最終更新日 2025-08-27

江戸城の戦い(1524)

大永四年の激震:江戸城易手と後北条氏関東制覇の序曲

序章:混沌の武蔵野 ― 合戦前夜の関東情勢

大永四年(1524年)に勃発した江戸城の戦いは、単発の軍事衝突として理解することはできない。それは、数十年にわたり関東地方で進行していた構造的な地殻変動が、一つの城をめぐって噴出した必然的な帰結であった。この戦いの背景には、新興勢力である後北条氏の野心、伝統的権威である両上杉家の内部対立と衰退、そして関東全体の秩序を司るべき古河公方家の機能不全という、三つの大きな潮流が複雑に絡み合っていた。

伊勢宗瑞(北条早雲)の遺産と二代目・氏綱の野望

戦国の梟雄として知られる伊勢宗瑞(後の北条早雲)は、一代にして伊豆・相模二国を平定し、小田原城を本拠とする後北条氏の礎を築いた。その跡を継いだ二代目当主・北条氏綱は、父の遺志を継承し、相模国を確固たる基盤として、次なる目標である武蔵国への勢力拡大を虎視眈々と狙っていた 1 。これは単なる領土的野心に留まらず、関東全体の覇権を掌握するための戦略的な一手であった。氏綱の視線の先には、武蔵国に広大な勢力圏を持つ扇谷上杉家、そしてその当主である上杉朝興の姿があった。

名門の落日:扇谷・山内両上杉家の対立と衰退

室町時代以来、関東管領の職を世襲し、関東に絶大な権威を誇ってきた上杉氏であったが、戦国期に入るとその力に陰りが見え始めていた。本家である山内上杉家と、分家である扇谷上杉家は、長年にわたる「長享の乱」をはじめとする内紛を繰り返し、互いにその力を削ぎ合っていた。特に、扇谷上杉家の執事として江戸城を築城し、比類なき軍事的才能を発揮した太田道灌が、主君・上杉定正によって謀殺されるという事件は、扇谷上杉家の軍事力を内側から崩壊させ、両上杉家の亀裂を決定的なものにした 2 。この内部抗争は、関東の政治的安定を著しく損ない、後北条氏のような新興勢力が台頭する土壌を育むことになった。

古河公方家の内紛と合従連衡の流動化

関東の最高権威であったはずの古河公方家もまた、足利高基とその弟・義明の間で後継者争いが生じ、その権威は失墜していた 1 。この内紛は関東の諸勢力を二分し、合従連衡を極めて流動的なものにした。当初、扇谷上杉朝興と北条氏綱は、義明(後の小弓公方)を支持するという名目の下で、高基を支持する山内上杉家に対抗する、いわば同盟関係にあった 1

しかし、この協力関係は長くは続かなかった。大永三年(1523年)頃から、朝興は急速に勢力を拡大する北条氏綱に強い警戒感を抱き始め、長年の宿敵であった山内上杉家との和睦へと舵を切る 1 。これは、旧来の権威である山内上杉家と手を結ぶことで、新たな脅威である後北条氏に対抗しようとする戦略的判断であった。だが、この外交方針の劇的な転換は、それまでの同盟者であった氏綱にとって許しがたい裏切り行為と映った。そしてそれは、氏綱に「裏切り者・朝興を討つ」という、またとない攻撃の口実を与えることになったのである。氏綱は、朝興が山内上杉家との新たな同盟関係を盤石なものとする前の、最も無防備な瞬間を狙い撃ちにする。したがって、1524年の衝突は、単純な領土紛争ではなく、関東における外交秩序が再編される過渡期に、氏綱が極めて鋭いタイミングで仕掛けた、戦略的な軍事行動であったと言える。

第一章:主役たちの肖像 ― 三者三様の思惑

この歴史的転換点の中心には、三人の主要な人物がいた。侵攻者・北条氏綱、守護者・上杉朝興、そして内通者・太田資高。彼らの立場、動機、そして人間性を深掘りすることで、合戦に至るまでの行動原理がより鮮明に浮かび上がる。

侵攻者:北条氏綱 ― 周到な調略と拡大戦略

北条氏綱は、父・宗瑞の現実主義的な領国経営と軍事思想を色濃く受け継ぎながら、それをさらに発展させた武将であった。彼の戦略の真骨頂は、単なる兵力の動員による正面衝突だけでなく、敵の内部を切り崩す「調略」にあった 1 。彼は、扇谷上杉家の家臣団に潜む不満や亀裂を的確に見抜き、時間をかけて内応工作を進めていた。その最大の標的こそが、江戸城代を務める太田資高であった。氏綱は、武力と謀略を両輪として駆使し、関東支配という壮大な目標に向かって着実に駒を進める、冷徹なリアリストであった。

守護者:上杉朝興 ― 伝統的権威の狭間で

扇谷上杉家の当主・上杉朝興は、その生涯を通じて困難な舵取りを迫られた人物であった。叔父であり養父でもあった上杉朝良から家督を継いだものの、その継承過程は複雑であり、盤石な権力基盤を持っていたとは言い難い 5 。彼は、新興勢力である後北条氏の圧力と、本家である山内上杉家との長年の確執という二つの脅威に挟まれ、常に苦悩していた。彼が下した山内上杉家との和睦という決断は、後北条氏という新たな脅威から名門・扇谷上杉家を存続させるための、彼なりの最善手であった。しかし、その決断が結果的に氏綱の侵攻を招き、江戸城失陥という最悪の結果につながったことは、彼にとって大きな悲劇であった。

内通者:太田資高 ― 栄光と悲劇の血脈

江戸城を無血開城へと導いた太田資高の行動は、単なる裏切りとして片付けることはできない。彼の背景には、太田家が抱える栄光と悲劇の歴史があった。資高は、江戸城を築き、扇谷上杉家を支えた名将・太田道灌の孫である 2 。しかし、その祖父・道灌は、絶大な功績を上げたにもかかわらず、主君・上杉定正(朝興の先々代)の猜疑心によって謀殺されるという非業の死を遂げていた 2

この事件は、太田一族の心に、主家である扇谷上杉家に対する決して消えることのない不信感と、いつか自分たちも同じ運命を辿るのではないかという猜疑心を深く刻み込んだはずである。資高は、主家のために尽くしながら無残に殺された祖父の物語を聞かされて育ったであろう。その胸中には、主家への忠誠心と同時に、祖父の無念を晴らしたいという情念が渦巻いていたと想像に難くない。

北条氏綱は、この太田家が内包していた「構造的な不満」と「歴史的な確執」を的確に見抜き、そこを突いた。氏綱が資高に提示した所領安堵や、後に実現する娘との婚姻といった条件は、確かに魅力的であっただろう 8 。しかし、資高が内応を決断する最後のひと押しとなったのは、物質的な報酬以上に、この数十年来の宿怨を晴らすという、極めて情念的な動機であった可能性が高い。この内応劇は、氏綱の巧みな調略と、太田家が背負ってきた悲劇の歴史とが共鳴し合うことで成立した、必然の裏切りであったと解釈できる。

第二章:武蔵の要石 ― 江戸城の戦略的価値

なぜ北条氏綱は、武蔵国に数多ある城の中から、江戸城を最初の主要な攻略目標としたのか。その理由は、戦国期における江戸城が、地政学的、経済的、そして軍事的に比類なき重要性を有していたからに他ならない。

太田道灌の先見性

太田道灌がこの地に城を築いたのは、偶然ではない。江戸城は、武蔵野台地の東南端に位置し、東に広がる広大な低湿地帯と河口部を一望できる天然の要害であった 9 。この地形は、敵の侵攻ルートを限定させ、防御を極めて容易にする。道灌の築城は、この地の軍事的なポテンシャルを完全に見抜いた、卓越した先見性の賜物であった。

水運と陸運の結節点

江戸城の戦略的価値は、その防御力だけに留まらない。城の眼下に広がっていた日比谷入江は、当時の重要な物流ルートであった東京湾の最奥部に位置する天然の良港であった。これにより、江戸城は兵糧や武具といった軍需物資を集積し、関東各地へ輸送するための兵站拠点として、他の城の追随を許さない圧倒的な優位性を持っていた 9 。さらに、陸路においても鎌倉街道などが交差する交通の要衝であり、人・物・金が集まる経済の中心地となる潜在能力を秘めていた。

関東支配の橋頭堡

相模国を本拠とする後北条氏にとって、江戸城は武蔵国、さらには下総国方面へと侵攻するための絶対不可欠な「前進基地(橋頭堡)」であった 7 。この城を抑えることは、扇谷上杉家の本拠地である河越城(埼玉県川越市)と岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区)を地理的に分断し、武蔵国における上杉方の連携を断ち切る上で決定的な意味を持っていた。氏綱が一度手中に収めた江戸城を決して手放さなかったのは、この城が持つ戦略的価値を完璧に理解していたからに他ならない 9 。江戸城の支配は、武蔵国南部の支配を意味し、それは関東全体の支配へと繋がる第一歩だったのである。

第三章:高輪原の死闘 ― 合戦のリアルタイム・クロニクル

大永四年正月、関東の勢力図を塗り替える戦いの火蓋が切られた。外交交渉の決裂から、野戦での激突、そして城の陥落まで、事態は驚くべき速さで展開した。以下に、その一連の流れを時系列に沿って再現する。

序盤(正月上旬):嵐の前の静けさ

  • 1月3日~10日: 上杉朝興は、主力を率いて本拠地である河越城に着陣していた。その目的は、長年の宿敵であった山内上杉家の当主・上杉憲房との和睦交渉をまとめるためであった 1 。この政治的決断は、後北条氏という新たな脅威に対抗するためのものであったが、結果として関東の最重要拠点である江戸城の守りを、城代の太田資高に一任する形となり、その守備は事実上手薄となった。
  • 1月11日~12日: 北条氏綱はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼の軍勢は迅速に相模国を発ち、武蔵国へと侵攻、江戸城にほど近い品川周辺に進出した 2 。その際、氏綱は進軍路に位置する妙国寺や本光寺といった寺社に対し、軍勢による「濫妨狼藉」を固く禁じる禁制を発給している 11 。これは、無用な略奪行為による人心の離反を防ぎ、軍規を徹底しようとする氏綱の周到さを示す貴重な史料であり、合戦前夜の緊迫した空気を今に伝えている。この時点で、太田資高との内応に関する最終的な密約が交わされていたとみられる。

激突(正月十三日):高輪原の決戦

  • 午前: 主君・朝興が不在の江戸城に、北条軍接近の急報がもたらされる。河越城から急遽引き返した朝興は、籠城という選択肢を退けた。彼は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり(城に籠って敵を迎え撃つのは、武将の戦術とは言えない)」と述べ、城を出て野戦で敵を迎え撃つことを決断する 5 。そして、自ら軍を率いて高輪原(現在の東京都港区高輪台付近)に進出した。
  • 正午~午後: 高輪原の地で、北条・上杉両軍が激突した。兵力は一万から二万と推定される北条軍が優勢であったとみられるが、上杉軍も名門の意地を見せて奮戦し、戦況は一進一退の死闘となった 12 。記録によれば、両軍が「七、八度も揉み合った」とされ、その激戦のほどが窺える 1
  • 午後遅く: 膠着状態が続く中、戦況を動かしたのは氏綱の巧みな用兵であった。彼は、かねてより準備していた別動隊を麻布方面から大きく迂回させ、上杉軍の側面を突く挟撃作戦を実行した 12 。不意を突かれた上杉軍の戦線は、これをきっかけに崩壊を始める。この戦いでは、上杉方として参陣していた渋谷城の渋谷氏なども敗れ、一族が滅亡したと伝えられている 12

決着(正月十三日夜):追撃、そして無血開城

  • 夜: 側面を突かれ総崩れとなった上杉軍は、江戸城を目指して敗走する。しかし、城に戻ってもはや支えきれないと判断した朝興は、城を放棄して脱出、本拠地である河越城へと落ち延びていった。北条軍は夜陰に乗じて執拗な追撃を行い、その一部は板橋付近まで達したという 12
  • 時を同じくして、江戸城内では決定的な事態が進行していた。城代・太田資高が、かねての密約通り北条軍に内応し、城門を開放したのである。これにより、太田道灌以来、難攻不落の名城と謳われた江戸城は、一滴の血も流れることなく、その主を北条氏綱へと変えた 2
  • 勝利を収めた北条軍は、赤坂の一ツ木原に集結し、戦勝の証である鬨(かちどき)を三度あげたとされる 12 。それは、武蔵国南部の支配者が交代し、関東に新たな時代が到来したことを告げる鬨の声であった。

表1:高輪原の戦い 両軍勢力比較表

項目

北条軍

上杉軍

総大将

北条氏綱

上杉朝興

主要武将

(推定) 北条綱成、多目元忠など

(推定) 上杉朝定、難波田憲重など

推定兵力

一万~二万

(北条軍より劣勢)

布陣・戦術

本隊による正面攻撃、別動隊による側面攻撃

野戦による迎撃


表2:大永四年正月 江戸城攻防タイムライン

日付

出来事

関連人物

史料・出典

1月3日

上杉朝興、山内上杉家との和睦交渉のため河越城へ移動開始

上杉朝興

1

1月10日

朝興、羽尾峯にて山内上杉憲房と和睦に合意

上杉朝興、上杉憲房

1

1月12日

北条氏綱、品川に進軍し、周辺寺社に禁制を発布

北条氏綱

11

1月13日 午前

両軍、高輪原にて野戦を開始

北条氏綱、上杉朝興

1

1月13日 午後

北条軍の別動隊が側面を突き、上杉軍の戦線が崩壊

-

12

1月13日 夜

朝興、江戸城を放棄し河越へ敗走。太田資高が内応し、江戸城は無血開城

上杉朝興、太田資高

2


第四章:新時代の幕明け ― 戦後の秩序形成

江戸城を手に入れた北条氏綱は、すぐさまこの戦略的要衝を自らの支配体制に組み込み、関東支配の礎とするための戦後処理に着手した。その手法は、軍事、人事、そして政略の全てにおいて、彼の周到さと先見性を示すものであった。

後北条氏による江戸城支配体制の構築

氏綱は、江戸城の支配を確立するにあたり、内応者である太田資高に全権を委ねることはしなかった。彼は、城代として重臣の遠山直景(史料によっては遠山四郎右衛門とも 13 )を、本丸には富永政辰といった譜代の家臣を配置し、城の中枢を直接的な支配下に置いた 8 。この人事からは、功労者である資高を信頼しつつも、城の軍事的な実権は決して手放さないという、氏綱の用心深さが窺える。

論功行賞と婚姻政策:太田資高の処遇

一方で、太田資高に対しては、破格の待遇で報いた。資高は江戸城攻略における最大の功労者として、江戸領内に2,000貫文にも及ぶ広大な所領を安堵された 8 。しかし、彼の居館は城の中枢部ではなく、祖父・道灌ゆかりの香月亭に据えられた 8 。これは、資高の名誉を重んじつつも、城の支配構造からは巧みに外すという、絶妙な処遇であった。

さらに氏綱は、享禄三年(1530年)までには、自らの娘である浄心院を資高に嫁がせ、後北条家と姻戚関係を結ばせた 8 。これは、資高を厚遇するだけでなく、婚姻という強固な絆によって完全に自陣営に取り込み、その動向を監視下に置くという、後北条氏が得意とする二重の支配戦略であった。資高の子・康資は氏綱の外孫となり、太田家は後北条家の一門に準ずる地位を得る一方で、その独立性は失われていった。

軍団「江戸衆」の編成と関東侵攻の加速

江戸城奪取が後北条氏にもたらした最大の成果は、この城を拠点とする直属軍団「江戸衆」を編成できたことであった 11 。後に編纂された後北条家の分限帳である『小田原衆所領役帳』によれば、江戸衆は後北条家が擁する数多の軍団の中で最大規模を誇り、その軍役高(動員兵力)は他の軍団を圧倒していた 11 。この強力な軍団の存在により、江戸城は単なる防衛拠点から、関東各地へ侵攻するための攻撃拠点へとその姿を変えた。事実、江戸城を確保した翌年の大永五年(1525年)には、氏綱はこの江戸衆を中核として太田資頼(資高の一族)が守る岩付城を攻め落とすなど、武蔵国平定戦を加速度的に進めていくことになる 7

上杉朝興の抵抗と戦線の泥沼化

江戸城を失った上杉朝興であったが、彼の闘志は尽きていなかった。彼は河越城に逃れた後、かつての宿敵であった山内上杉家や、甲斐国の武田信虎らと連携し、失地回復のための執念の抵抗を続けた 5 。大永五年(1525年)の白子原の戦いでは北条勢を破り、翌年には蕨城を奪回するなど、一時は反撃に成功する場面もあった 5 。しかし、関東支配の要である江戸城を奪回するには至らず、武蔵国を巡る戦いはその後約20年にもわたる泥沼の抗争へと突入していく。1524年の戦いは、終わりではなく、関東における新たな長期戦の始まりを告げるものであった。

結論:1524年が残した遺産

大永四年(1524年)の江戸城の戦いは、戦国時代の関東史において、一つの決定的な転換点として位置づけられる。この戦いが残した遺産は、単一の城の帰属変更に留まらず、関東全体のパワーバランスと、その後の歴史の流れそのものに不可逆的な影響を与えた。

後北条氏関東支配の礎石

この戦いは、後北条氏が相模国の一勢力から、関東の覇者へと飛躍する上で、最初の、そして最も重要な一歩であった。江戸城という、軍事的・経済的・地政学的な要衝を手に入れたことで、後北条氏は武蔵国への確固たる足掛かりを築いた。ここを拠点とする強力な軍団「江戸衆」の編成は、その後の関東平定戦における最大の原動力となった。この戦いの勝利がなければ、後の河越夜戦における大勝利も、約70年間にわたる後北条氏の関東支配も、その盤石な基礎を築くことはできなかったであろう。

権威から実力へ:パワーシフトの象徴

関東管領という室町幕府以来の伝統的権威を背景とする名門・上杉氏が、調略と実力でのし上がってきた新興勢力・後北条氏に、その中心拠点の一つを奪われたこの事件は、関東における時代の大きな転換を象徴する出来事であった。それは、血筋や家格といった旧来の「権威」が、純粋な軍事力と戦略という「実力」の前に屈した瞬間であり、関東が本格的な下剋上の時代に突入したことを内外に示した。

歴史のif:もし江戸城が落ちていなかったら

歴史に「もし」はないが、この戦いの重要性を理解するために、仮説を立てることは有益である。もしこの戦いで上杉朝興が勝利し、江戸城を保持していたならば、後北条氏の武蔵進出は大幅に遅れ、あるいは頓挫していた可能性が高い。そうなれば、扇谷上杉家が滅亡する河越夜戦の構図も全く異なるものになっていたであろう。さらに歴史を俯瞰すれば、後北条氏の関東支配が確立されなければ、豊臣秀吉による小田原征伐後の徳川家康の関東入府、そして江戸を本拠地とする江戸幕府の成立という、日本史の根幹をなす大きな流れさえも変わっていたかもしれない。1524年の高輪原に響いた鬨の声は、それほどまでに大きな歴史の分岐点を示す号砲だったのである。

引用文献

  1. 高輪原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%BC%AA%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  2. 江戸城の城主の変遷史 - 大江戸歴史散歩を楽しむ会 https://wako226.exblog.jp/15422605/
  3. 江戸城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kantou/edo.j/edo.j.html
  4. 【合戦解説】江戸城の戦い 北条 vs 扇谷上杉 〜 相模国 三浦氏を滅ぼし相模国主となった伊勢宗瑞であったが 宿敵両上杉を滅ぼすに至らずこの世を去った…その遺志は家督を継いだ嫡男 氏綱に受け継がれた〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=eTDyJm5NMa4
  5. 上杉朝興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%9C%9D%E8%88%88
  6. 上杉朝興 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/UesugiTomooki.html
  7. 【北条氏の武蔵侵攻】 - ADEAC https://adeac.jp/lib-city-tama/text-list/d100010/ht051050
  8. 太田資高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%B3%87%E9%AB%98
  9. 徳川家康が入部した頃の「江戸」はさびしい場所だった…はありえない!?江戸はいつから大都市になったのか - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/85763
  10. 秀吉の策略か? 家康の慧眼か?―徳川が江戸を本拠とした理由 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12009/
  11. 高輪原合戦 - 品川区 / しながわデジタルアーカイブ https://adeac.jp/shinagawa-city/texthtml/d000030/mp000070/ht000400
  12. 高縄原の激戦<高輪台> - Blog - Deep Azabu http://deepazabu.blogspot.com/2013/02/blog-post_19.html
  13. 【太田氏と後北条氏との対立】 - ADEAC https://adeac.jp/koshigaya-city-digital-archives/text-list/d000010/ht001210
  14. 北条氏綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E7%B6%B1