最終更新日 2025-08-26

末森城の戦い(1584)

末森城の戦い(1584年):加賀百万石の礎を築いた宿命の対決

序章:天下動乱の奔流、北陸へ

天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が非業の死を遂げたことで、日本の歴史は大きな転換点を迎えた。信長が築き上げた天下統一事業は頓挫し、旧織田家臣団はその後継者の座を巡って激しい権力闘争の渦中へと身を投じることとなる。その中で、羽柴秀吉は山崎の戦いで明智光秀を、続く賤ヶ岳の戦いで筆頭家老の柴田勝家を破り、急速にその地位を確立していった 1

この秀吉の台頭に対し、信長の次男・織田信雄が徳川家康と手を結び、公然と反旗を翻した。これが天正12年(1584年)に勃発した「小牧・長久手の戦い」である 1 。この中央での対立は、さながら巨大な磁場のように全国の諸大名を巻き込み、「羽柴方」か「徳川・織田方」かの選択を迫った。そして、その奔流は北陸の地にも及び、二人の男の運命を宿命的な対決へと導いた。加賀・能登を領する前田利家と、越中を支配する佐々成政である。

かつての同僚、そしてライバル

前田利家と佐々成政は、共に織田信長の馬廻衆からキャリアをスタートさせた、いわば同僚であった。特に、信長の親衛隊とも言うべき母衣衆(ほろしゅう)において、利家は「赤母衣衆」の筆頭、成政は「黒母衣衆」の有力武将として、互いに武功を競い合いながら数多の死線を潜り抜けてきた戦友でもあった 3 。同年代であり、ライバルとして互いを強く意識する関係性は、信長存命時から続いていたのである 1

しかし、信長の死はこの関係性を一変させる。旧知の仲であった秀吉に早くから接近し、その勢力下で着実に地歩を固めた利家に対し、成政は秀吉を快く思わず、家康・信雄方に与する道を選んだ 3 。利家は賤ヶ岳の戦いの功績により、能登一国に加えて加賀二郡を与えられ、その所領は息子の利長分と合わせて40万石に迫る大身へと躍進していた 1 。この利家の目覚ましい出世は、成政の自尊心と功名心を刺激し、長年のライバル意識に嫉妬の炎を燃え上がらせた可能性は想像に難くない 1

この戦いは、単に秀吉と家康の代理戦争という政治的な構図だけで語ることはできない。その根底には、織田政権下で鎬を削った二人の武将の、個人的な矜持とライバル関係の清算という、極めて人間的な動機が色濃く存在した。中央の政治対立は、北陸という舞台装置の上で、彼ら二人の個人的な競争心に火をつけ、戦いをより熾烈なものへと昇華させる触媒となったのである。成政にとって、この戦いは家康への忠義を示すと同時に、長年のライバルである利家を打ち破り、織田家臣団における自らの序列と価値を改めて証明するための、生涯を賭けた大勝負であった。

第一部:戦雲、能登に垂れ込める

小牧・長久手での本戦が膠着状態に陥る中、佐々成政は北陸で戦端を開くことで戦局の打開を図ろうと決意する。彼の視線は、隣国に広がる前田利家の領国、その戦略的要衝である末森城へと注がれていた。

第一章:佐々成政の野望と戦略

成政は、中央での戦況が動かない今こそ、北陸で軍事行動を起こす好機と捉えていた。秀吉が大規模な援軍を北陸に派遣する前であれば、前田利家単独の兵力ならば十分に打ち破れるという算段があったのである 4 。この行動は、徳川家康を側面から支援し、戦局全体を有利に導くための起死回生の一手となるはずであった。

しかし、その初動は躓きを見せる。天正12年(1584年)8月28日、成政はまず加賀国境に近い前田方の朝日山城を攻撃するが、城将・村井長頼の tenacious な防戦の前に撃退される 2 。さらに悪いことに、この隙を突かれて逆に越中の一乗寺城と龍ヶ峰城を前田軍に奪取されるという手痛い逆襲を受けてしまった 2

この初期攻勢の失敗は、成政に戦略の根本的な見直しを迫った。そして彼が導き出した次なる一手は、より大胆かつ大規模な作戦であった。それは、前田利家の領国である加賀と能登を結ぶ戦略上の結節点、末森城を電撃的に攻略することである 6 。末森城を落とすことで加賀と能登の連絡を遮断し、前田家の軍事力を分断・半減させた上で、各個撃破するという壮大な構想であった 2 。この戦略を実現するため、成政は越中から総勢15,000と号する大軍を動員した 5 。これは、前回の失敗を糧とし、圧倒的な兵力をもって一気に勝敗を決しようという、彼の固い決意の表れであった。

第二章:前田家の防衛体制

成政の目標となった末森城は、能登半島の付け根に位置する宝達山の麓に築かれた山城であり、加賀と能登を結ぶ街道を見下ろす軍事上の要衝であった 6 。城の構造自体は中世の山城として堅固なものであったが、15,000という大軍による包囲攻撃に長期間耐えうるほどの規模と兵力を備えてはいなかった 8

この城の守りを任されていたのは、前田利家が最も信頼を置く譜代の重臣、奥村永福(おくむら ながとみ)であった 10 。永福は利家が最初に召し抱えた家臣の一人ともいわれ、その忠誠心と武勇は広く知られていた 10 。副将として千秋範昌、そしてこの城の元々の城主一族である土肥氏の土肥次茂らが脇を固めていたが、城内の兵力はあまりにも寡少であった 5 。諸説あるものの、その数はおよそ300から500名程度とされ、押し寄せる佐々軍15,000に対しては、絶望的と言っても過言ではない戦力差であった 5

一方、利家の本拠地である金沢城の状況も深刻であった。利家自身は在城していたものの、手元にある兵力はわずか2,500程度に過ぎなかった 1 。さらに、総大将である秀吉から「金沢城を動くな」という厳命を受けていたことが、利家の手足を縛っていた 1 。これは、北陸方面の抑えとして前田軍を金沢に釘付けにしておくという秀吉の全体戦略の一環であり、利家にとっては、忠臣が守る城が危機に瀕していても、容易に救援に向かうことができないという、極めて苦しい立場に置かれていたことを意味する。

陣営

総大将

主要部隊・武将

兵力(推定)

役割

佐々軍

佐々成政

本隊(成政直率)

約15,000

末森城包囲・攻撃

増援阻止部隊(神保氏張)

不明(数千か)

金沢からの前田軍増援を阻止

前田軍

前田利家

末森城籠城部隊(奥村永福)

約300~500

末森城の防衛

金沢城本隊(前田利家)

約2,500

領国全体の防衛・後詰

この兵力比較表が示す通り、前田方は籠城戦においても、また救援に向かうにしても、極めて困難な状況に置かれていた。末森城の運命は、まさに風前の灯火であった。

第二部:末森城、血戦の二日間

天正12年9月9日、佐々成政率いる大軍が末森城に殺到したことで、前田家の命運を賭けた二日間の血戦の火蓋が切られた。

日付・時刻

佐々軍の動向

末森城(前田軍)の動向

金沢・救援軍(前田軍)の動向

天正12年8月28日

朝日山城を攻撃するも撃退される。

-

村井長頼が朝日山城で防戦。

9月9日

総勢15,000で宝達山を越え、末森城を包囲。坪山に本陣を設置。神保氏張を北川尻に配置。

完全に孤立。籠城戦の準備。

-

9月10日(日中)

末森城への総攻撃を開始。二の丸まで侵攻し、城を落城寸前に追い込む。

奥村永福指揮下で奮戦。土肥次茂討死。兵の士気が低下。

金沢城に急報が届く。

9月10日(午後~夜)

翌日の落城を確信し、夜襲はかけず包囲を継続か 4

奥村夫人・安が兵を叱咤激励し、士気を維持。

救援を巡り軍議が紛糾。家臣団は反対。妻・まつの叱咤により、利家が出陣を決意。

9月10日(深夜)

-

籠城を継続。

利家、兵2,500を率いて金沢城を出陣。

9月11日(未明)

本隊は末森城の包囲に集中し、背後の警戒は手薄。

救援の兆しなく、絶望的な状況で防戦。

高松村で桜井三郎左衛門と遭遇。海岸ルートを進軍。

9月11日(払暁)

利家軍の奇襲を受け、背後から攻撃される。大混乱に陥る。

城内から打って出て、佐々軍を挟撃。

佐々軍本隊の背後に到達し、奇襲攻撃を開始。

9月11日(午前)

総崩れとなり、越中方面へ敗走を開始。

勝利を確保。

追撃戦を展開。

第三章:包囲(天正12年9月9日)

9月9日、越中から宝達山を越えて進軍してきた佐々成政率いる15,000の軍勢は、末森城の眼前に姿を現した 5 。成政自身は城の南方に位置する坪山に本陣を構え、全軍に包囲を命じた 5 。佐々軍は瞬く間に城を幾重にも取り囲み、蟻の這い出る隙間もないほどの包囲網を完成させた。さらに成政は、利家の増援を警戒し、金沢から末森城へ至る街道筋の要衝・北川尻に配下の神保氏張(じんぼう うじはる)の部隊を配置した 5 。これにより、末森城は外部との連絡を完全に遮断され、絶海の孤島と化したのである。

第四章:猛攻と抵抗(天正12年9月10日)

一夜明けた9月10日、佐々軍による総攻撃が開始された。鬨の声と共に、圧倒的な兵力を誇る佐々兵が城の各所へと猛然と攻めかかった。対する城兵は、城将・奥村永福の指揮の下、必死の防戦を繰り広げた 14 。しかし、30倍以上ともいわれる兵力差は如何ともしがたく、戦況は刻一刻と悪化していった。佐々軍は城の水の手を断ち、外郭から順に突破 10 。三の丸、二の丸へと侵攻し、本丸に肉薄した。この激しい攻防の中で、副将の一人であった土肥次茂が討死を遂げるなど、城はまさに落城寸前の危機に瀕していた 5

城内に諦めと絶望の空気が漂い始めたその時、事態を一変させる人物が現れる。城主・奥村永福の妻、安(つね)であった。彼女は薙刀を手に自ら武装すると、城内を巡回し、気弱になる兵士たちを叱咤激励した 1 。伝わるところによれば、彼女は「いにしえの楠木正成は、日本中を敵に回しながらも籠城をまっとうしたと聞いております。おまえさまは、佐々ひとりに囲まれただけのこと。何を気弱なことを申されまするのか」と兵を鼓舞したという 12 。さらに、負傷者の手当てに奔走し、疲弊した兵たちにおかゆを炊き出して振る舞うなど、その献身的な行動は、尽きかけていた城兵の士気を再び奮い立たせた 1

佐々軍の圧倒的な物量と周到な作戦に対し、末森城が即日陥落しなかった背景には、こうした人間的な要素が極めて重要な役割を果たしていた。通常の計算であれば半日も持たずに落ちるはずの城が、一日を持ちこたえたのである。安夫人の行動は、単なる美談として語られるべきものではない。それは、兵士たちの継戦能力を物理的・精神的に支え、前田利家の救援が間に合うための、何物にも代えがたい貴重な「時間」を稼ぎ出すという、極めて重要な戦術的価値を持っていた。この戦いは、極限状況において、個人のリーダーシップや献身といった無形の力が、物理的な戦力差を一時的に無効化しうることを示す好例となった。

第五章:決断と出陣(9月10日夜)

その頃、約30km離れた金沢城では、末森城からの急報を受けて激しい軍議が繰り広げられていた。家臣たちの意見の大半は、救援に反対であった 1 。手元の兵力はあまりに少なく、下手に動けば金沢城まで危険に晒すことになる。そして何より、総大将・秀吉からの「金沢を動くな」という厳命が重くのしかかっていた 1 。忠臣を見殺しにするか、主命に背いてでも救援に向かうか。利家は苦渋の決断を迫られていた。

評定が紛糾し、利家が逡巡する中、奥から一人の女性が現れた。利家の妻・まつ(後の芳春院)である。彼女は金銀の詰まった袋を利家の前に投げ出すと、毅然とした態度で夫を一喝した。「日頃、金銀にて兵を養うと仰せになりながら、殿は蓄えることばかり。さすれば、この金銀に槍を持たせて出陣させればいかがにござりましょう」 1

この辛辣ながらも、利家の武士としての本質を突いた言葉が、彼の迷いを打ち砕いた。まつの叱咤激励に奮起した利家は、家臣たちの反対を押し切り、ついに救援出陣を決断する。忠臣を見捨てては武門の棟梁は務まらない。そして、ここで末森城を失えば、加賀・能登の支配は瓦解する。利家は、手元の精鋭2,500を率いて、深夜、闇に紛れて金沢城を出陣した。それは、前田家の未来を賭けた大きな賭けであった。

第六章:奇襲(9月11日未明~払暁)

深夜に出陣した利家軍は、末森城を目指して夜通しの強行軍を続けた。その道中、高松村(現かほく市)に差し掛かった時、一人の男が利家の前に現れる。土地の有力者であった桜井三郎左衛門である 5 。彼は利家に対し、佐々軍の別動隊(神保氏張の部隊)が街道筋の北川尻で待ち伏せているという、極めて重大な情報をもたらした 15

この情報に基づき、三郎左衛門は佐々軍が警戒していないであろう海岸沿いの道を進むことを進言し、自ら案内役を買って出た 5 。利家はこの進言を即座に採用。全軍に松明を消させ、物音を立てぬよう厳命し、暗闇の中を海岸線に沿って静かに進軍した。佐々成政の増援阻止という周到な策は、この現地の協力者によってもたらされた情報によって、完全に無力化されたのである。

9月11日の明け方、夜を徹した行軍の末、利家軍は今浜(現宝達志水町)付近に到達し、末森城の攻略に集中して完全に油断していた佐々軍本隊の背後に、突如としてその姿を現した 1 。利家軍が一斉に上げた鬨の声は、夜明けの静寂を切り裂き、包囲する佐々軍を震撼させた。城内で最後の抵抗を続けていた奥村永福以下の籠城兵も、この鬨の声を援軍到来の合図と聞き、最後の力を振り絞って城門を開き、打って出た 1

これにより、佐々軍は城兵と救援軍によって挟撃される形となり、大混乱に陥った。背後からの全く予期せぬ攻撃に指揮系統は麻痺し、あれほどの大軍は統制を失って総崩れとなった。成政は坪山の本陣からこの惨状を目の当たりにし、なすすべもなく越中方面への敗走を余儀なくされた 13 。佐々軍は多くの将兵を失い、末森城の戦いは前田利家の劇的な逆転勝利に終わったのである 1

この勝利の背景には、単なる奇襲作戦の成功以上の要因が存在する。勝敗を分けた決定的な要素は、桜井三郎左衛門という一人の領民からもたらされた「情報」であった。彼がなぜ利家に協力したのかを考えれば、それは日頃から利家が領国経営において、地域の有力者や民との信頼関係構築に努めていた結果であると推察される。彼の協力は偶然の産物ではなく、前田家の統治が地域社会に受け入れられていたことの証左であった。この「信頼」という無形の資産が、絶体絶命の局面において決定的な軍事的価値を生み出し、前田家を勝利へと導いたのである。

第三部:戦後の波紋

末森城での劇的な勝利は、前田家と佐々家の運命を大きく分かち、北陸ひいては天下の情勢にも少なからぬ影響を及ぼした。

第七章:勝者と敗者

前田利家はこの勝利により、領国である加賀・能登の防衛に成功し、その支配体制を盤石なものとした 2 。何よりも、絶望的な状況下で忠臣を救い、大軍を打ち破った武名は、豊臣政権内における利家の地位を不動のものにする上で計り知れない価値を持った。秀吉もこの勝利を高く評価し、利家への信頼を一層深めた。

一方、敗れた佐々成政の凋落は決定的であった。この戦いで多くの有能な将兵を失い、その軍事力は大きく減退した 13 。退却の途上、もぬけの殻となっていた前田方の鳥越城を占領するという意地を見せたが、大局的な敗北を覆すには至らなかった 5 。この敗戦と、直後に成立した秀吉と家康・信雄の和睦により、成政は北陸で政治的に完全に孤立。これが直接的な原因となり、翌天正13年(1585年)、秀吉が自ら率いる10万の大軍に越中を攻められ、降伏を余儀なくされる(富山の役) 13

戦後の論功行賞もまた、この戦いの性格を象徴している。

絶望的な籠城戦を戦い抜き、城を死守した奥村永福の功績は絶大であった。その武勇と忠誠は秀吉からも直接賞賛され、以後、加賀前田家第一の功臣として、利家、利長、利常の三代にわたって重用されることとなる 2。

そして、勝利の最大の立役者ともいえる桜井三郎左衛門に対し、利家は望みの恩賞を与えることを約束した。三郎左衛門が願い出たのは、個人的な財産や知行ではなく、「自らが住む高松村の地子銀(宅地税)を末代まで免除してほしい」というものであった 15 。利家はこの願いを快く聞き入れ、高松村は明治時代に税制が改正されるまでの約300年間、この恩恵を受け続けることとなった 15 。彼の郷土を思う心と功績は、今なお像として現地に残り、語り継がれている 18

第八章:歴史的意義

末森城の戦いは、単なる一地方の攻城戦にとどまらない、極めて重要な歴史的意義を持つ。

第一に、この戦いは前田家の存亡を賭けた一戦であり、その勝利が後の「加賀百万石」の礎を築いたと評価されている 2 。もしこの戦いに敗れていれば、前田家は加賀・能登を失い、歴史の表舞台から消えていた可能性すらある。絶望的な劣勢を覆して勝利したこの戦いは、織田信長にとっての桶狭間の戦いにも比肩しうる、まさに「前田家の桶狭間」と称されるにふさわしい戦いであった 3

第二に、この戦いは天下の趨勢にも影響を与えた。北陸における反秀吉勢力の筆頭であった佐々成政が敗北し、その力が大きく削がれたことは、秀吉の天下統一事業を間接的に後押しする結果となった。家康と結んだ有力大名が、秀吉配下の大名に打ち破られたという事実は、秀吉の権威をさらに高めることにつながったのである。

最後に、この戦いは後世に多くの教訓を残している。圧倒的な兵力差が必ずしも勝敗を決定づけるものではないこと。情報、地の利、そして奇襲といった戦術の重要性。そして何よりも、極限状況において発揮される人間の精神力――指揮官のリーダーシップ、それを支える夫婦の絆、主君への忠誠心、そして領民の協力――が、いかに戦局を左右するかを雄弁に物語っている。末森城の戦いは、戦国という時代の厳しさと、その中で生きる人々の強さと絆が織りなした、一つの劇的な歴史の絵巻なのである。

引用文献

  1. 百万石がはじまったまち?!前田利家と宝達志水町の接点を ... https://www.hodatsushimizu.jp/kanko/mottoslow/toshiiemaeda_02.html
  2. 前田利家の危機を救った能登「末森城」と城主「奥村永福」 https://sengoku-story.com/2021/09/27/noto-trip-0001/
  3. 末森城の戦いは前田家の運命を決めた!前田利家 VS 佐々成政とその後 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14388/
  4. 忠節を貫いた自己信念の武将 佐々成政|まさざね君 - note https://note.com/kingcobra46/n/n84541b4ef0a1
  5. 末森城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%A3%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  6. 末森城の戦いは前田家の運命を決めた!前田利家 VS 佐々成政とその後 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14388/?pg=2
  7. 末森城 : 佐々成政vs前田利家「末森合戦」舞台の城。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2016/11/24/suemori/
  8. 山城ガイドブック(増補版) (PDFファイル: 11.6MB) - 金沢市 https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/22/2024_yamajiro_guidebook.pdf
  9. 宝達志水町末森城等城館跡群調査の概要(平成17年-18年) https://www.hodatsushimizu.jp/soshiki/bunkazaishitsu/2/1/1222.html
  10. 110「末森・鳥越城攻防戦(前)」 https://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x110.html
  11. 末森城(石川県) | いるかも 山城、平城、平山城、日本のお城の記事サイト irukamo https://jh.irukamo.com/suemorijo/
  12. 前田利家の妻がわざと夫を怒らせた理由とは?女性たちがカギを握った?末森城の戦い https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/88415/
  13. 末森城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/SuemoriJou.html
  14. 一宮市地図情報サイト「138マップ」 - 詳細情報 - 観光・文化情報>戦国武将マップ>戦国武将マップ>奥村永福公出生地の碑 - Sonicweb-asp https://www.sonicweb-asp.jp/ichinomiya/feature/1275/58308:10?theme=th_6&layer=1275
  15. かほく市観光情報HP ぐるっとかほく 人物 https://www3.hp-ez.com/hp/kahoku123/page14
  16. 津幡町笠野「鳥越城」と佐々成政の戦い https://sengoku-story.com/2021/09/13/tsubata-trip-0004/
  17. 雑記 神保長織(じんぼながもと) ~ 佐々成政 - つとつとのブログ https://tsutotsuto.seesaa.net/article/202112article_2.html
  18. 桜井三郎左衛門 | 石川県かほく市公式サイト https://www.city.kahoku.lg.jp/004/404/405/d000734.html
  19. 6/24(日)!末森城の戦い、ふたたび - 宝活 https://houkatsu.info/choumin/detail.php?id=32