最終更新日 2025-08-25

山崎の戦い(1582)

天正十年、本能寺の変後、羽柴秀吉は「中国大返し」で神速の進軍。山崎の戦いで明智光秀を破り、信長の仇を討ち天下の主導権を掌握した。この勝利は、秀吉の天下統一への第一歩となった。

山崎の戦い(天正十年):羽柴秀吉、天下への階梯

第一章:本能寺の変、そして運命の11日間

天正十年(1582年)6月2日、京都・本能寺に滞在していた天下人、織田信長が、その腹心であったはずの明智光秀の謀反によって斃れるという、日本史上未曾有の政変が発生した。この「本能до-jiの変」は、統一目前であった天下を再び混沌の渦に突き落とすと同時に、歴史の主役を新たな人物へと引き継ぐ、壮大なドラマの序曲であった。信長の死という権力の真空状態を、誰が、いかにして埋めるのか。その答えを導き出したのが、変報からわずか11日後に繰り広げられた「山崎の戦い」である。

第一節:発端:凶報、備中高松に届く

本能寺の変が起きたその時、羽柴秀吉は織田軍団の中国方面軍司令官として、備中高松城にて毛利氏の大軍と対峙していた 1 。秀吉は黒田官兵衛の献策による水攻めの最中であり、戦況は膠着状態にあった 1

この遠隔の地に、京の凶報が届いたのは、6月3日夜半から4日未明にかけてのこととされている 2 。情報伝達の速さが、秀吉の初動を決定的に早めた 4 。主君信長の横死という絶望的な報に接しながらも、秀吉と官兵衛は即座にこれを最大の好機と捉え、驚くべき速度で行動を開始する。

彼らがまず行ったのは、信長の死を徹底的に秘匿し、眼前の敵である毛利氏との迅速な和睦交渉であった 1 。もし信長の死が毛利方に伝われば、和睦どころか一気に攻め滅ぼされる危険性があった。秀吉は、備中高松城主・清水宗治の自刃を条件に、毛利方に有利な条件を提示し、6月4日には和睦を成立させる 1 。この情報統制と外交手腕こそ、後に「神業」と称される「中国大返し」の前提条件を整える、最初の、そして最も重要な一手であった。

第二節:神速の進軍「中国大返し」

毛利軍の撤退を確認した秀吉軍は、6月5日から6日にかけて撤兵を開始し、主君の仇・明智光秀を討つべく、京へと向かう空前の強行軍を開始した 2 。備中高松から決戦の地・山崎までの約210キロメートルの道のりを、わずか8日間で踏破したのである 6

この行軍は、単なる速度の記録に留まらない、周到な計画と情報戦に裏打ちされた戦略的機動であった。

  • 過酷な行程 : 6月6日から7日にかけて、秀吉軍は折からの豪雨と増水した河川を乗り越え、難所である船坂峠を越えて沼城から姫路城までの約70キロメートルを走破した 1 。この驚異的な進軍を支えたのは、秀吉が信長の中国親征に備え、事前に兵糧や休息所を街道沿いに整備していたため、という説もある 8
  • 兵力の増強 : 6月11日、尼崎に到着した秀吉は、ここで髻(もとどり)を切り、信長への弔意と、光秀討伐への不退転の決意を全軍に示すという巧みな演出を行った 9 。翌12日には富田に進軍し、ここで池田恒興、中川清秀、高山右近といった摂津の諸将と合流する 6 。これにより、秀吉軍の兵力は2万数千から一気に4万近くまで膨れ上がった 8
  • 巧みな情報戦 : 秀吉は道中、味方となりうる諸将に対し、「上様(信長)と殿様(信忠)は何事もなく切り抜けなされ、膳所ヶ崎まで退かれた」といった偽情報を流し、動揺を防ぎつつ自陣営への参加を促すなど、巧みな情報戦を展開していた 6

秀吉の「中国大返し」の真の価値は、単なる物理的な移動速度ではない。それは、光秀が畿内で政治的基盤を固めるための「時間」を根こそぎ奪い去った点にある。光秀が味方を募るための交渉を行っているまさにその最中に、秀吉はすでに圧倒的な兵力を率いて目前に迫っていた。これにより、細川藤孝や筒井順慶のような日和見を決め込む勢力は、「どちらが勝ち馬か」を判断する上で、極めて明確な指標を与えられたのである。秀吉の神速の進軍は、一種の雪崩現象を引き起こした。戦国武将が自家の存続を第一に考える以上、主君殺しの汚名を着て味方が集まらない光秀よりも、信長の三男・信孝という大義名分を伴って進軍する秀吉に付く方が、はるかに合理的であった。秀吉の「速度」は、敵の戦力を物理的に削ぐのではなく、敵の「味方になる可能性のある勢力」を心理的に削ぎ落としていった。これは、戦いが始まる前に勝敗の趨勢を決定づけた、高度な戦略的機動であったと言える。

【表1】中国大返し行程表

日付(天正10年)

主要地点(出発地 → 到着地)

推定移動距離

天候・特記事項

6月4日

備中高松

-

毛利氏と和睦成立。清水宗治自刃。

6月5日

備中高松 → 沼城

約23 km

撤兵開始。

6月6日

沼城 → (西片上泊)

-

全軍撤退開始。

6月7日

(西片上) → 姫路城

約70 km

大雨、疾風の中を強行軍 6

6月8日

姫路城滞在

-

軍勢の再編と休息。

6月9日

姫路城 → 明石

約35 km

昼過ぎに明石着陣 6

6月10日

明石 → 兵庫

約17 km

-

6月11日

兵庫 → 尼崎

約25 km

午前中に尼崎着陣。弔意を示す 6

6月12日

尼崎 → 富田

約28 km

摂津衆(池田、中川、高山ら)と合流 6

6月13日

富田 → 山崎

約10 km

昼頃、山崎に着陣。決戦へ 6

第三節:光秀の誤算:孤立する反逆者

一方の明智光秀は、本能寺の変の後、決して無策だったわけではない。彼はまず、織田軍団最強と目される柴田勝家軍の南下に備え、近江を平定し、信長の本拠地であった安土城を掌握した 6 。これは戦略的には合理的な判断であったが、結果として中央での味方作りが後手に回る原因となった。

光秀にとって最大の誤算は、与力として共に戦ってきた畿内の有力大名たちが、ことごとく彼に靡かなかったことであった。

  • 細川家の離反 : 光秀は、娘婿である細川忠興とその父・藤孝(幽斎)が味方になることを確信していた節がある 12 。しかし、藤孝は信長への深い恩義を理由に即座に剃髪して弔意を示し、光秀の娘である玉(ガラシャ)を丹後の味土野に幽閉して、光秀との決別を明確にした 12 。これは、主君殺しの「逆賊」には与しないという、断固たる政治的表明であった。
  • 筒井順慶の日和見 : 大和の筒井順慶もまた、光秀が頼みとした武将であった 12 。光秀は再三にわたり協力を要請するが、順慶は秀吉と光秀の間で態度を決めかね、居城の郡山城で籠城の準備を進めるのみであった 11 。光秀が山城と大和の国境にある洞ヶ峠で順慶の来援を待ったものの、ついに順慶は現れなかったという逸話は、優柔不断な態度を指す「洞ヶ峠を決め込む」という言葉の語源となった 8 。最終的に順慶は秀吉方につくことを決断する。

6月10日、光秀の元に秀吉がすでに尼崎に迫っているとの報が届く 1 。予想を遥かに超える進軍速度に、光秀は狼狽したであろう。この時点で、十分な迎撃態勢を整える時間は失われた。彼は急遽、淀城と勝龍寺城の修築に着手するが、準備不足のまま決戦に臨むことを余儀なくされたのである 1

第二章:決戦前夜、山崎の対峙

6月12日、両軍はついに決戦の地、山崎で対峙する。この地の地理的特性と、それに基づいて両軍が構築した布陣は、合戦の様相を決定づける重要な要素であった。

第一節:戦場の地政学:天王山が持つ意味

山崎の地は、北に天王山、南に淀川とその支流や広大な沼沢地が迫る、幅の狭い地形、すなわち隘路である 1 。京と西国を結ぶ大動脈、西国街道がこの隘路を貫いており、古来より交通、経済、そして軍事の要衝として幾度となく戦いの舞台となってきた 15

この地形において、標高約270メートルの天王山は、戦場全体を俯瞰できる決定的な制高点であった 15 。ここを確保することは、敵部隊の配置や動きを手に取るように把握し、戦術的に優位に立つことを意味した 18 。後の世に「天下分け目の天王山」という言葉が生まれるほど、この山の確保が戦いの趨勢を左右すると、両将は認識していたのである 15

第二節:両軍の布陣:戦力と配置の比較

決戦に臨む両軍の兵力には、絶望的なまでの差があった。羽柴軍が約4万であるのに対し、明智軍は味方の糾合に失敗し、約1万6千に過ぎなかった 1 。この2倍以上の兵力差が、両軍の戦略を規定した。

  • 明智軍の防御陣 : 兵力で劣る光秀は、地形の利を最大限に活かす防御戦術を選択した。円明寺川(現在の小泉川)を天然の堀として防御線を張り、隘路の出口に蓋をする形で布陣した 8 。本陣は後方の御坊塚(恵解山古墳説などがある)に置き、最前線には腹心の斎藤利三や阿閉貞征らを配置 1 。その狙いは、縦長の陣形で攻め寄せてくるであろう秀吉の大軍を、この狭い空間で足止めし、各個に撃破することにあった 1 。これは、劣勢の軍が取りうる、極めて合理的かつ堅実な作戦であった。
  • 羽柴軍の攻撃陣 : 対する秀吉は、その数的優位を活かすべく、攻撃的な布陣を敷いた。本陣を天王山山麓の宝積寺に構え、全軍を大きく三手に分けた 11 。左翼(山手側)には弟の羽柴秀長と軍師の黒田官兵衛、中央には高山右近、中川清秀、堀秀政ら、そして右翼(川手側)には織田家譜代の重臣である池田恒興とその子・元助らを配置した 11 。この布陣は、光秀の防御陣に対し、①天王山の確保による情報的優位、②多正面への展開による敵の判断の遅延、③側面攻撃という奇策の準備、という三重の対策を講じるものであった。戦いは、両軍が陣を構えた段階で、すでに秀吉の術中にはまりつつあったのである。

【表2】山崎の戦い 両軍戦闘序列(オーダー・オブ・バトル)

陣営

総大将

部隊区分

主要武将

推定兵力

配置場所

羽柴軍

羽柴秀吉

本陣

羽柴秀吉

-

天王山・宝積寺

左翼(山手)

羽柴秀長、黒田官兵衛

約15,000

天王山山麓

中央

高山右近、中川清秀、堀秀政

約10,000

旧西国街道筋

右翼(川手)

池田恒興、池田元助、丹羽長秀、織田信孝

約15,000

淀川沿い

総兵力

約40,000

明智軍

明智光秀

本陣

明智光秀

-

御坊塚古墳

右翼(山手)

松田政近、並河易家

約2,000

天王山方面

中央(先鋒)

斎藤利三、阿閉貞征

約5,000

円明寺川対岸

左翼(川手)

伊勢貞興、津田信春、御牧兼顕

約4,000

淀城方面

後詰

明智秀満

約5,000

勝龍寺城周辺

総兵力

約16,000

第三章:山崎の戦い:合戦のリアルタイム再現

天正十年六月十三日、この日の天候は雨であったと伝わる 20 。湿った空気が両軍の間に垂れ込める中、日本の未来を決する戦いの火蓋が切られようとしていた。

第一節:午前:天王山、前哨戦の火蓋

本格的な戦闘に先立ち、13日の早朝、戦場の趨勢を占う天王山の確保を巡って、両軍の先遣隊が激突した 6 。明智軍の松田政近が率いる約1,000の兵が山頂を目指して進軍する。これに対し、秀吉軍からは堀尾吉晴がわずか200名の兵を率いてこれを迎撃した。兵力では劣るものの、堀尾隊は弓や鉄砲を巧みに用いた激戦の末、松田隊を撃退し、天王山の山頂確保に成功する 6 。麓でも堀秀政の部隊が松田隊の残党を攻撃し、これを壊滅させた 6 。この早朝の勝利は、秀吉軍全体の士気を大いに高め、幸先の良い開戦を飾るものであった。

第二節:午後4時、開戦

昼過ぎまで両軍は睨み合いを続けていたが、ついに戦端が開かれたのは申の刻、午後4時頃であった 11

開戦のきっかけは、秀吉軍の中央に位置する中川清秀隊が、隣の高山右近隊との連携を密にするために陣形を整えようと移動した、その瞬間であった。この動きを好機と見た明智軍の伊勢貞興隊が、突如として中川隊に襲いかかったのである 1

これを合図に、明智軍の主力を担う斎藤利三の部隊が、高山右近隊に猛然と攻撃を開始した 1 。斎藤利三は光秀配下随一の猛将として知られ、その猛攻は凄まじく、高山・中川両隊はたちまち苦戦に陥り、一時は後退を余儀なくされるほどの激戦となった 1 。しかし、秀吉は即座に本陣から堀秀政らを増援として送り込み、かろうじて戦線を維持。戦況は一進一退の膠着状態に陥った 1

第三節:午後5時頃、戦局の転換点

膠着状態が約1時間続いた後、この戦いの勝敗を決定づける、天才的な一手が放たれる。秀吉軍の右翼、淀川沿いに布陣していた池田恒興・元助父子の部隊が、誰にも気づかれぬよう密かに円明寺川を渡り、明智軍の側面に回り込むことに成功したのである 11

この動きは、光秀の戦術的前提そのものを破壊するものであった。正面からの攻撃を想定し、隘路に全神経を集中していた明智軍にとって、予期せぬ側面からの攻撃はまさに青天の霹靂であった。池田隊の奇襲は、明智軍の左翼を守っていた津田信春の部隊を直撃し、これを瞬く間に潰走させた 11

この側面攻撃は、単なる奇襲以上の効果をもたらした。堅固な防御陣も、それを迂回する機動力と、敵の意表を突く戦術的柔軟性の前には無力となりうる。池田隊の行動は、物理的に敵陣を崩しただけでなく、光秀の戦術を根底から覆し、「包囲されるかもしれない」という恐怖を兵士たちに植え付け、心理的なパニックを引き起こしたのである。

第四節:午後6時頃、総崩れ

側面を突かれ、明智軍本隊に致命的な動揺が広がった。この好機を秀吉が見逃すはずはなかった。彼は全軍に対し、総攻撃を命令する 11

池田隊の成功に呼応し、それまで苦戦していた中央の高山・中川隊も勢いを盛り返す。さらに、丹羽長秀や織田信孝の部隊も一斉に攻勢を強め、光秀本隊に襲いかかった 11

もはや明智軍に抗う術はなかった。主力の斎藤利三隊も敗走し、伊勢貞興や松田政近といった武将たちが次々と乱戦の中で討死を遂げる 16 。軍の統制は完全に失われ、兵士たちは武器を捨てて雪崩を打って逃走を始めた 11

午後4時に始まった戦いは、わずか2時間半ほどの戦闘で、完全に決着したのである 14

第四章:落日の後、天下の行方

夕闇が戦場を覆う頃、勝敗は決した。しかし、物語はまだ終わらない。敗者の末路と、勝者がその勝利をいかにして次なる覇権へと繋げていったのか。山崎の戦いの真の歴史的意義は、この戦後の動きにこそ凝縮されている。

第一節:光秀の最期:小栗栖の露と消ゆ

総崩れとなった明智光秀は、御牧兼顕ら残存部隊の奮戦によって、かろうじて戦場を離脱し、一時的に本陣近くの勝龍寺城へと逃げ込んだ 11 。この時、開戦前に1万6千を数えた兵は、脱走や離散が相次ぎ、わずか700名ほどにまで激減していたと伝えられる 23

平城である勝龍寺城では秀吉の大軍を防ぎきれないと判断した光秀は、その日の夜、夜陰に乗じて少数の近臣と共に城を脱出。最後の望みを託し、居城である近江・坂本城を目指して落ち延びていった 1

しかし、運命は彼に味方しなかった。6月13日の深夜から14日の未明にかけ、京都伏見の小栗栖村の竹藪に差し掛かったところで、潜んでいた落ち武者狩りの農民たちの襲撃を受ける 2 。不意に突き出された竹槍が光秀の脇腹を深く貫き、致命傷を負った。もはやこれまでと悟った光秀は、家臣に介錯を命じ、自刃して果てたとされる 8

本能寺の変から、わずか11日。光秀の天下は、あまりにも短く、そしてその最期はあまりにも無残なものであった 8 。彼の首は翌14日に秀吉のもとに届けられ、謀反人として京都の本能寺や粟田口で晒された 18

第二節:勝者の布石:清洲会議への道

光秀の死によって、戦いは名実ともに終結した。勝利者となった秀吉は、一息つく間もなく、この軍事的勝利を政治的権威へと転換させるための、次なる布石を打ち始める。

  • 山崎城の築城 : 秀吉は勝利後、天王山一帯に新たに山崎城を築城した 2 。これは、山崎という交通・軍事の要衝を抑えるという実利的な目的と同時に、自らが「信長の仇を討った勝利者」であることを天下に示すための、巨大な政治的モニュメントとしての意味合いが強かった。この城の存在は、道行く人々に秀吉の功績を常に想起させる、強力なプロパガンダ装置として機能したのである。
  • 清洲会議での主導権掌握 : 6月27日、信長亡き後の織田家の後継者と遺領の配分を決定するため、尾張・清洲城で宿老会議が開かれた 28 。会議では、筆頭宿老の柴田勝家が信長の三男・信孝を後継者に推したのに対し、秀吉は信長の嫡孫であり、まだ3歳の幼児である三法師(後の織田秀信)を擁立した 31 。秀吉には、「主君の仇を討った最大の功労者」という、他の誰もが持ち得ない絶大な功績があった 33 。この軍事的事実を背景に、山崎で共に戦った丹羽長秀や池田恒興を巧みに味方につけ、会議の主導権を完全に掌握した 32

結果、三法師が織田家の後継者となり、秀吉がその後見人として事実上の実権を握ることとなった 18 。山崎の戦いは、単に光秀という敵を排除しただけでなく、秀吉に「信長の正統な後継事業の執行者」という、抗いがたい政治的権威を与えた。清洲会議は、この軍事的事実を政治的に追認する儀式に過ぎなかったのである。

第五章:総括:勝敗を分けたもの

山崎の戦いは、なぜかくも短時間で、一方的な結末を迎えたのか。その勝敗を分けた要因は、単一のものではなく、情報、速度、大義、人心、そして戦略といった複数の要素が複雑に絡み合った結果であった。

羽柴秀吉の勝因

  • 情報と速度 : 誰よりも早く正確な情報を掴み、常識外れの速度で行動を起こしたこと 4 。これが全ての好循環の起点となった。
  • 大義と人心掌握 : 「主君の弔い合戦」という、誰もが反論できない大義名分を掲げ、道中で味方を次々と糾合していった卓越した政治力 32
  • 戦略的柔軟性 : 敵の防御戦術を読み解き、正面からの力押しに固執せず、池田恒興による側面攻撃という奇策を許容し、成功させた戦術眼 22

明智光秀の敗因

  • 政治的孤立 : 「主君殺し」という行為が、たとえ彼なりの大義があったとしても、結果として他の武将たちの支持を得られなかったこと 34 。特に、頼みとした細川、筒井といった勢力の離反は致命的であった 12
  • 致命的な誤算 : 秀吉の驚異的な進軍速度を完全に見誤り、迎撃態勢を整えるための貴重な時間を失ったこと 1
  • 戦略の硬直性 : 地形の利に頼った静的な防御戦術が、秀吉軍の動的で柔軟な攻撃の前に、あまりにも脆く破綻したこと 35

この戦いは、織田信長亡き後の天下の主導権を決定づけた、文字通りの「天下分け目の戦い」であった 18 。羽柴秀吉はこの一戦での勝利を確固たる足掛かりとし、翌年の賤ヶ岳の戦いで最大のライバルである柴田勝家を破り 11 、天下統一へと邁進していく。山崎の戦いは、戦国乱世の終焉と、豊臣政権誕生を高らかに告げる序曲だったのである。

引用文献

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  2. 山崎の合戦(山崎の戦い) | 山崎城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/252/memo/974.html
  3. 豊臣秀吉 中国大返し(youtube) http://www.tokyo-kurenaidan.com/youtube_hideyoshi_chugoku.html
  4. 明智光秀と羽柴秀吉~本当の逆臣はどちらか?【麒麟がくる 解読リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1013712/2
  5. ほらの達人 秀吉・「中国大返し」考 - kyushu https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1516170/hattori_2015_6.pdf?fbclid=IwAR07djlJs4CQtjsyjre_kbMDVxOYZ_ZKMGX3wDrnRWRVRh_yGEJ3EYTfZxM
  6. 1582年(後半) 西国 中国大返しと山崎の戦い https://sengokumap.net/history/1582-3/
  7. 「中国大返し(1582年)」明智討伐に向けた秀吉軍団の大・大・大行軍はここがすごい! https://sengoku-his.com/203
  8. 「山崎の戦い」とは? 有名な「中国大返し」や、史実から生まれた言葉まで解説【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/481127
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  11. [合戦解説] 10分でわかる山崎の戦い 「天下分け目の天王山!羽柴 ... https://www.youtube.com/watch?v=XQH0LAXKz8A
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  14. 2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』 - shiganosato ... https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2021/02/28/194214
  15. 月~金曜日 20時54分~21時00分 https://www.asahi.co.jp/rekishi/04-05-12/01.htm
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  17. 天王山 | スポット一覧 | 京都府観光連盟公式サイト https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/352
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