岩村城の戦い(1572~73)
岩村城の戦い(1572-1575)全史:戦略・調略・悲劇に見る織田・武田の攻防
序章:東美濃の要衝、岩村城
戦国時代の日本列島において、一国の存亡、ひいては天下の趨勢を左右する戦略的要衝は数多存在する。その中でも、美濃国(現在の岐阜県南部)の東端に位置する岩村城は、甲斐の武田氏と尾張の織田氏という二大勢力の狭間にあって、極めて重要な意味を持つ城であった 1 。その重要性は、単に地理的な位置関係に留まらず、城そのものの堅固さ、そしてこの地を巡る複雑な人間模様に深く根差している。1572年から1575年にかけて繰り広げられた岩村城を巡る一連の攻防は、戦国時代の戦略、調略、そして悲劇を凝縮した象徴的な出来事であった。
地政学的価値の詳解
岩村城が位置する東美濃地域は、美濃、信濃(現在の長野県)、三河(現在の愛知県東部)の三国が接する国境地帯であり、京と東国を結ぶ大動脈・中山道を見下ろす交通の要衝であった 2 。この地を制する者は、東西交通を掌握し、敵対勢力への侵攻路を確保すると同時に、自領への侵入を防ぐ強固な防衛線を築くことができた。
尾張から美濃を平定し、「天下布武」を掲げて上洛を目指す織田信長にとって、岩村城は東方の防衛線を固め、信濃へ勢力を拡大するための橋頭堡であった 3 。一方、信濃を完全に掌握し、西への進出を窺う武田信玄にとって、岩村城は美濃、ひいては京へ向かう「西上作戦」の最前線基地となる、まさに喉元に突きつけられた刃とも言うべき存在であった 4 。両者にとって、この城は絶対に譲ることのできない戦略拠点であり、その領有権を巡る衝突は必然であった。
堅城としての岩村城
岩村城の戦略的価値をさらに高めていたのが、その比類なき堅固さである。本丸が標高717メートルという全国屈指の高所に築かれたこの城は、大和の高取城、備中の松山城と並び「日本三大山城」の一つに数えられるほどの天険の要害であった 1 。三方を断崖絶壁に囲まれ、残る一方も深い堀と複雑に配置された曲輪(くるわ)によって守られており、力攻めによる攻略は極めて困難であった 6 。また、城の周辺は頻繁に霧が発生したことから「霧ヶ城」の異名を持ち、この霧が敵の視界を遮り、城の防御を一層強固なものにしたと伝えられている 7 。この物理的な堅牢さが、後の攻防戦を長期化させ、調略という「人の心」を攻める戦術を誘発する大きな要因となったのである。
境界国衆・遠山氏の苦境
この戦略的要衝・岩村城を本拠としていたのが、鎌倉時代以来の名族・遠山氏である 1 。遠山氏は岩村の宗家を中心に、苗木、明知など恵那郡一帯に一族が割拠し、「遠山七頭(とおやましちとう)」と称される国衆ネットワークを形成していた 2 。しかし、戦国乱世にあって、彼らの立場は極めて脆弱であった。東に武田、西に織田という強大な勢力に挟まれた彼らは、常に両者の圧力を受け、その顔色を窺いながら存続を図る「境界大名」の典型であった 2 。
生き残りのため、遠山氏は武田氏に臣従したかと思えば、織田氏と婚姻関係を結ぶなど、巧み(あるいは苦し紛れ)に外交政策を展開していた 2 。この複雑な立ち位置が、岩村城の戦いを単なる城の奪い合いに終わらせず、地域全体の国衆の向背を巻き込んだ、政治的かつ人間的なドラマへと昇華させることになった。岩村城を制することは、遠山七頭という国衆ネットワークの中枢を掌握することを意味し、東美濃全体の支配権を確立するための象徴的な意味合いを持っていたのである。したがって、これから詳述する戦いは、城一つを巡る攻防であると同時に、地域全体の支配権を賭けた代理戦争の様相を呈していたと言えよう。
表1:主要関係者一覧
人物名 |
所属勢力 |
役職・立場 |
主要な動向 |
おつやの方 |
織田家→遠山家→武田家 |
織田信長の叔母、遠山景任の妻、岩村城女城主 |
夫の死後、女城主となる。秋山信友と婚姻し開城するが、後に信長に処刑される。 |
遠山景任 |
遠山家(織田・武田両属) |
岩村城主、おつやの方の夫 |
嗣子なく病死し、岩村城の戦いの引き金となる。 |
織田信長 |
織田家 |
天下人 |
叔母と息子を介して岩村城を支配下に置こうとするが、武田に奪われる。後に奪還し、叔母らを処刑。 |
御坊丸(織田勝長) |
織田家→遠山家(養子)→武田家(人質) |
織田信長の五男 |
遠山家の養子となるが、開城に伴い武田の人質となる。後に本能寺の変で討死。 |
秋山信友(虎繁) |
武田家 |
武田二十四将の一人、武田軍別働隊大将 |
岩村城を攻略し、おつやの方と婚姻して城主となる。後に織田軍に降伏するも処刑される。 |
武田信玄 |
武田家 |
武田家当主 |
西上作戦を発動し、岩村城攻略を命じる。作戦途上で病死。 |
武田勝頼 |
武田家 |
武田家当主(信玄の後継) |
長篠の戦いで大敗し、岩村城への救援を送れず、城を失う要因を作る。 |
第一部:嵐の前の静寂 ― 開戦に至る道程
元亀3年(1572年)秋、武田信玄による大規模な西上作戦が開始される直前、東美濃の情勢は一見すると平穏を保っているかのように見えた。しかしその水面下では、織田と武田の熾烈な諜報戦と政治工作が繰り広げられており、岩村城内部では、やがて来る嵐の引き金となる大きな変化が起きていた。
第1章:織田と武田の婚姻同盟とその内実
当時、織田信長と武田信玄は、表向きは同盟関係にあった。この同盟を仲介し、その結節点となっていたのが、境界に位置する遠山氏であった 2 。信長は、自らの叔母であるおつやの方を岩村城主・遠山景任に嫁がせ、さらに妹を分家である苗木遠山氏の当主・遠山直廉に嫁がせることで、遠山氏を織田陣営に強く引き付けていた 2 。
それだけではない。信長はさらに踏み込み、妹と遠山直廉の間に生まれた娘を自らの養女として、武田信玄の世子・武田勝頼に嫁がせた。加えて、自らの嫡男・信忠と信玄の娘との婚約まで取り付けるという、幾重にも張り巡らされた婚姻政策を展開していた 2 。これは、当時最強と謳われた武田軍団の矛先が自らに向かうことを避けるための、信長による必死の外交努力であった。遠山氏にとっても、両大勢力が衝突すれば自領が戦場となることは避けられないため、この婚姻同盟は自らの存続を保証する生命線であった 2 。
しかし、この同盟は、信長の上洛・天下統一という西向きのベクトルと、信玄の西進という同じく西向きのベクトルが、いつか必ず衝突するという根本的な矛盾を内包していた。それは、互いの野心が作り出した、極めて脆弱で一時的な「嵐の前の静寂」に過ぎなかったのである。
第2章:城主・遠山景任の死と女城主の誕生
この危うい均衡を崩す最初の亀裂は、岩村城の内部から生じた。元亀3年(1572年)8月14日、城主の遠山景任が、世継ぎとなる男子がいないまま病死したのである 7 。一城の主の死は、特に後継者が定まっていない場合、外部勢力にとって絶好の介入機会となる。岩村城の権力構造に突如として生じたこの空白は、織田・武田双方の思惑を強く刺激する結果となった。
当主を失った遠山家では、景任の妻であったおつやの方が、事実上の城主として領地の采配を振るうことになった 7 。彼女は織田信長の叔母という高貴な出自に加え、聡明で美しく、領民からも深く慕われていたと伝えられている 10 。戦国の世において女性が城主となる例は極めて稀であり、彼女の双肩には、一族と領民の運命というあまりにも重い責務がのしかかることになった。
第3章:信長の深謀 ― 養子・御坊丸の送り込み
遠山景任の死という報は、好機を逃さない信長の耳にもすぐさま届いた。信長は、この権力の空白を埋め、岩村城、ひいては東美濃の遠山氏一族を完全に織田家の支配下に組み込むための、迅速かつ大胆な手を打つ。自らの五男であり、当時まだ5歳から8歳ほどの幼児であった御坊丸(ごぼうまる、後の織田勝長)を、遠山家の養子として岩村城へ送り込んだのである 4 。
これは、極めて巧妙に計算された政治介入であった。遠山氏の家督を外部の者が奪うのではなく、あくまで「養子」という形で継承させることで、遠山一族の反発を最小限に抑えようとした。そして、まだ幼い御坊丸の後見人として、血縁者(叔母)であり、かつ前城主の正室であるおつやの方が城主代行を務めるという形式を整えた 16 。これにより、信長は形式上は遠山家の家督相続を尊重しつつ、実質的には岩村城の支配権を自らの掌中に収めることに成功した。しかし、この強引とも言える介入は、武田信玄を強く刺激し、彼に東美濃への侵攻を決意させる最後の一押しとなったのである。
第二部:元亀三年の激震 ― 武田の侵攻と岩村城開城
信長による岩村城への介入は、甲斐の虎・武田信玄との間に張り詰めていた糸を断ち切るに十分な挑発であった。元亀3年(1572年)秋、天下の情勢が大きく動く中、岩村城は歴史の奔流に飲み込まれていく。この章では、武田軍の侵攻から岩村城の無血開城に至るまでの緊迫した日々を、時系列に沿って詳細に追跡する。
第1章:武田信玄、西へ ― 西上作戦の発動
元亀3年(1572年)10月、武田信玄は遂に動いた。数万と号する大軍を率いて本拠地・躑躅ヶ崎館を出陣し、西への大遠征を開始したのである 17 。この「西上作戦」の最終目的が、信長を打倒しての上洛であったのか、あるいは当面の主敵である徳川家康の討伐に主眼を置いたものであったのかについては諸説ある 5 。しかし、いずれの目的を達成するにせよ、背後を脅かす織田信長への牽制と、進軍路の安全確保は不可欠であった。
この大戦略の一環として、信玄は家臣の秋山信友(信玄の信頼厚い猛将で、武田二十四将の一人)に別働隊を授け、東美濃へと侵攻させた 11 。秋山隊の任務は、織田領の東端に楔を打ち込み、信長の注意を東に引きつけ、西上作戦本隊の行動を容易にすることにあった 21 。その最大の標的こそが、岩村城であった。
第2章:秋山信友の東美濃進撃(1572年10月~11月)
信玄本隊に先立ち、秋山信友は3,000余の兵を率いて信濃から美濃へと進撃を開始した 11 。彼の軍勢は、岩村城へ直行するのではなく、まず周辺の織田方の城砦を次々と攻略、あるいは調略によって寝返らせ、岩村城を徐々に孤立させていくという周到な作戦を取った。東美濃の国衆たちは、武田の大軍を前に、あるいは戦って敗れ、あるいは降伏して武田方へと鞍替えしていった。こうして、岩村城は織田領の東端に浮かぶ孤島のような状態へと追い込まれていったのである。
第3章:孤立する岩村城 ― 信長包囲網という名の枷
その頃、織田信長は生涯最大の危機に瀕していた。近江の浅井長政・越前の朝倉義景、摂津の三好三人衆、そして石山本願寺の門徒勢力などが一斉に蜂起し、四方を敵に囲まれる「信長包囲網」が形成されていたのである 16 。信長はこれらの敵対勢力との戦いに忙殺されており、全神経を畿内とその周辺に集中せざるを得ない状況であった。
そこへ、武田信玄の西上作戦という未曾有の脅威が加わった。信長にとって、東美濃の一城である岩村城を救援することよりも、信玄本隊の進撃を阻止し、徳川家康と共にこれを迎え撃つことの方が、遥かに戦略的優先順位が高かった 3 。おつやの方は、甥である信長の援軍を信じて籠城戦を決意したが 14 、その期待は、信長が置かれた絶望的な戦略環境によって無残にも裏切られることになった。岩村城に援軍を送る物理的・戦略的余裕は、当時の信長には全くなかったのである 3 。
第4章:調略か、苦渋の決断か ― おつやの方、婚姻を受け入れる(1572年11月)
秋山信友の軍勢に完全に包囲された岩村城では、おつやの方が自ら采配を振るい、必死の防戦を続けていた 10 。堅城・岩村城は容易に落ちず、攻防は約3ヶ月にも及んだ 10 。力攻めの困難さを悟った秋山信友は、戦術を武力から調略へと切り替える 4 。彼は城内へ密使を送り、おつやの方に対して驚くべき提案を行った。
その条件とは、「おつやの方が信友の妻となるならば、城兵・領民の命は一切保証する。さらに、養子の御坊丸には遠山家の家督を継がせる」というものであった 4 。
これは、単なる降伏勧告ではなかった。秋山信友との婚姻は、おつやの方個人にとっては屈辱であったかもしれないが、城主としては、戦火から民を救い、かつ遠山家の存続をも(形式上は)約束するものであった。信長からの援軍が絶望的となり、城内の兵糧も尽きかけて士気が低下する中、この提案は唯一の活路に見えたであろう。おつやの方の決断は、織田家への裏切りという側面よりも、自らが預かる城と人々の命を守るという、城主としての責務を全うするための、苦渋に満ちた選択であったと解釈するのが妥当であろう 10 。この決断の背景には、秋山信友が単なる征服者ではなく、婚姻によって遠山家の正統な後継者という立場を得て、東美濃の国衆を円滑に武田方へなびかせようとする、高度な政治的計算があった。
第5章:無血にて城は落ちて ― 御坊丸、人質として甲斐へ(1572年11月14日以降)
おつやの方が条件を受け入れたことにより、元亀3年11月14日、岩村城は一滴の血も流すことなく開城し、武田方の支配下に入った 11 。当初の記録では、武田家臣の下条信氏が城代として入ったとされる 11 。東美濃における織田方の最重要拠点が、戦わずして武田の手に渡ったのである。信長は11月15日付の書状で、武田に降った岩村遠山氏を非難しつつも、織田方に留まった他の一族を労っており、この事態を苦々しく受け止めていたことが窺える 11 。
しかし、秋山信友が提示した約束の一部は、すぐに反故にされた。信友は、信長の息子である御坊丸を養子として手元に置くことが、主君・信玄の不興を買うことを恐れた 10 。結果として、御坊丸は遠山家の後継者となるどころか、人質として甲斐の甲府へと送致されてしまったのである 1 。
叔母に裏切られた上に、実の息子を人質として奪われた信長の怒りは、想像を絶するものであった 10 。この個人的な怨恨は、信長の心に深く刻み込まれ、3年後の凄惨な報復劇へと繋がる直接的な伏線となった。岩村城の無血開城は、一時的な平和をもたらしたかに見えたが、それはより大きな悲劇の序章に過ぎなかったのである。
第三部:束の間の支配と時代の転換
岩村城が武田の手に落ちてから、織田信長による奪還戦が開始されるまでの約3年間、城は秋山信友の支配下に置かれた。この期間、東美濃は武田氏の勢力圏として安定したかに見えたが、天下の情勢は劇的に変化し、やがて岩村城の運命をも大きく揺さぶることになる。
第1章:秋山信友の城主時代と東美濃統治
元亀4年(1573年)2月下旬、おつやの方と秋山信友は、織田家臣の肝煎りという奇妙な形ながらも、正式に祝言を挙げた 11 。これにより、秋山信友は名実ともに岩村城主となった。いくつかの記録によれば、信友とおつやの方は、その後数年間にわたり、城の改修や城下町の整備に努め、領民に対して善政を敷き、比較的平和な日々が続いたとされる 12 。この間、岩村城は武田軍にとって美濃・尾張方面への進出、あるいは防衛の最前線拠点として極めて重要な役割を果たした。
武田の支配は強固であり、天正元年(1573年)3月には、信長が一度は岩村城奪還のために軍を差し向けたものの、馬場信春らが率いる武田軍の迎撃に遭い、有効な攻撃を加えることなく撤退を余儀なくされている 11 。この時点では、武田の軍事力は依然として織田を圧倒していたのである。
第2章:巨星墜つ ― 武田信玄の死と勝頼の継承
しかし、武田家の栄光に巨大な影が差し始める。西上作戦の途上にあった武田信玄が、元亀4年(天正元年、1573年)4月12日、信濃の駒場で病に倒れ、その生涯を閉じたのである 3 。「甲斐の虎」と恐れられた戦国最強の武将の死は、武田家内部に動揺をもたらしただけでなく、敵対する織田信長にとってはまさに天佑であった。
家督は四男の武田勝頼が継承した。勝頼もまた勇猛な武将であったが、信玄という絶対的なカリスマと、長年にわたって彼を支えてきた宿老たちの経験値を失った影響は計り知れず、武田家の勢威には徐々に陰りが見え始めた。この歴史的な事件は、織田と武田のパワーバランスに変化を生じさせる最初の、そして決定的なきっかけとなった。
第3章:天正三年の天秤 ― 長篠の戦いと勢力図の激変
信玄の死後、信長は反信長包囲網の構成勢力を各個撃破し、その勢力を飛躍的に拡大させていった。そして、天正3年(1575年)5月21日、ついに織田・武田両軍の雌雄を決する時が訪れる。三河の長篠・設楽原において、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が激突したのである 29 。
この「長篠の戦い」で、信長は3,000挺ともいわれる大量の鉄砲を組織的に運用する革新的な戦術を用い、最強を誇った武田の騎馬軍団を文字通り粉砕した 29 。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊といった信玄時代からの宿老たちが次々と討死し、武田軍は壊滅的な大敗を喫した 17 。
この一戦は、日本の合戦史における転換点であったと同時に、織田と武田の軍事バランスを完全に逆転させた 4 。信長は、長年にわたる武田からの脅威を払拭し、守勢から攻勢へと転じる絶好の機会を手に入れた。そして、その雪辱の矛先が、真っ先に向けられた場所こそ、因縁の地・岩村城であった。岩村城の運命は、この設楽原の地で、事実上決定づけられたと言っても過言ではない。
第四部:天正三年の報復 ― 織田による岩村城奪還
長篠での歴史的勝利は、織田信長に反撃の狼煙を上げる絶好の機会を与えた。3年前に叔母に裏切られ、息子を奪われた屈辱を晴らす時が来たのである。天正3年(1575年)夏から冬にかけて、岩村城を舞台に繰り広げられた壮絶な奪還戦は、信長の冷徹な執念と、時代の変化に取り残された者たちの悲劇を浮き彫りにするものであった。
第1章:信長の逆襲 ― 嫡男・信忠、東美濃へ
長篠の戦いからわずか1ヶ月後の天正3年6月、信長はすぐさま行動を開始した。彼は自ら前線に立つのではなく、嫡男の織田信忠を総大将に任命し、3万ともいわれる大軍を岩村城へと派遣したのである 4 。これは、信忠に大軍の指揮経験を積ませ、次代の当主としての力量を内外に示すための重要な戦いであった。信長自身は京や岐阜で戦後処理や政治的采配を振るいながら 31 、方面軍に大規模な軍事作戦を委任するという、天下統一を目前にした織田家の新しい統治・軍事システムの試金石でもあった。
信忠率いる織田軍は、岩村城の北西に位置する水晶山に本陣(後に「大将陣」と呼ばれる)を構え、堅城を幾重にも包囲した 4 。3年越しの報復戦の幕が、静かに切って落とされた。
第2章:五ヶ月に及ぶ包囲戦のリアルタイム詳解(1575年6月~11月)
包囲と兵糧攻め
当初、勢いに乗る織田軍は力攻めを試みたが、やはり岩村城の天然の要害と、城主・秋山信友の巧みな防衛指揮に阻まれ、多大な損害を出す結果となった 4 。この城が容易に落ちないと悟った信忠は、戦術を切り替える。城を完全に包囲し、外部からの兵糧や武器の補給を一切断つ「兵糧攻め」に移行したのである 4 。信濃方面から城へ通じる隠し道も、織田軍によって厳重に封鎖された 32 。時間はかかるが、最も確実なこの戦術により、岩村城は巨大な牢獄と化した。
武田勝頼、救援の断念とその理由
城内で日に日に兵糧が尽きていく中、秋山信友らは甲斐の武田勝頼に対し、再三にわたって救援を求める使者を送った 32 。勝頼も、東美濃の重要拠点を失うわけにはいかず、救援の意図は持っていた。しかし、彼が置かれた状況はあまりにも厳しかった。長篠の敗戦で多くの宿将と兵力を失い、軍団の再編に追われていた 32 。さらに、この機に乗じて徳川家康が遠江・三河方面で失地回復の攻勢を強めており、そちらへの対応にも兵力を割かねばならなかった 32 。
武田家にとって、遠江の拠点である高天神城の維持は、岩村城の救援よりも戦略的優先順位が高かった。限られた戦力をどこに投入すべきかという苦渋の選択を迫られた結果、勝頼は岩村城を見捨てざるを得なかったのである 32 。岩村城の籠城兵たちに送られた「北条と連携して大軍で救援に向かう」という書状は、彼らの士気を維持するための方便に過ぎず、実行されることはなかった 32 。
起死回生の夜襲と、その無惨な結末(11月10日夜)
籠城開始から約5ヶ月が経過した11月、城内の兵糧はついに底を突き、兵たちの疲労と絶望は極限に達していた 17 。この絶体絶命の状況を打開すべく、秋山信友は最後の賭けに出る。勝頼が辛うじて派遣した信濃からの小規模な救援部隊と城内の兵が呼応し、11月10日の夜、織田軍の本陣が置かれた水晶山に大規模な夜襲を敢行したのである 4 。
しかし、織田方はこの動きを予期していたかのように、冷静に対処した。河尻秀隆らの部隊が夜襲部隊を巧みに迎撃し、激しい戦闘の末、武田方は壊滅的な打撃を受けた。この一戦で、救援部隊の大将格21名、そして1,100名以上の兵士が討ち取られるという決定的な大敗を喫した 10 。城から討って出ようとした部隊も、信忠自らが陣頭指揮を執る織田軍の奮戦によって撃退され、城内へと押し戻された 32 。この夜襲の失敗により、岩村城の抵抗力は完全に失われ、その命運は尽きた。
第3章:降伏、そして裏切り(11月21日)
外部からの救援の望みが完全に断たれ、起死回生の策も失敗に終わった今、秋山信友に残された選択肢は降伏しかなかった。彼は、せめて城兵たちの命だけは助けたいと願い、城兵の助命を条件として織田方に降伏を申し入れた 17 。信忠側もこれを受け入れ、和議は成立したかに見えた。
天正3年11月21日、秋山信友、おつやの方、そして主だった武将たちは、降伏の礼をするため、武装を解いて信忠の本陣へと赴いた 11 。彼らは、これで長い戦いが終わり、命だけは助かるものと信じていたであろう。
第4章:長良川の悲劇 ― 秋山信友とおつやの方の最期
しかし、彼らを待っていたのは、慈悲ではなく冷酷な裏切りであった。最終的な決定権を握る信長は、和議の約束を守るつもりなど毛頭なかったのである 1 。本陣に現れた秋山信友一行は、その場で全員捕縛された。
彼らは岐阜城下まで連行され、長良川の河畔で、最も残虐で屈辱的とされる「逆さ磔」の刑に処せられた 1 。信長がこれほどまでに残虐な処刑方法を選んだ理由は、複合的なものであったと考えられる。第一に、信頼していた叔母に裏切られ、愛する我が子を人質に取られたことへの、燃え盛るような個人的な怨恨 10 。第二に、『甲陽軍鑑』によれば、長篠の戦いの際に徳川から寝返った奥平信昌の妻を勝頼が磔にしたことへの報復という側面 33 。そして何よりも、一度織田家を裏切った者、敵対した者にはいかなる容赦もしないという自らの姿勢を天下に示すための、冷徹な政治的パフォーマンスであった可能性が極めて高い。
悲劇はこれに終わらなかった。主を失った岩村城では、城内に残っていた遠山氏の一族郎党を含む武田方の将兵も、信長の命令によって一人残らず虐殺された 9 。3年間にわたる岩村城を巡る攻防は、おびただしい血が流れるという、あまりにも凄惨な結末を迎えたのである。
終章:岩村城の戦いが残したもの
1572年から1575年にかけての3年間にわたる岩村城の攻防は、単なる一城の争奪戦に留まらず、織田・武田両家の興亡、そして二大勢力に翻弄された中小国衆の運命を象徴する、戦国史における重要な一画を成す事件であった。この戦いが各方面に与えた影響は大きく、その後の歴史の流れを決定づける一因となった。
織田・武田の戦略に与えた影響
織田方にとって、岩村城の奪還は極めて大きな戦略的勝利であった。これにより、東美濃一帯を完全に掌握し、長年の脅威であった武田勢力を美濃から一掃することに成功した 3 。さらに重要なのは、武田領である信濃への侵攻ルートを確保したことである。岩村城は、かつて武田が西進の拠点としたように、今度は織田が東進するための最前線基地へとその役割を変えた。この勝利は、天正10年(1582年)の武田家滅亡へと繋がる、重要な布石となったのである。
一方、武田方にとって岩村城の失陥は、長篠の敗戦に続く痛恨の打撃であった。美濃への進出拠点を失ったことで、武田家の勢力圏は信濃へと押し戻され、戦略的に守勢に立たされることが決定的となった 23 。長篠での軍事的中核の喪失と、岩村城という戦略的要衝の喪失は、武田家の衰亡を加速させる両輪となったのである。
滅びゆく境界国衆・遠山氏の運命
この戦いの最大の犠牲者の一つが、岩村城を本拠としていた遠山氏であった。織田と武田という二頭の巨象の争いの間で、彼らはまさに草のように踏みつけられた。当初は織田方、次に武田方へと立場を変えることを余儀なくされ、最終的には織田による奪還戦の際に、武田方に与した一族の多くが処刑、あるいは自刃に追い込まれ、事実上滅亡した 8 。彼らの悲劇的な末路は、強大な中央権力に挟まれた中小国衆が、いかにしてその渦に飲み込まれ、消滅していったかを示す典型的な事例として、戦国時代の非情さを物語っている。
歴史に刻まれた女城主の物語とその評価
戦いの中心人物であったおつやの方は、その悲劇的な生涯によって後世に名を残した。織田と武田の政略の波に翻弄されながらも、女城主として最後まで領民と家臣を守ろうと苦渋の決断を下し、そして最も残虐な形で命を奪われた彼女の物語は、悲劇のヒロインとして長く語り継がれている 10 。彼女の生き様は、男性中心の戦国社会において、女性が政治や軍事の最前線でいかに困難な立場に置かれ、それでもなお自らの責務を果たそうとしたかを示す、貴重な歴史の証言である。
人質・御坊丸のその後
最後に、この物語の引き金の一人となった御坊丸、後の織田勝長の運命に触れておきたい。人質として甲斐で少年時代を過ごした彼は、天正10年(1582年)の武田家滅亡に伴い、兄・信忠によって救出され、織田家への帰参を果たした。しかし、その平穏は長くは続かなかった。同年6月、本能寺の変が勃発すると、勝長は長兄・信忠と共に二条新御所に籠もり、明智光秀の大軍を相手に奮戦の末、討ち死にしたのである 34 。遠山家の養子となり、武田の人質となり、そして最後は織田家の一員として死すという彼の数奇な生涯は、岩村城の戦いが一個人の運命をいかに激しく翻弄したかを、静かに物語っている。
表2:岩村城の戦い 詳細年表(1572年~1575年)
年月日 |
出来事 |
関連人物 |
所属勢力(織田・武田) |
結果・影響 |
元亀3年 (1572) |
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8月14日 |
岩村城主・遠山景任が病死。 |
遠山景任, おつやの方 |
遠山家 |
岩村城に権力の空白が生じ、外部勢力介入の契機となる。 |
8月-9月頃 |
織田信長、五男・御坊丸を遠山家の養子として送り込む。 |
織田信長, 御坊丸, おつやの方 |
織田家 |
岩村城の実質的な織田家化。武田信玄を強く刺激する。 |
10月 |
武田信玄、西上作戦を開始。秋山信友の別働隊が東美濃へ侵攻。 |
武田信玄, 秋山信友 |
武田軍 |
岩村城攻略が本格化する。 |
10月-11月 |
秋山信友、岩村城を包囲。おつやの方は籠城して抵抗。 |
秋山信友, おつやの方 |
武田軍・遠山家 |
信長は信長包囲網対応で援軍を送れず、岩村城は孤立。 |
11月14日 |
おつやの方、秋山信友との婚姻を条件に無血開城。 |
おつやの方, 秋山信友 |
武田軍 |
岩村城は武田方の拠点となる。 |
11月下旬頃 |
御坊丸が人質として甲斐へ送られる。 |
御坊丸, 秋山信友 |
武田軍 |
信長の激しい怒りを買い、後の報復の直接的な原因となる。 |
元亀4年/天正元年 (1573) |
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2月下旬 |
おつやの方と秋山信友が正式に婚姻。 |
おつやの方, 秋山信友 |
武田家 |
秋山信友が正式な岩村城主となる。 |
3月15日 |
織田軍が岩村城に迫るも、馬場信春らの反撃で撤退。 |
織田信長, 馬場信春 |
織田軍・武田軍 |
この時点での武田の軍事的優位を示す。 |
4月12日 |
武田信玄が西上作戦の途上で病死。 |
武田信玄 |
武田家 |
武田家の勢いに陰りが見え始め、織田・武田のパワーバランスが変化する。 |
天正3年 (1575) |
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5月21日 |
長篠の戦い。織田・徳川連合軍が武田軍に圧勝。 |
織田信長, 徳川家康, 武田勝頼 |
織田・徳川軍、武田軍 |
織田・武田の軍事力が完全に逆転。信長が攻勢に転じる。 |
6月-7月 |
織田信忠を総大将とする大軍が岩村城を包囲。 |
織田信忠 |
織田軍 |
岩村城奪還戦が開始される。兵糧攻めによる長期戦となる。 |
11月10日 |
武田方の救援部隊と城兵が織田軍本陣に夜襲をかけるも大敗。 |
秋山信友, 織田信忠 |
武田軍・織田軍 |
籠城側の最後の抵抗が失敗。岩村城の落城が決定的となる。 |
11月21日 |
秋山信友ら、城兵の助命を条件に降伏。 |
秋山信友, おつやの方 |
武田家 |
和議が成立したかに見えたが、信長によって反故にされる。 |
11月下旬 |
秋山信友、おつやの方らが長良川河畔で逆さ磔により処刑される。 |
秋山信友, おつやの方, 織田信長 |
織田家 |
岩村城は織田家の手に戻り、東美濃は完全に平定される。 |
引用文献
- 【岐阜県】岩村城の歴史 日本三大山城のひとつとされる名高い城 ... https://sengoku-his.com/696
- 【戦国時代の境界大名】遠山氏――宗家は滅亡後、残された一族による戦いの結末は? - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2021/01/20/180000
- 品野城・河野島・明知城…織田軍はこんなにも敗北を喫していた | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8241
- 岩村城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/IwamuraJou.html
- 武田信玄の西上作戦 その目的、選択と誤算 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10289
- 難攻不落の城5選:戦国時代の要塞から学ぶ現代ビジネスの防衛戦略 | 株式会社stak https://stak.tech/news/23480
- 美貌の女城主・おつやの方。織田信長の叔母が残酷な処刑で最期を迎えた理由 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/88303/
- 遠山景任 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%99%AF%E4%BB%BB
- 恵那の山城の歴史 | 恵那市の山城紹介 織田vs武田 境目の地 https://enayamajiro.jp/history/
- 岩村城の戦い古戦場:岐阜県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/iwamurajo/
- おつやの方 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%A4%E3%82%84%E3%81%AE%E6%96%B9
- いわむらの歴史 戦国~江戸~明治〜大正 - 恵那市観光協会 https://www.kankou-ena.jp/wp-content/uploads/2020/02/%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%80%E3%82%89%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97_%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%BF%E7%B7%A8-1.pdf
- 女城主の物語/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/17003_tour_084/
- 総延長1.7㎞にもおよぶ壮大な石垣を誇る名城 https://keinanspot.jp/story/%E5%A4%9C%E7%A9%BA%E3%81%AB%E6%B5%AE%E3%81%8B%E3%81%B6%E5%B9%BB%E6%83%B3%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%81%8A%E5%9C%B0%E8%94%B5%E6%A7%98_5/
- 岩村城の女城主 - 岩村町観光協会 https://iwamura.jp/castlelord
- 【戦国おんな城主紹介】信長の叔母・おつやの方の壮絶な生涯 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=s6JVYyBc82M
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- (6ページ目)本郷和人 三方ヶ原で家康を撃破!武田信玄最期の西上作戦 - 婦人公論 https://fujinkoron.jp/articles/-/8495?page=6
- プレイレポート/西上作戦(S3寿命史実) - 信長の野望・創造 with パワーアップキット 攻略wiki https://souzou2013.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%2F%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6%EF%BC%88S3%E5%AF%BF%E5%91%BD%E5%8F%B2%E5%AE%9F%EF%BC%89
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- 岩村城の歴史 壮大な石垣と数々の逸話を今に伝える名城 - 恵那市観光協会 https://www.kankou-ena.jp/wp-content/uploads/2020/02/%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%80%E3%82%89%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97_%E3%81%8A%E5%9F%8E%E7%B7%A8-1.pdf
- 岩村城跡 - 城下町ホットいわむら http://hot-iwamura.com/pickup/%E5%B2%A9%E6%9D%91%E5%9F%8E%E8%B7%A1
- 戦国探偵G〜女城主伝説と「美濃国ノ秘宝」〜|岐阜県|リアル宝探しタカラッシュ! http://www.takarush.jp/promo/gifu/m2/story3.html
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- 武将列伝番外 女性列伝・おつやの方 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/fem_005.htm
- 信長は本当に叔母・おつやの方を逆さ磔にしたのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26772
- 長篠の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2376
- 【籠城戦】信長との皮肉な再会 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-11017615634.html
- 1575年 – 77年 長篠の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1575/
- 追い詰められる岩村城 - 武田勝頼公と北条夫人の部屋 - FC2 https://rashimban3.blog.fc2.com/blog-entry-233.html
- 岩村城のおんな城主「おつやの方」 - 大河ドラマに恋して - FC2 http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-3182.html
- 織田勝長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%95%B7