御着城の戦い(1577)
天正播磨動乱史:御着城をめぐる攻防と小寺・黒田家の決断
序章:天下布武の奔流、播磨へ
天正五年(1577年)、織田信長による天下統一事業は、その最終段階へと向かう新たな局面を迎えていた。畿内をほぼ手中に収めた信長の次なる目標は、西国に広大な勢力圏を築く毛利氏の打倒であった 1 。この壮大な構想は「中国攻め」と称され、その総司令官には信長が最も信頼する部将の一人、羽柴秀吉が任命された 2 。この決定が、播磨国、そして御着城主・小寺政職とその家臣・黒田官兵衛の運命を、時代の大きな奔流へと投げ込むことになる。
織田信長の西進戦略と毛利輝元の対峙
当時、毛利氏は当主・毛利輝元のもと、叔父である吉川元春と小早川隆景という二人の名将、世に言う「毛利両川」に支えられ、中国地方一円に覇を唱える巨大勢力であった 1 。彼らは、信長に京を追われた室町幕府第十五代将軍・足利義昭を庇護し、反信長勢力の中核として、織田家と全面的な対決姿勢を示していた 3 。天正四年(1576年)には、石山本願寺への兵糧搬入をめぐる第一次木津川口の戦いにおいて、毛利水軍が織田方の九鬼水軍を壊滅させる大勝利を収めており 4 、その力は信長の天下統一にとって最大の障壁となっていた。信長の中国攻めは、この西国の雄を屈服させるための、国家の命運を賭した大事業だったのである。
緩衝地帯・播磨の地政学的価値
この織田と毛利という二大勢力の間に位置するのが、播磨国であった。東は織田の勢力圏である摂津に、西は毛利の影響下にある備前に接するこの地は、両者が激突する最前線であり、地政学的に極めて重要な緩衝地帯であった。この地を制するものが、中国攻めの主導権を握ることは火を見るより明らかであった。
しかし、当時の播磨は統一された権力によって治められていたわけではない。かつての守護大名・赤松氏の権威は失墜し、御着城の小寺氏、三木城の別所氏、英賀城の三木氏といった国衆(在地領主)が群雄割拠する、複雑な政治情勢を呈していた 5 。彼らは、それぞれが独立した勢力として、二大勢力の間で家の存続を賭けた綱渡りのような外交を繰り広げていた。秀吉の播磨進駐は、単なる軍事侵攻ではなく、これらの国衆をいかに自陣営に引き入れるかという、高度な政治的調略の始まりを意味していた。播磨平定の本質は、武力による制圧以上に、国衆たちの心を掴むための外交戦・情報戦だったのである。
御着城主・小寺政職の立場
播磨国衆の中でも、御着城を本拠とする小寺政職は、有力な領主の一人であった。小寺氏は播磨守護・赤松氏の一族という名門の出自を誇り 6 、その居城である御着城は、別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び「播磨三大城」と称されるほどの堅城であった 8 。城は交通の要衝に位置し、山陽道や城下町を取り込んだ惣構えの平城であり、その勢威は決して小さなものではなかった 8 。
しかし、その実態は、巨大勢力に挟まれた中小領主の域を出るものではなかった。東から迫る織田の圧力、西から睨みを利かせる毛利の威勢。どちらに付けば家名を保ち、領地を安堵されるのか。あるいは、どちらに付けば滅亡の憂き目に遭うのか。政職が下さねばならない決断は、常に一族の存亡に直結するものであった。後世、彼が「優柔不断」と評されることがあるが 10 、それはこの極度に不安定な状況下で、最善の選択肢を見出そうとする苦悩の裏返しでもあった。彼の苦悩は、戦国時代後期において、もはや独立を保てなくなった地方領主が、中央の巨大権力に飲み込まれていく過程で経験した、普遍的な悲劇を象徴している。
家老・黒田官兵衛の台頭
この小寺家の家臣団の中に、後に天下の軍師としてその名を馳せることになる人物がいた。姫路城代を務める家老、黒田官兵衛(孝高)である 11 。黒田家は官兵衛の父・職隆の代から小寺氏に仕え、その忠誠と武勇を高く評価されていた。政職は職隆に自らの「職」の字と「小寺」の姓を与え 12 、官兵衛に対しても絶大な信頼を寄せていた 13 。その信頼は、家中の方針を決める重要な局面において、政職が実質的に官兵衛に判断を委ねるほど深いものであった 14 。この主君と家臣の特異な関係性が、やがて来る播磨の動乱の中で、御着城の、そして小寺家そのものの運命を大きく左右していくことになるのである。
第一章:織田への帰順 ― 官兵衛の先見と政職の決断
天正五年(1577年)、織田と毛利の対立が激化する中、播磨の国衆たちは重大な選択を迫られていた。小寺家中も例外ではなく、毛利に付くべきか、織田に付くべきかで議論は紛糾した。この岐路において、一人の家臣の先見性が、小寺家の進むべき道を照らし出すことになる。
天正五年(1577年):官兵衛の進言と政職の決断
家臣たちの意見が二分する中、黒田官兵衛はただ一人、明確なビジョンを示した。「もはや毛利の時代にあらず。次の天下を担うは織田信長である」。彼は、信長の圧倒的な軍事力と革新的な政策を冷静に分析し、織田方へ帰順することこそが小寺家の生き残る唯一の道であると強く主張した 15 。
主君・小寺政職は、この最も信頼する家臣の言葉に賭けることを決断する。彼は官兵衛を信長への使者として派遣し、小寺家の恭順の意を伝えさせることにした 16 。天正三年(1575年)のこととも伝わるこの謁見で、官兵衛は岐阜城にて信長と対面し、見事にその役目を果たした。信長は播磨の有力国衆である小寺氏の帰順を大いに喜び、その証として、官兵衛に名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を授与した 16 。これは単なる褒賞ではない。信長が官兵衛の才覚を認め、小寺氏を織田家の家臣団の一員として正式に迎え入れたことを天下に示す、象徴的な出来事であった。
同年十月:秀吉の播磨入りと姫路城の提供
そして天正五年十月、羽柴秀吉率いる中国攻めの軍勢が、満を持して播磨国へ進駐を開始した 18 。この時、官兵衛は驚くべき行動に出る。彼は高砂市の阿弥陀村付近まで秀吉を出迎えると、主君・政職の居城である御着城ではなく、自らの居城である姫路城を、中国攻めの本拠地として提供することを申し出たのである 11 。
この申し出は、秀吉にとってまさに乾天の慈雨であった。播磨に何の拠点も持たない秀吉軍にとって、姫路城という堅固な城を即座に兵站拠点として確保できる意味は計り知れない。しかし、この行動の真意は、単なる城の提供に留まらない。官兵衛は、主君の本拠地を差し出すという形を避けつつ、自らの最大の軍事資産を秀吉に委ねることで、秀吉との間に直接的かつ強固な信頼関係を築こうとしたのである。これにより、官兵衛は小寺家の一家臣という立場から、秀吉にとって播磨平定に不可欠な「戦略的パートナー」へと、その地位を飛躍させた。これは、官兵衛による未来への壮大な投資であった。さらに官兵衛は、恭順の証として、嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を人質として秀吉に差し出した 19 。この覚悟が、秀吉の官兵衛に対する信頼を絶対的なものとした。
同年十一月~十二月:初期平定戦の成功
姫路城という拠点を手に入れた秀吉は、官兵衛の案内と調略のもと、播磨国内の反織田勢力の掃討作戦を迅速に開始した。最初の目標は、西播磨にあって毛利・宇喜多方として抵抗の姿勢を見せていた上月城主・赤松政範であった 22 。
十一月二十七日、秀吉軍は官兵衛を先陣とし、尼子氏の再興を悲願とする山中幸盛(鹿介)らを道案内役として上月城へ進軍 23 。瞬く間に支城を攻略し、本城を包囲した。これに対し、備前の宇喜多直家は援軍を派遣するが、秀吉はこれを迎撃。官兵衛らの奮戦により宇喜多の援軍は撃退され、上月城へと追い込まれた 23 。完全に孤立した上月城は、十二月三日、ついに落城。城主・赤松政範は一族と共に自刃し、秀吉は降伏を許さず城内の兵をことごとく処刑するという厳しい処置で、播磨における織田家の威光を示した 22 。
この一連の戦いにおける官兵衛の働きは、軍功としても調略としても目覚ましいものであった 11 。彼の持つ播磨国内の人脈と情報網、そして的確な戦術眼がなければ、これほど迅速な平定は不可能であった。この成功により、播磨の大部分は一旦、織田方の支配下に入り、秀吉の中国攻めは順風満帆な滑り出しを見せたかに思われた 26 。
第二章:激震 ― 別所・荒木の謀反と播磨の分裂
天正五年末の時点で、播磨平定は順調に進んでいるように見えた。しかし、その平穏は長くは続かなかった。天正六年(1578年)、播磨の国衆たちの心を揺るがす二つの大きな事件が、秀吉の計画を根底から覆し、小寺政職を破滅的な決断へと導くことになる。
天正六年(1578年)二月:別所長治の離反
年が明けた天正六年二月、突如として播磨の情勢は暗転する。東播磨に最大の勢力を誇った三木城主・別所長治が、織田方への離反を表明し、毛利方へと寝返ったのである 22 。離反の直接的な原因については、毛利方と通じていた叔父・別所吉親の讒言や、秀吉の尊大な態度への反発など、諸説が入り乱れており定かではない。しかし、播磨の有力国衆である別所氏の離反は、他の国衆たちの動揺を誘い、秀吉の播磨平定計画に深刻な亀裂を生じさせた。秀吉は中国攻めの足を止め、この予期せぬ反乱の鎮圧に全力を注がざるを得なくなった。
同年十月:荒木村重の謀反という衝撃
別所氏の離反だけでも秀吉にとっては大きな痛手であったが、同年十月、それを遥かに上回る衝撃的な事件が発生する。摂津国有岡城主であり、信長の方面軍司令官クラスの重臣であった荒木村重が、突如として信長に謀反を起こしたのである 28 。
この事件が播磨の国衆たちに与えた衝撃は、計り知れないものがあった。別所氏の離反は、あくまで播磨という一地域の問題であった。しかし、織田家の中枢にいたはずの村重の謀反は、織田政権そのものの内部的な脆弱性を露呈させるものであった。これまで絶対的と思われた「織田の天下」という大前提が、大きく揺らいだ瞬間であった。これにより、小寺政職のように日和見的な態度を取っていた国衆たちは、「本当に織田に付いていて安全なのか」という根本的な疑念を抱くに至る。毛利、別所、そして荒木という強力な連携が生まれれば、織田の勢いを押し返すことも可能かもしれない。そのような期待が、播磨の国衆たちの間で現実味を帯びていった。荒木村重の謀反は、彼らの損得勘定を根底から覆す、まさにゲームチェンジャーとなったのである。
小寺政職の離反と官兵衛の幽閉
旧知の間柄であった荒木村重の謀反に、小寺政職は激しく動揺した。そして、この新たな反信長連合に加わることこそが、小寺家の生き残る道であると判断し、毛利方へ寝返ることを決意する 29 。
この主君の破滅的な決断を知った黒田官兵衛は、御着城へ駆けつけ、翻意を促すべく必死の説得を試みた。しかし、一度毛利方への寝返りを決めた政職の意思は固かった。彼は官兵衛の説得を退けると、「荒木村重殿が翻意するのであれば、私もそれに従おう」という、事実上の不可能事を官兵衛に突きつけた 29 。
もはや主家を救う道はこれしかないと覚悟を決めた官兵衛は、単身で有岡城へ乗り込み、村重の説得を試みる。しかし、村重の決意もまた固く、説得は失敗に終わる。それどころか、官兵衛は村重に捕らえられ、有岡城内の土牢に幽閉されるという最悪の事態に陥った 28 。
さらに衝撃的なことに、政職は村重に対し、説得に赴いた官兵衛を殺害するよう密かに依頼していた 29 。最も信頼していたはずの家臣を、自らの手で葬り去ろうとしたのである。この行動の背景には、官兵衛の存在そのものが、自らの決断を揺るがす最大の障害であったという政職の恐怖心があった。官兵衛の卓越した弁舌と論理の前では、自らの決断が誤りであると論破されてしまう。これまで重要な判断を官兵衛に依存してきた政職にとって、官兵衛を物理的に排除することは、後戻りできない状況を作り出し、自らの決断を正当化するための、歪んだ形での「自立」の試みであったのかもしれない。幸いにも、村重は説得の使者を殺すことを義とせず、官兵衛を幽閉に留めたが 33 、この一件により、官兵衛は主君から完全に裏切られることとなったのである。
時系列分析表:天正播磨動乱(1577年~1580年)
播磨の情勢が激変したこの期間の主要な出来事を時系列で整理すると、各勢力の行動が相互に連鎖している様子が明確に見て取れる。
年月 (西暦/和暦) |
羽柴秀吉・織田方の動向 |
小寺政職・黒田官兵衛の動向 |
別所・荒木など周辺勢力の動向 |
1577年 (天正5年) 10月 |
播磨へ進駐。 |
官兵衛、秀吉を出迎え姫路城を提供。政職、織田方に恭順。 |
播磨国衆の多くが織田方に従う。 |
1577年 (天正5年) 11-12月 |
上月城を攻略。 |
官兵衛、先陣として活躍。 |
反織田方の赤松政範が滅亡。 |
1578年 (天正6年) 2月 |
三木城攻めを開始。 |
織田方として行動。 |
別所長治が離反、三木城に籠城。 |
1578年 (天正6年) 10月 |
荒木村重の謀反に対応。官兵衛の離反を疑い、松寿丸の処刑を命令。 |
政職、村重に同調し離反を決意。官兵衛、説得のため有岡城へ向かい幽閉される。 |
荒木村重が有岡城で謀反。 |
1579年 (天正7年) |
三木城を包囲(兵糧攻め)。御着城など周辺諸城を攻撃。 |
政職、御着城を脱出し毛利領へ逃亡。官兵衛は有岡城に幽閉中。 |
三木城の籠城戦が続く。 |
1580年 (天正8年) 1月 |
三木城を陥落させる。 |
(政職は逃亡中、官兵衛は救出後) |
別所長治一族が自刃。 |
この表が示すように、天正六年の一年間に別所と荒木の離反が立て続けに起こり、それに呼応して小寺政職が動くという連鎖反応が、播磨の戦局を決定づけた。「御着城の戦い」は、この播磨全体の動乱という大きな文脈の中で発生した、必然的な帰結であった。
第三章:御着城、落日の刻 ― 攻防から無血開城へ
黒田官兵衛は有岡城の土牢に囚われ、主君・小寺政職は織田方へ反旗を翻した。これにより、播磨における織田方の重要拠点の一つであったはずの御着城は、一夜にして秀吉の攻撃目標へと変わった。しかし、その結末は、壮絶な攻城戦とはならなかった。それは、秀吉の冷徹な戦略眼がもたらした、必然的な帰結であった。
秀吉の播磨再平定戦略:三木城の兵糧攻め
荒木村重の謀反という事態に直面しながらも、秀吉は冷静に播磨の戦局を見極めていた。彼は、播磨における反乱の根源は三木城の別所長治にあると判断し、その攻略を最優先課題とした。しかし、三木城は播磨屈指の堅城であり、力攻めは多大な犠牲を伴う。そこで秀吉が選択したのは、城の周囲に幾重もの付城(砦)を築いて完全な包囲網を構築し、兵糧の補給路を完全に遮断する、世に言う「三木の干殺し」という徹底した兵糧攻めであった 5 。この戦術は、敵の戦力を直接削ぐのではなく、その戦意と生命線を断ち切る、秀吉の得意とする戦法であった。
御着城への圧力と孤立化
御着城への攻撃は、この三木城大包囲網の一環として位置づけられていた。秀吉の主目的は、御着城を直接陥落させることよりも、三木城への支援ルートを遮断し、背後の安全を確保することにあった 34 。御着城は、秀吉の戦略の中で、物理的に破壊される前に、まず戦略的に無力化される運命にあった。
播磨の郷土史料である『播磨鑑』には、この時期の御着城をめぐる攻防戦の様子が、一つの伝承として記されている。それによれば、秀吉軍が御着城に攻め寄せた際、城兵は四方を固める堀と川を利して奮戦し、一時的に秀吉軍を撃退したという。特に、原小五郎という弓の名手が、秀吉の馬印である瓢箪に、自らの名を記した矢を多数射当て、その武勇を敵味方から称賛されたと伝えられている 35 。この記述は、局地的な小競り合いや、城兵の士気の高さを示すものかもしれないが、播磨全体の大局には何ら影響を与えるものではなかった。秀吉の巨大な軍事機構は、着実に御着城の周囲を締め上げ、その孤立を深めていった。
天正七年(1579年):政職の逃亡と城の放棄
天正七年に入ると、三木城の包囲網は完成し、城内は深刻な食糧不足に陥り始める。毛利からの援軍も秀吉軍に阻まれ、播磨の反織田勢力は次々と鎮圧されていった。御着城も例外ではなく、外部からの支援は完全に途絶え、城は陸の孤島と化した。
この絶望的な状況を前に、小寺政職は籠城を続けることを断念する。もはや抵抗は無意味であると悟った彼は、嫡男・氏職を伴い、城兵を見捨てて密かに城を脱出。毛利氏を頼り、足利義昭が滞在する備後国鞆の浦へと落ち延びていった 8 。城主による城の放棄。それは、御着城が組織的な抵抗を終え、事実上落城した瞬間であった。
無血開城
城主・政職が逃亡した後の御着城には、政職が毛利方に付いた際に同盟者である別所氏から派遣されていた家臣・岡本秀治が城将として残されていた 36 。この事実は、極めて重要な意味を持つ。政職の離反は、織田からの自立を目指すどころか、結果としてより強力な近隣勢力である別所氏への軍事的な従属を招いていた可能性が高い。自らの城においてさえ、その軍事指揮権の一部が他者に移譲されていたという現実は、小寺家の支配力が末期には名目上のものに過ぎなかったことを示唆している。
主君である政職はすでになく、抵抗を続ける大義名分も戦力も残されていなかった。岡本秀治は現実的な判断を下し、秀吉軍に降伏。城は戦火を交えることなく開け渡された 36 。これが、世に言う「御着城の戦い」の静かな結末であった。開城後、城は秀吉の重臣である蜂須賀正勝が一時的に接収し 36 、播磨平定が完了した後の天正八年(1580年)、秀吉の命令によって城割り(破却)が行われ、播磨三大城と謳われた名城はその歴史に幕を下ろした 8 。
第四章:落城後の人々 ― それぞれの行末
御着城の無血開城は、一つの時代の終わりを告げると同時に、物語に関わった人々の新たな人生の始まりでもあった。彼らがその後歩んだ道は、戦国乱世の栄枯盛衰を鮮やかに映し出している。
小寺政職の末路
主君の責務を放棄し、備後鞆の浦へ逃れた小寺政職は、亡命中の将軍・足利義昭に仕えた 13 。しかし、かつて播磨に威を誇った領主の面影はなく、歴史の表舞台に返り咲くことは二度となかった。天正十年(1582年)とも十二年(1584年)とも伝わる年に、彼はその地で失意のうちに生涯を終えた 13 。時代の流れを読み誤った者の末路は、あまりにも寂しいものであった。
庇護された嫡男・氏職
父と共に逃亡した嫡男の氏職は、しかし、父とは異なる運命を辿った。父の死後、彼は羽柴秀吉の許しを得て、かつての家臣であった黒田官兵衛によって播磨に呼び戻される 38 。その後、官兵衛・長政父子に客分として仕え、黒田家が豊前中津、そして筑前福岡へと移封されるのに従った 39 。彼は武将としてではなく、連歌や茶の湯を嗜む文化人として穏やかな余生を送り、福岡藩士として小寺の家名を後世に伝えた 6 。
官兵衛が、自らを殺害しようとまでした旧主の子を庇護した行為は、単なる温情からだけではなかった。これは、武家社会における高度な政治的パフォーマンスでもあった。旧主への恩を忘れないという「義」を示すことで自らの評判を高め、滅ぼした相手の一族を許すことで「度量の大きさ」を誇示し、新たな家臣団を心服させる。さらに、小寺家の旧臣たちを円滑に黒田家中に組み込む上で、正統な後継者である氏職を手元に置くことには、人心掌握という現実的な利益もあった。官兵衛のこの処遇は、個人的な感情を超えた、極めて計算された政治的行為だったのである。
飛躍する黒田官兵衛
一方、約一年間にわたる有岡城での過酷な幽閉生活の末、落城寸前に救出された黒田官兵衛は、秀吉のもとへ復帰した。主君に裏切られ、命の危機に瀕したこの経験は、しかし、彼のキャリアにとって決定的な転機となった。この苦難は、結果として彼の秀吉への揺るぎない忠誠心を証明し、二人の絆をより一層強固なものにした。これ以降、官兵衛は秀吉の天下取り事業において、比類なき軍師としてその才能を遺憾なく発揮する。三木城、鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻め、そして本能寺の変後の「中国大返し」に至るまで、彼の献策が秀吉を幾度となく勝利に導いた。彼はもはや小寺家の一家臣ではなく、豊臣政権下で大名へと駆け上がる、時代の寵児となっていた 11 。
天下への道を突き進む羽柴秀吉
御着城を無血開城させ、天正八年(1580年)一月には難攻不落を誇った三木城を兵糧攻めの末に陥落させると 26 、秀吉の播磨平定は最終段階に入った。同年四月には英賀城も降し、ここに播磨一国は完全に織田家の支配下に入った 26 。この播磨平定の成功は、秀吉の武将としての評価を不動のものとし、彼を織田家中で他の宿老たちから一頭地を抜けた存在へと押し上げた。そして、この播磨を盤石な拠点として、彼は鳥取城、備中高松城へと続く、毛利氏との本格的な決戦へと突き進んでいくのである 1 。
終章:御着城の戦いが歴史に刻んだもの
「御着城の戦い」は、関ヶ原の戦いのような天下分け目の決戦でも、大坂の陣のような壮絶な攻城戦でもない。その結末は、城主の逃亡と無血開城という、ある意味では地味なものであった。しかし、この一連の出来事は、戦国時代の転換期における重要な教訓と、時代の奔流に翻弄された人間たちのドラマを、我々に鮮烈に示している。
播磨平定における戦略的意義
御着城の無血開城は、播磨における反織田勢力の中心であった三木城の孤立を決定的なものとし、秀吉による播磨平定を大きく前進させた。これにより、織田軍は毛利氏との全面対決に戦力を集中させることが可能となり、中国攻め全体の戦略を円滑に進めるための重要な布石となった。この戦いは、秀吉の戦略家としての能力、特に武力と調略を巧みに組み合わせ、敵の戦意そのものを削いでいく戦法の有効性を証明した事例と言える。
中小領主の悲劇の象徴として
小寺政職の苦悩と破滅の物語は、巨大勢力の狭間で、時代の大きな流れを読み誤った地方領主が辿る典型的な末路を象徴している。彼の決断は、単に個人の資質の問題として片付けられるべきではない。それは、もはや独立した勢力としての存続が不可能になった中小領主たちが、中央の巨大権力という抗いがたい構造の中に飲み込まれていく過程で直面した、普遍的な悲劇なのである。彼の選択は、結果として誤りであったが、その背後には家の存続を願う必死の模索があったこともまた、忘れてはならない。
黒田官兵衛の伝説の序章として
そして何よりも、「御着城をめぐる動乱」は、黒田官兵衛という稀代の軍師の伝説が始まる場所であった。主君への忠誠を尽くしながらも的確な情勢分析を行い、織田への帰順という最善の道を示した先見性。そして、その主君に裏切られ、死の淵をさまようという過酷な試練。この一連の経験が、彼の人間性を深くし、その才覚を磨き上げた。この苦難を乗り越えたからこそ、彼は単なる播磨の一家臣から、天下を動かす大軍師へと飛躍を遂げることができたのである。
結論として、当初「御着城の戦い(1577)」として認識されていた事象は、実際には1577年の小寺氏による「織田方への帰順」という政治的決断に端を発し、別所・荒木の謀反という激動を経て、1579年の「無血開城」をもって終結する、約二年にわたる長大な 政治・戦略的キャンペーン であった。その本質は、城壁を巡る物理的な攻防戦ではなく、播磨国衆の心を巡る**「忠誠心の争奪戦」**に他ならない。そして最終的に、時代の趨勢を正確に見極め、揺るぎない覚悟を示した羽柴秀吉と黒田官兵衛が、その争奪戦の勝者となったのである。この戦いは、武力のみが全てではない、戦国時代後期の新たな戦いの様相を明確に物語っている。
引用文献
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- 毛利輝元の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64857/
- 毛利輝元は何をした人?「存在感がなかったけど関ヶ原でじつは西軍総大将だった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/terumoto-mouri
- 秀吉が2年に渡って兵糧攻めを行った「三木合戦」の顛末。別所長治ら戦国武将の凄惨な最期とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/70936/
- 武家家伝_小寺氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kodera_k.html
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- 黒田官兵衛は何をした人?「秀吉と天下を取った軍師が関ヶ原の裏で大博打をした」ハナシ https://busho.fun/person/kanbee-kuroda
- 黒田官兵衛の主君は誰なのか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1802
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- 小寺官兵衛の忠言 - 六芒星が頂に〜星天に掲げよ!二つ剣ノ銀杏紋〜(嶋森航) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054897753837/episodes/1177354054934317050
- 黒田官兵衛の名言・逸話46選 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/398
- 三英傑に評価された軍師・黒田官兵衛の交渉力|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-083.html
- 黒田官兵衛(くろだ かんべえ) - 志士伝 https://shishiden.com/?p=94
- 天正5年(1577)10月23日は羽柴秀吉が信長の命をうけ中国地方の毛利氏攻めのため京都を出発した日。既に信長方に服属していた黒田官兵衛の姫路城が拠点。在地領主たちの誘降を進め西播磨を支配下に置い - note https://note.com/ryobeokada/n/n6bd5584892ab
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- 「黒田長政」知略の父・官兵衛とは一線を画す、武勇に優れた将。 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/569
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- 御着城(兵庫県姫路市御国野町御着) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2015/05/blog-post.html?m=0
- No.025 新(しん)・播磨灘物語(はりまなだものがたり)-小寺氏(こでらし)と黒田氏(くろだし)- | アーカイブズ | 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/025/index.html
- 小寺氏職 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E6%B0%8F%E8%81%B7