槇島城の戦い(1573)
槇島城の戦い(元亀四年)-室町幕府、最後の刻-
序章:時代の転換点
元亀四年(1573年)は、日本の歴史が大きく舵を切った、まさに時代の転換点であった。この年の四月、東国に覇を唱え、天下に最も近いと目された甲斐の武田信玄が西上作戦の途上で病没した 1 。そして、そのわずか三ヶ月後の七月、織田信長は、かつて自らが擁立した室町幕府第十五代将軍・足利義昭を京都から追放する。この「槇島城の戦い」と呼ばれる一連の軍事行動は、単なる一地方の合戦ではない。それは、足利尊氏以来、約240年にわたって武家社会の頂点に君臨してきた室町幕府という旧来の権威が、織田信長という新たな時代の覇者の武力によって完全に無力化され、その歴史的役割に終止符を打たれた画期的な出来事であった 1 。
本報告書は、この槇島城の戦いを、単なる軍事衝突としてではなく、政治的、象徴的な意味合いを色濃く持つ「時代の儀式」として捉え直すことを目的とする。合戦に至るまでの織田信長と将軍義昭の政治的対立の深化、信長包囲網の形成と瓦解、合戦そのものの詳細な時系列、そしてこの戦いがもたらした歴史的影響までを多角的に、かつ深く掘り下げ、室町幕府終焉の真実に迫るものである。
第一部:破局への道程 -信長と将軍義昭、蜜月から対立へ-
かつては手を取り合って上洛を果たした織田信長と足利義昭。しかし、その協調関係は長くは続かなかった。両者の関係がなぜ修復不可能な対立へと至ったのか、その根源には、互いの利害と思惑、そして国家のあり方を巡る根本的な思想の相違が存在した。
第一章:虚構の協調関係
永禄十一年(1568年)、織田信長は流浪の身であった足利義昭を奉じて上洛を果たし、彼を第十五代将軍の座に就けた 2 。この時点において、両者は互いにとって不可欠な存在であった。義昭は、兄である十三代将軍・義輝を暗殺した三好三人衆らを打倒し、将軍職を継承するために信長の圧倒的な軍事力を必要とした 5 。一方、尾張の一大名に過ぎなかった信長にとって、足利将軍家という伝統的な権威を擁することは、自身の上洛と天下への介入を正当化し、諸大名に号令するための絶好の大義名分となった 4 。両者の関係は、当初から幕府再興への忠誠心といった理想ではなく、互いの政治的計算に基づく、いわば「虚構の協調関係」だったのである。
しかし、この蜜月は長くは続かない。将軍となった義昭は、室町幕府の伝統的な支配体制を再興すべく、独自の政治行動を開始する 6 。彼は諸大名に直接御内書(命令書)を発するなど、将軍としての権威を確立しようと試みた。これは、将軍を自らの天下布武の道具と見なす信長にとっては、到底容認できるものではなかった 4 。
亀裂が顕在化したのは、永禄十二年(1569年)正月に信長が義昭に提示した「殿中御掟」九ヶ条、さらに翌年正月の「五ヶ条条書」(殿中御掟追加五ヶ条)であった 2 。これらの条書は、「諸大名への命令は信長の同意を得ること」「天下のことは信長に任された以上、義昭がいちいち口を挟まないこと」など、将軍の権限を著しく制限し、事実上、信長の傀儡とすることを狙ったものであった 6 。将軍としての誇りを深く傷つけられた義昭の不信感は、この時点で決定的なものとなった。
両者の対立は、単なる個人的な感情のもつれや権力闘争に留まるものではない。その根底には、国家のあり方を巡る根本的な思想の対立があった。義昭が目指したのは、あくまでも将軍を頂点とする伝統的な封建秩序の再興であった 6 。彼にとって、信長は幕府に仕える有力な家臣の一人に過ぎなかった。対照的に、信長は既存の権威に固執せず、実力主義で新たな秩序を構築しようとしていた。彼が志向したのは、将軍の権威すらも自らの支配下に置く、武力に基づいた強力な中央集権体制であった。この相容れない二つの国家観が衝突することは、歴史の必然であったと言えよう。槇島城の戦いは、その必然が現実となった瞬間だったのである。
第二章:信長包囲網 ― 将軍の権威、最後の煌めき
信長との直接対決が避けられないと悟った義昭は、もはや自身が持たない軍事力に代わる、唯一にして最大の武器を行使する。それは「将軍の権威」であった。義昭は、将軍として全国の大名に御内書を送り、反信長の旗の下に結集するよう呼びかけたのである 10 。
この呼びかけに、信長の急激な勢力拡大に脅威を感じていた各地の有力大名が呼応した。東からは甲斐の武田信玄、北からは越前の朝倉義景と北近江の浅井長政、西からは三好三人衆、そして畿内では強大な宗教勢力である石山本願寺や比叡山延暦寺などが加わり、信長を四方から包囲する一大連合「信長包囲網」が形成された 2 。これは、流浪の身から将軍へと返り咲いた義昭の外交手腕と、未だ衰えぬ足利将軍家の権威が、最後の輝きを放った瞬間であった。
この危機的状況に対し、信長もまた政治的な手段で対抗する。元亀三年(1572年)九月、信長は義昭の失政や将軍として不適格な点を十七ヶ条にわたって列挙した「異見十七カ条」を義昭に突きつけ、同時にこれを世間に公表した 6 。その内容は、義昭の人格を否定するような項目まで含む辛辣なものであり、義昭のプライドをズタズタにした 7 。これは単なる非難ではなく、将軍義昭を討伐する大義名分を世論に訴えかけ、自らの行動を正当化するための、高度な政治的プロパガンダであった。両者の関係は完全に破綻し、武力衝突はもはや時間の問題となった。
第三章:巨星墜つ ― 武田信玄の死と包囲網の瓦解
信長包囲網の中でも、その軍事的中核を担っていたのが武田信玄であった。元亀三年(1572年)十月、信玄は遂に西上作戦を開始。同年十二月の三方ヶ原の戦いにおいて、信長の盟友である徳川家康の軍を壊滅的な敗北に追い込んだ 10 。この知らせは、義昭をはじめとする反信長勢力を大いに勇気づけた。「信長もはやこれまで」と考えた義昭は、この機を逃さず、元亀四年(1573年)二月、近江の石山・今堅田に兵を入れるなど、反信長の立場を鮮明にし、事実上の挙兵に踏み切った 4 。
しかし、歴史の歯車は義昭の思惑通りには回転しなかった。最大の頼みであった信玄が、翌四月十二日、進軍の途上の信濃駒場にて病死するという激震が走る 1 。信玄の死は武田家によって秘匿されたが、西上作戦は中止され、武田軍は本国である甲斐へ撤退した 1 。これにより、信長包囲網はその要を失い、事実上崩壊したのである。
この決定的な情勢の変化を、義昭は正確に把握できていなかった。あるいは、一度振り上げた拳を下ろすことができなかった。信玄の死から三ヶ月近くが経過した七月三日、義昭はなおも信長との対決姿勢を崩さず、槇島城に籠って再挙兵するという致命的な判断を下す 1 。一説には、この時点でも義昭のもとには信玄死去の報が届いていなかったとも言われる 4 。信長がこの情報をいち早く掴み、次なる手を打っていたのに対し、義昭は情勢から完全に取り残されていた。この情報戦における完敗が、戦いの火蓋が切られる前から、すでに両者の勝敗を決定づけていたのである。
第二部:戦いの実相 ― 元亀四年七月、歴史が動いた16日間-
信玄の死によって最大の脅威が去った信長にとって、将軍義昭の再挙兵は、もはや脅威ではなく、畿内における最後の抵抗勢力を一掃する絶好の機会であった。義昭が決起してから、彼が槇島城を追われるまでの約二週間、歴史はめまぐるしく動いた。
槇島城の戦い 主要時系列表
日付(元亀4年) |
織田信長軍の動向 |
足利義昭軍の動向 |
備考 |
7月2日 |
(岐阜に在城) |
二条御所を出立、槇島城へ入城 |
籠城戦の準備を開始。 |
7月3日 |
|
槇島城にて正式に挙兵(兵力約3,700) |
信長との講和を破棄。 |
7月6日 |
岐阜より出陣、新造の大船で琵琶湖を渡り坂本へ上陸 |
籠城を継続 |
信長の神速の対応。 |
7月7日 |
入京し妙覚寺に布陣、ただちに二条御所を包囲 |
(二条御所の留守部隊が対応) |
義昭の支持勢力を分断。 |
7月12日 |
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三淵藤英が説得に応じ、二条御所を開城 |
京都における義昭の拠点が消滅。 |
7月16日 |
主力軍(7万)を槇島城へ派遣 |
籠城戦に備える |
圧倒的な兵力差が確定。 |
7月17日 |
信長、京を出陣し宇治・柳山に本陣を設置 |
|
|
7月18日 |
宇治川を渡河し、槇島城へ総攻撃。城を炎上させる |
短時間で抵抗不能となり、降伏を申し出る |
合戦の終結。 |
7月19日 |
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嫡男を人質に差し出し、槇島城を退去 |
河内若江城へ向かう。 |
7月28日 |
朝廷に働きかけ、「天正」へ改元 |
(河内へ移動中) |
新時代の到来を象徴的に宣言。 |
第一章:開戦前夜(7月2日~15日)
7月2日~3日:将軍、挙兵す。
七月二日、足利義昭は京都の居城であった二条御所を後にする。御所の守りには、異母兄である細川藤孝と袂を分かってまで将軍に忠誠を誓った三淵藤英や、政所執事の伊勢貞興らの腹心を残した 1。そして義昭自身は、幕府奉公衆であった真木島昭光の勧めに応じ、その居城である南山城の槇島城へと移った 1。翌三日、義昭は信長との講和を正式に破棄し、槇島城において挙兵した。その兵力は、僅か3,700余であったと記録されている 1。
義昭が最後の拠点として選んだ槇島城は、当時存在した巨大な湖沼・巨椋池と宇治川水系に囲まれた島の上に築かれた、天然の要害であった 1 。四方を水に守られたこの城に籠れば、いかに信長の大軍といえども容易には攻め寄せられまい。義昭は、この地政学的優位性に最後の望みを託したのである。
7月5日~7日:信長、神速の出陣。
義昭挙兵の報は、ただちに岐阜の信長のもとへ届けられた。信長の反応は驚くほど迅速であった。七月五日、信長は完成したばかりの大船の試運転を兼ね、翌六日には先陣を琵琶湖の対岸へと渡らせる 1。信長自身も同日、大船に乗り込み湖上を疾駆し、坂本に上陸。その夜は坂本で一泊すると、七日には早くも京へ入り、妙覚寺に本陣を構えた 1。岐阜から京都まで、通常ならば数日を要する道のりを、大船という当時の最新技術を駆使してわずか二日で踏破したのである。
この信長の驚異的な機動力は、単に軍事技術の優位性を示すものではない。それは、義昭が浅井・朝倉や本願寺といった他の反信長勢力と連携し、戦線を拡大する時間的猶予を完全に奪い去るための、計算され尽くした戦略的「兵器」であった。信長は、義昭を槇島城という一点に封じ込め、問題を局地化・短期化させることで、戦いが始まる前にすでに戦略レベルでの勝利をほぼ手中に収めていたのである。
7月8日~12日:前哨戦、二条御所の陥落。
京に入った信長は、まず義昭の京都における拠点であり、象徴でもある二条御所を大軍で完全に包囲した 1。信長の圧倒的な威勢を目の当たりにした公家や幕臣たちは戦意を喪失し、八日には次々と城を出て降伏した 1。最後まで城に立て籠もり抵抗の意志を示したのは、義昭の忠臣・三淵藤英ただ一人であった。しかし、孤立無援の状況では抗う術もなく、織田家の宿老・柴田勝家らの説得を受け入れ、十二日に二条御所は開城した 1。信長は、開城された御所の壮麗な殿舎を容赦なく破却させ、さらに諸人による略奪を禁じなかったという 1。これは、足利将軍の権威そのものを物理的に破壊し、その威光を徹底的に貶めるための、冷徹な政治的パフォーマンスであった。
第二章:決戦の刻(7月16日~18日)
7月16日~17日:大軍、宇治へ。
二条御所を制圧し、京都における義昭の支持基盤を完全に破壊した信長は、満を持して槇島城の攻略へと乗り出す。七月十六日、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、佐久間信盛といった織田軍の主だった武将たちが率いる総勢7万ともいわれる大軍勢が、宇治へと派遣された 4。兵力において、義昭軍の約20倍という圧倒的な差であった。翌十七日、信長自身も京都を出陣し、宇治川を眼下に見下ろす五ヶ庄の柳山に本陣を構え、決戦の時を待った 1。
この戦いは、軍事的な合理性だけでは説明がつかない。3,700の兵が籠る城を攻めるのに、7万もの大軍、しかも織田軍のオールスターとも言うべき主力を総動員する必要はなかったはずである。これは、この戦いを見ているであろう畿内の諸勢力、そして全国の大名に対し、「将軍に味方する者の末路」と「信長に逆らうことの無意味さ」を天下に示すための、壮大な示威行動、すなわち「政治的パフォーマンス」であった。信長は、旧時代の権威を葬り去るこの儀式を、最大限に演出しようとしていたのである。
7月18日:室町幕府、最期の一日
歴史が大きく動いた七月十八日、その一日の詳細な経過は、戦国時代の終焉と新時代の黎明を鮮やかに描き出している。
午前9時~11時頃(巳の刻):宇治川渡河作戦。
織田軍の眼前に、梅雨の時期を経て水量を増した宇治川が激しく流れていた 1。その流れの速さに、兵たちは渡河を躊躇した。この時、『信長公記』は信長の様子を劇的に伝えている。信長は、「ぐずぐずと引き伸ばすようならば、自分が馬を乗り入れて先陣を切る」と全軍に檄を飛ばし、ただちに渡河を命じた 1。
信長の厳命一下、織田軍はかつての源平合戦の故事に倣い、二手に分かれて一斉に渡河を開始した 1 。
- 川上部隊(平等院方面): 稲葉一鉄を先陣に、斎藤利治、安藤守就といった美濃衆を中心とする部隊が、平等院の北東から川に乗り入れた 19 。
- 川下部隊(五ヶ庄方面): 佐久間信盛、柴田勝家、蜂屋頼隆、そして木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)ら、織田軍の中核をなす部隊が、信長の本陣に近い五ヶ庄から渡河したと推測される 1 。
大軍勢が鬨の声を上げながら川を押し渡る光景は、対岸の槇島城に籠る将軍の目には、抗いようのない時代の津波のように映ったことであろう。
昼過ぎ:総攻撃開始。
渡河を完了した織田軍は、しばし休息をとった後、隊列を整え、南の槇島城へと殺到した 1。これに対し、城内から一部の足軽部隊が打って出てきたが、佐久間信盛や蜂屋頼隆らが率いる部隊がこれを一蹴。わずかな抵抗も空しく、城兵は50名ほどが討ち取られ、算を乱して城内へと逃げ帰った 1。
午後:城、炎上。
城に殺到した織田軍は、力攻めと同時に、徹底した放火戦術を展開した。まず、城の周囲にある家々や田畑に次々と火を放ち、槇島一帯を焦土と化していく 1。黒煙が天を覆い、籠城する兵たちの心理的圧迫は計り知れないものがあった。続いて、兵士たちは城の外構を乗り破ると、城壁そのものに火を放った 1。義昭が難攻不落と頼んだ水城の防御機能も、圧倒的な兵力による飽和攻撃と、容赦のない火攻めの前には全くの無力であった 1。
夕刻:将軍、降伏。
四方から迫る7万の大軍、燃え盛る自らの居城、そして天を焦がす炎と煙。この地獄絵図を目の当たりにした足利義昭は、完全に戦意を喪失した。本城にも火の手が迫り、もはやこれまでと観念した義昭は、恐怖に駆られるまま、信長に使者を送り、講和を申し入れた 1。約240年続いた室町幕府の、事実上の終焉の瞬間であった。
第三章:落城後(7月19日~28日)
義昭からの降伏の申し入れに対し、信長は彼の生命を保証した。ただし、その条件として、当時まだ2歳であった嫡男・義尋を人質として差し出すことを要求した 1 。義昭はこれを受け入れ、翌七月十九日、焼け落ちた槇島城を後にした。信長は、木下藤吉郎に警護を命じ、義昭を彼の妹婿である三好義継が居城とする河内国の若江城へと送らせた 1 。しかし、その道中、一行は落ち武者狩りの一揆勢に襲撃され、将軍の御物(所持品)を奪われるという、最後の最後まで屈辱を味わうことになった 1 。
七月二十一日、信長は槇島城の戦後処理として城を細川昭元に預けると、京都へ凱旋した 1 。そして、この歴史的な勝利を締めくくる最後の仕上げとして、七月二十八日、朝廷に働きかけ、元号を「元亀」から「天正」へと改元させた 1 。
この「天正」への改元は、単なる暦の変更ではない。元号の制定は、本来、朝廷と幕府が密接に関わる、為政者の最高権能の象徴であった。信長は、これまで義昭の存在によって実現できなかった改元を、彼を追放した直後という絶好のタイミングで断行したのである 4 。これは、足利義昭という将軍、すなわち旧秩序の時代が終わり、織田信長自身が天下を治める新時代が始まったことを天下に布告する、極めて象徴的な政治的宣言であった。義昭の権威を完全に否定し、いまだ抵抗を続ける反信長勢力の士気を挫く 1 、まさに「天が正義を授けた時代」の幕開けを告げる号砲だったのである。
第三部:歴史的意義と後世への影響
槇島城の戦いは、日本の歴史の潮流を大きく変える分水嶺となった。この戦いの結果、旧来の権力構造は崩壊し、新たな時代が幕を開けたのである。
第一章:室町幕府の終焉 ― 「事実上の滅亡」とは何か
元亀四年(1573年)七月の足利義昭の京都追放は、一般的に「室町幕府の滅亡」とされている 23 。この出来事により、幕府は政治の中心地である京都を失い、中央政権としての実体を完全に喪失した 1 。約240年にわたり武家政権の頂点にあり続けた室町幕府は、この日をもって事実上、その歴史に幕を下ろしたのである。
しかし、「滅亡」という言葉の解釈には注意が必要である。義昭は信長によって将軍職を解任されたわけではなかった。彼は追放後も征夷大将軍の地位を保持し続け、毛利輝元らの庇護を受けながら備後国鞆(現在の広島県福山市)に拠点を構え、反信長活動を継続した 13 。この亡命政権は、後に「鞆幕府」とも称される 2 。義昭が正式に将軍職を朝廷に返上し、室町幕府が名実ともに消滅するのは、豊臣秀吉が天下人となった後の天正十六年(1588年)一月のことであった 23 。
したがって、「室町幕府の滅亡」は1573年という一点で完結した事件ではなく、より長いスパンで捉えるべきである。1573年の槇島城の戦いは「中央政権としての機能停止」であり、それが1588年の「将軍職の形式的消滅」に至る、段階的なプロセスの決定的な一歩であったと理解するのが最も正確であろう。
第二章:天下布武への道 ― 信長の権力確立
義昭の追放は、信長にとって計り知れない戦略的価値をもたらした。畿内における最大の抵抗勢力であり、反信長連合の「大義名分」そのものであった将軍を排除したことで、信長の権力基盤は盤石なものとなった 4 。
この勝利は、信長包囲網の残党を一掃するドミノ倒しの始まりであった。槇島城の戦いの直後、信長はその軍事力を間髪入れずに北へ転進させる。同年八月には越前の朝倉義景を、続く九月には北近江の浅井長政を、立て続けに滅ぼした 1 。
この一連の流れは、信長の戦略が質的に転換したことを示している。元亀年間を通じて、信長は四方を敵に囲まれ、常に存亡の危機に瀕する「防衛的」な戦いを強いられてきた 2 。しかし、武田信玄の死によって包囲網の「軍事的中核」が、そして義昭の追放によって「政治的正当性」が同時に消滅した。これにより、信長は初めて戦略的自由を獲得し、天下統一を具体的に推し進める「攻撃的」な戦略へと舵を切ることが可能となったのである。槇島城の戦いは、信長の「天下布武」が、守りから攻めへと転じる号砲であった。
第三章:「流れ公方」の執念と足利将軍家の終焉
京都を追われた義昭の後半生は、まさに執念の物語であった。彼は河内、堺、紀伊と流浪の旅を続けた後、最終的に毛利氏の勢力圏である備後国鞆に落ち着き、亡命政権「鞆幕府」を樹立した 13 。彼はここを拠点に、信長が本能寺の変で横死するまで、全国の反信長勢力に御内書を送り続け、幕府再興の夢を諦めることはなかった。
ここで一つの問いが浮かび上がる。なぜ信長は、これほどまでに抵抗した義昭を殺害せず、追放に留めたのか。これは、「将軍殺し」という最大の汚名を着ることを避けるための、信長ならではの高度な政治的判断であったと考えられる 4 。もし義昭を殺害すれば、それは新たな反信長の大義名分を敵に与えることになりかねない。むしろ、生かして追放することで、将軍の権威は地に堕ち、時間とともに無力化されていく。信長は、実利を得つつ政治的リスクを回避するという、最も合理的な選択をしたのである。
信長の死後、天下人となった豊臣秀吉の時代になると、義昭はついに京へ戻ることを許される。天正十六年(1588年)、彼は将軍職を辞して出家。秀吉から山城国槇島に一万石の所領を与えられ、前将軍として、また秀吉の話し相手である御伽衆として、貴人として遇されるという数奇な晩年を送った 28 。慶長二年(1597年)、義昭は波乱の生涯を閉じた。彼には明確な後継者がおらず、足利将軍家の直系は、ここに事実上断絶したのである 30 。
結論:槇島城の戦いが歴史に刻んだもの
元亀四年(1573年)の槇島城の戦いは、軍事的には7万対3,700という、勝敗が始まる前から決していた一方的な殲滅戦であった。しかし、その歴史的本質は、より深く、そして重大である。この戦いは、室町幕府という中世以来の「権威」が、織田信長という戦国の世が生んだ「武力」によって、白日の下にその無力さを暴かれ、歴史の舞台から葬り去られた、極めて象徴的な事件であった。
この戦いを経て、日本の権力構造は根底から変容した。将軍の権威に依存する旧来の秩序は完全に崩壊し、圧倒的な軍事力を背景とした新たな支配体制、すなわち力のみが正義となる「天下布武」の時代が本格的に幕を開けたのである。槇島城の戦いは、単なる一つの合戦の終結ではなく、中世という時代の終わりと、近世という新たな時代の始まりを告げる、日本史における重要な一里塚として、永遠に刻まれている。
引用文献
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- 信長を窮地に陥れた〈信長包囲網〉。将軍・足利義昭の策謀とふたつの幕府【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1015959
- [槇島城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/1806
- 【解説:信長の戦い】槇島城の戦い(1573、京都府宇治市) 足利義昭が挙兵もあえなく敗退、室町幕府は事実上滅亡。 https://sengoku-his.com/480
- 足利義昭は何をした人?「信長包囲網で対抗したが室町幕府さいごの将軍になった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshiaki-ashikaga
- 偉人・敗北からの教訓 第43回「シリーズ信長③ 信長と足利義昭・擁立した将軍の追放」 https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_43/
- 良好な関係だった織田信長と15代将軍義昭はどうして不仲になったのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/815
- 織田信長は、なぜ 室町幕府をほろぼしたの https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026109040.pdf
- 利用されてもいいじゃない! 織田信長も殺さなかった足利義昭の「生き残り術」 | コラム 京都「人生がラク」になるイイ話 | PR会社 - TMオフィス https://www.tm-office.co.jp/column/20161114.html
- やっぱり無能?足利義昭はなぜ織田信長を裏切ったのか? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/ashikagayoshiaki-betrayal/
- 信長包囲網~足利義昭、室町幕府再興の夢 | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4728/image/0
- 足利義昭の戦略地図~室町幕府復権に執心し信長との政争に賭けた - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/1206/
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- 1573年 – 74年 信玄没、信長は窮地を脱出 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1573/
- 槇島城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%87%E5%B3%B6%E5%9F%8E
- 槇島城跡 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/makishimajo/
- 上京焼き討ち/ 槇島城の戦い。信長と将軍・義昭の戦い勃発。信長、京を焼く。 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=wSX3gOZOc3g
- あまり勝ちすぎると歴史に残らない・槇島城 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/6891/
- 織田信長に追放される足利義昭の悪あがき「槇島城の合戦」とは ... https://mag.japaaan.com/archives/207358/2
- Battle of MAKISHIMA Castle - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=wX6ezZlvBEI
- 元亀4年(1573)7月18日は再び信長に反旗を翻した将軍足利義昭が槇島城で降伏した日。2歳の息子・義尋を人質に出して降伏した。槇島城から退去した義昭は堺や紀伊を経て毛利氏を頼り備後国 - note https://note.com/ryobeokada/n/ne7b79bceeb4f
- 第15代将軍/足利義昭|ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/72425/
- 室町幕府 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C
- 室町幕府とは? 成立から滅亡までの流れや室町文化などを知ろう【親子で歴史を学ぶ】 - HugKum https://hugkum.sho.jp/420785
- 家康が謁見した最後の将軍・足利義昭が辿った生涯|室町幕府15代将軍【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1118207/2
- 史蹟 - 岐阜市 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/148/chapter_4_s.pdf
- 将軍・足利義昭の流浪の旅 ~信長に京を追放されてから亡命政権(鞆幕府)に落ち着くまで https://sengoku-his.com/841
- 足利義昭ってどんな人?織田信長が殺せなかった室町幕府のラスボスって本当? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/90307/
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- 足利将軍家のその後 - 日本実業出版社 https://www.njg.co.jp/column/column-34453/