松山城(武蔵)攻囲(1590)
武蔵松山城攻囲戦(1590年)—天下統一の最終局面における「戦わぬ攻城戦」の時系列全貌—
序章:本報告書の目的と構成
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐は、日本の戦国時代に終止符を打ち、天下統一を完成させた画期的な軍事行動であった。その壮大な戦役の中で、関東各地に点在する後北条氏の支城群は、巨大な豊臣軍の前に次々と攻略されていった。本報告書が焦点を当てるのは、その無数にある支城戦の一つ、「武蔵松山城攻囲」である。
この戦いは、派手な戦闘や英雄的な逸話に彩られているわけではない。むしろ、その結末は「不戦開城」という静かなものであった。しかし、この一見地味な出来事の背後には、天下統一を目前にした豊臣秀吉の周到な戦略、関東に覇を唱えた後北条氏の防衛思想の限界、そして時代の大きな転換点に立たされた武将たちの現実的な決断が凝縮されている。
本報告書は、単に合戦の概要をなぞることに留まらない。小田原征伐という大きな文脈の中にこの攻城戦を位置づけ、その戦略的背景、武蔵松山城の地理的・構造的特性、そして包囲から開城に至るまでの詳細な過程を、可能な限りリアルタイムに近い時系列で再構築することを目的とする。特に、史料によって開城の日付や経緯に相違が見られる点は、本報告書の重要な論点である。これらの矛盾点を比較検討し、その背後にある歴史の深層に迫ることで、一つの城の運命を通して、戦国という時代の終焉を多角的に分析する。
第一章:天下統一の槌音 ― 小田原征伐と後北条氏の防衛戦略
第一節:黄昏の関東王国・後北条氏
天正18年、後北条氏は、初代・伊勢宗瑞(北条早雲)から五代・氏直に至る約一世紀の歳月をかけて、関東一円に240万石もの広大な領国を築き上げた巨大勢力であった 1 。しかし、その栄華は、西から急速に天下統一事業を推し進める豊臣秀吉の存在によって、大きな翳りを見せていた。
開戦の直接的な引き金となったのは、北条氏と真田氏の領地争いを巡る「沼田領問題」と、それに付随して発生した北条家臣による「名胡桃城事件」である 2 。秀吉はこれを、天下の秩序を司る関白の裁定を武力で覆す行為、すなわち「惣無事令」違反と断じた。秀吉は北条氏直に対し、「天道に背き、帝都に対して奸謀を企つ」と厳しく断罪し、後陽成天皇から節刀を授けられることで、北条氏討伐が朝廷の威光を伴う「公儀の戦」であるという大義名分を確立した 2 。ここに、戦国最後の、そして最大の大名である後北条氏の存亡をかけた戦いの幕が切って落とされたのである。
第二節:鉄壁の防衛網 ― 支城ネットワーク戦略
圧倒的な国力差を前に、後北条氏が採った基本戦略は、堅固な総構えを持つ本拠地・小田原城での長期籠城であった。そして、その籠城戦を支えるのが、関東各地の要衝に配置された支城群が形成する広域防衛網、すなわち「支城ネットワーク戦略」である 4 。
これらの支城は、地形を最大限に活かした縄張りを持ち、長大な横堀や高くそびえる土塁を特徴とする、当代屈指の堅城揃いであった 4 。また、後北条氏は利根川や江戸川水系の水運を経済・軍事の両面で重視しており、支城群はこの水運ネットワークを防衛する役割も担っていた 5 。敵の侵攻に対しては、各支城が連携して抵抗し、進軍を遅滞させ、敵軍を消耗させる。その間に小田原城は籠城の備えを万全にし、疲弊した敵を迎え撃つというのが、この戦略の骨子であった。
しかし、この堅固なはずの防衛網は、過去の成功体験に立脚したものであったが故の構造的脆弱性を内包していた。後北条氏の戦略は、上杉謙信や武田信玄といった、兵站能力に限界がある単独の大名との限定的な戦争を想定して最適化されていた。ところが、秀吉が動員したのは、それらとは全く次元の異なる存在であった。総勢20万を超え、兵農分離によって専門化した戦闘集団を主力とする豊臣の大軍は、後北条氏の想定を遥かに超える規模と質を誇っていた 6 。さらに秀吉は、複数の方面から同時に支城網を叩くという、後北条氏が経験したことのない多正面作戦を展開する。この戦略思想の根本的なミスマッチこそが、鉄壁を誇った北条防衛網が短期間で瓦解する最大の要因となったのである。
第三節:秀吉の関東侵攻計画
天正18年春、秀吉が動員した軍勢は、水軍を含め総勢21万とも22万ともいわれる、日本の歴史上でも類を見ない規模に達した 6 。その編成は、大きく三つの方面軍に分かれていた。
- 主力軍(東海道方面) : 豊臣秀次を総大将格とし、徳川家康、織田信雄らを含む約17万の軍勢。箱根を越え、小田原城を直接包囲する主力部隊 2 。
- 水軍 : 長宗我部元親、九鬼嘉隆、加藤嘉明ら約1万。伊豆半島沿岸を制圧し、海上からの補給路を確保すると共に、小田原を海上封鎖する 2 。
- 北方方面軍 : 前田利家、上杉景勝を総大将格とし、真田昌幸ら北陸・信濃の諸将で構成される約3万5千。碓氷峠を越えて上野国に侵攻し、そこから武蔵国へと南下、北条領の北部を制圧する 2 。
秀吉の戦略は、単なる力押しではなかった。小田原城を大軍で包囲して孤立させると同時に、別働隊である北方方面軍と水軍に支城群を同時並行で攻略させることで、後北条氏の防衛システムを根本から無力化しようとした 4 。さらに、小田原城を見下ろす笠懸山に、僅かな期間で総石垣の城(石垣山城)を築いてみせるなど、圧倒的な物量と技術力を見せつけることで、籠城する北条方の戦意を徹底的に削ぐという、巧みな心理戦を織り交ぜていた 4 。武蔵松山城の運命もまた、この秀吉の描いた壮大な戦略の掌中にあった。
第二章:武蔵の要害、松山城 ― 地勢と構造の徹底解剖
第一節:北武蔵の戦略的要衝
武蔵松山城は、現在の埼玉県比企郡吉見町と東松山市にまたがる、比企丘陵の東端に位置する平山城である 8 。埼玉県のほぼ中央というその立地は、古くから交通と軍事の要衝であり、戦国時代を通じて扇谷上杉氏、越後上杉氏、武田氏、そして後北条氏といった名だたる勢力による激しい争奪戦の舞台となってきた 8 。
後北条氏の支配下において、松山城は北武蔵における防衛線の中核を担っていた。北には利根川を挟んで忍城(成田氏)、西には鉢形城(北条氏邦)、東には岩槻城(太田氏)といった主要拠点が存在し、松山城はこれらの城を結ぶ連絡線上に位置する重要な結節点であった。特に、荒川水系に連なる市野川沿いに築かれていることから、利根川と荒川という関東の二大水系を繋ぐ防衛ラインの要として、その戦略的価値は極めて高かった。
第二節:「不落城」の構造
松山城は、戦国後期の城に多く見られる石垣を持たない、中世以来の伝統的な土作りの城郭である 8 。しかし、その防御力は決して侮れないものであった。城は比企丘陵の先端が市野川によって深く削られてできた断崖絶壁の上に築かれており、この川そのものが天然の広大な水堀として機能していた 8 。この天然の要害から、松山城は時に「不落城」とも称された 10 。
城の防御システムは、この地形を巧みに利用し、さらに人工的な改変を加えることで完成されていた。比較的緩やかで攻め込まれやすい東側斜面には、山頂の本郭から麓にかけて複数の曲輪が階段状に配置され、それぞれが深く、幅の広い空堀によって厳重に分断されていた 13 。これらの空堀や曲輪を区切る土塁は、丘陵の土を削り、盛り上げることで造成されており、特に城内で最大規模を誇る三の曲輪と四の曲輪の間の大堀切は、見る者を圧倒する威容を誇る 8 。侵入した敵を迷わせ、各個撃破するための迷路のような構造は、まさに土作りの城の粋を集めたものであった 8 。
また、この地域の地盤が凝灰岩質で掘削しやすかったことも、堅固な防御施設の構築を可能にした要因である 8 。一方で、この地質は、かつて武田信玄が攻城の際に坑道を掘って城を陥落させようとしたという伝承も生み出している 8 。
第三節:籠城軍の陣容
小田原征伐の当時、武蔵松山城の城主は上田憲定であった 14 。しかし、彼は後北条氏の総動員令に従い、主力を率いて本拠地である小田原城に籠城していた 14 。そのため、松山城の守備は、城代として残された家臣たちに委ねられることとなった。
城の指揮を執ったのは、城代の山田直安であった 16 。そして彼を支える主要な武将として、金子家基、難波田憲次、若林氏らの名が伝わっている 17 。籠城していた兵力は、約2,300名であったと記録されている 16 。これは、城の規模からすれば決して少ない数ではないが、やがて城に押し寄せることになる豊臣の大軍を前にしては、あまりにも寡兵であった。
この「城主不在」という状況は、籠城軍の運命を決定づける上で極めて重要な要素となった。現場の指揮官である山田直安や金子家基は、主家からの「徹底抗戦」という命令と、目の前にいる兵たちの命、そして降伏した場合の自らの処遇という、相反する要素を天秤にかけるという、極めて困難な政治的判断を迫られることになる。この強烈な心理的圧力が、後に松山城が「不戦開城」という道を選ぶに至った大きな要因の一つであったと考えられる。彼らの決断は、遠い小田原城にいる主君のためではなく、眼前の現実と、自らの家と家臣団の存続を最優先に考えた結果であった可能性が高い。
第三章:北国からの嵐 ― 前田・上杉連合軍、関東侵攻の軌跡
第一節:北方方面軍の編成
武蔵松山城の運命を直接左右することになるのが、豊臣軍の北方方面軍であった。この軍団は、豊臣政権の重鎮である前田利家と、かつて関東に威名を轟かせた上杉謙信の後継者・上杉景勝という二人の大物を総大将格として戴いていた 2 。彼らの下には、「表裏比興の者」として知られる稀代の謀将・真田昌幸、信濃の名族・小笠原貞慶、徳川家康の与力大名であった依田康国(松平康国)など、北陸・信濃の錚々たる猛者たちが集結していた 2 。その総兵力は、3万5千。松山城の籠城兵の15倍以上という、圧倒的な兵力であった 7 。
第二節:上野国制圧戦
天正18年3月、北方方面軍は碓氷峠を越え、後北条氏の領国・上野国へと雪崩れ込んだ。彼らの進軍は、まさに破竹の勢いであった。その軌跡は、後北条氏の支城ネットワークがいかに迅速に解体されていったかを如実に物語っている。
表1:小田原征伐・北方方面軍の進軍年表(上野~武蔵北部)
日付(天正18年) |
場所・城名 |
出来事 |
主要な攻城将 |
出典 |
3月15日 |
碓氷峠 |
松井田城の兵と交戦開始 |
前田利家、上杉景勝ら |
20 |
3月28日 |
松井田城 |
本格的な攻城戦を開始 |
前田利家、上杉景勝ら |
3 |
4月20日 |
松井田城 |
開城。城主・大道寺政繁は降伏 |
前田利家、上杉景勝ら |
3 |
4月24日 |
箕輪城・厩橋城 |
陥落または無血開城 |
前田利家、真田昌幸ら |
3 |
4月29日まで |
金山城・館林城 |
陥落または無血開城 |
(北方方面軍) |
20 |
5月3日 |
河越城 |
大道寺政繁の説得により不戦開城 |
前田利家 |
3 |
この年表が示すように、3月下旬に始まった上野国の攻略は、わずか1ヶ月ほどでほぼ完了した。上野の主要な城が次々と陥落、あるいは開城していく様は、周辺の北条方諸城に計り知れない衝撃を与えた。松山城の籠城兵たちが感じていたであろう絶望的な孤立感は、この圧倒的な進軍速度によって日々増幅されていったのである。
第三節:武蔵国への侵攻
上野国を完全に制圧した北方方面軍は、満を持して武蔵国へと南下を開始した。ここで特筆すべきは、豊臣方の巧みな調略である。4月20日に降伏したばかりの松井田城主・大道寺政繁は、すぐさま豊臣方に利用され、自らの本城である武蔵・河越城の説得に向かわされた 20 。主君からの説得という予期せぬ事態に、河越城の留守部隊は抵抗の術なく、5月3日、無血開城に至った 3 。
降将を巧みに利用して敵の戦意を内部から崩していくこの戦術は、豊臣方の得意とするところであった。武蔵国の北の玄関口ともいえる河越城が戦わずして陥落したという報は、その南に位置する松山城にとって、自らの運命を予感させるに十分な凶報であったに違いない。
第四章:静かなる攻防 ― 松山城包囲から開城までのリアルタイム分析
第一節:両軍の対峙
4月中旬、上野国から南下してきた北方方面軍の先鋒が、ついに武蔵松山城下にその姿を現した。城を包囲する豊臣軍と、城に立て籠もる北条軍。両軍の戦力差は、もはや勝敗を論じる以前の、絶望的なものであった。
表2:武蔵松山城攻囲戦 両軍戦力比較
項目 |
攻城軍(豊臣方) |
籠城軍(北条方) |
総兵力 |
約20,000~35,000名 7 |
約2,300名 16 |
総大将格 |
前田利家、上杉景勝 |
(城主不在) |
主要武将 |
真田昌幸、直江兼続ら |
城代:山田直安、金子家基、難波田憲次ら 16 |
士気・状況 |
破竹の勢いで連戦連勝。兵力・物量共に圧倒的。 |
周辺の支城が次々と陥落し、完全に孤立。援軍の見込みなし。 |
この表は、単なる兵力数を比較する以上の意味を持つ。籠城側に総大将たる城主が不在であること、そして周囲の状況から士気が著しく低下していたであろうことは、軍事的な劣勢以上に深刻な問題であった。松山城の開城は、戦闘による物理的な破壊の結果ではなく、戦略的・心理的に完全に追い詰められた末の、ある意味で合理的な政治判断であったことを、この状況は雄弁に物語っている。
第二節:開城を巡る「歴史の謎」 ― 4月16日説と5月20日説
武蔵松山城の開城に至る具体的な経緯、特にその日付については、史料によって記述が異なり、歴史上の小さな謎となっている。ここでは、主要な二つの説を提示し、それぞれの状況を再現する。
【説A】天正18年4月16日・不戦開城説
一つの史料群は、開城日を4月16日としている 21 。この説によれば、前田・上杉軍約2万の軍勢に包囲された松山城は、本格的な戦闘を行うことなく開城したとされる。
この説に基づき状況を再現すると、以下のようになる。4月中旬、上野国をほぼ制圧し終えた前田・上杉軍の先鋒部隊が松山城下に到達。市野川を挟んで布陣し、城を完全に包囲する。攻城軍は、圧倒的な兵力を背景に降伏を勧告。城内では、城代・山田直安ら首脳部が評定を開く。すでに上野の諸城が陥落した報は届いており、小田原の本城からの援軍が来る見込みは万に一つもない。このまま籠城を続けても、城兵が犬死にするだけである。山田らは、城兵の助命を条件に降伏勧告を受け入れ、開城を決断する。これが4月16日の出来事であった、という流れである。なお、この際に城主の奥方であった祐姫が城兵の助命を願い、市野川に身を投げたという悲話も伝わるが、これは後世の創作である可能性が高い 22 。
【説B】天正18年5月20日・石田/真田軍による攻略説
一方、別の史料群では、松山城の陥落を5月20日とし、それを「石田三成、真田昌幸軍が攻略」したと記している 3 。
この説は、開城が1ヶ月以上遅れたことを示唆している。「攻略」という言葉からは、単なる無抵抗の開城ではなく、小規模な戦闘や威嚇攻撃があった可能性も読み取れる。また、攻城の主体が前田・上杉軍ではなく、石田・真田軍とされている点も大きな違いである。この場合、北方方面軍の主力が河越城の開城処理(5月3日)や、次の目標である鉢形城攻囲の準備(5月14日開始)を進める間、後続部隊、あるいは関東諸城の戦後処理を担当する部隊として石田三成や真田昌幸が松山城の担当となり、最終的な接収を完了させたのが5月20日であった、という解釈が可能となる。
第三節:専門家による考察 ― 二つの日付の間に何があったのか
これら二つの日付は、一見すると矛盾しているように思われるが、松山城の開城が単一の時点における出来事ではなく、段階的なプロセスであったと仮定することで、合理的な整合性を見出すことが可能となる。
最も整合性の高いシナリオは、以下のような多段階のプロセスであったと考えられる。
-
フェーズ1:降伏合意(4月中旬)
前田・上杉軍の先鋒が松山城に到達し、降伏を勧告。城代・山田直安らは、これ以上の抵抗は無意味と判断し、城兵の助命を条件に降伏に合意する。この「戦闘意思の喪失」と「降伏の基本合意」がなされた時点が、4月16日であった。これは、事実上の「不戦開城」であり、21や21の記述と合致する。 -
フェーズ2:主力の転進と待機(4月下旬~5月中旬)
降伏の合意を得たことで、前田・上杉軍の主力は、より重要な戦略目標である鉢形城方面へと転進、あるいはその準備に入る。松山城は武装解除された状態で、豊臣方の正式な接収部隊の到着を待つことになる。 -
フェーズ3:公式な接収完了(5月20日前後)
後続部隊として、あるいは関東諸城の戦後処理を担う部隊として、石田三成・真田昌幸らが松山城に到着。城の正式な接収、武装解除の確認、城兵の処遇の最終決定といった実務的な処理を完了させる。この、豊臣方による城の完全な管理下への移行が完了した公式な日付が5月20日であり、後世の記録ではこの最終的な接収行為を指して「攻略」と記したのではないか 3。
このように、開城プロセスを「降伏合意」と「公式接収」の二段階で捉えることにより、二つの日付は矛盾なく一つの連続した出来事として理解することができる。松山城は4月中旬にはすでに戦意を失い、豊臣方に恭順していたが、その最終的な処理が完了したのが5月下旬であった、というのがこの歴史の謎に対する最も合理的な解答であろう。
第五章:落城の波紋 ― 一つの城の陥落が戦局に与えた影響
第一節:北武蔵防衛線の崩壊
武蔵松山城が戦わずして開城したことは、後北条氏の北武蔵における防衛計画に致命的な打撃を与えた。ほぼ時を同じくして河越城も無血開城しており、これにより、利根川と荒川を結ぶ防衛ラインは完全に崩壊した。
この結果、北条一門随一の猛将と謳われた北条氏邦が守る鉢形城は、西と南からの脅威に直接晒されることになり、戦略的に完全に孤立した 3 。松山城が時間稼ぎの抵抗すらしなかったことで、北方方面軍は消耗することなく、その全戦力を鉢形城攻囲に集中させることが可能となった。5月14日から始まった鉢形城攻囲戦は、約1ヶ月後の6月14日に氏邦の降伏によって終結するが、松山城の早期開城がなければ、その結末はもう少し違ったものになっていたかもしれない。一つの城の「戦わぬ」という決断が、隣接する城の運命を決定づけたのである。
第二節:昨日の敵は今日の友 ― 金子家基、八王子城攻めへ
松山城の開城がもたらした影響の中で、最も劇的かつ象徴的なのが、籠城していた武将・金子家基のその後の動向である。
降伏した金子家基は、驚くべきことに、すぐさま豊臣方に組み込まれた。そして、上杉景勝の重臣・直江兼続が率いる部隊の先鋒として、6月23日に行われた八王子城攻めに参加したのである 17 。八王子城は、彼の旧主筋にあたる北条氏照の居城であり、そこには数週間前まで味方であったはずの北条方の将兵が立て籠もっていた。金子家基は、自らの生き残りと新たな主君への忠誠を示すため、かつての同胞に刃を向けるという過酷な選択を迫られた。八王子城の攻防戦において、彼の名を冠した「金子曲輪」で激しい戦闘が繰り広げられたと伝わっており、その戦いは彼の転身の壮絶さを物語っている 23 。
この金子家基の行動は、単なる個人の裏切りとして片付けられる問題ではない。それは、戦国武士の極めて現実的な処世術であると同時に、豊臣政権の巧みな対敵懐柔策の成功例でもあった。豊臣方にとって、降将をすぐさま自軍の先鋒として用いることには、いくつもの利点があった。第一に、敵の内部事情や城の弱点を知る者を利用できる。第二に、「北条を見限っても、実力次第で我々は受け入れる」という強力なメッセージとなり、他の支城の降伏を促す心理的効果がある。そして何よりも、敵の戦力を削ぎ、自軍の戦力として即座に転用できる。金子家基の八王子城攻めへの参加は、秀吉の天下統一戦争が、旧来の主従関係や地域的な忠誠を解体し、実力と結果を重んじる新しい秩序へと日本社会を再編成していく、そのダイナミックな過程を象徴する出来事であった。
第六章:歴史的考察 ― 松山城攻囲戦が戦国史に刻んだもの
第一節:戦わずして勝つ ― 秀吉の戦争
武蔵松山城の「不戦開城」は、小田原征伐という戦役全体を象徴する出来事の一つであった。この戦役において、豊臣方は多くの城を、戦闘ではなく、圧倒的な物量による包囲、巧みな心理戦、そして降伏者を積極的に受け入れる柔軟な政治戦略によって手に入れた。
それは、敵を殲滅することだけを目的とするのではなく、戦う前に敵の戦意を喪失させ、自らの秩序の中に組み込んでいくという、豊臣秀吉の「新しい戦争」の在り方そのものであった。松山城の将兵は、武力によって屈服させられたのではなく、抵抗することがもはや合理的ではないと判断させられたのである。この「戦わずして勝つ」という思想こそが、秀吉が短期間で天下統一を成し遂げ得た最大の要因であった。
第二節:支城網戦略の限界と終焉
松山城をはじめとする北条支城群のあっけないほどの崩壊は、戦国時代を通じて有効とされてきた防衛戦略が一つの時代の終わりを迎えたことを示している。個々の城を拠点とし、それらを連携させて敵の侵攻を食い止めるという後北条氏の「支城ネットワーク戦略」は、天下統一規模の巨大な軍事力と、多方面から同時侵攻するという新しい戦術の前には、もはや通用しなかった。
この事実は、一つの地域勢力が独立性を保ち得た時代の終わりを意味する。これ以降、日本の軍事と政治は、個々の城を単位とする地域防衛から、中央集権的な権力の下で全国規模の動員を可能とする体制へと大きく移行していく。松山城の静かなる開城は、戦国という時代の幕引きを告げる、一つの象徴的な鐘の音であった。
第三節:その後の松山城
天下統一が成り、関東が徳川家康の支配下に入ると、武蔵松山城には家康の家臣である松平家広が1万石で入城した 11 。しかし、平和な時代の到来と共に、かつて戦略的要衝として激しい争奪戦の舞台となった城の軍事的価値は急速に失われていく。慶長6年(1601年)、城主の松平氏が浜松へ転封されると、松山城はその役目を終え、廃城となった 9 。
戦国の世と共に生まれ、その終焉と共に歴史の舞台から姿を消した武蔵松山城。その城跡は今、静かに佇み、天下統一という巨大な歴史のうねりの中で、一つの城と、そこに生きた人々が下した決断の重みを我々に語りかけている。
引用文献
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- 小田原征伐(小田原攻め、小田原の役) | 小田原城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/25/memo/2719.html
- 超入門!お城セミナー 第63回【武将】北条氏の小田原城はなぜ ... https://shirobito.jp/article/763
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- <小田原北条氏の防衛戦(その26)> 壮絶! 八王子城の戦い(その4 金子曲輪、四段石垣、山王台) - 歴史ぶらり1人旅 https://rekikakkun.hatenablog.com/entry/2025/01/18/151113
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