海津城攻防(1557~60)
海津城攻防(1557-1560)- 第四次川中島合戦に至る戦略的序曲の詳細分析
序章: 第三次合戦前夜 - 北信濃における均衡と緊張
日本の戦国史において、武田信玄と上杉謙信が繰り広げた川中島の戦いは、両雄の智謀と武勇が激突した類稀なる対決として知られている。しかし、そのクライマックスとされる永禄四年(1561年)の第四次合戦は、決して突発的に生じたものではない。それに先立つ弘治三年(1557年)から永禄三年(1560年)にかけての四年間、後に海津城(現在の松代城)が築かれる北信濃の地を舞台に繰り広げられた一連の攻防こそが、あの大激戦の前提条件をすべて整えた、いわば壮大な戦略的序曲であった。本報告書は、この「海津城攻防」と称されるべき期間の軍事的、政治的、そして経済的な動向を時系列に沿って詳細に分析し、第四次合戦が必然であったことを論証するものである。
第一次・第二次川中島の戦いの戦略的総括
この攻防の原点は、武田信玄(当時は晴信)による信濃侵攻に遡る。天文二十二年(1553年)、信玄に本領を追われた北信濃の雄・村上義清が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に救援を求めたことが、両雄の最初の衝突、すなわち第一次川中島の戦いを引き起こした 1 。景虎にとって、これは信濃国人衆を救う「義」のための戦いの始まりであり、信玄にとっては信濃統一事業の最終段階で出現した最大の障害であった。
続く弘治元年(1555年)の第二次合戦は、犀川を挟んで実に200日にも及ぶ長期対陣という様相を呈した 4 。この膠着状態は、駿河の今川義元の仲介による和睦という形で終結する 4 。この二度の合戦の結果、武田は村上氏を信濃から駆逐したものの、上杉の介入によって北信濃国人衆を完全に掌握するには至らなかった 3 。一方の上杉も武田を信濃から撃退するには至らず、北信濃における両者の勢力圏は不確かな均衡の上で辛うじて保たれることとなった。
この時点での両者の支配は、国人衆を介して影響力を行使する「線」の支配に過ぎなかった。武田は南から、上杉は北からそれぞれ勢力線を伸ばしていたが、川中島平原一帯を安定的に支配する「面」での掌握には、どちらも成功していなかった。この不安定な勢力均衡こそが、次なる大規模衝突の火種を内包していたのである。
弘治二年(1556年)の水面下の攻防
第二次合戦の和睦後も、水面下での熾烈な争いは続いていた。武田方は、調略の名手である真田幸隆らを用いて、長野盆地東部の要衝・尼飾城を陥落させる 3 。これは、信玄が和睦を遵守する姿勢を見せつつも、着実に勢力圏を拡大しようとする深謀遠慮の表れであった。
一方、越後では景虎が突如出家を表明するという騒動が起きるなど、内政に課題を抱えていた 3 。しかし、家臣団の説得により復帰すると、武田に内通した重臣・大熊朝秀の反乱を迅速に鎮圧し、国内の結束を固める 3 。こうして両雄は、次なる衝突に向けて着々と準備を進めていたのである。
年月 |
武田軍の動向 |
上杉軍の動向 |
政治・外交 |
備考 |
弘治3年 (1557) |
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第三次川中島の戦い(上野原の戦い) |
2月 |
厳冬期を突き葛山城を攻略、落合氏を滅ぼす 8 。 |
豪雪のため出兵できず。 |
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武田軍、善光寺平北部へ進出。 |
4月 |
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雪解けを待ち出陣。山田城、福島城を奪還し、旭山城を再興して本営とする 3 。 |
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上杉軍、失地回復と反攻を開始。 |
5月 |
決戦を回避し、持久戦術をとる。 |
埴科郡坂木・岩鼻まで侵攻 3 。 |
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上杉軍、武田領深くまで進撃。 |
8月 |
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水内郡上野原で上杉軍と小競り合いが発生 3 。 |
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主力同士の衝突はなし。 |
9月~10月 |
甲斐へ帰国 3 。 |
越後へ帰国 3 。 |
将軍足利義輝が和睦を勧告 3 。 |
信玄は和睦の条件として信濃守護職を要求。 |
永禄元年 (1558) |
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1月 |
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信玄、信濃守護に補任される 3 。 |
武田の信濃支配に大義名分が与えられる。 |
通年 |
信濃の支配体制を強化。検地や軍用道路「棒道」の整備を進める 11 。 |
越後国内の統治に注力。 |
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永禄2年 (1559) |
北信濃における拠点整備を継続。 |
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上杉憲政を奉じ、関東管領職継承の準備を進める。 |
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永禄3年 (1560) |
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通年 |
山本勘助の縄張りにより海津城が完成。高坂昌信を城代に任命 13 。 |
主力を率いて関東へ大遠征を開始。小田原城を包囲 15 。 |
甲相駿三国同盟に基づき、信玄は北条氏を支援。 |
海津城が上杉軍の背後を脅かす戦略拠点となる。 |
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海津城を拠点に上杉方の背後を牽制 15 。 |
信玄の牽制により小田原城の包囲を解き、撤退を決意 15 。 |
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第四次川中島合戦の直接的な原因が形成される。 |
第一章: 弘治三年の激動 - 第三次川中島の戦い(上野原の戦い)
弘治三年(1557年)、北信濃の均衡はついに破られる。この一年を通じて繰り広げられた一連の軍事行動は、総称して「第三次川中島の戦い」または「上野原の戦い」と呼ばれる。それは、武田信玄の冷徹な戦略と上杉謙信の義憤に満ちた反撃が交錯する、激動の年であった。
第一節: 信玄、厳冬を突く - 葛山城の陥落(二月)
弘治三年二月、信濃北部はまだ深い雪に覆われていた。越後からの長尾軍の出兵が物理的に不可能なこの時期を、信玄は見逃さなかった。彼はこの「天与の好機」を最大限に活用し、上杉方が善光寺平に持つ最重要拠点・葛山城への電撃的な奇襲を敢行した 8 。
作戦の主将には、武田家の重臣・馬場信春が任じられ、牧之島城から大軍を率いて葛山城を急襲した 9 。城主の落合備中守をはじめとする葛山衆は、死力を尽くして奮戦するが、武田軍は容赦なかった。城の水の手を断ち、火を放つという非情な戦術で城を追い詰めた 9 。そして二月十五日、堅城として知られた葛山城はついに落城し、城兵のほとんどが討死、落合一族は滅亡した 10 。この時、逃げ場を失った多くの女性たちが城の峰から谷へ身を投げたとされ、その地は「姫谷」と呼ばれ悲劇を今に伝えている 19 。
この葛山城の陥落は、北信濃の戦略地図を大きく塗り替えた。善光寺平の北部は完全に武田の勢力圏となり、上杉方の国人・高梨政頼が籠る飯山城が、武田軍の直接的な脅威に晒されることになった 3 。また、上杉方の有力国人であった長沼城主・島津月下斎も、本城を維持できず、詰城である大倉城への後退を余儀なくされた 7 。信玄は、軍事行動が困難な冬季を逆手に取り、最小限の戦闘で最大限の戦略的成果を挙げたのである。
第二節: 景虎の反攻 - 旭山城再興と戦線北上(四月~七月)
信玄の盟約破りとも言える行動に対し、景虎の怒りは頂点に達していた。四月、長い冬が終わり雪解けが進むと、景虎は満を持して越後から出陣する 3 。その軍勢は一万とも伝えられ、失地回復と武田への報復という明確な目的を帯びていた。
景虎の進軍は迅速かつ効果的であった。まず、武田方に寝返っていた高井郡の山田城、福島城を次々と攻略し、奪い返す 3 。返す刀で長沼城と善光寺を回復すると、横山城に着陣した。さらに景虎は、かつて武田方が築き、その後破却されていた旭山城を再興し、これを自軍の本営とした 3 。犀川西岸に位置する旭山城は、川中島平原と武田方の諸城を眼下に見下ろす絶好の戦略拠点であり、景虎の反攻への強い意志を示すものであった。
五月に入ると、景虎はさらに軍を進め、武田領の深くまで侵攻し、埴科郡と小県郡の境にある坂木・岩鼻にまで迫った 3 。しかし、これに対し信玄は正面からの決戦を巧みに回避し続けた。これは、遠征軍である上杉軍の鋭鋒を直接受け流し、戦線を膠着させることで敵を疲弊させるという、信玄が得意とする持久戦略であった。信玄は、短期的な戦術的勝利よりも、長期的な戦略的優位を確保することに主眼を置いていたのである。
第三節: 上野原での対峙と将軍義輝の調停(八月~十月)
両軍の睨み合いが続く中、八月下旬、髻山城に近い水内郡上野原において、ついに両軍が衝突した 3 。しかし、これは両軍の主力が激突する総力戦ではなく、前線部隊同士による限定的な小競り合いに留まったとみられている 8 。信玄はあくまで決戦を避け、景虎もまた敵地深くで決定的な戦いを挑むリスクを冒さなかった。
この長期化する対陣に、政治的な介入を行ったのが、京に座す室町幕府第十三代将軍・足利義輝であった。当時、義輝は三好長慶らとの政争で苦境に立たされており、景虎の強力な軍事力を頼りにして上洛を望んでいた 3 。そのため、その前提条件として、景虎と信玄の和睦を勧告する御内書を発したのである 8 。
この将軍の調停は、結果として信玄に大きな政治的勝利をもたらすことになった。景虎は「義」を重んじ、将軍の権威を受け入れて和睦に応じた。一方、信玄はこの和睦を受け入れる条件として、幕府に対し「信濃守護職」の地位を要求したのである 3 。そして永禄元年(1558年)正月、この要求は認められ、信玄は正式に信濃守護に補任された 3 。
この一連の出来事は、第三次川中島の戦いの本質を如実に物語っている。軍事的には、上杉は失地を一部回復したものの武田を駆逐できず、武田は上杉の侵攻を食い止めたものの決定的な戦果は挙げられず、引き分けに終わった。しかし、政治的には武田信玄の圧勝であった。信玄は、軍事的なリスクを最小限に抑えながら、外交交渉というカードを巧みに使い、信濃支配の正当性という最大の戦略的利益を獲得したのである。これにより、信玄の信濃侵攻は幕府によって公的に追認され、単なる「侵略者」から「信濃国の公式な統治者」へと、その立場を劇的に転換させることに成功した。これは、信玄が戦いを単なる軍事行動としてではなく、政治目標を達成するための高度な手段として捉えていたことの証左に他ならない。
第二章: 束の間の静寂と水面下の攻防(1558-1559年)
第三次川中島の戦いが終結した後、永禄元年(1558年)から二年(1559年)にかけての二年間、川中島では大規模な軍事衝突は発生しなかった。しかし、この「束の間の静寂」は、決して両雄が手をこまねいていたわけではない。むしろ、この期間は次なる決戦に向けて互いが国力を涵養し、周到な布石を打つための「戦略的間歇期」と位置づけることができる。この時期の動向を分析することで、両者の戦略目標の根本的な違いが浮き彫りになる。
第一節: 武田の支配体制強化 - 信濃経略の深化
信濃守護という公的な権威を手に入れた信玄は、この二年間で信濃国内の支配体制を磐石なものへと固めていった。彼の施策は、軍事、兵站、経済の各方面に及び、北信濃を一時的な戦場ではなく、武田家の恒久的な領土として経営しようとする強い意志が感じられる。
まず、信玄は占領地において積極的な検地を実施した 11 。これにより領内の石高を正確に把握し、国人衆の所領を再編・安堵することで、武田家による直接支配を隅々まで浸透させた。これは、現地の国人領主に対する支配力を格段に強化する効果があった 23 。
次に、兵站網の確立に力を注いだ。甲府から北信濃の最前線まで、大軍を迅速に移動させ、兵糧を滞りなく輸送することは、長期戦を遂行する上で不可欠である。信玄はこの課題を解決するため、軍用道路「棒道」の整備を推進した 12 。この直線的な軍道は、武田軍の機動力を飛躍的に向上させ、北信濃への実効支配を支える大動脈となった。
さらに、経済基盤の強化も怠らなかった。領内の金山開発を強力に推し進め、そこで採掘された金を用いて「甲州金」を鋳造し、豊富な軍資金とした 25 。また、信濃の豊かな穀倉地帯から兵糧を確保し 2 、長期保存が可能な「陣立みそ」を備蓄するなど 27 、長期戦に耐えうる経済・兵站システムを methodical に構築していった。
第二節: 上杉の雌伏と北方への眼差し
一方、上杉謙信(景虎)もまた、この期間を無為に過ごしたわけではない。彼は越後国内の統治に注力し、国力の充実に努めると同時に、その眼差しは北信濃の先、広大な関東平野に向けられていた。
謙信の経済基盤については、越後の特産品である青苧(あおそ、麻の原料)の交易が重要な財源であったという説が広く知られている 29 。しかし、謙信時代の財政を直接示す一次史料は乏しく、その役割については慎重な検討が必要であるとの指摘もある 30 。とはいえ、日本海交易ルートを掌握していたことが、上杉家の経済的優位性をもたらしたことは想像に難くない。
この時期の謙信の動向で最も重要なのは、関東への布石である。当時、関東では相模の北条氏康が勢力を拡大しており、本来の関東管領であった上杉憲政は本拠地を追われ、謙信を頼って越後に亡命していた 31 。謙信はこの憲政を保護し、やがてその家名と関東管領の職を譲り受けることになる 16 。これは、単なる亡命者の保護に留まらず、関東の諸将を動員して宿敵・北条氏を討伐するという、より大きな戦略構想の第一歩であった。
この1558年から1559年にかけての「静寂」は、武田と上杉の戦略目標の非対称性を明確にした期間であった。信玄の行動は、検地、棒道整備、金山開発など、すべて「信濃の完全支配」という地域的かつ集中的な目標達成のために内向きに注力されたものであった。対照的に、謙信の行動は、上杉憲政の保護に象徴されるように、「関東管領として北条を討つ」という広域的かつ政治的な目標達成のために、外交と大義名分を準備する外向きのものであった。信玄にとって北信濃は戦略上の「終着点」に近かったが、謙信にとって北信濃は、関東へ進出するための「通過点」であり、背後の安全を確保すべき地域という位置づけであった。この戦略的視野の違いこそが、永禄三年に謙信が主力を関東に向け、信玄がその隙を突くという、次なる攻防の展開を生み出す根本的な原因となったのである。
項目 |
武田信玄 |
上杉謙信 |
推定石高 |
甲斐・信濃(一部除く)を合わせ、約50万石以上と推定 |
越後一国、約30万石以上と推定 |
主要財源 |
甲州金山の開発による豊富な金 25 。信濃の農産物(米、大豆) 27 。 |
越後の特産品である青苧の交易 29 。日本海交易による利益。 |
兵站システム |
軍用道路「棒道」の整備による迅速な輸送網 12 。占領地からの現地調達と「陣立みそ」などの備蓄食料 27 。 |
越後から信濃への長距離輸送に依存。兵站線が長くなる傾向。 |
主要同盟国 |
今川氏(駿河)、北条氏(相模)との 甲相駿三国同盟 32 。背後の安全を確保し、信濃・越後方面に戦力を集中。 |
特定の強力な同盟国はなし。関東管領の権威を背景に、関東の諸将を糾合する「義」の外交を展開 16 。 |
第三章: 永禄三年の胎動 - 川中島支配の楔、海津城
永禄三年(1560年)、川中島を巡る情勢は再び大きく動き出す。この年は、第四次川中島合戦の直接的な原因が形成された決定的な年と位置づけられる。武田信玄による北信濃支配の象徴「海津城」の完成と、上杉謙信による大規模な「関東出兵」。この二つの事象が、運命の糸のように絡み合い、両雄を史上最大の激突へと導いていく。
第一節: 「甲州流築城の模範」- 海津城の戦略的価値
この年、武田信玄による北信濃支配の総仕上げとも言うべき一大事業が完成した。それが海津城である。この城は、武田軍の伝説的軍師・山本勘助が縄張り(設計)を行ったとされ、「甲州流築城の模範」と称される名城であった 13 。『甲陽軍鑑』には、信玄が謙信との合戦に備えて築城を急がせ、勘助がわずか80日で普請したとの逸話も残されている 13 。
海津城の戦略的価値は、その絶妙な立地にあった。千曲川の西岸に位置し、川中島平原全体を俯瞰できる要衝に築かれていた 13 。三方を山に、西を千曲川に守られた天然の要害であり、極めて堅固な造りであった 13 。しかし、海津城は単なる前線基地ではなかった。それは、武田による北信濃の恒久的支配を内外に示す、敵地深くに打ち込まれた巨大な「楔」であった。この城の存在により、武田軍は天候に左右されずに大軍を駐屯させることが可能となり、兵站、情報収集、そして調略活動の総合拠点として機能することになった 14 。もはや武田の支配は、国人衆の向背に左右される「線」の支配ではなく、海津城を核とする盤石な「面」の支配へと転換したのである。
第二節: 城代・高坂昌信 - 最前線の指揮官
この最重要拠点の初代城将(城代)として信玄が任じたのは、武田四名臣の一人に数えられる猛将・高坂昌信(弾正忠)であった 13 。彼の任務は、単に城を固く守ることだけに留まらなかった。周辺に残る上杉方の国人衆を監視し、時には懐柔(調略)すること、越後から侵攻してくる上杉軍の動向をいち早く察知し、甲府の信玄に報告することなど、その役割は多岐にわたった 14 。海津城は、軍事拠点であると同時に、川中島四郡における武田家の行政と諜報活動の中心地でもあったのだ。高坂昌信の存在は、海津城の軍事的価値をさらに高めるものであった。
第三節: 景虎の関東出兵と信玄の牽制
まさに海津城が完成し、北信濃における武田の支配が磐石になろうとしていた永禄三年、上杉謙信(景虎)は生涯最大ともいえる大遠征に打って出る。前関東管領・上杉憲政を奉じ、その権威を以て関東の諸将を糾合し、宿敵・北条氏康を討伐すべく、越後の主力を率いて関東へと進軍したのである 15 。その軍勢は雪だるま式に膨れ上がり、十万に達したとも伝えられる 16 。
謙信の主力が関東に釘付けになっているこの状況は、信玄にとって千載一遇の好機であった。甲相駿三国同盟を結ぶ同盟国・北条氏康からの救援要請という大義名分もあった 16 。信玄は、完成したばかりの海津城を拠点として、北信濃に残る上杉方の残存勢力に圧力をかけ、謙信の背後を公然と脅かし始めた 15 。これは、遥か遠くの小田原城を大軍で包囲する謙信に対する、極めて効果的な牽制攻撃であった。
背後の本拠地・越後が脅かされる危険性を看過することは、いかなる名将にもできない。難攻不落で知られる小田原城の攻略が長期化する中、背後からの脅威に直面した謙信は、ついに小田原城の包囲を解き、軍を返すことを決断せざるを得なくなった 15 。
この一連の出来事は、海津城の完成と謙信の関東出兵が、単に同時期に起こった偶然の出来事ではなく、互いに作用し合う密接な因果関係にあったことを示している。海津城という「物理的な脅威」があったからこそ、信玄は謙信の関東平定という「壮大な戦略」を効果的に妨害できた。そして、その妨害があったからこそ、謙信はその脅威の根源である海津城を排除すべく、その全軍の矛先を再び川中島へと向けざるを得なくなったのである。信玄の謀略に対する謙信の燃えるような怒りと、海津城という戦略的脅威を何としても排除しなければならないという軍事的要請。この二つが合わさり、翌永禄四年(1561年)の第四次川中島合戦という、史上最大の激突へと繋がる直接的な導火線に火をつけた。海津城攻防とは、第四次合戦の「序章」ではなく、その「原因そのもの」であったと言えるだろう。
終章: 決戦前夜 - 海津城攻防がもたらしたもの
弘治三年(1557年)から永禄三年(1560年)に至る四年間は、川中島の戦いの歴史において決定的な転換期であった。この「海津城攻防」と称されるべき期間は、単なる前哨戦の連続ではなく、両雄の戦略が深化し、来るべき大決戦のすべての前提条件が整えられた、極めて重要な時期であった。
第一に、この四年間を経て、北信濃における勢力図は決定的に塗り替えられた。当初、武田の支配は国人衆の動向に左右される不安定なものであったが、葛山城の攻略、信濃守護職の獲得、そして海津城の完成という段階を経て、盤石かつ恒久的なものへと変貌を遂げた。川中島平原の主導権は事実上、武田の手に帰し、上杉方は飯山城を拠点に高井・水内両郡の一部を確保するに留まることとなった 2 。
第二に、海津城の存在そのものが、永禄四年の戦いの構図を決定づけた。敵地深くに打ち込まれたこの巨大な楔を抜くため、謙信は敵の支配地域へ大軍を侵攻させるという、極めてリスクの高い作戦を選択せざるを得なくなった。謙信が海津城と千曲川を挟んで対峙する妻女山に布陣するという大胆な戦術も、眼前に武田方の堅固な拠点である海津城が聳え立っていたからこその選択であった 15 。海津城なくして、あの特異な布陣はあり得なかったであろう。
第三に、この期間は両雄の戦略思想が成熟し、その個性を際立たせた時期でもあった。武田信玄は、軍事的な勝利のみに固執せず、調略、外交、政治工作を駆使して領土を確実に確保し、経営していくという、現実主義的で周到な戦略家としての姿を明確にした。一方の上杉謙信は、「義」を掲げ、幕府や関東管領といった伝統的権威を大義名分としながら、広域にわたる軍事行動を展開する、理想主義的で比類なき戦術家としての天分を一層開花させた。
結論として、「海津城攻防(1557-1560)」とは、武田信玄が戦略的持久と政治工作によって北信濃の支配権を確立し、その絶対的な象徴として海津城を築き上げる過程であった。そしてその結果として、関東に覇を唱えようとしていた上杉謙信を、宿命の決戦の場である川中島へと引きずり出すことに成功した、壮大な戦略的序曲であった。この四年間という雌伏と胎動の期間なくして、永禄四年九月十日の八幡原における、戦国史に燦然と輝くあの大激闘はあり得なかったのである。
引用文献
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- 定説、覆る!戦国時代「川中島の戦い」で武田信玄と上杉謙信は実際に何回戦ったのか? | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/242915/2
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- 山本勘助(道鬼)墓 - 信州松代観光協会 https://www.matsushiro-kankou.com/spot/spot-053/
- 松代城 http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zyousi/naganokenn/matusirozyou/matusirozyou.html
- 【学習史跡】川中島古戦場 長野県【戦国時代】 | かわせれいとブログ https://ameblo.jp/kawasereito/entry-12748814462.html
- 城・館 - 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[史跡ガイド] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/shiseki/list/jouseki.php%3Fpage=all.html