が断行した「小田原征伐」は、単なる一地方勢力の討伐に留まらず、100年以上にわたって続いた戦国乱世の実質的な終焉を告げる、政治的・軍事的な総決算であった。
天正15年(1587年)の九州平定を成し遂げ、西国を完全に掌握した関白・豊臣秀吉の権勢は、もはや揺るぎないものとなっていた 1 。彼の視線の先には、未だその支配下にない関東・東北の広大な地域が残されていた。その中でも最大の障害として立ちはだかったのが、相模国小田原を本拠地とし、関東一円に覇を唱える後北条氏であった。
初代・伊勢宗瑞(北条早雲)から五代100年にわたり、後北条氏は関東の地に着実な支配を築き上げてきた。彼らは単なる武力による征服者ではなく、独自の検地や税制を施行し、堅固な支城ネットワークを構築することで、安定した領国経営を実現した「関東の独立王国」とも言うべき存在であった。その栄華の象徴こそ、上杉謙信や武田信玄の猛攻をも退けた難攻不落の巨城、小田原城である 2 。秀吉が目指す中央集権的な天下統一と、北条氏が守り続けてきた関東の独立性は、もはや両立し得ない二つの秩序であり、両者の対決は歴史の必然であった。本報告書は、この戦国最後の大会戦の全貌を、その前史から戦後処理に至るまで、リアルタイムの戦況を再現しつつ、多角的な視点から徹底的に解明するものである。
第一部:戦雲、関東を覆う
第一章:惣無事令と名胡桃城 ― 破局への導火線
小田原征伐の直接的な引き金となったのは、天正17年(1589年)に発生した「名胡桃城事件」である。しかし、この事件は単なる偶発的な領土紛争ではなく、豊臣秀吉が構築しようとする新しい天下の秩序と、後北条氏が固執する旧来の関東の論理との、根本的な価値観の衝突が顕在化した象徴的な出来事であった。
秀吉の「惣無事令」の二重性
天正13年(1585年)に関白に任官した秀吉は、自らの権威を全国に及ぼすため、天正15年末に「関東・奥両国惣無事令」を発令した 1 。これは表向き、大名間の私的な戦闘を禁じ、領土紛争はすべて秀吉の裁定に委ねることを命じる平和維持令であった 3 。しかし、その本質は、秀吉自身を日本全国における唯一絶対の紛争裁定者、すなわち「公儀」として位置づけ、全ての戦国大名にその権威への服従を強いるための、極めて高度な政治的ツールであった。この命令を受け入れることは、秀吉の臣下となることを意味し、拒否することは天下人への反逆と見なされる「踏み絵」だったのである。
沼田領問題の錯綜と秀吉の裁定
この惣無事令の試金石となったのが、上野国(現在の群馬県)の沼田領を巡る、後北条氏と真田氏の長年にわたる領有権問題であった 4 。武田氏滅亡後の天正壬午の乱以来、両者はこの戦略的要衝を巡って一進一退の攻防を続けていた。秀吉はこの根深い問題に介入し、天正17年(1589年)7月、沼田領の3分の2を北条氏に、名胡桃城を含む3分の1を真田氏に与えるという裁定を下した 5 。この裁定は、北条氏を自らの権威の下に取り込むための懐柔策であると同時に、惣無事令が実効性を持つことを天下に示すためのデモンストレーションでもあった。
名胡桃城事件の勃発と真相
しかし同年10月下旬、事態は急変する。北条氏の沼田城代であった猪俣邦憲が、秀吉の裁定を覆し、真田方の名胡桃城を武力で奪取するという事件が発生したのである 6 。この報に接した秀吉は激怒し、これを明確な惣無事令違反と断定。同年11月24日付で、北条氏直討伐の朱印状を全国の諸大名に発布し、ここに小田原征伐が決定的なものとなった 6 。
この猪俣邦憲の行動が、北条氏当主・氏直や隠居・氏政の直接的な命令によるものであったか、あるいは一介の家臣による独断専行であったかは、今日においても議論が分かれている 5 。もし後者であった場合、それは巨大化した北条氏の領国経営において、中央の統制が末端まで行き届いていなかったという、組織的な脆弱性を露呈するものであった。秀吉は、その組織の綻びを見逃さなかった。彼にとって、事件の首謀者が誰であるかは問題ではなかった。重要なのは、自らの裁定が武力によって覆されたという事実であり、彼はこれを北条氏全体の反逆行為と断じ、一切の弁明を退け、征伐を正当化するための絶好の「大義名分」として利用したのである。北条氏は、秀吉が提示した「公儀」という新しい秩序の論理を理解できず、旧来の関東における自力救済の論理で行動した結果、秀吉の周到な政治的術中にはまることとなった 10 。
第二章:空前の大動員 ― 両軍の戦力と戦略
名胡桃城事件を口実に、秀吉は日本史上でも類を見ない規模の大動員令を発した。これに対し、後北条氏もまた、五代100年にわたって蓄積してきた国力を結集し、迎え撃つ態勢を整えた。しかし、両軍の戦力と戦略を比較分析する時、この戦いの帰趨が開戦前からほぼ決していたことが明らかになる。
豊臣連合軍の威容と周到な兵站計画
秀吉が動員した総兵力は、実に22万に及んだとされる 12 。これは単一の大名による軍勢ではなく、文字通り日本全国から集められた諸大名の連合軍であった。その編成は、関東を陸海から完全に包囲殲滅する、壮大な三方面作戦を企図していた 12 。
- 東海道進軍本隊(約15万3千): 豊臣秀次を総大将に、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、細川忠興といった錚々たる武将が名を連ね、秀吉自らも本隊を率いて東海道を東進する主力部隊 12 。
- 北国勢(約3万5千): 前田利家、上杉景勝を両翼とし、真田昌幸らを加えた軍団。北陸道から上野国に侵入し、関東の北方から北条領を圧迫する 12 。
- 水軍(約1万4千): 九鬼嘉隆、長宗我部元親、脇坂安治、加藤嘉明らが率いる大船団。伊豆や相模の沿岸を制圧し、海上からの補給路を確保すると同時に、北条方の水軍を封じ込める 12 。
この大軍を支えたのが、秀吉の卓越した兵站能力であった。長期戦を予期した秀吉は、開戦に先立ち、兵糧20万石という膨大な物資を水軍によって駿河国の清水港へ輸送させていた 12 。兵農分離が進み、専業兵士で構成される豊臣軍は、この潤沢な補給によって年単位の長期駐屯すら可能であり、兵糧切れによる撤退という戦国時代の常識は、もはや彼らには通用しなかった 14 。
後北条氏の防衛戦略 ― 籠城と支城ネットワーク
対する後北条氏は、動員可能な兵力を約5万6千と算定し、豊臣軍との野戦を避け、徹底した籠城戦で迎え撃つ戦略を選択した 2 。この戦略は、かつて上杉謙信や武田信玄という当代きっての軍略家を撃退した、輝かしい成功体験に裏打ちされたものであった。
その防衛構想の核となるのが、本城である小田原城と、関東各地に配置された支城群が有機的に連携する「支城ネットワーク」である 15 。箱根路の山中城、伊豆の韮山城、武蔵国の鉢形城、八王子城といった主要な支城が、敵の進軍を遅滞させ、その戦力を分散させる防波堤の役割を担う 16 。そして、敵主力が小田原城に到達したとしても、城下町全体を総延長9kmにも及ぶ巨大な土塁と堀で囲い込んだ「総構(そうがまえ)」によって、長期にわたる持久戦に持ち込み、敵の疲弊と撤退を待つというものであった 17 。
しかし、この北条氏の戦略には、時代の変化を読み違えた致命的な欠陥があった。彼らが想定していたのは、あくまで戦国時代的な、補給に限界のある敵との短期決戦型の籠城戦であった。彼らが今回直面したのは、圧倒的な兵站能力に支えられ、時間という概念を超越した、全く新しい「近世的」な軍隊だったのである。
分類 |
総兵力 |
主要指揮官 |
主要な配下・構成武将 |
豊臣連合軍 |
約220,000 |
|
|
秀吉本隊 |
約153,000 |
豊臣秀吉、豊臣秀次 |
徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、堀秀政、石田三成、黒田官兵衛 |
北国勢 |
約35,000 |
前田利家、上杉景勝 |
真田昌幸、松平康国 |
水軍 |
約14,000 |
九鬼嘉隆、長宗我部元親 |
脇坂安治、加藤嘉明、毛利輝元配下 |
関東勢 |
約18,000 |
佐竹義宣、宇都宮国綱 |
結城晴朝、里見義康 |
後北条軍 |
約56,000 |
|
|
小田原城(籠城) |
(主力) |
北条氏直、北条氏政 |
北条氏照、北条氏規、松田憲秀、大道寺政繁 |
各支城 |
(分散配置) |
|
山中城:松田康長、韮山城:北条氏規、鉢形城:北条氏邦 |
第二部:征伐のリアルタイム展開
天正18年(1590年)2月、徳川家康の駿河出陣を皮切りに、空前の規模を誇る豊臣連合軍は、各方面から関東へと雪崩れ込んだ。小田原城包囲と並行して、関東各地で繰り広げられた支城攻略戦は、北条氏の防衛網を系統的に、そして無慈悲に解体していくプロセスであった。
第三章:東海道の激震 ― 山中城、半日の攻防
小田原征伐の事実上の緒戦は、天正18年3月29日、箱根路の東海道に築かれた山中城で火蓋が切られた 19 。この戦いは、豊臣軍の圧倒的な戦闘能力と、北条方が誇った防衛構想の脆さを、僅か半日で天下に示す衝撃的な結果に終わる。
豊臣秀次を総大将とし、中村一氏、堀秀政、山内一豊らを擁する6万8千の豊臣軍本隊は、北条方の最重要防衛拠点である山中城に殺到した 21 。城将・松田康長と援将・北条氏勝が率いる守備兵は約4千。兵力差は歴然としていたが、山中城は豊臣軍の来襲に備えて大改修が施された最新鋭の要塞であった。特に、堀底に畝(うね)を設けて敵兵の移動を阻害する「障子堀」は、当時の北条氏が誇る最新の築城技術であり、その防御力には絶対の自信が持たれていました 19 。
戦闘は凄絶を極めた。守備隊は、射撃用の胸壁として機能する土塁と障子堀を巧みに利用し、鉄砲を駆使して激しく抵抗した 19 。大手口の攻略を担当した一柳直末は、城兵の猛射を浴びて戦死するなど、豊臣方にも多大な犠牲者が出た 19 。しかし、中村一氏隊が岱崎出丸に猛攻をかけ、これを制圧すると、戦況は一気に豊臣方に傾いた。圧倒的な兵力の前に、防衛線は次々と突破され、開戦からわずか半日後の昼過ぎには、山中城は陥落。城将・松田康長をはじめとする多くの将兵が討ち死にした 21 。
山中城の電撃的な陥落は、単なる一拠点の喪失以上の、計り知れない心理的影響を北条方にもたらした。北条氏が「小田原城防衛の生命線」と位置づけていた箱根路が、僅か一日で、しかも緒戦でいとも簡単に突破されたという事実は、小田原城で籠城する将兵たちに豊臣軍の強大さを骨身に染みて実感させ、籠城策そのものへの信頼を根底から揺るがす強烈な衝撃となったのである。
第四章:関東制圧戦 ― 並行する支城攻略
山中城陥落と時を同じくして、北方からも前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国へ侵攻を開始。小田原城の包囲網が狭められていく一方で、関東各地に点在する北条氏の支城は、豊臣軍の多方面からの飽和攻撃に晒され、相互に連携する術もなく、各個に撃破されていった。北条氏が頼みとした支城ネットワークは、理論上の防衛構想に過ぎず、現実の巨大な軍事力の前に全く機能しなかったのである。
- 北国勢の進撃: 前田・上杉・真田ら3万5千の軍勢は、上野国の諸城を次々と攻略。4月20日には大道寺政繁が守る松井田城を落とし 14 、武蔵国へと進撃。5月14日には北条氏邦が守る鉢形城の包囲を開始し、約1ヶ月の攻防の末、6月14日に開城させた 14 。
- 6月23日、八王子城の悲劇: 北条氏照の居城であり、甲斐・武蔵方面における最大の戦略拠点であった八王子城は、前田・上杉軍の猛攻に晒された 23 。城主・氏照は小田原城に籠城中で不在であり、残された少数の家臣と、城下に住む婦女子らが守備の主体であった 24 。豊臣軍は奇襲によって城の防御線を突破し、わずか1日でこの巨大な山城を陥落させた 25 。追い詰められた城内の婦女子たちは、御主殿の滝に次々と身を投げ、自ら命を絶つという悲劇的な結末を迎えた。城山川は三日三晩、血で赤く染まったと伝えられている 24 。
- 忍城の攻防と水攻めの実態: 武蔵国北部に位置する忍城には、石田三成を総大将とする2万3千の軍勢が差し向けられた 27 。城主・成田氏長は小田原に籠城中であったが、城代の成田長親や、勇婦として知られる甲斐姫らが、領民と共に3千の兵で城に立てこもった 27 。周囲を沼沢地に囲まれた忍城は、関東七名城の一つに数えられる要害であり、三成の軍勢は攻めあぐねた 28 。これに対し、秀吉はかつて備中高松城を攻略した水攻めを用いるよう指示 28 。三成は城の周囲に長大な堤(石田堤)を築き、利根川の水を引き入れた。しかし、急ごしらえの堤は豪雨によって決壊。逆に豊臣軍の陣が水浸しになるという失態を演じ、水攻めは失敗に終わった 31 。忍城は、城兵の奮戦により、本城である小田原城が開城した後まで持ちこたえるという、類稀な抵抗を見せた 27 。
第五章:巨城包囲 ― 小田原、百日の攻防
関東各地で支城が次々と陥落していく中、主戦場である小田原では、4月3日から約3ヶ月にわたる巨大な包囲戦が続いていた 14 。この攻防は、単なる軍事的な対峙に留まらず、秀吉が仕掛けた壮大な政治劇であり、心理戦の舞台でもあった。
籠城下の実態と「小田原評定」
徳川家康、織田信雄らを先鋒とする豊臣軍本隊は、小田原城を完全に包囲し、厳重な警戒網を敷いた 12 。城内には北条氏の主力である5万6千の兵が籠城していた 2 。総構えの内側には田畑や町が広がっており、食料や水は当面の間、自給可能であったとされる 18 。しかし、山中城の電撃的陥落に始まり、鉢形城、そして八王子城の悲劇と、日々もたらされる支城陥落の報は、城内の将兵の士気を着実に蝕んでいった 32 。
このような状況下で、城内では連日、軍議が開かれた。秀吉に降伏すべきか、徹底抗戦を続けるべきか。結論の出ない議論が延々と繰り返され、時間だけが浪費されていく。これが後に「小田原評定」として、 unproductive な会議の代名詞となる 33 。この評定の背景には、隠居でありながら実権を握る主戦派の父・氏政と、当主として和平の道を模索する子・氏直との深刻な内部対立があった 17 。この二頭政治体制が、北条氏の意思決定を麻痺させ、和平の好機を逸し続ける最大の要因となったのである 10 。
秀吉の壮大な心理戦 ― 石垣山一夜城
力攻めを避け、兵糧攻めと心理的圧迫で北条氏を屈服させようとする秀吉は、この包囲戦の最中に、歴史に残る壮大なパフォーマンスを演出する。小田原城を眼下に見下ろす笠懸山に、新たな本陣となる城の築城を命じたのである。
6月26日、この城は完成した 14 。築城中は周囲の木々で巧みに隠され、完成と同時に一斉に伐採されたため、小田原城からは、あたかも一夜にして巨大な城が出現したかのように見えた。これが「石垣山一夜城」の伝説である 35 。実際には約80日間、延べ4万人が動員されて築かれたこの城は、関東で初となる総石垣の本格的な近世城郭であった 35 。
石垣山城の築城は、単なる軍事拠点の設営ではなかった。それは、北条氏に対し、武力のみならず、自らが持つ圧倒的な経済力、技術力、そして動員力を見せつけ、戦わずして戦意を喪失させることを狙った、秀吉の壮大な心理戦の中核であった 35 。
包囲陣中の異空間
さらに秀吉は、この包囲陣を政治と文化の中心地として演出した。彼は京から妻である淀殿や茶人の千利休を呼び寄せ、連日茶会を催した 12 。さらには後陽成天皇の勅使を迎え、能楽師を招いて饗応するなど 35 、あたかも戦場であることを忘れさせるかのような華やかな宮廷文化を、敵地の真ん中で繰り広げたのである。
これらの行動は、城内の北条氏だけでなく、包囲に参加している徳川、上杉、毛利、そして遅れて参陣した伊達といった全国の有力大名に対し、「これが新しい天下人のやり方だ」と見せつけるためのデモンストレーションであった。武力だけでなく、富と文化、そして天皇をも動かす絶対的な権威の全てにおいて、自分が旧来の戦国大名を凌駕していることを誇示する。この「見せる戦争」によって、戦いの勝敗は、物理的な城の陥落以前に、権威と国力の差によって、もはや決定づけられていたのである。
第三部:落日と新時代の黎明
第六章:降伏への道程 ― 北条氏の決断
石垣山城の出現は、小田原城内の士気に決定的な打撃を与えた。最後の希望であった支城ネットワークは完全に崩壊し、圧倒的な国力差をまざまざと見せつけられた北条氏に残された選択肢は、もはや降伏以外にはなかった。
6月23日の八王子城陥落、そして6月24日の韮山城開城の報が届くと、城内の抗戦意欲は完全に打ち砕かれた 32 。豊臣方からは、徳川家康を通じて、そして黒田官兵衛を使者として、執拗な降伏勧告が続けられた 37 。
ついに当主・北条氏直は、これ以上の籠城は無意味であると判断。家臣と領民の生命を救うことを条件に、降伏を決断した。天正18年7月5日、氏直は自ら秀吉の陣に出頭し、小田原城は無血開城された 1 。ここに、五代100年にわたり関東に君臨した戦国大名・後北条氏は、その歴史に幕を下ろしたのである。
一方、唯一抵抗を続けていた忍城では、小田原開城の報が届いた後も、なお籠城を続けていた 27 。最終的に、秀吉の命を受けた城主・成田氏長自らが城に赴き、城代の成田長親らを説得。7月16日、忍城は名誉ある形で開城し、ここに小田原征伐の全ての戦闘は終結した 14 。
第七章:戦後処理と天下の再編
戦いの終結後、秀吉は迅速かつ厳格な戦後処理に着手した。これは、単なる勝者による敗者の処断ではなく、新しい天下の秩序を構築するための、大規模な国家再編であった。
北条一族への処断と徳川家康の関東移封
7月11日、秀吉は今回の戦争の首謀者として、隠居の北条氏政とその弟で主戦派の中心人物であった氏照に切腹を命じた 14 。当主であった氏直は、徳川家康の娘婿であったことから死罪を免れ、高野山への追放処分となった 40 。
そして、この戦後処理における最大の眼目が、論功行賞として徳川家康に下された命令であった。家康は、それまで領有していた三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の東海五カ国150万石を召し上げられる代わりに、北条氏の旧領である関東八州250万石を与えられたのである 40 。
表向きは100万石の大幅な加増であったが、その真意は、家康を長年の本拠地から引き離し、京・大坂という政治の中心から遠ざけることで、その強大な軍事力を封じ込めるための、秀吉による深謀遠慮であった 40 。家康の家臣団からは強い反発の声も上がったが、家康はこの命令を冷静に受け入れ、新たな本拠地を江戸と定めた 43 。
この秀吉の家康封じ込め策は、しかし、歴史の皮肉とでも言うべき、全く意図せざる結果を生むことになる。関東という広大で豊かな新領地を得た家康は、三河以来の旧来の家臣団とのしがらみを断ち切り、全く新しい統治体制をゼロから構築する絶好の機会を得た。この関東経営の大成功こそが、後の関ヶ原の戦いでの勝利と、260年以上にわたって日本を統治する江戸幕府の盤石な基礎を築くことに繋がったのである。秀吉の深謀は、結果的に最大のライバルに天下取りの基盤を与えることになった。
奥羽仕置と天下統一の完成
小田原城に入った秀吉は、その足で自ら東北へと向かった。会津において、小田原への参陣が遅れた伊達政宗をはじめとする東北の諸大名に臣従を誓わせ、その領地を確定させた(奥羽仕置) 12 。これにより、日本の歴史上初めて、北海道と沖縄を除く列島の全てが、一つの政治権力の下に実質的に統一された。応仁の乱以来、100年以上続いた戦国乱世は、ここに名実ともに終焉を迎えたのである。
終章:小田原征伐が画したもの
天正18年の小田原征伐は、戦国時代の最後を飾る、壮大な叙事詩であった。それは、後北条氏という一大名の滅亡というだけでなく、日本史における一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを明確に画する分水嶺であった。
この戦いを通じて、戦国時代を通じて支配的であった「武力による領土拡大」を是とする価値観は完全に否定された。それに代わり、豊臣秀吉という中央権力が定める「公儀・秩序による統治」が、日本全土を覆う新しい時代の原則として確立されたのである。惣無事令という名の、平和を強制する論理は、もはや誰も逆らうことのできない国家の法となった。
小田原征伐によって、日本は初めて実質的な政治的統一を達成し、近世社会への扉が開かれた。徳川家康の関東移封という一見すると秀吉の戦略的勝利に見えた采配が、結果として次の時代の覇者を育む土壌を用意したこともまた、歴史のダイナミズムを象徴している。小田原の落日は、まさしく徳川の世の黎明を告げる光でもあった。この戦いは、その後の日本の形を決定づけた、極めて重要な歴史的転換点として、記憶されなければならない。
補遺:小田原征伐 詳細年表
年月日 (天正) |
場所 |
主要な出来事(戦況・政治動向) |
17年10月23日 |
上野国・名胡桃城 |
北条家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を奪取(名胡桃城事件)。 |
17年11月24日 |
- |
秀吉、惣無事令違反を理由に北条氏討伐の朱印状を発布。 |
17年12月13日 |
- |
秀吉、諸大名に陣触れ(動員令)を発令。 |
18年2月 |
駿河国 |
徳川家康(兵2万)が先鋒として出陣。 |
18年3月1日 |
京・聚楽第 |
豊臣秀吉(兵3万2千)が本隊を率いて出陣。 |
18年3月27日 |
駿河国・沼津 |
秀吉、沼津城に入城。 |
18年3月28日 |
上野国・松井田城 |
北国勢(前田・上杉軍)、松井田城の攻略を開始。 |
18年3月29日 |
伊豆国・山中城 |
豊臣秀次軍、山中城をわずか半日で攻略。一柳直末が戦死。 |
18年3月29日 |
伊豆国・韮山城 |
織田信雄軍、韮山城の包囲を開始。 |
18年4月1日 |
相模国・足柄城 |
井伊直政隊、足柄城を攻略。 |
18年4月3日 |
相模国・小田原 |
豊臣軍先鋒部隊が小田原に到着。小田原城の包囲を開始。 |
18年4月20日 |
上野国・松井田城 |
松井田城、開城。 |
18年4月21日 |
相模国・玉縄城 |
徳川家康の説得により、北条氏勝の玉縄城が開城。 |
18年4月22日 |
武蔵国・江戸城 |
江戸城、開城。 |
18年4月23日 |
伊豆国・下田城 |
豊臣水軍(九鬼・脇坂ら)、下田城を攻略。 |
18年5月3日 |
武蔵国・河越城 |
前田利家軍、河越城を攻略。 |
18年5月14日 |
武蔵国・鉢形城 |
北国勢、鉢形城の包囲を開始。 |
18年5月22日 |
武蔵国・岩槻城 |
浅野長政軍、岩槻城を攻略。 |
18年5月27日 |
小田原陣中 |
堀秀政が病死。伊達政宗への関東移封内示の説あり。 |
18年6月5日 |
武蔵国・忍城 |
石田三成軍、忍城の攻略を開始。 |
18年6月9日 |
小田原陣中 |
伊達政宗、白装束で秀吉に謁見し、臣従を許される。 |
18年6月14日 |
武蔵国・鉢形城 |
鉢形城、開城。 |
18年6月23日 |
武蔵国・八王子城 |
北国勢、八王子城を1日で攻略。城内の婦女子が自害する悲劇。 |
18年6月24日 |
伊豆国・韮山城 |
3ヶ月の籠城の末、韮山城が開城。 |
18年6月26日 |
相模国・石垣山 |
石垣山一夜城が完成。 |
18年6月28日 |
相模国・石垣山 |
秀吉、本陣を石垣山城に移す。 |
18年7月5日 |
相模国・小田原 |
北条氏直が降伏。小田原城が開城。 |
18年7月11日 |
相模国・小田原 |
北条氏政・氏照兄弟が切腹。 |
18年7月16日 |
武蔵国・忍城 |
小田原開城後も抵抗を続けていた忍城が、城主の説得により開城。 |
18年8月 |
陸奥国・会津 |
秀吉、会津で奥羽仕置を行い、東北諸大名を服属させる。天下統一完成。 |
引用文献
- 小田原合戦 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/011/
- 小田原合戦 北条氏5代100年の最後 - 城びと https://shirobito.jp/article/376
- 【3万5千 VS 22万】小田原征伐|北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由 https://sengokubanashi.net/history/odawara-seibatsu/
- 名胡桃城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%83%A1%E6%A1%83%E5%9F%8E
- 「名胡桃城事件(1589年)」とは?北条氏が滅んだきっかけとなっ ... https://sengoku-his.com/461
- 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
- 名胡桃城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Gunma/Nagurumi/index.htm
- 名胡桃城と小田原の役 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/080099.html
- 「奥州仕置(1590年)」秀吉の天下統一最終段階!東北平定と領土再分配の明暗 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/14
- 北条氏政・氏直と小田原征伐:後北条氏100年の滅亡、その理由と歴史的背景を徹底解説 https://sengokubanashi.net/history/hojoujimasa-2/
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- 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
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