志賀城の戦い(1557)
信濃佐久郡における武田氏の覇権確立―天文十六年「志賀城の戦い」の全貌
序章:甲斐の虎、信濃へ―戦いの戦略的背景
戦国時代の日本列島において、甲斐国(現在の山梨県)の武田晴信(後の信玄)による信濃国(現在の長野県)への侵攻は、東国の勢力図を塗り替える上で決定的な意味を持つ一連の軍事行動であった。その中でも、天文16年(1547年)に繰り広げられた「志賀城の戦い」は、単なる一城の攻略に留まらず、武田氏の信濃支配の正当性と、旧来の権威である関東管領上杉氏の影響力が激突した、極めて象徴的な合戦であった。
武田晴信の信濃侵攻戦略
晴信が家督を相続したのは天文10年(1541年)のことである。父・信虎の時代、武田氏は信濃の佐久郡や小県郡への出兵を行っていたが、その路線は必ずしも安定した成果を上げていなかった 1 。晴信は父を駿河へ追放すると、この信濃戦略を大きく転換させる。彼が最初の目標として定めたのは、佐久郡ではなく、その南西に位置する諏訪郡であった 1 。
この戦略転換は、晴信の卓越した地政学的洞察力を示している。佐久方面は甲斐から直接侵攻するには道が険しく、国衆の抵抗も根強かった。対して諏訪は、諏訪湖を中心とする豊かな盆地であり、甲斐からの交通の便も比較的良好であった 2 。天文11年(1542年)、晴信は諏訪氏内部の対立を利用して巧みに介入し、当主の諏訪頼重を滅ぼすと、その同盟者であった高遠頼継をも破り、諏訪郡全域を掌握する 2 。これにより、武田氏は信濃侵攻の確固たる前線基地を確保した。諏訪を拠点とすることで、南の伊那郡、そして東の佐久郡へと、多方面への作戦展開が可能となったのである 3 。
佐久国衆の抵抗と武田氏の切り崩し
諏訪平定後、晴信は満を持して佐久郡への本格的な侵攻を開始する。佐久郡は、甲斐から信濃、そして関東の上野国へと抜ける碓氷峠に繋がる交通の要衝であり、武田氏の東方展開における戦略的価値は極めて高かった 2 。
しかし、佐久の国衆たちは、大井氏、笠原氏、望月氏といった在地領主を中心に強固な抵抗連合を形成し、武田軍の前に立ちはだかった。晴信は武力による攻略と並行して、調略を駆使して国衆の切り崩しを図る。天文12年(1543年)には長窪城の大井貞隆を捕縛 5 。そして天文15年(1546年)、最後まで抵抗を続けていた有力国衆の一人、内山城主・大井貞清を降伏させた 6 。この内山城の陥落は、佐久郡における反武田勢力にとって致命的な打撃となり、志賀城主・笠原清繁は急速に孤立を深めていった。
笠原清繁と関東管領・上杉憲政の紐帯
佐久の主要な城が次々と武田の軍門に降る中、なぜ笠原清繁は最後まで徹底抗戦の道を選んだのか。その最大の理由は、関東管領・上杉憲政という強力な後ろ盾の存在にあった。清繁は、憲政の親戚筋から正室を迎えており、両者は姻戚関係にあった 8 。さらに、笠原氏の親族である高田氏が上杉氏の家臣であったことも、両者の結びつきを強固なものにしていた 9 。
この強固な紐帯は、清繁に「武田に攻められても、関東管領の大軍が必ずや救援に来る」という強い期待を抱かせた。一方で晴信にとって、志賀城の存在は、単なる佐久平定の最後の障害である以上に、信濃国衆に未だ影響力を持つ上杉氏の権威そのものであった。したがって、この戦いは志賀城を攻め落とすこと自体が最終目的ではなかった。むしろ、志賀城を「囮」として上杉の援軍を信濃の奥深くまで誘い込み、これを衆人環視の中で撃滅することこそが、晴信の真の戦略目標であった。信濃の国衆に関東管領の無力さを骨身に染みさせ、武田こそが信濃の新たな支配者であることを軍事的に証明する。志賀城の戦いは、このような高度な戦略的意図に基づき、城攻めと野戦が緊密に連動した、代理戦争の様相を呈していたのである。
第一部:合戦前夜―両陣営の対峙
天文16年(1547年)夏、甲斐の虎と佐久の狼の対決は、避けられない局面を迎えていた。両陣営は、それぞれの思惑と存亡を賭けて、志賀城をめぐる最終決戦へと突き進んでいく。
志賀城の地勢と防御構造
志賀城は、現在の長野県佐久市に位置し、標高約877メートルの三峰山の尾根上に築かれた山城であった。その縄張りは、南北を深い沢に挟まれ、両側面が急峻な崖となっている天然の要害を巧みに利用していた 10 。主郭を中心に、二の郭、腰曲輪、そして尾根を断ち切る複数の堀切が効果的に配置され、容易に敵の侵入を許さない堅固な防御構造を誇っていた 6 。城域も広く、相当数の兵が籠城できる規模を持っていたと推察される 6 。
しかし、この難攻不落に見える堅城には、籠城戦において致命的ともいえる弱点が存在した。それは、生命線である「水の手」(水源)が、城の北側斜面、すなわち城郭の外に位置していたことである 12 。籠城側にとって、この水源の確保は絶対条件であり、逆に攻城側にとっては、ここを断つことが勝利への最短経路を意味した。この一点が、武田軍の攻城作戦の鍵を握ることになる。
籠城軍の兵力と構成
志賀城に籠もる軍勢の中核を成したのは、城主・笠原清繁とその一族郎党であった。これに加え、上杉憲政が派遣した援将・高田憲頼とその子息が率いる上野国の兵が守りを固めていた 8 。史料によって兵力には差異があるものの、総勢は約1,000名程度であったと推定される 8 。
特筆すべきは、この籠城兵の中に、領内の女性、子供、老人といった多数の非戦闘員が含まれていたことである 8 。これは、戦国時代の城が軍事拠点であると同時に、領民の避難所でもあったことを示している。しかし、それは同時に、兵糧や水の消費を増大させ、籠城戦の継戦能力を著しく低下させる要因ともなった。彼らは運命共同体として、志賀城の行く末に全てを賭けていたのである。
武田軍の編成と戦略
対する武田軍は、総大将である武田晴信自らが陣頭指揮を執り、佐久平定の総仕上げにかける並々ならぬ決意を示した 14 。軍の先手(先鋒)には、前年に降伏したばかりの旧内山城主・大井貞清(三河守)が任じられた 5 。これは、単なる戦力増強以上の意味を持つ、高度な政治的パフォーマンスであった。他の佐久国衆に対し、「武田に降れば、かつての敵であってもこのように重用される」という懐柔策(アメ)であると同時に、「抵抗を続ければ、大井のように、かつての同胞に攻めさせることになる」という無言の脅迫(ムチ)でもあった。晴信は軍事編成を通じて、敵対勢力の心理を巧みに操り、佐久内部の分断を画策していたのである。
さらに晴信は、上杉憲政による救援軍の出現を確実視していた。そのため、主力の攻城軍とは別に、武田軍の双璧と謳われた宿老、板垣信方と甘利虎泰が率いる強力な別動隊を編成していた 5 。これは、攻城戦と野戦を同時に、かつ確実に遂行するための二段構えの作戦であり、晴信の周到な戦術眼を物語っている。
【表1】両軍の兵力比較
勢力 |
指揮官 |
推定兵力 |
構成と特徴 |
武田軍(攻城主体) |
武田晴信 |
不明(総兵力は1万前後か) |
甲斐の譜代家臣団に加え、降伏した佐久国衆(大井氏など)を含む。 |
武田軍(別動隊) |
板垣信方、甘利虎泰 |
約4,000 |
武田軍の中でも特に戦闘経験豊富な精鋭部隊。野戦による敵後詰め撃滅を任務とする。 |
志賀城籠城軍 |
笠原清繁、高田憲頼 |
約1,000 |
笠原一族、上杉からの援軍、領民(非戦闘員含む)。士気は高いが兵力は劣勢。 |
上杉救援軍 |
金井秀景 |
約3,000~ |
関東の諸将からの寄せ集め。兵力は大きいが、連携や士気に課題があった可能性。 |
真田幸隆の役割の再評価
後世の創作物などでは、しばしば真田幸隆が調略によって志賀城を落としたかのように描かれることがある。しかし、武田氏側の信頼性の高い一次史料である『高白斎記』などを見ても、本合戦における幸隆の具体的な内応工作を直接示す記述は見当たらない 16 。
当時、幸隆は旧領を失い武田氏に仕官して間もない、信濃先方衆の一人に過ぎなかった。彼がこの佐久郡攻略戦に参加していたことは間違いないであろうが、その役割は特定の城での内応工作というよりも、地理に明るい案内役や、他の国衆への働きかけ、そして一武将としての戦闘参加であった可能性が高い 18 。天文20年(1551年)の戸石城攻めで見せたような、彼の謀略家としての名声が確立するのは、もう少し後のことである 20 。その鮮烈なイメージが、後世に他の戦いの功績にも投影され、「志賀城でも幸隆が暗躍したはずだ」という伝承が形成されたと考えるのが妥当であろう。
むしろ、晴信が幸隆のような旧信濃豪族を「先方衆」として積極的に活用したこと自体に、より深い戦略的意図が見て取れる。それは軍事的な利便性(地理の知識、在地の人脈)を得るだけでなく、この信濃侵攻が「甲斐による一方的な侵略」ではなく、「信濃の新たな秩序を望む者たちとの共同事業」であるという大義名分を構築しようとする、晴信の巧みな政治戦略の一環であった。
第二部:合戦の経過―リアルタイム・クロニクル
志賀城をめぐる攻防は、天文16年(1547年)閏7月下旬から8月上旬にかけて、約半月にわたり繰り広げられた。武田氏の公式記録である『高白斎記』や、同時代の記録『妙法寺記』などを基に、その緊迫した戦況を時系列で再構成する。
【表2】志賀城の戦い 主要関連年表
日付(天文16年) |
時刻(推定) |
出来事 |
主要人物 |
典拠史料 |
閏7月9日 |
- |
武田軍、甲府を出陣 |
武田晴信、大井貞清 |
『高白斎記』 |
閏7月24日 |
卯の刻~午の刻 |
志賀城の包囲を開始 |
武田晴信 |
『高白斎記』 |
閏7月25日 |
未の刻 |
金堀衆が城の「水の手」を遮断 |
- |
『高白斎記』 |
8月5日頃 |
- |
上杉救援軍、小田井原に布陣 |
金井秀景 |
- |
8月6日 |
卯の刻~申の刻 |
小田井原の戦い。武田軍が上杉軍を撃破 |
板垣信方、甘利虎泰 |
『高白斎記』『妙法寺記』 |
8月7日~9日 |
- |
武田軍、討ち取った首級を志賀城前に晒す |
武田晴信 |
『妙法寺記』 |
8月10日 |
朝 |
笠原軍、城から打って出て総攻撃 |
笠原清繁 |
- |
8月10日 |
午の刻 |
外曲輪が炎上 |
- |
『高白斎記』 |
8月10日 |
子丑の刻 |
二の曲輪が炎上 |
- |
『高白斎記』 |
8月11日 |
午の刻 |
本丸陥落。笠原・高田父子ら討死 |
笠原清繁、高田憲頼 |
『高白斎記』 |
8月13日 |
- |
晴信、落城後の志賀城に入る |
武田晴信 |
『高白斎記』 |
閏7月9日~24日:包囲網の完成
『高白斎記』によれば、武田軍は閏7月9日に大井貞清を先手として甲府を出陣し、12日には晴信本隊も出馬した 10 。そして閏7月24日、「卯の刻(午前6時頃)から午の刻(正午頃)まで」という短時間で、志賀城に対する包囲網を完成させている 15 。この記述からは、武田軍の極めて組織的かつ迅速な展開能力が窺える。
閏7月25日:生命線の遮断
包囲開始の翌日、晴信は早くも勝敗を左右する決定的な一手を打つ。それは、自らが領有する黒川金山などから動員した鉱山技術者の専門家集団「金堀衆」の投入であった 5 。彼らは土木・掘削技術に長けており、志賀城の弱点である城外の水源を正確に特定。坑道を掘るなどして、これを断ち切ることに成功した 5 。『高白斎記』には「25日未の刻、水の手取りなさる」と簡潔に記されている 15 。籠城開始からわずか二日で生命線を断たれた志賀城は、一気に窮地に陥った。晴信の戦争術が、単なる兵の運用に留まらず、領国の産業力や技術力をも戦争に動員する、近代的な総力戦の萌芽を思わせるものであったことがわかる。
8月6日:小田井原の激突
城内の苦境を察したか、笠原清繁の救援要請に応え、関東管領・上杉憲政が派遣した救援軍が動いた。金井秀景(倉賀野秀景とも)を大将とする約3,000余騎の軍勢は、上野国から碓氷峠を越えて信濃に侵入 8 。志賀城を指呼の間に望む浅間山麓の小田井原に布陣した 8 。
この動きは、完全に晴信の計算通りであった。彼は志賀城の包囲を続けさせつつ、かねてより編成していた板垣信方・甘利虎泰率いる約4,000の精鋭別動隊を迎撃に向かわせる 5 。8月6日の未明、「卯の刻」(午前6時頃)に武田軍別動隊は行動を開始 14 。長旅と布陣を終えて油断していたであろう上杉軍に対し、戦上手な板垣・甘利の部隊が襲いかかった。兵力で勝り、地の利を活かした武田軍の前に、関東の寄せ集めであった上杉軍は組織的な抵抗もできずに一方的に撃破され、壊滅した 5 。
『妙法寺記』は、この戦いで討ち取られた上杉方の将兵を「名大将十四五人、雑人三千計」と記録している 17 。数字には誇張が含まれる可能性もあるが、救援軍が再起不能なほどの大敗を喫したことは疑いようがない。
8月7日~9日:非情なる心理戦
小田井原で圧勝を収めた晴信は、志賀城に籠もる兵の心を折るため、冷徹極まりない心理戦を展開する。彼は、討ち取った上杉軍の将兵の首級を志賀城から見える場所に運び、槍の穂先に刺してずらりと並べさせた 8 。『妙法寺記』は「此の首をシガ城を廻り悉く御掛け候。是を見て要害の人数も力を失い候」と、その凄惨な光景を伝えている 14 。救援の望みが完全に、そして最も屈辱的な形で絶たれたことを視覚的に突きつけ、籠城兵の戦意を根底から打ち砕こうという、晴信の非情な計算があった 3 。
8月10日~11日:玉砕と落城
しかし、晴信の合理的な心理戦は、予期せぬ結果を招いた。絶望と、味方の首を晒されたことへの激しい憤慨は、城兵の士気を喪失させるどころか、逆に玉砕の覚悟を固めさせたのである。8月10日の朝、全ての望みを断たれた笠原清繁は、降伏ではなく武士としての名誉を死守する道を選んだ。大手門を開け放ち、残存兵力を率いて武田の大軍に最後の総攻撃を敢行した 8 。
この決死の抵抗は凄まじく、武田軍も多大な犠牲を払いながらの攻防となった。しかし、衆寡敵せず、同日の午の刻(正午頃)には外曲輪が、子丑の刻(深夜)には二の曲輪が次々と焼き払われた 14 。そして翌8月11日の午の刻、本丸での最後の抵抗も尽き、城主・笠原清繁と二人の子息、援将・高田憲頼父子をはじめ、城兵のほとんどが討ち死にした 8 。包囲開始から17日目、佐久の空に燻り続けた抵抗の炎は、ついに力尽きたのである。合理主義と、名誉を重んじる精神主義の衝突が、この戦いの最終局面を一層凄惨なものにしたと言えよう。
第三部:落城後の悲劇と戦後処理
志賀城の陥落は、佐久郡における武田氏への抵抗の終焉を意味した。しかし、城に残された人々を待ち受けていたのは、戦闘そのものよりも過酷な運命であった。この戦後処理には、武田晴信の冷徹な統治術と、戦国という時代の非情な現実が集約されている。
捕虜の運命―戦国の人身売買
落城後、武田軍は城内にいた女性、子供、そして生き残った兵士たちを一人残らず捕虜とし、甲府へと連行した 8 。彼らは人間としてではなく、戦利品として扱われた。親族が身代金を支払うことができた者は解放されたが、その額は2貫文から10貫文という、当時の庶民にとっては極めて高額なものであった 8 。
身請けされなかった大多数の人々の運命は悲惨であった。彼らは人身売買にかけられ、奴隷として各地に売り飛ばされたのである 15 。男性は武田氏が経営する黒川金山などの鉱山で過酷な労働を強いられる坑夫となり、女性は娼婦や下女として売られていったと伝えられている 27 。美貌で知られた笠原清繁夫人は、武田家の有力な一門である小山田信有が戦利品として連れ帰り、側室にしたという逸話も残っている 8 。
この過酷な処置は、単なる残虐性から行われたものではない。そこには、①最後まで抵抗した者への見せしめ、②戦争で費やした費用の回収、③獲得した鉱山を稼働させるための安価な労働力の確保、という極めて合理的、かつ経済的な目的があった。これは現代の倫理観では到底容認できない行為であるが、当時の社会経済システムの中では、戦争捕虜は土地や金銀と同様に、分配・売買が可能な「資産」と見なされていた。志賀城の悲劇は、戦争が人間の命や尊厳をも資源として消費する経済活動の一環であったという、戦国時代の冷徹な現実を浮き彫りにしている。
佐久郡の完全平定と支配体制の構築
最後の抵抗拠点であった志賀城の陥落により、武田氏による佐久郡の平定は事実上完了した 15 。晴信の統治術は、この戦後処理において「アメとムチ」として明確に示された。内山城の大井貞清のように早期に降伏した者には、先鋒の大役を与えるという「アメ」を与えた。その一方で、最後まで抵抗した笠原氏とその領民には、一族根絶と人身売買という徹底的な「ムチ」を振るった。この峻別は、信濃の他の国衆に対し、「武田への抵抗は無意味であるばかりか、悲惨な結果を招く」という強烈な恐怖を植え付け、後の信濃平定を心理的に容易にする効果をもたらした。
戦後、抵抗の象徴であった志賀城は意図的に廃城とされ、二度と歴史の表舞台に登場することはなかった 14 。これは、古い秩序の象徴を物理的に消し去り、武田による新たな支配体制が確立したことを内外に誇示する狙いがあったと考えられる。
歴史的資料に見る記録の比較検討
この凄惨な戦後処理は、同時代の史料においても、その性質によって記述のされ方が異なっている。武田氏の公式記録に近い『高白斎記』は、戦闘の日時や結果といった事実関係を淡々と記すのみで、捕虜の処遇といった不都合な真実には一切触れていない 14 。これは、自らの支配の正当性を後世に残すための、意図的な情報選択の結果であろう。
一方で、甲斐国の妙法寺の僧侶によって書かれたとされる『妙法寺記』は、「此首ヲシカ殿城廻悉御懸候」といった具体的な描写を含み、より生々しく合戦の様子を伝えている 17 。この史料でさえ、人身売買を直接的に批判はしていないものの、その記述からは、この仕打ちが当時としても尋常ならざるものであったというニュアンスが読み取れる 14 。史料を比較検討することで、一つの歴史事象が持つ多面的な姿が浮かび上がってくるのである。
第四部:歴史的意義と影響
志賀城の戦いは、佐久郡という一地方の帰趨を決しただけではない。この戦いの結果は、信濃国内のパワーバランスを大きく変動させ、さらには関東の政治情勢にも波及し、後の東国戦国史の展開に決定的な影響を与えた。
対村上義清戦線への影響
佐久郡を完全に掌握したことで、武田氏は甲斐から北信濃への進軍ルートを確保し、後顧の憂いを断つことに成功した。これにより、晴信は信濃における次なる、そして最大の標的である北信濃の雄・村上義清との対決に全戦力を集中させることが可能となった 18 。
この戦いは、武田信玄と村上義清のライバル関係における「質の転換点」であった。これ以前の武田氏の信濃侵攻は、諏訪氏や佐久の国衆といった、比較的力の劣る相手との戦いが主であった。しかし、佐久を平定したことで、信玄は初めて信濃最強の武将と謳われた村上義清と直接国境を接することになった。両者の激突はもはや避けられないものとなり、志賀城の戦いの翌年、天文17年(1548年)には、武田軍は小県郡に侵攻し、上田原で村上軍と激突する(上田原の戦い) 5 。この戦いで晴信は板垣信方、甘利虎泰という両宿老を失う生涯初の大敗を喫するが、志賀城の戦いが、この信濃の覇権をめぐる最終決戦へと連なる直接的な序章であったことは間違いない。
関東管領上杉氏の権威失墜
志賀城の戦いは、武田氏の勝利であると同時に、関東管領上杉氏の決定的敗北でもあった。小田井原での救援軍の惨敗は、上杉憲政の軍事的な無力さを、信濃のみならず関東の諸将にも白日の下に晒す結果となった 14 。前年の河越夜戦における北条氏康への敗北に続くこの大敗は、室町幕府以来の伝統的権威であった関東管領の権威を、回復不可能なまでに失墜させた 23 。
この事件は、憲政が自身の領国である上野国すら維持できなくなり、最終的に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って亡命し、上杉の名跡と関東管領職を譲渡するという、関東の勢力図を根底から塗り替える大きな歴史の流れへと繋がっていく。その意味で、小田井原の戦いは、後の「甲越対決」の遠因を形成した戦いの一つと位置づけることができる。
武田信玄の戦法と思想の確立
この一連の戦いは、若き日の晴信が、後に「戦国最強」と謳われる独自の戦法を確立していく上での、重要なマイルストーンであった。その戦法は、以下の要素から構成される。
- 徹底した情報収集と事前準備: 志賀城の弱点(水の手)や上杉援軍の進軍ルートを正確に把握していたことは、優れた諜報活動の成果である。信玄が組織したとされる忍者集団「三ツ者」のような情報網の重要性が、この戦いで間接的に証明されている 31 。
- 専門技術の軍事利用: 金堀衆を攻城戦に投入するという発想は、当時としては画期的であり、戦争を多角的に捉える晴信の柔軟な思考を示している。
- 野戦による敵主力の確実な撃破: 攻城戦に固執せず、敵の救援軍(後詰め)を野戦で殲滅することを主眼に置く戦術は、後の信玄の戦の基本形となる。
- 心理戦の巧みな活用: 晒し首という非情な手段を用いて敵の戦意を挫こうとする姿勢は、戦争を感情ではなく、極めて合理的な計算に基づいて遂行する晴信の思想を反映している 3 。
- 戦後処理による政治的効果の最大化: 降伏者と抵抗者を明確に峻別する「アメとムチ」の政策は、恐怖と利益を巧みに使い分け、支配領域を安定させるための高度な統治術であった。
結論:志賀城の戦いが戦国史に残した教訓
以上のように、天文16年の志賀城の戦いは、単なる信濃の一地方で起きた合戦ではない。それは、武田信玄という新たな時代の覇者の台頭、関東管領という旧来の権威の没落、そして後の川中島の戦いへと繋がる、戦国時代中期の東国情勢を理解する上で不可欠な、画期的な出来事であった。
また、この戦いが示す戦争の多面性―軍事、政治、経済、技術、心理の全てが複雑に絡み合う総力戦の様相―と、その背後にある人間の合理性と非合理性の激しい交錯は、戦国という時代を理解するための、そして現代においても多くの示唆を与える、普遍的な教訓を内包していると言えるだろう。
引用文献
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- 志賀城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E5%9F%8E
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- 武田信玄の忍者 〈透波・三ツ者・御師〉 https://ncode.syosetu.com/n2851cy/18/
- 忍びの者 - infonet http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/ninja.html
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