最終更新日 2025-08-27

木崎原の戦い(1572)

元亀三年、南九州の転換点 ― 木崎原の戦いに関する戦術的・戦略的分析

序章:九州の桶狭間 ― 伝説の再検証

元亀3年(1572年)、日向国木崎原において、島津義弘が率いるわずか300余りの寡兵が、伊東義祐麾下の大軍3,000を撃破したとされる「木崎原の戦い」。この劇的な勝利は、しばしば織田信長が今川義元を討った戦いになぞらえられ、「九州の桶狭間」との異名で語り継がれてきた 1 。寡兵が大軍を打ち破るという戦国時代の醍醐味を凝縮したかのようなこの合戦は、島津義弘を不世出の名称として、また島津氏の得意戦法「釣り野伏せ」を天下に知らしめた象徴的な出来事として認識されている。

しかし、この輝かしい伝説の裏には、あまり語られることのない過酷な実態が存在する。勝利した島津軍もまた、兵力の実に85%以上を失うという、ほとんど全滅に近い甚大な損害を被っていたのである 4 。この事実は、木崎原の戦いが単なる奇襲成功譚ではなく、味方の壊滅的な犠牲を覚悟の上で遂行された、紙一重の凄惨な殲滅戦であったことを示唆している。

本報告書は、この「九州の桶狭間」という通説に留まることなく、合戦に至るまでの南九州の地政学的力学、両軍の兵力や指揮官の質的な分析、そして戦闘の経過を史料に基づき時系列で再構成することを目的とする。これにより、伝説の裏に隠された戦術的意図、戦略的背景、そして勝利の真の代償を多角的に解明し、木崎原の戦いが南九州の歴史、ひいては戦国後期の九州全体の勢力図に与えた決定的な影響を論証するものである。

第一章:衝突に至る道 ― 南九州の勢力均衡と地政学的緊張

木崎原における島津・伊東両軍の激突は、決して偶発的な事件ではなかった。それは、長年にわたり南九州に横たわる地政学的な緊張と、合戦直前の政治的変動が必然的にもたらした帰結であった。

第一節:三州統一の宿願と真幸院の戦略的価値

鎌倉時代以来、薩摩・大隅・日向の守護職を担ってきた島津氏にとって、この三国を完全に掌握する「三州統一」は、一族代々の宿願であった 6 。島津貴久とその子・義久の二代にわたる精力的な活動により、薩摩と大隅の平定はほぼ成り、残るは日向一国のみという状況にあった 6

この三州統一事業において、極めて重要な戦略的価値を持っていたのが、日向国への西の玄関口にあたる真幸院(現在の宮崎県えびの市、小林市、高原町一帯)であった 6 。薩摩・大隅から日向中央部へ進出するための足掛かりとなるこの地を巡り、島津氏と日向の覇者・伊東氏は永禄5年(1562年)頃から、一進一退の熾烈な攻防を繰り広げていた 6 。この方面の指揮を任されていたのが、貴久の次男であり、後に「鬼島津」と恐れられることになる島津義弘(当時は忠平)であった 6

第二節:日向の覇者・伊東氏の焦燥

一方、日向国においては伊東義祐がその勢力を拡大し、「伊東四十八城」と称される広大な支配領域を築き上げていた 6 。その勢いは一時期、島津氏を圧倒するほどであり、南九州における覇権をほぼ手中に収めたかに見えた 10

しかし、島津氏が着実に薩摩・大隅を平定していく過程は、伊東氏にとって自領の西側と南側から圧迫を受ける戦略的包囲網の形成を意味した。島津氏の三州統一という野望が現実味を帯びるにつれ、伊東氏の立場は守勢に転じつつあり、その内には焦燥感が募っていたと考えられる。残された日向における島津方の最後の拠点、すなわち義弘が守る真幸院の飯野城・加久藤城を完全に排除することは、伊東氏にとって覇権を維持するための喫緊の課題となっていた。

第三節:元亀の動乱 ― 島津貴久の死という好機

膠着状態にあった南九州の情勢が大きく動く契機となったのが、元亀2年(1571年)6月の島津家第15代当主・島津貴久の死であった 1 。偉大な当主を失った島津氏の領国に動揺が走ったこの機を、周辺勢力が見逃すはずはなかった。

まず動いたのは、大隅国の肝付氏であった。伊東氏と連携関係にあった肝付氏は、島津領内への侵攻を開始する 1 。これにより、島津氏は家督継承という不安定な時期に、東方で肝付氏との戦闘を余儀なくされることになった。

伊東義祐は、この状況を千載一遇の好機と判断した 5 。島津氏の主力部隊が肝付氏への対応に追われ、真幸院方面の守りが手薄になることは明らかであった 12 。これは単なる二者間の争いではなく、肝付氏の軍事行動と連動した、いわば「挟撃戦略」の一環であった。伊東義祐は、島津氏が二正面作戦を強いられるこの脆弱な時期を的確に突き、真幸院の完全支配を達成すべく、元亀3年(1572年)5月、大軍の派遣を決定したのである 13

第二章:両雄、相見える ― 開戦前夜の軍勢と指揮官

木崎原での決戦に臨む両軍の陣容は、その規模においてあまりに対照的であった。しかし、その単純な兵力差の裏には、指揮官の経験値、部隊の構成、そして戦略思想における質的な違いが明確に存在していた。

第一節:島津軍 ― 少数精鋭と地の利

この方面の総大将は、当時36歳の島津義弘(忠平)であった 15 。兄・義久が当主として薩摩本国で政務と全体の指揮を執る中、義弘は対伊東氏の最前線である飯野城を拠点とし、長年にわたりこの地の防衛を担っていた 9 。数々の戦歴を通じて、彼は既に戦上手として知られており、特に寡兵を率いての戦いには定評があった 2

義弘が動員できた兵力は、居城の飯野城に約300、そして妻子が暮らす加久藤城の守兵が約50と、合計しても350に満たない寡兵であった 5 。これは、前述の通り、島津家の主力が東方での肝付氏との戦闘に投入されていたためである 12 。しかし、その配下には、加久藤城代として城の守りを固める老臣・川上忠智や、後に伏兵部隊を率いて義弘の戦術の核となる遠矢良賢、五代友喜、村尾重侯といった、義弘が全幅の信頼を置く歴戦の家臣たちが揃っていた 2 。彼らは地の利を熟知しており、少数であっても極めて練度の高い精鋭部隊を形成していた。

第二節:伊東軍 ― 大軍と若き指揮官

対する伊東軍は、総大将に伊東祐安(加賀守)を据え、その下に伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎、伊東祐青(修理亮)といった一族の若き武将たちを主力として編成された、総勢3,000にも及ぶ大軍であった 2 。この構成からは、数の優位をもって一気に敵を圧殺しようという伊東義祐の明確な意図が窺える。

さらに伊東氏は、肥後国人吉城主の相良義陽との連携を取り付け、約500の援軍派遣を約定させていた 2 。これにより、総兵力は3,500に達し、島津方との兵力差は実に10倍にもなろうとしていた。

しかし、この大軍には潜在的な弱点も内包されていた。部隊の中核を担う指揮官たちが若く、経験豊富な島津の将兵に比べて戦慣れしていない者が多かったのである 1 。この「若さ」と「大軍」という要素の組み合わせは、兵力への過信を生み、慎重さを欠いた性急な判断を誘発する危険性を孕んでいた。伊東義祐がこの重要な作戦にあえて若手を起用した背景には、彼らに武功を挙げさせることで家中の世代交代を促すといった政治的な意図があった可能性も否定できないが、結果的にこの人選が、後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。


表1:木崎原の戦いにおける両軍の兵力・指揮官対照表

項目

島津軍

伊東軍

総兵力(通説)

約350名

約3,000名(相良軍含まず)

総大将

島津義弘(当時36歳)

伊東祐安(加賀守)

主要部隊指揮官

川上忠智(加久藤城代) 遠矢良賢 五代友喜 村尾重侯

伊東祐信(新次郎) 伊東又次郎 伊東祐青(修理亮)

部隊の特徴

少数精鋭、指揮官の経験豊富 地の利を完全に把握 義弘への絶対的な忠誠心

大規模な動員兵 青年武将が部隊の中核 数の優位性への依存

連携勢力

なし(近隣城からの増援あり)

相良義陽(約500名)


第三章:元亀三年五月四日 ― 合戦のリアルタイム詳報

元亀3年(1572年)5月3日夜半から4日午後にかけて繰り広げられた一連の戦闘は、複数の局面から構成される、極めて流動的かつ戦術的な応酬に満ちたものであった。

第一節:午前4時頃 ― 加久藤城への奇襲と誤算

5月3日深夜、伊東軍の総大将・伊東祐安は、前線基地である小林城から3,000の軍勢を発した 5 。翌4日未明、飯野の妙見原に到着した伊東軍は、軍を二手に分ける。一軍は義弘の居城・飯野城を牽制するためにその場に留まり、伊東祐信・又次郎が率いる別動隊約1,500が、義弘の妻子が籠る加久藤城へと向かった 3

祐信隊はまず、城周辺の民家に火を放ち、島津方を挑発した 5 。しかし、この夜襲は初手から躓くことになる。事前に得ていた情報に基づき、城の搦手(裏口)である鑰掛口(かぎかけぐち)を目指したものの、夜陰と不慣れな地理、そして若き将兵の焦りからか、部隊は目標である城ではなく、その手前の登り口にあった樺山浄慶の屋敷を誤って攻撃してしまう 5 。樺山浄慶とその子らわずか3名は、上から石を投げるなどして奮戦し、伊東軍の足止めに成功。このわずかな時間が、加久藤城の守備を固める上で決定的に重要となった。

ようやく正規の攻城ルートに進んだ祐信隊であったが、鑰掛口は狭い隘路であり、断崖絶壁という天然の要害であったため、大軍の利を全く活かせずにいた 5 。城兵からの大石や弓矢による迎撃に苦しむ中、城代の老臣・川上忠智が寡兵を率いて城から打って出る。さらに、義弘が上げた狼煙に応じ、近隣の馬関田城や吉田城からの救援部隊も駆けつけ、祐信隊を側面から攻撃した 5 。この攻防の最中、伊東方の部将で須木城主の米良筑後守重方は、馬上から指揮を執っているところを不動寺の僧・久道に火縄銃で狙撃され、戦死を遂げた 16 。三方からの攻撃に耐えきれなくなった祐信隊は、多大な損害を出して退却を余儀なくされた。

第二節:夜明け ― 謀略、戦わずして去る相良軍

伊東軍が加久藤城で苦戦している頃、島津義弘はもう一つの戦いを、血を流すことなく制していた。義弘は、飯野の三徳院にいた盲僧・菊市を間者として伊東領内に潜入させており、伊東軍の侵攻計画を、相良軍との連携も含めて事前に察知していたのである 5

この情報に基づき、義弘は相良軍500が進軍してくるであろうルート上の諏訪山・大河平に、多数の軍旗を立てさせ、伏兵が潜んでいるかのように見せかけた 5 。夜が明け、進軍してきた相良軍の目に飛び込んできたのは、山中に林立する無数の島津の旗指物であった。これを島津の大軍と誤認した相良軍の指揮官は、戦わずして戦況不利と判断し、そのまま自領の人吉へと軍を引き返してしまった 5

これは単なる幸運ではない。義弘の周到な情報収集能力と、敵の心理を巧みに突いた謀略の成果であった。彼は物理的な戦闘を一切行うことなく、敵の兵力500を戦場から排除することに成功した。これは、後の主戦場における圧倒的な兵力差を少しでも埋めるための、極めて効果的な戦略的勝利であった。

第三節:午前中 ― 池島川の激闘と一騎討ち

加久藤城から敗走した伊東祐信隊は、池島川沿いの鳥越城跡地で待機していた本隊と合流し、休息を取っていた 5 。しかし、依然として自軍が圧倒的多数であることからの油断と、折からの蒸し暑さのため、多くの兵が武装を解き、川で水浴びをしていた 5

義弘はこの好機を見逃さなかった。斥候からの報告を受けるや、自ら率いる主力の130騎を以て伊東軍本陣に急襲をかけた 2 。不意を突かれた伊東軍は混乱に陥る。この乱戦の最中、戦場は木崎原に隣接する三角田(みすみだ)の地へと移り、そこで島津義弘と伊東軍の若き部将・伊東祐信(史料によっては伊東新次郎とも)との一騎討ちが行われた 16 。激しい応酬の末、義弘の槍が祐信を貫き、これを討ち取った 17 。この時、祐信が繰り出した槍を、義弘の愛馬であった栗毛の牝馬が前膝を巧みに折り曲げて回避し、主君の命を救ったという伝説が生まれ、この馬は後に「膝突栗毛」として語り継がれることになる 5

第四節:正午頃 ― 決戦、木崎原における「釣り野伏せ」

大将の一人を討ち取ったものの、兵力差は依然として歴然であった。義弘は深追いすることなく一旦軍を後退させ、伊東軍を木崎原の平野部へと巧みに誘引した。これが、島津伝統の必勝戦術「釣り野伏せ」の始まりであった 2

祐信を討たれ、怒りに燃える伊東軍は、退却する島津軍を好機と見て猛然と追撃を開始した 3 。伊東軍全軍が木崎原の決戦場に引き込まれたその時、退却していたはずの義弘の主力部隊が突如として反転し、正面から伊東軍に襲いかかった。

それと時を同じくして、この決戦のために配置されていた二つの伏兵部隊が動いた。白鳥山の麓、野間口に潜んでいた五代友喜の部隊と、本地口の古溝に潜んでいた村尾重侯の部隊が、伊東軍の両側面と背後から一斉に突撃したのである 5

完全に意表を突かれた伊東軍は、三方向からの包囲攻撃を受け、指揮系統は寸断され、大混乱に陥った 2 。この乱戦の中、伊東軍総大将の伊東祐安は、腕の付け根を銃弾か矢で撃ち抜かれて落馬し、あえなく討ち取られた 5

第五節:午後2時頃 ― 追撃と終結

総大将までも失った伊東軍は完全に総崩れとなり、小林城を目指して敗走を始めた。島津軍は追撃の手を緩めず、西小林の「粥持田」と呼ばれる場所まで伊東勢を追い詰め、柚木崎丹後守らを討ち取った 16

午前4時頃に始まったこの戦いは、午後2時頃、島津軍の鬨の声をもって終結した 16 。約10時間にわたる死闘の末、木崎原の地は両軍の将兵の血で染まっていた。

第四章:血染めの勝利 ― 戦いの代償と戦後処理

木崎原の戦いは、島津義弘の戦術的勝利として幕を閉じた。しかし、その勝利はあまりにも大きな犠牲の上に成り立っており、戦後の処理は、この戦いの凄惨さを物語っている。

第一節:両軍の損害分析 ― 勝利の甚大なる代償

伊東軍の損害は壊滅的であった。総大将の伊東祐安をはじめ、伊東祐信、伊東又次郎といった一族の中核を担う武将たちが悉く討死 21 。その他、幹部クラスの武士128名を含む、士分・雑兵合わせて560名から810名以上が戦死したと記録されている 1 。これは単なる敗北ではなく、伊東家の軍事力を支える指揮官層が一挙に失われたことを意味していた。

一方、勝利した島津軍が支払った代償もまた、甚大であった。この戦いに参加した兵力の大部分を失い、士分150名、雑兵107名、合計257名(一説には260名以上)が戦死した 4 。特に、三角田の激戦において、敵中に深く切り込みすぎた義弘を退却させるため、文字通り盾となって時間を稼ぎ、討死したとされる久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、鎌田大炊之介、曽木播磨の「六重臣」の犠牲は、この勝利が如何なるものであったかを象徴している 17

この損害率は、木崎原の戦いが「九州の桶狭間」という華々しい奇襲譚とは本質的に異なることを示している。織田軍の損害が軽微であった桶狭間とは対照的に、木崎原は、味方の甚大な犠牲を計算に入れた上で、敵の殲滅を狙った極めてリスクの高い消耗戦の末の辛勝であった。この苛烈な戦闘経験こそが、後の関ヶ原の戦いにおける「捨てがまり」戦法のような、味方の犠牲を厭わない「鬼島津」の戦闘教義を形成する原点となった可能性は高い。

第二節:敵味方を超えて ― 戦死者への弔い

戦後、島津義弘は敵味方の区別なく、戦死者の霊を丁重に弔った。これは彼の個人的な信条であると同時に、島津氏の慣習でもあった。激戦地となった三角田には「六地蔵塔」が建立され、両軍全ての戦没者の冥福が祈られた 1

伊東方の戦死者の首は「首塚」に集められ埋葬された 20 。特に身分の高い将の首は、丁重に敵方の本拠地である小林の三ツ山城へ送り返され、後に「伊東塚」として祀られた 17 。また、合戦後、伊東氏の怨霊を恐れた地元民のために、地頭であった伊集院元巣が供養塚(元巣塚)を建立したという記録も残っている 1 。戦いで血に染まった刀を将兵が洗ったとされる「太刀洗川」と共に、これらの史跡は、今なお木崎原の戦いの記憶を静かに伝えている 20

第五章:歴史の分水嶺 ― 木崎原がもたらした長期的影響

木崎原の一戦は、単なる局地的な戦闘の勝利に終わらなかった。それは南九州の勢力図を根底から覆し、島津氏と伊東氏、両家の運命を決定的に分かつ歴史の分水嶺となった。

第一節:伊東氏の没落 ― 覇権の終焉

この戦いにおける敗北は、伊東氏にとって致命的であった。伊東祐安をはじめとする有能な指揮官層と多数の精鋭を一度に失ったことで、伊東家の軍事力は回復不可能な打撃を受けた 2 。これを境に、かつて日向に覇を唱えた伊東氏の権勢は急速に衰退し、家中の内部崩壊が始まった 4

そして5年後の天正5年(1577年)、島津軍の本格的な日向侵攻の前に抗すすべもなく、当主・伊東義祐は本拠地である都於郡城を放棄。一族郎党を率いて、豊後国の大友宗麟を頼って落ち延びるという末路を辿った 14

第二節:島津氏の躍進 ― 三州統一への道

対照的に、この紙一重の勝利は島津氏に絶大な戦略的利益をもたらした。最大のライバルであった伊東氏を事実上無力化したことで、島津氏は日向国における軍事的優位を完全に確立した 21

この勝利を足掛かりに、島津義久・義弘兄弟は攻勢を強め、天正2年(1574)年には最後まで抵抗を続けていた大隅の肝付氏を降伏させる 7 。そして天正5年(1577年)、伊東氏を日向から完全に駆逐し、一族の長年の悲願であった薩摩・大隅・日向の「三州統一」を成し遂げたのである 6 。この強固な地盤を得た島津氏は、ここから九州全土の統一を目指す、破竹の進撃を開始することになる 23

第三節:「鬼島津」伝説の誕生

木崎原の戦いは、島津義弘個人の武名を不朽のものとした。10倍の敵を相手に一歩も引かず、情報戦と謀略を駆使し、自ら先頭に立って敵将を討ち取り、そして味方の甚大な犠牲の上に勝利をもぎ取るという常識外れの用兵と勇猛さは、彼に「鬼島津」という畏怖の念のこもった異名を与えるに十分であった 2

この戦いで確立された「鬼石曼子(グイシーマンズ)」の武名は、後の豊臣秀吉による九州平定、さらには朝鮮出兵における泗川の戦いや関ヶ原の戦いでの敵中突破といった数々の伝説的な武功へと繋がり、戦国末期の軍事史において、敵味方双方に絶大な影響を与え続けることとなった。

結論:寡兵の勝利の本質

木崎原の戦いは、単に寡兵が幸運によって大軍を破った戦いではない。その勝利の本質は、複数の要因が複合的に絡み合った結果であった。

第一に、島津義弘という指揮官の卓越した能力である。彼は間者を用いて敵の作戦を事前に察知する情報戦、偽の伏兵で同盟軍を退却させる心理戦、そして「釣り野伏せ」という伝統戦術を現地の地形で完璧に実行する戦術能力を兼ね備えていた。

第二に、地の利の徹底的な活用である。加久藤城の険しい地形は伊東軍の夜襲を頓挫させ、木崎原の平野と周辺の山林は伏兵を配置するのに理想的な環境を提供した。

第三に、敵である伊東軍の構造的弱点である。3,000という大軍への過信、若き指揮官たちの経験不足は、川での水浴びといった油断や、島津軍の偽りの退却に安易に乗るという判断ミスを誘発した。

そして最後に、最も重要な要因は、勝利のためには味方の壊滅的な犠牲すら厭わない、島津軍の苛烈極まる戦闘精神である。兵力の85%を失いながらも戦い抜き、最終的に敵の指揮系統を破壊して勝利を掴んだこの事実は、島津軍の特異な強さの根源を示している。

以上の分析から、木崎原の戦いは、島津氏が南九州の覇権を確立し、九州統一事業へと乗り出す上で決定的な転換点となった、戦国九州史における最重要合戦の一つであったと結論付けられる。それは、一人の天才的指揮官と、彼に率いられた精鋭たちが、血と犠牲の上に築き上げた、壮絶な勝利の記念碑なのである。

引用文献

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  2. 木崎原の戦い古戦場:宮崎県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kizakibaru/
  3. 木崎原の戦い~島津義弘、「釣り野伏」で伊東祐安を破る | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3840
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