最終更新日 2025-08-28

山中城の戦い(1590)

天正十八年、北条流築城術の粋山中城は、豊臣秀次・徳川家康の大軍に半日で陥落。この衝撃は北条氏の士気を砕き、小田原征伐の帰趨を決定づけた。戦国終焉を告げる一戦なり。

日本の戦国時代における山中城の戦い(1590年):詳細調査報告書

第一章:序論 ― 天下統一最終戦の幕開け

天正18年(1590年)3月29日に行われた山中城の戦いは、単なる一地方の城を巡る攻防戦ではない。それは、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げである「小田原征伐」の序盤において、戦役全体の帰趨を決定づけた極めて重要な戦闘であった。この戦いを理解するためには、後北条氏と豊臣政権との間に横たわる、根本的な価値観と政治秩序の対立から紐解く必要がある。

第一節:豊臣政権の秩序と北条氏の独立性

豊臣秀吉は、関白として天皇の権威を背景に、日本全土に新たな秩序を構築しようとしていた。その核心にあったのが、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」である 1 。これは、すべての領土紛争を豊臣政権の裁定に委ねさせることで、中央集権的な統治体制を確立しようとする画期的な政策であった。この命令に従うことは、すなわち豊臣政権の絶対的な権威を認めることを意味した。

一方、後北条氏は、初代・北条早雲以来約100年にわたり関東に一大勢力圏を築き上げ、独自の支配体制を確立した独立王国ともいえる存在であった 3 。彼らにとって、秀吉への臣従は避けられない潮流と認識しつつも、それは対等に近い形での同盟、あるいは可能な限り有利な条件を引き出した上での服属であるべきだと考えていた 1 。この両者の関係性は、秀吉が求める「絶対的な服従」と、北条氏が望む「条件付きの臣従」との間の埋めがたい溝を内包していた。この根本的な認識の相違が、来るべき軍事衝突の遠因となる。

第二節:名胡桃城事件 ― 破局への引き金

両者の緊張関係が決定的に破綻する引き金となったのが、天正17年(1589年)に発生した名胡桃城事件である 1 。秀吉の裁定により真田昌幸の所領と定められた上野国の名胡桃城を、北条氏の家臣である沼田城代・猪俣邦憲が軍事的に奪取した 3

この行為は、惣無事令への明確かつ公然たる違反であり、秀吉に北条氏討伐の完璧な口実を与えることになった 2 。北条氏側は「軍事行動ではない」と弁明したが 1 、これは事件の持つ政治的な重大性を完全には理解していなかった可能性を示唆している。彼らにとっては地域の領土紛争の延長線上の出来事であったかもしれないが、秀吉にとっては全国統治の根幹を揺るがす許しがたい挑戦であった。秀吉はこの事件を「天道の正理に背く」行為として厳しく断罪し、天正17年11月には北条氏への宣戦布告状を発するに至った 3 。この一地方での偶発的とも見える事件が、結果的に関東の名門・後北条氏を滅亡へと導く、致命的な戦略的失敗となったのである。

第三節:小田原征伐の全体戦略と山中城

秀吉は、北条氏討伐に際して約22万という空前の大軍を動員した 2 。その戦略は、徳川家康らを主力とする東海道を進む本隊と、前田利家・上杉景勝らが率いる東山道を進む北方隊の二方面から関東に侵攻する、大規模な包囲殲滅戦であった 4 。また、20万石もの兵糧を事前に準備するなど、兵站にも万全を期しており、その物量は北条氏の想定を遥かに超えるものであった 4

対する北条氏は、上杉謙信や武田信玄の猛攻すら退けた難攻不落の本拠地・小田原城での籠城を基本戦略とした 3 。そして、その防衛線を確固たるものにするため、箱根山系の各支城を徹底的に改修・強化した 4 。その中でも山中城は、東海道を完全に扼する(やくす)箱根路の西の玄関口であり、小田原防衛における最重要拠点と位置づけられていた 5 。北条氏にとって山中城の防衛は、小田原城での長期籠城を成功させるための時間を稼ぐという、戦略上不可欠な要素であった。秀吉にとってもまた、この城を迅速に攻略することは、北条氏の防衛戦略そのものを粉砕し、圧倒的な力の差を見せつけるための重要な一歩であった。この城の帰趨が、戦役全体の流れを決定づけることを、両軍ともに深く認識していたのである。

第二章:北条流築城術の粋 ― 要塞・山中城の構造分析

山中城は、単なる土塁と堀で構成された砦ではない。それは、後北条氏が約100年にわたる関東での実戦経験から編み出した「北条流築城術」の粋を集めた、当時の最先端技術の結晶であった。特に、その象徴ともいえる畝堀(うねぼり)と障子堀(しょうじぼり)は、敵兵の戦闘能力を無力化するために設計された、極めて高度な防御施設であった。

第一節:「境目の城」としての設計思想

山中城は、豊臣軍の侵攻を想定して急遽、大規模な改修が施された城である。そのため、大名が居住する本拠地の城とは異なり、恒久的な居住施設よりも戦闘機能に特化した「境目の城」としての性格が極めて強い 7 。その縄張りは、箱根の険しい自然地形を最大限に活用し、曲輪を巧みに配置することで、防御力を高めている 8

後北条氏の築城術は、支配領域を拡大していく過程で、常に最前線の城に最新技術が投入されることで発展してきた 10 。山中城は、まさにその時点での最新・最強の防御思想を体現した城郭であった。居住性を犠牲にしてまで防御施設を優先した構造 12 は、この城が長期籠城を目的とするのではなく、短期決戦において敵に最大限の損害を与え、その進軍を遅滞させることを至上命題としていたことを明確に物語っている。

第二節:防御の核 ― 畝堀と障子堀の徹底解説

山中城の防御思想を最も象徴するのが、石垣を一切用いず、土を掘り、盛り、固めることで構築された畝堀と障子堀である 9

  • 畝堀(うねぼり)
    畝堀は、空堀の底に、畑の畝のように土の障壁を直角に何本も掘り残したものである 9。敵兵が堀を渡るためには、この幅が狭く不安定な畝の上を一列になって進むことを強いられる 14。これにより、守備側は攻撃目標を一点に集中させることができ、効率的に敵兵を排除することが可能となる。
  • 障子堀(しょうじぼり)
    障子堀は、畝堀をさらに複雑化させ、堀の内部を障子の桟のように格子状に区画したものである 13。堀に侵入した敵兵は、この複雑な構造によって方向感覚と移動の自由を完全に奪われる。各区画は孤立しており、兵士が連携して行動することを物理的に不可能にする 14。

これらの堀は、関東ローム層の滑りやすい土が剥き出しになっており、場所によっては深さが9メートルにも達した 7 。一度落下すれば、急峻な斜面を自力で這い上がることはほぼ不可能であり、まさに「蟻地獄」そのものであった 7 。畝堀と障子堀は、単なる物理的な障害物ではない。それは、敵兵をあえて堀の中に誘い込み、そこで組織的な戦闘行動を不可能にさせ、心理的な混乱に陥れて殲滅するという、極めて高度な戦術思想の産物であった。

第三節:鉄砲戦を想定した土塁と虎口

山中城の構造は、戦国末期の主要な武器となった鉄砲の効率的な運用を前提として設計されていた。岱崎出丸などにみられる土塁は、兵士がその上に乗って戦うためのものではなく、鉄砲を撃つ際の胸壁(弾除け)として機能するように、意図的に低く作られている 15

射手は、この土塁に身を隠しながら火縄銃に弾と火薬を込める。そして、撃つ瞬間だけ身を乗り出して引き金を引くという戦法を取る 15 。これにより、火縄銃の最大の弱点である装填時の無防備な時間を最小限に抑え、持続的な射撃を可能にした。城の出入り口である虎口(こぐち)も、敵兵を狭い空間に誘い込んで集中砲火を浴びせるための枡形虎口(ますがたこぐち)などが採用されており 11 、城全体が一個の巨大な射撃陣地として構想されていたことがわかる。この先進的な設計思想こそが、豊臣軍の歴戦の将である一柳直末を討ち取るほどの絶大な威力を発揮したのである。

第三章:両軍の対峙 ― 開戦前夜の情勢

天正18年3月29日の夜明け前、山中城を巡る両軍の配置は完了した。その戦力差は歴然としており、この戦いが当初から極めて非対称なものであったことを示している。

第一節:豊臣軍の編成と進軍

山中城攻略軍の総大将は、秀吉の甥であり後継者と目されていた豊臣秀次(羽柴秀次)であった 5 。その麾下には、中村一氏、堀秀政、一柳直末、山内一豊、田中吉政といった、秀吉子飼いの歴戦の将たちが名を連ねていた。さらに、徳川家康の部隊も別働隊として展開しており 4 、山中城に差し向けられた総兵力は約6万8千という圧倒的な規模に達した 5

秀吉本隊が京の聚楽第を出陣したのが3月1日、そして先発隊である秀次や家康の軍勢は、翌3月2日には早くも目標地点である沼津や黄瀬川(現在の静岡県長泉町)に着陣している 6 。そこから約一ヶ月をかけて、周到に包囲網を形成し、満を持して3月29日の総攻撃の日を迎えた。豊臣軍の編成と進軍は、単なる寄せ集めの大軍ではなく、方面軍ごとに明確な攻撃目標が割り当てられた、組織的かつ近代的な軍事行動であった。

第二節:北条軍の防衛体制

対する北条軍の総兵力は、約4千から5千程度であったと推定されている 5 。豊臣軍との兵力差は、実に10倍以上という絶望的なものであった。

防衛の指揮を執るのは、城将の松田康長。彼は北条氏の筆頭家老・松田憲秀の甥にあたるベテラン武将であった 5 。そして、援軍の将として、北条氏一門であり相模国玉縄城主の北条氏勝が入城していた 5 。その他、間宮康俊、多米長定といった武将たちが各所の守備を担当した 16

布陣は、城将・松田康長が城の中枢である本丸で全軍を指揮し、援将・北条氏勝は二ノ丸(別名、北条丸)に控えていた 12 。氏勝の部隊は、豊臣軍が攻めあぐねて疲弊したところを側面から突く、予備兵力(逆襲部隊)としての役割が期待されていた 12 。そして、豊臣軍の主攻が予想される最前線、南に突出した岱崎出丸の守備は、氏勝配下の精鋭である玉縄衆が主力となって固めていた 15 。この配置は、寡兵で大軍を迎え撃つための定石であったが、その戦術が機能するためには、最前線が「ある程度の時間、持ちこたえる」ことが絶対条件であった。

第三節:戦力比較表

開戦直前の両軍の戦力を比較すると、その非対称性は以下の表の通り、一目瞭然である。

項目

豊臣軍

北条軍

総大将

豊臣秀次

(城将)松田康長

主な武将

中村一氏、堀秀政、一柳直末、山内一豊、田中吉政、徳川家康(別働隊)

北条氏勝(援将)、間宮康俊、多米長定、長谷川近秀

総兵力

約68,000

約4,000

第四章:天正十八年三月二十九日 ― 山中城、半日の攻防(時系列解説)

天正18年3月29日、箱根の山々に陽光が差し込み始めると同時に、日本の歴史を大きく動かすことになる半日の激闘の火蓋が切られた。

午前6時頃(払暁):総攻撃開始

夜明けとともに、山中城を幾重にも包囲した豊臣軍6万8千が一斉に鬨の声を上げた 6 。その凄まじい雄叫びは、山々を震わせ、城内の北条兵の肝を冷やさせたであろう。攻撃は、岱崎出丸、大手口、西ノ丸など、複数の方面から同時に開始された。北条軍に逃げ場はなく、絶望的な防衛戦が始まった。

午前7時~9時頃:最前線の激闘

戦闘は、城の最前線である岱崎出丸と大手口で、序盤から極めて激しいものとなった。

  • 岱崎出丸の攻防
    城の最南端に位置し、最も敵の攻撃を受けやすい岱崎出丸には、豊臣秀次直属の中村一氏が率いる部隊が主攻となって殺到した 15。守るは北条氏勝配下の玉縄衆である 15。豊臣兵は、名物の障子堀に殺到するが、その複雑な構造に行く手を阻まれ、身動きが取れなくなったところを、城内からの鉄砲や弓矢で次々と射倒された。しかし、豊臣軍は圧倒的な兵力を背景に、損害を全く意に介さなかった。後続の兵が味方の屍を乗り越え、力ずくで堀を突破しようと、波状攻撃を繰り返した 15。
  • 大手口の悲劇
    城の正面玄関にあたる大手口には、中村一氏の同僚であった猛将・一柳直末の部隊が突撃を敢行した 15。しかし、彼らを待ち受けていたのは、北条流築城術の真価であった。土塁に身を隠した北条軍の鉄砲隊から猛烈な十字砲火を浴び、先頭に立って指揮を執っていた一柳直末自身が狙撃され、戦死するという衝撃的な事態が発生した 15。歴戦の勇将の戦死は、山中城の防御設計がいかに有効に機能していたかを証明するものであった。後にこの場所を通過した渡辺勘兵衛の記録によれば、大手口の前には突入に失敗した一柳隊の兵士たちの死傷者が数十人も転がっていたという 15。

午前9時~11時頃:均衡の崩壊

序盤の戦術的成功にもかかわらず、北条軍の防衛線は一人の男の活躍によって、脆くも崩れ去る。その男こそ、中村一氏の家臣、渡辺勘兵衛であった。

勘兵衛は、一柳隊が壊滅した大手口の惨状を見て、正面からの力押しは無謀と判断した。彼は戦場の状況を冷静に分析し、防御が比較的薄いと見られる城の側面へと回り込んだ 19 。そして、逆茂木を乗り越え、二階門の扉を破って三ノ丸への侵入に成功する 16 。彼が一番乗りを果たしたことで 5 、鉄壁と思われた城の防御線に、蟻の一穴が開いたのである。

この突破口から、豊臣軍の兵士たちが堰を切ったように城内へと乱入。岱崎出丸、三ノ丸が相次いで攻略された。二ノ丸(北条丸)に布陣し、逆襲の機を窺っていた北条氏勝は、眼下で自らの精鋭である玉縄衆が圧倒的な大軍に飲み込まれていくのを、為す術もなく見守るしかなかった 12 。予備兵力としての役割を果たす前に、戦線そのものが崩壊してしまったのである。

正午過ぎ:落日の本丸と落城

昼を過ぎる頃には、戦いの舞台は最後の防衛線である本丸へと移っていた。

本丸では、城将・松田康長以下、残存兵力が最後の抵抗を試み、四方から乱入してくる豊臣兵と壮絶な白兵戦を展開した 12 。渡辺勘兵衛の記録によれば、敵味方が互いに組み合ったまま、土塁の上から背後の深い堀へと次々と転げ落ちていく、凄惨な光景が繰り広げられたという 12

もはや落城は時間の問題であった。死を覚悟した松田康長は、最後の務めとして、北条氏一門である北条氏勝を説得し、城から脱出させた 12 。これは、玉縄城主である氏勝を生還させ、今後の防衛戦に備えさせるための、戦略的な判断であった。そして康長自身は、本丸の奥にある一段高い櫓台で最後まで指揮を執ったが、衆寡敵せず、壮絶な討ち死を遂げた 12

その直後、一番乗りを果たした渡辺勘兵衛が、主君・中村一氏の馬印を本丸の櫓に高く掲げた 16 。これにより、山中城の陥落が全軍に知れ渡った。秀吉が後に「瞬く間に攻め崩した」と報告した通り 15 、北条流築城術の粋を集めた鉄壁の要塞は、わずか半日の戦闘で完全に陥落したのである 5

第五章:結論 ― 山中城陥落の衝撃と歴史的意義

山中城の半日での陥落は、単に一つの城が失われたという事実にとどまらず、後北条氏の戦略と士気を根底から覆し、小田原征伐全体の帰趨を事実上決定づけた、極めて重大な出来事であった。

第一節:北条氏に与えた心理的打撃

かつて上杉謙信や武田信玄といった名将の攻撃すら退けた難攻不落の小田原城を誇りとしてきた北条氏にとって、その西の護りであり、最新最強の要塞であるはずの山中城が、わずか数時間で陥落したという事実は、深刻で重い衝撃となった 3

この報は、籠城する小田原城内に瞬く間に伝わり、将兵の士気を著しく低下させた。「あの山中城ですら半日で落ちたのだから、他のどの城も持ちこたえられないのではないか」という絶望感が、北条陣営全体に蔓延したのである。結果として、豊臣方に内通したり、戦わずして降伏したりする者が現れ始める原因となった 24 。これは物理的な敗北以上に、北条氏の籠城戦略そのものが前提から崩壊した、決定的な心理的敗北であった。

第二節:戦国末期の城郭攻防戦における教訓

山中城の戦いは、戦国時代の城郭のあり方が大きな転換点を迎えたことを示している。畝堀や障子堀、鉄砲戦を想定した土塁といった山中城の防御施設は、従来の戦国大名同士の戦い、すなわち同程度の兵力や兵站能力を持つ敵との戦闘においては、極めて有効であった。しかし、豊臣秀吉が動員したような、国家規模の圧倒的な「物量」と、それを支える高度な「兵站」の前には、その限界を露呈した 7

巧妙な縄張りや特殊な堀といった「技術」だけでは、もはや戦争の勝敗を決することはできなくなったのである。城の価値は、それ自体が持つ防御力だけでなく、それを支える国家全体の総合力によって決定づけられる時代へと移行した。この戦いは、戦国時代の終焉と、近世的な統一権力による戦争の時代の到来を告げるものであった。

第三節:豊臣政権の軍事力の誇示

秀吉は、山中城での圧倒的な勝利を、まだ抵抗を続ける関東の諸大名や、遠く奥州で天下の形勢を窺っていた伊達政宗などに対する、強烈なデモンストレーションとして最大限に活用した。豊臣軍の近代的な兵力運用、特に大量の鉄砲を用いた制圧力と、それを可能にする兵站能力は、旧来の戦国大名の常識を遥かに超えるものであった 26

山中城の戦いは、豊臣政権がもはや一個の戦国大名ではなく、日本全土を動員できる中央政権であることを天下に示した象徴的な戦いであった。この勝利によって、秀吉の天下統一は事実上、決定的なものとなったのである。

第六章:合戦を彩った人々 ― 逸話と伝承

歴史は、大局的な戦略や戦術だけで語られるものではない。山中城の戦いという大きな歴史のうねりの中で生きた個々の人物の逸話は、この戦いの人間的な側面を今に伝えている。

第一節:一番槍の功名 ― 渡辺勘兵衛

山中城攻略の最大の功労者であり、一番乗りの武功を挙げた渡辺勘兵衛了(わたなべかんべえさとる)は、戦国武士の複雑な生き様を体現する人物である 21 。彼はこの戦いで華々しい活躍を見せたが、戦後の恩賞配分に不満を持ち、主君・中村一氏のもとを憤然と出奔したという逸話が残っている 16 。彼の武勇と、その後の不遇ともいえる経歴は、実力主義が支配する一方で、主君との関係性や忠誠心が複雑に絡み合う戦国武士の現実を浮き彫りにしている。

第二節:間宮一族の忠義と悲劇

城将の一人として奮戦した間宮康俊にまつわる逸話は、戦いの悲劇性を物語っている。康俊は、豊臣の大軍を前に自らの討死を覚悟した上で、一族の血を絶やさぬよう、まだ15歳の孫・彦次郎を諭し、説得して小田原へと落ち延びさせた 27 。武士としての忠義を尽くして城と運命を共にすることと、一族の未来を存続させるという二つの責務の間で葛藤する康俊の姿は、この戦いが多くの個人的な悲劇の上に成り立っていたことを示している。

第三節:戦没者の鎮魂と後世への継承

戦いの記憶は、勝敗の記録としてだけでなく、死者への慰霊と平和への願いとして後世に語り継がれている。その象徴が、山中城址の三ノ丸跡に建立された宗閑寺(そうかんじ)である 16 。この寺は、戦後、間宮康俊の娘であり、後に徳川家康の側室となったお久の方が、敵味方の区別なく、この戦いで命を落とした全ての戦死者を弔うために建立したものである 16

その境内には、城将・松田康長や間宮一族ら北条方の武将の墓と共に、豊臣方で戦死した一柳直末の墓も並んで存在する 16 。かつて死闘を繰り広げた両軍の将兵が、同じ場所で静かに眠っているという事実は、戦いの無常さと、それを乗り越えようとした後世の人々の思いを静かに伝えている。

引用文献

  1. 【3万5千 VS 22万】小田原征伐|北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由 https://sengokubanashi.net/history/odawara-seibatsu/
  2. 徳川家康の「小田原合戦」|家康が関東転封になった秀吉の北条征伐【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1131745
  3. 小田原征伐 ~豊臣秀吉の北条氏討伐 - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/odawara-seibatu.html
  4. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  5. 山中城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/YamanakaJou.html
  6. (第341号)山中城の戦いの前史(平成28年10月1日号)|三島市 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn028630.html
  7. 山中城跡環境整備事業|三島市 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn000956.html
  8. なぜ秀吉は小田原城をあっという間に落とせたのか…戦国時代最強の防御力を誇った小田原城の意外な弱点 城そのものではなく、籠城している人間を揺さぶった - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/74397?page=1
  9. 北条流築城技法を示す<山中城> https://sirohoumon.secret.jp/yamanakajo.html
  10. 【北条流築城術により新守谷城】 - ADEAC https://adeac.jp/moriya-lib/text-list/d100050/ht000550
  11. お城の歴史 戦国時代③ 土の城の王者・北条氏の築城術とは!? https://japan-castle.website/history/sengoku3/
  12. 豊臣と北条の壮絶な攻防戦を追体験?山城ビギナーでも楽しめる ... https://www.synchronous.jp/articles/-/2463
  13. 畝堀と障子堀 | 山中城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/64/memo/1784.html
  14. 【日本100名城】美しすぎる北条の城『山中城』障子堀など見どころ満載! - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/building/yamanakajo/
  15. 豊臣秀吉は戦国最強の防禦力を誇る山城・山中城をどのように攻略 ... https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/77060
  16. 古城の歴史 山中城 http://takayama.tonosama.jp/html/yamanaka.html
  17. 芸術的な障子堀を持つ山中城をご紹介(後編)|ゆうさい - note https://note.com/shiro_asobi/n/n45eb611e4929
  18. 豊臣秀吉は戦国最強の防禦力を誇る山城・山中城をどのように攻略したのか? - シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/2462
  19. (第411号)勘兵衛が見た山中城(1)(令和4年9月1日号) - 歴史の小箱 | 三島市郷土資料館 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/publication/pub_kobako052651.html
  20. (第411号)勘兵衛が見た山中城(1)(令和4年9月1日号) - 三島市 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn052651.html
  21. 山中城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/yamanaka.j/yamanaka.j.html
  22. 山中城跡 --- 三島市観光ガイド『駿河湾 百景』 https://www.surugawan.net/guide/162.html
  23. 山中城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%9F%8E
  24. 北条氏政・氏直と小田原征伐:後北条氏100年の滅亡、その理由と歴史的背景を徹底解説 https://sengokubanashi.net/history/hojoujimasa-2/
  25. 超入門!お城セミナー 第63回【武将】北条氏の小田原城はなぜ難攻不落と呼ばれるの? https://shirobito.jp/article/763
  26. なぜ鉄砲 が急速に普及したのか、鉄砲は何を変えたのか - 戦国リサーチノート by 攻城団 https://research-note.kojodan.jp/entry/2025/05/01/142211
  27. 山中城秘話 - 三島市 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn000333.html