最終更新日 2025-08-26

河越夜戦(1546)

関東の黎明:河越夜戦の再検証 ― 奇襲の神話と北条氏康の戦略 ―

序章:斜陽の旧権力と勃興する新星

戦国時代の関東地方は、百年に及ぶ動乱の只中にあった。室町幕府の権威は遠く、その出先機関である鎌倉府は、将軍家と対立の末に自壊した。その結果、関東を統べるべき公方(鎌倉公方の後継である古河公方)と、それを補佐するべき関東管領(上杉氏)が互いに覇を競う「享徳の乱」が勃発し、関東は泥沼の内乱へと沈んでいく。さらに、その関東管領上杉氏も宗家である山内上杉家と分家の扇谷上杉家が対立を始め(長享の乱)、権威は地に堕ち、各地の国人領主が自立化する下剋上の土壌が、この広大な平野に根深く形成されていた 1

この混沌の中から、新たな時代の担い手が姿を現す。伊豆・相模を起点とする後北条氏である。初代・北条早雲(伊勢宗瑞)が驚異的な速度で相模を平定すると、二代目・氏綱はその勢いを駆って武蔵国へと進出する。大永4年(1524年)、氏綱は扇谷上杉家の拠点であった江戸城を攻略。さらに天文6年(1537年)には、扇谷上杉家が最後の牙城としていた武蔵国の要衝・河越城をも攻め落とし、関東支配の橋頭堡を築き上げた 1 。これは単なる領土の拡大ではなかった。室町時代から続く旧来の権力構造に対する、新興勢力からの明確な挑戦状であった。氏綱は、この最前線たる河越城の城代として、勇将の誉れ高い娘婿・北条綱成を配置する。その武勇と、「地黄八幡(じきはちまん)」の旗印は、やがて関東の旧勢力を震撼させることになる 1

この後北条氏の急激な膨張は、これまで互いに争っていた旧権力者たちに、共通の危機感を抱かせた。彼らにとって後北条氏は、秩序を破壊し、自らの既得権益を脅かす不遜な成り上がり者であった。関東の覇権を巡る、新旧勢力の衝突はもはや避けられない宿命となっていた。天文15年(1546年)、その宿命が爆発する舞台こそが、この河越城だったのである。

第一部:包囲網の形成 ― 氏康、絶体絶命の刻

第一章:四面楚歌

天文10年(1541年)、後北条家を一代で関東有数の勢力に押し上げた氏綱が病没する。家督を継承したのは、嫡男・北条氏康、時に27歳。若き当主の前途には、父が遺した広大な版図と共に、それを取り巻く巨大な敵意が待ち構えていた 3

氏康が家督を継いで間もない天文14年(1545年)、後北条家は国家存亡の危機に直面する。西方の駿河国において、今川義元が甲斐の武田信玄(当時は晴信)と結び、長年の係争地であった駿河東部(河東地域)へ大軍を差し向けたのである(第二次河東一乱)。今川・武田という二大勢力を同時に敵に回した氏康は、やむなく主力を率いて西へ向かう。この決断が、東に関東旧勢力の介入を許す致命的な隙を生むことになった 1

氏康の西方出陣は、関東の旧権力者たちにとって千載一遇の好機であった。関東管領・山内上杉憲政と、宿敵であった扇谷上杉朝定は、後北条氏という共通の脅威を前にして長年の対立を超え、電撃的に和睦を成立させる。さらに、関東の最高権威である古河公方・足利晴氏までもが、この連合に加わった。晴氏は氏康の妹婿であり、後北条氏とは姻戚関係にあったにもかかわらず、旧秩序の盟主としての立場を優先し、反旗を翻したのである 1

この連合の形成は、単なる軍事同盟以上の意味を持っていた。それは、室町時代から続く「公方-管領体制」という旧来の権威構造そのものを守るための、旧勢力による最後の組織的抵抗であった。彼らを結びつけたのは領土欲以上に、秩序を破壊する新参者・後北条氏への強い憎悪と危機感であった。かくして、西に今川・武田、東に関東中の旧勢力という、文字通りの四面楚歌の状況が完成した。若き氏康は、家督相続からわずか4年にして、絶体絶命の窮地に立たされたのである。

第二章:河越城、孤立

天文14年(1545年)9月26日、関東の旧権力が結集した大連合軍が、後北条氏の武蔵支配の象徴である河越城に殺到した。軍記物によれば、その総勢は八万騎と称される、関東史上でも類を見ない大軍であった 1

連合軍は河越城を幾重にも取り囲み、鉄壁の包囲網を敷いた。

  • 山内上杉憲政軍 は、城の南西約10kmに位置する柏原に本陣を構え、西側の上戸に先鋒を配置した 8
  • 扇谷上杉朝定軍 は、城の南約4kmの砂久保に本陣を置き、北条の救援軍が至るであろう南からの経路を遮断した 8
  • 古河公方足利晴氏軍 は、城の東方を固め、下総方面からの連絡を絶った 8
  • さらに、北には岩付城主・太田資正らの軍勢が布陣し、北からの脱出路も塞いだ 8

この完璧な包囲網に対し、城代・北条綱成が率いる城兵はわずか三千。兵力差は絶望的であり、城は完全に孤立無援となった。しかし、綱成と城兵たちは驚異的な粘りを見せる。兵糧が尽きかけ、援軍の報せも届かない絶望的な状況下で、彼らは半年もの間、大軍の猛攻を耐え抜いたのである 2

その間、氏康は西方の駿河で苦闘を続けていた。戦況は好転せず、関東の危機的状況を打開するため、氏康は苦渋の決断を下す。武田信玄の仲介を受け入れ、父・氏綱が勝ち取った河東地域を今川義元に割譲するという、屈辱的な条件で和睦を結んだのだ。この外交的敗北と引き換えに、氏康はようやく西方戦線を収束させ、全力を挙げて関東の存亡を賭けた戦いに臨むことが可能となった 1 。河越城の包囲は、氏康が西方で戦っている隙を突かれたものであり、これは若き当主の外交的失敗が招いた危機であった。勝利の輝かしい伝説の裏には、大きな犠牲を払ってようやく手にした反撃の機会という、厳しい現実が存在したのである。


【表1:河越夜戦 両軍兵力・主要武将比較表】

項目

後北条軍

両上杉・足利連合軍

総大将

北条氏康

山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、足利晴氏

主要武将

本隊: 多目元忠、大道寺盛昌 河越城: 北条綱成、北条幻庵

山内上杉軍: 長野業正、小幡憲重 扇谷上杉軍: 難波田憲重、太田資正、大石定久 足利軍: 小田政治、簗田高助

兵力(軍記物)

本隊: 8,000 城兵: 3,000 合計: 11,000

総勢: 80,000余

兵力(近年の推定)

合計: 10,000弱

総勢: 20,000~30,000程度

注:兵力は諸説あり、特に連合軍の八万という数字は後代の軍記物による誇張と考えられている

1

第二部:盤上の駆け引き ― 勝利への布石

第一章:偽りの恭順と陽動

天文15年(1546年)4月、西方の今川氏と和睦を成立させた氏康は、精鋭八千を率いてついに河越城の救援へと向かった 1 。しかし、敵は自軍の数倍に及ぶ大軍である。正面からの衝突は、たとえ勝利したとしても甚大な被害を免れず、共倒れになりかねない。絶望的な兵力差を覆すため、氏康は武力ではなく、まず知略の刃を抜いた。それは、敵の油断と慢心を極限まで高めるための、周到に計算された心理戦の始まりであった。

氏康はまず、連合軍の盟主である古河公方・足利晴氏に対し、使者を送った。その内容は、「城兵の命さえ助けていただけるならば、直ちに河越城を明け渡し、公方様に対し未来永劫忠節を尽くす所存です」という、極めて卑屈で、およそ戦国大名の当主とは思えぬものだった 1 。これは無論、本心からの降伏ではない。連合軍の戦意を削ぎ、特に旧来の権威を重んじる公方とその周辺を揺さぶり、あわよくば内部対立を誘発するための巧妙な罠であった。

さらに氏康は、不可解な軍事行動を繰り返す。連合軍の陣の目前まで進軍しては、一戦も交えずに兵を後退させるという陽動を幾度となく行ったのである 4 。この一連の弱腰な態度は、連合軍の将兵の心に、致命的な油断を生み出した。「氏康に戦意なし」「北条はこちらの大軍を恐れて臆病風に吹かれたのだ」――そのような噂が陣中に蔓延し、勝利を確信した兵士たちの間には弛緩した空気が流れた 4

連合軍の慢心は、半年に及ぶ長期の包囲戦による倦怠感も手伝って、頂点に達していた。巨大な組織は、それ自体が弱点を内包する。数万の兵の士気を維持し、指揮系統を統一し続けることは至難の業である。氏康の「戦わずして勝てるかもしれない」と思わせる態度は、兵士たちの警戒心を完全に解き放ち、一部では勝利を祝う酒宴まで開かれる始末であった 8 。巨大で、内部に不和の種を抱え、士気が低下した組織は、小さくとも統制が取れ、明確な目的を持つ組織からの鋭い一撃に対して、極めて脆弱となる。連合軍の規模は力の象徴であると同時に、崩壊の要因でもあったのだ。氏康は、その急所を的確に見抜いていた。

第二章:闇夜の密計

敵の油断が頂点に達したことを見計らった氏康は、乾坤一擲の奇襲作戦の準備に取り掛かる。この作戦の成否は、城内の綱成との完璧な連携にかかっていた。軍記物『小田原北条記』などによれば、氏康は綱成の弟である福島勝広(あるいは美少年として描かれる福島弁千代)を密使に選び、単騎で敵の厳重な包囲網を突破させ、作戦の全容を城内へ伝達させることに成功したという 1

決行前夜、氏康は奇襲部隊の将兵に対し、厳格な軍律を申し渡した。

  • 部隊編成: 全軍八千を四隊に分け、そのうち一隊は歴戦の勇将・多米元忠(多目元忠)に預け、決して動かぬ予備兵力とした。これは、不測の事態に備え、また撤退の合図などを司るための重要な配置であった 1
  • 装備の軽装化: 兵士たちには、音の出やすい甲冑や馬鎧を極力外させ、身軽な格好になるよう命じた。これは、夜陰に乗じて敵陣に忍び寄る際の静粛性と、乱戦における機動力を最大限に高めるための合理的な判断であった 4
  • 敵味方識別: 暗闇の中での同士討ちを防ぐため、合言葉を定め、兵士全員の肩に白い紙の標識を付けさせた。「白い服を着ている者以外は全て敵である」という単純明快な識別法であった 1
  • 首級の不問: 最も重要な軍律は、「討ち取った敵の首は取るな。ただ一人でも多く斬り伏せることに専念せよ」というものであった。戦功の証である首級の確保を禁じることは、当時の武士の価値観からは異例であったが、これにより兵士は戦功への欲を捨て、敵陣の混乱と殲滅という作戦目的の達成のみに集中することができた 1

さらに、氏康は軍事行動と並行して、水面下で周到な調略を進めていた。包囲軍の北翼を担っていた岩付城の太田氏(資正、あるいは兄の資顕とも)の調略に成功していたのである。これにより、奇襲実行時に北からの追撃や挟撃を受ける危険性がなくなり、主目標である南の扇谷上杉軍本陣へ、憂いなく全戦力を集中させることが可能となった 8

和睦交渉という「偽情報」、繰り返される退却という「心理操作」、太田氏の調略という「諜報活動」、そして城内への「通信確保」。これら全てが、決戦の火蓋が切られる前に、勝利の天秤を自軍へと大きく傾けるための布石であった。河越夜戦の真の勝因は、この夜襲という一点に集約されるのではなく、それ以前に繰り広げられた情報戦と心理戦における、氏康の完全なる勝利にあった。彼は、戦場で剣を交える前に、敵の頭脳と心を打ち破っていたのである。

第三部:天文十五年四月二十日 ― 合戦のリアルタイム再現

天文14年秋から続いた半年に及ぶ対峙は、ついに最終局面を迎える。北条氏康が周到に張り巡らせた策謀の網が、今、一気に収束しようとしていた。


【表2:河越夜戦 タイムライン】

年月日

出来事

天文14年 (1545年)

7月下旬

今川義元・武田晴信が駿河へ侵攻(第二次河東一乱)。北条氏康は主力を率いて西方へ。

9月26日

山内上杉憲政・扇谷上杉朝定連合軍が河越城を包囲開始。

10月27日

古河公方・足利晴氏が連合軍に合流。包囲網が完成する。

10月下旬

氏康、武田の仲介で今川と和睦交渉を開始。河東地域を割譲。

天文15年 (1546年)

3月

氏康、包囲軍の太田氏の調略に成功したとされる。

4月上旬

氏康、八千の兵を率いて河越城救援に出陣。偽りの和睦交渉と陽動を繰り返す。

4月20日

(子の刻: 0時頃) 氏康本隊、奇襲のため出陣。

(丑~寅の刻: 2-4時頃) 扇谷上杉軍本陣(砂久保)へ奇襲開始。連合軍は大混乱に陥る。

(卯の刻: 5-6時頃) 城内の北条綱成隊が呼応し、古河公方軍へ突撃。

(辰の刻: 8時頃) 連合軍は総崩れとなり敗走。戦闘は北条軍の圧勝に終わる。

6月10日

氏康、足利晴氏の重臣・簗田高助に書状を送り、合戦の正当性を主張。


子の刻(深夜0時頃):静寂の出陣

天文15年4月20日、子の刻。草木も眠る丑三つ時に、北条氏康率いる本隊八千は、府中(あるいは砂窪)の陣から音もなく出撃した。目標はただ一つ、河越城の南方に陣を構え、油断しきっている扇谷上杉軍の本陣である 1 。兵士たちは甲冑を脱ぎ、足音を殺して闇に溶け込む。これから始まる死闘を前に、異様な静寂が戦場を支配していた。

丑の刻~寅の刻(深夜2時~4時頃):奇襲開始

北条軍の先鋒は、完全に警戒を解いて眠りこけている砂久保の陣へと、疾風の如く突入した。勝利を確信し、酒宴に興じた後の宿営地は、何の備えもしていなかった 4

「かかれっ!」

号令一下、北条兵は鬨の声を上げることなく、無言のまま上杉の兵士たちに襲いかかった。予期せぬ襲撃に、上杉軍は阿鼻叫喚の地獄と化す。寝込みを襲われた兵士たちは、武器を取る間もなく次々と斬り伏せられていった。暗闇の中では敵味方の区別もつかず、混乱した兵士たちによる同士討ちが頻発し、組織的な抵抗は完全に不可能であった 1 。軍記物によれば、総大将である氏康自身も長刀を振るい、自ら十数人の敵を斬り倒す獅子奮迅の働きを見せたという 1

この乱戦の最中、扇谷上杉家当主・上杉朝定は奮戦空しく討死。大黒柱であった重臣の難波田憲重(弾正)もまた命を落とし、扇谷上杉軍は指揮系統を完全に喪失、烏合の衆となって崩壊した 1

卯の刻(早朝5時~6時頃):城兵の呼応と挟撃

城内で息を潜め、千載一遇の好機を待ち続けていた城代・北条綱成は、南方の上杉陣が炎と混乱に包まれているのを確認するや、即座に行動を開始した。

「開門! 全軍、我に続け!」

城門は大きく開け放たれ、半年の籠城で飢えと疲労に耐え抜いた三千の兵が、堰を切ったように打って出た 1 。綱成は、自らの旗印である鮮やかな黄色の「地黄八幡」の旗を高く掲げ、兵士たちにこう叫ばせた。

「勝った、勝ったぞ! 敵は崩れた! 続け!」

実際にはまだ勝敗は決していない。しかし、この鬨の声は、味方の士気を極限まで高めると同時に、混乱する敵兵の戦意を根こそぎ奪い去る、恐るべき心理戦術であった 4 。綱成隊が狙いを定めたのは、城の東方に陣取る古河公方・足利晴氏の軍勢であった。背後から予期せぬ猛攻を受けた公方軍は、戦う前から完全に浮き足立ち、我先にと逃げ出した 8

辰の刻(朝8時頃):夜明けの決着

東の空が白み始める頃には、大勢は完全に決していた。連合軍の中核であった扇谷上杉軍は壊滅し、古河公方軍は敗走。これにより、連合軍の戦線は全面的に崩壊した。総大将の一人、山内上杉憲政は、自軍がほとんど戦うことのないまま敗北したことを知り、わずかな手勢と共に本拠地の上野国平井城へと逃げ帰った 1

この時、後方で待機していた多米元忠の予備隊が、作戦通りに法螺貝を高く吹き鳴らした。これは、深追いを戒め、全軍に撤収を命じる合図であった。勝利に沸き立つ中でも冷静に軍を統制し、無用な損害を避ける見事な采配であった 1

夜が明けた河越の野には、連合軍の無数の屍が転がっていた。軍記物は、この一夜の戦いによる死者を一万三千から一万六千と伝えている 2 。北条氏康は、絶望的な劣勢を覆し、戦国史上稀に見る完璧な勝利を収めたのである。

第四部:戦後の新秩序と歴史的意義

第一章:関東の勢力図、一変

河越の一夜は、関東地方の政治地図を根底から塗り替える、まさに分水嶺となった。この戦いを境に、室町時代から続いてきた旧来の権力構造は音を立てて崩壊し、後北条氏による新たな秩序がその上に築かれていくことになる。

  • 扇谷上杉家の滅亡: 当主・上杉朝定が戦場に散ったことで、武蔵国に勢力を誇った名門・扇谷上杉家は、その歴史に幕を閉じた。家督を継ぐべき有力な一族もおらず、事実上滅亡したのである 13
  • 山内上杉家の没落: 総大将でありながら、ほとんど戦うことなく敗走した関東管領・上杉憲政の権威は完全に失墜した。この歴史的大敗を機に、領内の有力国人たちは次々と憲政を見限り、勝者である北条氏へと靡いていった。急速に勢力を失った憲政は、本拠地の上野国平井城さえも維持できなくなり、最終的には越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びる。これが、後の「軍神」上杉謙信による関東出兵の直接的な原因となり、後北条氏と上杉氏の数十年にわたる死闘の序章となった 1
  • 古河公方の無力化: 敗走した古河公方・足利晴氏は、戦後まもなく氏康の軍事力に屈し、降伏を余儀なくされた。晴氏は隠居させられ、家督は氏康の甥(母が北条氏出身)である足利義氏に譲らされた。これにより、関東の最高権威であった古条公方は、完全に後北条氏の傀儡と化した 1
  • 後北条氏の覇権確立: 関東に君臨してきた両上杉家と古河公方という三つの旧権力を、たった一夜の戦いで一掃した北条氏康は、名実共に関東の覇者としての地位を確立した。この勝利によって、後北条氏は関東南西部における支配権を盤石のものとし、やがて来る武田信玄、上杉謙信との三つ巴の時代を戦い抜くための国力を蓄えることに成功する。河越夜戦は、後北条氏百年の繁栄の礎を築いた、決定的な一戦であった 1

第二章:伝説の検証 ― 史料が語る実像

「八万の大軍を八千の寡兵で打ち破った、日本三大奇襲の一つ」――これが、今日まで語り継がれる河越夜戦の一般的なイメージである。しかし、この劇的な物語は、後世に創られた軍記物によって大きく脚色された側面を持つ。現存する一次史料を丹念に読み解くと、伝説とは異なる合戦の実像が浮かび上がってくる。

  • 兵力差の誇張: 「八万対八千」という10倍の兵力差は、主に江戸時代に成立した『関八州古戦録』などの軍記物に見られる記述である。当時の関東諸大名の動員力を考慮すると、連合軍の総勢は多くとも二万から三万程度、対する北条軍は城兵と合わせて一万弱というのが、より現実的な数字であったと考えられている。物語の劇的効果を高めるための誇張である可能性は極めて高い 1
  • 「夜戦」か「早朝戦」か: 合戦の代名詞となっている「夜戦」という呼称も、確実なものではない。確かに多くの軍記物は夜襲であったと記すが、一方で『北条五代記』は「午の刻(昼)」の戦闘であったと伝えるなど、史料によって記述は一貫しない。合戦直後に書かれた上杉方の感状や、信頼性の高い年代記である『高白斎記』には、「廿日之一戦(二十日の合戦)」と記されているのみで、夜間の戦闘であったとは明記されていない 1 。深夜から行動を開始し、敵が最も油断する夜明けと共に奇襲をかけた「早朝戦」であったとする説も有力である 8
  • 一次史料から読み解く合戦: 現存する数少ない一次史料の一つに、合戦直後に氏康自身が記したとされる「北条氏康書状」(『歴代古案』所収)がある 12 。興味深いことに、この書状において氏康は、自らの戦術の妙や奇襲の成功については一切触れていない。むしろ、合戦に至るまでいかに古河公方との和平を模索したか、しかしそれが受け入れられず、やむなく一戦に及んだか、という政治的な経緯を詳細に述べている。これは、氏康が軍事的な勝利を誇示すること以上に、自らの行動の正当性を関東の諸将に示すことを重視していたことの表れであろう。
  • 戦死者の実否: 伝説に登場する人物にも、史実との齟齬が見られる。例えば、扇谷上杉家の重臣として討死したとされる難波田弾正は、信頼できる史料『快元僧都記』によれば、河越夜戦の9年前、天文6年(1537年)の合戦で既に戦死している 1 。また、扇谷上杉家当主・上杉朝定の死についても、確実な戦死の記録はなく、包囲中の病死や事故死の可能性を指摘する研究者もいる 1

これらの検証から見えてくるのは、河越夜戦の「物語」が、後北条氏によって意図的に創られ、増幅されたプロパガンダであった可能性である。圧倒的な劣勢を覆した奇跡的な勝利という物語は、新興勢力である北条氏の武威と、当主・氏康の神がかった軍才を関東全域に知らしめる上で、極めて効果的であった。歴史的事実としての「河越城の戦い」と、伝説としての「河越夜戦」は、分けて考える必要がある。この戦いの真の歴史的意義は、桶狭間や厳島のような単発の奇襲ではなく、長期にわたる対峙の末に、周到な心理戦と諜報戦を経て行われた「総合的逆転作戦」であったという点にこそ見出されるべきなのである 24

終章:相模の獅子、吼える

河越夜戦は、一人の武将の評価を決定的にした戦いでもあった。北条氏康、後に「相模の獅子」と畏怖される男である。この空前の勝利により、彼は単なる有力大名の跡継ぎから、関東の秩序を再編する「覇者」へと変貌を遂げた。その采配は、冷徹なまでの合理性と、大胆な決断力に裏打ちされていた 5

氏康のリーダーシップは、戦場でのみ発揮されたわけではない。彼は父・氏綱から受け継いだ「民を慈しむ」という為政者の哲学を生涯貫き、領国経営においても卓越した手腕を見せた 25 。関東一円に張り巡らせた「伝馬制」による迅速な情報伝達網は、河越夜戦のような機動的な作戦を可能にし 27 、行政文書に「虎の印判」を多用することで統治の効率化を図るなど、その施策は常に先進的であった 29 。河越夜戦で見せた、伝統的な価値観(首級による戦功)よりも作戦目的の達成を優先する合理性は、彼の統治思想そのものを象徴している。

後北条氏の歴史において、河越夜戦は全ての始まりであった。この勝利がなければ、後の武田信玄や上杉謙信といった巨星たちと渡り合うことも、小田原を中心とした巨大な経済圏を築き上げることも、そして百年続く関東の平和を実現することも不可能だったであろう。

天文15年4月20日の夜明け、河越の野に響き渡った北条軍の鬨の声は、一つの時代の終わりと、新たな時代の幕開けを告げる咆哮であった。それは、旧き権威の黄昏を照らし出す、関東の黎明の光だったのである。

引用文献

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  2. 河越城 奇襲によって大軍を破った戦い - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2017/09/30/000000
  3. 北条氏康はどうして河越夜戦で上杉憲政や足利晴氏の大軍に勝利 ... https://app.k-server.info/history/ujiyasu_kawagoe/
  4. 河越城の戦い 河越夜戦 川越城の戦い 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/kawagoeyasen.htm
  5. 日本三大奇襲(日本三大夜戦)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91963/
  6. 桶狭間の戦いと並ぶ戦国三大奇襲の1つ…北条氏康が10倍もの包囲軍 ... https://president.jp/articles/-/82052
  7. 桶狭間の戦いと並ぶ戦国三大奇襲の1つ…北条氏康が10倍もの包囲軍 ... https://president.jp/articles/-/81712?page=1
  8. 「河越城の戦い(1546年)」日本三大奇襲の一つ "河越夜戦" で ... https://sengoku-his.com/347
  9. 河越城の戦い(河越夜戦)/ 河東一乱/ 衝突を避け続け、最後に勝ち星を挙げた氏康の手腕! https://www.youtube.com/watch?v=oKHOfKnPte4
  10. 【合戦解説】第一次 国府台合戦 〜相模台合戦〜 北条 vs 小弓公方・真里谷・里見 〜 今川家との同盟破棄により ほぼ全域を敵対大名に囲まれてしまった北条氏綱であったが… 〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=2Rnv9JPcpRA&pp=0gcJCRsBo7VqN5tD
  11. 河越夜戦(よいくさ)後北条氏対扇谷上杉氏 | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E6%B2%B3%E8%B6%8A%E5%A4%9C%E6%88%A6%EF%BC%88%E3%82%88%E3%81%84%E3%81%8F%E3%81%95%EF%BC%89%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%AF%BE%E6%89%87%E8%B0%B7%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B0%8F/
  12. 北条氏康を怒らせたのは誰?河越合戦の真実 | SYNCHRONOUS シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/100
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  23. 河越夜戦1(河越合戦)|吉田知絵美 - note https://note.com/nifty_rail9294/n/n79a3904fceb5
  24. 三大奇襲を最新研究で読み解く – 桶狭間の奇襲は本当か? 厳島の ... https://research-note.kojodan.jp/entry/2025/05/20/200219
  25. リーダーは日本史に学べを読了した。|redamoon - note https://note.com/redamoon/n/ncefc8f4007f3
  26. 北条氏康(ほうじょう うじやす) 拙者の履歴書 Vol.11 ~関東に君臨 ... https://note.com/digitaljokers/n/nf969362ce21f
  27. 私は北条氏康タイプのリーダー! | 名将タイプ診断 https://kikou.smrj.go.jp/ranse/shindan/result12uh/
  28. 今川義元、北条氏康から学ぶ社内業務の大切さ|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-042.html
  29. 北条氏康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%BA%B7