最終更新日 2025-08-29

深谷城の戦い(1590)

豊臣秀吉の小田原征伐において、深谷城は城主不在のまま豊臣軍に包囲された。重臣の秋元長朝と杉田因幡は、無益な抵抗を避け、城と領民を守るため無血開城を決断。この知謀の選択は、戦国末期の武士の新たな価値観を示し、秋元は後に徳川家康に重用された。

天正十八年・武蔵深谷城の攻防 ― 北条家北部防衛線、崩壊の瞬間

序章:天下統一、最後の壁

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。関白豊臣秀吉による天下統一事業は、その最終段階に差し掛かり、関東に巨大な独立勢力を維持する後北条氏が、その野望の前に立ちはだかる最後の壁となっていた 1 。この年、日本全土を巻き込むことになる小田原征伐は、単なる一地方大名の征討ではなく、秀吉が築き上げつつあった新たな天下秩序への服従を問う、最終通告としての意味合いを色濃く帯びていた。

開戦の直接的な引き金となったのは、上野国(現在の群馬県)で発生した名胡桃城事件である 1 。北条氏の家臣が、秀吉の裁定によって真田氏の所領とされた名胡桃城を奪取したこの一件は、秀吉が天下に布告した「惣無事令」(大名間の私闘を禁じる法令)に対する明白な違反行為と見なされた。これを好機と捉えた秀吉は、後陽成天皇から北条討伐の勅許を得ることに成功する。天正17年(1589年)12月、秀吉は諸大名に宛てた書状の中で、北条氏直を「天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ」存在と断じ、「勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と、その征伐が天皇の意思に基づく正義の戦いであることを高らかに宣言した 2 。この大義名分は、全国の大名を豊臣軍へと結集させる強力な磁力となった。

この未曾有の危機に対し、両軍は対照的な戦略を採用する。豊臣方は、総勢21万から22万ともいわれる、日本の歴史上類を見ない大軍を動員 3 。秀吉自らが率いる東海道方面軍を主力とし、海上からは九鬼嘉隆や加藤嘉明らの水軍が伊豆沿岸を制圧、そして北からは前田利家、上杉景勝らを将とする北国方面軍が上野国から武蔵国へと進撃するという、陸海からの三面作戦を展開した 2 。秀吉が特に重視したのは兵站であり、駿河国に20万石もの兵糧米を集積させるなど、長期戦をものともしない圧倒的な物量で北条氏を圧殺する構えであった 1

一方、後北条方は、当主・北条氏直と隠居の氏政の下、約5万6千の兵力を動員 3 。その戦略の根幹は、かつて上杉謙信や武田信玄の侵攻をも退けた難攻不落の巨城・小田原城への徹底した籠城策であった 5 。氏直は領国内の家臣や国人衆に対し、翌年1月15日までに小田原への参陣を厳命 2 。これにより、鉢形城や館林城といった主要な支城には一定の兵力が配置されたものの、多くの城は城主と主力が不在という脆弱な状態に置かれることとなった 4 。この「小田原集中籠城策」は、過去の成功体験に固執したものであったが、兵站能力と動員力において比較にならない豊臣軍を相手にするには、自らの手足を切り落とし、首だけを残して敵の攻撃を待つに等しい戦略的失策であった。この判断が、深谷城をはじめとする多くの支城の運命を、戦わずして決定づけることになるのである。

本報告書が主題とする深谷城は、利根川と荒川という二大河川に挟まれた武蔵国北部に位置し、上野国と武蔵国府を結ぶ街道を押さえる戦略的要衝であった。この地は、北条氏にとって北関東を防衛するための重要な防衛線の一角を成しており、その動向は小田原征伐全体の戦局にも決して小さくない影響を与えるものであった。

第一部:北からの鉄槌 ― 北国方面軍の進撃

小田原城に豊臣軍の主力が迫る中、北条氏の背後を突くべく編成されたのが、北国方面軍であった。この軍団は、豊臣政権の権威を象徴するかのように、かつては敵味方に分かれて戦った諸将が一堂に会する、まさにオールスターと呼ぶべき陣容を誇っていた。

北国方面軍の編成と戦略

総勢3万5千を数えるこの方面軍は、秀吉の旧友であり、豊臣政権の重鎮である前田利家が1万8千の最大兵力を率い、事実上の総大将格を務めた 4 。これに、かつて北条氏と関東の覇権を巡り激しく争った越後の雄・上杉景勝が1万、そして知謀で知られる真田昌幸が3千の兵を率いて加わった 4 。彼らは北条氏にとって因縁浅からぬ相手であり、その進軍は単なる軍事行動に留まらず、北関東の北条方勢力に強烈な心理的圧迫を与えるものであった。

上野国制圧までの時系列

北国方面軍の進撃は、計画的かつ迅速に進められ、北条氏が誇った北関東の支配網は、わずか一ヶ月余りで根こそぎ覆されることとなる。その進軍の軌跡は、以下の年表に集約される。

日付(天正18年)

場所

概要

主要指揮官

3月15日

碓氷峠

北国方面軍、進軍を開始。北条方の最前線である松井田城への圧力を強める。

前田利家、上杉景勝

3月28日

上野・松井田城

松井田城への攻撃が本格化。城主・大道寺政繁は約2,000の兵で籠城。

前田利家、上杉景勝

4月20日

上野・松井田城

約3週間の攻防の末、松井田城落城。城主の大道寺政繁は投降する。

前田利家、上杉景勝

4月24日まで

上野・箕輪城、厩橋城

北国方面軍、上野国の中核拠点を次々と占領。

真田昌幸ほか

4月29日まで

上野・金山城、館林城

北条方に与していた由良氏、長尾氏らの居城も開城し、上野国は完全に制圧される。

前田利家、上杉景勝

5月上旬

下野・皆川城

皆川広照が降伏開城。広照は以前から秀吉に誼を通じていたため、助命される 4

(豊臣軍)

この驚異的な進撃速度の背景には、秀吉による巧みな遠隔指揮があった。小田原に本陣を置く秀吉は、石田三成ら腹心の部下を使者として頻繁に派遣し、北国方面軍に詳細な指示を与えていた。例えば、4月29日付で真田昌幸に送られた書状では、降伏した箕輪城の兵糧や武具を完全に接収すること、そして占領地の民衆を安堵させ、特に「女童部をとらへ売買仕る族」を厳しく罰するなど、占領地政策にまで細かく言及している 6 。これは、方面軍が単なる破壊者ではなく、秀吉の天下平定政策を遂行する統治機関としての役割をも担っていたことを示している。

一方で、秀吉の管理は極めて厳格であった。5月20日には、浅野長政らが鉢形城への進軍を遅らせていることに対し、「端城に二万の軍勢で請け取るのは適さない」「早々に鉢形に押し寄せ包囲せよ」と長文の叱責状を送るなど、一切の遅滞を許さない姿勢を貫いた 4

この北国方面軍の進撃過程で、豊臣軍の支城攻略における二つの基本パターンが明確になった。一つは、徹底した抵抗を見せた城に対する殲滅戦である。後に攻略される武蔵・八王子城では、城主・北条氏照の家臣や領民が激しく抵抗した結果、落城後には「妻子・足弱までも悉く成敗」されるという悲劇に見舞われた 4 。もう一つは、早期に降伏した城に対する寛大な処置である。前述の皆川城のように、城主の命を助け、家財の一部下賜を認めるケースも見られた 6 。この「抵抗すれば根絶やし、降伏すれば助命」という明確な方針は、周辺の城々に伝播し、これから豊臣の大軍を迎え撃たねばならない城主や守将たちに、究極の選択を迫る無言の圧力となった。深谷城の守将たちが下す決断もまた、この情報戦の渦中で形成されていくのである。

第二部:主を欠いた要衝 ― 深谷城の実情

北国方面軍が上野国を席巻し、その矛先を武蔵国へと向け始めた頃、その進路上に位置する深谷城は、極めて困難な状況に置かれていた。物理的には堅固な城塞であったが、それを守るべき「魂」を欠いていたのである。

城郭の構造と歴史的背景

深谷城は、室町時代の康正2年(1456年)、深谷上杉氏の祖である上杉房憲によって築かれた平城である 7 。唐沢川や福川といった河川に囲まれた低湿地という自然地形を巧みに利用し、二重に巡らされた堀には川の水が引き入れられ、高く強固な土塁が築かれていた 9 。その堅固さから「難攻不落」と称され、往時は南北約600mに及ぶ大規模な城郭を誇ったという 9

この城を代々の居城とした深谷上杉氏は、山内上杉家の庶流として武蔵北部に勢力を張った名家であった。しかし、戦国時代の荒波の中で、関東の覇権は小田原の北条氏へと移っていく。深谷上杉氏も長らく北条氏と敵対したが、天正元年(1573年)、上杉憲盛の代に遂にその軍門に降り、以降は北条家の有力な配下大名として存続の道を選んだ 11

城主不在という致命的状況

天正18年(1590年)、深谷城の城主は上杉氏憲であった 11 。彼は北条氏の家臣として、秀吉による討伐軍の到来に際し、北条家当主・氏直からの動員令に従うことを余儀なくされた。これは氏憲個人の選択というよりも、北条氏を中心とする支配体制下における家臣としての義務であった。彼は、深谷城の主力を率いて小田原城へと向かい、巨大な籠城戦の一翼を担うこととなったのである 12

その結果、本拠地である深谷城には、城主も、そして主力部隊も不在という、防衛上、致命的ともいえる状況が生まれた。城に残された兵力は極めて手薄な「寡兵」であったと記録されており 13 、いかに難攻不落と謳われた城であっても、それを守る兵がいなければ、その価値は著しく損なわれる。城は、まさに主を欠いた巨大な器と化していた。

留守を預かる二人の重臣

この絶望的な状況下で、城の命運を託されたのが、二人の重臣であった。

一人は、 秋元長朝 (1546年~1628年)である。彼は伊原氏、岡庭氏と共に「武州深谷三人衆」と称された深谷上杉家譜代の重臣であり、その家名は地域に広く知られていた 14 。後に徳川家康に仕え、大名にまで取り立てられた彼の経歴は、単なる武辺者ではなく、優れた政治手腕と交渉能力を兼ね備えた人物であったことを物語っている 14

もう一人は、 杉田因幡守 (生年不詳~1616年)である。彼もまた、数々の戦功を挙げて重臣の列に加わった歴戦の武将であった 16 。その墓所は現在も深谷市内の西運寺にあり、地域の人々によって大切に守られている 16

彼ら留守居の重臣たちが置かれた立場は、想像を絶するほど困難なものであった。彼らは城主代理ではあるが、城の所有者ではない。彼らに課せられた最大の責務は、主君・上杉氏憲が不在の間に、その所領と、そこに暮らす領民の生命・財産を保全することにあった。北条家への忠義を貫き、玉砕覚悟で豊臣の大軍に立ち向かうことは、一見すると武士の鑑のように映るかもしれない。しかし、その結果として城下が焦土と化し、領民が虐殺され、主君が帰るべき場所そのものが失われてしまっては、家臣としての本分を果たしたとは到底言えない。むしろ、主家の財産を無に帰す「背信行為」と見なされる危険性すら孕んでいた。

したがって、彼らが下すべき決断は、単なる軍事的な選択に留まらなかった。滅びゆく主家である北条家への忠義と、自らの直接の主君である深谷上杉家の存続、そして領民の安寧。これら複雑に絡み合う要素を天秤にかけ、最善の道を探らねばならなかったのである。この決断は、戦国末期における武士の価値観が、盲目的な忠節から、家を存続させるための現実的な政治力へと移行していく、時代の過渡期を象徴するものであったと言えるだろう。

第三部:決断の刻 ― 深谷城、開城に至る道(時系列分析)

上野国を完全に制圧した北国方面軍は、いよいよ武蔵国へとその歩を進めた。深谷城にとって、運命の時は刻一刻と迫っていた。この城で繰り広げられた「戦い」とは、血で血を洗う攻防戦ではなく、情報と交渉が雌雄を決する、知謀戦であった。

【天正18年5月中旬~下旬(推定)】戦雲、深谷へ

5月中旬、上野国の諸城が完全に豊臣方の手に落ちると、前田利家、上杉景勝らの本隊は、北武蔵の最重要拠点である鉢形城へと向かった 4 。同時に、浅野長政(長吉)らが率いる部隊が、鉢形城と忍城の中間に位置する深谷城への圧力を開始したと見られる 16 。この時点で、深谷城は北条氏の北武蔵防衛線において、西の鉢形城、北の忍城と共に、孤立した最後の拠点の一つとなっていた。

城内には、周辺の村々から逃れてきた人々によって、豊臣軍の圧倒的な軍容や、近隣の城々の末路に関する情報が断片的に、しかし確実に流れ込んでいたはずである。抵抗して殲滅された城の話、降伏して安堵された城の話。それらの情報が、城兵や領民の間に不安と動揺を広げ、評定の席に重い空気をもたらしたことは想像に難くない。

【包囲と評定】籠城か、降伏か

やがて、前田・浅野軍の先鋒が深谷城下に姿を現し、城は完全に包囲された。この絶望的な状況下で、秋元長朝と杉田因幡を中心とする城内の重臣たちによる最後の評定が開かれた。

籠城を選択した場合の未来は、誰の目にも明らかであった。主力を欠いた「寡兵」では、いかに堅城といえども数日の防戦が限界であろう 13 。小田原の本城からの援軍は、20万を超える大軍に包囲されている以上、全く期待できない。そして、力尽きて落城した暁には、八王子城で起きたような悲劇、すなわち城兵のみならず女子供に至るまでの皆殺しが待っている可能性が極めて高かった 4

ここで、いくつかの記録に見られる「奮戦した」 14 あるいは「落城寸前となり開城した」 11 という記述の解釈が重要となる。これらの記述は、実際に大規模な戦闘があったことを示すものではない可能性が高い。むしろ、豊臣軍による降伏勧告に対し、城方が即座には応じず、防衛の意志を示すための小競り合いや、豊臣方による示威攻撃が行われたことを示唆している。これは、交渉を有利に進めるための戦術であったと考えられる。単に無抵抗で降伏するのではなく、あえて一定の抵抗(奮戦)を見せることで、「我々は臆病者ではないが、道理をわきまえた交渉相手である」というメッセージを敵方に送り、結果としてより良い条件での開城を引き出すための、計算された行動だったのである。

【交渉開始】軍使、敵陣に赴く

評定の末、秋元長朝と杉田因幡は、城と領民を戦火から救うという、家臣として最も重い責務を果たすため、開城を決断。自らが軍使として敵陣に赴くことを選んだ 16

交渉相手は、前田利家と浅野長政であった。この人選は、深谷城にとって幸運であったと言えるかもしれない。利家は秀吉の旧友であると同時に、情理をわきまえた武将として知られていた。上野国の金山城主であった由良氏の老母・妙印尼輝子が豊臣方に味方した際には、その身柄を保証する書状を送るなど、温情ある対応を見せている 18 。一方の浅野長政は、秀吉の縁戚であり、豊臣政権の奉行として実務能力に長けた人物であった。この二人が交渉の窓口であったことが、無血開城という穏便な解決に繋がった一因と考えられる。

【開城】無血という名の「戦」の終結

秋元と杉田による交渉は、成功裏に終わった。深谷城は、一人の犠牲者を出すことなく、豊臣軍に明け渡されることとなった。この無血開城が実現した具体的な日付を記す史料は現存しないが、その後の北国方面軍の動向から、鉢形城への総攻撃が開始される6月14日より前、すなわち5月下旬から6月上旬にかけての出来事であったと推定するのが最も蓋然性が高い。

開城の条件は、秀吉が他の降伏した城に示した方針に準じたものだったと推測される。すなわち、城兵の生命は保証され、城内の兵糧・鉄砲・弾薬といった軍需物資はすべて豊臣軍が接収する、という内容である 6 。秋元長朝と杉田因幡のこの決断は、後世、「深谷の街を戦禍から救った」と高く評価されることになる 16 。彼らは、武力による抵抗ではなく、知力と交渉力をもって城と民を守り抜いた。それこそが、彼らにとっての「戦」だったのである。

人物名

所属・役職

開城時における役割・行動

その後の動向

上杉 氏憲

深谷城主

北条家の動員令に応じ、主力を率いて小田原城に籠城。深谷城には不在であった 11

北条氏滅亡後、久保田と改姓し隠棲した説 13 と、徳川家に仕えた説 12 がある。

秋元 長朝

深谷上杉家 重臣

杉田因幡と共に留守居役を務める。豊臣軍の包囲に対し、開城を決断。軍使として交渉にあたり、無血開城を実現させた 16

徳川家康に仕え、上野国総社藩主(1万石)となる。関ヶ原の戦いでは上杉景勝への降伏勧告使者を務めた 14

杉田 因幡守

深谷上杉家 重臣

秋元長朝と共に城の守備を担う。軍使として前田・浅野軍の陣に赴き、開城交渉を成功させた 16

秋元長朝と共に徳川家に仕えたと考えられる。深谷市内の西運寺に墓所が現存する 16

前田 利家

豊臣軍 北国方面軍 総大将格

上杉景勝らと共に北関東の諸城を攻略。深谷城包囲軍の指揮官の一人として、秋元・杉田からの開城申し入れを受理した 16

小田原征伐後も豊臣政権の重鎮として活躍。五大老の一人となる。

浅野 長政

豊臣軍 武将・奉行

北国方面軍に属し、深谷城開城交渉の当事者の一人となる。秀吉の意向を汲み、実務的な処理を行ったと考えられる 16

豊臣政権の五奉行の一人。後に甲斐国府中22万石の大名となる。

第四部:崩れゆく防衛線とその後

深谷城の無血開城は、単に一つの城が降伏したという以上の戦略的意味を持っていた。それは、北条氏が武蔵北部に築いた防衛線に決定的な亀裂を生じさせ、その崩壊を加速させる一撃となったのである。

北武蔵防衛線の瓦解と戦略的影響

深谷城が戦わずして豊臣方の手に落ちたことにより、北国方面軍は後顧の憂いを断つことができた。これにより、前田・上杉軍は全戦力を北武蔵最大の拠点である鉢形城の攻略に集中させることが可能となった。鉢形城主・北条氏邦は3千余の兵で約1ヶ月にわたり籠城戦を繰り広げたが 19 、衆寡敵せず、6月14日に遂に開城した 4

一方、武蔵北部のもう一つの重要拠点であった忍城は、城主・成田氏長が小田原に詰めていたものの、その家臣たちが500の兵で籠城を続けていた 4 。秀吉は石田三成に2万の軍勢を与えてこの攻略を命じ、三成は利根川の水を利用した水攻めを敢行する 23 。しかし、堤防の決壊などにより水攻めは失敗に終わり、忍城は小田原城が7月5日に開城した後も抵抗を続けた 4 。最終的に、城主・氏長自らの説得により、7月16日に開城するに至った 25

深谷城の早期開城は、結果的に、豊臣軍が鉢形城と忍城という二つの難敵を各個撃破することを容易にした。利根川・荒川水系に沿った北条方の防衛拠点が完全に無力化されたことで、北関東から江戸城、そして小田原城への軍事的圧力は決定的となり、北条氏の敗北を早める一因となったことは間違いない。

関係者たちのその後

深谷城の開城劇に関わった人物たちは、北条氏の滅亡後、それぞれ異なる道を歩むこととなる。

  • 上杉氏憲: 主家である北条氏が滅亡した後、その処遇については諸説ある。一説には、姓を久保田と改めて信濃国に隠棲したとされ 13 、また別の説では、徳川家康に召し抱えられて水戸徳川家の家臣となったとも伝えられている 12 。いずれにせよ、深谷上杉家は戦国大名としての歴史に幕を閉じた。
  • 秋元長朝: 彼のその後の人生は、深谷城での決断が如何に的確であったかを雄弁に物語っている。小田原征伐後、徳川四天王の一人である井伊直政の強い推挙により、徳川家康に仕えることとなった 14 。家康は、秋元の行動を旧主への不忠とは見なさず、むしろ絶望的な状況下で領地と領民を守り抜いたその冷静な判断力と交渉能力を高く評価したのである。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、会津の上杉景勝が西軍に与しようとするのを牽制するための密使を務め、戦後には降伏勧告の正使として赴き、上杉家の減封・移封交渉をまとめる大役を果たした 14 。これらの功績により、彼は上野国総社において1万石を与えられ、大名へと立身した 15 。深谷城での決断は、彼にとって、旧時代の武士から新時代の統治者へと転身するための、キャリアにおける重要な試金石となったのである。
  • 杉田因幡: 彼もまた、秋元と共に徳川家に仕えたと考えられている。その後の詳細な足跡は不明な点が多いが、慶長21年(1616年)に没するまで、新たな時代を生き抜いた 16

深谷城の終焉

徳川家康が関東に入府すると、深谷城には家康の家臣である松平康直が1万石で入城した 7 。しかし、その後は家康の子である松千代、忠輝が相次いで城主となるなど、目まぐるしく支配者が変わる 27 。最終的に、寛永3年(1626年)、当時の城主であった酒井忠勝が忍城へと転封された際に、深谷城はその歴史的役割を終えたと判断され、廃城となった 8 。康正2年(1456年)の築城以来、約180年にわたり武蔵北部の中心であり続けた名城は、こうして静かにその歴史の幕を下ろしたのである。

結論:あるべき「戦」の姿

天正18年(1590年)の「深谷城の戦い」は、その名に反し、壮絶な斬り合いや血なまぐさい攻防戦が繰り広げられたわけではない。それは、20万を超える豊臣の大軍という、抗いようのない圧倒的な国力差を前にした現場指揮官たちが、冷静かつ現実的な状況判断と、巧みな交渉術によって帰結させた、知謀の「戦」であった。

城主不在、寡兵という絶望的な状況下で、留守居の重臣・秋元長朝と杉田因幡が下した無血開城という決断は、一見すれば降伏に他ならない。しかし、その内実を深く見れば、それは武士としての意地や旧主への盲目的な忠義よりも、自らが守るべき主家(深谷上杉家)の存続と、領民の安寧を最優先した、極めて責任感の強い指導者の姿を映し出している。無益な抵抗によって人命と財産を灰燼に帰すことを避け、未来へと繋ぐ道を選んだのである。

この一件は、約150年にわたって続いた戦国乱世の終焉期において、武士に求められる価値観が大きく変容していったことを示す、象徴的な事例と言えよう。個人の武勇や一時の忠節が尊ばれた時代から、いかにして家と領地を保全し、次代へと引き継いでいくかという、より高度で政治的な統治能力が問われる時代へ。秋元長朝がその後の徳川の世で大名として重用された事実は、彼の深谷城での選択が、新しい時代の要請に応えるものであったことを何よりも雄弁に物語っている。

深谷城の開城は、戦わずして勝つ、あるいは戦わずして守るという、もう一つの「戦」のあり方を示した。それは、戦国の歴史に数多ある華々しい合戦の影に隠れがちではあるが、時代の転換点を生きた人々の叡智と苦悩を今に伝える、誠に意義深い一頁なのである。

引用文献

  1. 「豊臣軍は米がなくイモを掘って食べている」小田原征伐で秀吉軍7万人が深刻な兵糧不足に陥った当然の理由 圧倒的に不利な北条氏政が「勝てる」と踏んだワケ (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/74014?page=2
  2. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  3. 小田原合戦 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/011/
  4. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  5. 北条五代にまつわる逸話 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p17445.html
  6. 【小田原出陣】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096230
  7. 深谷城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E5%9F%8E
  8. 平安・鎌倉・南北朝/深谷市ホームページ https://www.city.fukaya.saitama.jp/rekishi_bunkazai/shinorekishi/1391995815393.html
  9. 深谷城 - 古城の歴史 https://takayama.tonosama.jp/html/fukaya.html
  10. 史跡/深谷市ホームページ https://www.city.fukaya.saitama.jp/rekishi_bunkazai/shinobunkazai/fukayashishiteinobunkazai/kinenbutu/1391735889657.html
  11. 武蔵 深谷城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/fukaya-jyo/
  12. 武家家伝_深谷氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hukaya_k.html
  13. 上杉氏憲 (深谷上杉氏) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B0%8F%E6%86%B2_(%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B0%8F)
  14. 秋元長朝の紹介 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/busho/akimoto/b-akimoto-naga.html
  15. 深谷城開城の際の家老だった秋元長友について、以下の3点について日時・同行者などがわかる資料があるか。... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000088351
  16. 『武蔵深谷 秀吉の小田原城合戦で北条氏に従い籠城していた深谷 ... https://4travel.jp/travelogue/10954641
  17. 高さ約4mもある中山道でも最大級のものです。 深谷市指定文化財。 http://www.fukaya-ta.com/cms/wp-content/uploads/2008/08/1d98f46d0e2557533ddd9ef03dfa0bc8.pdf
  18. ゆかりの品々 - 妙印尼輝子 https://www.myouinniteruko.com/relic.html
  19. 鉢形城(埼玉県) - 全国史跡巡りと地形地図 https://www.shiseki-chikei.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC100%E5%90%8D%E5%9F%8E/18-%E9%89%A2%E5%BD%A2%E5%9F%8E-%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C/
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  24. 石田三成と忍城水攻め - 行田市 https://www.city.gyoda.lg.jp/material/files/group/5/110208_08.pdf
  25. 忍城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  26. 忍城の戦い(2/2)豊臣軍の猛攻を耐え抜いた「浮き城」 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/335/2/
  27. 深谷城跡 https://www.city.fukaya.saitama.jp/material/files/group/60/fukayajyoato.pdf
  28. 武蔵深谷城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/fukaya.htm