最終更新日 2025-08-28

小豆坂の戦い(第一次・1542)

天文十一年 第一次小豆坂の戦い:その実像と虚像

第一章:序論 ― 天文十一年の三河・尾張情勢

天文11年(1542年)、三河国小豆坂(現在の愛知県岡崎市)において、尾張の織田信秀と駿河の今川義元が激突したとされる「第一次小豆坂の戦い」。この戦いは、織田方の善戦に終わったと伝えられ、後の桶狭間の戦いに至る両雄の長きにわたる抗争の序曲として語られてきた。しかし、その実像は伝説と錯綜し、近年ではその存在自体が学術的に疑問視されている。本報告書では、この戦いを多角的に検証し、その歴史的実像と、後世に形成された虚像を徹底的に解明することを目的とする。そのためにはまず、合戦の舞台となった天文年間初期の三河・尾張地域が、いかなる政治的・軍事的力学のもとに置かれていたのかを理解する必要がある。

1-1. 空白地帯と化した西三河:松平氏の凋落

戦いの舞台となった三河国は、本来、松平氏が支配する地であった 1 。徳川家康の祖父にあたる松平七代当主・松平清康は、岡崎城を拠点に驚異的な勢いで三河統一を推し進め、1529年(享禄2年)には今川氏の拠点であった吉田城(愛知県豊橋市)を攻略するなど、その武威は隣国にまで轟いていた 1 。しかし、その覇業は天文4年(1535年)、尾張侵攻の陣中で突如として終焉を迎える。家臣の謀反を疑った清康が、別の近臣によって斬殺されるという悲劇、いわゆる「森山崩れ」である 2

この事件は、松平氏にとって致命的な打撃となった。清康の嫡男・仙千代(後の松平広忠)は当時わずか10歳であり、強力な指導者を失った松平家は、一族間の内紛と国衆の離反によって急速に統制を失い、弱体化の一途をたどる 1 。広忠は大叔父の松平信定によって本拠地である岡崎城を追われ、伊勢・遠江へと流浪の身となる有様であった 2 。清康の死は、単に一人の武将の死に留まらず、三河国における確固たる権力の中心が消滅したことを意味した。その結果、西三河は、周辺の強力な戦国大名にとって、自らの勢力を拡大するための魅力的な「権力の空白地帯」へと変貌したのである。

1-2. 尾張の虎、西へ:織田信秀の三河侵攻

この千載一遇の好機を逃さなかったのが、「尾張の虎」と称された織田信秀、すなわち織田信長の父であった。尾張南部を着実に平定し、戦国大名としての地位を固めつつあった信秀は、松平氏の弱体化に乗じて三河への侵攻を本格化させる 1 。天文9年(1540年)、信秀は西三河における松平氏の最重要拠点であった安祥城(愛知県安城市)を攻略 4 。この地に庶長子の織田信広を城代として配置し、松平氏の本拠・岡崎城の喉元である矢作川西岸まで、その勢力圏を拡大した 6

信秀の三河侵攻は、単なる領土的野心によるものではない。安祥城の確保は、岡崎城に圧力を加え続けるための恒久的な前線基地を築くことを意味し、三河支配を盤石にするための戦略的布石であった。さらに、東西を結ぶ大動脈である東海道の交易ルートを掌握し、経済的な覇権を確立しようとする狙いもあったと考えられる 8 。信秀の西進は、東方に勢力を張る大国との衝突を不可避とするものであった。

1-3. 駿河の巨人、東から:今川義元の介入

織田氏の圧倒的な軍事力の前に、独力での対抗が不可能となった松平広忠は、東方に活路を求める。すなわち、駿河・遠江二カ国を支配する「海道一の弓取り」今川義元の後援を頼ったのである 1 。義元はこの要請に応じ、広忠の岡崎城帰還を助け、彼を庇護下に置いた 3

しかし、義元の支援は決して善意によるものではない。彼にとって、弱体化した松平氏は、織田氏の東進を食い止めるための「防波堤」であり、同時に、その松平氏を救援するという大義名分を掲げて三河国へ介入し、事実上の支配下に置くための絶好の機会であった 1 。こうして、松平氏の存亡をかけた救援要請は、結果的に尾張の織田氏と駿河の今川氏という二大勢力を、三河国という舞台で直接対峙させることになった。一つの事件が引き起こした権力の真空状態が、西からの膨張圧力(織田)と東からの膨張圧力(今川)を呼び込み、その衝突点として小豆坂が歴史の表舞台に現れることとなるのである。

項目

織田氏

今川氏

松平氏

当主

織田信秀

今川義元

松平広忠

主要武将

織田信光、織田信房

太原雪斎、朝比奈泰秀

(家臣団の統制に苦慮)

支配領域

尾張国南部

駿河国、遠江国

三河国(西三河の一部)

戦略目標

西三河の支配権確立

三河国の保護国化、勢力圏拡大

織田氏の排除、勢力の維持・存続

第二章:合戦前夜 ― 三つ巴の思惑

天文11年(1542年)夏、三河国境の緊張は頂点に達していた。しかし、この対立の当事者である織田信秀と今川義元は、それぞれが三河以外にも深刻な問題を抱えており、全戦力をこの一点に集中できる状況ではなかった。両者の抱える「制約条件」こそが、第一次小豆坂の戦いの規模や性格、ひいてはその実在性を考察する上で決定的に重要な鍵となる。

2-1. 織田信秀の多方面作戦

織田信秀の視線は、西の三河だけに向けられていたわけではない。彼の生涯を通じての宿敵は、北に位置する美濃国の「蝮」斎藤道三であった 11 。信秀は尾張統一を盤石なものとするため、美濃への侵攻を執拗に繰り返しており、天文11年(1542年)の時点でも両者の争いは続いていた。同年、信秀は美濃へ出兵し、大垣城を一時的に奪取するなど、積極的な軍事行動を展開している 11

これは、信秀が三河と美濃という二つの戦線を同時に維持する、多方面作戦を強いられていたことを意味する。彼の軍事リソースは分散しており、三河方面へ投入できる兵力には自ずと限界があった。したがって、三河への侵攻は、彼の壮大な拡大戦略の一部ではあったものの、この時点では岡崎城周辺の制圧といった限定的な戦術目標を持った作戦であった可能性が高い。

2-2. 今川義元の最優先課題

一方、今川義元が抱える問題は、信秀のそれよりも遥かに深刻かつ国家的であった。この時期、今川氏は本拠地である駿河国の東部国境、すなわち富士川以東の「河東地域」の領有権を巡って、相模国の北条氏綱・氏康親子と大規模かつ長期的な戦争状態にあった。これは「河東一乱」と呼ばれ、天文5年(1536年)から天文14年(1545年)まで、約10年間にわたって今川氏の国力を消耗させた一大紛争である 4

河東地域は今川氏にとって父祖伝来の地であり、その奪還は義元の当主としての権威を確立するための至上命題であった 13 。北条氏は関東に覇を唱える強敵であり、この東方戦線は今川氏の存亡にも関わる最重要課題であった。国力の大部分、そして義元や軍師・太原雪斎といった首脳部の関心は、この東方戦線に集中していたと考えるのが自然である。この今川氏が抱える最大の制約条件は、後述する「第一次合戦虚構説」を支える最も強力な論拠となっている。

2-3. 松平広忠の絶望と希望

二大勢力の狭間で、松平広忠は絶望的な状況に置かれていた。今川氏の支援によって辛うじて岡崎城主の座に復帰したものの、矢作川の対岸には織田方の安祥城が睨みを利かせ、一族の中にも織田方に通じる者が現れるなど、家臣団の統制すらままならない有様であった 7 。彼にとって、今川軍の来援は、織田氏の圧力を跳ね除け、父祖伝来の地と家名を保つための唯一の希望の光であった 15

奇しくもこの天文11年は、広忠にとって個人的にも重要な年であった。12月26日、正室・於大の方との間に、待望の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が誕生したのである 16 。生まれたばかりの世継ぎの未来を守るためにも、広忠は今川への依存を深め、大国の争いの渦中で必死に生き残りを図らねばならなかった。彼の苦渋の選択が、やがて竹千代を人質として差し出すという、さらなる悲劇へと繋がっていくことになる。

第三章:第一次小豆坂の戦い ― 合戦のリアルタイム再現

ここに記すのは、『武家事紀』などの後代の軍記物によって伝えられてきた、伝統的な第一次小豆坂の戦いの情景である。これは必ずしも史実を正確に反映したものではないが、利用者からの「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要請に応えるため、伝承されている合戦の姿を時系列に沿って再構成する。

3-1. 【午前】両軍の進軍と対峙

天文11年8月10日、払暁。尾張方、織田信秀率いる軍勢は、前線基地である安祥城を出立。夜明けと共に矢作川を渡河し、岡崎城の南東約4キロメートルに位置する上和田の地に布陣した 4 。その狙いは、岡崎城を孤立させ、松平・今川方を野戦に引きずり出すことにあった。

これに対し、松平広忠の救援要請を受けた今川軍は、総大将・今川義元(一説には代理の大将・太原雪斎)に率いられ、東から岡崎城を目指して進軍 4 。織田軍の動きを察知すると、その進路上にある小豆坂に陣を構えた。小豆坂は、岡崎平野の東に広がる丘陵地帯を抜ける坂道であり、東西交通の要衝であった 4 。坂の上という高所を先に占拠した今川軍は、戦術的に極めて有利な地形を確保した。兵力については諸説あり、今川軍4万、織田軍4千とも伝えられるが、これは後世の誇張が含まれている可能性が高い 1 。辰の刻(午前8時頃)には、両軍は坂を挟んで睨み合い、戦場の空気は張り詰めていた。

3-2. 【昼前】開戦 ― 織田軍の突撃

巳の刻(午前10時頃)、静寂を破ったのは織田軍であった。信秀の号令一下、織田軍の先鋒部隊が鬨の声を上げ、坂の下から今川軍の陣地へ向かって猛然と突撃を開始した 20 。しかし、坂の上から待ち受ける今川軍の守りは固い。高所からの地の利を活かし、弓隊が次々と矢を放ち、織田方の突撃の勢いを削ぐ 20 。坂を駆け上がろうとする織田兵は、降り注ぐ矢と、高所から繰り出される槍衾の前に次々と倒れ、序盤の戦況は完全に今川軍優勢で推移した。織田軍は一度、その猛攻を押し返すも、決定的な打撃を与えるには至らず、逆に損害を重ねて後退を余儀なくされる苦しい展開となった。

3-3. 【昼過ぎ】戦局の転換 ― 「小豆坂七本槍」の奮戦

午の刻(正午過ぎ)、織田軍が劣勢に陥り、陣中に敗色の気配が漂い始めたその時、戦局を覆す者たちが現れる。信秀配下の精鋭、7人の武将である。彼らは崩れかけた味方の戦列を突き破るように前線へ躍り出ると、鬼神の如き働きを見せた。後に「小豆坂七本槍」と称揚される勇士たちである 1

中でも、信秀の実弟である織田信光の奮戦は凄まじく、その槍働きは敵味方の目を奪ったと伝えられる 21 。信光を筆頭に、織田信房、岡田重能、佐々政次、佐々孫介、中野一安、下方貞清の七人は、互いに競い合うように今川軍の陣中深くへと斬り込み、その堅固な戦列を中央から切り裂き始めた 23 。彼らの常軌を逸した勇猛さに今川軍は動揺し、統制が乱れ始める。この一瞬の隙を、信秀は見逃さなかった。

この時の七本槍の活躍を記念する伝承が、古戦場跡には今も残る。激戦の合間に彼らが槍を立てかけて休息したとされる「槍立松」、そして戦いで槍先に付いた血糊を洗い流したという「血洗池」の逸話である 25

3-4. 【午後】決着 ― 織田軍の勝利

未の刻(午後2時頃)、七本槍の奮戦によって開かれた突破口を好機と見た信秀は、全軍に総攻撃を命令。勢いを取り戻した織田軍は、怒涛の如く坂を駆け上がり、混乱に陥った今川軍に襲いかかった。一度崩れた陣形を立て直すことは、もはや不可能であった。今川軍は総崩れとなり、将兵は我先にと敗走を始める。

織田軍はこれを追撃し、多大な戦果を挙げた。この戦いは、兵力で劣っていた織田軍の劇的な逆転勝利に終わり、今川軍は三河からの撤退を余儀なくされた 1 。結果として、織田信秀は今川氏の三河介入を一時的に阻止することに成功し、尾張・三河国境における織田氏の優位を誇示した。しかし、この勝利は決定的なものではなく、両者の対立をより一層深刻化させ、三河国を巡る緊張を新たな段階へと引き上げることになったのである。

第四章:「小豆坂七本槍」の実像

第一次小豆坂の戦いの物語を最も劇的に彩るのが、「小豆坂七本槍」の存在である。彼らの英雄的な活躍が、劣勢だった織田軍を勝利に導いたとされている。しかし、この華々しい武勇伝は、歴史的事実としてどこまで信頼できるのであろうか。その実像を探るには、構成員とされる人物と、その伝承が記された史料を慎重に検証する必要がある。

4-1. 伝承される七人の武将

後世の軍記物などで「小豆坂七本槍」として名前が挙げられるのは、以下の七名の武将である 23

  1. 織田信光(おだ のぶみつ) :織田信秀の弟。武勇に優れ、信秀・信長を支えた重鎮 22
  2. 織田信房(おだ のぶふさ) :通称は造酒丞。信秀・信長に仕えた猛将と伝わる 29
  3. 岡田重能(おかだ しげよし) :通称は長門守。信秀に仕え、後に信長の次男・信雄の家老となった 22
  4. 佐々政次(さっさ まさつぐ) :通称は隼人正。佐々成政の兄。桶狭間の戦いで討死 22
  5. 佐々孫介(さっさ まごすけ) :政次の弟、成政の兄。稲生の戦いで討死 22
  6. 中野一安(なかの かずやす) :通称は又兵衛。信長の馬廻で弓衆を率いた 22
  7. 下方貞清(しもかた さだきよ) :通称は左近。信秀から「古今無双の高名」と賞された武将 22

これらの人物は、いずれも信秀配下の有力な武将や近臣であり、実在したことは確かである。しかし問題は、彼ら七人が、天文11年のこの特定の戦いにおいて、一括りに「七本槍」と称されるほどの特別な武功を立てたという同時代の記録が存在しない点にある。

4-2. 史料的根拠の検証

「小豆坂七本槍」という呼称と、その英雄譚が初めて登場するのは、江戸時代前期に成立した山鹿素行の著作『武家事紀』などの、合戦から100年以上も後に編纂された二次史料である 24 。これらの書物は、徳川の治世下で戦国時代の出来事を物語として再構成する中で、多くの伝聞や脚色を含んでいることが指摘されている。

一方で、織田信長の側近であった太田牛一が記し、信秀の時代から信長の生涯までを記録した、最も信頼性の高い史料の一つである『信長公記』には、「小豆坂七本槍」という言葉も、この七人の集団的な活躍に関する記述も見当たらない 22 。信秀の武功を詳細に記す同書が、今川の大軍を打ち破る原動力となったとされるほどの活躍を見過ごすとは考えにくい。

この事実は、「小豆坂七本槍」の伝説が、合戦と同時期に生まれたものではなく、長い年月を経て後世に「創作」された可能性が極めて高いことを示唆している。それは、後の天下人・織田信長の父である信秀の治世がいかに輝かしいものであったかを強調し、織田家の武威を後付けで装飾するための、物語上の装置であったのかもしれない。賤ヶ岳の戦いにおける「賤ヶ岳の七本槍」のように、特定の合戦での功労者を顕彰する形式は存在するが 32 、小豆坂の七本槍に関しては、その史料的基盤が非常に脆弱であると言わざるを得ない。

武将名

通称など

生没年

主な経歴

織田 信光

孫三郎

1516-1556

信秀の弟。守山城主。信長を助け清洲城奪取に貢献するも、後に家臣に殺害される 22

織田 信房

造酒丞

不明

信秀・信長に仕える。稲生の戦いや桶狭間の戦いにも参陣したとされるが、詳細は不明 23

岡田 重能

長門守

1527-1583

尾張上野城主。信長、信雄に仕え、小牧・長久手の戦いの前哨戦で討死 22

佐々 政次

隼人正

?-1560

尾張井瀬木城主。弟の孫介と共に活躍。桶狭間の戦いで今川軍本隊への攻撃を試み討死 22

佐々 孫介

-

?-1556

政次の弟。信長の命で織田信光を殺害した坂井孫八郎を討つ。稲生の戦いで討死 22

中野 一安

又兵衛

1526-?

信長の馬廻。弓衆を指揮。10代で小豆坂の戦いに参陣したと伝わる 22

下方 貞清

左近

?-1606

信秀、信長に仕えた猛将。姉川の戦いなどで武功を挙げる。後に松平忠吉に仕えた 22

第五章:歴史的検証 ― 「第一次合戦虚構説」の深層

伝統的に語られてきた第一次小豆坂の戦いの勇壮な物語は、近年の歴史学研究において、その存在自体が根本から問われている。複数の状況証拠と史料批判に基づき、この戦いは史実ではなく、後世に創られた「虚構」であるとする説が有力となっている。本章では、その論拠を詳細に解き明かす。

5-1. 根拠①:今川氏の東方戦線「河東一乱」

虚構説を支える最大の根拠は、第二章でも触れた、今川氏が当時直面していた最重要課題「河東一乱」の存在である 4 。天文11年(1542年)という年は、今川義元が相模の北条氏と駿河東部の領有を巡って、国家の総力を挙げた戦争を継続している、まさにその渦中にあたる 12

この紛争は、散発的な小競り合いではなく、今川氏の存亡にも関わる大規模なものであった。軍事戦略の常道として、国家がこのような重大な脅威に直面している際に、主戦線から遠く離れた西三河の地へ、総大将の義元や筆頭重臣の太原雪斎が大規模な軍団を率いて遠征することは、極めて非合理的であり、考え難い。国力と軍事リソースの大半が東方の対北条戦線に注がれている中で、西方へ大規模な二正面作戦を展開する余裕があったとは到底思えない。この戦略的優先順位の観点から、天文11年に今川氏が織田氏と大規模な野戦を行ったとする伝承は、根本的な矛盾を抱えている。

5-2. 根拠②:今川氏の三河進出の時期

第二の根拠は、今川氏が三河国へ本格的に軍事介入を開始した時期に関する研究である。信頼性の高い古文書などを分析した結果、今川氏が軍勢を派遣し、東三河から西三河へと支配を確立していく動きが活発化するのは、天文12年(1543年)以降のことであると指摘されている 4

天文11年の段階では、今川氏の三河に対する影響力は、まだ松平広忠を後援するなどの間接的なものに留まっていた可能性が高い。もし、通説通り天文11年に織田軍と大規模な決戦を行い、手痛い敗北を喫していたのであれば、そのわずか1年後から、敗北したはずの敵地へ本格的な侵攻を開始するという軍事行動は不自然である。むしろ、最大の懸案であった河東一乱が武田氏の仲介で和睦し、一段落する天文14年(1545年)以降に、満を持して西方の三河へ進出を本格化させたと考える方が、時系列として遥かに整合性が取れる。

5-3. 根拠③:史料批判

決定的な根拠となるのが、史料そのものに対する批判的検討である。前章でも述べた通り、この合戦について記述しているのは、『松平記』や『武家事紀』といった、江戸時代に成立した二次史料、あるいはそれに類する編纂物である 4 。これらの史料は、合戦から長い年月が経過した後に書かれており、徳川家の祖先の活躍を称揚したり、物語としての面白さを追求したりする過程で、多くの脚色や創作が加えられていることが知られている。

一方で、最も信頼性の高い同時代史料の一つである『信長公記』の首巻、すなわち信秀の時代の記録には、この第一次小豆坂の戦いに関する記述が一切存在しない 30 。織田信秀の輝かしい武功の一つとして、今川義元本体(あるいはその主力軍)に大勝したというほどの出来事であれば、信秀の事績を称える同書がこれを見過ごすとは考えられない。

「同時代の信頼できる記録には沈黙されているが、後世の物語的な記録には華々しく描かれている」という状況は、その出来事の史実性を著しく低下させる。これらの複数の論拠を総合的に判断すると、天文11年に「第一次小豆坂の戦い」と呼ばれるような、織田・今川両軍の主力が激突する大規模な野戦は発生しなかった可能性が極めて高い、と結論付けられる。

では、なぜこの伝説が生まれたのか。最も有力な仮説は、天文17年(1548年)に実際に起こった「第二次小豆坂の戦い」 4 や、その前後に発生したであろう小規模な前哨戦のエピソードが、後世に語り継がれる中で混同され、あるいは織田家の武勇を誇示するために意図的に誇張・脚色され、「第一次」というもう一つの別の合戦として物語が仕立て上げられた、というものである。

第六章:合戦の意義と後世への影響

第一次小豆坂の戦いは、その史実性を巡って大きな議論がある。しかし、歴史における出来事の重要性は、それが実際に起こったかどうかという一点だけで測られるものではない。それが「どのように語られ、記憶されてきたか」という点もまた、後世に大きな影響を与える。本章では、この戦いが史実であった場合と、虚構(伝説)であった場合の両面から、その歴史的意義を総括する。

6-1. 「史実」として見た場合の意義

仮に、天文11年の第一次小豆坂の戦いが史実であったとするならば、その意義は大きい。

まず織田氏にとっては、これは尾張統一をまだ完全には成し遂げていない段階で、東の大国である今川氏の主力を正面から撃退した、画期的な勝利となる。この勝利は、織田信秀の武将としての評価を不動のものとし、家臣団の結束を高め、尾張国内における彼の支配権をさらに強固にしたであろう。そして、この父の武威と成功体験は、後の織田信長の躍進の土台の一部を形成したと評価できる。

一方、今川氏にとっては、これは西方への拡大戦略が手痛い形で一時的に頓挫したことを意味する。三河への介入が容易ではないことを認識させられ、最大の懸案である河東一乱を終結させた後に、より周到な準備と大規模な兵力をもって三河侵攻を再開する必要性を痛感させた戦いとなったであろう。

6-2. 「虚構(伝説)」として見た場合の意義

次に、近年の研究で有力視されているように、この戦いが史実ではなく後世に創られた虚構(伝説)であったと見なす場合、その意義は全く異なる側面を持つ。

この伝説の最大の機能は、物語的なプロパガンダにある。すなわち、後の天下人・織田信長の父である信秀を、単なる尾張の一地方領主ではなく、「海道一の弓取り」と称された今川義元と互角以上に渡り合った名将として描き出すことである。これにより、信長の非凡さを、その血筋や家系の点から権威付け、神格化する役割を果たした。

さらに、この「第一次」の戦いの伝説は、史実である天文17年(1548年)の「第二次」の戦いと対になることで、小豆坂という特定の場所を「織田と今川の宿命の対決の地」として、人々の記憶に強く印象付ける効果を生み出した。これにより、桶狭間の戦いに至るまでの両者の長きにわたるライバル関係を、よりドラマチックに演出し、歴史物語としての深みを与えることに成功したのである。歴史とは、「実際に起こったこと(事実)」と「人々が起こったと信じ、語り継いできたこと(記憶)」の二重構造で成り立っており、第一次小豆坂の戦いは、後者の「記憶」が歴史認識に与える影響の大きさを示す好例と言える。

6-3. 結論:桶狭間への道

第一次小豆坂の戦いの実在性がどうであれ、確かなことは、天文年間の三河国境地帯が、西の織田氏と東の今川氏という二大勢力の熾烈な草刈り場であったという事実である 6 。この地域で繰り広げられた一連の抗争は、結果として松平氏を完全に今川氏の支配下に組み込むことになった。そして、人質として今川方に送られた松平氏の嫡男・竹千代(徳川家康)の運命を大きく左右し、織田・今川間の緊張を決定的なものへと高めていった。

この尾張・三河国境を巡る絶え間ない紛争の積み重ねこそが、最終的に永禄3年(1560年)、今川義元による大規模な尾張侵攻、すなわち日本の歴史を大きく転換させる「桶狭間の戦い」へと繋がっていくのである 1 。その意味において、第一次小豆坂の戦いは、史実であれ伝説であれ、天下統一へと至る長い戦いの時代の幕開けを告げる、重要な前哨戦の一つとして位置づけることができるだろう。

引用文献

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  3. 【どうする家康 記念連載】第二回 岡崎を愛した苦難の人 徳川家康の父・松平広忠 https://pokelocal.jp/article.php?article=596
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  5. 家康の父・松平広忠ゆかりの史跡めぐり「小豆坂古戦場跡」「大林寺」「松應寺」 https://favoriteslibrary-castletour.com/okazaki-matsudaira-hirotada/
  6. 竹千代誘拐事件につながる。織田信長の父と徳川家康父との戦い「小豆坂の戦い」の史跡 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/5066
  7. 徳川の前身、松平八代の歴史 - 岡崎おでかけナビ https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/history/mastudaira8
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