最終更新日 2025-08-25

月山富田城の戦い(1565~66)

毛利元就は難攻不落の月山富田城を兵糧攻めと謀略で攻め落とし、尼子宗家は滅亡。忠臣を誅殺した尼子義久の判断が響き、飢餓と疑心に蝕まれた城は開城。山中幸盛は再興を誓う。

第二次月山富田城の戦い(1565–66年):謀略と飢餓が天空の城を堕とすまで

序章:両雄、中国に立つ ― 決戦前夜の情勢

戦国時代の日本列島において、中国地方は長らく周防の雄・大内氏と出雲の雄・尼子氏という二大勢力が覇を競う舞台であった。しかし、天文20年(1551年)、大内義隆が重臣・陶晴賢の謀反によって自刃に追い込まれると 1 、この均衡は劇的に崩壊する。続く天文24年(1555年)の厳島の戦いで、安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就が陶晴賢を討ち果たし、大内領を併呑。これにより、中国地方に巨大な権力空白が生まれ、毛利氏と尼子氏がその覇権を巡って直接対決する時代が幕を開けたのである 1

大内氏滅亡後の権力地図と毛利元就の台頭

毛利元就は、一代にして安芸国を統一し 4 、次男・吉川元春と三男・小早川隆景をそれぞれ名門吉川家・小早川家へ養子として送り込むことで、強力な「毛利両川体制」を構築した 5 。彼の戦略の神髄は、単なる軍事力による正面衝突を極力避け、謀略や調略を駆使して敵の内部結束を切り崩し、自壊へと導く点にあった 6 。この「謀神」と称される元就の冷徹な戦略思想こそが、後に尼子氏との最終決戦において決定的な役割を果たすことになる。

尼子氏の栄光と内包された時限爆弾

一方の尼子氏は、尼子経久とその孫・晴久の代に、山陰・山陽十一ヶ国に影響を及ぼすほどの広大な勢力圏を築き上げた 7 。天文12年(1543年)には、大内義隆が毛利元就を伴って侵攻してきた第一次月山富田城の戦いを撃退し、その威勢は頂点に達していた 1

しかし、その栄光の裏で、組織を蝕む深刻な亀裂が進行していた。天文23年(1554年)、当主・尼子晴久は、元就が流した偽情報に乗り、尼子氏最強の軍事力を誇った叔父・尼子国久とその子・誠久らが率いる精鋭部隊「新宮党」を粛清するという致命的な過ちを犯す 11 。さらに永禄3年(1560年)12月、その晴久が急死し、若年の嫡男・義久が家督を継ぐと 12 、尼子氏は経験豊富な指導者と最強の軍団を同時に失うという、絶望的な状況に陥った。

この新宮党粛清は、単に軍事力を削いだだけではなかった。尼子経久の次男が率い、一族の武勇の象徴であった新宮党を、当主自らの手で粛清したという事実は、家臣団に「どれほど功績を挙げようとも、いつかは主君の猜疑心によって粛清されるかもしれない」という根深い不信感を植え付けた。この猜疑心の種こそが、後の籠城戦における悲劇の伏線となる。月山富田城の戦いは、毛利軍が城を包囲する10年以上も前から、尼子氏自身の内部崩壊という形で、静かに始まっていたのである。

天空の要塞:月山富田城の構造

尼子氏の本拠・月山富田城は、標高約190メートルの月山全体を城塞化した、日本屈指の規模を誇る山城であった 7 。麓の城下町から山頂の本丸に至るまで、幾重にも連なる曲輪が配され、特に「七曲り」と呼ばれる急峻で曲がりくねった登城路は、攻め手に多大な犠牲を強いる天然の防衛線となっていた 15 。西は飯梨川、東は険しい山々に囲まれた天然の要害であり、過去一度も力攻めで本丸まで攻め入られたことがない、文字通り「難攻不落」の城として知られていた 14

しかし、この城の「難攻不落」という物理的な強みこそが、皮肉にも尼子氏の戦略的選択肢を狭め、敗因を規定することになる。元就は第一次月山富田城の戦いでの手痛い敗北から、力攻めという選択肢を早々に放棄した 11 。これにより、戦いの主戦場は「城壁を巡る物理的な攻防」から、「城内外の兵站と心理を巡る情報戦」へと移行した。尼子方は城の堅固さに依存し、籠城さえすれば勝機はあると信じたが、それは元就が最も得意とする土俵、すなわち兵糧攻めと謀略の舞台に、自ら進んで上がったことを意味したのである。

年月

主要な出来事

天文23年(1554年)

尼子晴久、毛利元就の謀略により新宮党を粛清。

永禄3年(1560年)

12月、尼子晴久が急死。嫡男・義久が家督を継ぐ。

永禄5年(1562年)

7月、毛利元就が出雲への侵攻を開始。

永禄6年(1563年)

8月~10月、白鹿城の戦い。毛利軍が勝利し、尼子氏の補給路を遮断。

永禄8年(1565年)

4月、毛利軍が月山富田城への第一次総攻撃を開始するも失敗。兵糧攻めへ移行。

永禄9年(1566年)

1月頃、元就の謀略により、尼子義久が忠臣・宇山久兼を誅殺。

永禄9年(1566年)

11月21日、尼子義久が降伏。28日に月山富田城は開城される。

永禄12年(1569年)

山中幸盛ら尼子遺臣団が、尼子勝久を擁立し再興軍を蜂起。


第一章:包囲網の形成 ― 月山富田城、孤立への道(1562年~1564年)

元就の出雲侵攻計画:大蛇の生殺し

永禄5年(1562年)7月、毛利元就は満を持して出雲への大侵攻を開始した 17 。しかし、その狙いは月山富田城への性急な直接攻撃ではなかった。元就が採用したのは、巨大な蛇(尼子氏)の頭(富田城)をいきなり叩くのではなく、まずその手足である支城群、通称「尼子十旗」を一つずつ、確実に攻略していくという周到な戦略であった 18 。これは、敵の力を徐々に削ぎ、補給路という毒牙を抜き、完全に無力化してから仕留める「生殺し」の戦術に他ならなかった。

前哨戦のクライマックス:白鹿城の戦い(永禄6年8月~10月)

元就の包囲網形成戦略において、そのクライマックスとなったのが白鹿城を巡る攻防戦である。

戦略的重要性

白鹿城は、尼子十旗の筆頭に数えられ、宍道湖北岸に位置し、日本海からの物資を月山富田城へ繋ぐ兵站上の最重要拠点であった 17。元就は、この城を陥落させることが富田城の孤立化を決定づけると正確に見抜いていた。

戦闘経過

永禄6年8月13日、毛利軍は白鹿城への総攻撃を開始した 17。城主・松田誠保らが守る城兵約1,800に対し、毛利軍は約1万5千という圧倒的な兵力を誇った 11。しかし、尼子方の頑強な抵抗に遭い、当初の攻撃は頓挫する。そこで元就は、石見銀山から数百人の鉱夫を呼び寄せ、城の水脈を断つための坑道を掘らせるなど、当時最先端の攻城術を展開した 11。

鉄砲の集中運用

この戦いの特筆すべき点は、鉄砲が戦闘の主役であったことである。現存する軍忠状の分析によれば、10月10日から11日にかけての戦闘における吉川軍の戦傷原因のうち、実に73%が鉄砲によるものであったと記録されている 17。これは、白鹿城の戦いが、伝統的な白兵戦だけでなく、最新の火器を駆使した近代的な攻城戦であったことを如実に物語っている。

陥落と影響

約3ヶ月にわたる熾烈な攻防の末、水と兵糧が尽きた白鹿城はついに降伏。これにより、月山富田城は日本海からの補給ルートを完全に絶たれ、戦略的に著しく不利な状況へと追い込まれた 17。

一般的に白鹿城の戦いは「前哨戦」と位置づけられるが、その戦略的帰結を鑑みれば、事実上の「本戦」であったと言える。この戦いで尼子方の兵站という最大の弱点を突くことに成功した時点で、元就は月山富田城の攻略を九割方終えていた。後の1年半にわたる籠城戦は、この勝利によってもたらされた必然的な帰結を、時間をかけて現実化させるための「仕上げ」の作業に過ぎなかったのである。

尼子十旗の瓦解

白鹿城の陥落はドミノ効果を生み、尼子氏の威勢を頼みにしていた周辺の国人領主や支城は、次々と毛利方へ寝返るか、攻略されていった 22 。永禄8年(1565年)の春を迎える頃には、月山富田城はその守りを固めていた支城群をことごとく失い、中国山地の奥深くに浮かぶ孤島と化した 11 。毛利元就による巨大な包囲網は、こうして完成したのである。


第二章:永禄八年(1565年)― 攻城戦の幕開けと兵糧攻めへの転換

月山富田城を完全に孤立させた毛利元就は、いよいよ尼子宗家を滅ぼすべく、最後の攻城戦へと移行する。

毛利軍

尼子軍(籠城側)

総兵力

約15,000~26,000(諸説あり) 11

約10,000~15,000(推定) 2

総大将

毛利元就

尼子義久

主要武将

第一軍(正面): 毛利輝元

城主: 尼子義久、尼子倫久、尼子秀久

第二軍(南): 吉川元春、吉川元長

重臣: 宇山久兼、立原久綱、牛尾幸清

第三軍(北): 小早川隆景

若手: 山中幸盛(鹿介)

包囲網の完成:三方からの同時攻撃

永禄8年(1565年)4月、毛利軍は月山富田城への本格的な攻撃を開始した 13 。その布陣は、元就の緻密な計算に基づいていた 11

  • 第一軍(正面・塩谷口): 総大将・毛利元就と、この戦いが初陣となる嫡孫・毛利輝元が率いる本隊。
  • 第二軍(南・菅谷口): 猛将として知られる次男・吉川元春と、その子・元長が率いる部隊。
  • 第三軍(北・御子守口): 智将として名高い三男・小早川隆景が率いる部隊。

この三方からの包囲網は、尼子軍のいかなる脱出路をも塞ぐ鉄壁の布陣であった。

最初の総攻撃とその挫折

4月17日から開始された毛利軍の総攻撃は、しかし、月山富田城の堅牢な防御設備の前にことごとく跳ね返された 7 。尼子軍は、城の地形を熟知した守りで応戦し、特に「七曲り」の隘路では、毛利方に多大な損害を与えたと推測される 15 。この初期防衛の成功は、籠城する尼子軍の士気を一時的に高揚させたが、それは滅亡を前にした最後の輝きに過ぎなかった。

元就の戦略転換:兵糧攻めへの移行

この総攻撃によって、元就は力攻めによる短期攻略が不可能であり、無駄に味方の兵を損なうだけだと再確認した 13 。彼は即座に攻撃を中止させ、戦略を180度転換する。それは、城を完全に包囲し、兵糧や物資の搬入を一切許さない、長期的な兵糧攻め(経済封鎖)への移行であった 13

謀略を得意とする元就が、なぜ損害の大きい総攻撃をあえて命じたのか。これは単なる戦術的失敗ではなく、高度な政治的・心理的計算に基づいた「儀式」であった可能性が高い。第一に、初陣の嫡孫・輝元に「戦の厳しさ」を実地で教える教育的意図があった 11 。第二に、味方の諸将に対して「力攻めは試したが、この城は不可能だった」という事実を共有し、これから始まる長く退屈な兵糧攻めへの不満を封じ込めるための合意形成プロセスであった。そして第三に、尼子方に一時的な勝利感を与えて油断を誘う狙いもあっただろう。この「計算された敗北」によって、元就は自軍の結束を固め、敵の警戒心を解き、最も確実な勝利への道筋をつけたのである。


第三章:籠城 ― 飢えと疑心が生む地獄(1565年後半~1566年前半)

元就が兵糧攻めに移行したことで、月山富田城は外部から完全に遮断された。ここから、城内は飢えと疑心が生み出す地獄へと変貌していく。

絶望的な食糧事情と人間性の崩壊

毛利軍の厳重な包囲により、城内に備蓄されていた兵糧は急速に底をつき始めた 18 。籠城兵や城下の住民たちは、やがて牛馬を食い尽くし、草木の根や城壁の藁まで口にするという、悲惨な状況に追い込まれたとされる。永禄9年(1566年)6月頃には、毎日50人から100人もの脱走者が発生する有様であった 25 。この極限の飢餓は、兵士たちの戦闘能力だけでなく、人間としての尊厳や正常な判断力をも奪っていった。

元就の心理戦:希望を弄ぶ揺さぶり

元就は、この城内の絶望をさらに加速させるため、冷徹かつ巧妙な心理戦を展開した。

当初、元就は投降してきた尼子兵を斬り捨て、城兵の恐怖を煽っていた。しかし、冬が近づき城内の飢餓が深刻化すると、一転して投降を認める高札を立て、城外で粥の炊き出しを始めたのである 27 。城内にまで漂う粥の香ばしい匂いは、飢えに苦しむ兵士たちの心を折るのに、いかなる兵器よりも効果的であった 28

この元就の兵糧攻めは、単なる兵站遮断作戦ではない。炊き出しという行為は、敵兵を「武士」としてではなく、食欲という本能に支配される「動物」として扱うことで、その尊厳を徹底的に破壊する狙いがあった。飢餓によって理性を失わせ、動物的欲求を刺激することで、忠誠心や武士道といった価値観を無意味化する。この戦いは、物理的な殲滅ではなく、敵の精神と共同体を根底から破壊することを目的とした、戦国時代における最も冷酷な非対称戦争の一例と言えるだろう。

孤城の抵抗:山中幸盛の奮戦

このような絶望的な状況下にあっても、すべての者が希望を捨てたわけではなかった。尼子家中の若き武将・山中幸盛(鹿介)らは、最後まで抵抗を続け、城内の士気を鼓舞しようと努めた 3

特に、毛利方の将・棫木狼介(品川大膳とも)が名乗りを上げて一騎討ちを挑んできた際の逸話は有名である。狼介は「鹿を喰らうは狼」と自らの武勇を誇示したが、幸盛はこれに応じ、見事に討ち取った 29 。この勝利は、飢えに苦しむ籠城兵の士気を一時的に高揚させた。それは、物理的な飢えには抗えなくとも、武士としての精神的な誇りだけは失うまいとする、尼子武士の最後の意地を示すものであった。


第四章:永禄九年(1566年)― 謀略の刃、そして落城

兵糧攻めが最終段階に入った永禄9年(1566年)、元就は月山富田城にとどめを刺すべく、最後の仕上げに取り掛かる。それは、武力でも兵糧でもなく、一本の矢、すなわち「謀略」であった。

最終兵器としての謀略:宇山久兼の悲劇

謀略の内容

元就は、尼子義久の近臣であった大塚与三右衛門などを通じ、「城内の重臣・宇山久兼が毛利と内通し、兵糧を横領して私腹を肥やしている」という、全くの偽情報を城内に流させた 30。

悲劇の背景

宇山久兼は、尼子経久、晴久、義久の三代にわたって仕えた忠臣中の忠臣であった。この絶望的な籠城戦の最中においても、彼は私財を投じて密かに兵糧を買い付け、間道から城内へ運び込むという、決死の努力を続けていたのである 30。

義久の決断

しかし、長期の籠城による極度のストレスと、日に日に増していく脱走者への不信感から、当主・尼子義久は深刻な猜疑心に蝕まれていた。彼はこの巧妙な讒言を信じ込み、永禄9年1月、最後まで尼子家を支え続けた忠臣・宇山久兼とその息子を、謀反の疑いで誅殺するという、取り返しのつかない決断を下してしまう 7。

義久はなぜ、このようなあり得ない讒言を信じてしまったのか。その深層心理には、父・晴久による新宮党粛清の記憶が、亡霊のように影を落としていた可能性がある。父は、一族最強の武力を持つ叔父を「謀反の疑い」という理由で粛清した 11 。その姿を見て育った義久は、「家中には常に裏切り者がいるかもしれない」という強迫観念を、父から受け継いでいたのではないか。元就の謀略は、この義久のトラウマとも言うべき精神的な弱点を、的確に突いたものであった。義久が誅殺したのは、宇山久兼という一人の忠臣だけではない。父の代から続く猜疑心という「尼子家の業病」そのものに、彼自身が屈した結果であった。

求心力の完全崩壊

最後まで城を支えていた忠臣の理不尽な死は、城内に残っていた将兵の心を完全に折った 7 。「忠義を尽くしても、主君の疑心によって殺される」という絶望が城内を覆い尽くし、尼子義久の求心力は完全に失われた。これを機に、重臣であった牛尾幸清や佐世清宗までもが毛利方に投降し、もはや組織的な抵抗は不可能な状態となった 30

降伏と開城(永禄9年11月)

城兵がわずか三百名程度にまで減少したとされ、万策尽きた尼子義久は、ついに降伏を決意する。永禄9年(1566年)11月21日、毛利方へ降伏の使者が送られた 31

元就は、尼子義久・倫久・秀久の三兄弟の生命を保証することを条件に、降伏を受け入れた 19 。そして11月28日、月山富田城はついに開城。義久らは毛利元就の本陣があった洗合へ送られ、その後、安芸国の円明寺へと幽閉されることとなった 25

ここに、出雲に君臨した戦国大名・尼子宗家は、事実上滅亡したのである。


終章:尼子宗家の滅亡と、新たなる動乱の胎動

中国地方の統一

第二次月山富田城の戦いにおける勝利により、毛利氏は安芸、周防、長門、石見、備後、出雲、伯耆の七ヶ国をその支配下に置き、名実ともに中国地方の覇者となった 13 。安芸の一国人から身を起こした毛利元就の生涯をかけた事業は、ここに一つの完成を見たのである。

滅亡では終わらない物語:尼子再興運動

しかし、尼子の物語はこれで終わりではなかった。主家の滅亡を目の当たりにした山中幸盛は、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈り、尼子家再興を固く誓ったと伝えられる 26

彼は牢人となりながらも各地の尼子遺臣を糾合し、京で僧となっていた尼子一族の尼子勝久を還俗させて大将に擁立。毛利氏に対する執拗な抵抗運動を開始する 24 。この尼子再興軍の蜂起は、その後10年近くにわたって毛利氏を苦しめ続け、中国地方に新たなる動乱の時代をもたらすことになる 1

元就が、後顧の憂いを断つために尼子三兄弟を処刑しなかったのは、彼が単なる殺戮者ではなく、天下の情勢を見据える政治家であったことを示している。無用な殺生は他の大名からの評判を落とし、新たな領国の統治に反発を招くことを理解していた。しかし、この「寛大な」処置が、皮肉にも尼子再興運動の精神的な拠り所を与えてしまった。義久らが生きている限り、「正当な主君」は存在し続ける。山中幸盛らの抵抗は、この「生かされた主君」という大義名分があったからこそ、多くの遺臣の共感を得て長期化し得たのである。元就の勝利は軍事的には完璧であったが、政治的には「再興」という火種を残す不完全なものであった。

月山富田城のその後

戦後、月山富田城は毛利氏の山陰支配の拠点として機能した。しかし、関ヶ原の戦いの後、出雲に入城した堀尾吉晴が、より統治に適した平地に松江城を新たに築城すると、月山富田城はその歴史的役割を終え、廃城となった 3 。かつて天空の要塞と謳われた名城は、こうして静かに歴史の舞台から姿を消したのである。

引用文献

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  2. 月山富田城の戦い古戦場:島根県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/gassantodajo/
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