清洲城の戦い(1556~57)
1552年から1557年、織田信長は清洲城を巡る戦いで尾張統一の礎を築いた。主家や実弟信勝との内紛を制し、非情な決断と卓越した軍才で旧秩序を破壊。桶狭間へと続く修羅の道であった。
尾張統一への修羅道:織田信長と「清洲城の戦い」(1552年~1557年)の全貌
序章:尾張の混沌 – 織田信長、家督相続の試練
戦国時代の尾張国において、1552年から1557年にかけての一連の抗争は、単なる領土争いにとどまらず、織田信長という稀代の英雄がその真価を世に問い、旧来の秩序を破壊して新たな時代を切り拓くための、血塗られた序曲であった。この期間は、一般に「清洲城の戦い」として知られるが、その実態は、主家筋である清洲織田氏の打倒と、実弟・信勝(信行)派の粛清という、二つの大きな内訌から構成される。本報告書は、この連続した動乱の全貌を、合戦のリアルタイムな状況を再現するかの如く時系列に沿って詳述し、信長が如何にして「大うつけ」の汚名を雪ぎ、尾張統一の礎を築いたかを徹底的に解明するものである。
父・信秀の急逝と権力の真空
天文21年(1552年)3月、尾張にその名を轟かせた織田弾正忠家の当主、織田信秀が急逝した 1 。信秀は、尾張守護代の家臣、いわゆる清洲三奉行という家格の低い身分でありながら、その卓越した軍事力と政治手腕で尾張国内に一大勢力を築き上げた実力者であった 2 。彼の存在は、複雑に絡み合う尾張の諸勢力を辛うじて抑え込む重石の役割を果たしていた。しかし、その死は突如として権力の真空を生み出し、尾張は再び混沌の渦へと引き戻されることとなる。これまで信秀の武威に服していた者たちが、一斉に独自の動きを開始する好機が到来したのである。
分裂した尾張の勢力図
当時の尾張国は、名目上の最高権力者である守護・斯波氏が君臨していたが、その権威は完全に失墜していた。実権を掌握していたのは、守護代として尾張を二分して統治する二つの織田家であった。尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配する岩倉城の「織田伊勢守家」と、下四郡(海東・海西・愛智・智多)を領し、守護所が置かれていた清洲城を本拠とする「織田大和守家」である 4 。
信長の「織田弾正忠家」は、この織田大和守家に仕える三奉行の一つに過ぎず、家格においては主筋にあたる清洲の織田信友に劣る立場であった 3 。信秀の死後、家督を継いだ信長は那古野城を、そして同母弟の信勝(信行)は父の居城であった末森城を拠点とし、弾正忠家そのものが分裂の危機を孕んでいた 8 。さらに、犬山城主の織田信清は信長と距離を置き、鳴海城主の山口教継は尾張を見限り、東の強国・今川義元に寝返るなど 9 、19歳の若き新当主が置かれた状況は、まさに四面楚歌であった。
「大うつけ」の烙印と家臣団の不安
この危機的状況をさらに深刻にしたのが、信長自身の評判であった。家督を継いだ信長は、常軌を逸した奇抜な服装や、街中で瓜や餅にかぶりつくといった行儀知らずの振る舞いから、領内では「大うつけ(大馬鹿者)」と揶揄されていた 2 。この評価は、父・信秀の葬儀において、抹香を位牌に投げつけるという衝撃的な奇行によって決定的なものとなる 14 。
この一連の行動は、織田家の将来を案じる重臣たちに深刻な不安を抱かせた。特に、信長の傅役(守り役)であり筆頭家老であった林秀貞(通勝)や、家中随一の猛将と謳われた柴田勝家らは、品行方正で人望の厚い弟・信勝こそが織田家の当主にふさわしいと考えるに至る 7 。
しかし、この「うつけ」という評価には、別の側面があった可能性も指摘される。信長の型破りな行動は、旧来の格式や権威に縛られた重臣たちを遠ざける一方で、前田利家のような既成概念にとらわれない若者たちを強く惹きつけた。彼らと野山を駆け巡る日々は、敵対勢力に油断させると同時に、旧来の家臣団とは異なる、自らに絶対の忠誠を誓う「親衛隊」を育成する過程でもあった 13 。それは、新たな価値観に基づく権力基盤を構築するための、高度な戦略的パフォーマンスであったのかもしれない。信秀の死がもたらしたのは単なる代替わりではなく、家格という旧来の秩序を回復しようとする清洲の信友らと、実力という新たな秩序を確立しようとする信長との、尾張の支配体制の再定義を巡る全面的な抗争の幕開けであった。
第一部:清洲城への道 – 守護代・織田信友との対決(1552年~1555年)
父・信秀の死によって生じた権力の空白を突き、最初に信長に牙を剥いたのは、本来の主家筋にあたる清洲城主・織田信友であった。ここから始まる一連の戦いは、信長が尾張における旧勢力を打倒し、新たな支配者として名乗りを上げるための最初の試練となる。
第一章:前哨戦 – 萱津の戦い(天文21年/1552年)
信秀の死を千載一遇の好機と捉えたのは、清洲織田家の実権を握る家宰・坂井大膳であった。彼は、若き新当主・信長の実力を見定めるべく、明確な挑戦状を叩きつける。天文21年(1552年)8月15日、坂井大膳は河尻与一らと謀り、信長方であった松葉城と深田城を急襲し、これを占拠した 1 。
この報せを受けた信長の対応は、迅速かつ果断であった。翌8月16日の早朝、那古野城から直ちに出陣すると、守山城主である叔父・織田信光の援軍と合流 10 。兵を複数に分け、清洲方への反撃を開始した。
辰の刻(午前8時頃)、両軍は萱津(現在の愛知県あま市)の地で激突した 10 。清洲城からは坂井大膳と並ぶ実力者・坂井甚介が出撃し、信長軍と数時間にわたる激戦を繰り広げた 2 。この戦いで、信長軍の柴田勝家と中条家忠が二人がかりで坂井甚介を討ち取るという武功を挙げる 10 。この時点では、柴田勝家はまだ信長の忠実な配下として戦っていたのである。また、この戦いは「槍の又左」こと前田利家の初陣でもあり、彼は首級一つを挙げる手柄を立てている 2 。
結果は信長軍の圧倒的な勝利に終わった。勢いに乗った信長軍は松葉・深田両城に迫り、これを奪還。さらに清洲城下の田畑を薙ぎ払い、その武威を見せつけた 10 。この萱津の戦いでの鮮やかな勝利は、「大うつけ」と侮られていた信長の軍事的才能を尾張国内に広く知らしめ、その評価を一変させる重要な契機となったのである 2 。
第二章:大義名分の獲得 – 守護・斯波義統の殺害(天文23年/1554年)
萱津の戦いで軍事的な優位を示した信長であったが、主筋である守護代・織田信友を滅ぼすには、武力以上の正当性、すなわち「大義名分」が必要であった。その絶好の機会は、敵である信友自身の手によってもたらされる。
当時、尾張守護であった斯波義統は、清洲城内において織田信友と坂井大膳の完全な傀儡と化していた。しかし、彼はこの屈辱的な状況からの脱却を諦めておらず、密かに信長に内通し、実権回復の機会を窺っていた 6 。この動きを察知した信友方は、義統への警戒を強めていた。
天文23年(1554年)7月12日、運命の日が訪れる。義統の嫡男・斯波義銀が、供の若武者たちを引き連れて川へ狩りに出かけ、城内の守護邸の警備が手薄になった 6 。この僅かな隙を、坂井大膳は見逃さなかった。彼は兵を率いて守護邸を四方から包囲、急襲した。邸内では、同朋衆の何阿彌や森刑部丞兄弟らが壮絶な抵抗を見せたが、衆寡敵せず、次々と討ち取られていく。もはやこれまでと悟った斯波義統は、邸に火を放ち、一族郎党数十名と共に自刃して果てた 6 。
狩りに出ていて難を逃れた斯波義銀は、この凶報に接するや、着ていた浴衣のまま那古野城へと走り、信長に助けを求めた 4 。信長はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼は直ちに義銀を保護し、200の兵を与えて庇護下に置いた 6 。これにより、信長は単なる織田家分家間の争いを、「主君殺しという大罪を犯した逆賊・織田信友を、亡き主君の遺児を奉じて討つ」という、誰もが認める正義の戦いへと昇華させたのである。若き信長が、武力だけでなく、政治的な駆け引きにおいても非凡な才能を持っていたことが、この一連の対応から見て取れる。
第三章:清洲城奪取 – 安食の戦いと信友の滅亡(1554年~1555年)
絶対的な大義名分を手にした信長は、直ちに信友討伐の兵を挙げた。これが「安食の戦い」、あるいは『信長公記』の記述から「中市場合戦」とも呼ばれる戦いである 21 。
斯波義統の初七日にあたる7月18日、信長軍は清洲城下に迫った。弔い合戦という名分のもと、士気は極めて高い。信長軍は清洲勢を各所で撃破し、河尻左馬丞、織田三位といった信友方の有力武将を次々と討ち取った 21 。特に、亡き義統の家臣であった由宇喜一が、わずか17、8歳にして織田三位の首を挙げるという目覚ましい活躍を見せ、この戦いがまさに復讐戦であったことを象徴している 24 。
安食の戦いで大敗を喫し、追い詰められた坂井大膳は、最後の策として信長の叔父である守山城主・織田信光に調略を持ちかけた。「信長を裏切り、我らに味方すれば、尾張を二分して統治しよう」という甘言であった。しかし、信光は寝返ったふりをしてこの計略の全てを信長に報告しており、これは信友方を油断させるための二重の罠であった 2 。
天文24年(1555年)、信光の謀略にかかった織田信友は、信光によって清洲城内にて殺害された 5 。「主殺し」という大罪の咎を、自らもまた非業の死によって償うこととなったのである。坂井大膳はもはやこれまでと尾張を捨て、今川氏を頼って駿河へと逃亡した 22 。
こうして信長は、自らの手を直接汚すことなく最大の障害を排除することに成功した。彼は斯波義銀を伴って堂々と清洲城に入城し、尾張下四郡の政治・経済の中心地を完全に掌握した 4 。この功績に報いるため、それまでの居城であった那古野城は、叔父・信光に譲られた 9 。信光はこの直後に謎の死を遂げるが、この一連の出来事は、信長が目的のためには近親者さえも戦略の駒として利用する、非情な合理主義の萌芽をうかがわせるものであった。
第二部:兄弟相克 – 稲生の戦い(1556年~1557年)
清洲城を手中に収め、尾張下四郡の支配者となった信長であったが、彼の前にはさらに深刻な内部対立が待ち受けていた。それは、同じ母から生まれた実の弟、織田信勝(信行)との家督を巡る骨肉の争いである。この内訌は、織田弾正忠家を二分する最大の危機であり、信長の真価が問われる試練であった。
第一章:亀裂の顕在化 – 信勝派の形成
信長と信勝の対立の根源は、根深いものであった。母である土田御前は、奇行が目立ち奔放な信長を疎み、品行方正で従順な弟の信勝を明らかに寵愛していた 14 。この母の偏愛は、信長の「うつけ」ぶりに不安を抱いていた家臣たちにとって、信勝を新たな当主として擁立するための格好の拠り所となった。
信長の傅役でありながら、その資質に最も懐疑的であった筆頭家老・林秀貞、その弟で勇猛な林美作守(通具)、そして織田家随一の猛将として知られる柴田勝家。これら織田弾正忠家の中核をなす重臣たちが、信勝派の首謀者となった 7 。これは、もはや単なる家中の不和ではなく、織田家の分裂を意味する深刻な事態であった。
弘治2年(1556年)4月、信長にとって大きな後ろ盾であった美濃の斎藤道三が、その子・義龍との長良川の戦いで討ち死にする 18 。この信長の政治的・軍事的な弱体化を絶好の機会と捉えた信勝派は、ついに公然と反旗を翻した。信勝は、織田家当主が代々名乗ってきた官職である「弾正忠」を勝手に名乗り始め 7 、さらに信長の直轄領であった篠木三郷(現在の春日井市)を武力で奪い取るなど、その挑発行為はエスカレートの一途を辿った 15 。兄弟間の亀裂は、もはや修復不可能な段階に達していた。
第二章:稲生の激闘 – 時系列で見る合戦の推移(弘治22年/1556年8月24日)
信勝派の不穏な動きを察知した信長は、先手を打つ。弘治2年(1556年)8月22日、清洲城の東、庄内川の対岸に位置する名塚に急遽砦を築かせ、腹心である佐久間大学盛重にその守備を命じた 9 。
これに対し、信勝派も迅速に行動を起こす。翌23日、柴田勝家が1000、林美作守が700の兵を率いてそれぞれの居城から出陣し、名塚砦へと迫った 29 。信勝自身と林秀貞は、本拠地である末森城の守りを固めていた 31 。
そして運命の8月24日、状況は信長にとってさらに悪化する。連日の大雨で庄内川が氾濫し、清洲城と名塚砦は完全に分断されてしまったのである 9 。援軍を送ることが極めて困難なこの状況で、信長は常人には考えられない決断を下す。わずか700の手勢を率いて、自ら出陣したのである。土地勘に優れた佐々孫介の案内で川の浅瀬を探り当て、濁流渦巻く庄内川の渡河を強行した 9 。
この一連の戦いの推移は、以下の表に集約される。
稲生の戦い タイムライン(弘治2年8月24日)
時刻(推定) |
織田信長軍(兵力700)の動向 |
織田信勝軍(兵力1700)の動向 |
主要な出来事・戦況 |
関連資料 |
早朝 |
清洲城より出陣。佐々孫介の案内で増水した庄内川を渡河。 |
柴田勝家隊(1000)、林美作守隊(700)が名塚砦へ進軍を開始。 |
大雨により戦場は泥濘化。信長軍は奇襲的な渡河で敵の意表を突く。 |
9 |
正午頃 |
稲生原の東の藪際に布陣。敵の到来を待ち受ける。 |
柴田隊は東から、林隊は南から信長本陣へ挟撃する形で進軍。 |
両軍、稲生原にて戦闘開始。信長軍は圧倒的な兵力差に直面。 |
26 |
午後(戦闘序盤) |
兵力で勝る柴田隊に先制攻撃を仕掛ける。 |
猛将・柴田勝家の指揮のもと、猛攻を加えて信長軍を押し返す。 |
激しい槍の応酬。信長軍は劣勢に立たされる。 |
29 |
午後(戦闘中盤) |
本陣に敵が肉薄し、最大の危機を迎える。佐々孫介らが奮戦の末に討死。 |
信長本陣にまで迫り、勝利を目前にする。 |
信長軍、崩壊寸前。旗本衆のみが信長を守る状況。 |
29 |
午後(転換点) |
信長、馬上より大音声で一喝し、敵兵を叱咤。自ら先頭に立ち、兵を鼓舞。 |
信長の威光と気迫に押され、兵の足が止まる。士気が大きく揺らぐ。 |
戦局のターニングポイント。 心理戦で信長が優位に立つ。 |
26 |
午後(戦闘終盤) |
態勢を立て直し、目標を林美作守隊に変更して突撃。自ら槍を振るう。 |
主将・林美作守が信長との一騎打ちに近い状況で討ち取られ、部隊は総崩れとなる。 |
林隊の崩壊を見て柴田隊も退却を開始。信長軍の勝利が確定。 |
26 |
この勝利は、単なる幸運によるものではなかった。信長は、当時一般的であった二間半(約4.5m)の槍よりも長い、三間半(約6.3m)の長槍を足軽に装備させていたとされ、リーチの差で敵を圧倒する先進的な戦術思想を持っていた 34 。さらに、彼が率いた700の兵は、家臣の次男・三男らで構成された、信長が手塩にかけて育てた忠誠心の高い精鋭部隊、すなわち「親衛隊」であった 31 。兵の質と装備、そして何よりも総大将たる信長自身の比類なきカリスマ性と軍事的才能が、絶望的な兵力差を覆す奇跡を呼び起こしたのである。この戦いは、信長の「うつけ」という評判を完全に払拭し、彼の真の器量を家臣団に決定的に刻み付けた、いわば「通過儀礼」であった。
第三章:母の涙と一時的な和睦
稲生の戦いで完敗を喫した信勝派は、那古野城と末森城に敗走し、籠城を余儀なくされた 15 。信長は追撃の手を緩めず、末森城下に火を放ち、城を裸にするなど、徹底的な圧力を加えた 34 。
この絶望的な状況を収拾するために動いたのが、二人の母である土田御前であった。彼女は信長と信勝の間に立ち、涙ながらに信勝の助命を嘆願した 26 。
信長は、この母の願いを聞き入れた。「稲生の事は雨水の如く流れ去り申した」と述べ、弟・信勝をはじめ、反逆の首謀者であった柴田勝家、林秀貞らの罪を一切問わないことを約束した 26 。後日、彼らは清洲城を訪れ、信長に直接謝罪し、改めて忠誠を誓約した 26 。こうして、織田家を揺るがした骨肉の争いは、一時的ながらも和睦という形で幕を閉じたのである。
第三部:非情の決断 – 信勝粛清と尾張統一への道
稲生の戦いを経て一時的に訪れた和睦は、しかし、根本的な問題解決には至らなかった。信長の寛大な処置も、弟・信勝の野心を完全に消し去ることはできなかったのである。この最終局面において、信長は骨肉の情を断ち切る非情な決断を下し、尾張統一への最後の障害を取り除く。
第一章:再度の謀反と柴田勝家の密告(弘治3年/1557年)
一度は命を救われたにもかかわらず、織田信勝は家督への執着を捨てきれなかった。翌弘治3年(1557年)、彼は尾張上四郡を支配する岩倉城主・織田信安と密かに連携し、再び信長打倒の謀反を画策し始めた 26 。
しかし、この動きは信勝の家老であった柴田勝家によって、いち早く察知されていた。勝家は、稲生の戦いにおける信長の圧倒的な器量と軍才を目の当たりにし、もはや信勝に未来はないと見切りをつけていた。一説には、戦後、信勝が新参の津々木蔵人を重用し、譜代の重臣である勝家を軽んじるようになったことが、彼の離反を決定づけたとも言われる 42 。勝家は、織田家の安泰と自らの将来を賭け、信勝の謀反計画の全てを信長に密告するという重大な決断を下した 7 。この密告は、単なる裏切り行為ではない。それは、織田家臣団の価値基準が、旧来の「家格や血縁」から、戦国乱世を生き抜くための「実力と将来性」へと、決定的に転換したことを象徴する出来事であった。
第二章:清洲城の悲劇
柴田勝家からの密告を受けた信長は、もはや弟を赦すことはなかった。彼は、肉親の情を断ち切る、冷徹で非情な決断を下す。信長は重い病にかかったと偽り、清洲城の自室に籠もった。そして、何も知らない信勝を、見舞いと称して城内へとおびき出すという周到な罠を仕掛けたのである 7 。
母・土田御前の勧めもあり、信勝は兄の病状を確かめるため、疑うことなく清洲城を訪れた。しかし、彼が通された城の北櫓には、病に伏せる兄の姿はなかった。そこに待ち構えていたのは、信長の密命を受けた河尻秀隆をはじめとする暗殺者たちであった。信勝は、その場で斬り殺され、22歳ともいわれる短い生涯を閉じた 31 。実の弟を謀殺するというこの行為により、信長は自らの地位を脅かす最大の内部要因を、物理的に、そして永久に排除したのである。
第三章:内訌の果てに – 天下布武の礎
弟・信勝の死をもって、織田弾正忠家内の反信長勢力は完全に瓦解した。信長は、家中における絶対的な権力を確立し、その支配体制を盤石なものとした 26 。
信長の統治術の巧みさは、その後の処置にこそ表れている。彼は、一度は刃を交えた柴田勝家を、その密告による忠誠を高く評価して許すだけでなく、以降、織田家随一の宿老として重用していく。さらに、謀殺した弟の遺児・津田信澄(幼名・坊丸)の命を助け、勝家に養育させた上で、後に自身の一門衆として取り立てるという度量の大きさも見せた 42 。裏切りは二度と許さないという恐怖を植え付ける一方で、忠誠を示せば過去の罪は問わず、報いるという信賞必罰の姿勢を明確にしたのである。この「恐怖」と「恩赦」を巧みに使い分ける統治術こそが、後の巨大な織田軍団を機能させるシステムの原型となった。事実、20年以上も後の天正8年(1580年)に、信長は林秀貞を追放するが、その理由の一つとして、この稲生の戦いでの裏切りを挙げている 33 。信賞必罰の原則が決して忘れられることはないという、家臣団への強烈なメッセージであった。
家中の内訌を完全に制圧した信長は、ついに尾張統一の最終段階へと駒を進める。次なる目標は、尾張上四郡を支配する最後の敵、岩倉城の織田伊勢守家であった。この一連の勝利によって築かれた強固な権力基盤があったからこそ、永禄元年(1558年)の浮野の戦い、そして永禄2年(1559年)の岩倉城攻略という尾張統一事業を、信長は成し遂げることができたのである 47 。
結論:修羅を越えて
1552年から1557年にかけての、後に「清洲城の戦い」と総称される一連の抗争は、織田信長が単なる地方の若き領主から、天下を見据える冷徹な統治者へと脱皮を遂げるための、避けては通れない修羅の道であった。
彼はこの過程で、主筋である守護代・織田信友を滅ぼし、実の弟・信勝を謀殺し、そして傅役であった林秀貞ら重臣の反乱を鎮圧した。これらは、旧来の封建的な主従関係や血縁の情といった価値観であれば、決して許されない行為である。しかし信長は、それらを自らの「実力」によって悉く打ち破り、乗り越えることで、彼自身が尾張における新たな秩序の創造主であることを内外に宣言したのである。
稲生の戦いにおける絶望的な状況下での勝利は、「うつけ」の仮面の下に隠されていた彼の非凡な軍事的才能とカリスマ性を証明し、家臣団に絶対的な畏怖と忠誠を植え付けた。そして、弟の粛清という非情な決断は、目的のためにはいかなる犠牲も厭わない、彼の徹底した合理主義を天下に示した。
この血みどろの内紛を乗り越えて築き上げられた強固な権力基盤と、信賞必罰の原則によって精鋭化された家臣団こそが、わずか数年後の永禄3年(1560年)、今川義元という巨大な敵を打ち破る「桶狭間の戦い」の奇跡を準備した最大の要因であった 3 。尾張という小国で繰り広げられた骨肉の争いは、まさに日本の中世を終わらせ、新たな時代を切り拓く男の、天下布武に向けた最初の、そして最も重要な礎石だったのである。
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