有子山城の戦い(1580)
天正八年 但馬平定戦と有子山城の落日—名門山名氏、最後の刻—
序章:落日の名門、天下布武の奔流
天正八年(1580年)、但馬国(現在の兵庫県北部)に聳える有子山城が、歴史の大きな転換点に静かに佇んでいた。この城の運命を巡る一連の出来事は、単なる一地方の城の攻防戦ではない。それは、織田信長が掲げた「天下布武」という、日本全土を巻き込む巨大な奔流が、中世以来の名門・山名氏の最後の拠点を飲み込んでいく過程そのものであった。有子山城の戦いを理解するためには、まずその背景にある、より広大な戦略的文脈を把握する必要がある。
時は天正五年(1577年)、天下統一を目前にする信長は、その最後の障壁として西国に君臨する毛利氏の打倒を決意する。この壮大な計画の実行者として、腹心の将・羽柴秀吉が中国方面軍の総大将に任命された 1 。世に言う「中国攻め」の始まりである。秀吉は播磨国の姫路城を拠点とし、巧みな調略と武力をもって毛利方の城を次々と攻略、着実にその勢力圏を西へと押し広げていた 2 。
この中国攻めという大戦略において、但馬国は極めて重要な位置を占めていた。地理的に、但馬は秀吉の拠点である播磨の背後にあり、ここを敵対勢力に押さえられることは、兵站線と本国の安全を常に脅かされることを意味した。特に、山陰道を通じて毛利勢が東進してくる可能性を遮断するためには、但馬の完全な掌握が不可欠であった 3 。さらに、但馬には当時日本有数の鉱山であった生野銀山が存在した 4 。この銀山を支配下に置くことは、信長の統一事業を支える財政基盤を飛躍的に強化させることを意味し、軍事的価値に劣らない経済的価値を持っていた。
この戦略的要衝を治めていたのが、室町幕府の四職に数えられ、一時は日本の六分の一の国々を治めたことから「六分の一殿」とまで称された名門守護大名・山名氏であった 6 。しかし、その栄光は遠い過去のものとなり、戦国の荒波の中でその力は大きく衰退していた。当主の山名祐豊は、東から迫る織田と西に控える毛利という二大勢力の狭間で、絶え間ない緊張と選択を強いられていた 8 。
したがって、有子山城の戦いは、山名氏の外交的選択の結果として起きた偶発的な事件というよりも、織田信長の天下統一戦略という大きな枠組みの中で、必然的に引き起こされた出来事であった。織田方にとって、山名氏が恭順の意を示そうと、あるいは毛利と結ぼうと、この戦略的・経済的に重要な但馬国を曖昧な状態のまま放置することは許されなかった。新たな時代を築こうとする織田・羽柴の新興勢力と、古き権威にしがみつきながらも生き残りを図る中世の名門。両者の衝突は、もはや避けられない運命だったのである。この戦いは、実力主義が旧来の権威を完全に凌駕する戦国時代の最終局面を象徴する、一つの分水嶺であった。
第一部:岐路に立つ但馬守護・山名祐豊
天正八年(1580年)の悲劇に至る以前、但馬守護・山名祐豊は既に一度、その支配体制を根底から揺るがされるほどの屈辱を味わっていた。彼の苦悩に満ちた後半生と、最後の希望として築かれた有子山城の存在は、この戦いの前提として理解されなければならない。
事の発端は、永禄十二年(1569年)に遡る。この年、羽柴秀吉を将とする織田軍は第一次但馬侵攻を敢行し、山名氏が代々本拠地としてきた此隅山城を攻撃した 5 。山名氏は有効な抵抗をすることができず、城はあっけなく落城。当主・祐豊は但馬を追われ、和泉国堺へと逃亡する屈辱を味わった 6 。この敗北は、かつての名門の軍事力が、織田軍の近代的な戦術と兵力の前にいかに無力であるかを白日の下に晒した。
しかし、祐豊の運命はここで尽きなかった。堺において彼は、織田信長の御用商人であり、茶人としても名高い今井宗久の知遇を得る 10 。生野銀山をはじめとする但馬の資源に関心を持っていた宗久は、信長への仲介役を果たし、祐豊は但馬への帰国を許されることとなった 6 。この事実は、山名氏がもはや自らの武力や権威によって領国を維持することができず、中央の権力者と結びついた商人の経済力と政治力に依存しなければならないほど、その立場が脆弱になっていたことを物語っている。
但馬へ戻った祐豊は、苦い教訓から大きな決断を下す。彼は、落城した此隅山城を放棄した。一説には、「此隅(こぬすみ)」が「子盗」に通じ、不吉であると嫌ったためとも言われる 11 。そして、それよりも遥かに険しく、防御に適した有子山に新たな本拠地を築くことを決意したのである 9 。この有子山城の築城は、二度と城を失うまいとする祐豊の執念の表れであった。それは、来るべき戦乱の時代に対応すべく、防御能力を極限まで高めた、戦国時代後期の山城の典型であった。
しかし、この堅城の建設も、山名氏が直面する根本的な問題を解決するものではなかった。祐豊は、形式上は織田信長に従属する立場を取りながらも、西の毛利氏との関係を完全に断ち切ることができず、両勢力の間で生き残りを賭けた綱渡り外交を続けていた 5 。この曖昧な態度は、織田方から見れば裏切りとも映り、深刻な不信感を招く結果となった 9 。さらに、山名氏の家中も一枚岩ではなかった。重臣の垣屋豊続らは、公然と毛利氏との連携を模索しており、当主の祐豊とは異なる外交路線を志向していた 14 。
このような状況下で築かれた有子山城は、山名氏再興の拠点という「希望の城」ではなく、万が一の際に一族が立てこもるための「最後の砦」としての性格が色濃かった。その峻険な地形は、祐豊の追い詰められた心理状態と、もはや攻勢に出る余力はなく、ひたすら防御に徹するしかないという絶望的な戦略を象徴していた。そして、家中の方針の不一致は、統一された迅速な対応を不可能にし、強力な羽柴軍が姿を現した際に、但馬の国人衆が雪崩を打って降伏する土壌を形成してしまった。山名氏の落日は、外部からの圧倒的な圧力だけでなく、内部の結束の欠如によっても、その速度を速めていたのである。
第二部:羽柴秀長、但馬侵攻の鉄槌
天正八年(1580年)春、但馬国に差し向けられた織田軍の鉄槌。その采配を振るったのは、羽柴秀吉その人ではなかった。総大将としてこの方面作戦の全権を委ねられたのは、秀吉の異父弟(一説に同父弟)、羽柴小一郎秀長であった 5 。
秀長は、とかく偉大な兄・秀吉の陰に隠れがちで、温厚篤実な補佐役というイメージが強い。しかし、それは彼の一面に過ぎない。彼は兄が天下人へと駆け上がる過程で、数々の重要な戦において一軍を率い、その軍事的才能を遺憾なく発揮した有能な指揮官でもあった 17 。この但馬平定戦においても、彼は総大将として冷静かつ的確な判断を下し、作戦を成功に導くこととなる。なお、当時の彼は主君・織田信長の「長」と兄・秀吉の「秀」の字を組み合わせた「長秀」という名を名乗っていた可能性が高い 19 。これは、織田家臣団の一員としての序列を示すものであった。
秀長が率いた軍勢の具体的な兵力については明確な記録が残されていない。しかし、その構成には注目すべき点がある。彼の配下には、後に築城の名手として天下にその名を轟かせることになる藤堂高虎がいた 5 。高虎はこの但馬攻めにおいて、鉄砲大将として頭角を現したとされ、秀長軍が当時最新の戦術と有能な人材を擁していたことを示唆している 21 。兵力規模としては、直前の三木合戦(対別所氏)や周辺の戦況から類推するに、但馬の国人衆が束になっても抗うことのできない、少なくとも一万から二万程度の大軍であったと考えるのが妥当であろう 22 。
この重要な但馬平定作戦の指揮官に、なぜ秀吉自身ではなく秀長が起用されたのか。その背景には、秀吉の巧みな戦略眼が見て取れる。当時、秀吉は天正八年一月にようやく三木城を陥落させ、播磨平定の最終段階にあった 24 。彼の視線は、その先の毛利本隊との直接対決に向けられており、全神経をそちらに集中させる必要があった。そこで、最も信頼でき、かつ能力も証明済みの弟・秀長に但馬方面の作戦を完全に委ねることで、自身の戦略的リソースを最適化したのである。
これは単なる代理の任命ではなかった。秀吉にとって、この戦いは秀長に方面軍司令官としての独立した指揮経験を積ませ、将来の豊臣政権を支える中核としてさらに成長させるための、絶好の機会でもあった。事実、秀長はこの但馬平定の功績を足掛かりに、後に大和・紀伊など百万石を領する大大名へと飛躍していく 16 。その礎は、この但馬の地で築かれたと言っても過言ではない。
また、藤堂高虎の参陣は、単なる一武将の従軍以上の意味を持っていた。彼はこの戦いで但馬の地を「征服」する側に立ったが、戦後、秀長が但馬の支配者となると、今度は有子山城を石垣で改修し、この地を「統治」する側へと回ることになる 5 。征服から統治へ。この一連の経験は、高虎が後年、数々の近世城郭を築き上げる上で、計り知れないほどの知見を与えたはずである。但馬侵攻は、総大将・秀長だけでなく、その配下の武将たちのキャリアにおいても、重要な転換点となったのである。
第三部:前哨戦—但馬諸城、次々と陥落
有子山城の「戦い」は、実際には城が包囲される遥か以前に、その趨勢が決定づけられていた。羽柴秀長率いる大軍の前に、但馬国の諸城はなすすべもなく、次々と陥落していった。この電撃的な前哨戦の展開こそが、山名氏の運命を決定づけたのである。
天正八年(1580年)四月、播磨姫路城を出立した秀長軍は、但馬国への侵攻を開始した 25 。彼らの進撃は迅速かつ容赦のないものであった。但馬の国人衆が連携して防衛体制を築く暇も与えず、各個撃破していくという、織田軍団の得意とする戦法がここでも展開された。
【表1】天正八年 但馬侵攻の時系列
日付(天正8年) |
羽柴軍の動向 |
山名・但馬国人衆の動向 |
典拠史料/情報源 |
4月上旬 |
姫路城を出陣、但馬国へ侵攻を開始。 |
織田軍の侵攻を覚知、防衛体制を敷く。 |
25 |
4月中旬~5月上旬 |
岩洲城、竹田城など但馬南部の主要拠点を次々と攻撃、制圧する。 |
各地で抵抗するも、圧倒的兵力差の前に敗北、降伏する国人が続出。 |
26 |
5月中旬 |
但馬国の大部分を制圧。有子山城の包囲網を完成させる。 |
本拠地・有子山城が完全に孤立無援となる。 |
24 |
5月16日 |
有子山城の開城を受け入れる。 |
籠城を断念し、城を明け渡す。城主・山名氏政は因幡国へ敗走。 |
10 |
5月21日 |
出石一体を完全に掌握。 |
前当主・山名祐豊が城内で病死。 |
9 |
侵攻軍がまず目標としたのは、但馬南部の岩洲城であった 26 。この城を難なく攻略した秀長軍は、その勢いを駆って、山名四天王の一角とされた太田垣氏が守る竹田城へと殺到した 28 。
天空の城として知られる竹田城は、天然の要害であった。軍記物である『武功夜話』には、その攻防の様子が記されている。太田垣軍は、高山という地の利を活かし、山上から岩石を投げ落とすなどして激しく抵抗した 27 。これは、中世以来の伝統的な籠城戦術であった。しかし、対する羽柴軍の戦い方は全く異なっていた。彼らは山谷をものともせずに攻め寄せ、三百挺もの鉄砲を揃えて一斉に射撃を加えたという 27 。旧来の戦術と、鉄砲という新しい時代の火力の差は歴然であった。激しい抵抗も空しく、竹田城は陥落し、太田垣氏もまた秀長軍の前に屈した 27 。
竹田城の陥落が持つ意味は、単に一つの城が落ちたという以上に大きかった。但馬国内における山名氏の主要な軍事拠点が失われたこと、そして何よりも、織田軍の圧倒的な戦闘能力が但馬の国人衆の眼前に示されたことは、彼らの戦意を根こそぎ奪い去るのに十分であった。これを境に、但馬国内の戦況は一気に羽柴方へと傾く。八木豊信や、かつては毛利方との連携を画策した垣屋豊続といった有力国人たちも、もはや抵抗は無益と悟り、次々と秀長に降伏していった 25 。
こうして、わずか一ヶ月ほどの間に、但馬国のほぼ全域が羽柴軍の制圧下に入った。有子山城の周囲にあった支城や同盟者たちは、すべて敵となるか、沈黙した。戦国時代の籠城戦において、その成否を分ける最大の要因は、援軍(後詰)の有無であった 30 。竹田城をはじめとする但馬諸城は、有子山城にとっての防衛線であると同時に、いざという時の援軍でもあった。そのすべてが失われた時点で、有子山城が籠城を続けても勝利する見込みは完全に断たれた。軍事的な意味での決戦は、有子山城が包囲される前に、これらの前哨戦の段階で既に終わっていたのである。残されたのは、名門山名氏の最後の本拠地が、いかにしてその幕を閉じるかという、政治的な最終幕だけであった。
第四部:有子山城の攻防—最後の籠城
但馬全域を制圧した羽柴秀長軍は、五月中旬、満を持して山名氏最後の拠点・有子山城を包囲した。峻険な山容を誇るこの城を舞台に、壮絶な攻防戦が繰り広げられた—と、後世の我々は想像しがちである。しかし、史料が示す現実は、それとは大きく異なっていた。有子山城の最期は、 heroic な抵抗の物語ではなく、戦国時代の冷徹なリアリズムが支配する、静かな終幕であった。
【表2】有子山城の戦いにおける両軍の比較
項目 |
羽柴(織田)軍 |
山名軍 |
総大将 |
羽柴秀長 |
山名氏政(堯熙) |
主要武将 |
藤堂高虎 ほか |
(前当主:山名祐豊) |
推定兵力 |
10,000~20,000 |
数百~1,000程度 |
士気・状況 |
連戦連勝で士気は最高潮。 |
周辺諸城は全て陥落し、完全に孤立。援軍の望みなく士気は低迷。当主・祐豊は病床。 |
戦略目標 |
但馬国の完全制圧と生野銀山の確保。 |
籠城による時間稼ぎ(ただし目的は不明確)。 |
援軍の可能性 |
不要。 |
皆無。 |
典拠史料/情報源 |
5 |
9 |
この比較表が示す通り、両軍の置かれた状況は絶望的なまでに異なっていた。羽柴軍が連戦連勝の勢いに乗る一方で、山名軍は味方がすべて敵に降ったという報に接し、完全に孤立無援となっていた。城内では、前当主である山名祐豊が70歳という高齢の上、既に病の床に臥せっており、軍の最高指揮官としての役割を果たせる状態ではなかった 9 。実質的な指揮を執っていたのは、その子である山名氏政(堯熙)であったが、彼我の戦力差と絶望的な状況を前に、彼が取りうる選択肢は極めて限られていた。
このような状況下で、有子山城において大規模な戦闘が行われたという記録は、どの史料にも見当たらない。羽柴秀長としても、力攻めをすれば相応の損害が出るであろう堅城を前に、あえて犠牲を払う必要はなかった。城方は完全に孤立しており、兵糧が尽きればいずれ降伏するのは時間の問題であった。おそらく秀長は、無理な強攻策は採らず、包囲による心理的圧力をかけることで、城方の自発的な降伏を待つという、最も損害の少ない戦術を選択したと考えられる。皮肉なことに、祐豊が心血を注いで築いた有子山城の堅固さが、かえって攻め手に慎重な選択をさせ、結果として無血での開城を導いた可能性すらある。
そして、天正八年五月十六日、山名方はついに決断を下す。組織的な抵抗を断念し、城を明け渡したのである 5 。この時、城主であった氏政は、城兵の助命などを条件にしたのか、あるいは単に身の安全を図ったのか、城を脱出して因幡国(現在の鳥取県)へと落ち延びていった 11 。
この氏政の選択は、後世の武士道的価値観からすれば「不甲斐ない」と映るかもしれない。しかし、これは当時の武将の行動としては、極めて合理的で現実的な判断であった。援軍の望みが全くなく、勝利の可能性がゼロである籠城戦を最後まで戦い抜くことは、いたずらに将兵の命を失わせるだけの「犬死に」に他ならない 31 。徹底抗戦を選ばず、一族の血脈を保つために逃れるという選択は、無益な犠牲を避け、家の再興に僅かな望みを繋ぐための、戦国時代のリアリズムそのものであった。
こうして、有子山城はその堅固な城壁を一度も血で汚すことなく、静かにその門を開いた。それは、剣や鉄砲が火花を散らす華々しい合戦ではなく、圧倒的な力の差の前に、戦わずして屈するという、戦国末期の勢力図の変動を象徴する出来事であった。
第五部:戦後処理と但馬の新秩序
有子山城の無血開城は、但馬国における中世以来の支配体制の終焉を決定づけた。戦いの後、羽柴秀長によって進められた戦後処理は、軍事的な制圧に留まらず、この地を織田(豊臣)政権の統治下に組み込むための、新たな秩序の創造でもあった。
まず、名門山名氏の当主の最期は、あまりにも静かなものであった。有子山城が開城してからわずか五日後の天正八年五月二十一日、前当主・山名祐豊は、自らが築いた最後の城の中で、七十年の生涯を閉じた 9 。一部の記録には自刃したとの説も伝わるが 32 、高齢で病床にあったという記述が複数存在することから 9 、落城による心労が引き金となり、病状が悪化して息を引き取ったと考えるのが自然であろう。戦場で華々しく散るのではなく、自らの時代の終わりを見届けるかのように病床で迎えたその死は、もはや新しい時代の激流の中では生き残れない守護大名という存在の運命を象徴していた。
但馬国の新たな支配者となったのは、言うまでもなく羽柴秀長であった。彼は有子山城(出石城)を拠点として、但馬一国十万五千石を領することとなった 33 。秀長は、この地を単なる軍事拠点としてではなく、恒久的な支配の拠点とすべく、早速その改修に着手する。配下の藤堂高虎に命じ、それまで土造りであった城の主要部分を、石垣を用いた堅固なものへと造り変えさせたのである 5 。これは、有子山城が中世的な山城から、織田・豊臣政権の支城たる近世城郭へと生まれ変わった瞬間であった。
秀長の統治は、軍事・インフラ整備に留まらなかった。彼は優れた行政官でもあり、領民の人心掌握にも細やかな配慮を見せている。その一例として、領内の農民に対し、鮎漁にかかる税を免除する「鮎漁免状」を発給した記録が残っている 33 。このような善政を敷くことで、新たな支配者に対する領民の不安を和らげ、統治体制を盤石なものにしていった。山名氏という古い権威を軍事力で「破壊」し、城の近代化や新たな税制といった統治システムを「創造」する。この「破壊と創造」こそが、後に豊臣政権が全国で展開する統治モデルの縮図であり、秀長がその卓越した実践者であったことを示している。
一方、秀長に降伏した但馬の国人衆の処遇は、巧みかつ厳しいものであった。彼らは旧来の所領を没収され、その代わりとして、続く因幡攻めの先鋒部隊として動員された 25 。これは、彼らの軍事力を削ぎ、反乱の芽を摘むと同時に、羽柴軍団という新たな組織に組み込んでいくための、計算され尽くした戦略であった。
そして、歴史の表舞台から姿を消したかに見えた山名一族。因幡へ逃れた山名氏政(堯熙)とその子・堯政は、その後、時流を読んで秀吉に仕える道を選んだ 32 。かつての「六分の一殿」の栄光は見る影もなくなったが、彼らは江戸時代を通じて旗本として家名を存続させることに成功する。大名としての山名氏は滅びたが、一族の血脈は、戦国の荒波を乗り越えてかろうじて生き残ったのである。
終章:歴史的意義—有子山城の戦いが残したもの
天正八年(1580年)の有子山城の開城は、その名に反して大規模な戦闘を伴わなかった。しかし、この静かな終幕が日本の歴史に与えた影響は、決して小さなものではない。この一連の出来事は、織田・豊臣政権の天下統一事業、総大将・羽柴秀長のキャリア、そして日本の城郭史において、それぞれ重要な意義を持つものであった。
織田・豊臣政権にとっての意義 は、まず第一に戦略的な成功である。但馬国を完全に平定したことで、播磨の背後の安全が確保され、秀吉は後顧の憂いなく、毛利氏との本格的な対決に全力を注ぐことが可能となった。これは、中国攻めを加速させる上で決定的に重要な一歩であった。さらに、生野銀山という巨大な財源を確保したことは、信長・秀吉政権の財政基盤を大いに潤し、その後の大規模な軍事行動や都市整備を可能にする一助となった。
総大将・羽柴秀長にとっての意義 は、彼のキャリアにおける大きな飛躍の足掛かりとなった点にある。この戦いは、秀長が兄の代理としてではなく、独立した方面軍司令官として、軍事と統治の両面でその卓越した手腕を証明した最初の大きな舞台であった。但馬平定の成功は、秀吉や信長からの信頼をさらに厚くし、彼が後に大和百万石という破格の大封を得て、豊臣政権内で「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)」とまで評される重鎮となるための、重要な布石となったのである 34 。
滅び去った山名氏にとっての意義 は、言うまでもなく、戦国大名としての歴史の完全な終焉であった。室町時代から二百年以上にわたって但馬国に君臨し続けた名門の支配は、この戦いをもって完全に終止符が打たれた。それは、血筋と幕府の権威に立脚した中世的な支配体制が、圧倒的な軍事力と経済力を背景とした新しい時代の権力構造の前に、もはや存続し得ないことを示す象徴的な出来事であった。
最後に、 城郭史における意義 も見逃すことはできない。戦いの後、有子山城は藤堂高虎の手によって石垣を備えた近世城郭へと改修された 5 。しかし、戦乱の世が終わり、泰平の時代が訪れると、統治に不便な山上の城は役目を終え、その麓に政治と経済の中心地として出石城が新たに築かれた 7 。この変遷は、城の機能が、戦時における防御拠点としての「山城」から、平時における領国経営の中心としての「平山城・平城」へと移行していく、日本の城郭史における大きな転換点を明確に示している。
結論として、有子山城の戦いの本質は、武力と武力の衝突そのものにあったのではない。それは、圧倒的な国力差、先進的な戦術、そして中央集権化という時代の大きなうねりが、古い秩序を静かに、しかし決定的に解体していく過程であった。名門山名氏の落日と、それを礎として築かれる豊臣の世の夜明け。有子山城の麓で繰り広げられたのは、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを告げる、歴史の転換点そのものであった。
引用文献
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- 超入門! お城セミナー 第89回【歴史】戦国時代、なんで城に籠もって戦っていたの? https://shirobito.jp/article/1070
- 山名氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%B0%8F
- まちの文化財(121) 養父の太郎左衛門 https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/1/2189.html
- 第一章 織豊政権の但馬進出と豊岡支配 https://lib.city.toyooka.lg.jp/kyoudo/komonjo/7108035bb5c7e98e84e36d873d34600b0e57bae2.pdf
- 有子山城の見所と写真・600人城主の評価(兵庫県豊岡市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/289/