最終更新日 2025-08-29

引馬城の戦い(1568)

永禄十一年、徳川家康は遠江支配のため引馬城を攻め、女城主お田鶴の方の奮戦を退け落城させた。この戦いは家康の天下統一の礎となり、引馬城は後に浜松城と改められた。

引馬城の戦い(1568年)-東海に新時代の序曲を告げた攻防の全貌-

序章:落日の海道一

永禄11年(1568年)に遠江国で繰り広げられた引馬城の戦いは、単なる一城郭の攻防戦ではない。それは、戦国時代の東海地方における勢力図を根底から塗り替える、地政学的な大変動の序曲であった。この戦いの背景には、かつて「海道一の弓取り」と謳われた今川家の没落と、その領国を巡る新たな二人の覇者、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の野心が渦巻いていた。

桶狭間に沈んだ今川家の威光

全ての始まりは、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いであった。駿河・遠江・三河の三国を支配した今川義元が、尾張の新興勢力である織田信長によって討たれるという衝撃的な結末は、今川家の権威を根底から揺るがした 1 。後を継いだ今川氏真は、和歌や蹴鞠に通じた文化人ではあったが、父が築いた巨大な軍事・政治的遺産を維持する才覚には恵まれなかった 1 。その結果、領国内では国衆の離反が相次ぎ、「遠州錯乱」と呼ばれる深刻な内乱状態に陥っていく 4 。この権力の真空状態は、隣国の野心家たちにとって絶好の機会となった。

甲相駿三国同盟の崩壊

今川家の衰退は、武田信玄、北条氏康、そして今川義元の三者間で結ばれていた甲相駿三国同盟という、東国の安定を支えてきた基盤をも蝕んだ 6 。信玄は、弱体化した今川家との同盟を維持するよりも、その領国である駿河を併呑する方が国益にかなうと判断。氏真が武田領への「塩止め」を行ったことなどを口実に、長年の同盟関係を破棄する決断を下す 2

甲斐の虎と三河の狼の密約(駿遠協定)

信玄は今川領侵攻という大事業を成功させるため、背後の脅威となりうる徳川家康との連携を画策した。織田信長を仲介役として家康に働きかけ、大井川を境として、東の駿河国を武田が、西の遠江国を徳川がそれぞれ領有するという、大胆な領土分割の密約を締結したのである 1 。この密約は、先に制圧した者がその地の領有権を得る「切り取り次第」という、実力主義が支配する戦国時代を象徴する冷徹な約定であった 8 。この協定は、旧来の守護や幕府といった権威によらない、実力に基づいた新たな勢力圏の画定を意味しており、戦国大名が自らの支配領域を「国家」として認識し、他国との関係を規定しようとする政治的成熟の現れでもあった。

「遠州錯乱」と飯尾連龍の動向

今川家の支配が揺らぐ中、遠江の国衆たちは次々と離反の動きを見せた 4 。引馬城主・飯尾連龍もその一人であった。飯尾氏はもともと三河吉良氏の代官から今川氏に仕えるようになった経緯を持ち、今川家譜代の重臣でありながらも独立性の高い国衆であった 10 。桶狭間の戦いから8年、時間をかけて進行した今川家の崩壊プロセスは、ついに外部勢力の本格的な介入を招く段階に至った。連龍は没落しゆく今川氏真を見限り、三河で着実に力を蓄える徳川家康と密かに内通を開始する 12 。引馬城の戦いは、この桶狭間の戦いがもたらした「遅効性の毒」が、東海地方の政治地図を最終的に書き換える瞬間の出来事だったのである。

第一章:城主、駿府に死す -引馬城、内乱前夜-

徳川家康による永禄11年(1568年)の軍事侵攻を理解する上で、その3年前に引馬城を襲った血腥い事件を避けて通ることはできない。城主・飯尾連龍の誅殺と、それに続く深刻な内紛は、徳川軍が侵攻する以前に、すでに城の守りを内部から崩壊させていた。この内部崩壊こそ、家康による引馬城攻略を決定づけた最大の要因であった。

誅殺への道程

飯尾連龍の徳川家康への内通は、やがて今川氏真の知るところとなった 13 。氏真は永禄7年(1564年)、一度は軍勢を派遣して引馬城を攻撃したが、城の守りは堅く、陥落させることはできなかった 14 。力攻めの失敗に業を煮やした氏真は、謀略へと戦術を転換する。和睦を装い、あるいは「連龍の子と氏真の娘との縁組」という甘言を用いて、連龍を本拠地である駿府へとおびき寄せたのである 12

永禄8年(1565年)12月20日、駿府の悲劇

氏真の謀略に気づかず駿府に出仕した連龍は、滞在先の自邸を今川勢に急襲され、奮戦の末に誅殺された 10 。この事件は、氏真が離反の気配を見せた国衆を力でねじ伏せることも、あるいは器量で心服させることもできず、猜疑心から「謀殺」という最も後味の悪い手段に頼らざるを得なかった、彼の統治能力の限界を象徴している。結果として、遠江の要衝である引馬城を自ら不安定化させ、敵である家康に絶好の機会を与えることになった。

徳川か、武田か ― 家老・江間氏の対立

突然の城主の死により、引馬城は権力の空白状態に陥った。城の守りは家老である江間安芸守泰顕(えまあきのかみやすあき)と江間加賀守時成(えまかがのかみときなり)の両名に委ねられた 17 。しかし、彼らの間には、没落する今川家に見切りをつけ、次なる主君を誰に定めるかを巡って、深刻な路線対立が存在した。

  • 江間安芸守泰顕:武田派。 泰顕は、甲斐の武田信玄こそが次代の覇者であると判断し、信玄に通じて城を武田方に引き渡そうと画策した 18
  • 江間加賀守時成:徳川派。 時成は、亡き主君・連龍の遺志を継ぎ、地理的にも近い徳川家康に城を明け渡すべきだと主張した 20

この対立は、単なる家臣同士の個人的な争いではなかった。それは、遠江の国衆たちが直面していた「家康につくか、信玄につくか」という究極の政治的選択そのものであり、遠江全体が徳川と武田の草刈り場と化していた現実を、城というミクロな空間に凝縮したものであった。

内紛の激化と自壊

路線対立はエスカレートし、ついに城内での殺し合いという最悪の事態に発展する。武田派の泰顕は、徳川派の時成を殺害。しかしその直後、泰顕自身も時成の家臣によって討ち取られるという、共倒れの悲劇に至った 18 。指導者を二重に失った引馬城の統制は完全に崩壊。家康の侵攻を待たずして、城は内部から自壊していたのである。徳川家康にとっては、最小限の力でこの要衝を奪取する、またとない好機が到来していた 17

第二章:遠江侵攻 -徳川軍、西から来たる-

永禄11年(1568年)12月、機は熟した。徳川家康は、武田信玄の駿河侵攻と完全に歩調を合わせ、遠江への大掛かりな軍事作戦を開始する。巧みな事前調略と迅速な軍事行動、そして同盟者であるはずの武田への不信感が交錯する、緊迫した進軍の様子を時系列で追う。

永禄11年(1568年)12月:連動する二つの侵攻

  • 12月6日: 武田信玄が2万を超える大軍を率いて甲府を出陣。甲相駿三国同盟を一方的に破棄し、駿河への電撃的な侵攻を開始した 8
  • 12月12日~13日: 信玄は今川方の抵抗を排して薩埵峠を突破。13日には今川氏の本拠地である駿府を占領する。今川氏真はなすすべもなく居城を追われ、重臣・朝比奈泰朝が守る遠江国の掛川城へと落ち延びていった 8
  • 12月13日: 信玄の駿府入城と時を同じくして、徳川家康も7千余の兵を率いて三河岡崎城を出陣。かねてからの密約通り、遠江への侵攻を開始した 8

徳川軍の進撃路と周到な調略

家康の遠江侵攻は、軍事力以上に「調略」の勝利であった。彼は力攻めを極力避け、事前の交渉によって抵抗勢力を無力化する戦略をとった。

  • 侵攻経路と先導役: 家康本隊は、今川方の抵抗が予想される浜名湖の北岸(本坂道)を避け、奥山・井伊谷方面から遠江に入るルートを選択した 25 。これを可能にしたのが、事前に調略によって味方につけていた「井伊谷三人衆」(菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時)の存在である 25 。彼らの手引きにより、徳川軍はほとんど抵抗を受けることなく遠江国内へと進軍できた。
  • 別働隊の動き: 一方で、徳川四天王の一人である酒井忠次が率いる別働隊は、本坂峠を越える本坂道を進軍。白須賀城や宇津山城といった今川方の拠点を次々と攻略し、浜名湖周辺を制圧した 25
  • 破竹の進撃: 井伊谷三人衆の寝返りを皮切りに、遠江の国衆たちは雪崩を打って家康に帰順した 8 。井伊谷城、刑部城などが次々と徳川の支配下に入り、難攻不落で知られる高天神城の城主・小笠原氏も家康に降伏した 8 。今川家の支配が既に人心を失っていたこと、そして家康が単なる武将ではなく、巧みな政治戦略家であったことが、この順調な進軍の背景にあった。

同盟への亀裂 ― 秋山虎繁の越境事件

この快進撃の最中、家康の怒りを買い、後の徳川・武田間の不和の遠因となる事件が発生する。武田の重臣・秋山虎繁(信友)が率いる伊那衆が、信濃から国境を越えて遠江に侵入し、見付(現在の磐田市)方面まで進軍してきたのである 8 。これは明らかに「遠江は徳川領」とする密約に違反する行為であった。信玄ほどの老練な戦略家が部下の独断を許すとは考えにくく、この侵攻は家康の遠江平定を牽制し、武田の優位性を示すための意図的な「威力偵察」であった可能性が高い。家康は信玄に激しく抗議し、信玄は秋山軍を駿府に引き揚げさせたが、この一件は家康の心に武田への拭い難い不信感を植え付けた 8

12月18日:引馬城包囲

様々な政治的駆け引きが交錯する中、徳川軍は軍事行動を継続。遠江西部の諸城を制圧した後、ついに主目標である引馬城に到達し、包囲を完了した。家康は城の東方に位置する橋羽の妙恩寺に本陣を構え、城への攻撃命令を待った 26

第三章:引馬城攻防戦 -女城主と徳川の大軍-

永禄11年(1568年)12月、徳川軍の前に立ちはだかった引馬城。城主も家老も失い、内紛で疲弊していたはずのこの城から、予想外の激しい抵抗が示される。その抵抗の中心にいたと語り継がれるのが、亡き城主・飯尾連龍の未亡人「お田鶴の方」である。ここでは、伝説と史実の狭間で語られる壮絶な攻防戦の模様を、時系列に沿って再構成する。

引馬城の戦い タイムライン(推定)

日付(永禄11年12月)

時間帯

徳川軍の行動

引馬城守備側の行動

戦況の推移

関連史料・伝承

18日

-

引馬城に到達、包囲を完了。橋羽の妙恩寺に本陣を設置。

籠城。お田鶴の方を中心に守備体制を固める。

徳川軍による包囲網が完成。

26

19日~23日頃

-

使者(松下常慶、後藤太郎左衛門)を派遣し、降伏を勧告。

お田鶴の方が降伏勧告を毅然と拒絶。「女と思い侮るか」との返答。

交渉決裂。武力衝突が不可避となる。

12

24日

昼間

酒井忠次、石川数正を大将に総攻撃を開始。

城兵が城門から突出し、激しく応戦。

徳川軍は初日の攻撃で大きな損害を被り、一時後退したとの説もある。

34

24日

夜間

攻撃を継続。塩市口などで激戦が展開される。

少数ながらも地の利を生かし、必死の防戦を続ける。

徳川軍は数に勝り、徐々に城の外郭を制圧していく。

34

25日

未明~早朝

二の丸、三の丸へ総攻撃をかける。

本丸へ追い詰められる。お田鶴の方が最後の決断を下す。

外郭、二の丸、三の丸が次々と陥落。

34

25日

午前

-

お田鶴の方が緋縅の鎧をまとい、侍女17~18人と共に城門から最後の突撃を敢行。

お田鶴の方と侍女たちは奮戦の末、全員討ち死。引馬城は落城する。

14

開戦前夜:降伏勧告と拒絶

家康は力攻めに先立ち、使者を送って降伏を勧告した 34 。その条件は、「城を明け渡せば、亡き連龍の妻子や家臣の面倒は徳川家が一切見る」という、破格ともいえる内容であったと伝えられる 12 。しかし、城の指揮を執っていたとされるお田鶴の方は、この勧告を毅然として拒絶。「女と思い侮るか」「武家の妻として、おめおめと城を開き降参するのは我が志にあらず」と述べたと、江戸時代の多くの軍記物や地誌は記している 14 。この返答により、引馬城の運命は決した。

伝説の女城主、お田鶴の方 ― その実像と虚像

この戦いを語る上で欠かせないのが、お田鶴の方の存在である。彼女の奮戦譜は、『武家事紀』『遠江国風土記伝』など、後世に成立した複数の書物に描かれている 14 。緋縅(ひおどし)の鎧をまとい、薙刀を振るって十数人の侍女と共に城門から討って出て、壮絶な最期を遂げたという物語は、多くの点で共通している 34

しかし、史料批判の観点からは慎重な検討が必要である。近年の研究では、お田鶴の方の実在性そのものや、家康の正室・築山殿との血縁関係に疑問が呈されている 34 。これらの伝説は、飯尾氏以前の城主である大河内氏の時代の出来事と混同されている可能性も指摘されている 14

この報告書では、お田鶴の方の物語を、単なる史実としてではなく、「後世に語り継がれた悲劇のヒロイン像」として捉える。城が内紛の末に自壊したという不名誉な現実を覆い隠し、その最期を「主君の仇(家康)と夫を殺した今川体制の双方を拒絶し、武家の誇りを守って散った」という悲劇的な英雄譚へと昇華させるための物語装置として、この伝説は機能したのではないか。敗者の精神的な救済として、彼女の物語は地域社会に必要とされたのである。

攻城戦の展開

勧告を拒否された徳川軍は、酒井忠次、石川数正を大将として総攻撃を開始した 34 。徳川軍の兵力は数千、対する籠城側は内紛で疲弊していたとはいえ、数百の兵が必死の抵抗を見せた 33

城兵の抵抗は凄まじく、徳川軍は初日の攻撃で大きな損害を出し、一時敗走したとも伝えられる 34 。ある記録では、この戦いで徳川方に300人、籠城側に200人余りの死者が出たとされており、決して一方的な戦いではなかったことが窺える 34 。この損害は、家康の攻城戦術がまだ発展途上であったことを示唆している。後の高天神城攻めで見せるような、付城を多用した兵糧攻めといった粘り強い戦術とは異なり、この時点では力攻めに頼る側面が強かった。この戦いでの苦戦が、家康に力攻めのリスクを再認識させ、より損害の少ない攻城戦術へとシフトしていく一つの契機となった可能性も考えられる。

戦闘は塩市口(しおいちぐち)などの城門付近で特に激しかったと推測される 38 。徳川軍は竹束(たけたば)や搔楯(かいたて)といった移動式の盾で鉄砲の弾を防ぎながら堀を埋め、城壁に取り付くといった、当時の標準的な攻城戦術を展開したであろう 40

数に勝る徳川軍は、やがて外郭、二の丸、三の丸を次々と突破 34 。本丸に追い詰められたお田鶴の方は、もはやこれまでと覚悟を決め、侍女たちと共に城門を開き、敵陣へ最後の突撃を敢行。奮戦の末、全員が討ち死にしたと伝えられている 12 。こうして、引馬城は徳川家康の手に落ちた。

第四章:戦後処理と新たなる拠点

引馬城の落城は、徳川家康の遠江支配の本格的な始まりであり、西上を目論む武田信玄に対抗するための戦略拠点を築くという、より大きな構想の第一歩であった。この戦いがもたらした多岐にわたる影響は、この地の運命を大きく変えていくことになる。

遠江平定の進展と「浜松」の誕生

引馬城を手中に収めた家康は、遠江国西部の支配を確固たるものにした 27 。これにより、今川氏真が籠城する東遠江の拠点・掛川城はさらに孤立を深め、氏真への心理的圧迫は増大した 30

そして元亀元年(1570年)、家康は生涯における大きな決断を下す。本拠地を三河岡崎城から引馬へと移し、城の名を「浜松城」と改めたのである 43 。表向きの理由は、「引馬(ひくま)」が敗走を意味する「馬を引く」に通じ、縁起が悪いというものであった 46 。しかし、その真の狙いは、より深い戦略的意図に基づいていた。地名ごと改めるという行為は、この地がもはや今川の旧領ではなく、徳川の新たな支配地であることを内外に宣言する強力な政治的パフォーマンスであった。これは、織田信長が稲葉山城を「岐阜城」と改めた手法に倣ったものであり、家康が「三河の国衆の盟主」から「東海地方に覇を唱える戦国大名」へと自己認識を変化させたことの現れであった。

対武田の最前線基地としての大改修

家康が浜松の地を選んだのは、その戦略的価値ゆえであった。東海道を押さえ、天竜川を天然の要害とするこの地は、武田信玄の西上作戦に対する防衛拠点として絶好の立地だったのである 48 。家康は引馬城を接収後、その縄張りを大幅に拡張・改修した 51

特筆すべきは、敵である武田の築城技術を積極的に導入した点である。武田との戦いの中で接収した城の技術、特に斜面を横切るように掘られた「横堀」などを取り入れ、浜松城の防御力を飛躍的に向上させた 48 。これは、敵の優れた点を貪欲に吸収する家康の実利的な姿勢を物語っている。この改修により、旧引馬城(古城)は城域の東の守りとして取り込まれ、城の中心部は西側の台地へと移された 48 。石垣はまだ自然石を加工せずに積み上げる「野面積み」が中心であったが 53 、対武田の最前線基地としての浜松城の基礎がこの時に築かれたのである。

悲劇のヒロイン、後世へ ― 「椿姫観音」の誕生

戦後、家康はお田鶴の方とその侍女たちの死を悼み、手厚く葬ったとされる 35 。この逸話に、もう一人の女性が関わることで、新たな伝説が生まれる。家康の正室・築山殿である。彼女はお田鶴の方と縁戚関係にあったとされ、その死を哀れみ、墓所の周りに100株余りの椿を植えて供養したという 12 。この物語は、今川家出身である築山殿の慈悲深さを示すと共に、敵将を敬意をもって弔う家康の徳の高さを演出する効果も持っていた可能性がある。

この塚はいつしか「椿姫塚」として地域の人々に語り継がれ、毎年美しい花を咲かせる椿がお田鶴の方の化身と見なされるようになった 15 。そして昭和19年(1944年)には観音堂が建立され、戦災による焼失を経て昭和27年(1952年)に再建、現在も「椿姫観音」として地域の人々の信仰を集めている 19 。一つの戦いの記憶が、地域の歴史や信仰の中に溶け込み、新たな文化を形成していく過程を示す好例と言えよう。

結論:天下人の礎

永禄11年(1568年)の引馬城の戦いは、戦国時代の数多の合戦の中で、その規模こそ大きくはない。しかし、徳川家康の生涯、ひいては日本の歴史の展開において、極めて重要な画期をなす出来事であった。

第一に、この戦いは徳川家康による遠江支配を決定づけた。父祖伝来の三河国に加え、自らの実力で獲得した最初の国である遠江を確保したことで、徳川家の領国基盤は飛躍的に強化された 44 。これは、家康が三河の一国衆から、東海地方に覇を唱える有力な戦国大名へと脱皮したことを意味する。

第二に、浜松城という新たな戦略拠点の獲得は、その後の対武田戦略の根幹を成した。以降十数年にわたる武田信玄・勝頼との死闘において、浜松城は徳川方の生命線となる。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、この城から出撃して生涯最大の敗北を喫することになるが 58 、同時にこの城があったからこそ、武田の猛攻に耐え、最終的な勝利へと繋げることができたのである。

第三に、この戦いは東海地方の勢力図の転換点であった。かつての「海道一の弓取り」今川氏が歴史の舞台から完全に退場し、その広大な遺産を巡って駿河の武田と遠江の徳川が直接対峙する、新たな時代の幕開けを告げた。

最後に、この一連の軍事行動は、徳川家康という武将の成長を如実に示している。巧みな調略によって敵を切り崩し、迅速な軍事行動で機を捉え、そして将来を見据えた拠点構築を行う。今川家の人質として忍従の日々を送った青年は、この遠江侵攻と引馬城攻略を経て、天下を視野に入れる「戦略家」へと大きく変貌を遂げた。引馬城の戦いは、徳川家康が天下人へと至る長い道のりにおける、小さくも決定的な礎の一つだったのである。

引用文献

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  57. 椿姫観音 | 浜松情報BOOK http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4dd1c5dfcc2dd.html
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