最終更新日 2025-08-27

御館の乱(1578~79)

御館の乱(1578-1579):軍神の死が招いた越後動乱、その全貌と歴史的影響

序章:軍神の死、越後に落つる影

天正5年(1577年)、手取川の戦いにおいて織田信長の大軍を撃破し、その武威を天下に轟かせた「軍神」上杉謙信。次なる遠征の準備を進める中、天正6年(1578年)3月9日、居城である春日山城内の厠で突如倒れ、意識が戻らぬまま4日後の3月13日に急逝した 1 。享年49。その死は「不慮の虫気」あるいは「卒中」(脳溢血)とされ、あまりにも突然の出来事であった 1

この謙信の急死は、強大な上杉家に必然ともいえる混沌をもたらした。謙信は生涯不犯を貫き、正室も側室も置かなかったため実子がおらず、後継者を明確に指名していなかったのである 1 。この権力の空白を埋めるべく、二人の養子が後継者の座を巡って対峙することとなる。

一人は、上杉景勝。謙信の実姉である仙桃院の子であり、血縁上は最も謙信に近い甥にあたる 6 。坂戸城主・長尾政景の子として上田長尾家に生まれた彼は、祖母が上条上杉家の出身であることから、越後守護上杉家の血も引くという血統的正統性を有していた 6

もう一人は、上杉景虎。関東の覇者・北条氏康の七男として生まれ、かつての上杉家と北条家の同盟(越相同盟)の証として養子に入った貴公子である 5 。謙信は彼を寵愛し、自らの初名である「景虎」の名を与え、春日山城の三の丸に屋敷を構えさせるなど、厚遇していたと伝わる 9

謙信の死は、単に後継者指名の欠如という問題を引き起こしただけではなかった。それは、謙信個人のカリスマ的な軍事指導力に依存し、制度的な権力継承の仕組みを構築してこなかった上杉家の統治構造そのものの脆弱性を露呈させるものであった。景勝と景虎の並立は、平時においては越後国内の諸勢力、特に上田長尾氏と古志長尾氏といった長年の対立関係にある国人衆の均衡を保つための政治的配慮であった可能性が高い 10 。しかし、絶対的な権威者である謙信を失った瞬間、その均衡は崩壊し、二人の養子は各派閥が担ぎ上げる神輿となり、越後全土を巻き込む内乱「御館の乱」の幕が切って落とされることとなったのである。

第一章:初動の差、春日山城の掌握(天正6年3月~4月)

景勝の電光石火

謙信の死の報がもたらされるや否や、上杉景勝は驚くべき速さで行動を開始した。謙信の葬儀が執り行われたとされる3月15日、景勝は「謙信公の遺言である」と称し、春日山城の中枢である本丸(実城)を占拠。同時に、上杉家の力の源泉である金蔵と兵器蔵を完全に掌握した 2 。この行動は、単なる軍事的な拠点確保に留まらない。戦国時代において本城と金蔵を抑えることは、権力の象徴と実体を同時に掌握することを意味し、後継者としての正統性を内外に示す極めて重要な政治的行為であった 14

さらに景勝は、謙信が使用していた印判や公式な文書発給機構を接収 4 。これにより、彼は「上杉家当主」として公式な命令を発する権能を手に入れた。3月24日には、自身が謙信の後継者となったことを宣言する書状を越後国内外の諸将へ向けて発給し、既成事実化を推し進めた 2 。「謙信の遺言」という大義名分は、彼のクーデターともいえる行動を正当化するための創作であった可能性が高いが、権力の中枢を物理的に支配することで、その主張に抗いがたい現実味を持たせたのである。

後手に回った景虎

一方、上杉景虎は完全に初動で後れを取った。景勝に本丸を抑えられた景虎は、当初与えられていた春日山城の三の丸に立て籠もるも、やがて城下にある前関東管領・上杉憲政の居館「御館(おたて)」へと拠点を移さざるを得なくなった 4 。この「御館」は、その名の通り館であり、春日山城のような堅固な要塞ではなかった 15

この移動は、権力闘争における決定的なポジショニングの失敗であった。景勝が「城主」として正統な後継者の地位を固める一方で、景虎は物理的に権力の中枢から排除された「城下の有力者」、すなわち「挑戦者」という立場に追いやられた。これにより、情勢を傍観していた日和見の国人衆は、既成事実を作り上げた景勝に靡きやすくなるという、極めて不利な状況が生まれたのである。

この時期から、両陣営による味方工作が活発化し、越後の国人衆はそれぞれの利害と思惑に基づき、いずれかの陣営へと与していく 4 。早くも4月には、会津の蘆名氏がこの混乱に乗じて越後への侵攻を開始するなど、外部勢力の介入も始まり、事態は急速に悪化の一途を辿っていった 4

第二章:戦火の拡大、越後全土の内乱へ(天正6年5月~8月)

武力衝突の本格化

春日山城内での緊張は、ついに武力衝突へと発展した。天正6年(1578年)5月5日、景勝方の本丸から景虎方の三の丸への攻撃が開始され、時を同じくして城下の大場(現在の上越市)においても両軍が激突した 4 。この戦いを皮切りに、戦火は府中(現在の上越市中心部)から越後全土へと瞬く間に拡大していく 15

5月中旬、景虎は春日山城を完全に退去し、御館を本拠として本格的な抗戦態勢を整える 4 。5月17日には、約6,000の兵力で春日山城奪還を目指し総攻撃を仕掛けるが、景勝方の堅い守りの前に撃退された 4 。この頃になると、越後国内の各地で両派の城主たちが戦闘を開始し、国を二分する内乱の様相が鮮明となった。

勢力図の確定

この内乱は、単なる景勝と景虎の個人的な家督争いではなかった。それは、謙信時代にはそのカリスマ性によって抑えられていた、越後国内の長年にわたる地域的・歴史的な派閥抗争が、後継者問題を触媒として一挙に噴出したものであった。

勢力区分

主要人物・一族

支持陣営

主な理由・背景

上田衆

上杉景勝、斎藤朝信、直江信綱

景勝方

景勝の出身母体であり、権力基盤。謙信政権下で台頭した新興勢力。

古志長尾氏

上杉景信、神余親綱

景虎方

謙信の父・為景の時代から続く上田長尾氏との長年の対立関係 10

揚北衆

新発田重家、五十公野治長

景勝方

府内長尾氏(謙信の本家)から自立的傾向が強く、上田長尾氏と親密な関係にあった 10

謙信旗本・一門

上杉憲政、北条高広、本庄秀綱

景虎方

謙信政権の中枢を担った譜代の重臣層。血縁のない景勝のクーデターに強く反発した 11

外部勢力(当初)

北条氏政、蘆名盛氏、伊達輝宗

景虎方

景虎との血縁関係(北条氏)や、謙信死後の越後への影響力拡大を狙う同盟関係 4

外部勢力(転換)

武田勝頼

当初景虎方→景勝方

外交的駆け引きと、黄金や領土割譲といった実利に基づく戦略的転換。

この勢力図が示すように、当初の戦局は、謙信政権を支えた譜代の重臣や一門衆の多くを味方につけ、さらに外部からの強力な支援が期待できる景虎方が圧倒的に優勢であった 16

景勝の危機

景虎方はその優勢を背景に、春日山城周辺の支城を次々と攻略。主要な街道を封鎖し、景勝を本拠地である春日山城に孤立させることに成功した 18 。外部との連絡を絶たれ、城内に内通者が現れるなど、景勝は絶体絶命の窮地に立たされた。この状況を打開するため、景勝は一縷の望みを託し、外交という名の最後の賭けに出る。

第三章:外部勢力の介入と外交戦(天正6年5月~9月)

景虎方の外交戦略と北条氏の限界

優勢に戦を進める景虎は、勝利を確実なものとするため、実家である小田原の北条氏政、会津の蘆名盛氏、出羽の伊達輝宗ら、周辺の大名に大々的な援軍を要請した 4 。これに応じ、蘆名盛氏は越後蒲原郡に侵攻し、景勝方の背後を脅かす 4

しかし、最大の頼みである北条氏政は、常陸の佐竹氏など関東の敵対勢力との戦いの最中にあり、越後へ大規模な軍勢を即座に派遣することが困難な状況にあった 21 。苦慮した氏政は、当時同盟関係にあった甲斐の武田勝頼に対し、景虎支援のための出兵を依頼した。これが、戦局を根底から覆す引き金となる。

戦局の転換点:武田勝頼の選択

天正6年5月下旬、武田勝頼は北条氏の要請に応じ、武田信豊を先鋒とする2万ともいわれる大軍を信越国境へと進めた 4 。当初は景虎を支援する構えを見せ、景勝方は最大の危機を迎える。

この窮地にあって、景勝は起死回生の一手として、勝頼に使者を送り、破格の条件での和睦を申し入れた 15

  1. 黄金の譲渡: 長篠の戦い以降、財政が逼迫していた武田家にとって喉から手が出るほど欲しい軍資金。一説には1万両ともいわれる莫大な黄金の提供を約束した 15
  2. 領土の割譲: 武田家が長年望みながらも、謙信の存命中は決して手に入れることのできなかった上野国の沼田領や、信濃国北部の飯山領といった戦略的要地の割譲を提示した 25
  3. 婚姻同盟: 勝頼の妹・菊姫を景勝の正室として迎え、強固な同盟関係(甲越同盟)を築くことを提案した 25

この申し出は、勝頼を深く悩ませた。同盟者である北条氏との信義を守り景虎を助けるか、それとも目先の莫大な実利を取り景勝と結ぶか。勝頼の出した結論は後者であった。天正6年8月下旬、勝頼は景勝の条件を全面的に受け入れて和睦を締結。表向きは景勝・景虎間の和平を調停するという名目で越後府中に着陣するが、事実上、景勝方へと寝返ったのである 5

この勝頼の決定は、短期的な国益を最大化するという観点では合理的な判断であったかもしれない。景虎が勝利し、上杉家が北条家の影響下に置かれれば、武田は北と東から挟撃される戦略的危機に陥る可能性があった 4 。しかし、この決断は、同盟者の依頼で出兵しながらその弟を裏切るという、戦国武将間の信義を根底から覆す行為であった。激怒した北条氏政は甲相同盟を即座に破棄し、これまで敵対していた徳川家康、さらには織田信長と結ぶに至る 4 。これにより武田家は完全に孤立し、わずか3年半後に迎える滅亡への道を、自ら突き進むことになったのである。

第四章:冬の到来と御館の孤立(天正6年10月~天正7年1月)

北条勢の侵攻と限界

武田勝頼の裏切りという衝撃的な事態に見舞われながらも、北条氏政は弟・景虎を見捨てることなく、実弟の北条氏照・氏邦らを将とする援軍を越後へと派遣した 13 。北条軍は三国峠を越えて越後へ侵攻し、景勝方の拠点である坂戸城に攻めかかる。

しかし、景勝方は関東からの侵攻ルートを熟知しており、防衛の要である坂戸城に兵力を集中させてこれを固守 13 。北条軍は堅城を攻めあぐね、戦線は膠着した 11 。そうこうするうちに10月を迎え、越後には厳しい冬が到来する。世界有数の豪雪地帯である越後では、冬の軍事行動は不可能に近い。補給路と退路が雪で閉ざされることを恐れた北条軍は、春の雪解けを待って再侵攻することを期し、やむなく撤退を開始した 13

御館の絶望

武田に裏切られ、最大の頼みであった実家・北条の援軍も雪に阻まれて去った。御館に籠る景虎方は、完全に孤立無援の状態に陥った 11

甲越同盟によって後背の憂いを断った景勝は、全戦力を景虎方に集中させる。10月以降、春日山城からの攻撃は激しさを増し、御館の包囲網は日ごとに狭まっていった。外部からの補給は完全に途絶え、御館では兵糧の窮乏が深刻化する 4 。さらに、それまで日和見を決め込んでいた越中の河田長親といった武将たちが、趨勢は決したと判断し、続々と景勝方への味方を表明 13 。景虎方からは味方の離反が相次ぎ、その勢力は急速に萎んでいった 4 。長く厳しい冬が、景虎方に絶望的な状況をもたらしたのである。

第五章:悲劇的終焉、鮫ヶ尾城の露(天正7年2月~3月)

最後の総攻撃

春の雪解けを待てば、再び北条の援軍が来援する可能性がある。景勝は、その前に乱を完全に終結させるべく、厳冬の中での決戦を決意した。天正7年(1579年)2月1日、景勝は配下諸将に対し、御館への総攻撃を命令する 4

景勝軍の猛攻の前に、景虎方の勇将として知られた北条高広の子・景広も奮戦の末に討ち死にし 4 、御館の外構えは次々と焼き払われた。府中の町は炎に包まれ、戦いは最終局面を迎えた 13

憲政の死と和睦の途絶

万策尽きた景虎方は、最後の望みを託し、和睦交渉を試みる。前関東管領であり、上杉家の正統を象徴する存在である上杉憲政と、景虎の嫡男・道満丸を景勝のもとへ送り、降伏を申し入れた 15

しかし、景勝の決意は固かった。彼はこの和睦交渉を拒絶し、使者として訪れた上杉憲政と、自らの甥にあたる道満丸を陣中にて殺害するという非情な手段に打って出た 15 。これにより、全ての交渉の道は断たれ、景虎に残された選択肢は、死か、あるいは絶望的な逃亡のみとなった。

御館落城と景虎の最期

天正7年3月17日、景虎はこれ以上の籠城は不可能と判断し、御館を脱出。実家である小田原を目指し、僅かな手勢と共に落ち延びていった 15

その道中、景虎は味方であるはずの鮫ヶ尾城主・堀江宗親を頼り、城内へと入る 9 。しかし、最後の頼みの綱であった堀江宗親は、既に景勝方に寝返っており、景虎を城内に閉じ込めて裏切った 9

進退窮まった景虎は、天正7年3月24日、鮫ヶ尾城内にて妻子と共に自刃して果てた 9 。享年26 9 。謙信の死から約一年、越後全土を焦土と化した「御館の乱」は、景勝の完全勝利によって、ついにその幕を閉じたのである。

第六章:残された傷跡、上杉家の黄昏

ピュロスの勝利

上杉景勝は、一年以上にわたる内乱を制し、越後の新たな国主となった。しかし、その勝利はあまりにも大きな代償を伴うものであった。国を二分した激しい戦いは、上杉家の国力を根底から揺るがし、人的・経済的資源を著しく消耗させた 4 。謙信が一代で築き上げた強大な軍事力は、この内乱によって大きく衰退したのである 4

新たな内乱の火種「新発田重家の乱」

乱の終結は、新たな火種を生んだ。戦後の論功行賞において、与えられる恩賞が景勝の出身母体である上田衆に偏り、乱の勝利に大きく貢献した他の国人衆、特に揚北衆の不満を招いた 4

この恩賞への不満を爆発させたのが、揚北衆の重鎮・新発田重家であった。彼は蘆名氏や伊達氏と密かに通じ、景勝に対して反乱を起こす 4 。疲弊した上杉家にとってこの反乱は大きな負担となり、その鎮圧には実に7年もの歳月を要することになった 4 。この長引く内戦は、上杉家の国力をさらに削いでいった。

上杉家の転落

御館の乱は、上杉家の歴史における大きな分水嶺であった。この内乱とそれに続く新発田の乱という約10年にわたる内戦は、上杉家を「天下を窺う全国区の大名」から、「自国の維持に汲々とする一地方勢力」へと転落させた。

国力が低下した隙を突かれ、織田信長の北陸方面軍を率いる柴田勝家によって、かつて謙信が制覇した能登・加賀・越中といった領土を次々と奪われた 4 。天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると、上杉家は織田の大軍に完全に包囲され、滅亡寸前にまで追い詰められる 4 。本能寺の変という歴史の偶然がなければ、上杉家がこの時点で滅亡していた可能性は極めて高い。

もはや単独で生き残ることが不可能となった景勝は、信長の後継者となった豊臣秀吉に臣従することで家名を保つ道を選ぶ。そして慶長3年(1598年)、秀吉の命により、先祖代々の地である越後を離れ、会津120万石へと移封される 3 。これは、謙信が築き上げた「独立王国・越後」の時代の完全な終焉を意味していた。

結論:御館の乱が戦国史に与えた影響

御館の乱は、単なる上杉家の内紛に留まらず、戦国時代後期の東国全体の勢力図を大きく塗り替える極めて重要な出来事であった。

第一に、上杉家の権力構造を根本から変えた。謙信時代の国人衆の連合体という性格は失われ、景勝を頂点とし、直江兼続に代表される上田長尾系の側近が実権を握る、より集権的な統治体制へと移行した 4

第二に、東国のパワーバランスを劇的に変化させた。上杉家の著しい弱体化、武田家滅亡の遠因形成、そして甲相同盟の破綻による北条家の戦略転換は、東国の有力大名が互いに消耗し合う結果を招いた。この権力の空白は、結果的に織田信長による東国平定を容易にし、天下統一への流れを加速させる一因となった。

軍神・上杉謙信の死から始まったこの悲劇的な内乱は、一つの時代の終わりを告げると共に、戦国という乱世の終焉に向けた新たな時代の幕開けを促す、歴史の転換点として位置づけられるのである。

引用文献

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  7. 戦国ドロドロバトル! 兄弟同士で戦にまで発展した後継争い‼ 名将・上杉謙信の跡をめぐる【御館の乱】 上杉景勝vs上杉景虎 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/44055
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