最終更新日 2025-08-25

志賀の陣(1568)

元亀元年、織田信長は浅井・朝倉・三好・本願寺連合軍に包囲され最大の危機に瀕した。森可成の死など多大な犠牲を払い和睦するも、この経験が比叡山焼き討ちや信長包囲網の深化、明智光秀の台頭を招いた。

元亀元年の死線 ― 織田信長、最大の窮地「志賀の陣」の全貌

序章:元亀元年の激震、「志賀の陣」への序曲

年代の確定と歴史的文脈

日本の戦国史において「志賀の陣」として知られるこの一連の戦役は、利用者が認識する永禄11年(1568年)ではなく、その2年後である**元亀元年(1570年)**に発生した出来事である。永禄11年は、織田信長が足利義昭を奉じて初めて上洛を果たし、室町幕府を一時的に再興させた画期的な年であった。この上洛によって信長は畿内における政治的影響力を確立したが、その支配体制は未だ盤石ではなかった。志賀の陣は、この信長の新体制が発足からわずか2年で、内外の敵対勢力によって根底から揺るがされた、天下布武の道程における最大の危機であった。

姉川の戦いの残響

志賀の陣の直接的な伏線は、元亀元年6月28日に近江国で繰り広げられた姉川の戦いに遡る。この戦いにおいて、織田信長と徳川家康の連合軍は、浅井長政と朝倉義景の連合軍に対して戦術的な勝利を収めた。しかし、この勝利は決定的とは言えず、浅井・朝倉軍の戦力を完全に削ぐには至らなかった。むしろ、浅井氏にとっては重臣の遠藤直経や実弟の浅井政之をはじめとする多くの将兵を失う痛恨の敗北となり、信長への遺恨を一層深め、報復の機会を窺う状況を生み出した。両者の対立はもはや和解不可能な段階に達し、次なる大規模な衝突は避けられない情勢であった。

信長、西方へ ― 野田・福島の戦い

姉川での勝利後、信長の視線は畿内における最後の抵抗勢力の一つ、三好三人衆に向けられた。彼らはかつて将軍足利義昭と敵対し、信長の上洛後も反抗を続けていた。元亀元年8月、信長は織田軍の主力を率いて摂津国へ出陣し、野田城・福島城に立て籠もる三好勢を包囲した。この軍事行動は、畿内平定の総仕上げと位置づけられていたが、織田軍の主力が畿内西部に集中するという状況は、東方の浅井・朝倉連合軍にとって、信長の本拠地である岐阜と京を結ぶ生命線を断ち切る絶好の機会を提供することになる。

石山本願寺の蜂起 ― 戦略的激震

信長が摂津で三好勢を追い詰め、攻略が目前に迫っていた元亀元年9月12日、戦況を一変させる事件が勃発する。それまで信長と表立った敵対関係にはなかった摂津の石山本願寺が、突如として蜂起し、織田軍の背後を襲撃したのである。この予期せぬ攻撃により、信長は三好勢と本願寺勢に挟撃される形となり、摂津の戦線に完全に釘付けにされてしまった。

この一連の動きは、単発の戦闘の連続ではなく、反信長勢力による広域的な連携、すなわち「第一次信長包囲網」が本格的に機能し始めた瞬間であった。浅井・朝倉、三好三人衆、そして石山本願寺という、地理的に離れた複数の勢力が、信長という共通の敵に対して同時に行動を起こしたのである。志賀の陣は、この戦略的包囲網が現実の脅威として信長に牙を剥いた、中心的な戦区であったと言える。

第一章:血戦、宇佐山城 ― 猛将・森可成の死と織田軍の死守

宇佐山城の戦略的重要性

元亀元年、森可成によって築城されたばかりの宇佐山城は、織田信長の近江支配における最重要拠点の一つであった。この城は、京都と近江を結ぶ二大幹線路である志賀越(今道越)と逢坂越を見下ろす戦略的要地に位置し、信長にとっては岐阜と京都をつなぐ兵站線と政治的ルートを確保する生命線であった。同時に、琵琶湖からの眺望を意識した石垣の採用は、信長の先進的な築城術を誇示し、近江の国人衆にその権威を見せつける政治的な意図も含まれていた。反信長勢力にとって、この城を奪取することは、京への道を切り開き、信長の東西連絡を完全に遮断することを意味した。

浅井・朝倉連合軍、南進

摂津における信長の窮地を千載一遇の好機と捉えた浅井長政と朝倉義景は、元亀元年9月、総勢3万ともいわれる大軍を動員し、琵琶湖西岸を怒涛の勢いで南下した。彼らの最終目標は、織田方の防衛戦力が手薄になった京都を制圧し、将軍足利義昭を保護下に置くことであった。その進路上に立ちはだかる最大の障害が、宇佐山城であった。

坂本の激闘と森可成の最期 (9月16日~20日)

宇佐山城主・森可成は、信長が尾張時代から頼りにしてきた歴戦の猛将であった。彼は、自軍がわずか1千という寡兵であるにもかかわらず、籠城という選択を採らなかった。9月16日、可成は城から打って出て、坂本の町外れで3万の連合軍を正面から迎撃するという、壮絶な遅滞戦術を決行する。緒戦では一時的に連合軍の先鋒を押し返すなど奮戦を見せたが、大軍の前に衆寡敵せず、さらに比叡山延暦寺の僧兵も加わったことで戦況は絶望的となった。そして9月20日、坂本での激闘の末、森可成は信長の弟・織田信治、そして青地茂綱らと共に討死を遂げた。享年48。

この損失は、織田軍にとって単なる戦術的敗北以上の意味を持っていた。森可成は稲生の戦いや桶狭間の戦いをはじめ、信長の天下布武の歩みを初期から支え続けた、かけがえのない宿老であった。彼の死は信長に深い衝撃と悲しみを与え、特にその死に延暦寺が加担したという事実は、信長の宗教的権威に対する考え方を決定的に硬化させる一因となった。後の比叡山焼き討ちという苛烈な行動の背景には、この信頼する部下を失ったことへの個人的な怒りと復讐心があったことは想像に難くない。

城主なくして城は落ちず

総大将の森可成と信長の弟である織田信治を同時に失い、宇佐山城は最大の危機を迎えた。しかし、城は落ちなかった。可成の家老であった各務元正や肥田直勝らが残存兵力を巧みに指揮し、城に押し寄せる連合軍の猛攻を驚異的な粘りで凌ぎきったのである。この英雄的な防衛戦は、信長率いる本隊が摂津から転進してくるまでの数日間、連合軍の南進を完全に停止させた。もし宇佐山城がこの時点で陥落していれば、京都は浅井・朝倉軍の手に落ち、信長は歴史の舞台から退場していた可能性すらある。宇佐山城の死守は、志賀の陣全体の帰趨を決する上で、極めて重要な戦略的価値を持っていた。

第二章:戦況のリアルタイム再現 ― 元亀元年九月十六日から十二月十四日まで

志賀の陣の複雑な戦況を理解するためには、各勢力の動向を時系列で追うことが不可欠である。以下の表は、元亀元年9月12日の石山本願寺蜂起から、12月14日の織田軍撤兵までの約3ヶ月間の出来事を、リアルタイムで再現したものである。情報の伝達にかかる時間差や、それに基づく各将の意思決定の連鎖が、この戦いのダイナミズムを浮き彫りにする。

日付(元亀元年)

織田信長軍の動向

浅井・朝倉連合軍の動向

その他の勢力(本願寺、延暦寺等)の動向

9月12日

摂津にて野田・福島城を包囲中。攻略は目前。

(越前・北近江に在国)

石山本願寺が突如蜂起。織田軍の背後を攻撃。

9月16日

摂津にて本願寺勢とも交戦し、釘付け状態に。

坂本へ進軍。宇佐山城の森可成勢1千と交戦開始。

近江の一向一揆が蜂起し、連合軍に合流。

9月20日

(同上)

坂本にて森可成、織田信治らを討ち取る。宇佐山城を猛攻するも落城せず。

延暦寺の僧兵が連合軍に加勢。

9月21日

(同上)

宇佐山城攻略を断念。大津・松本を放火。逢坂を越え、山科・醍醐まで侵攻し放火。

六角義賢が森可成討ち取りの戦果を報告。

9月22日

摂津の陣中に、連合軍が京に迫っているとの急報が届く。

京都侵攻の最終準備を進める。

(特記事項なし)

9月23日

京都の政治的失陥を最大の危機と判断。摂津からの電撃的撤退を決断。柴田勝家らを殿とし、本能寺へ帰還。

(信長の急な動きをまだ察知できず)

淀川流域の一揆勢が織田軍の渡河を妨害するが、信長は浅瀬を見つけ突破。

9月24日

本能寺より再出陣。逢坂を越え、坂本へ進軍。

信長本隊の急接近を知り、平地での決戦を回避。比叡山へ後退し、籠城。

延暦寺が連合軍を全面的に受け入れ、聖域を拠点として提供。

9月25日

比叡山麓を完全に包囲。宇佐山城に本陣を置く。穴太などに砦を築き、包囲網を固める。

比叡山の各所に布陣し、長期籠城の態勢を固める。

延暦寺は信長の中立要求を黙殺し、明確に敵対。

11月25日

堅田の国人(猪飼・居初・馬場氏)の内応を受け、坂井政尚ら1千を派遣し堅田を占拠。

(堅田の動きを察知)

(特記事項なし)

11月26日

(堅田の部隊が孤立)

朝倉景鏡らが比叡山から下り、堅田を急襲。坂井政尚を討ち取り、堅田を奪還。

(特記事項なし)

11月30日

戦線膠着。短期決戦の手段を失う。

籠城を継続。兵糧問題が深刻化し始める。

将軍・足利義昭が和睦斡旋のため近江の園城寺に入る。

12月13日

将軍・朝廷の仲介を受け入れ、和睦成立。人質交換と織田軍の先行的撤兵を条件とする。

兵糧の枯渇と降雪の危機から和睦を受諾。

(特記事項なし)

12月14日

瀬田の山岡景隆の陣まで軍を引き、和睦の履行を示す。

翌15日にかけて撤兵を開始し、越前・北近江へ帰国。

(特記事項なし)

第三章:湖上の攻防 ― 堅田の戦いと琵琶湖水運の戦略的価値

琵琶湖の支配者、堅田衆

志賀の陣におけるもう一つの重要な戦域は、陸上ではなく琵琶湖上にあった。中でも堅田は、湖が最も狭まる地点に位置し、古代から南北の水運を完全に掌握する交通の要衝であった。この地の有力者である堅田衆は、湖上の通行権や漁業権を独占することで莫大な富を築き、時には「堅田水軍」とも称されるほどの強力な武力を有する自治共同体として、独立性を保っていた。戦国大名にとって、彼らを味方につけることは、琵琶湖の制水権を握り、兵糧や物資の輸送路という兵站の生命線を確保することを意味した。

信長の兵站線確保戦略

比叡山に籠城する3万の浅井・朝倉連合軍を攻略するため、信長は兵糧攻めが最も有効な手段だと考えていた。そのためには、越前や北近江から琵琶湖の水運を利用して送られてくる補給を遮断する必要があった。この戦略の鍵を握るのが堅田であった。信長は、堅田衆の一部である猪飼昇貞、居初又次郎、馬場孫次郎らを調略によって内応させることに成功する。そして元亀元年11月25日、美濃三人衆の一人であった坂井政尚に1千の兵を与えて堅田の砦に送り込み、占拠させた。これは、連合軍の兵站を断ち、経済的に締め上げるための極めて重要な一手であった。

堅田の失陥と坂井政尚の死

しかし、連合軍の対応は信長の予想を上回るほど迅速かつ的確であった。堅田占拠の報を受けるや、翌11月26日には朝倉景鏡や前波景当らが比叡山から軍勢を率いて下山し、堅田を急襲した。坂井政尚の部隊は湖上の砦で完全に孤立し、奮戦虚しく壊滅。政尚自身もこの戦いで討死を遂げた。内応した猪飼らは船で湖上へ逃走し、信長の堅田占拠作戦はわずか一日で完全な失敗に終わった。

この堅田での敗北は、信長にとって戦術的な損失以上に大きな意味を持っていた。それは、陸上での軍事力だけでは近江を完全に支配できないという厳しい現実を突きつけられた瞬間であった。湖上の独立勢力と敵対大名が連携した際の脅威を身をもって知ったこの経験は、信長の後の近江統治戦略に決定的な影響を与えた。この戦いの後、明智光秀に命じて湖畔に坂本城を築かせ、水軍の拠点としたこと、さらには後に自らが琵琶湖を睥睨する安土城を築いたことは、志賀の陣で得た「湖の支配」の重要性という教訓を実践に移した結果に他ならない。堅田での失敗は、中世以来の湖上の自治勢力が終焉を迎え、大名の国家体制に組み込まれていく時代の転換点を示す出来事でもあった。

第四章:聖域の対峙 ― 比叡山での睨み合いと外交戦

聖域という名の要塞

浅井・朝倉連合軍が比叡山延暦寺に逃げ込んだことで、志賀の陣は軍事的な対決から、政治的・宗教的な駆け引きを伴う複雑な対峙へとその様相を一変させた。当時の比叡山延暦寺は、朝廷からも篤い崇敬を受ける不可侵の聖域であると同時に、数千の僧兵を擁し、広大な寺領からの収入を背景に戦国大名に匹敵する力を持つ、独立した軍事・政治勢力であった。信長といえども、この「聖域」という名の巨大な要塞を正面から攻めることは、政治的にも軍事的にも極めて困難であり、山麓を包囲して睨み合うことしかできなかった。

延暦寺の選択

信長は、武力行使の前に外交的解決を試みた。稲葉一鉄や佐久間信盛を使者として送り、延暦寺に対して三つの選択肢を提示した。第一に、織田方に味方すること。その場合は没収した寺領を返還する。第二に、それが不可能ならば、少なくとも中立を保つこと。そして第三の選択肢、もし浅井・朝倉方に味方し続けるのであれば、根本中堂をはじめ山全体を焼き払う、という最後通牒であった。しかし、延暦寺からの返事はなかった。彼らが信長の要求を黙殺した背景には、浅井・朝倉両家との古くからの親密な関係があったことに加え、信長自身が上洛以来、延暦寺の荘園を没収するなど、その既得権益を侵害してきたことへの強い反発があった。延暦寺にとって、信長は自らの権威と存立を脅かす存在であり、ここで屈することは許されなかったのである。

膠着と消耗

こうして、比叡山を挟んで両軍が睨み合うという、約3ヶ月にわたる長期の対陣が始まった。信長はしびれを切らし、決戦を促す使者を送るも、連合軍は山から降りることはなく、小競り合いに終始した。この膠着状態は、双方の戦力を着実に消耗させていった。特に、本国から遠く離れた浅井・朝倉連合軍にとって、兵糧の維持は深刻な問題であった。冬が近づき、北国街道が雪で閉ざされる時期が迫るにつれ、その苦境は増していった。一方の信長も安閑とはしていられなかった。この対陣の隙を突いて、伊勢長島で一向一揆が大規模な蜂起を起こし、信長の弟である織田信興が守る小木江城を攻略、信興を討ち取るという事件が発生した。包囲網は近江だけでなく、他の地域でも信長の支配を脅かし始めていた。

将軍と朝廷の介入

戦況が完全に泥沼化し、双方ともに決定打を欠く中、事態を打開するために動いたのが、京都の将軍・足利義昭と朝廷(正親町天皇)であった。11月末、義昭自らが和睦の仲介役として近江の園城寺(三井寺)に入り、両軍に働きかけを開始した。信長にとっては、各地で頻発する反乱に対処するためにも、これ以上近江に主力を留め置くことは得策ではなく、この仲介を受け入れる以外に選択肢はなかった。最後まで和睦に抵抗したのは延暦寺であったが、最終的には朝廷から綸旨(天皇の命令書)が下されたことで、彼らも和睦を承諾せざるを得なくなった。この決着は、武力だけでなく、将軍や天皇といった伝統的権威を動員して初めて可能となったものであり、当時の信長の権力がいまだ絶対的なものではなかったことを示している。

第五章:終幕と次なる戦いへの布石 ― 苦渋の和睦と信長包囲網の深化

和睦の条件と「勝者なき」終結

元亀元年12月13日、将軍と朝廷の仲介のもと、織田信長と浅井・朝倉連合軍との間に和睦が成立した。その条件は、双方が人質を交換すること、そして織田軍が先に陣を解き、瀬田まで軍を後退させるというものであった。これは、形式上は対等な和睦であったが、実質的にはどちらの側にも「勝者」がいない、引き分けに近い結末であった。信長にとっては、京都侵攻を阻止したものの、宿敵である浅井・朝倉を討ち漏らし、森可成、織田信治、坂井政尚といった多くの宿将を失った末の「苦渋の和睦」であった。一方、浅井・朝倉連合軍も、京都制圧という最大の目的を果たせぬまま、3ヶ月にわたる長期遠征で疲弊し、雪深い本国へと帰還することになった。

志賀の陣が残したもの ― 比叡山焼き討ちへの道

この戦いが後世に残した最も大きな影響は、延暦寺との間に生まれた決定的な亀裂であった。信長にとって、敵を匿い、自らの最後通牒を無視し、あまつさえ聖域であることを盾に戦いを長引かせた延暦寺の行動は、決して許しがたい裏切りであった。志賀の陣における和睦は、あくまで一時的な停戦に過ぎず、信長の胸中には延暦寺に対する消えることのない怒りが燃え盛っていた。この怒りが爆発したのが、和睦からわずか9ヶ月後の元亀2年(1571年)9月12日に行われた比叡山焼き討ちである。信長は、僧侶、学僧、女子供に至るまで数千人を虐殺し、四千五百もの堂塔伽藍を灰燼に帰すという、前代未聞の殲滅戦を敢行した。この苛烈な行動の直接的な引き金は、間違いなく志賀の陣での経験にあった。

明智光秀の台頭

志賀の陣は、織田家臣団の勢力図にも大きな変化をもたらした。この戦いで森可成が討死したことにより、近江国滋賀郡という戦略的要地は、新たに明智光秀に与えられることになった。光秀はまず宇佐山城主として着任し、現地の国人衆の懐柔にあたり、その後、比叡山焼き討ちの功績もあって、琵琶湖畔に壮麗な坂本城を築城する。これは、織田家臣団の中で信長から「一国一城の主」として認められた最初の事例であり、光秀が信長の側近として急速にその地位を高めていく大きな契機となった。志賀の陣は、古参の猛将が散り、新たな知将が台頭する、家臣団の世代交代を象徴する戦いでもあった。

完成された「信長包囲網」

志賀の陣は、全国の反信長勢力に「信長は無敵ではない」という共通認識を植え付けた。3ヶ月もの間、信長本隊を近江に釘付けにし、多大な損害を与えた上で撤退させたという事実は、彼らを大いに勇気づけた。この戦いを境に、それまで信長を後援してきた将軍・足利義昭は、公然と信長からの自立と打倒を画策し始める。そして、甲斐の武田信玄をはじめとする遠方の有力大名を巻き込み、より強固で大規模な第二次「信長包囲網」を形成していくことになる。志賀の陣は、信長にとって一つの苦難の時代の終わりであると同時に、四方を敵に囲まれる、さらに過酷な戦いの時代の幕開けを告げる分水嶺となったのである。

総括:志賀の陣が戦国史に与えた影響

信長最大の危機としての再評価

志賀の陣は、織田信長の生涯において、単なる一合戦としてではなく、天下布武の過程で直面した最大の軍事的・政治的危機として再評価されるべきである。主力が別方面で拘束されている戦略的脆弱性を突かれ、東西から複数の敵に同時に攻められるという多正面作戦を強いられた。この絶体絶命の窮地を、電撃的な部隊転進と外交交渉によって辛うじて乗り越えたものの、その代償は大きかった。結果的に敵の勢力を温存させてしまい、後の戦乱の火種を残すことになった。

有力家臣団の再編と世代交代

森可成や坂井政尚といった、信長が尾張統一時代から深く信頼してきた譜代の猛将たちの死は、織田家臣団の構成に質的な変化をもたらした。彼らの死によって生じた権力の空白を埋める形で、明智光秀や羽柴秀吉といった、信長が上洛後にその能力を見出して登用した新世代の家臣たちが、織田軍の中核としてより重要な役割を担うようになっていく。この戦いは、織田家臣団の世代交代を促す一つの契機となった。

信長の統治スタイルの変化

この戦いにおける延暦寺の行動は、信長の価値観に決定的な影響を与えた。聖域という伝統的権威を盾に敵対勢力に加担した延暦寺の姿は、信長に既存の権威や宗教的タブーを一切意に介さない、より苛烈で合理性を突き詰めた統治スタイルを確立させる契機となった。翌年の比叡山焼き討ちはその最もたる象徴であり、志賀の陣での苦い経験が、後の「恐怖による支配」とも評される信長の非情な一面を形成したと考えられる。この戦いは、信長の思想と戦略を理解する上で、避けては通れない重要な転換点であった。