最終更新日 2025-08-28

木曽川口の戦い(1584)

天正十二年、秀吉は家康を屈服せんと蟹江城を奇襲。滝川一益と九鬼嘉隆が水陸より攻めるも、家康の神速の対応に阻まれ、九鬼水軍も敗北。秀吉の奇襲は失敗し、家康の武威を天下に知らしめし戦いなり。

天正十二年、木曽川口の攻防 ― 蟹江城合戦の時系列的詳解

序章: 小牧・長久手、膠着の戦況と秀吉の次なる一手

天正12年(1584年)、日本の歴史における二人の巨星、羽柴秀吉と徳川家康が唯一、直接武力をもって対峙した「小牧・長久手の戦い」が勃発した 1 。本能寺の変後、織田信長の後継者としての地位を急速に固める秀吉に対し、信長の次男・織田信雄が徳川家康と結び、反旗を翻したことがその発端である 2 。同年3月、家康は尾張北部の要衝・小牧山に堅固な陣を構え、対する秀吉も犬山城を拠点に楽田へと進軍。両軍は互いに砦や土塁を築き、戦線は睨み合いの膠着状態に陥った 5

この均衡を破るべく、秀吉方は4月上旬、池田恒興の献策とされる「三河中入り作戦」を敢行する。家康の本拠地である岡崎城を奇襲し、徳川軍を混乱に陥れるというこの作戦は、しかし、家康にその意図を完全に見抜かれていた 6 。4月9日、作戦の別働隊を率いた池田恒興、森長可といった秀吉軍の宿将たちは、長久手の地で家康本隊の迎撃に遭い、次々と討死。総大将であった秀吉の甥・羽柴秀次(後の豊臣秀次)は敗走を余儀なくされた 5 。この「長久手の戦い」における損害は、羽柴軍の死者2500余に対し、織田・徳川連合軍は590余という、秀吉方の一方的な大敗であった 5

長久手での衝撃的な敗戦は、単なる一戦闘の敗北以上の意味を持っていた。山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦と連勝を重ね、その軍事的才覚を天下に示してきた秀吉にとって、これは初めての大きな軍事的挫折であった。この敗北は、家康の武名を全国に轟かせると同時に、秀吉の軍事的天才という神話を揺るがすに十分なものであった 6 。小牧山の堅固な陣地を正面から攻略するのは多大な犠牲を伴う愚策であり、かといってこのまま対陣を続ければ、紀州の雑賀・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政といった反秀吉勢力が勢いづき、全国規模の包囲網が形成されかねない 1

この絶体絶命の状況を打開するため、秀吉は戦略の根本的な転換を迫られた。力押しで家康を屈服させることは不可能であると悟った秀吉は、正面からの決戦を避け、敵の弱点を突く新たな戦線を構築する道を選んだ。それは、陸上での陣地戦から、水陸両用作戦による後方攪乱へと戦いの次元を移すことであった。この新たな戦略の標的として白羽の矢が立ったのが、木曽三川が伊勢湾に注ぐ河口デルタ地帯に位置する戦略的要衝、蟹江城だったのである 9

第一章: 戦略的要衝、蟹江 ― 伊勢湾岸の地理と城砦群

秀吉が次なる一手として蟹江城に狙いを定めたのは、この地が持つ圧倒的な地理的・戦略的重要性ゆえであった。当時の尾張国海西郡、現在の愛知県西部に位置するこの一帯は、木曽川、長良川、揖斐川という大河が合流し、伊勢湾へと注ぐ広大なデルタ地帯を形成していた 10 。この地域は、伊勢湾を介して全国各地と結ばれる水運の大動脈であり、濃尾平野の経済を支える心臓部であった。戦国時代において、物流の支配はそのまま軍事力に直結した。織田信長の父・信秀の時代から、津島湊のような交易拠点を押さえることが尾張支配の経済的基盤であり、そこから上がる莫大な富が織田家躍進の原動力となったことは広く知られている 12

蟹江城は、この水運ネットワークのまさに中心に位置する「水城」であった。周囲を川や湿地帯に囲まれ、船なくしては近づくことすら困難な天然の要害である。さらに、その周囲には大野城、下市場城、前田城といった支城が配置され、一体となって広大な防衛拠点を形成していた 14 。これらの城砦群は伊勢湾に直接アクセス可能であり、水軍の基地として機能するだけでなく、織田信雄の本拠地である長島城とも水路で連携できる絶好の位置にあった。

秀吉にとって、この蟹江城砦群を奪取することは、戦況を一変させる可能性を秘めた、まさに起死回生の一手であった。その戦略的価値は、主に三つの点に集約される。第一に、「兵站線の遮断」である。伊勢湾の制海権を掌握し、この地域の物流を麻痺させることで、織田・徳川連合軍の経済的基盤を根底から揺るがすことができる 17 。第二に、「後方への橋頭堡の確保」である。家康が陣取る小牧山の背後、そして信雄の居城・清洲城の目と鼻の先に、大軍を安全に上陸させ、補給するための拠点を築くことが可能となる。これにより、家康を前方と後方から挟撃する態勢を整えることができる。第三に、「信雄への直接的圧力」である。信雄の本拠地・長島城を直接攻撃可能な位置を確保することで、連合軍の結束の要である信雄を精神的に追い詰め、家康から切り離すことを狙うことができる。

この秀吉の構想は、かつて織田信長が石山本願寺を攻略した際の戦略を彷彿とさせるものであった。信長は、毛利水軍による海上からの補給に支えられて抵抗を続ける本願寺に対し、九鬼嘉隆に鉄甲船を建造させ、「第二次木津川口の戦い」で毛利水軍を撃破した 17 。海上補給路を完全に断つことで、難攻不落とされた石山本願寺を最終的に屈服させたのである 19 。秀吉は、この信長の成功体験を応用し、同じく九鬼嘉隆の水軍を用いて木曽川河口の要衝・蟹江を押さえ、尾張・三河に対する「経済的な兵糧攻め」と「軍事的な包囲」を同時に仕掛けることで、家康を戦わずして屈服させようとした。これは単なる奇襲作戦ではなく、小牧・長久手の戦い全体を終結に導くための、兵站と経済を標的とした壮大な戦略だったのである。

第二章: 謀略の火蓋 ― 滝川一益と九鬼嘉隆の動員

この高度にして複雑な水陸両用作戦を遂行するため、秀吉は極めて周到な人選を行った。陸上部隊の総指揮官として任命されたのは、滝川一益であった 9 。一益は、かつて織田四天王の一人に数えられた織田家の宿老であり、その武名と経験は誰もが認めるところであった。しかし、本能寺の変後の神流川の戦いで北条氏に大敗し、続く賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家方に与して秀吉に降伏するという、失意の道を歩んでいた。秀吉は、そのような一益に名誉挽回の絶好の機会を与えることで、彼の内に秘めた能力と、旧織田家臣団に対する影響力を最大限に利用しようと考えた。さらに、一益はかつて蟹江城主であった時期もあり、この地域の地理に明るいという利点も持っていた 21 。秀吉のこの人選は、単なる能力評価に留まらず、他の旧織田家臣に対し「過去を問わず、功績次第で報いる」という強いメッセージを発信し、織田・徳川連合軍の内部結束を揺さぶるという、高度な政治的計算に基づいていた。

作戦のもう一方の主役、すなわち海からの侵攻を担当するのは、伊勢・志摩の水軍を率いる九鬼嘉隆であった 22 。彼は「第二次木津川口の戦い」において、大砲を搭載した巨大な鉄甲船を駆使して毛利水軍を打ち破った、当代随一の海将としてその名を轟かせていた 18 。伊勢湾を縦横無尽に航行し、大軍を迅速に上陸させるこの作戦は、彼の卓越した操船技術と強力な水軍なくしては到底成り立たなかった。

しかし、この作戦の成否を分ける最大の鍵は、武力による強攻ではなく、内部からの切り崩し、すなわち「調略」にあった。力攻めでは時間がかかり、その間に清洲城の家康に察知され、援軍が駆けつけてしまう危険性が高い。秀吉と一益は、迅速かつ確実に城を奪取するため、蟹江城の内部に協力者を求めた。当時、蟹江城主の佐久間正勝は伊勢方面の戦線に出陣しており、城の留守は前田与十郎長定ら前田一族が預かっていた 21 。かつてこの地を治めていた一益は、前田一族と旧知の間柄であったことから、長定に接近し、秀吉方への寝返りを働きかけた 24 。この調略は成功し、長定は城内から手引きをすることを約束した 21 。この時代の武士の忠誠観の流動性と、個人の利害や野心を見抜いて巧みに利用する秀吉の「人たらし」としての能力が、この作戦計画の根幹を支えていたのである。

陣営

指揮官

役職・役割

関連情報

羽柴軍

滝川一益

陸上部隊総指揮

元織田四天王。雪辱を期す。

九鬼嘉隆

水軍総指揮

日本最強と謳われた水軍の将。

前田長定

蟹江城留守居役

秀吉方に内応。作戦の鍵を握る。

徳川・織田連合軍

徳川家康

連合軍総大将

清洲城に在城。迅速な対応を見せる。

織田信雄

連合軍総大大将

本拠地・長島城の防衛も担う。

井伊直政

徳川軍先鋒

徳川四天王。常に先陣を切る猛将。

榊原康政

徳川軍主将

徳川四天王。指揮官として活躍。

服部正成

伊賀衆頭領

忍者部隊を率い、攻城戦で活躍。

第三章: 合戦詳報 ― 刻一刻と動く戦況(天正十二年六月十六日~七月三日)

利用者様の要望の中核である、合戦のリアルタイムな経過を、史料に基づき時系列で詳述する。両軍の動き、各日の主要な出来事、そして戦況の転換点を、あたかも戦場にいるかのような臨場感をもって再構成する。

六月十六日:電撃的奇襲と神速の対応

天正十二年六月十六日の夜、作戦は決行された。滝川一益と九鬼嘉隆が率いる数十艘の船団は、伊勢湾から木曽川を音もなく遡上し、闇に紛れて蟹江城へと迫った 21 。深夜、城内からかねてからの打ち合わせ通り、内応者である前田長定によって謀反の狼煙が上げられた。これを合図に、一益の軍勢は城内へと殺到。留守を預かる兵たちはほとんど抵抗することなく、蟹江城は瞬く間に秀吉方の手に落ちた。勢いに乗った一益らは、続けて支城である大野城、下市場城をも占拠した 22 。秀吉の描いた奇襲作戦は、この時点では完璧に成功したかに見えた。

しかし、その成功はあまりにも短命であった。蟹江城からわずか10キロメートルほどの距離にある清洲城に本陣を置いていた徳川家康は、蟹江方面から夜空に立ち上る不審な火の手を即座に察知した 21 。障害物のない濃尾平野では、その距離でも異変は明確に見て取れたのである。家康は、これを単なる火事ではなく、敵の軍事行動であると瞬時に判断。直ちに全軍に出陣を命令した。徳川四天王の一人、井伊直政が真っ先に駆け出し、家康自身も少数の側近のみを連れて清洲城を飛び出した。主君の迅速な行動に呼応し、多くの兵が競ってこれに続いたという 21 。秀吉の奇襲というアドバンテージを完全に無力化する、この驚異的な初動の速さこそが、この合戦の趨勢を決定づける最初の、そして最大の要因となった。

六月十七日~十八日:包囲網の形成と攻守の逆転

一益らが占拠したばかりの城の守りを固め、次の行動に移るための時間的余裕は全くなかった。十六日の夜が明ける頃には、徳川・織田連合軍の先鋒が現地に到着し始め、十八日までには約2万と号する大軍が蟹江城砦群の周囲に殺到した 25 。本来であれば、滝川軍が蟹江城を拠点として清洲城や長島城を脅かすはずであった。しかし、現実はその逆であった。一益、九鬼、そして内応した前田勢を合わせた数千の兵は、蟹江城、下市場城、前田城に分断されたまま、家康と信雄の大軍によって完全に包囲されるという、全く想定外の事態に陥ったのである 21 。攻める側であったはずの秀吉軍は、一日にして守る側、それも絶望的な籠城を強いられる側に転落した。連合軍はまず、比較的守りの薄い支城から攻略を開始し、十八日には下市場城を集中攻撃してこれを陥落させ、城を守っていた前田長俊を討ち取った 25

六月十九日:舟入の戦い ― 海上封鎖の完成

この合戦における決定的な転換点は、六月十九日に訪れた。蟹江城に籠る一益らにとって、唯一の生命線は海路であった。九鬼嘉隆率いる水軍が制海権を維持している限り、伊勢方面からの兵糧や弾薬の補給、そして最悪の場合の脱出路が確保されるはずだった。この生命線を断つべく、徳川・織田方の水軍が九鬼水軍に攻撃を仕掛けた。世に言う「舟入の戦い」である。この海戦の詳細は不明な点も多いが、結果は九鬼水軍の敗北に終わった 25 。この敗北により、蟹江城砦群は陸からだけでなく、海からも完全に封鎖された。滝川一益らは、文字通り「袋の鼠」となり、外部からの救援が一切期待できない、孤立無援の籠城を強いられることになったのである 27

六月二十日~二十三日:熾烈なる攻防と支城の陥落

退路と補給を断たれた滝川軍の士気は著しく低下したが、それでも歴戦の将である一益の指揮のもと、必死の抵抗を続けた。連合軍は包囲網を狭め、二十日から二十二日にかけて蟹江城への総攻撃を敢行する 25 。この攻城戦では、服部半蔵正成が率いる伊賀の鉄砲衆が大きな役割を果たした。彼らは東の丸(前田口)の包囲に加わり、井伊直政の部隊が大手口から突入するのに合わせて二の丸へと攻め入るなど、巧みな戦術で城兵を追い詰めていった 28 。そして二十三日、石川数正らが攻めていた前田城が遂に開城。家康は自らこの城に入り、蟹江城本丸攻略のための最前線本陣とした 25

六月二十四日~七月三日:絶望の籠城と降伏

全ての支城を失い、蟹江城の本丸に追い詰められた一益の状況は、もはや絶望的であった。この頃、秀吉もようやく一益の苦境を知り、美濃の大垣城から近江、そして伊勢へと本陣を移動させ、救援に向かう姿勢を見せた 25 。しかし、家康軍の迅速な包囲と海上封鎖により、秀吉の大軍が到着する前に勝敗が決することは明らかであった。勝利の見込みが完全に潰えたことを悟った一益は、六月二十九日、ついに降伏交渉を開始した 21

織田信雄は、家康に対し「滝川は信長公の功臣である。命は助けたい」と、一益の助命を嘆願したという 21 。交渉の結果、一益は今回の謀反の首謀者である前田長定の首を差し出すことを条件に、自身の命と城兵の助命を勝ち取った。七月三日、蟹江城は開城され、徳川・織田連合軍に引き渡された。一益は辛うじて死を免れ、海路ひっそりと伊勢へと退去していった 21

日付 (天正12年)

羽柴軍の行動

徳川・織田連合軍の行動

戦況への影響

6月16日

滝川・九鬼軍、水路より侵攻。前田長定の内応により蟹江城・大野城等を占拠。

家康、清洲城にて異変を察知し、即日出陣を命令。

秀吉軍の奇襲成功。しかし、家康軍の神速の対応が始まる。

6月17-18日

占拠した城砦の守りを固める。

約2万の軍勢が蟹江一帯に到着。滝川軍を逆に包囲する。下市場城を攻略。

攻守が逆転。滝川軍は城に閉じ込められる形となる。

6月19日

九鬼水軍が補給・退路確保のため出撃するも、「舟入の戦い」で敗北。

連合軍水軍が勝利し、海上を封鎖。

滝川軍の補給・退路が完全に遮断され、孤立が確定する。 戦いの決定的転換点。

6月20-23日

籠城戦に徹するも、士気は低下。

前田城を攻略し、家康が入城。蟹江城への包囲を狭める。

滝川軍は蟹江城本丸に追い詰められ、絶望的な状況に。

6月24-29日

秀吉本隊、救援のため伊勢方面へ移動するも間に合わず。一益、降伏交渉を開始。

秀吉本隊の動きを警戒しつつ、蟹江城への圧力を強める。

秀吉の救援が間に合わないことが明確になり、一益の降伏が決定的となる。

7月3日

前田長定の首を差し出し、開城。一益は伊勢へ脱出。

蟹江城を奪還。合戦は連合軍の完全勝利に終わる。

秀吉の尾張南部侵攻作戦は完全に失敗に終わる。

第四章: 勝敗の分析 ― なぜ秀吉の奇襲は失敗に終わったのか

秀吉が練りに練ったはずの蟹江城奇襲作戦が、なぜこれほど完璧な失敗に終わったのか。その原因は、単一のミスではなく、複数の要因が複合的に絡み合った結果であった。勝敗を分けた要因を、情報、速度、制海権、そして指揮系統の観点から多角的に分析する。

第一に、そして最大の要因は、徳川方の圧倒的な「情報察知能力」と、それに基づく「行動の速さ」であった 21 。家康は、蟹江城からの狼煙という断片的な情報から、敵の奇襲という本質を瞬時に見抜き、即座に全軍出動という最適解を導き出した。これは、家康が常に臨戦態勢を維持し、情報収集から意思決定、そして部隊展開に至るまでの指揮系統を極めて高度に構築していたことの証左である。秀吉が頼みとした「奇襲」という時間的アドバンテージは、作戦開始からわずか数時間で完全に失われた 27 。この戦いは、個々の武将の武勇や兵力差ではなく、組織としての「軍事システム」の優劣が勝敗を決した戦いであったと言える。家康が構築した「情報収集→迅速な意思決定→即時展開」という近代的な指揮統制システムが、秀吉の「謀略+一点突破」という属人的な天才的戦術を打ち破ったのである。

第二に、陸戦以上に戦況を決定づけたのが「制海権の喪失」である。六月十九日の「舟入の戦い」における九鬼水軍の敗北は、滝川軍にとって致命的であった 25 。これにより、補給と退路という水陸両用作戦の生命線を断たれ、籠城する兵たちの士気は完全に砕かれた。秀吉と九鬼嘉隆は、織田信雄の領内に、自軍の行動を阻止しうるだけの有効な水軍戦力が存在することを軽視していたか、あるいは全く想定していなかった可能性が高い。これは、長久手の敗戦が別働隊の失策に過ぎないと考え、家康の総合的な対応能力を過小評価していた秀吉側の慢心と油断が生んだ、戦略的な誤算であった。

第三に、「指揮官の距離の差」も無視できない。作戦実行中、秀吉自身は美濃の大垣城や、その後は近江、伊勢にあり、最前線からあまりにも遠すぎた 21 。刻一刻と悪化する戦況の報告を受けても、有効な次の一手を打つには時間がかかりすぎ、結局は救援に間に合わなかった。対照的に、家康は異変を察知するや自ら清洲城を飛び出し、最終的には前田城まで進出して直接指揮を執った 15 。この指揮官と前線の物理的な距離の差が、両軍の対応速度と判断の精度に決定的な差をもたらした。家康の軍団が、トップの直接指揮のもとで柔軟かつ迅速に動けたのに対し、秀吉軍は総大将自身の判断がなければ動けないという構造的な硬直性を露呈した形となった。

これらの要因を総合すると、蟹江合戦の敗因は、戦術的な個々のミス以上に、秀吉の軍事思想が、この時点における家康のそれに対してシステム的に劣っていた点にあると結論付けられる。秀吉は謀略や奇襲といった「個人の才覚」に頼りすぎたのに対し、家康は組織としての「総合力」でそれに対抗し、粉砕したのである。

終章: 蟹江合戦が小牧・長久手の戦役に与えた影響

一つの局地戦に過ぎないかに見える蟹江城合戦であるが、これが小牧・長久手の戦い全体、ひいてはその後の日本の歴史に与えた影響は計り知れない。

長久手での手痛い敗戦に続き、自らが肝煎りで計画した蟹江での奇襲作戦も完膚なきまでに打ち破られたことで、秀吉は「軍事力によって家康・信雄連合軍を屈服させることは不可能である」という最終的な結論に至ったと言われている 21 。これ以降、秀吉は家康との直接的な軍事対決を完全に断念し、自らが最も得意とする政治的な切り崩しへと戦略を完全にシフトさせることになる。

蟹江合戦後、秀吉は主たる攻撃目標を家康から、連合の盟主である織田信雄へと変更した。伊勢方面の信雄領に軍事的圧力をかけ続け、同年11月、ついに信雄を単独講和へと追い込んだ 6 。盟主である信雄が秀吉と和睦したことで、家康は「信雄の援軍」という戦いを続けるための大義名分を失い、小牧・長久手の戦いは事実上終結した 31 。局地的な戦闘(戦術)では家康が連勝したものの、戦争全体(戦略)としては、秀吉が信雄を屈服させて織田家の家臣団を完全に掌握し、信長の後継者としての地位を確定させたのである 5

しかし、この戦役は家康にとっても決して無駄ではなかった。長久手、そして蟹江での相次ぐ勝利は、徳川家康の卓越した軍事的能力と、その率いる三河武士団の精強さを全国の大名に知らしめる決定的な出来事となった 6 。秀吉の戦略を正面から二度も打ち破った唯一の大名として、家康はその後の豊臣政権下においても、他の大名とは一線を画す別格の地位を保つ礎を築いた 33 。江戸時代の思想家・頼山陽が「家康の天下取りは、大坂でもなく関ヶ原でもなく、小牧にあり」と評したように、この一連の戦いでの軍事的成功が、後の徳川政権樹立の遠因となったことは間違いない 7 。その意味で、蟹江合戦は、秀吉の軍事的野心を完全に挫き、家康の武威を決定づけた「とどめの一戦」であったと言えるだろう 21

この戦いを通じて、秀吉は「家康は軍事では倒せない」と悟り、家康は「秀吉には政治では勝てない」と互いに認識した。この相互認識が、その後の日本の支配体制、すなわち豊臣政権下における徳川家の特殊な地位という、一種の「パワーバランス」を形成する原点となった。蟹江合戦は、この両雄の微妙な関係性を生み出すきっかけとなった、極めて重要な歴史の転換点だったのである。

なお、激戦の舞台となった蟹江城は、合戦後に修復されることはなく、翌天正13年(1585年)11月29日に発生した天正大地震によって壊滅的な被害を受け、そのまま廃城となったと伝えられている 9 。現在では、往時の面影はなく、住宅地の中に城址碑と本丸の井戸跡が残るのみとなっている 16

引用文献

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  3. 小牧・長久手の戦い/古戦場|ホームメイト - 刀剣ワールド名古屋・丸の内 別館 https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/komaki-nagakute-kosenjo/
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  28. 服部正成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
  29. 蟹江城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1549
  30. 小牧長久手の戦い - 名古屋市博物館 https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/komaki_nagakute/
  31. 【羽柴秀吉VS徳川家康 小牧・長久手の戦いを知る】第1回 戦いの概要 - 城びと https://shirobito.jp/article/1417
  32. 小牧・長久手の戦い古戦場:愛知県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/komakijo/
  33. 小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相を読む、そしてウォーゲームの長久手についてあらためて考えてみた - note https://note.com/gominote/n/n0d1dd19f15dc
  34. 見てみよう!歴史災害記録と旬のあいち https://www.gensai.nagoya-u.ac.jp/rekishijishin/common/pdf/2016/vol27.pdf
  35. 蟹江城の見所と写真・300人城主の評価(愛知県蟹江町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/250/
  36. 蟹江城合戦・後編 - 日々の探索 http://sahashi.vivian.jp/kaniekouhen.html