最終更新日 2025-08-28

小豆坂の戦い(第二次・1548)

天文十七年 小豆坂の戦い ― 三河の覇権を賭けた織田・今川の激突 ―

序章:雌伏する龍と虎 ― 合戦前夜の三河情勢

天文17年(1548年)3月19日、三河国小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で繰り広げられた戦いは、単なる一地方における武力衝突ではない。それは、尾張の「虎」織田信秀と、駿河の「龍」今川義元という、東海地方の二大勢力が、戦略的に極めて重要な三河国の覇権を賭けて雌雄を決した、必然の激突であった。この戦いの背景には、弱体化した在地領主・松平氏を巡る複雑な力学と、両雄の周到な戦略的意図が深く絡み合っていた。

「守山崩れ」以降の松平氏の凋落

かつて三河国をほぼ手中に収め、その威勢を轟かせた松平氏であったが、天文4年(1535年)、当主・松平清康が家臣に暗殺されるという悲劇(守山崩れ)に見舞われる 1 。この事件は、松平氏の勢力に致命的な打撃を与えた。強力な指導者を失った松平家中は、権力の真空状態に陥り、一族間の内紛や有力国人領主の離反が相次いだ 1

清康の跡を継いだ松平広忠は、この混乱を収拾することができず、苦難の道を歩むことになる。叔父である松平信孝が織田方に通じるなど、一族内部からの裏切りにも直面し、父祖伝来の地盤さえも維持することが困難な状況に追い込まれていた 3 。この松平氏の弱体化こそが、外部勢力である織田氏と今川氏の介入を招く最大の要因となったのである。

織田信秀の野望:西三河支配の拠点・安祥城

尾張国で急速に勢力を拡大していた織田信秀は、松平氏の混乱を好機と捉え、三河への進出を本格化させる 5 。信秀の三河侵攻における戦略的要衝となったのが、西三河に位置する安祥城であった 3 。この城は、松平氏の本拠地である岡崎城に圧力を加え、さらなる東進の足掛かりとなる、まさに三河支配の「楔」とも言うべき重要な拠点であった。信秀はこの安祥城を奪取し、ここを前線基地として、着実にその影響力を西三河一帯に浸透させていった 4

今川義元の深慮:軍師・太原雪斎と松平氏の取り込み

一方、駿河・遠江を治める今川義元も、織田氏の西進を座視するわけにはいかなかった。義元にとって、三河は尾張との緩衝地帯であり、将来的な西方進出の拠点となるべき土地であった 2 。この壮大な戦略構想を具現化したのが、義元の絶大な信頼を得ていた軍師・太原雪斎(崇孚)である 9

雪斎は、武力による直接的な制圧ではなく、弱体化した松平広忠を庇護下に置くという巧みな外交戦略を選択した。松平氏を支援することで、三河を織田勢力に対する防波堤とし、同時に今川の影響力を円滑に浸透させようと図ったのである。この戦略の一環として、広忠は嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質として駿府へ送ることを決断する。しかし、その道中、護送役であった田原城主・戸田康光が裏切り、竹千代の身柄はあろうことか敵である織田信秀のもとへと引き渡されてしまう 1 。この事件は、織田・今川両陣営の対立を決定的なものとし、大規模な軍事衝突を不可避ならしめた。

【論点考察】松平広忠は織田に降っていたのか? ― 史料から読み解く背信と苦渋の選択

第二次小豆坂の戦いに関する通説は、今川氏の援軍を得た松平氏が、侵攻してきた織田軍を迎え撃ったという「今川・松平連合軍 対 織田軍」の構図で語られる。しかし近年、この定説に一石を投じる新説が歴史研究者・村岡幹生氏によって提唱され、注目を集めている。

この説の根拠となるのは、越後国の僧が残した書状に、合戦前年の天文16年(1547年)9月に岡崎城が織田軍によって攻め落とされた、という記述が発見されたことである 2 。もしこれが事実であれば、合戦当時の松平広忠と岡崎城は、すでに織田の支配下にあったことになる 2 。この仮説に立つと、これまで不可解とされてきた史料上のいくつかの矛盾点が見事に氷解する。

第一に、『三河物語』をはじめとする徳川方の史料において、この重要な戦いにおける松平勢の具体的な活躍がほとんど記されていない点である 2 。自家の存亡をかけた戦いであれば、その奮戦が詳述されて然るべきだが、その記述は驚くほど希薄である。第二に、合戦で敗走する織田軍が、岡崎城のすぐそばを通過して安祥城へ撤退したにもかかわらず、広忠がこれを追撃、あるいは迎撃したという記録が一切存在しないことである 2 。これは、今川方の同盟軍としては不可解な行動であり、織田方への内通を疑われても仕方のない背信行為に映る。

しかし、広忠が織田方に降伏していたと仮定すれば、これらの疑問は解消される。松平勢が主体的に動けなかったのは、彼らが織田軍の一部として行動していたか、あるいは岡崎城で今川軍の来襲に備えていたためと考えられる。この視点に立てば、第二次小豆坂の戦いは、今川氏による「松平氏救援戦」ではなく、織田の支配下に入った三河を奪還するための「今川氏による制圧戦」であったという、全く新しい構図が浮かび上がる。広忠の行動は、単純な裏切りではなく、強大な二大勢力に挟まれた弱小領主が、家名を存続させるために下した苦渋の選択であったと解釈できるのである。

一方で、歴史研究者・柴裕之氏は、美濃の斎藤道三の働きかけによって広忠が再び今川方に接近した結果、この戦いが引き起こされたとする説も提示しており、広忠の立場が極めて流動的であったことを示唆している 2 。本報告書では、こうした複雑な政治的背景を踏まえ、合戦の全貌を解き明かしていく。

第一章:両雄、小豆坂に会す ― 開戦に至る軍事行動

天文17年3月、三河の緊張は頂点に達した。織田、今川の両軍は、それぞれが周到な準備の末、決戦の地・小豆坂へと兵を進めた。両軍の兵力、指揮系統、そして戦場の地理的条件は、来るべき激戦の様相を決定づける重要な要素であった。

織田軍の布陣:信秀・信広父子と精鋭四千

織田信秀は、三河侵攻に全力を傾けるため、周到な外交的布石を打っていた。長年の敵であった美濃の斎藤道三と和睦を結び、嫡男・信長に道三の娘・濃姫を娶らせることで、北方の脅威を取り除いたのである 6 。これにより、信秀は後顧の憂いなく、全軍事力を三河方面に集中させることが可能となった。

信秀は、西三河の拠点である安祥城に本営を置き、約4,000と推定される精鋭部隊を率いて出陣した 2 。軍の先鋒を任されたのは、信秀の庶長子であり、勇猛果敢さで知られた織田信広であった 9 。信秀・信広父子を中核とする織田軍は、兵力では劣るものの、数々の戦いを潜り抜けてきた歴戦の兵で構成されており、その士気は極めて高かった。

今川連合軍の布陣:雪斎率いる一万の大軍と、その中にいた「岡崎衆」の実像

織田軍の動きを察知した今川義元は、これに対抗すべく、即座に大軍の派遣を決定した。総大将に指名されたのは、今川家の軍事・政治を一手に見る「軍師」太原雪斎であった 9 。雪斎が率いた兵力は約10,000に達し、織田軍を数で圧倒していた 2

雪斎の下、副将には重臣の朝比奈泰能、先鋒にはその子・朝比奈泰秀が配され、さらに後の戦況を決定づけることになる伏兵部隊の指揮官として、猛将・岡部真幸(元信)が名を連ねるなど、盤石の指揮系統が敷かれていた 9

ここで注目すべきは、今川軍の中に「岡崎衆」と呼ばれる部隊が存在したことである。『松平記』によれば、この部隊を率いていたのは松平広忠本人ではなく、今川家臣の朝比奈信置であった 2 。前章で考察した広忠の立場を考慮すると、この「岡崎衆」の実像が浮かび上がってくる。彼らは、広忠が織田に降伏した際にそれを良しとせず、主家を見限って今川氏を頼った、いわば反広忠派の松平家臣団であった可能性が高い。雪斎は、彼らを軍に加えることで、この戦いが単なる侵略ではなく、「松平家を織田の圧政から救う」という大義名分を内外に示すための、高度な政治的演出を施していたのである。

戦場の地勢学:勝敗を分けた小豆坂の坂と丘陵

両軍が激突した小豆坂は、岡崎城の南東に位置する丘陵地帯である 5 。現在の岡崎市羽根町、戸崎町、美合町にまたがるこの一帯は、その名の通り、起伏に富んだ坂道が続く地形を特徴としていた 4 。松の木立に覆われた丘や谷が点在し、見通しの悪い場所も多かった 18 。この地理的特徴は、単なる戦いの背景ではなく、太原雪斎の戦術構想そのものと深く結びついていた。

雪斎は、この戦いを単純な兵力の衝突ではなく、地形を最大限に利用した戦術的罠として設計していた。東から進軍する今川軍は、必然的に小豆坂の坂の上、すなわち高所という地理的優位を確保することができる。対照的に、西の安祥城から矢作川を渡って攻め寄せる織田軍は、坂を駆け上がる形で不利な攻撃を仕掛けざるを得ない 1

雪斎は、織田信秀の攻撃的で猪突猛進な性格を熟知していた。信秀ならば、たとえ地形的に不利であっても、果敢に攻めかかってくることを見越していたのである。雪斎の描いた筋書きは、こうだ。まず、坂上からの防御によって敵の鋭気を殺ぎ、兵を消耗させる。次に、敵が攻め疲れ、勝利を焦って深追いしてきた決定的な瞬間を捉える。そして最後に、あらかじめ丘陵の陰に潜ませておいた伏兵部隊によって、無防備な敵の側面を強襲する。この三段構えの戦術は、小豆坂という起伏に富んだ地形だからこそ、完璧に実行可能であった。戦場の選択そのものが、すでに雪斎の戦術の一部だったのである。

第二次小豆坂の戦い 両軍勢力比較表

項目

織田軍

今川・松平連合軍

総大将

織田信秀

太原雪斎

主要武将

織田信広(先鋒)

朝比奈泰能(副将)、朝比奈泰秀(先鋒)、岡部真幸(伏兵)

推定兵力

約4,000

約10,000

兵力出典

『三河物語』、『信長公記』などの記述に基づく通説 2

同上 2

拠点

安祥城、上和田城

岡崎城東方の藤川周辺

第二章:血戦の刻 ― 合戦のリアルタイム再現

天文17年3月19日(西暦1548年4月27日)、三河国小豆坂の丘陵地帯は、両軍の兵士が発する熱気と殺気に満たされていた。この日の戦いの推移は、史料の断片を繋ぎ合わせることで、手に汗握る攻防のドラマとして再現することができる。

開戦前夜~未明:静寂の中の進軍

合戦前日、今川軍は岡崎城の東、藤川周辺に陣を敷き、決戦の機を窺っていた。一方、織田信秀は本拠の安祥城から矢作川を渡り、前線拠点である上和田城に入城した 4 。両軍の距離はわずか数キロメートル。戦場の空気は張り詰めていた。

合戦当日、夜が明けきらぬ未明。織田信秀は先手必勝を期し、上和田城を出陣。決戦の場として想定した馬頭原方面へと兵を進めた 4 。奇しくも、ほぼ時を同じくして、太原雪斎率いる今川軍も藤川の陣を払い、西進を開始していた。起伏の多い丘陵地帯を進む両軍は、互いの正確な位置や動きを完全には把握できていなかった 4 。そのため、両軍の先鋒は、計画された会戦というよりも、互いの意図せぬ形で小豆坂において遭遇することになる。戦いは、いわば「遭遇戦」としてその幕を開けた 9

辰の刻(午前8時頃)~:遭遇戦の開始。坂下からの突撃

小豆坂の坂道で、両軍の先鋒が視界に入った瞬間、戦端は切られた。織田信広率いる織田軍先鋒隊は、眼前に坂の上に陣取る今川軍先鋒・朝比奈泰秀の部隊を認めると、躊躇なく突撃を開始した 1 。坂の下から駆け上がる織田勢の鬨の声が、朝の静寂を破った。

しかし、地の利は完全に今川軍にあった。坂の上に陣取る朝比奈隊は、駆け上がってくる織田兵に対し、高所から容赦なく矢を射かけ、投石などでその勢いを削いだ 1 。坂を駆け上がるという物理的な負担に加え、頭上からの攻撃に晒された織田軍先鋒は、浮き足立ち、隊列を乱して一時後退を余儀なくされた。

巳の刻(午前10時頃)~:一進一退の激戦

初戦で手痛い打撃を受けたものの、織田信広は屈しなかった。彼は巧みに部隊を立て直すと、後方から到着した第二陣と合流し、再び今川軍に猛攻を仕掛けた。ここから戦況は、一方が押せば他方が押し返す、一進一退の激しい攻防戦へと移行する 1

織田軍の攻撃は凄まじく、数に劣ることを感じさせないほどの猛威を振るった。今川軍の先鋒を務めた朝比奈隊は、その猛攻に耐えきれず、次第に後退し始めた。一時は、今川方の敗色が濃くなるほど、織田軍が戦いを優勢に進めた 5 。勢いに乗った織田軍は、今川軍を信秀の本陣が構える盗木付近まで押し返すことに成功する 1 。戦場の誰もが、織田軍の勝利を確信しかけた瞬間であった。

午の刻(正午頃)~:転機。雪斎の罠、発動

織田軍が総力を挙げて攻勢を強め、勝利が目前に迫ったかに見えたその時、戦場の流れは劇的な転換を迎える。それは、総大将・太原雪斎が周到に仕掛けた罠が、完璧なタイミングで発動した瞬間であった。

雪斎の真の狙いは、物理的な罠だけでなく、敵の心理を巧みに操ることにあった。彼は、自軍の先鋒が一時的に劣勢になることを計算に入れていた。それは、油断した織田軍をより深く、より無警戒に戦場の中枢へと誘い込むための、計算され尽くした「誘いの兵法」であった。

そして、織田軍が「あと一押しで勝利できる」と信じ込み、予備兵力をも投入して、側面の警戒が最も手薄になった瞬間、雪斎は合図を送った。戦場の側面の丘陵や松林に息を潜めていた伏兵部隊、岡部真幸率いる精鋭が一斉に姿を現し、完全に無防備となっていた織田軍の側面に、怒涛の如く突撃を敢行したのである 1

この予期せぬ側面からの攻撃は、織田軍に物理的な損害を与えた以上に、巨大な心理的衝撃を与えた。「勝てるはずの戦いだったのに、なぜ」という動揺が全軍に広がり、指揮系統は瞬時に麻痺状態に陥った。これが、織田軍が単に後退するのではなく、「総崩れ」となる決定的な要因であった。

未の刻(午後2時頃)~:崩壊と敗走

側面を完全に突かれ、前後から挟撃される形となった織田軍は、大混乱に陥り、組織的な抵抗は不可能となった 1 。織田信秀は、必死に兵を叱咤し、部隊の立て直しを図ろうと試みたが、一度崩壊した流れを食い止めることはできなかった。もはや戦いどころではなく、兵士たちは我先にと逃げ惑う惨状を呈した 5

万策尽きた信秀は、ついに敗北を認め、全軍に撤退を命令した。織田軍は武器や旗を投げ捨て、矢作川を渡って、命からがら拠点である安祥城へと敗走していった 1 。こうして、信秀の三河攻略の野望は、太原雪斎の完璧な戦術の前に、無残に打ち砕かれたのである。

第三章:戦塵の果てに ― 歴史的帰結と意義

小豆坂の戦塵が晴れた後、三河国の勢力図は決定的に塗り替えられた。この一戦の勝利は、今川氏の覇権を確立し、織田氏、そして松平氏の運命に計り知れない影響を及ぼす、歴史的な転換点となった。

三河における勢力図の確定:今川による支配の完成

第二次小豆坂の戦いにおける今川軍の圧勝は、西三河における織田氏の勢力を大きく後退させた 1 。これにより、三河国は事実上、今川氏の支配下に組み込まれることになり、今川義元の覇権は揺るぎないものとなった 7 。戦後、織田と今川の勢力境界線は、尾張国境に近い鳴海城や大高城周辺まで西に押し戻され、この地域が新たな最前線となった 21 。三河は、今川氏にとって尾張侵攻の最前線基地としての役割を担うことになる。

次なる一手:安祥城攻略と人質・竹千代の運命

小豆坂の戦いそのものでは、今川軍は織田の野戦軍を壊滅させたものの、その拠点である安祥城を攻略するには至らなかった 11 。しかし、この勝利は、翌年の安祥城攻略に向けた極めて重要な戦略的布石であった。

小豆坂での敗北により、織田信秀は三河に展開していた野戦軍の主力を失った。これにより、安祥城は後方からの援軍(後詰)を期待できない、完全に孤立した城と化したのである 1 。この状況を好機と見た太原雪斎は、翌天文18年(1549年)、満を持して大軍を率いて安祥城を包囲。城主・織田信広の奮戦も及ばず、城はついに陥落した。

この安祥城攻略の際、雪斎は信広を生け捕りにすることに成功する。これが、織田方で人質となっていた松平竹千代の運命を大きく変えることになった。雪斎は、捕虜とした信広の身柄と、人質である竹千代との交換を織田信秀に提案。信秀は、庶子とはいえ重要な一族である信広を見捨てることはできず、この交換条件を呑まざるを得なかった 3

この一連の流れ、すなわち「小豆坂の勝利」が「織田野戦軍の無力化」と「安祥城の孤立」を招き、それが「安祥城の攻略と信広の捕縛」に繋がり、最終的に「竹千代の奪還」という外交的勝利をもたらしたという因果関係は明白である。小豆坂の一戦は、後の徳川家康の人生を決定づけた、極めて重要な一歩だったのである。

今川氏の全盛と、その後の桶狭間への道

三河国を完全にその版図に加えた今川義元は、駿河・遠江・三河の三国を領有する、東海地方随一の戦国大名へと登り詰めた 8 。「海道一の弓取り」と称される彼の威勢は、この時期に頂点を迎える。

さらに義元は、外交面でも手腕を発揮し、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康との間に甲相駿三国同盟を成立させた 8 。これにより、東方と北方の脅威から完全に解放された義元は、その全力を西、すなわち尾張の織田氏へと向けることが可能となった。この三河支配の安定と、三国同盟による盤石な国際環境こそが、永禄3年(1560年)のあの大規模な尾張侵攻、すなわち桶狭間の戦いを引き起こす直接的な背景となったのである 2

徳川家康の原点:父・広忠の死と苦闘の始まり

小豆坂の戦いが終結した翌年の天文18年(1549年)3月、松平広忠は家臣によって殺害されるという悲劇的な最期を遂げた 3 。当主を失い、跡継ぎである竹千代は今川の人質として駿府にいるという状況下で、岡崎城と松平家臣団は完全に今川氏の管理下に置かれることになった。城には今川の城代が置かれ、松平家臣団は今川軍の先鋒として、常に危険な戦場へと駆り出された。これは、若き日の徳川家康が、自らの力で三河を取り戻し、独立を果たすまでの、長く苦しい雌伏の時代の始まりを象徴する出来事であった。

終章:小豆坂が語るもの

天文17年の第二次小豆坂の戦いは、織田信秀の三河侵攻が頓挫したという単一の事象に留まらない、多層的な歴史的意義を持つ合戦である。

第一に、この戦いは太原雪斎という戦国時代屈指の軍師の、戦術家としての才能が遺憾なく発揮された戦場であった。地形の利を読み、敵将の心理を操り、完璧なタイミングで伏兵を投入するという彼の采配は、まさに芸術の域に達しており、今川義元が「海道一の弓取り」としての地位を確立する上で決定的な勝利をもたらした。

第二に、松平広忠の立場を巡る近年の研究は、この戦いが大国の戦略に翻弄される中小勢力の悲哀を色濃く映し出していることを示唆している。通説の裏に隠された、弱小領主の苦渋の決断に思いを馳せることで、我々は戦国という時代の複雑さと過酷さをより深く理解することができる。

そして何よりも、この戦いがもたらした三河における勢力図の確定は、その後の歴史の潮流を大きく規定した。今川氏の全盛期を現出し、それが12年後の桶狭間の戦いという劇的な結末へと繋がっていく。そして、人質交換によって今川の庇護下に入った竹千代が、その桶狭間を機に独立を果たし、天下統一への道を歩み始めるのである。

小豆坂の古戦場に立つとき、我々は単なる過去の戦闘の跡を見るのではない。それは、一人の軍師の知略、二大勢力の野望、そして後に天下人となる若者の苦難の始まりが刻まれた、日本の歴史における重要な分水嶺なのである。本報告書が、この小豆坂の戦いの歴史的意義を再評価する一助となれば幸いである。

引用文献

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  2. 小豆坂の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  3. 麒麟が来る』にも出てきた!織田軍と今川軍が対峙した「小豆坂の戦い - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/8079
  4. 小豆坂古戦場 - 岡崎市 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/mikawa/shiseki/nishi/azukizaka.k/azukizaka.k.html
  5. 【B-AC003】小豆坂古戦場 - 系図 https://www.his-trip.info/siseki/entry292.html
  6. 竹千代誘拐事件につながる。織田信長の父と徳川家康父との戦い「小豆坂の戦い」の史跡 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/5066
  7. 第二次小豆坂の戦い - 大戦国・年表 https://dai-sengoku-nenpyo.vercel.app/event/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%B0%8F%E8%B1%86%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  8. 今川義元の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34750/
  9. 「小豆坂の戦い(1542, 1548年)」は本当に2度あったのか?今川 ... https://sengoku-his.com/640
  10. 太原雪斎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E9%9B%AA%E6%96%8E
  11. 小豆坂の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/azukizaka-kosenjo/
  12. 家康の父・松平広忠ゆかりの史跡めぐり「小豆坂古戦場跡」「大林寺」「松應寺」 https://favoriteslibrary-castletour.com/okazaki-matsudaira-hirotada/
  13. 太原雪斎は何をした人?「義元を育てた宰相があと少し生きてい ... https://busho.fun/person/sessai-taigen
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  19. 小豆坂Pokyu庵 - About小豆坂 http://home1.catvmics.ne.jp/~yyoshino/AboutAzukizaka.html
  20. 小豆坂古戦場 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/azukizakakosenjo/
  21. 【23】小豆坂合戦ノ図 今川・松平連合軍VS織田信秀の大合戦が信長と濃姫の結婚につながる http://tokugawa-shiro.com/1291
  22. 天文17年(1548)3月19日は太原雪斎率いる今川軍が織田信秀を第二次小豆坂合戦で破った日。この勢いで翌年織田方の安祥城を攻略し織田信広と人質交換で竹千代(家康)を取り戻し西三河の掌握から - note https://note.com/ryobeokada/n/nc6c332bdeddf
  23. 今川家が遠江を支配、戦国大名へ(1497) - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/8379.html
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