最終更新日 2025-08-26

摺上原の戦い(1589)

奥州の天を分かつ一日 — 摺上原の戦い 詳細報告

序章:奥州の覇権を巡る胎動

天正17年(1589年)6月5日、磐梯山の麓、摺上原で繰り広げられた合戦は、単なる一地方の戦闘ではない。それは、伊達政宗という若き野心家の覇業を決定づけ、400年の歴史を誇る名門・蘆名氏を滅亡へと追いやった、南奥州の勢力図を根底から塗り替える分水嶺であった。しかし、この戦いの歴史的意義は、奥州内部の力学の変化に留まらない。中央で天下統一を成し遂げつつあった豊臣秀吉の権威に対し、政宗が公然と反旗を翻した最後の、そして最大の挑戦でもあった。本報告書は、この摺上原の戦いを、合戦に至るまでの複雑な政治情勢、両軍の戦略と戦術、そして合戦がもたらした長期的影響という多角的な視点から、時系列に沿って詳細に分析するものである。

名門蘆名氏の落日:継承の悲劇と権威の失墜

摺上原の戦いにおける蘆名氏の敗北は、その遠因を辿れば、合戦の数年前に始まった深刻な家督継承問題に行き着く。かつて蘆名氏は、16代当主・盛氏の時代に会津を中心に広大な領土を治め、伊達、佐竹、上杉といった強豪と肩を並べる奥州の雄であった 1 。しかし、その栄光は長くは続かなかった。盛氏から家督を継いだ嫡男・盛興が若くして病死すると、蘆名家は直系の男子を失う 1 。この事態を収拾するため、人質として会津にあった二階堂氏の盛隆が盛興の未亡人を娶り、18代当主として家督を継承した。しかし、この変則的な相続は家臣団に亀裂を生じさせ、権威の低下を招いた。その象徴的な事件が、天正12年(1584年)、盛隆が黒川城内で家臣によって暗殺されるという、名門大名家としては末期的な症状を示す出来事であった 1

盛隆の死後、家督は生後わずか1ヶ月の遺児・亀王丸が継ぐも、この幼き当主も2年後に夭折する 1 。ここに及んで、蘆名家は当主の血筋を完全に喪失し、その権威は地に堕ちた。当主が次々と非業の死を遂げるという異常事態は、単なる不運では片付けられない。それは、当主の権威が著しく失墜し、家臣団の統制が完全に崩壊していたことの証左である。蘆名家の崩壊は、伊達政宗という外部からの侵攻が始まる以前に、内部の統治システムそのものが機能不全に陥っていたことに起因するのである。

伊達派 対 佐竹派:蘆名家中の決裂

後継者を失った蘆名家中は、新たな当主をどこから迎えるかで真っ二つに分裂した。一方は、蘆名一門衆の猪苗代盛国や、重臣の平田氏、富田氏らを中心に、隣接する伊達家から政宗の弟・小次郎を迎えようとする「伊達派」。もう一方は、筆頭家老の金上盛備らを中心に、南で勢力を拡大する佐竹家から当主・佐竹義重の次男を迎えようとする「佐竹派」であった 1 。両派の対立は激化したが、最終的には金上盛備の政治工作が功を奏し、佐竹派が勝利を収める。これにより、当時わずか12歳の佐竹義広(後の蘆名義広)が蘆名家19代当主として黒川城に入った 1

しかし、この決定は蘆名家にとって致命的な結果を招いた。伊達派の家臣たちは完全に疎外され、新当主への忠誠を誓うどころか、心中に伊達家への内通を期すようになる。さらに、義広と共に佐竹家から送り込まれてきた家臣団が実権を掌握し始めると、旧来の譜代家臣との間に深刻な亀裂が生じ、指揮系統は著しく混乱した 1 。この時点で、蘆名家は一枚岩の組織ではなく、内部に敵を抱え込んだ、極めて脆弱な政治・軍事共同体と化していたのである。

独眼竜の野望:伊達政宗の周到な拡大戦略

父・輝宗の非業の死を経て伊達家の家督を継いだ政宗は、天正13年(1585年)の人取橋の戦いで佐竹・蘆名連合軍に苦戦を強いられながらも、九死に一生を得る 3 。この苦い経験を糧に、彼は破竹の勢いで勢力拡大を推し進めていった 2 。政宗の戦略は、単なる軍事力による侵攻に留まらなかった。彼は敵対勢力の内部対立を巧みに利用し、調略や内応工作を積極的に仕掛ける謀略家としての側面も持ち合わせていた 5 。蘆名家が後継者問題で揺れている状況は、彼にとって千載一遇の好機であった。南奥州の覇権を確立するため、会津をその手中に収めることは、政宗の奥州統一構想における最重要課題だったのである。

天下人の影:「惣無事令」という名の時限爆弾

政宗が奥州で勢力拡大に邁進していた頃、中央では豊臣秀吉が天下統一事業をほぼ完成させていた。天正15年(1587年)、秀吉は関東・奥羽の大名に対し、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発布する 5 。この命令に従うことは、秀吉を天下人として認め、その支配体制に組み込まれることを意味した。しかし、政宗は「奥州は遠国である」としてこの命令を公然と無視し、周辺諸国との戦争を継続した 7

したがって、これから起ころうとしている摺上原の戦いは、単なる伊達氏と蘆名氏の存亡を賭けた戦いであると同時に、惣無事令に対する最大級の挑戦でもあった。政宗がこの戦いに勝利したとしても、その先には天下人・秀吉との全面対決が待っていることは火を見るより明らかであった。この戦いは、奥州における「実力による領土拡大」という戦国時代以来の地方の論理が、秀吉による「天下の秩序維持」という中央の論理と衝突する、時代の転換点を象徴する戦いでもあった。それは、奥州における「戦国時代」の最後の輝きであり、同時に中央集権化の巨大な波に飲み込まれていく序曲でもあったのである。

第一章:開戦前夜 — 謀略と軍勢の集結

摺上原での決戦に至るまでの数ヶ月間、伊達政宗は軍事行動と謀略を巧みに組み合わせ、周到に外堀を埋めていった。彼の戦略眼は、単に敵主力を撃破することだけでなく、敵を孤立させ、内部から切り崩し、万全の態勢で決戦に臨むことに向けられていた。

政宗の陽動:機動力と情報戦による敵の分断

天正17年4月、政宗は米沢城を出陣する。会津へ直接侵攻すると思われた伊達軍の動きは、誰もが意表を突かれるものであった。政宗は軍を東に転じ、反伊達連合の一角をなす相馬義胤の領地へと電撃的に侵攻したのである 8 。この動きは、複数の目的を同時に達成する極めて高度な戦略であった。第一に、当時、相馬義胤は岩城常隆と共に伊達方の田村領に侵攻しており、この陽動によって相馬軍を自領の防衛に釘付けにすることに成功した 8 。これにより、蘆名氏と相馬氏の連携は断ち切られ、蘆名軍は有力な同盟軍を失うことになった。

政宗は自軍の最大の強みである「機動力」を最大限に活かし、敵の強みである「兵力数での優位」を無力化したのである 9 。相馬領の駒ヶ嶺城、蓑首城を次々と陥落させ、相馬義胤が慌てて引き返してきた頃には、政宗は既に主力を撤退させ、南下して安子島城に戻っていた 8 。相馬氏の参戦を阻止するという戦略目標を達成した政宗は、ついに矛先を本来の目標である会津へと向けた。

決定的な内応:猪苗代盛国の離反

政宗が会津侵攻の準備を整えていた頃、水面下で進めていた調略が決定的な実を結ぶ。天正17年6月1日、蘆名家中でかねてより伊達派の筆頭と目され、家督相続問題で冷遇されていた重臣・猪苗代盛国が、ついに人質を差し出して政宗に恭順したのである 1

猪苗代城は、会津盆地の入り口に位置し、蘆名氏の本拠・黒川城の喉元を扼する戦略的要衝であった。この城が伊達の手に落ちたことは、政宗にとって黒川城へ直接迫る最短ルートを確保したことを意味し、戦局を決定的に有利にした 8 。この報は、須賀川まで進出し、父・佐竹義重の援軍と合流していた蘆名義広の元に衝撃となって届いた。背後を突かれる形となった蘆名・佐竹連合軍は混乱に陥り、佐竹義重は自領の情勢不安もあって援軍を断念、義広は単独で慌てて黒川城へ引き返すことを余儀なくされた 10 。猪苗代盛国の内応は、単なる一武将の裏切りではない。それは、当主・義広に求心力が皆無であり、蘆名家の統治システムが完全に破綻していたことの最終的な証明であった。この時点で、蘆名家は軍事的に戦う前に、政治的に敗北していたと言っても過言ではなかった。

両軍の進路:決戦の地、摺上原へ

猪苗代城を手に入れた政宗は、6月4日に自ら入城し、決戦の準備を整えた。同時に、原田宗時率いる別働隊を米沢街道から南下させ、黒川城の北方に圧力をかけることで、蘆名軍を二正面作戦に引きずり込む構えを見せた 8 。一方、同日夕刻に黒川城へ帰還した蘆名義広は、残された兵力を結集し、伊達軍を迎え撃つことを決意する 8

運命の日、天正17年6月5日未明、蘆名義広は1万数千の軍勢を率いて黒川城を出陣。猪苗代湖の北岸を進み、高森山に本陣を置いた 2 。東から進撃してくるであろう伊達軍を、西から待ち受ける布陣である。これに対し、伊達政宗も2万を超える大軍を率いて猪苗代城を出撃。磐梯山の南麓に広がる摺上原へと軍を進めた 12 。奥州の覇権を賭けた両雄は、ついに決戦の地で対峙することとなったのである。

第二章:摺上原の激闘 — 刻一刻と変わる戦況

天正17年6月5日、夜明けと共に両軍は決戦の地、摺上原へと展開した。この一日の戦いは、周到な戦略、将兵の勇猛さ、そして天運という、戦の勝敗を左右するあらゆる要素が凝縮された激闘となった。

両軍の布陣と戦場の地勢

決戦の舞台となった摺上原は、磐梯山の南麓に広がる緩やかな丘陵地帯である。西側には日橋川が流れ、これが天然の防衛線とも、あるいは退路を断つ障害物ともなり得る地形であった 14 。当時の記録によれば、周辺には沼や湿地も点在しており、土地勘の有無が部隊の移動に影響を与えた可能性も指摘されている 15

この地において、両軍は以下の布陣で対峙した。

伊達軍(総兵力 約21,000〜23,000) 11

東側に布陣した伊達軍は、政宗の緻密な計算に基づいた陣立てであった。

  • 先手: 猪苗代盛国 — 寝返ったばかりの部隊を最前線に置くことで、その忠誠心を試すと同時に、蘆名軍に動揺を与える狙いがあった。
  • 二番: 片倉景綱 — 「智の小十郎」と称される政宗の右腕が、戦況全体を俯瞰し、柔軟に対応する役割を担う。
  • 三番: 伊達成実 — 伊達一門最強の猛将が率いる部隊は、決定的な場面で敵陣を突破する遊撃部隊としての役割が期待された。
  • 四番: 白石宗実
  • 五番: 伊達政宗本隊(旗本)
  • 六番: 浜田景隆
  • 左翼: 大内定綱
  • 右翼: 片平親綱 8

蘆名軍(総兵力 約15,000〜16,000) 11

西側の日橋川を背にし、高森山に本陣を置いた蘆名軍は、東進してくる伊達軍を迎え撃つ態勢を整えた 11。

  • 総大将: 蘆名義広
  • 主要武将: 金上盛備、佐瀬種常、富田将監、平田舜範など。しかし、このうち平田、富田といった重臣は元々伊達派であり、その戦意には大きな疑問符がついていた 1

項目

伊達軍

蘆名軍

総大将

伊達政宗

蘆名義広

総兵力

約21,000~23,000

約15,000~16,000

主要武将

片倉景綱、伊達成実、白石宗実、大内定綱、猪苗代盛国

金上盛備、佐瀬種常、富田将監、平田舜範

特記事項

猪苗代盛国など蘆名からの内応者を組み込む。葛西・大崎氏からの援軍を含む。士気は高い。

佐竹氏からの本格的な援軍はなし。家中に伊達派を抱え、一枚岩ではない。将兵は連戦で疲弊。

この戦力比較が示すように、伊達軍は兵力数で優位に立つだけでなく、内応者による情報的優位と高い士気を誇っていた。対照的に蘆名軍は、数的に劣勢である上に、家中の分裂と将兵の疲弊という深刻な問題を抱えており、開戦前から既に不利な状況に置かれていたのである。

午前八時頃、戦端開かる — 蘆名軍優勢の展開

午前6時から8時頃にかけて、戦いの火蓋は切られた 3 。開戦当初、戦況は意外にも蘆名軍優勢で推移する。その最大の要因は天候であった。この日、戦場には強い西風が吹き荒れており、西に陣取る蘆名軍にとっては完全な「追い風」となった 2

追い風に乗った蘆名軍の矢や鉄砲は射程を伸ばし、逆に東から攻める伊達軍は、猛烈な向かい風と共に巻き上げられる砂塵によって視界を奪われ、有効な攻撃ができないという最悪の状況に陥った 2 。この有利な状況を活かし、蘆名軍の富田将監らが率いる部隊は猛然と突撃し、伊達軍の先手・猪苗代隊、続く二番手・片倉景綱隊を突き崩し、伊達軍は序盤から大きな苦戦を強いられた 1 。政宗は本陣から側面に鉄砲隊を回り込ませて斉射させると共に、伊達成実、白石宗実ら精鋭部隊を投入し、必死に戦線の崩壊を食い止める。戦場は一進一退の激しい攻防となった 12

天運の転換点 — 風向きの急変と伊達軍の反攻

両軍が死闘を繰り広げる中、突如として戦場の様相を一変させる出来事が起こる。これまで西から東へと吹いていた強風が、にわかにその向きを変え、真逆の東風となったのである 2

この瞬間、天運は伊達に味方した。今度は蘆名軍が猛烈な向かい風と砂塵に視界を遮られることになり、形勢は一瞬にして逆転した 2 。この千載一遇の好機を、伊達軍の指揮官たちは見逃さなかった。片倉景綱は即座に全軍に反撃を命令。不利な状況下でも戦線を維持し続けていた伊達成実らの部隊が、これを機に獅子奮迅の働きを見せ、蘆名軍を押し返し始めた 4 。風向きの変化という「天運」は確かにあった。しかし、その天運を決定的な「勝機」に変えたのは、劣勢にあっても崩壊しなかった伊達軍の強固な組織力と高い士気、そして好機を逃さず一斉に反攻に転じることができる優れた指揮系統であった。天運を掴むための「準備」が、伊達軍にはできていたのである。

崩壊と潰走 — 日橋川の悲劇

形勢が逆転すると、蘆名軍が抱えていた内部の脆弱性が一気に露呈した。元々伊達派であった平田隊や富田隊は、伊達軍が優勢になるや、全く戦おうとせず、あろうことか勝手に戦線を離脱してしまったのである 1 。この裏切り行為が、前線で戦う兵士たちの戦意を根こそぎ奪い去った。

一説には、片倉景綱が戦場の丘陵で見物していた農民や町人たちの群れに向かって鉄砲を撃ちかけ、驚いて逃げ惑う人々を、砂塵で視界の効かない蘆名軍の兵士たちが「味方の敗走」と誤認したことが、総崩れの引き金になったとも伝えられている 12 。いずれにせよ、指揮系統は完全に麻痺し、蘆名軍は統制を失った烏合の衆と化して潰走を始めた。

兵士たちは我先にと西の日橋川を目指して逃げたが、彼らを待っていたのはさらなる絶望であった。伊達方に内応した猪苗代盛国が、合戦が始まる前に、唯一の退路である日橋川に架かる橋を密かに破壊していたのである 2 。この「日橋川の悲劇」は、単なる敗走の結果ではなく、敵を撃破するだけでなく、その戦力を根絶やしにしようという、政宗と内応者による周到な殲滅戦術の一環であった。逃げ場を失った蘆名兵の多くが、川の激流に飲み込まれて溺死するか、追撃してきた伊達兵に討ち取られた。この追撃戦で蘆名軍が失った将兵は、2,500名以上にのぼったと記録されており、その被害は壊滅的であった 1

第三章:戦後の帰趨 — 蘆名家の滅亡と伊達政宗の会津掌握

摺上原での一日で、南奥州の勢力図は決定的に塗り替えられた。伊達軍の圧勝と蘆名軍の壊滅的な敗北は、それぞれの家の運命を劇的に変えることとなる。

黒川城からの逃亡:名門蘆名家の終焉

蘆名義広は、金上盛備ら忠臣たちの決死の奮戦によって、辛うじて死地を脱出した。しかし、彼が黒川城にたどり着いた時、その傍らにはわずか30騎ほどの手勢しか残っていなかった 1 。城にはもはや伊達の大軍を防ぎきる兵力も、将兵の士気も残されていなかった。もはや抗戦は不可能と悟った義広は、6月10日の夜、密かに黒川城を捨てて白河方面へと逃走する 1 。その後、彼は実家である常陸の佐竹義重を頼って落ち延びていった 1

これにより、鎌倉時代から約400年にわたり会津に君臨した名門・蘆名氏は、戦国大名として事実上滅亡した 1 。義広自身はその後、父・義重と共に秋田へ移り、角館の地を与えられてその地の基礎を築いたとされるが 1 、奥州の歴史の表舞台からその名を消すこととなった。

無血開城と政宗の入城

主を失った黒川城に、もはや抵抗する者はいなかった。合戦の翌日である6月11日、伊達政宗は広大な会津盆地を眼下に見下ろす名城・黒川城に無血で入城を果たした 1 。政宗は、長年の本拠地であった米沢からこの黒川城へと拠点を移すことを即座に決定。名実ともに関東以北における最大の勢力を持つ「奥州の覇者」として、その名を天下に轟かせたのである 1

忠臣たちの最期:「三忠碑」に刻まれた義

蘆名家が内部から崩壊し、多くの家臣が戦意を喪失、あるいは敵に内通する中で、最後まで主君への忠義を貫き、その命を散らした者たちがいた。筆頭家老の金上盛備、そして佐瀬種常・常雄父子の三名である 11

金上盛備は、佐竹派として義広を当主に据えた責任感からか、敗色が濃厚となる中で最後まで踏みとどまり、伊達勢に突撃して討死した 25 。佐瀬父子もまた、敗走する主君・義広の退路を確保するために奮戦し、親子共々壮絶な最期を遂げたと伝えられる 25 。彼らの忠義は敵である伊達方にも感銘を与え、後世、江戸時代になって会津藩主となった松平容敬によって、その忠誠心を顕彰するための「三忠碑」が古戦場跡に建立された 17 。この石碑は、内部崩壊という無惨な形で滅亡した蘆名家の中にも、最後まで武士としての義を貫いた者たちがいたことの、静かな証として今にその姿を伝えている。

終章:天下人の影 — 摺上原の勝利がもたらした栄光と代償

摺上原の戦いは、伊達政宗の軍事的キャリアにおいて最大の勝利であった。しかし、この輝かしい栄光の裏には、時代の大きなうねりの中で支払わねばならない、あまりにも大きな代償が待ち受けていた。

南奥州の覇者:政宗の権勢、頂点へ

摺上原での決定的な勝利により、これまで政宗の勢力拡大を阻んできた反伊達連合は事実上崩壊した。蘆名氏という核を失った周辺の二階堂氏、石川氏、白川氏といった諸大名は、雪崩を打って政宗に屈服した 4 。これにより、政宗は現在の福島県、宮城県、山形県の一部にまたがる広大な領域をその手中に収め、奥州の覇者としての地位を確立した。この勝利は、若き独眼竜の名を天下に知らしめる、最大の軍事的功績となったのである 27

惣無事令違反の代償:小田原参陣と領地没収

しかし、政宗が奥州の覇者として君臨した時間は、あまりにも短かった。彼の会津攻略は、豊臣秀吉が発布した惣無事令を完全に無視した、天下人への明確な挑戦行為であったからである 7

翌天正18年(1590年)、秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の北条氏を討伐するための小田原征伐を開始する。全国の大名に参陣が命じられ、その命令は政宗の元にも届いた。北条氏とは同盟関係にあり、秀吉への反発心も強い政宗は、秀吉と一戦交えるか、それとも恭順するかの決断に大いに迷った 27 。最終的に、腹心・片倉景綱の「今は虎の尾を踏むべきではない」との進言を受け入れ、小田原への参陣を決意する。しかし、その到着は大幅に遅れ、秀吉の怒りを買うこととなった。

死罪こそ免れたものの、その処罰は苛烈なものであった。秀吉は政宗に対し、摺上原の戦いで得たばかりの会津領をはじめとする広大な領地を没収するという裁定を下したのである 7 。政宗は、自らの知略と将兵の血によって勝ち取った最大の戦果を、戦うことなく失うことになった。この出来事は、もはや個々の武将が実力で領地を切り取る時代が終わり、天下人の秩序の下で領地が「与えられる」時代へと完全に移行したことを、政宗に痛感させるものであった。

歴史的意義の再評価

摺上原の戦いは、複数の歴史的意義を持つ。第一に、戦国大名・蘆名氏の滅亡を決定づけ、南奥州の勢力図を一変させた合戦であること。第二に、伊達政宗の軍事的才能と戦略眼が最も輝いた戦いであると同時に、天下の情勢を見誤った彼の政治的判断の限界を露呈させた戦いであったこと。

そして最も重要なのは、この戦いが、奥州という地域が日本の統一政権下に組み込まれていく過程における、最後の大規模な私戦であったという点である。摺上原の勝利は、伊達政宗にとって「奥州の覇者」としての地位を確立した栄光の頂点であった。しかし、それは同時に、天下というより大きな枠組みの中では、もはや一地方勢力に過ぎないという冷厳な現実を突きつけられた、栄光と挫折の分岐点でもあった。この戦いを境に、奥州は戦国の世から、天下人が支配する新たな時代へと、否応なく組み込まれていくのである。摺上原の戦いは、まさに戦国時代の終焉を象徴する戦いの一つとして、日本の歴史にその名を刻んでいる。

引用文献

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  2. [合戦解説] 10分でわかる摺上原の戦い 「伊達政宗は風をも味方につけ蘆名軍を殲滅!」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=A_oAOJ78apY&t=448s
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