忍城水攻め(1590)
忍城水攻め(1590年)の総合的考察:戦国末期における攻防戦の実相
第一章:天下統一の奔流と武蔵国忍城 ― 合戦前夜の情勢
天正18年(1590年)に繰り広げられた忍城水攻めは、単一の攻城戦としてではなく、豊臣秀吉による天下統一事業の最終局面という、より広大な歴史的文脈の中に位置づけて理解する必要がある。本章では、合戦に至るまでの政治的・戦略的背景と、忍城が持つ特異な地理的条件を詳述し、この攻防戦が必然的に発生し、かつ特異な経過を辿った要因を明らかにする。
1.1. 豊臣秀吉の小田原征伐:最後の聖戦
天正18年(1590年)の時点で、豊臣秀吉は九州、四国、そして西国を平定し、その権威は日の本全土に及びつつあった。残すは関東の北条氏と東北の諸大名のみであり、天下統一はまさに最終段階にあった 1 。秀吉は、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発布し、豊臣政権が全国の平和と秩序を維持する最高権力であることを宣言していた。
この秩序に対する公然たる挑戦が、小田原征伐の直接的な引き金となった。天正17年(1589年)、北条氏の家臣が、秀吉の裁定によって真田氏の所領と定められていた上野国・名胡桃城を奪取するという事件が発生した 2 。これは秀吉にとって、関東の雄・北条氏を討伐する絶好の大義名分となった。秀吉はこの「惣無事令」違反を口実に、全国の諸大名に対して北条氏討伐の動員令を発したのである 2 。
この戦いは、単なる一地方大名の討伐に留まるものではなかった。秀吉は総勢20万を超える、日本史上でも類を見ない大軍を動員した 2 。これは、北条氏を軍事的に圧倒するだけでなく、未だ豊臣政権に完全には服属していない東北の諸大名に対し、その圧倒的な軍事力と権威を見せつけ、抵抗を断念させるという高度な戦略的意図に基づいていた。小田原征伐は、秀吉にとって天下統一を完成させるための「最後の聖戦」だったのである。
1.2. 北条氏の関東支配網と忍城の位置づけ
後北条氏は、約100年にわたり関東に君臨し、緻密な支配体制を築き上げていた。その根幹をなすのが、本拠地である難攻不落の小田原城と、関東一円に配置された支城群が形成する広域防衛ネットワークであった 5 。秀吉の大軍に対し、北条方は小田原城での籠城を基本戦略としつつ、各支城がそれぞれの持ち場で敵軍を足止めし、補給線を脅かすことで豊臣軍を疲弊させる作戦をとった。
これに対し秀吉は、自らの本隊で小田原城を厳重に包囲し兵糧攻めに持ち込むと同時に、別動隊を編成して関東各地の支城を各個撃破する、という二正面作戦を展開した 2 。忍城は、この支城攻略の対象とされた北条方の重要拠点の一つであった 5 。
武蔵国北部に位置する忍城の城主・成田氏は、元来、関東管領上杉氏に属していたが、戦国中期の混乱の中で北条氏の勢力が拡大すると、その支配下に入ったという経緯を持つ 4 。そのため、小田原征伐に際しては北条方として豊臣軍と対峙することが宿命づけられていた。忍城は、北関東における北条氏の防衛線を構成する重要な戦略拠点であり、豊臣方にとって、これを無力化することは小田原城の孤立を深める上で不可欠な工程であった。
1.3. 「浮き城」の地理と構造:天然の要害
忍城の攻防戦が歴史に名を刻むことになった最大の要因は、その特異な地理的条件にある。この城は、北に利根川、南に荒川という二大河川に挟まれた広大な低湿地帯の中心に築かれていた 5 。城の周囲は広大な沼や湿地によって自然の堀を形成しており、意図的に防御上有利な地形を選んで築城されたことがわかる 8 。
その構造も独特であった。沼地に点在する、周囲よりわずかに標高の高い土地(微高地)を本丸や二の丸といった主要な曲輪として利用し、それらを土橋や木橋で連結するという形式をとっていた 6 。この構造は、大軍による力攻めを極めて困難にする。攻め手は狭い橋や足場の悪い湿地を進むことを強いられ、守備側は少人数でも効率的に敵を迎撃することができたのである 5 。
この地理的特徴こそが、後に忍城が「浮き城」と称される所以となった。水攻めを受けた際、城の主要部は水没を免れ、あたかも広大な湖沼に城が浮かんでいるかのような光景を呈したことから、この名が生まれたと伝えられている 7 。この異名は、水という要素に対する忍城の驚異的な耐性を象徴している。攻城側が選択した「水攻め」という戦術は、城の弱点を突くものではなく、むしろ城の最大の長所である「水に守られている」という特性を逆用しようとする試みであった。しかし皮肉にも、攻城軍はその特性にこそ翻弄される結果となる。この戦いの結末は、開戦前からその地理的条件によって大きく方向づけられていたと言っても過言ではない。
第二章:両軍の対峙 ― 指揮官たちの肖像
忍城攻防戦の様相は、両軍の兵力や兵站だけでなく、それを率いた指揮官たちの個性や背景によっても大きく左右された。攻城軍は豊臣政権の中枢を担うエリート官僚が率いる大軍、対する籠城軍は当主不在の中、予期せぬ人物が指揮を執る寄せ集めの軍勢であった。この対照的な両軍の姿は、戦国末期における合戦の多様な側面を浮き彫りにしている。
表1:忍城水攻め 主要関連人物と兵力比較
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攻城軍(豊臣方) |
籠城軍(成田方) |
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総大将 |
石田三成 |
成田長親(城代代理) |
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主要武将・人物 |
大谷吉継、長束正家、佐竹義宣、真田昌幸、上杉景勝、浅野長政など |
甲斐姫、正木丹波守、酒巻靱負など |
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推定兵力 |
約20,000 - 23,000名 2 |
城兵:約500名 2 |
領民・雑兵:約2,500名 合計:約3,000名 2 |
兵士の構成 |
豊臣子飼いの武将、関東・東北の諸大名からなる連合軍 |
成田氏譜代の家臣、城周辺から籠城した農民・町人 |
2.1. 攻城軍:豊臣政権の中枢と寄せ集めの大軍
忍城攻略の任に当たったのは、豊臣秀吉の腹心、石田三成であった。三成は、卓越した算術能力と行政手腕を武器に、検地や兵站管理といった内政面で頭角を現し、秀吉の天下統一事業を支えてきた切れ者である 1 。しかし、そのキャリアは文官としての側面が強く、数万の軍勢を率いて一つの城を攻略するという、純粋な軍事作戦の総指揮官を務めるのはこれが初めての経験であった。秀吉がこの大役を三成に与えた背景には、腹心に武功を立てさせ、その権威を高めたいという「親心」があったとも言われている 1 。
三成の指揮下には、盟友として知られる大谷吉継や、同じく豊臣政権の財政を担う長束正家といった奉行衆が名を連ねていた 1 。彼らは豊臣政権の中枢を担うエリートたちであったが、三成同様、実戦経験が豊富な叩き上げの武将というよりは、吏僚としての能力を高く評価された人物たちであった。
さらに、この軍勢には佐竹義宣をはじめとする関東の諸大名も加わっていた 2 。彼らは元々北条氏と敵対していたか、あるいは秀吉の威勢にいち早く服属した大名たちであり、その動員は豊臣政権の威光を示すものであった。しかし、これは同時に、指揮系統が複雑な「寄せ集め」の軍勢であったことも意味する。総兵力は2万を超え、籠城側の10倍近い圧倒的な物量を誇ったが、その内実は必ずしも一枚岩ではなかった可能性がある。
2.2. 籠城軍:当主不在の城と意外な指導者たち
一方、籠城を余儀なくされた忍城方は、開戦前から極めて困難な状況に置かれていた。
城主・成田氏長 は、北条氏の命令に従い、主力の兵500を率いて本城である小田原城に籠城していた 2 。これは、忍城が総大将と主力部隊を欠いた状態で、豊臣の大軍を迎え撃たなければならないことを意味した。
この危機的状況で指揮を託されたのが、城主の従弟にあたる 成田長親 であった。本来、城の留守を預かる城代は長親の父・泰季であったが、彼は豊臣軍の攻撃が始まる直前に急死してしまう 1 。一族の協議の結果、その子である長親が急遽、総大将として籠城軍の指揮を執ることになった。後世に編纂された軍記物『成田記』などによれば、長親は武勇に優れているわけでもなく、智謀に長けているわけでもない、どこか掴みどころのない人物で、「のぼう様(でくのぼうの意)」と領民からあだ名されていたと描かれている 13 。しかし、この凡庸と見られた人物が、絶望的な状況下で城兵と領民をまとめ上げ、城を守り抜いたという事実は、リーダーシップの本質が武勇や才気だけにあるのではないことを示唆している。
そして、忍城の籠城戦を語る上で欠かせないのが、城主・氏長の娘である 甲斐姫 の存在である。彼女は、後世の軍記物において、自ら鎧兜を身に纏い、200余騎を率いて出陣し、敵将を討ち取るなど、獅子奮迅の活躍をしたと伝えられている、東国無双の美貌と武勇を兼ね備えた姫であった 14 。しかしながら、これらの華々しい武勇伝は、同時代の一次史料では確認することができない。史実として確かなのは、彼女が戦後、その武勇と美貌の噂を耳にした秀吉の側室となったという点のみである 16 。甲斐姫の伝説は、史実そのものというよりは、絶望的な籠城戦の中で人々が求めた英雄像の表れであり、また戦後に成田家が存続していく過程で、その功績を象徴する物語として形成されていった可能性が高い。彼女は、実際の戦闘における物理的な戦力として以上に、籠城する人々の士気を支える精神的な支柱として、大きな役割を果たしたのかもしれない。
籠城軍の兵力は、正規の武士は数百名に過ぎなかったが、成田氏を慕う領民たちが自ら武器を取り、約2,500人もが城に立てこもったとされている 2 。この事実は、成田氏の領国経営が領民の支持を得ていたことを示すと同時に、この戦いが一部の武士だけのものではなく、領民を巻き込んだ総力戦であったことを物語っている。圧倒的な兵力差にもかかわらず忍城が持ちこたえた最大の要因は、この領主と領民の強い結束と、それによって維持された高い士気にあったと考えられる。
第三章:忍城攻防戦詳報 ― 水攻めのリアルタイム再現
忍城を巡る約一ヶ月半の攻防は、力攻めの頓挫、前代未聞の大規模な水攻めの実施、そして予期せぬ堤の決壊と、息もつかせぬ展開を見せた。その終結は軍事的な決着ではなく、主戦場である小田原の政治的帰結によってもたらされた。本章では、古文書や記録に基づき、日付を追いながら合戦の推移を可能な限りリアルタイムに再現する。
表2:忍城水攻め 詳細年表
日付(天正18年) |
豊臣軍(石田三成軍)の動向 |
忍城(成田長親軍)の動向 |
小田原征伐全体の動向 |
6月4日 |
忍城への攻撃を開始 12 。 |
籠城軍、豊臣軍の猛攻を撃退。 |
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6月5日 |
石田三成、大谷吉継らが忍城へ出陣 17 。 |
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小田原城内の成田氏長が徳川家康を通じ降伏の意向を内々に伝える 17 。 |
6月7日頃 |
正攻法での攻略が困難であることを認識。 |
城代・成田泰季が病死。子の長親が総大将となる 1 。 |
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6月12日 |
豊臣秀吉より水攻めを命じる朱印状が発せられる 17 。 |
徹底抗戦の構えを維持。 |
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6月13日 |
三成、忍城に着陣。丸墓山古墳に本陣を設置し、堤の建設を開始 17 。 |
籠城を継続。 |
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6月中旬~下旬 |
総延長28kmともいわれる「石田堤」を建設 18 。 |
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6月18日頃(伝承) |
豪雨と籠城側の工作により堤が決壊。自軍に多数の溺死者を出す 1 。 |
決死隊が堤の破壊工作を敢行したとされる 1 。 |
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6月20日頃 |
堤がほぼ完成し、注水を開始。城は水に浮かぶ状態となる 17 。 |
本丸は水没を免れ、「浮き城」の状態となる 8 。 |
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7月上旬 |
決壊後、泥沼化した戦場で膠着状態に陥る。堤の補強工事を継続 19 。 |
籠城を継続。 |
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7月5日 |
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北条氏直が秀吉に降伏。小田原城が開城する 7 。 |
7月6日 |
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秀吉の命により、成田氏長が忍城へ開城を促す書状を送る 20 。 |
7月14日(16日説有) |
城代・成田長親と城の明け渡し交渉を行う 20 。 |
氏長の説得に応じ、無血開城。甲斐姫らは堂々と退城したと伝わる 12 。 |
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3.1. 開戦(6月上旬):力攻めの頓挫
天正18年6月4日、石田三成率いる2万余の豊臣軍は忍城への攻撃を開始した 12 。圧倒的な兵力を背景に、力で一気に押し潰そうという算段であった。しかし、彼らの前には予期せぬ障壁が立ちはだかった。城を囲む沼や水堀が天然の防御施設となり、大軍の展開を阻んだのである 4 。攻め手は足場の悪い湿地帯で身動きが取りにくく、城からの鉄砲や弓矢の良い的となった。豊臣軍は多数の死傷者を出し、初日の攻撃は完全に頓挫した 2 。忍城が「関東七名城」の一つに数えられるほどの要害であったことが、この最初の攻防で証明された。
一方、城内では激震が走っていた。この攻防の最中である6月7日頃、籠城軍の指揮を執っていた城代・成田泰季が病により急死したのである(一説には戦死とも) 1 。指導者を失うという籠城側にとって最大の危機であったが、一族の協議の末、泰季の子である成田長親がその跡を継ぎ、総大将として指揮を執ることが決まった 1 。この迅速な意思決定と権力移譲が、城内の動揺を最小限に食い止め、結束を維持する上で決定的な役割を果たした。
3.2. 水攻めの決断と「石田堤」の建設(6月中旬)
力攻めの困難さを悟った秀吉は、かつて自身が毛利氏の備中高松城を攻略した際に用いた奇策、「水攻め」の採用を決断する。6月12日、秀吉は三成に対し、忍城を水攻めにするよう命じる朱印状を発した 6 。この書状には、城方から降伏の嘆願があったものの、それを許さずに水攻めに処すという秀吉の断固たる意志が記されており、単なる戦術的判断だけでなく、見せしめとしての意図も含まれていたことが窺える 17 。
命令を受けた三成は、直ちに行動を開始した。まず、忍城を一望できる北方の丸墓山古墳(現在の埼玉古墳群内)に本陣を移し、そこを拠点として壮大な土木工事の指揮を執った 18 。計画は、城の周囲に長大な堤防を築き、利根川と荒川という二大河川の水を引き込んで、城一帯を巨大な人造湖に変えてしまうというものであった。
この「石田堤」と呼ばれる堤防の規模については諸説ある。全長は28km 18 、あるいは14km 7 などと伝えられるが、いずれにせよ戦国時代の土木工事としては破格の規模であった。工期についても、わずか5日から1週間で完成したという驚異的な伝承が残る 7 。しかし、実際には7月上旬にも堤の補強工事が行われたという記録があり 19 、これは、まず突貫工事で堤の骨格を造り上げ、注水と並行して随時補強を続けていたという実態を示唆している。工法は、周辺に点在していた古墳を崩した土や、既存の自然堤防を巧みに利用し、それらを繋ぎ合わせることで短期間での築堤を実現したと推測されている 19 。この大規模工事を短期間で実行に移した点に、三成の卓越した行政手腕と動員能力が発揮されていた。
3.3. 注水と「浮き城」の出現(6月下旬)
6月20日頃には堤の主要部分が完成し、いよいよ利根川と荒川からの注水が開始された 17 。濁流は堤の内側へと流れ込み、城の周囲の田畑や村々は瞬く間に水底に沈んでいった。城の外郭部も水没し、忍城は完全に孤立した 12 。
しかし、三成の目論見はここで外れる。忍城の本丸や主要な曲輪は、周囲の低地よりも一段高い場所に築かれていたため、水位が上がっても完全に水没するには至らなかったのである 6 。結果として、広大な湖水の中に城の主要部だけが島のように浮かび上がるという幻想的な光景が出現した。これこそが、後世に語り継がれる「忍の浮き城」の名の由来となった瞬間であった。水攻めは城を孤立させることには成功したが、決定的なダメージを与えるには至らなかった。
3.4. 堤の決壊(伝承では6月18日、実際は下旬か):戦術の破綻
水攻めが膠着状態に陥る中、豊臣軍をさらなる悲劇が襲う。築き上げたばかりの石田堤が決壊したのである。この決壊の原因については、二つの説が伝えられている。
一つは、時期が梅雨であったための 自然災害説 である。連日の豪雨によって川の水量が急激に増し、突貫工事で造られた堤がその水圧に耐えきれずに崩壊したというものである 1 。
もう一つは、籠城側のゲリラ戦術による 人為的破壊説 である。籠城軍の決死隊が夜陰に乗じて城を抜け出し、堤の最も脆弱な部分を破壊したというもので、これにより溢れ出た水が逆に豊臣軍の陣地を襲ったとされている 1 。
実際には、これら二つの要因が複合的に作用した可能性が最も高い。すなわち、豪雨によって弱体化した堤の箇所を、地の利に明るい籠城側が見抜き、そこを狙って破壊工作を仕掛けた、というシナリオである。
決壊によって生じた鉄砲水は、味方であるはずの豊臣軍の陣地に殺到し、約270名もの兵士が溺死するという大惨事を引き起こした 1 。さらに、水が引いた後の城周辺は一面の泥沼と化し、人馬の移動もままならない状態となった 1 。これにより、豊臣軍は力攻めを再開することもできなくなり、水攻めは完全に失敗に終わった。
3.5. 膠着状態から終焉へ(7月上旬~中旬)
堤の決壊後、戦況は完全に膠着した。三成は堤の修復を試みるが、戦況を打開するには至らない。忍城の運命を最終的に決定づけたのは、忍城の戦場ではなく、遠く離れた主戦場での出来事であった。
7月5日、約3ヶ月にわたる包囲の末、北条氏の本拠地・小田原城がついに開城。当主の北条氏直が秀吉に降伏したのである 7 。この時点で、北条氏の組織的抵抗は事実上終焉を迎えた。通常、本城が陥落すれば、支城は戦わずして降伏するのが戦国の常識であった。
しかし、忍城は違った。小田原開城の報が届いた後も、すぐには降伏せず、孤立無援のまま抵抗を続けたのである 2 。これは籠城側の士気の高さと誇りを示す逸話として、後世に長く語り継がれることになった。
最終的に、秀吉の命を受けた城主・成田氏長自らが忍城に使者を送り、籠城する一族郎党や領民に開城を説得した 20 。主君からの直接の命令には逆らえず、7月14日(16日説もある)、忍城はついに無血開城した 12 。『成田記』などの後世の記録によれば、甲斐姫をはじめとする籠城軍の主だった者たちは、最後まで武士としての誇りを失わず、武具を身に纏い、馬上で堂々と城を去っていったという 20 。その後、石田三成が城内に入り、城代代理の成田長親との間で、城の明け渡しに関する実務的な交渉が行われた。忍城は軍事的に「落城」したのではなく、政治的に「開城」した。この事実こそが、この戦いの結末を象徴している。
第四章:合戦の多角的分析
忍城水攻めは、単に「落城しなかった城」という物語に留まらない、戦術、指導力、そして歴史叙述に至るまで、多くの示唆に富んだ論点を含んでいる。本章では、この合戦を複数の視点から分析し、その歴史的意義を深く掘り下げる。
4.1. 戦術としての水攻め:なぜ忍城では失敗したのか
石田三成が忍城で用いた水攻めは、秀吉自身が天正10年(1582年)の備中高松城攻めで成功させた戦術の模倣であった。しかし、備中高松城で劇的な成功を収めた戦術が、なぜ忍城では無惨な失敗に終わったのか。その要因は、地理的条件、気象、そして敵の質の三点に求めることができる。
第一に、地理的条件の差異である。備中高松城は盆地状の地形にあり、周囲を堤で囲むことで比較的容易に城全体を水没させることができた。一方、忍城は広大な平野の微高地に築かれており、城の主要部を水没させるには、備中高松城とは比較にならないほど広範囲かつ大規模な堤防と、膨大な水量が必要であった 6 。三成はこれを強行したが、結果的に城の中心部を沈めるには至らなかった。
第二に、気象条件である。備中高松城攻めでは、梅雨の長雨が味方し、堤内の水位を上昇させ、敵に心理的圧迫を与えた。忍城攻めも同じく梅雨の時期に行われたが、ここでは豪雨が逆に作用した。突貫工事で築かれた長大な堤防は、予期せぬ増水に耐えきれず決壊し、自軍に甚大な被害をもたらす結果となった 1 。自然を味方につけるか、敵に回すかが、成否を分けたのである。
第三に、籠城側の対応である。備中高松城では、城主・清水宗治が自刃することで城兵の命を救うという形で終結した。一方、忍城では、籠城側が堤の破壊工作という積極的な反撃に打って出たと伝えられている 1 。地の利を活かしたゲリラ戦術は、攻城側の計画を根底から覆した。忍城の守備兵と領民は、単に耐えるだけでなく、能動的に戦況を変えようとした点において、際立っていた。
4.2. 石田三成の評価:「戦下手」という定説の再検討
忍城水攻めの失敗は、後世における「石田三成は戦下手」という評価を決定づける一因となった。しかし、この評価はあまりに一面的ではないだろうか。史料を丹念に読み解くと、異なる三成の姿が浮かび上がる。
まず、水攻めという戦術選択そのものが、三成自身の発案ではなく、総司令官である秀吉の強い意向、あるいは直接的な命令によるものであった可能性が極めて高い 23 。部下である三成にとって、これを拒否する選択肢はなかったであろう。彼は、与えられた困難な命令を、自らの得意分野である行政手腕と動員能力を最大限に発揮して実行しようとした。
事実、数万の人夫を動員し、短期間で長大な堤防を築き上げたプロジェクトマネジメント能力は、凡庸な武将には到底真似のできない、三成ならではの才覚であった 2 。問題は、その能力が純粋な軍事作戦の文脈において、必ずしも有効に機能しなかった点にある。彼の計画は、豪雨という不確定要素や、敵のゲリラ的抵抗といった、計算外の事態への対応力に欠けていた。
したがって、三成を単に「戦下手」と断じるのではなく、「優れた行政官僚が、不慣れな軍事指揮官の役割を、困難な条件下で遂行しようとした結果の失敗」と捉える方が、より実像に近い評価と言えるだろう。この経験は、後の関ヶ原の戦いにおける彼の采配にも、何らかの影響を与えたのかもしれない。
4.3. 籠城側の勝因:三位一体の抵抗
圧倒的な兵力差を覆し、忍城が事実上の勝利を収めた要因は、以下の三つの要素が奇跡的に噛み合った結果と分析できる。
第一に、 成田長親の意外な統率力 である。「のぼう様」と称された彼は、カリスマ的な指導者ではなかったかもしれない。しかし、彼は当主不在と前指揮官の急死という混乱の中、権威を振りかざすのではなく、城兵や領民と一体となって困難に立ち向かう姿勢を示した。その人間的な魅力が、人々の心を一つにまとめ、絶望的な状況下でも士気を高く維持する源泉となったと考えられる 11 。
第二に、 領民の高い士気と当事者意識 である。忍城の籠城軍の大多数は、プロの兵士ではない農民や町人であった 2 。彼らが自らの意思で城に立てこもり、最後まで戦い抜いたという事実は、成田氏の統治が領民から支持されていたことを物語る。自分たちの郷土と生活を自分たちの手で守るという強い当事者意識が、正規軍をも凌駕する強固な抵抗力を生み出した。
第三に、 絶対的な地理的優位性 である。前述の通り、沼と湿地帯に囲まれた「浮き城」という立地は、力攻めにも水攻めにも強い、天然の要塞であった 5 。この地理的条件がなければ、いかに長親の統率力や領民の士気が高くとも、豊臣の大軍の前に数日で蹂רובされていた可能性が高い。
これら三つの要素、すなわち「指導者の質」「民の士気」「地の利」が三位一体となった時、忍城は難攻不落の城と化したのである。
4.4. 『成田記』と一次史料の比較検討:作られた「歴史像」
忍城水攻めの物語、特に甲斐姫の華々しい活躍は、主として江戸時代に編纂された『成田記』などの軍記物によって形作られ、現代に伝えられている 16 。しかし、これらの記述を、同時代に書かれた書状などの一次史料と比較検討すると、そこには少なからぬ乖離が見られる。
例えば、甲斐姫が自ら出陣して敵将を討ち取ったというような具体的な武勇伝は、秀吉や三成が残した書状の中には一切見られない 20 。一次史料が語るのは、秀吉が水攻めを命じたこと、城方から命乞いがあったこと、そして最終的に小田原城の開城を受けて忍城も降伏した、という比較的淡々とした事実である 17 。
この乖離は、歴史がどのように語り継がれ、記憶されていくかという過程を示している。『成田記』は、成田家の視点から、その名誉を後世に伝えるために書かれた史書である。そのため、籠城戦の苦難や、当主不在という不名誉な状況を払拭し、家の誇りを高めるための英雄譚が必要とされた。甲斐姫の武勇伝は、その象徴として創作、あるいは大きく脚色された可能性が高い。
これは、どちらかが正しく、どちらかが間違っているという単純な問題ではない。一次史料が示す「歴史的事実」と、軍記物が語る「人々の記憶としての物語」の両方を理解することによって、初めて忍城水攻めという出来事を立体的に捉えることができるのである。
第五章:戦後の動静と歴史的遺産
忍城の攻防戦は、天正18年7月の開城をもって終結したが、その影響は合戦に参加した人々のその後の運命や、地域の歴史、さらには後世の歴史認識にまで及んだ。本章では、戦後の動静と、現代にまで残る歴史的遺産について記述する。
5.1. 関係者たちのその後
忍城の戦いは、主要な登場人物たちの運命に、それぞれ異なる影を落とした。
成田氏 は、北条方に与したにもかかわらず、大名として存続するという、戦国時代の敗者としては異例の結末を迎えた。これは、城主・氏長の娘である甲斐姫が、その武勇と美貌の噂を耳にした豊臣秀吉の側室として召し出されたことが大きく影響している 16 。甲斐姫の口添えがあったとされ、父・氏長は翌天正19年(1591年)、下野国烏山(現在の栃木県那須烏山市)に2万石の領地を与えられ、大名として復帰した 16 。忍城での徹底抗戦と、甲斐姫の存在が、結果的に成田家の命脈を保つことにつながったのである。一方、城を守り抜いた立役者である
成田長親 は、氏長に従い烏山に移ったが、後に氏長との間に不和が生じ、尾張国に移り住んでその地で生涯を終えたと伝えられる 4 。
攻城軍の総大将であった 石田三成 にとって、忍城での失敗は苦い経験となった。しかし、これが彼の豊臣政権内での地位を直ちに揺るがすことはなかった。彼はその後も五奉行の一人として政権の中枢で辣腕を振るい続ける。だが、「戦下手」という評価は、彼の政敵である武断派の諸将との対立を深める一因になったとも考えられる。この戦いから10年後、彼は関ヶ原の戦いで西軍の総大将として徳川家康と天下を争い、敗れることになる。
5.2. 「石田堤」の現在
石田三成が忍城を水攻めにするために築いた長大な堤防は、400年以上の時を経た現在でも、その一部が埼玉県行田市および鴻巣市に残されている 7 。行田市堤根地区に残る約282mの区間は埼玉県指定史跡に、鴻巣市袋地区に残る約300mの区間は鴻巣市指定史跡にそれぞれ指定され、「石田堤史跡公園」として整備されている 23 。
これらの遺構は、戦国時代末期における大規模な土木技術の水準を今に伝える貴重な歴史遺産である。公園内には土塁の断面を見ることができる場所もあり、異なる土を突き固めて層を作る「版築」という工法の痕跡が確認できる 7 。また、堤の近くにある堀切橋という地名は、この付近で堤が決壊したことに由来すると言われている 7 。訪れる者は、かつてこの地で繰り広げられた壮大な攻防戦のスケールを、遺された土塁の姿から体感することができる。
5.3. 日本三大水攻めとしての評価
忍城水攻めは、豊臣秀吉による 備中高松城の戦い (岡山県)、そして紀州征伐における 紀伊太田城の戦い (和歌山県)と並び、「日本三大水攻め」の一つとして数えられている 7 。
これら三つの水攻めは、いずれも豊臣軍によって行われたという共通点を持つが、その結果は対照的であった。備中高松城では、水攻めが完全な成功を収め、城主の切腹という形で劇的な終結を迎えた。紀伊太田城でも、水攻めは敵を降伏させる決定打となった。
その中で、忍城水攻めは唯一、戦術的に「失敗」に終わった事例として特異な位置を占める。この失敗は、前述の通り、地理的条件の読み違い、予期せぬ気象の変化、そして籠城側の粘り強い抵抗といった複数の要因が重なった結果であった。成功事例である備中高松城や太田城と比較することで、水攻めという戦術がいかに繊細な条件下でしか成立しない、諸刃の剣であったかを理解することができる。忍城の戦いは、戦国時代の戦術の多様性と、その限界を示す貴重な実例として、歴史にその名を刻んでいる。
第六章:結論
天正18年(1590年)の忍城水攻めは、豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階で発生した、戦国時代最後の 大規模な攻城戦の一つである。本報告書で詳述した通り、この戦いは単なる軍事衝突に留まらず、当時の政治戦略、戦術思想、地理的要因、そして人間のリーダーシップが複雑に絡み合った複合的な歴史事象であった。
第一に、この戦いは秀吉の天下統一という巨大な奔流の中で、旧来の勢力である北条氏が如何にして終焉を迎えたかを示す縮図であった。圧倒的な物量と情報網を駆使し、本城と支城を同時に攻略する秀吉の近代的とも言える戦略に対し、忍城の抵抗は局所的・偶発的な成功に過ぎず、大局を覆すには至らなかった。忍城の開城が軍事的敗北ではなく、本城・小田原の降伏という政治的決定によってもたらされた事実は、戦国時代の合戦の勝敗が、もはや個々の戦場の優劣だけでは決まらなくなっていたことを象徴している。
第二に、戦術としての水攻めの限界を明確に示した点で、軍事史上の意義は大きい。備中高松城での成功体験に固執した結果、地理的条件や気象という不確定要素を見誤り、壮大な計画は破綻した。これは、石田三成個人の資質の問題以上に、成功体験の過信がもたらす戦略の硬直化という、時代を超えた教訓を我々に示している。技術や物量が、自然の猛威や地の利、そして人間の創意工夫の前に必ずしも万能ではないことを、石田堤の決壊は物語っている。
第三に、この攻防戦は、リーダーシップの多様性を浮き彫りにした。圧倒的な権威を持つエリート官僚・石田三成に対し、凡庸と見なされながらも領民と一体となり城を守り抜いた成田長親。そして、史実と伝説の狭間で、籠城者の精神的支柱となった甲斐姫。彼らの姿は、危機的状況において人々を動かす力が、必ずしも武勇や才気だけではないことを示唆している。特に、正規兵わずか数百に対し、数千の領民が自発的に籠城したという事実は、領主と領民の信頼関係という、数値化できない要素が戦局を左右しうることを証明した。
結論として、忍城水攻めは「落城しなかった城」という単純な英雄譚ではない。それは、時代の転換点において、圧倒的な中央権力に対し、一つの地域共同体がその地理的条件と人間の結束力を武器に、最後まで誇りを失わずに抵抗した記録である。その結末は軍事的な勝利ではなかったが、彼らの粘り強い抵抗は、成田家の存続という形で実を結び、「浮き城」の伝説として後世に長く記憶されることとなった。この戦いの詳細な分析は、戦国時代の終焉を多角的に理解する上で、不可欠な視座を提供するものである。
引用文献
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- 超入門! お城セミナー 第99回【武将】豊臣秀吉ってなぜ水攻めが得意だったの? https://shirobito.jp/article/1189
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- 『のぼうの城』を守り切った『成田長親』豊臣の大軍から忍城を守り切る!! - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=PGGVh3H6q7Y&t=0s
- 石田堤 - 城びと https://shirobito.jp/castle/846