最終更新日 2025-08-25

川中島の戦い(第四次・1561)

永禄四年、武田信玄と上杉謙信は川中島八幡原で激突。啄木鳥戦法を謙信が見破り、武田本陣に肉薄するも、別働隊の挟撃で形勢逆転。両軍甚大な被害を出し、明確な勝敗なく終結した。

第四次川中島の戦い(1561年):龍虎激突、八幡原の死闘

序章:龍虎、雌雄を決する八幡原へ

日本の戦国時代、数多の合戦が歴史を彩ったが、その中でも「川中島の戦い」ほど人々の心を捉えて離さないものはない。天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの12年間に5度にわたって繰り広げられた、甲斐の「虎」武田信玄と越後の「龍」上杉謙信の宿命的な対決は、戦国史における最大のハイライトの一つである 1

その一連の戦役の中でも、永禄4年(1561年)9月10日に行われた第四次合戦は、両軍合わせて3万を超える兵力が激突し、戦国史上類を見ない死傷率を記録した最大の激戦として知られる 3 。この戦いは、単なる領土紛争に留まらず、信玄の周到な戦略と謙信の天才的な戦術が火花を散らし、両雄の威信と哲学が真正面からぶつかり合った壮大な人間ドラマであった。本報告書では、この第四次川中島の戦いについて、その背景から合戦のリアルタイムな推移、そして歴史的影響に至るまで、あらゆる側面から徹底的に詳解する。

第一章:信濃を巡る地政学 ― 衝突の必然性

第四次川中島の戦いは、決して突発的に生じたものではない。それは、甲斐武田氏と越後上杉氏、両国の地政学的な要請と、信濃国(現在の長野県)の戦略的重要性が交差する地点で発生した、必然的な衝突であった。

武田信玄の信濃侵攻戦略:甲斐の虎が北を目指した理由

武田信玄が父・信虎を追放し家督を継いだ天文11年(1542年)以降、武田氏は信濃への侵攻を本格化させる 2 。山国である甲斐にとって、信濃は複数の意味で死活的に重要な土地であった。第一に、川中島周辺は肥沃な穀倉地帯であり、その確保は武田氏の経済基盤を飛躍的に強化するものであった 1 。第二に、信濃を完全に掌握することは、越後や西上野、さらには西への進出を目指す上での戦略的な足掛かりとなる。

信玄はまず諏訪郡を制圧し、その後、信濃守護の小笠原氏や小県郡の雄・村上義清といった信濃の有力国衆と対峙する 2 。天文17年(1548年)の上田原の戦いでは村上義清に手痛い敗北を喫するも、その後は着実に勢力を拡大。天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い中信地方を制圧、そして天文22年(1553年)にはついに村上義清を本拠地から追放し、北信濃の大部分を手中に収めようとしていた 2

この信玄の膨張政策は、甲斐という内陸国の生存戦略そのものであり、必然的な帰結であった。しかし、その刃が北信濃に及んだ時、それは越後の龍の逆鱗に触れることになる。

上杉謙信の「義」と越後の防衛線:越後の龍が信濃に出兵した大義と実利

信玄に追われた村上義清や高梨政頼といった北信濃の国衆は、越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)に救援を求めた 1 。これが、謙信が川中島に出兵する直接的な引き金となる。自らを毘沙門天の化身と信じ、「義」を重んじる謙信にとって、助けを求める者を見捨てることはできなかった。

しかし、謙信の出兵は単なる義侠心だけによるものではない。そこには、越後国主としての極めて現実的な国家戦略が存在した。武田の勢力が北信濃を完全に掌握すれば、その脅威は越後の喉元に直接突きつけられることになる。川中島は、越後にとって自国を守るための絶対的な緩衝地帯であった 5

さらに、謙信の経済基盤を支えていたのは、日本海交易の拠点である港町・直江津であった 6 。この海上交易は上杉家に莫大な富をもたらしており、その安全確保は国家の存亡に関わる最重要課題であった。信濃が武田の手に落ちれば、この経済的生命線が常に脅かされる危険性があったのである 6 。したがって、謙信の出兵は、「義」という大義名分を掲げつつも、自国の安全保障と経済的利益を守るための、必然的な防衛戦略であったと言える。

川中島の戦略的価値と海津城の築城

川中島は、千曲川と犀川が合流する肥沃な平野であり、古来より北陸勢力と中部勢力が衝突する地政学的な要衝であった 2 。北国街道や飯山街道といった主要な交通路が交差するこの地を制する者は、北信濃の覇権を握ると言っても過言ではなかった 8

この地の恒久的な支配を目指す信玄は、軍師・山本勘助に命じて海津城(後の松代城)を築城させる 10 。これは単なる前線基地の建設に留まらない、重大な戦略的意味を持っていた。城を築き、城代として譜代の重臣である高坂昌信を置くことで、信玄は「この地はもはや武田の領土である」と内外に宣言したのである 11 。それまでの出兵が一時的な軍事介入であったのに対し、恒久的な支配体制を構築しようとする武田の明確な意思表示は、謙信に「武田の支配そのものを覆さなければならない」という決意を固めさせ、第四次合戦のような総力戦へとエスカレートさせる大きな要因となった。海津城はまた、甲府から160kmという長大な兵站線を補うための重要な補給基地としての役割も担っていた 7

第二章:永禄四年、運命の対陣

永禄4年(1561年)夏、関東管領職を継承し上杉政虎と名を改めていた謙信は、小田原城の北条氏康を攻めていた。しかし、その背後を突く形で信玄が北信濃に侵攻し、越後国境を脅かしたため、謙信は関東遠征を中断し、信玄との決戦を決意する 5

両軍の動員と進路:春日山から妻女山へ、甲府から海津城へ

  • 上杉軍の出陣 :永禄4年8月14日、謙信は1万3千の兵を率いて本拠地・春日山城を出立。兵糧部隊2千を善光寺横山城に残置し、自らは精鋭1万1千を率いて8月16日、武田方の海津城を眼下に見下ろす戦略的要地、妻女山に布陣した 3
  • 武田軍の対応 :上杉軍出兵の報は、国境の監視所から狼煙によって迅速に甲府の信玄へと伝えられた 3 。報を受けた信玄は8月18日に1万の兵を率いて甲府を出陣。道中で信濃の諸将を加え、最終的に総勢2万余の大軍を編成し、川中島へと向かった 3

妻女山と海津城 ― 二十日間に及ぶ対峙

謙信が布陣した妻女山は、海津城の動静を手に取るように把握できる絶好の監視地点であり、かつ天然の要害であった 13 。一方、信玄は当初、上杉軍の退路を断つ形で茶臼山に陣を敷いたが、8月29日には全軍を海津城に入城させ、長期戦の構えを見せた 3

ここから約二十日間に及ぶ、両軍の睨み合いが始まる。これは、互いの戦略と忍耐力を試す壮絶な心理戦であった。信玄は山本勘助の策を用い、夜間に多数のかがり火を焚かせたり、偽の旗を作らせて兵力を誇示し、上杉方の戦意を削ごうと試みた 3 。しかし、謙信は「信玄が越後に攻めるなら、こちらは甲州を攻めるまで」と泰然自若の構えを崩さず、兵の士気を巧みに維持した 3

水面下の計略 ― 啄木鳥戦法と車懸りの陣

兵力で優越する武田軍(2万)に対し、上杉軍は1万3千と劣勢であった 15 。しかし、謙信が布陣する妻女山は堅固であり、正面から力攻めすれば武田軍に甚大な被害が出ることは必至であった。兵站線が長い武田軍にとって長期の対陣は不利であり 7 、焦れた諸将からは開戦を促す声も上がっていた 12 。この膠着状態を打破するため、9月8日の軍議で信玄が採用したのが、山本勘助が献策したとされる「啄木鳥(きつつき)戦法」であった 4

  • 啄木鳥戦法 :これは、軍を本隊と別働隊の二手に分け、高坂昌信率いる1万2千の別働隊が夜陰に紛れて妻女山の背後を急襲する。驚いて山を下りてきた上杉軍本隊を、八幡原で待ち構える信玄率いる8千の本隊が正面から受け止め、別働隊と挟撃するという、ハイリスク・ハイリターンの奇策であった 16 。この作戦は、信玄が置かれた苦しい状況を打開するための、ある種の賭けであったと言える。
  • 車懸りの陣 :一方、寡兵の上杉軍が多勢の武田軍を打ち破るために用意したとされるのが、「車懸り(くるまがかり)の陣」である。これは、本陣を中心に各部隊が車輪のように回転し、常に疲弊していないフレッシュな部隊が敵の正面に当たり続けることで、波状攻撃を可能にする極めて攻撃的な戦法(戦闘教義)であった 18 。この陣形の選択自体が、謙信が短期決戦を望み、自ら積極的に戦局を動かそうとしていたことの証左である。

武田軍が敵を包み込む防御的な「鶴翼の陣」を想定していたのに対し 15 、上杉軍は一点突破を目指す攻撃的な「車懸りの陣」を準備していた。この陣形の非対称性は、両将の性格と戦術思想の違いを如実に物語っている。

表1:第四次川中島の戦い 両軍勢力比較

項目

武田軍

上杉軍

総大将

武田信玄

上杉謙信(政虎)

総兵力

約20,000 12

約13,000 13

本隊(八幡原)

約8,000 21

約13,000 21

別働隊(妻女山攻撃)

約12,000 22

なし

主要武将(本隊)

武田信繁, 武田義信, 山本勘助, 諸角虎定, 内藤昌豊, 原昌胤 12

直江実綱, 柿崎景家, 宇佐美定満, 村上義清, 甘粕景持 12

主要武将(別働隊)

高坂昌信, 馬場信房, 飯富虎昌, 真田幸隆 3

-

採用陣形(想定)

鶴翼の陣 15

車懸りの陣 15

この表が示す通り、武田軍は総兵力で上回りながらも、啄木鳥戦法のために八幡原の本隊は兵力的に劣勢に陥っていた。この「局所的な兵力差」こそ、続く激闘の帰趨を決定づける最大の鍵となる。

第三章:八幡原の激闘 ― リアルタイム詳解

運命の永禄4年9月9日夜から10日にかけて、戦場の霧の中で両雄の知略と武勇が火花を散らす。以下に、刻一刻と変化する戦況を時系列で詳述する。

表2:八幡原の戦い 時系列表

日時

武田軍の動き

上杉軍の動き

9月9日 20:00頃

海津城で啄木鳥隊への食事準備(炊煙が増加) 26

炊煙の異常から武田軍の夜襲を察知 5

9月9日 深夜

-

全軍に妻女山下山を命令。極秘裏に行動開始 5

9月10日 01:00頃

啄木鳥別働隊(12,000)が海津城を出発、妻女山へ向かう 26

-

9月10日 04:00頃

信玄、本隊(8,000)を率いて海津城を出発、八幡原へ 26

八幡原への布陣を完了。武田本隊を待ち伏せる

9月10日 06:00-08:00頃

濃霧の中、鶴翼の陣を展開中に上杉軍の奇襲を受ける 27

濃霧が晴れると同時に車懸りの陣で総攻撃を開始 5

9月10日 08:30-10:00頃

前線崩壊。信繁、勘助、諸角らが相次いで討死 3

猛攻を加え、武田本陣に肉薄

9月10日 正午頃

啄木鳥隊が妻女山のもぬけの殻を確認し、八幡原へ急行 5

信玄本陣に突入(一騎打ちの伝説) 25

9月10日 午後

啄木鳥隊が上杉軍の背後に到着、挟撃を開始 3

挟撃され形勢不利に。犀川方面へ退却を開始 3

9月10日 夕刻

八幡原を確保するも甚大な被害。追撃は限定的

善光寺へ撤退完了

九月九日 夜半:静寂を破る決断

9月9日の夜、謙信は妻女山の陣中から海津城を望み、ある異変に気づく。城から立ち上る炊煙が、平時よりも格段に多い。これは、これから出陣するであろう大部隊に食事をさせている証拠に他ならない 5 。謙信は、武田軍が今夜、何らかの大規模な行動、おそらくは夜襲を仕掛けてくると瞬時に看破した。

この洞察に基づき、謙信は常人には考えられない大胆な決断を下す。全軍に、密かに妻女山を下り、千曲川を渡って八幡原に布陣せよ、と。兵には馬の口に布を含ませて嘶きを封じ、武具が音を立てぬよう細心の注意を払わせた 5 。1万を超える大軍が、武田軍に全く察知されることなく闇夜の行軍を完遂したことは、上杉軍の驚異的な統率力と練度を物語っている。

九月十日 未明から早朝:濃霧の中の奇襲

一方、武田軍は計画通りに行動を開始していた。午前1時頃、高坂昌信率いる1万2千の別働隊が海津城を出発し、妻女山へと向かう 26 。そして午前4時頃、信玄自身が率いる本隊8千が海津城を出て、上杉軍を迎え撃つべく八幡原へと進んだ 26 。彼らは、上杉軍がまだ妻女山で眠っていると信じきっていた。

この日の八幡原は、深い霧に包まれていた 27 。この濃霧こそが、戦いの帰趨を決する最大の要因となる。霧は謙信の夜間行軍の隠密性を高め、武田軍の索敵を完全に妨害した。信玄の本隊が八幡原で鶴翼の陣を展開しようとしていた午前8時頃、突如として朝霧が晴れ始めた。その瞬間、武田軍の目の前に現れたのは、もぬけの殻であるはずの妻女山ではなく、すでに戦闘態勢を整えた1万3千の上杉全軍であった 5

奇襲を仕掛ける側が、逆に完璧な奇襲を受ける。信玄の驚愕は計り知れないものであった。間髪を入れず、柿崎景家を先鋒とする上杉軍が、車懸りの陣で武田軍に猛然と襲いかかった。陣形が整っていなかった武田軍は、不意を突かれたこともあり、たちまち大混乱に陥った 12

九月十日 午前:鶴翼、崩壊の危機

上杉軍の猛攻は凄まじく、武田軍の前衛は次々と崩壊。その勢いは信玄の本陣にまで迫った。この危機に際し、武田軍の中核をなす将星たちが次々と散っていく。

  • 武田信繁の討死 :信玄の弟であり、副将として将兵から「典厩(てんきゅう)殿」と慕われ、信頼も厚かった武田信繁は、兄の本陣を守るため鬼神の如く奮戦。敵中に幾度も突入し、味方が態勢を立て直す時間を稼いだが、ついに力尽き、壮絶な討死を遂げた 12 。彼の死は、武田軍に計り知れない衝撃と動揺を与えた。
  • 山本勘助の覚悟 :自らが献策した啄木鳥戦法が完全に見破られ、主君を最大の窮地に陥れたことを悟った老軍師・山本勘助は、その責任を自らの命で贖うことを決意する 12 。彼は、作戦の失敗は軍師一人の責任であり、諸将に動揺はないと信玄に伝え、自ら敵陣に突撃。奮戦の末、討ち取られた 12 。勘助の死は、武田軍がこの戦いで犯した戦略的誤謬の象徴であり、軍師としての彼の壮絶な最期であった。
  • 諸角虎定の死 :信繁、勘助に続き、武田家の宿将・諸角虎定(豊後守)もまた、信繁の死を悼み、後を追うかのように敵中に突入し、奮戦の末に討死した 3

武田軍団の中枢を担う重臣たちが相次いで失われ、軍の崩壊は目前に迫っていた。

九月十日 正午前後:龍虎一騎打ちの伝説

乱戦の極致において、川中島の戦いを象徴する名場面が生まれたとされる。軍記物『甲陽軍鑑』によれば、一騎の武者が信玄の本陣に突入。白頭巾を被り、名刀「小豆長光」を振りかざして床几に座る信玄に三度斬りかかった。信玄はとっさに軍配でこれを受け止めたが、軍配には八太刀の傷が残っていたという。この武者こそ、上杉謙信その人であったと伝えられている 25

この一騎打ちは、『甲陽軍鑑』以外の一次資料には見られず、その史実性については多くの研究者から疑問が呈されている 32 。大将自らが敵本陣の奥深くまで単騎で突入することは、現実的には考えにくい。しかし、この逸話は、それほどまでに上杉軍の猛攻が信玄の本陣中枢にまで迫っていたという、戦況の激しさを物語るものとして、後世に語り継がれていく。

九月十日 午後:啄木鳥隊の到着と戦局の転換

その頃、妻女山に到着した高坂昌信率いる1万2千の別働隊は、そこがもぬけの殻であることに気づく 5 。八幡原方面から鳴り響く鬨の声と銃声から、本隊の危機を察知した高坂隊は、急いで戦場へと向かった 22

別働隊が八幡原に到着し、優勢に戦いを進めていた上杉軍の背後を突いたことで、戦局は一変する 3 。奇襲をかけていた上杉軍は、今度は武田軍の本隊と別働隊に挟撃される形となり、形勢は一気に逆転した 3

九月十日 夕刻:両軍の撤退

午後は両軍入り乱れての激しい乱戦となった。挟撃される形となった謙信は、これ以上の戦闘は不利と判断し、巧みに兵をまとめて善光寺方面へと撤退を開始した 3 。信玄は八幡原の戦場を確保したものの、あまりに甚大な被害を受けたため、積極的な追撃を行うことはできなかった。こうして、戦国史上最も激しく、長い一日は、明確な勝敗がつかないまま終息した 2

第四章:勝敗を超えて ― 戦いの影響と歴史的評価

八幡原の戦いは終わったが、その結果は単純な勝ち負けで語れるものではなかった。戦術的な視点と戦略的な視点では、その評価は大きく異なる。

両軍の損害分析

この戦いにおける人的損失は、両軍ともに壊滅的であった。武田軍の死者は約4,000、上杉軍の死者は約3,000とされ、死傷率は武田軍が約60%、上杉軍が約70%に達したとも言われる 3

特に武田方の損害は深刻であった。副将・武田信繁、軍師・山本勘助、重臣・諸角虎定といった、金では購えない軍団の中枢を担う人材を一度に失ったことは、信玄にとって最大の痛手であった 4 。この指導者層の損失の大きさから見れば、戦場における勝敗、すなわち「戦術的勝利」は上杉軍にあったとする見方が有力である 5

信濃支配を巡る戦略的帰結

しかし、大局的な視点で見ると、評価は逆転する。謙信の最終目的は「武田勢力の北信濃からの駆逐」と「旧領主の復権」であったが、この戦いの後、上杉軍は川中島から撤退せざるを得ず、この目的は達成できなかった。

一方の信玄は、壊滅的な打撃を受けながらも、最終的に戦場である八幡原を確保し、川中島一帯の支配権を維持した 2 。この戦いの後、北信濃の国衆の多くは武田方になびき、信玄は川中島・善光寺平の実質的な支配権を確立することに成功した 3 。この点から見れば、戦争全体の目的達成度で評価する「戦略的勝利」は武田軍にあったと言える 1 。この戦いは、「戦いには勝ったが、戦争の目的は達成できなかった」という、戦術的勝利と戦略的勝利の乖離を示す典型例となった。

後世への影響と『甲陽軍鑑』を巡る議論

この死闘の後、信玄と謙信は互いにその力を認め、川中島で再び大規模な決戦を行うことはなくなった 35 。信玄は矛先を西の駿河今川氏に向け、謙信は関東管領として関東経営に注力するようになり、両者の主戦場は別の場所へと移っていった 5

12年間に及ぶ川中島での対立は、信玄と謙信という当代屈指の軍事的天才を、信濃という一地方に釘付けにする効果をもたらした 4 。この間、中央では織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破り、急速に台頭していた。川中島の戦いが、結果的に信長の天下統一事業を間接的に助けることになったという、より大きな歴史的文脈の中で捉えることも可能である。

啄木鳥戦法、車懸りの陣、龍虎一騎打ちといった劇的な逸話は、主に江戸時代に成立した軍記物『甲陽軍鑑』によって広められた 25 。これらの逸話が川中島の戦いを英雄譚へと昇華させたが、近年の研究では、その記述には多くの脚色が含まれることが指摘されている 36 。例えば、実際は濃霧の中での「偶発的遭遇戦」であったとする説も有力であり、歴史を学ぶ上では、これらの伝説と史実とを区別して理解することが重要である 36

結論:川中島が残したもの

第四次川中島の戦いは、明確な勝者を生まなかった。しかし、この戦いは信玄の粘り強い戦略性と、謙信の天才的な戦術能力を天下に知らしめ、両者の威名を不動のものとした。互角に渡り合ったことで、両者は戦国最強の武将として並び称される存在となったのである。

周到な計略、それを覆す洞察力、濃霧という偶然の要素、そして両軍合わせて数万が激突し、数千が命を落とすという凄惨さ。第四次川中島の戦いは、知略、武勇、そして運命が交錯する戦国時代の合戦の縮図であり、その比類なきドラマ性故に、今なお多くの人々を惹きつけてやまない不滅の物語として、歴史に刻まれている。

引用文献

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  15. 第四次川中島の戦い~武田信玄と上杉謙信の激闘~ | りんくう情報局 https://yuraku-group.jp/blog-rinku/kawanakajima/
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  18. 陣形から見る3つの合戦/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18714/
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