沖田畷の戦い(1584)
沖田畷の戦い(1584)— 九州の覇権を賭けた湿地の決戦:その全貌と歴史的意義
第一部:決戦への序曲 — 九州の地政学と発火点
天正12年(1584年)3月24日、肥前国島原半島で繰り広げられた沖田畷の戦いは、単なる一地方の合戦ではない。それは、戦国末期の九州における勢力図を決定的に塗り替え、やがては中央政権による全国統一の波をこの地に呼び込むことになる、歴史の分水嶺であった。この決戦の背景には、九州という舞台で繰り広げられた大友・龍造寺・島津という三つの強大な勢力による、熾烈な覇権争いが存在した。
1-1. 九州三強の角逐
天正6年(1578年)の日向国・耳川の戦いは、九州のパワーバランスを根底から覆す画期的な出来事であった。長年にわたり九州北部に覇を唱えてきた豊後のキリシタン大名・大友宗麟が、薩摩の島津義久に歴史的な大敗を喫したのである 1 。この敗戦により、大友家は多くの有能な将帥を失い、その権威は失墜。家臣団の離反も相次ぎ、かつての栄華は見る影もなく衰退の一途を辿った 3 。
この大友氏の弱体化によって生じた九州北部の「力の空白」は、二つの勢力の急伸を促した。一つは、耳川の戦いの勝者である島津氏。当主・島津義久は、弟の義弘、歳久、家久ら優秀な兄弟の補佐のもと、薩摩・大隅・日向の「三州統一」を成し遂げ、次なる目標として肥後国への北上を開始していた 4 。もう一つが、肥前の龍造寺隆信である。彼は大友氏が耳川で敗れた機を逃さず、その旧領を瞬く間に侵食し、肥前・肥後北部・筑前・筑後にまたがる広大な版図を築き上げていた 3 。
かくして天正10年代初頭の九州は、衰退する大友、北上する島津、そして西から勢力を拡大する龍造寺という、三強が角逐する時代へと突入した 7 。両者の勢力圏が肥後・筑後で直接接触するのはもはや時間の問題であり、九州の新たな覇者を決する全面対決は避けられない情勢となっていた。沖田畷の戦いは、この二大勢力が初めてその主力をぶつけ合う、事実上の前哨戦とも言うべき性格を帯びていたのである。
1-2. 「肥前の熊」龍造寺隆信
この戦いの一方の主役である龍造寺隆信は、戦国時代を象徴する下剋上大名の一人であった。もとは肥前の小領主・少弐氏の家臣に過ぎなかったが、主家を滅ぼし、一代で九州北部に巨大な勢力圏を築き上げた 8 。その勇猛果敢さと、敵対者や裏切り者には一切の情けをかけない非情さから、人々は彼を畏怖を込めて「肥前の熊」と呼んだ 9 。
彼の軍事的才覚は、元亀元年(1570年)の今山の戦いで、数で圧倒的に優る大友軍を夜襲によって打ち破るなど、疑いようのないものであった 11 。しかし、その統治は苛烈を極め、多くの遺恨を残した。特に、かつて自らが窮地に陥った際に庇護を受けた恩義があるにもかかわらず、筑後柳川の蒲池鎮漣を謀殺した一件は、彼の猜疑心と冷酷さを象arctypeするものであり、多くの国人衆の離反を招いた 10 。
さらに、その成功体験は次第に隆信を慢心させた。晩年には酒色に溺れ、肥満によって馬に乗れなくなり、戦場では六人担ぎの駕籠を必要とするほどであったという 13 。そして、耳に痛い諫言を呈する義弟の鍋島直茂を遠ざけるなど、かつての英明さは翳りを見せていた 15 。この恐怖による支配と、君主自身の慢心は、龍造寺家の支配基盤を内側から蝕んでおり、沖田畷における戦略的判断の誤りへと直結していくことになる。
1-3. 有馬晴信の離反
沖田畷の戦いの直接的な引き金となったのは、島原半島を治める領主・有馬晴信の離反であった 17 。有馬氏はかつて龍造寺氏の侵攻を受け、その軍門に下り、従属を余儀なくされていた 18 。しかし、天正8年(1580年)、晴信はキリスト教の洗礼を受け、敬虔なキリシタン大名としての道を歩み始める 18 。
この信仰が、彼の運命を大きく左右する。主君である龍造寺隆信はキリスト教に対して否定的な姿勢を取っており、宣教師たちからも敵視されていた 20 。龍造寺の圧政と、キリシタンとしての信仰的対立の狭間で、晴信は苦悩の末に龍造寺氏からの離反を決意する。そして、九州における新たな覇者として台頭著しい島津氏に、その活路を見出したのである。
天正12年(1584年)、晴信は龍造寺方の深江城を攻撃し、公然と反旗を翻した。そして、九州統一を目指す薩摩の島津義久に使者を送り、救援を要請したのである 18 。有馬晴信のこの行動は、単なる一領主の裏切り行為に留まらない。それは、九州の二大勢力である龍造寺と島津を、島原半島という限定された戦場へと引きずり込む、歴史の触媒となったのである。
1-4. 島津の応手
有馬からの救援要請を受け取った島津家では、意見が分かれた。龍造寺軍は5万を超える大軍と称されており、肥後方面でも阿蘇氏などとの戦線を抱える島津家にとって、大規模な援軍を島原に派遣することは国力を大きく疲弊させる危険な賭けであった 22 。重臣たちの間では慎重論が支配的であった。
しかし、当主・島津義久は、「武士は義を第一に重んじる。救援を求める者を見捨てることはできぬ」として、有馬への援軍派遣を断固として決断する 23 。この決断は、単なる義侠心からではなかった。ここで龍造寺の勢力拡大を食い止めなければ、いずれ薩摩本土が脅かされるという、九州全土を見据えた冷徹な戦略的判断が根底にあった。
この困難を極める遠征任務の指揮官として、自ら名乗りを上げたのが、義久の末弟であり、島津四兄弟の中でも特に軍略の才に長けた島津家久であった 23 。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが「きわめて優秀なカピタン(武将)」と評したほどの人物である 25 。家久は、わずか3,000の精兵を率いて島原へと渡海する。この絶望的とも思える兵力差の戦いに、島津家最高の戦術家を投入したという事実こそ、この戦いにおける島津方の最初の勝因であったと言えるだろう。
第二部:両雄、島原に会す — 布陣と戦略
天正12年3月、九州の覇権を賭けて、龍造寺隆信と島津家久は島原の地で対峙した。両軍の戦力には絶望的なまでの差があったが、その差を覆したのが、戦場の地形を最大限に活用した島津家久の卓越した戦略であった。開戦前夜、勝敗の天秤はすでに大きく傾いていたのである。
2-1. 両軍の兵力と構成
沖田畷の戦いにおける両軍の兵力は、戦国時代の合戦の常として、史料によって記述が異なる。しかし、龍造寺軍が圧倒的な大軍であったことは、全ての史料が一致して伝えている。
龍造寺軍の兵力については、主に三つの説が存在する。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記録では2万5,000 3 、佐賀藩の編纂した『北肥戦誌』では5万7,000 3 、そして薩摩方の記録では6万とされている 3 。フロイスの数字は、直接戦闘に参加した中核部隊の実数に近い可能性があり、一方で日本の軍記物は後方部隊や国人衆を含めた総動員数、あるいは自軍の威勢を誇示するための誇張が含まれていると考えられる。いずれにせよ、その軍勢は、龍造寺四天王(成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤ら)をはじめとする譜代の精鋭に加え、筑後などから動員された国人衆も含む、まさに九州最大級のものであった 3 。
対する島津・有馬連合軍の兵力は、島津軍が3,000 23 、有馬軍が3,000から5,000 3 、総勢でも6,000から8,000程度に過ぎなかった。兵力比にして、実に3分の1から10分の1という圧倒的な劣勢である。しかし、島津軍は木崎原の戦いなどで幾多の修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の精鋭であり、有馬軍は自領の防衛という地の利と高い士気を持っていた。数の龍造寺に対し、質の島津・有馬連合軍という構図であった。
表1:沖田畷の戦い 両軍戦力比較表
項目 |
島津・有馬連合軍 |
龍造寺軍 |
史料出典 |
総大将 |
島津家久、有馬晴信 |
龍造寺隆信 |
3 |
主要武将 |
新納忠元、伊集院忠棟 |
鍋島直茂、龍造寺四天王、江上家種 |
3 |
総兵力 |
約6,000〜8,000 |
約25,000〜60,000(諸説あり) |
3 |
兵装の特徴 |
弓を多用、少数の鉄砲、長い太刀、海上からの大砲 |
鉄砲を多用(1,000丁以上)、弓は少数、長槍 |
3 |
2-2. 決戦の地「沖田畷」
この圧倒的な兵力差を覆すべく、島津家久が戦術の核として選んだのが、「沖田畷」という特異な地形であった 23 。「畷(なわて)」とは、田圃の中の畦道や、湿地帯を貫く細長い道を指す言葉である 28 。当時の沖田畷は、有明海と眉山の間に広がる広大な湿地と深田地帯であり、その中を一本の狭い道が南北に通じているだけの、天然の隘路(あいろ)であった 17 。
家久はこの地形に勝機を見出した。大軍がその利点である横隊への展開を封じられ、縦に長く伸びた脆弱な隊列を組まざるを得ないこの場所は、龍造寺軍の数的優位を完全に無力化し、寡兵による各個撃破を可能にする、まさに天与の戦場であった。彼は物理的な地形と、敵将・隆信の慢心という心理的要因を読み解き、自軍の勝利確率が最大化される「戦場」そのものを設計したのである。彼の戦術は、単に兵を配置する「布陣」のレベルに留まらず、敵の行動を予測し、隘路への突撃という特定の行動へと誘導し、そこで必殺の罠を発動させるという、一連のプロセス全体をデザインする、高度なものであった。
2-3. 島津・有馬連合軍の布陣
家久の戦場設計思想は、その布陣に明確に現れていた。連合軍は、森岳城(現在の島原城の場所にあったとされる丘)を本陣とし、沖田畷の隘路の南端を塞ぐように大木戸(防柵)を幾重にも設置して、徹底的な防御態勢を敷いた 3 。そして、その防御陣地の内外に、必殺の罠を仕掛けたのである。
これこそが、島津家伝統の戦術「釣り野伏せ」の応用であった。
- 中央(釣り部隊): 大木戸の前面、つまり龍造寺軍の進撃路の正面に、赤星氏らごく少数の部隊を配置した。彼らの任務は、敵の大軍を隘路の奥深くへと誘い込む「釣り」の餌となることであった 3 。
- 側面(伏兵): 主力となる伏兵部隊は、隘路の両側面に潜ませた。新納忠元らが率いる1,000の兵は、西側の前山の山裾に息を潜め、龍造寺軍の側面を突く機を窺っていた 3 。
- 本隊(予備兵力): 島津家久が率いる主力部隊は、森岳城の背後に控え、戦況の推移を見極め、決定的な瞬間に投入される予備兵力としての役割を担った 21 。
- 海上の戦力: さらに、東側の有明海沿岸には、有馬氏の船団を待機させていた。これらの船には大砲が搭載されており、浜手を進むであろう龍造寺軍の別働隊に対し、海上から不意の側面攻撃を加えるという、陸海共同の立体的な作戦が準備されていた 21 。
2-4. 龍造寺軍の布陣と隆信の慢心
一方の龍造寺隆信は、戦場を所与のものとして捉え、自軍の圧倒的な兵力という単一の要素に依存した、極めて単純な作戦を採用した。それは、この沖田畷の隘路を正面から強行突破し、森岳城を一気に攻略するというものであった 3 。
軍は三隊に分けられ、中央の主力を隆信自らが率い、山手(西側)を鍋島直茂(当時の名は信生)、浜手(東側)を次男の江上家種と後藤家信が率いて、同時に南下を開始した 3 。
この作戦は、兵力差を考えれば合理的にも見えるが、沖田畷という地形の特異性を完全に無視したものであった。義弟であり重臣でもある鍋島直茂は、寡兵の島津軍がこのような隘路で待ち構えることの危険性を強く指摘し、無理な突撃を避け、持久戦に持ち込むべきだと諫言した。しかし、勝利を確信しきっていた隆信は、「何という貧弱な陣か」と敵を嘲笑い、この忠告に耳を貸すことはなかった 3 。彼の過去の成功体験が、この戦いにおける最大の思考的制約、すなわち自らを破滅へと導く「罠」となったのである。かくして龍造寺の大軍は、島津家久が周到に準備した罠の中へと、真正面から突き進んでいくことになった。
第三部:死闘の半日 — 沖田畷の戦い、時系列詳解
天正12年3月24日、夜明けと共に始まった龍造寺軍の進軍は、九州の歴史を塗り替える死闘の幕開けであった。午前8時から午後2時過ぎまでのわずか半日の間に、沖田畷の湿地は数千の将兵の血で染まり、九州の勢力図は劇的な変化を遂げることになる。
3-1. 午前8時頃(辰の刻):開戦
3月24日の未明に進軍を開始した龍造寺軍は、辰の刻(午前8時頃)、沖田畷の隘路の北端に到達し、眼前に布陣する島津・有馬連合軍の防御陣地への攻撃を開始した 3 。戦端を開いたのは、龍造寺軍が誇る1,000丁ともいわれる鉄砲隊の一斉射撃であった 22 。轟音と共に鉛玉の雨が降り注ぎ、戦場の空気を震わせた。
これに対し、隘路の入口で待ち構えていた島津方の「釣り」部隊は、しばらくの間、弓矢で応戦し、敵の攻撃を受け止める姿勢を見せた。しかし、これは全て島津家久の描いた脚本通りの演技であった。龍造寺軍の圧力が強まるのを見計らうと、彼らは計画通りに敗走を装い、後方の木戸(防柵)に向かって秩序だった退却を開始する 3 。
この光景を目の当たりにした龍造寺軍の先鋒は、敵が早くも崩れたと判断し、戦功を焦って勢い込み、追撃の鬨(とき)の声を上げた。龍造寺の大軍が、狭く危険な隘路の奥深くへと、自ら吸い込まれていく。島津家久が仕掛けた巨大な罠が、まさにその顎を閉じようと動き出した瞬間であった。
3-2. 午前10時頃:隘路の混乱
追撃に燃える龍造寺軍は、沖田畷の狭く足場の悪い道に殺到した。しかし、その進軍はすぐに停滞する。道幅が狭いため部隊は横に広がれず、左右は足を取られる深田や沼地であるため、思うように前進できない 13 。先頭集団が立ち往生する一方で、後方からは次々と部隊が押し寄せるため、隘路は兵で埋め尽くされ、前進も後退もままならない、身動きの取れない状態に陥ってしまった。
この戦況の膠着に、後方の本陣で指揮を執る龍造寺隆信は苛立ちを募らせた。彼は前線の様子を確かめるため、物見(伝令)として吉田清内なる者を派遣する 13 。しかし、この一人の伝令の行動が、龍造寺軍の運命を決定的にする。恐怖か、あるいは功名心からか、吉田清内は隆信の意図とは全く異なる偽りの命令を前線に伝達してしまう。「命を惜しまず攻めかかれ、これは大将の下知である」と 3 。
この虚偽の督戦命令を信じた前線の将兵たちは、もはや理性を失った。功を焦る者、大将の命令に逆らえぬと覚悟を決めた者たちが、左右の深田や沼地に次々と飛び込み、泥にまみれながらも前進しようと試みたのである 13 。だが、それは無謀な自殺行為に等しかった。兵士たちは鎧の重みでみるみるうちに泥濘に沈み込み、完全に動きを封じられてしまう。彼らは、これから始まる島津軍の殺戮の宴を待つ、格好の的となった。この時点で、龍造寺軍の命令系統は完全に崩壊し、組織的な戦闘能力を失っていた。
3-3. 正午頃:罠の発動
龍造寺軍が隘路で大混乱に陥り、その側面を無防備に晒した瞬間、島津家久は攻撃の合図を送った。西側の前山の山裾に息を潜めていた新納忠元率いる島津軍の伏兵が、一斉に鬨の声を上げて龍造寺軍の側面に襲いかかった 23 。身動きの取れない龍造寺軍の兵士たちに、側面から容赦なく矢と鉄砲玉が浴びせられる。泥に足を取られた兵士たちは、反撃することも、逃げることもできず、一方的に射殺されていった 34 。これこそが、島津家が数々の戦で勝利を収めてきた伝統の必殺戦術「釣り野伏せ」が、最も効果的に決まった瞬間であった 24 。
時を同じくして、東側の有明海でもう一つの罠が発動した。浜手を進軍していた江上家種率いる龍造寺軍の別働隊に対し、海岸で待機していた有馬の軍船から大砲が火を噴いたのである 31 。ルイス・フロイスの『日本史』は、この時の驚くべき情景を伝えている。専門の砲手が不在であったため、一人のアフリカ出身の黒人が弾を込め、インドのマラバル出身者が点火するという、国際色豊かなチームが見事に大砲を発射したというのだ 3 。予期せぬ海上からの砲撃という、当時の日本の合戦の常識を覆す攻撃に、龍造寺軍の浜手部隊は完全に不意を突かれ、大混乱に陥り敗走した。この戦場が、南蛮貿易を通じて世界と繋がる、グローバルな歴史の交差点であったことを示す象徴的な出来事である。
3-4. 午後2時頃(未の刻):総大将の最期
両側面からの攻撃と海上からの砲撃により、龍造寺軍の陣形は完全に崩壊。隆信のいる中央の本陣は、友軍から完全に切り離され、敵中に孤立した。肥満のため馬に乗れない隆信は、六人担ぎの山駕籠で指揮を執っていたが、この大混乱の中で駕籠から降り、床几(しょうぎ)に腰掛けていたと伝えられる 13 。
乱戦の中、一人の島津方の武将がこの床几に座る巨漢の武者を発見する。島津家臣、川上忠堅であった。忠堅が配下の兵と共に突撃すると、駕籠の担ぎ手たちは槍で突かれて逃げ出し、隆信は一人その場に残された。忠堅は隆信に斬りかかり、遂にその首級を挙げた 18 。時に未の刻(午後2時頃)、“肥前の熊”と恐れられた猛将は、湿地の中でその生涯を閉じた。享年56であった 13 。
後世の軍記物によれば、討たれる瞬間、隆信は「紅炉上(こうろじょう)一点の雪」と述べたとされる 10 。これは、燃え盛る炉の上の雪が一瞬で消え去るように、全ての迷いが消え去り悟りの境地に至った、という意味の禅語である。しかし、これは敗軍の将の最期を美化するための脚色である可能性も否定できない。
隆信の周囲では、主君を守るべく龍造寺四天王の成松信勝 3 、百武賢兼 3 、そして隆信の身代わりとなって戦った円城寺信胤 36 らが、獅子奮迅の働きを見せるも次々と討ち死にしていった。また、重臣の江里口信常は、隆信の死を知ると、味方を装って単身島津本陣に乗り込み、敵将・家久に一太刀浴びせようとしたが露見し、討ち取られた。その壮絶な死に様は、敵である家久をして「無双の剛の者」と言わしめたという 37 。
3-5. 午後2時以降:潰走と撤退戦
総大将・龍造寺隆信の死が戦場に伝わると、龍造寺軍の士気は完全に崩壊し、統制を失った兵士たちは我先にと敗走を始めた 22 。しかし、隘路に密集していたため退路は塞がれ、後方から追撃する島津軍によって一方的に討ち取られていった。ルイス・フロイスの記録によれば、この戦いにおける龍造寺方の戦死者は2,000人超、負傷者は3,000人超にのぼった一方、島津・有馬連合軍の戦死者はわずか250人程度であったと記されており、その被害の甚大さが窺える 22 。
この地獄のような戦場で、唯一組織的な抵抗を続けたのが、山手を進んでいた鍋島直茂の部隊であった。本隊の壊滅を知った直茂は、一度は自害を覚悟するが、「殿が腹を切った後、我々はどうすればよいのですか」という家臣の必死の諫言に思いとどまり、残存兵力をまとめての決死の撤退戦を指揮する 21 。彼は巧みな采配で島津軍の追撃をかわし、夜陰に乗じて多比良の港から船を確保し、有明海を渡って辛くも本国への脱出に成功した 40 。この困難極まる撤退戦の成功が、崩壊した龍造寺家の命脈を辛うじて繋ぎ止め、後の鍋島氏の台頭への布石となるのである。
第四部:戦後の新秩序 — 九州史の転換点
沖田畷での半日の死闘は、九州の政治情勢に地殻変動とも言うべき変化をもたらした。それは単に龍造寺隆信という一個の戦国大名の死を意味するだけでなく、九州における勢力図の再編を決定づけ、最終的には中央の豊臣政権による大規模な軍事介入を招くという、より大きな歴史のうねりへと繋がっていく。
4-1. 龍造寺家の崩壊
この一戦で、龍造寺家は当主・隆信だけでなく、龍造寺四天王をはじめとする一門・譜代の重臣の多くを失った 3 。これは、組織の頭脳と神経系を同時に失うに等しい、致命的な打撃であった。
隆信の嫡男・龍造寺政家が家督を継承したものの、病弱で器量に乏しい彼に、この未曾有の国難を乗り切る力はなかった 15 。絶対的なカリスマであった隆信の死により龍造寺家の威信は地に墜ち、これまでその強大な武力に服していた筑前・筑後の国人衆は、堰を切ったように離反し、新たな勝者である島津氏へと次々になびいていった 18 。かつて「五州二島の太守」とまで称された肥前の一大勢力は、わずか半日の戦いを境に、崩壊の淵へと突き落とされたのである。
4-2. 鍋島直茂の台頭
この龍造寺家の存亡の危機において、救世主として、そして新たな実力者として台頭したのが、隆信の義弟・鍋島直茂であった。絶望的な撤退戦を成功させた彼は、帰国後、龍造寺家の事実上の後継者として、敗戦処理と対島津交渉の全権を担うことになる 15 。
直茂の政治手腕は、この時に遺憾なく発揮された。島津側が丁重に返還しようとした隆信の首級に対し、直茂は「主君の弔い合戦もせずして、その首を受け取ることなどできぬ」という名目で、受け取りを断固として拒否したのである 12 。この逸話には、隆信の母で女丈夫として知られた慶誾尼が主導したという説もある 41 。この行為は、単なる感情的な反発や虚勢ではない。それは、龍造寺家の戦意が未だ尽きていないことを内外に示し、島津側に安易な肥前侵攻を躊躇させると同時に、旧臣たちの結束を促すという、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。
その後、直茂は豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと、いち早くその実力を見抜き、恭順の意を示してその麾下に入った 15 。この卓越した政治感覚と交渉力によって、彼は龍造寺家の所領を安堵される。そして、無力な主君・政家に代わって国政の実権を完全に掌握し、最終的には主家である龍造寺家に取って代わり、近世大名・佐賀藩の藩祖となるのである 43 。沖田畷の敗戦は、龍造寺家にとっては滅亡の序曲であったが、鍋島直茂にとっては、自らが国主となるための最大の好機となった。彼は敗戦という負の遺産を、自らの政治的資本へと巧みに変換させたのである。
4-3. 島津氏の覇権確立
一方、勝者である島津氏にとって、沖田畷の勝利は九州制覇への道を大きく開くものであった。九州における最大のライバルであった龍造寺氏を事実上滅ぼしたことで、島津氏の勢力圏は肥前・筑前・筑後にまで及び、九州統一はもはや時間の問題かと思われた 23 。この勝利により、島津家は名実ともに対抗勢力のいない九州最大の勢力へと飛躍した 4 。
しかし、この島津氏の急激な勢力拡大こそが、新たな、そしてより強大な敵を呼び込むことになる。中央で天下統一を着々と進めていた豊臣秀吉である。九州が島津という一つの強力な勢力によって統一されることは、秀吉の天下統一事業にとって看過できない脅威であった。追いつめられた大友宗麟が秀吉に救援を求めたことを口実に、秀吉は天正14年(1586年)、遂に数十万と号する大軍を動員し、九州平定(九州征伐)へと乗り出す 4 。沖田畷における島津家の最大の勝利は、皮肉にも、戦国大名としての独立を終わらせる中央政権の介入を招く引き金となったのである。
4-4. 歴史的意義の総括
結論として、沖田畷の戦いは、戦国時代の九州史における最大の転換点の一つであったと評価できる。その歴史的意義は、以下の三点に集約される。
第一に、九州における戦国三強時代(大友・龍造寺・島津)の事実上の終焉を告げた点である。この戦いにより龍造寺家は脱落し、大友家もすでに衰亡しており、九州の情勢は島津一強の時代へと移行した。
第二に、肥前における支配者の交代を決定づけた点である。龍造寺家の崩壊と鍋島直茂の台頭は、この戦いを契機としており、その後の佐賀藩三百年の歴史の礎がここに築かれた。
そして第三に、最も重要な点として、島津氏による九州統一を目前にまで進めた結果、豊臣秀吉という中央政権による大規模な軍事介入を誘発した点である。この戦いは、あくまで九州という「地方」の論理で繰り広げられた最後の覇権争いであった。この戦いの後、九州は秀吉の「天下」の論理の中に組み込まれていく。その意味で、沖田畷の戦いは、島津家にとって最大の勝利であると同時に、戦国的な独立大名としての時代の終わりを告げる弔鐘でもあったと言えるだろう。
引用文献
- 島津義久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
- 島津の猛攻、大友の動揺、豊薩合戦をルイス・フロイス『日本史』より - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/07/131015
- 沖田畷の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%94%B0%E7%95%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 島津義久(しまずよしひさ) 拙者の履歴書 Vol.383~南九州統一に命を懸けた七十八年 - note https://note.com/digitaljokers/n/nd7e5791e9a98
- 島津義久の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/98845/
- 十六代 島津 義久(しまづ よしひさ) - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/shimadzu-yoshihisa/
- 宮帯出版社/商品詳細 戦国の肥前と龍造寺隆信 川副義敦 著 http://www.miyaobi.com/publishing/products/detail.php?product_id=943
- 薩摩島津氏-沖田畷の戦い- - harimaya.com http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_oki.html
- 肥前のクマー(大盛) - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n3942cp/
- 血で血を洗い抜いた非情さから「肥前の熊」が通り名となった西九州の武将【龍造寺隆信】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/38563
- 人物紹介(龍造寺家:成松信勝) | [PSP]戦極姫3~天下を切り裂く光と影~ オフィシャルWEBサイト https://www.ss-beta.co.jp/products/sengokuhime3_ps/char/ryuzouji_narimatsu.html
- 殿の首を受け取り拒否!? 戦国武将・龍造寺隆信の壮絶な最期…からの数奇な運命 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/258456/
- 龍造寺隆信~討ち死に後、その首はなぜ受け取りを拒否されたのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5278
- 龍造寺隆信は何をした人?「肥前の熊と恐れられ大躍進したが哀れな最後を遂げた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takanobu-ryuzoji
- 鍋島直茂は何をした人?「卓越した頭脳と手腕で当主に代わって ... https://busho.fun/person/naoshige-nabeshima
- 【漫画】龍造寺隆信の生涯~最も不名誉な最期を迎えた戦国大名~【日本史マンガ動画】 https://www.youtube.com/watch?v=QU3O_1b9-Cw
- 沖田畷の戦い~島津家の強さが発揮された龍造寺との決戦 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/1177/
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- 沖田畷古戦場跡 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_resource/okitanawatekosenjoato
- [合戦解説] 10分でわかる沖田畷の戦い 「九州の覇者は島津か龍造寺か」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=BmM4FWs4FC0
- 島原合戦(沖田畷の戦い)と阿蘇合戦/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(6) https://rekishikomugae.net/entry/2023/05/23/173421
- 島津家久、軍法戦術の妙~沖田畷、戸次川でみせた鮮やかな「釣り ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3975
- 島津家久は何をした人?「必殺の釣り野伏せ戦法で敵将をつぎつぎと討ち取った」ハナシ https://busho.fun/person/iehisa-shimadzu
- 島津家久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%AE%B6%E4%B9%85
- 【歴史if戦国史】もし島津が沖田畷の戦いで負けていたら?九州の勢力図はどう変わったのか https://www.youtube.com/watch?v=FzLcPaNZqAk
- 【合戦解説】沖田畷の戦い 島津・有馬 vs 龍造寺 〜九州半分を領土とした島津と肥前から大友領を席巻する龍造寺。ついに九州一を決める戦いが始まる…〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=VyHw2AK6XdM&pp=0gcJCfwAo7VqN5tD
- 沖田畷古戦場跡・龍造寺隆信の墓 - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kyusyu/shimabara/shimabara.html/attachment/265_6507_img
- 沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート⑥【2018.10/27】: 佐賀の戦国史 http://sagasengoku.seesaa.net/article/463095928.html
- 天正12年(1584)3月24日は沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津家久軍に討たれた日。龍造寺軍は沼地・深田のあぜ道という畷の地形により大軍を活かせなかった。九州三強の一角を担っていた隆信の死は情勢を - note https://note.com/ryobeokada/n/n0bc7260d359d
- 沖田畷の戦いで龍造寺氏を破る - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/okitanawate-no-tatakai/
- 沖田畷の合戦 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Okitanawate.html
- 沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート⑨ - 佐賀の戦国史 http://sagasengoku.seesaa.net/article/464254761.html
- 九州の桶狭間『沖田畷の戦い』!龍造寺隆信が犯した3つのミスとは? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=f24R0ahYNWw&pp=ygUNI-iPiuaxoOS4gOaXjw%3D%3D
- 釣り野伏せ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E3%82%8A%E9%87%8E%E4%BC%8F%E3%81%9B
- 人物紹介(龍造寺家:円城寺胤) | [PSP]戦極姫3~天下を切り裂く光と影~ オフィシャルWEBサイト https://www.ss-beta.co.jp/products/sengokuhime3_ps/char/ryuzouji_enjouzi.html
- 【歴史の話をしよう】龍造寺四天王 http://naraku.or-hell.com/Entry/1034/
- 江里口信常(えりぐち のぶつね) 拙者の履歴書 Vol.274~龍造寺が地を這う - note https://note.com/digitaljokers/n/n4af1d5017eec
- 【フロイス日本史】沖田畷の戦い(2) https://sengokumap.net/historical-material/documents16/
- 沖田畷の戦い・レポート(14) ― 鍋島直茂の退き口 ... - 佐賀の戦国史 http://sagasengoku.seesaa.net/article/500116419.html
- 龍造寺隆信~討ち死に後、その首はなぜ受け取りを拒否されたのか https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5278/image/1
- 龍造寺隆信~討ち死に後、その首はなぜ受け取りを拒否されたのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5278?p=1
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- 九州平定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A