最終更新日 2025-08-29

滝山城の戦い(1569)

永禄十二年、武田信玄は北条氏の滝山城を攻めた。城主氏照は奮戦し、信玄は攻略を断念。この戦いは八王子城築城の契機となり、多摩の歴史を動かした重要な戦役である。

日本の戦国時代史観に基づく「滝山城の戦い(1569)」に関する専門家報告書

序章:永禄十二年、武蔵国の緊張

永禄12年(1569年)、関東地方は、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、そして相模小田原に本拠を置く後北条氏という三大勢力が、複雑な同盟と敵対関係を織りなす、地政学的な緊張の極致にあった。この巨大な権力構造の中で、武蔵国多摩地域に位置する滝山城は、単なる一つの支城に留まらない、極めて重要な戦略的価値を帯びていた。北条氏康の三男・氏照が居城とするこの城は、北条氏の勢力圏の西端に位置し、来るべき動乱の震源地となる運命にあった 1

この戦役を理解するためには、滝山城が担っていた二重の役割を認識することが不可欠である。第一に、北条氏が河越夜戦以降、関東平野北部へと勢力を伸長させる過程で、最大の脅威であった上杉謙信の南下侵攻路に対する防衛拠点としての役割があった 1 。実際に、城の縄張は多摩川を天然の堀とし、北側への警戒を厳重にする設計思想が見て取れる 3 。しかし第二に、長らく甲相駿三国同盟によって安定していた西方の国境線が、同盟の崩壊と共に新たな脅威の正面へと変貌した。すなわち、滝山城は対武田氏の最前線という、これまで想定されてこなかった役割を突如として担うことになったのである。永禄12年の戦いは、この後者の役割が、北条氏にとって最も過酷な形で現実化した瞬間であった。それは、城が本来想定していた防衛正面とは異なる方向からの奇襲に対し、いかにして対応し、そしてその限界を露呈したかを検証する、戦国史における稀有な事例と言える。

第一部:戦乱への道程 ― 甲相同盟の崩壊

1-1. 盤石の同盟から不信へ:甲相駿三国同盟の変質

永禄12年の滝山城における武田・北条両軍の激突は、突発的な事件ではなく、十数年にわたる関東・東海地方の勢力均衡の変化がもたらした必然的な帰結であった。その根源は、天文23年(1554年)に締結された甲相駿三国同盟の変質にある。武田信玄、北条氏康、今川義元という当代屈指の戦国大名が結んだこの同盟は、婚姻関係によって相互の安全を保障し、各国がそれぞれの戦略目標に専念することを可能にした盤石な体制であった 5

しかし、この均衡は永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いにおける今川義元の討死によって、致命的な亀裂を生じる。今川家の家督を継いだ氏真は、三河における松平元康(後の徳川家康)の独立を許すなど、領国の統制に苦慮し、今川氏の勢力は急速に衰退の一途をたどった 5 。このパワーバランスの崩壊を、甲斐の虎・武田信玄が見逃すはずはなかった。信玄は、海を持たない甲斐国の宿願である駿河領有の好機と捉え、今川家を見限る決断を下す 7 。一方で、北条氏康にとって今川氏真は、娘(早川殿)の夫、すなわち義理の息子であった 8 。信玄の野心と、氏康・氏政親子の姻戚としての義理との相克が、かつての強固な同盟関係を深刻な不信へと変質させていったのである 9

1-2. 決定的な亀裂:武田信玄の駿河侵攻

同盟崩壊の決定打となったのが、永禄11年(1568年)12月に開始された武田信玄による駿河侵攻である。信玄は、今川氏の衰退に乗じて三河で独立した徳川家康と密約を結び、大井川を境として今川領を東西から分割する協定を成立させた 6 。同年12月6日、信玄は甲府を出陣し、駿河への電撃的な侵攻を開始。今川軍は薩埵峠で迎撃を試みるも敗走し、氏真は本拠地である駿府を放棄して遠江の掛川城へと逃亡した 8

この軍事行動は、北条氏に対する明確な裏切りであった。信玄の嫡男・勝頼の正室は織田信長の養女であり、信玄の長女・黄梅院は北条氏政の正室であったが、信玄の駿河侵攻により、黄梅院は離縁され甲斐へ送り返されるという悲劇に見舞われた 6 。同盟は完全に破綻し、北条氏は義理の息子である今川氏真を救援すべく、嫡男・氏政を総大将とする主力軍を駿河へ派遣。ここに、かつての同盟国は、駿河の地で直接対峙することとなったのである 8

1-3. 信玄の真意:陽動としての関東侵攻作戦

永禄12年(1569年)秋、武田信玄が2万の大軍を率いて関東へ侵攻した真の目的は、関東平定そのものではなかった。それは、駿河国で膠着状態にある戦況を打開するための、壮大かつ大規模な陽動作戦であった 13 。信玄の狙いは、北条氏の本拠地である小田原城とその支城網に直接的な軍事的圧力をかけることで、駿河に展開している北条軍主力を関東へ引き剥がすことにあった。

この戦略は、敵将である北条氏康の心理を巧みに突いたものであった。氏康が、遠方の駿河という「他国の領地」の防衛と、自らの本拠地である相模・武蔵の安全とを天秤にかけた場合、後者を優先せざるを得ないことを見抜いていたのである。したがって、碓氷峠を越えて上野国へ侵入し、北条氏邦が守る鉢形城、そして氏照が守る滝山城へと進軍した一連の軍事行動は、城を攻略すること自体よりも、「次はお前の本拠地、小田原だ」という強烈な圧力をかけるための示威行動としての意味合いが強かった 7 。滝山城への攻撃は、この高度な心理戦・戦略の一環として位置づけられており、信玄はたとえこの地で多少の損害を被ったとしても、それによって北条主力を駿河から撤兵させることができれば、全体としては「戦略的勝利」であると計算していた可能性が極めて高い 13

【表1】滝山城の戦い 関連年表(永禄11年~12年)

年月

出来事

関連勢力

永禄11年 (1568) 12月6日

武田信玄、甲府を出陣。駿河侵攻を開始 11

武田・今川・徳川

永禄11年 (1568) 12月13日

武田軍、駿府を占領。今川氏真は掛川城へ逃亡 8

武田・今川

永禄12年 (1569) 1月

北条氏政、今川救援のため駿河へ出陣。武田軍と薩埵峠で対峙 16

北条・武田

永禄12年 (1569) 5月17日

掛川城が開城。今川氏真は降伏し、戦国大名今川氏は事実上滅亡 16

今川・徳川・北条

永禄12年 (1569) 8月24日

武田信玄、関東侵攻のため甲府を出陣(兵数2万) 16

武田

永禄12年 (1569) 9月

武田軍、碓氷峠を越え上野国へ侵入。鉢形城などを攻撃 7

武田・北条

永禄12年 (1569) 10月1日

武田軍別働隊、小仏峠を越え廿里で北条軍を迎撃。武田本隊は滝山城を攻撃開始 18

武田・北条

永禄12年 (1569) 10月2日

滝山城の攻防が続く 17

武田・北条

永禄12年 (1569) 10月3日夜

武田軍、滝山城の包囲を解き、小田原へ向けて転進 17

武田

永禄12年 (1569) 10月4日

武田軍、小田原城の包囲を解き、甲斐への撤退を開始 7

武田・北条

永禄12年 (1569) 10月8日

三増峠の戦い。撤退する武田軍と追撃する北条軍が激突 1

武田・北条

永禄12年 (1569) 11月23日

北条氏政、滝山城と津久井城の普請(修復・改修)を指示 21

北条

第二部:戦いの舞台と両雄

2-1. 城主・北条氏照:北条一門の重鎮

滝山城を守る将は、後北条三代当主・氏康の三男であり、四代当主・氏政の実弟である北条氏照であった 1 。彼は単なる一城主ではなく、北条一門の中でも武蔵方面の軍事・政治を統括する方面軍司令官とも言うべき重鎮であった。天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏が勝利した後、武蔵国の守護代であった名門・大石定久の婿養子となり、その家督と勢力基盤を継承 2 。これにより、氏照は多摩地域から武蔵国西部にかけて確固たる地盤を築き、北条氏の関東支配の楔としての役割を担った。

氏照は、父・氏康や兄・氏政からの信頼も厚く、北条家の軍事行動において常に中核を担う存在であった。彼が発給した書状の印判に「如意成就」の文字を用いるなど、その性格は主戦論者で好戦的な一面があったと伝えられている 22 。この戦いにおいても、圧倒的な兵力差にも臆することなく籠城を決断し、自ら前線で指揮を執ったとされる姿は、彼の武将としての気骨を物語っている。滝山城の兵士たちも、こうした一門の重鎮が直接指揮を執ることで、高い士気を維持していたと考えられる。

2-2. 攻め手・武田信玄と若き勝頼

対する攻め手は、戦国最強と謳われた甲斐の武田信玄率いる2万の大軍である 2 。信玄自身は、多摩川対岸の拝島大師付近に本陣を構え、全軍の指揮を執った 23 。彼の狙いは前述の通り、北条主力を駿河から引き離すという高度な戦略目標の達成にあった。

一方で、実際の攻城戦の最前線で指揮を執ったのは、信玄の四男であり、嫡子として武田家の後継者と目されていた武田勝頼であった可能性が高い 17 。『甲陽軍鑑』などの軍記物には、勝頼が自ら槍を振るい、敵将と一騎討ちを演じたという逸話が記されている 1 。これらの記述には文学的な脚色が含まれるものの、この戦いが若き勝頼にとって、大軍を率いて堅城を攻めるという貴重な実戦経験を積む場であったことは想像に難くない。信玄は、この戦いを通じて、自らの戦略眼を実践すると同時に、後継者である勝頼の育成をも図っていたのかもしれない。

2-3. 鉄壁の要塞か、脆弱なる城か:滝山城の縄張分析

戦いの舞台となった滝山城は、多摩川と秋川が合流する地点の丘陵に築かれた、東日本最大級の平山城である 2 。その縄張は、北条流築城術の粋を集めた、極めて技巧的なものであった。北側は多摩川の断崖を天然の要害とし、容易に接近を許さない 27 。城内は本丸、中の丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪が連なり、それらは複雑に配置された空堀と土塁によって厳重に区画されていた 4

特に、城の中心部である二の丸の防御は徹底しており、三方向からの進入路にはそれぞれ「馬出」と呼ばれる出撃・防御兼用の小郭が設けられていた 4 。侵入した敵を直進させず、何度も進行方向を変えさせる「コの字型土橋」や、敵を袋小路に誘い込み側面から攻撃を加える「枡形虎口」など、敵兵を分断し、局地的な数的優位を作り出して殲滅するための仕掛けが随所に施されていた 4

しかし、この堅城には構造的な弱点が存在した。それは、城の南東方面である。北面の断崖とは対照的に、南側はなだらかな丘陵が地続きとなっており、比高差も比較的小さかった 3 。この構造は、滝山城の設計思想が、主に北方からの上杉軍の侵攻を想定していたことを示唆している。同盟関係にあった西方の武田氏からの攻撃は、築城段階で主要な脅威として認識されていなかったのである。言わば、滝山城という「ハードウェア」は、特定の脅威に対して最適化されていたが故に、武田軍がもたらした「小仏峠越え」という想定外の戦術、すなわち新しい「ソフトウェア」に対して、致命的な脆弱性を露呈することになった。この戦いは、戦国期の城郭が静的な建造物ではなく、変化し続ける戦略環境の中で、その価値を常に問われる動的な存在であったことを如実に示している。

第三部:合戦詳解―滝山城、炎上

【図1】滝山城 縄張概念図と武田軍進撃路

(報告書本文では、滝山城の縄張図を基に、武田本隊と小山田別働隊の進撃ルートを概念的に示す。本隊は北の拝島から多摩川を渡り城下町へ、別働隊は南西の小仏峠から廿里を経由して城の南東部に到達するルートが描かれる。これにより、城が南北から挟撃される形となったことが視覚的に理解される。)

3-1. 序盤戦:小仏峠越えと廿里(とどり)の激突(永禄12年10月1日 午前~午後)

永禄12年(1569年)10月1日、滝山城の攻防は、北条方の完全な意表を突く形で始まった 18 。城主・北条氏照をはじめとする滝山城の守備隊は、武田軍の主力が青梅街道方面から多摩川北岸に沿って東進してくると予測していた。しかし、信玄の戦略はそれを上回っていた。彼は、大月の岩殿城主・小山田信茂が率いる約1千の精鋭部隊を別働隊として分派し、当時まだ軍用路として整備されていなかった間道、すなわち小仏峠を越えさせるという奇策を敢行した 19

10月1日未明、小仏峠を越えた小山田隊は、駒木野(現在の八王子市裏高尾町)に進出 32 。この予想外の方面からの敵軍出現の報に、滝山城内は震撼した。氏照は直ちに重臣の横地監物吉晴、中山勘解由(近藤出羽介とも)らに迎撃部隊を率いさせ、廿里(現在の八王子市廿里町)の地でこれを迎え撃たせた 19 。北条方は廿里の丘陵地帯を防衛線とし、地の利を活かして敵を食い止めようとしたが、峠越えの勢いに乗る小山田隊の猛攻の前に、短時間で防衛線を突破された。『甲陽軍鑑』によれば、この前哨戦で北条方は251名が討ち取られたと記録されている 17 。この廿里での敗北により、滝山城は南からの脅威に直接晒されることとなった。

3-2. 本戦開始:城下への放火と南北からの挟撃(10月1日 夕刻~夜)

廿里で小山田隊が勝利を収めたのとほぼ時を同じくして、滝山城の北、多摩川対岸の拝島に本陣を構えていた武田信玄の本隊約2万が行動を開始した 21 。本隊は平の渡し(現在の拝島橋付近)から多摩川を渡河し、滝山城の城下町である宿三口(横山、八日、八幡の三宿)に一斉に放火した 23 。これは、城の経済基盤を破壊し、兵糧や物資の補給路を断つことで城を孤立させる「裸城化」と呼ばれる戦術である 21

燃え盛る城下町の炎は、城内の兵士たちの士気を挫くと同時に、城が外部からの救援を絶たれたことを意味した。そして、武田軍は南北からの挟撃を開始する。北からは信玄本隊が城の搦手(裏口)方面に陽動攻撃を仕掛け、守備兵の注意を引きつける。その間、南では廿里の戦いを制した小山田隊が、城の構造的弱点である南東方面から大手口へと主攻勢を開始した。堅城滝山城は、一夜にして南北から敵に包囲され、炎に照らされる絶体絶命の窮地に陥ったのである。

3-3. 攻防の極点:二の丸を巡る死闘(10月2日)

10月2日、戦いは最大の激戦を迎える。南東方面からの武田軍の猛攻は、防御が比較的手薄であった三の丸、そして家臣屋敷があったとされる小宮曲輪を次々と突破した 21 。勢いに乗った武田軍は、城の中枢部である二の丸へと殺到。ここが、この戦いの勝敗を決する天王山となった。

二の丸は、滝山城の防御構想の心臓部であり、氏照の戦闘指揮所もここに置かれていたと推測される 31 。『甲陽軍鑑』は、この二の丸門前での死闘を劇的に描いている。城主・北条氏照自らが櫓門の上で采配を振るい、必死の防戦を指揮 17 。攻め手の大将格であった武田勝頼は、自ら鎌槍を手に先陣を切り、北条方の勇将・師岡山城守と三度にわたり槍を交える一騎討ちを演じたとされる 1

守る北条方は約2千、対する武田方は約2万と、その兵力差は歴然としていた 5 。しかし、北条方は二の丸に設けられた馬出や枡形虎口といった防御施設を最大限に活用し、隘路に敵を誘い込んでは側面から攻撃を加えるという戦術で、武田軍の波状攻撃に耐え抜いた。圧倒的な兵力で押し寄せる武田軍と、地の利を活かして死に物狂いで抵抗する北条軍。二の丸を巡る攻防は、両軍の将兵の血で血を洗う凄惨なものとなった。

3-4. 二つの記録:『甲陽軍鑑』と氏照書状の狭間

この激しい攻防戦の結末は、参照する史料によってその様相を大きく異にする。これは、戦国時代の「戦果報告」が、単なる事実の記録ではなく、政治的・軍事的な意図を持つプロパガンダとしての側面を色濃く持っていたことを示している。

武田方の視点で江戸時代に編纂された軍記物『甲陽軍鑑』は、武田軍の猛攻によって滝山城は「三の丸、二の丸まで攻め込まれ」「落城寸前」にまで追い詰めたと記す 21 。武田勝頼と師岡山城守の一騎討ちといった英雄譚を交え、武田家の武威と、あと一歩で堅城を陥落させ得たという武功を後世に伝えることを目的としている 1

一方、合戦から約3週間後の10月24日付で、城主・北条氏照自身が越後の上杉家臣(山吉豊守ら)に宛てた書状という一次史料が存在する 21 。この書状の中で氏照は、戦闘の場所を城の中心部ではなく「宿三口」、すなわち城下町であったと限定的に記述。その上で、「二日間終日戦いをしましたが、たびたび勝利を得て、敵を際限なく討ち取り、手負いの敵はその数もわからないほどです」と、一方的な大勝利を主張している 17

この記述の乖離は、氏照の書状が書かれた政治的文脈を考慮することで理解できる。当時、北条氏は武田氏に対抗するため、長年の宿敵であった上杉氏との同盟(越相同盟)を模索していた。この書状は、その交渉相手である上杉方に対し、自らの軍事力を誇示するための政治文書であった。ここで「城の奥深くまで攻め込まれ、危うかった」と正直に記せば、同盟相手としての価値を自ら貶めることになる。そのため氏照は、意図的に戦闘の規模を矮小化し、大勝を強調することで、「我々は武田の大軍を独力で撃退できる強力な同盟相手である」という政治的メッセージを発信したのである。

真実は、両者の中間にあったと考えるのが妥当であろう。すなわち、武田軍は城下を焼き払い、城の南東方面から猛攻をかけて三の丸付近まで侵入することに成功した。しかし、城の中枢である二の丸の堅固な守りの前に多大な損害を出し、それ以上の進撃を断念した。これが、滝山城の戦いの最も信憑性の高い実像と言える。

【表2】主要史料における攻防戦の記述比較

項目

『甲陽軍鑑』(武田方・二次史料)

『北条氏照書状』(北条方・一次史料)

戦闘場所

三の丸、二の丸など城郭内部まで侵攻 21

宿三口(城下町)での戦闘を強調 21

戦況

北条方を「落城寸前」まで追い詰めた 21

「たびたび勝利を得て」敵を多数討ち取った 17

勝敗認識

攻略は断念したが、圧倒的に攻め立てた。

一方的な勝利を主張。

記述の意図

武田家の武威と武功を後世に伝えるための物語的記述 1

対武田で連携を模索する上杉氏に対し、自軍の強さを誇示する政治的プロパガンダ 17

第四部:戦いの終わりと遺されたもの

4-1. 撤退の決断と三増峠へ

10月2日の激しい攻防の末、武田信玄は滝山城の攻略を断念し、10月3日の夜半に包囲を解いて軍を転進させた 17 。あと一歩と見えた城をなぜ攻略しなかったのか。その理由は複合的である。第一に、信玄の主目的はあくまで小田原城へ進軍して北条主力を駿河から引き離すことであり、滝山城の攻略はそのための手段に過ぎなかった 7 。第二に、二の丸を中心とした北条方の予想以上に頑強な抵抗により、武田軍も決して少なくない損害を出したと推測される 7 。これ以上の攻城は兵力の消耗を招き、主目的の達成に支障をきたすと判断したのである 33

滝山城を離れた武田軍は、南下して小田原城を包囲するが、これもわずか4日間で解き、甲斐への帰路についた 7 。この撤退こそが、北条方にとって反撃の好機であった。氏康は直ちに諸城の兵に追撃を命じ、滝山城の氏照、鉢形城の氏邦らもこれに合流。撤退する武田軍を相模国の三増峠(現在の神奈川県愛川町)で待ち受け、挟撃しようと試みた 1 。ここに、武田軍と北条軍の主力が激突する「三増峠の戦い」が勃発することになる。滝山城の戦いは、より大規模な会戦への序曲だったのである。

4-2. 滝山城の「傷跡」と八王子城の誕生

滝山城の戦いは、北条氏照と北条家の防衛戦略に、消すことのできない「傷跡」と、貴重な教訓を残した。二日間の攻防は、滝山城が抱える二つの致命的な欠陥を浮き彫りにした。第一に、なだらかな丘陵が続く南東方面の防御の脆弱性 3 。第二に、これまで軍事ルートとして軽視されてきた小仏峠が、敵の奇襲路として極めて危険であるという新たな脅威の認識である 19

この実戦での苦い経験は、氏照に、滝山城の限界を痛感させ、新たな拠点城郭の必要性を確信させた 2 。戦後、氏照は滝山城の改修を行うと同時に 21 、より西方の、小仏峠を直接睨むことができる要害の地・深沢山に、次世代の城の築城を開始する。これが、後の豊臣軍との決戦の舞台となる八王子城である 35 。八王子城は、滝山城の戦いで得られた教訓、すなわち「南からの攻撃への備え」と「甲州口の防衛」という課題に対する直接的な解答であった。石垣を多用し、より険峻な山を利用した八王子城の構造は、北条流築城術が滝山城での「被弾経験」という実戦データをフィードバックし、次なるステージへと進化したことを示している 37 。この戦いは、単に拠点の移転を促しただけでなく、北条氏の軍事技術思想そのものを革新させる、重要な転換点となったのである。

結論:多摩の歴史を動かした二日間

永禄12年10月1日と2日の二日間にわたって繰り広げられた滝山城の戦いは、戦国時代の合戦が持つ多層的な性格を象徴する出来事であった。

武田信玄の視点から見れば、この戦いは駿河に釘付けになった北条主力を引き剥がすという、壮大な陽動作戦の一部として見事に機能した。滝山城を陥落させることはできなかったものの、関東の心臓部に脅威を与えることで、最終的に北条軍を駿河から撤兵させるという戦略目標を達成したのである。

一方、城主・北条氏照の視点から見れば、10倍の兵力差にもかかわらず、一門の重鎮としての意地と誇りをかけて本拠地を守り抜いた、戦術的な勝利であったと言える。この防衛成功は、北条氏の武威を内外に示す上で大きな意味を持った。

しかし、この戦いが歴史に与えた最も大きな影響は、その勝敗そのものよりも、戦いから得られた教訓にあった。滝山城の脆弱性を痛感した氏照が、新たなる拠点として八王子城の築城を決断したことである 2 。この決断が、後の八王子の町の発展の礎となり、多摩地域の歴史の潮流を大きく変えることになった 39 。一見すれば、明確な決着がつかずに終わったかに見えるこの二日間の攻防は、関東の防衛地図を塗り替え、地域の未来を決定づける、極めて重要な歴史的転換点だったのである。

引用文献

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  30. 滝山城 - 古城址探訪 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.takiyama.htm
  31. 滝山城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kantou/takiyama.j/takiyama.j.html
  32. 東京都八王子市初沢町の紹介 - 廿里の戦い https://sites.google.com/view/hatsuzawamachi/rekishi/todori
  33. 滝山城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Tokyo/Takiyama/index.htm
  34. 武蔵高尾 武田信玄に滝山城を徹頭徹尾攻め込まれた北条氏照が八王子城建設の契機の一つとなった『廿里(とどり)古戦場跡』散歩 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10830561
  35. 八王子城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/hachiojijo/
  36. 北条氏照が築城した八王子城 - 八王子城跡三ッ鱗会 https://kessen.yahansugi.com/ix_about.html
  37. 八王子城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%9F%8E
  38. 北条氏照はなぜ、滝山城から八王子城に本拠を移したか?戦略から読み解く「本拠の移転」 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/83698
  39. 武田軍の猛攻に耐えた滝山城!桜シーズンの登城 - パソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/14-04takiyamajou.html