最終更新日 2025-08-27

東禅寺の変(1578)

出羽の双龍、相克す―安東氏内紛「湊騒動」の全貌と「東禅寺の変」の真相

序章:出羽の風雲―「東禅寺の変」の謎と「湊騒動」の実像

日本の戦国史において、天正六年(1578年)に出羽国で発生したとされる「東禅寺の変」は、安東氏の家督争いと北方交易の主導権を巡る衝突として言及されることがある。しかし、この名称と年代を巡る歴史的記録を精査すると、一つの重大な事実に突き当たる。ご指定の「東禅寺の変」または「東禅寺事件」として歴史学的に広く認知されているのは、時代も場所も全く異なる、幕末の江戸高輪・東禅寺(英国公使館)が水戸浪士らによって襲撃された事件である 1

では、なぜ安東氏の内紛が「東禅寺」の名と結びついたのか。その鍵は、安東氏が勢力を張った出羽国秋田地方の南、庄内地方(現在の山形県庄内地方)にその人ありと知られた武将、「東禅寺氏永(とうぜんじ うじなが)」の存在にある。前森蔵人(まえのもり くらんど)とも名乗った氏永は、庄内の大名・大宝寺氏の重臣でありながら、後に対立し、最上義光らと結んで庄内の覇権を争った人物である 4 。当時の古文書には、安東氏の当主・安東愛季(あんどう ちかすえ)と東禅寺氏永が書状を交わし、外交関係を持っていた記録が残されている 5 。このことから、安東氏を巡る一連の騒乱と、同時代に出羽で活躍した「東禅寺」という名の武将の記憶が、後世において混同された可能性が極めて高い。

したがって、ご依頼の核心にある「安東氏の家督争い」「秋田湊での衝突」「北方交易の主導権」という要素を満たす歴史的事件は、一般に「 湊騒動(みなとそうどう) 」または「 湊合戦(みなとがっせん) 」として知られる、元亀年間(1570年頃)と天正十七年(1589年)の二度にわたって繰り広げられた大規模な内紛を指すものと結論付けられる。郷土史研究においては、これらをより細分化し、三度の騒動があったとする説も提唱されているが 6 、本報告書では、特に大規模な武力衝突へと発展し、安東氏の運命を決定づけた二つの騒乱に焦点を当てる。

この一連の騒乱は、単なる一族内の権力闘争に留まらない。それは、中世以来の国人領主たちが割拠する連合体から、一人の強力な大名が領国を一元的に支配する近世的な戦国大名領国へと脱皮する過程で必然的に生じた、血を伴う構造改革であった。本報告書は、この「湊騒動」の全貌を、その背景、原因、そして二度にわたる合戦のリアルタイムな経過と歴史的帰結に至るまで、詳細かつ徹底的に解明するものである。

第一章:北海の覇者、安東氏―対立の源流

安東氏の出自と経済基盤

安東氏の起源は古く、鎌倉時代には幕府より蝦夷沙汰代官職(えぞさただいかんしき)に任じられ、津軽から出羽、さらには蝦夷地(現在の北海道)にまで広大な影響圏を築いた名門であった 7 。彼らの権力と富の源泉は、日本海を舞台とした「北方交易」の支配に他ならなかった。蝦夷地からは昆布、干魚、毛皮(ラッコなど)といった北方の産物が、畿内からは米、酒、鉄製品、布地などがもたらされ、日本海沿岸の港はこれら物産の集散地として繁栄した 8 。安東氏はこの交易路を掌握し、莫大な利益を上げることで、奥羽地方における一大勢力としての地位を確立したのである 10

権力の二重構造―檜山と湊への分裂

しかし、室町時代に入ると、この強大な安東氏は二つの系統に分裂する。一つは、出羽国内陸の檜山城(現在の秋田県能代市)を本拠地とし、家督の正統性を継承する惣領家の「 檜山安東氏 」。もう一つは、日本海交易の最大の拠点である土崎湊(つちざきみなと、秋田湊とも)を掌握し、経済的実権を握る分家の「 湊安東氏 」である 7

この分裂は、安東氏の権力構造に致命的な矛盾を生じさせた。檜山安東氏は、政治的な正統性と権威を持つ一方で、富の源泉である最大の良港を直接支配下に置いておらず、経済基盤が脆弱であった 11 。対照的に、湊安東氏は、土崎湊を拠点に交易利権をほぼ独占。さらに、雄物川流域の内陸国人領主たちに対し、低率の津料(通行税)を課すのみで自由な交易を認めるという柔軟な政策を採ることで、独自の経済圏と広範な支持を築き上げていた 6

この「政治的正統性(檜山)」と「経済的実利(湊)」の分離こそが、数十年にわたる内紛の根本原因であった。戦国大名として領国を拡大し、富国強兵を推し進めるためには、経済基盤の掌握が不可欠である。檜山安東氏の当主が、湊の利権を自らの完全な支配下に置こうと試みるのは、歴史の必然であったと言える。この構造的対立が、やがて血で血を洗う「湊騒動」の引き金を引くことになるのである。

第二章:束の間の統一―英雄・安東愛季の登場

政略による統合

この根深い対立構造に終止符を打つべく現れたのが、檜山安東氏に生まれた英主・安東愛季であった。天文八年(1539年)に生まれた彼は、父が檜山安東氏当主・安東舜季、母が湊安東氏当主・安東堯季の娘という、両家の血を引く人物であった 7 。この出自を最大限に活用し、愛季は巧みな政略によって両家の統合へと乗り出す。

当時、湊安東氏では当主の堯季に男子がおらず、後継者問題が深刻化していた。愛季はこの機を逃さず、実の弟である安東茂季(あんどう しげすえ)を湊家の養子として送り込み、当主の座に据えることに成功する 11 。これにより、形式上、檜山と湊の両安東氏は愛季の采配の下に統一されることとなった。

傀儡当主とくすぶる火種

しかし、この統一は平和的なものではなく、巧妙に仕組まれた「乗っ取り」であった。湊城主となった茂季は、実質的には兄・愛季の意のままに動く傀儡に過ぎなかったのである 15 。愛季の真の狙いは、弟を内部に送り込むことで、湊が独占してきた交易利権を根こそぎ奪取し、自らが一元的に管理することにあった。

愛季は茂季を通じ、これまで湊安東氏が黙認してきた周辺国人領主、特に豊島(てしま)氏らの自由な交易活動に厳しい制限を加え始めた 6 。これは、中世的な緩やかな連合体から、大名を中心とする中央集権的な領国支配体制への転換を目指す、戦国大名としての合理的な政策であった。しかし、それは同時に、長年の既得権益を一方的に剥奪される湊安東氏の旧臣や、豊島氏をはじめとする国人領主たちの生活と誇りを根底から脅かすものであった。彼らにとって、愛季の政策は経済的な死活問題であり、到底受け入れられるものではなかった 6 。茂季という「トロイの木馬」によって内部から支配され、経済的生命線を絶たれようとしていることに気づいた時、彼らの不満は沸点に達し、武力蜂起以外の選択肢は残されていなかった。

第三章:第一次衝突「第二次湊騒動」―元亀年間の激闘(時系列解説)

安東愛季による強引な経済改革は、ついに湊周辺の国人領主たちの堪忍袋の緒を切らせた。元亀元年(1570年)頃、数十年にわたる安東氏の内紛の最初のクライマックスである「第二次湊騒動」の火蓋が切って落とされる。

蜂起―反愛季連合の形成

元亀元年(1570年)頃

安東愛季の意を受けた湊城主・安東茂季による交易制限が、豊島城主・豊島玄蕃(重村、または景村とも)ら国人領主たちの怒りを爆発させた 6。豊島玄蕃を旗頭に、湊安東氏の旧臣である下刈右京(しもがり うきょう)、川尻中務(かわしり なかつかさ)らが次々と挙兵。彼らの蜂起は単独行動ではなかった。安東氏の急速な勢力拡大を警戒していた内陸の有力大名、小野寺氏や戸沢氏がこれに同調し、瞬く間に反愛季の一大連合軍が形成された 6。

緒戦―湊周辺の攻防

反乱軍の矛先は、まず愛季の傀儡である湊城の安東茂季に向けられた。不意を突かれた茂季はなすすべもなく、急ぎ檜山城にいる兄・愛季に救援を求める使者を送った 11 。秋田平野の各地で戦闘が繰り広げられ、当初は地の利と勢いに乗る反乱軍が優勢に戦を進めた。

激戦―推古山の会戦

この騒乱における最大の激戦地となったのが、**推古山(すいこやま)**であったと伝わる 6 。反乱連合軍と、茂季を救うべく駆けつけた安東軍の一部がこの地で激突した。両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、戦況は膠着状態に陥った。この戦いは、単なる国人衆の反乱ではなく、出羽北部の覇権を巡る本格的な戦争へと発展したことを示している。

転換―檜山からの援軍

戦局が動いたのは、檜山城から安東愛季自らが率いる本隊が戦場に到着した時であった。長年にわたり鍛え上げられた愛季の精鋭部隊は、士気、練度ともに反乱軍を圧倒していた。愛季軍の参戦により、戦いの趨勢は一気に檜山方へと傾く。

終結と戦後処理

愛季本隊の猛攻の前に、寄せ集めに過ぎなかった反乱連合軍は総崩れとなった。首謀者であった豊島玄蕃は、舅(しゅうと)である由利地方の国人・仁賀保(にかほ)氏を頼って辛くも戦場を離脱した 6

騒乱を武力で鎮圧した愛季は、戦後処理を断行する。彼は、当主としての権威を失墜した弟・茂季を、反乱の震源地であった旧豊島領の豊島城へと移した 15 。そして、北方交易の心臓部である湊城と秋田郡一帯を、自身の完全な直轄支配下に置いたのである。皮肉にも、この反乱は、愛季が当初政略で果たそうとした「権力と経済基盤の一元化」を、武力によってより完璧な形で実現させる結果をもたらした。この勝利により、安東愛季は名実ともに戦国大名としての地位を確立し、その権勢は頂点に達することになる。

第四章:嵐の前の静けさ―天正六年(1578年)の情勢

出羽の覇者・愛季の治世

ご依頼の年次である天正六年(1578年)は、第一次衝突であった「第二次湊騒動」が終結し、安東愛季の権力が絶頂期にあった、いわば「嵐の前の静けさ」と呼ぶべき時期に位置づけられる。武力によって反対勢力を一掃し、湊の交易利権を完全に掌握した愛季は、出羽北部における覇者として君臨していた。

この時期、愛季の視野は領国内に留まらなかった。彼は、天下統一への道を突き進む中央の覇者・織田信長との外交関係構築に極めて積極的であった。天正元年(1573年)頃から信長への貢物を始め、天正五年(1577年)には信長への謝礼として北国ならではの珍品であるラッコの皮十枚を進上している 10 。さらに天正六年(1578年)八月には、家臣を安土城へ派遣し、鷹を献上した記録が残る 20 。これは、遠く離れた中央の最高権力者と結びつくことで、自身の権威を内外に示し、南部氏、小野寺氏、最上氏といった周辺のライバル大名を牽制するための高度な外交戦略であった。愛季の強さの象徴であると同時に、彼が置かれた不安定な状況の裏返しでもあった。

水面下の緊張

しかし、その盤石に見えた支配体制の足元では、次なる動乱のマグマが静かに蓄積されていた。武力で押さえつけられた国人領主たちの不満は、決して消え去ったわけではなかった。

そして、この平穏な時期の直後、重要な人事変動が起こる。天正七年(1579年)、兄の野望の駒として利用された湊城主(当時は豊島城主)・安東茂季がこの世を去る 15 。時を同じくして、驚くべきことに、かつての反乱の首謀者であった豊島重村(玄蕃)が愛季に赦免され、旧領である豊島への復帰を許されたのである 17 。この不可解な赦免の理由は定かではないが、愛季が何らかの政治的意図をもって下した判断であったことは間違いない。だが、この決定が、後に愛季の築いた秩序を根底から揺るがす、最後の、そして最大の騒乱の火種となることを、この時の愛季は知る由もなかった。天正六年の静けさは、次なる大嵐への序曲に過ぎなかったのである。

第五章:最終決戦「湊合戦」―天正十七年(1589年)の死闘(時系列解説)

安東愛季が築き上げた栄華と秩序は、英雄自身の死と共に脆くも崩れ去る。権力の空白は、かつて押さえつけられていた者たちの野心を再び呼び覚まし、安東氏の歴史上、最も激しく、そして最後の内乱である「湊合戦」へと突入する。

継承―英雄の死と若き当主

天正十五年(1587年)9月1日

「北天の斗星」とまで称された安東愛季が、戸沢盛安との対陣中に病に倒れ、脇本城にて49年の生涯を閉じた 21。家督を継承したのは、次男の安東実季(あんどう さねすえ)。時にわずか12歳の少年であった 22。このあまりに若年の当主の登場は、安東領に再び戦乱の暗雲を呼び寄せる絶好の機会を、内外の敵に与えることになった。

再燃―従兄弟の反旗

天正十七年(1589年)2月頃

愛季という絶対的な重石がなくなったことで、水面下でくすぶっていた不満が一気に噴出する。反旗を翻したのは、かつての湊城主・安東茂季の遺児であり、実季の従兄弟にあたる安東通季(みちすえ、道季とも)であった 14。彼は自らこそが湊安東氏の正統な後継者であると主張し、父・茂季と旧湊家臣団の無念を晴らすとして挙兵した。

通季の背後には、安東氏の弱体化を狙う周辺大名の影があった。北の雄・南部信直、そして内陸の戸沢盛安らが通季に強力な支援を与え、さらに豊島氏をはじめとする旧反愛季派の国人領主たちがこれに一斉に呼応した 14

急襲と籠城―檜山城の攻防

緒戦は、周到に準備を進めていた通季・国人連合軍の圧勝であった。彼らは電光石火の勢いで湊城を急襲し、これを占拠。不意を突かれた実季方はなすすべもなく、若き当主・実季は、父祖伝来の要害、難攻不落と謳われた檜山城へと退却し、籠城を余儀なくされた 14 。この時、檜山城に籠もる実季の兵力に対し、城を包囲する通季軍の兵力は10倍に達したと伝えられており 14 、城内の誰もが落城と安東宗家の滅亡を覚悟するほどの絶望的な状況であった。

五ヶ月の死闘(リアルタイム描写)

檜山城の攻防は、約五ヶ月にも及んだ。兵力で圧倒的に劣る実季軍が、いかにしてこの長期間の包囲に耐え抜いたのか。その鍵は、父・愛季が遺した先進的な軍事力、すなわち鉄砲にあった。

城内にはわずか300挺と伝わる火縄銃が配備されていた 14 。実季方の将兵は、この鉄砲を極めて効果的に運用した。大軍を恃んで城壁に殺到する通季軍に対し、城内から一斉に火が噴かれ、鉛の弾丸が敵兵を次々となぎ倒していく。弓矢とは比較にならない威力と轟音は、寄せ手の士気を打ち砕いた。通季軍は幾度となく総攻撃を仕掛けるが、その都度、鉄砲隊の熾烈な迎撃によって甚大な被害を受け、撃退された。檜山城の天険の要害と、この鉄砲隊の奮戦が、奇跡的な長期籠城を可能にしたのである。

逆転―由利衆の救援

しかし、いかに善戦しようとも、兵力差は覆しがたい。兵糧は尽きかけ、将兵の疲労は限界に達し、檜山城が陥落するのはもはや時間の問題かと思われた。その時、戦局を劇的に変える一報が城内にもたらされる。南方の由利郡を支配する国人領主連合「由利十二頭」の一角、赤尾津(あかおつ)氏が、実季を救援すべく軍勢を率いて北上しているというのである 14 。この予期せぬ援軍の出現は、籠城する将兵に一縷の望みを与えた。

決着―追撃と湊城奪還

赤尾津氏の援軍が通季軍の背後に迫ると、包囲軍に動揺が走る。この機を逃さず、実季は城内に残った全兵力を率いて城から打って出た。前後から挟撃される形となった通季軍は、もはや組織的な抵抗を維持できず、大混乱に陥り敗走を始めた。

勢いに乗る実季は、敗走する敵軍を猛追し、占拠されていた湊城へと進撃。通季は湊城を支えきれず、支援者であった南部信直を頼って領外へと逃亡した 14 。ここに、数十年にわたって安東氏を分裂させ、血で血を洗う争いを繰り広げた「湊騒動」は、若き当主・実季の劇的な勝利によって、完全なる終止符が打たれたのである。

この二つの大きな内乱は、同じ「湊騒動」という枠組みの中にありながら、その様相は大きく異なっていた。以下の表は、その比較分析である。

項目

第二次湊騒動(元亀年間/1570年頃)

湊合戦(天正十七年/1589年)

主導者(檜山方)

安東愛季

安東実季

主導者(反乱方)

豊島玄蕃

安東通季

反乱の動機

経済的権益の剥奪への反発

家督継承への異議、分家の復権要求

外部支援勢力

小野寺氏、戸沢氏

南部氏、戸沢氏

主要な戦闘

推古山の野戦

檜山城の籠城戦

勝敗の決め手

愛季本隊の圧倒的な軍事介入

鉄砲を駆使した長期防衛と由利衆の救援

結果

愛季による湊の直轄支配体制確立

実季による領国の完全統一、「秋田氏」の誕生

第六章:騒乱の果てに―戦国大名「秋田氏」の誕生

絶望的な籠城戦を勝ち抜いた「湊合戦」の勝利は、若き当主・安東実季を真の戦国大名へと成長させた。この最終決戦は、安東氏の歴史における画期となり、新たな時代の幕開けを告げるものであった。

領国の一円支配

湊合戦の勝利により、実季は長年にわたり安東宗家の支配に抵抗してきた豊島氏をはじめとする国人勢力を完全に領内から排除した。これにより、秋田湊、豊島、新城といった秋田平野の要衝と、その経済的基盤である北方交易の利権は、完全に実季の掌中に収められた 18 。父・愛季が目指しながらも、常に反乱の火種を抱え続けていた領国の一円支配、すなわち中央集権的な戦国大名領国が、ここに完成したのである。この強固な支配体制は、安東氏に政治的・経済的な安定をもたらし、周辺大名と互角以上に渡り合うための大きな力となった。

「秋田氏」への改姓

この内乱の終結と前後して、天下は豊臣秀吉によって統一されつつあった。実季は秀吉に臣従し、出羽国秋田郡における所領を安堵される 14 。そしてこの時期、実季は一族の姓を、父祖伝来の「安東」から「

秋田(あきた) 」へと改めるという重大な決断を下す。

この「秋田」という姓は、かつて敵対した湊安東氏が代々称してきた官職名「秋田城介(あきたじょうのすけ)」に由来するものであった 6 。これは単なる勝利宣言ではない。敵対した分家の権威と歴史をも自らのうちに取り込み、分裂した「安東家」の歴史に終止符を打つという、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。檜山と湊、二つに分かれて争った過去を乗り越え、この地を統べる唯一の支配者「秋田氏」としての新たなアイデンティティを内外に宣言したのである。この改姓によって、「湊騒動」という血塗られた歴史は、ようやく真の終結を迎えたと言える。

その後の運命

秋田氏として新たなスタートを切った実季であったが、その後の道のりは平坦ではなかった。天下分け目の関ヶ原の合戦において、その去就が曖昧であったと徳川家康に咎められ、常陸国宍戸(現在の茨城県)へと減移封されることになる 22 。しかし、安東の血を引く秋田氏は、その後も大名家として存続し、明治維新を迎えることとなる。

結論:湊騒動が奥羽の歴史に刻んだもの

「東禅寺の変」という名称の謎から始まった本報告は、その実像が、安東氏の存亡をかけた数十年にわたる内紛「湊騒動」であったことを明らかにした。この一連の騒乱は、単なるお家騒動の範疇を遥かに超える、重層的な意味を持つ歴史的事件であった。

第一に、それは 経済覇権を巡る闘争 であった。日本海の北方交易という莫大な富の源泉を、誰が、どのように支配するのか。中世的な国人領主の共同管理体制から、戦国大名による中央集権的な独占体制への移行を目指す安東宗家と、既得権益を守ろうとする国人衆との衝突が、騒乱の根底には常に存在した。

第二に、それは 安東氏が近世的な戦国大名へと脱皮するための試練 であった。父・愛季は政略と武力でその基礎を築き、子・実季は絶望的な籠城戦を耐え抜くことで、父が遺した領国を自らの力で守り抜いた。この二代にわたる闘争の過程で、安東氏は中世的な武士団から、強固な経済基盤と中央集権的な支配機構を持つ「秋田氏」という戦国大名へと生まれ変わったのである。

そして最後に、この騒乱の結果として確立された秋田氏の領国支配体制は、江戸時代にこの地を治めた佐竹氏による久保田藩(秋田藩)の統治の基礎の一つとなった。湊騒動は、戦国時代の東北地方における経済、政治、軍事の諸相を凝縮した、極めて重要な画期であった。その血塗られた歴史は、今日の秋田という地の成り立ちを理解する上で、避けては通れない道程として、奥羽の歴史に深く刻まれている。

引用文献

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