最終更新日 2025-08-28

犬山城の戦い(1584)

天正十二年 犬山城の戦い ― 小牧・長久手、緒戦の攻防と戦略の応酬

序章:天下の岐路、小牧・長久手へ

天正10年(1582年)6月、本能寺において織田信長が非業の死を遂げた後、日本の政治情勢は激動の時代に突入した。信長の仇である明智光秀を山崎の戦いで討ち、続く天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは織田家の筆頭宿老・柴田勝家を破った羽柴秀吉が、事実上の信長後継者として天下統一への道を急速に歩み始めていた 1

しかし、その覇道に全ての者が従ったわけではない。信長の次男・織田信雄は、名目上の織田家当主代行として、急速に勢力を拡大する秀吉に強い危機感を抱いていた 3 。信雄は、父・信長がかつて用いた「天下布武」の印に類似する「威加海内(かいだいをいかす)」という印を使用し、秀吉への対抗心を公然と示し始める 3 。そして、この秀吉の台頭を食い止めるべく、信長の旧同盟者であり、東海地方に一大勢力を築いていた徳川家康と手を結んだ 1

両陣営の緊張が頂点に達したのは、天正12年(1584年)3月6日のことであった。信雄は、秀吉との内通を疑い、自身の重臣である津川雄光、岡田重孝、浅井長時の三名を突如誅殺するという暴挙に出る 3 。この事件は、秀吉にとって信雄を「主家を乱す者」として討伐する絶好の口実を与えることとなり、両者の軍事衝突はもはや避けられないものとなった。

秀吉は信雄の本拠地である伊勢国への侵攻を主目標としつつ、陽動として尾張国にも圧力をかける二正面作戦を構想 6 。対する家康は、信雄との盟約に基づき、本国三河から尾張へと軍を進め、秀吉の侵攻を阻止し信雄を支援する防衛戦略を展開した 1

この、後に「小牧・長久手の戦い」と呼ばれる天下の行方を左右する大戦役において、その戦略的発火点となったのが、本報告書で詳述する「犬山城の戦い」である。この戦いは、秀吉の尾張侵攻作戦の第一歩であり、戦役全体の緒戦にして、その後の戦局の方向性を決定づけた極めて重要な攻防であった 6


表1:犬山城の戦いと緒戦の時系列対照表

日付(天正12年)

羽柴軍の動向

織田・徳川軍の動向

主要な場所

関連武将

3月6日

-

織田信雄、三家老(津川・岡田・浅井)を誅殺。

尾張・長島城

織田信雄

3月8日

-

徳川家康、浜松城を出陣。

遠江・浜松城

徳川家康

3月13日

池田恒興、犬山城を奇襲し占拠。

徳川家康、清洲城に到着。

尾張・犬山城、清洲城

池田恒興、徳川家康

3月15日

-

徳川家康、小牧山城に進み本陣とする。

尾張・小牧山城

徳川家康

3月16日

森長可、美濃金山城より出陣し羽黒に着陣。

-

尾張・羽黒

森長可

3月17日

森長可、羽黒の戦いで敗走。

酒井忠次ら、羽黒の森長可勢を奇襲し撃破。

尾張・羽黒

森長可、酒井忠次、榊原康政

3月18日

-

家康、榊原康政に小牧山城の改修を命じる。

尾張・小牧山城

徳川家康、榊原康政

3月21日

羽柴秀吉、兵3万を率いて大坂城を出陣。

-

摂津・大坂城

羽柴秀吉

3月27日

秀吉、犬山城に着陣。本陣とする。

-

尾張・犬山城

羽柴秀吉

3月28日

秀吉、本陣を楽田城へ移す。

家康、小牧山城に入城。

尾張・楽田城、小牧山城

羽柴秀吉、徳川家康

3月29日

-

織田信雄、小牧山城に入城。

尾張・小牧山城

織田信雄


第一章:戦いの舞台、犬山城の戦略的価値

「犬山城の戦い」を理解する上で、まずその舞台となった犬山城が持つ戦略的価値を把握することが不可欠である。

犬山城は、木曽川の南岸に位置する断崖絶壁の上に築かれており、川を天然の堀とする、いわゆる「後堅固の城」であった 10 。この地理的条件は、城に優れた防御能力を与えていた。さらに重要なのは、その立地である。城は尾張国と美濃国の国境に位置し、両国を結ぶ交通の要衝を扼していた 10 。かつて織田信長が尾張を統一した後、美濃の斎藤氏を攻略する際の前線基地としてこの城を重要視した歴史が、その戦略的重要性を物語っている 10

天正12年の時点において、犬山城は両陣営にとって絶対に譲れない戦略拠点となっていた。秀吉軍にとって、犬山城を確保することは、尾張国へ大軍を侵攻させるための確固たる橋頭堡を築くことを意味した。木曽川の水運を利用した兵站・補給線の起点としても、その価値は計り知れない 6 。一方、織田・徳川連合軍にとっては、犬山城は美濃方面からの敵の侵攻を防ぐ尾張北部の防衛線の要であり、この城を失うことは、本拠地である清洲城や、家康が布陣する小牧山への直接的な脅威を招くことに他ならなかった。

当時の犬山城主は、織田信雄の重臣・中川定成(通称:勘右衛門)であった 4 。戦後の史料である「織田信雄分限帳」によれば、定成の知行は12,880貫文と、信雄家臣団の中で最大級であり、先の三家老誅殺事件の後は、事実上の筆頭家老格となっていた 4 。信雄が、自らの家臣団の筆頭人物をこの犬山城に配置していたという事実は、彼自身がこの城を自領防衛の最重要拠点と認識していたことの何よりの証左である。したがって、秀吉方が緒戦で犬山城を狙ったのは、単に地理的な利便性からだけではなく、信雄政権の軍事的・政治的中枢の一つを叩くという、象徴的な意味合いも含まれていたと考えられる。

そして、この重要な奇襲作戦の実行者として選ばれたのが、池田恒興であった。恒興は、かつて信長から犬山城を与えられ、城主を務めた経験があった 15 。この事実は、彼が犬山城の内部構造、城下の地理、さらには地域の人心に至るまで熟知していたことを意味する。この「地の利」が、後の電光石火の奇襲を成功に導く決定的な要因となるのである 16

第二章:電光石火の奇襲 ― 天正12年3月13日、犬山城落城

小牧・長久手の戦いの火蓋は、まさにこの犬山城で切られた。その経緯は、周到な情報戦と地の利を活かした、戦国時代を象徴するような奇襲作戦であった。

前夜:奇襲成功の条件

池田恒興による犬山城攻略が成功した背景には、いくつかの決定的な要因が存在した。

第一に、そして最大の好機は、城主である中川定成の不在であった。秀吉軍は伊勢方面にも大軍を差し向けており、信雄の領国である北伊勢の諸城は危機に瀕していた。定成は信雄軍の主力として、この伊勢方面の峯城防衛のために出陣中であり、犬山城の守備は極めて手薄な状態にあった 4

第二に、留守を預かる将の立場である。城の守りを任されていたのは、定成の伯父(一説には叔父)であり、瑞泉寺の塔頭・龍泉院の住職であった中川清蔵主という人物であった 16 。彼は武人というよりは僧侶であり、率いる守備兵も僅かであったと伝えられている。

第三に、攻め手である池田恒興が持つ圧倒的な地の利である。前述の通り、恒興は元犬山城主であり、城の堅固な点も、そして攻めやすい弱点も知り尽くしていた 16 。この知識は、奇襲作戦の精度を飛躍的に高めることになった。

リアルタイム再現:3月13日、払暁の急襲

3月13日未明

美濃大垣城主であった池田恒興は、手勢を率いて居城を出立。目標は木曽川対岸の犬山城である。この夜、折からの大雨が降りしきっていた。この雨音が、軍勢が木曽川を渡る際の物音をかき消し、城方に見つかることなく対岸への渡河を成功させる上で、天佑となった 19。奇襲の成否を分ける隠密行動は、この時点でほぼ完璧に達成されていた。

払暁

夜陰と雨に紛れて犬山城下へ到達した恒興軍は、夜明けと共に急襲を開始する 19。恒興は旧領主として城下の町民から一定の支持を得ていたとされ、事前に城内の手薄な状況に関する情報提供を受けたり、あるいは攻撃の際に城門を開けるなどの内応があった可能性も指摘されている 16。後堅固とされた名城が、本格的な攻城戦を経ずして、いとも容易く城内への侵入を許した背景には、こうした内部からの協力があったと考えられる。

城内の攻防:中川清蔵主の奮戦と最期

突如として城内に侵入してきた池田軍に対し、留守を預かる中川清蔵主は寡兵を顧みず、敢然と立ち向かった。彼は十文字槍を手に、城の西谷坂口(現在の犬山城前広場付近)で敵軍を迎え撃ち、壮絶な防戦を繰り広げた 16

しかし、大軍を前にした僅かな守兵では、その抵抗も長くは続かなかった。衆寡敵せず、激戦の末に清蔵主は討死。享年58であったと伝えられる 19 。指揮官を失った城兵は総崩れとなり、犬山城は3月13日のわずか一日のうちに、池田恒興の手に落ちた 17 。清蔵主が討死したとされる場所には、現在、その忠勇を称える顕彰碑が建てられている 19

この犬山城の陥落は、単なる物理的な戦闘の帰結ではなかった。それは、秀吉方の優れた情報収集能力が、織田・徳川方の防衛体制の脆弱性を正確に突き、池田恒興という最適な人物が、元城主としての地の利と人脈という無形の資産を最大限に活用した、高度な情報戦と心理戦の勝利であった。堅固な要害がこれほど短時間で陥落した事実は、純粋な武力衝突以前の諜報と調略の段階で、すでに勝敗の趨勢が大きく傾いていたことを示唆している 23

なお、城主であった中川定成のその後については、一部の史料で「犬山城落城の報を聞き、急ぎ帰還する途中、池尻平左衛門なる人物に討たれた」と記されている 17 。しかし、戦後に編纂された「織田信雄分限帳」に彼の名が存続していることなどから、この説は誤りであり、彼は小牧・長久手の戦いを生き延びたというのが、現在の有力な見解である 4 。戦時の混乱が、こうした情報の錯綜を生んだ一例と言えよう。

第三章:緒戦の応酬 ― 3月14日から3月28日まで

犬山城の電撃的な陥落は、織田・徳川連合軍に大きな衝撃を与えた。しかし、この危機的状況に対し、徳川家康は驚くべき速さと的確さで対応し、戦線の崩壊を防いだ。

徳川家康の神速対応(3月13日~15日)

家康が尾張・清洲城に到着したのは、奇しくも犬山城が池田恒興の手に落ちた3月13日その日であった 26 。自軍の防衛線に突如として敵の拠点が打ち込まれたという凶報に接しながらも、家康は一切動揺を見せず、即座に次の一手を打つ。

彼は、犬山城の南約15キロメートルに位置し、かつて信長が美濃攻略の拠点とした小牧山城の戦略的価値を瞬時に見抜いた 6 。そして、わずか2日後の3月15日には、自ら小牧山城へと駆けつけ、ここを秀吉軍と対峙するための本陣とすることを決定したのである 26 。この迅速な決断と行動が、その後の戦局を大きく左右することになる。

最初の野戦:羽黒の戦い(3月16日~17日)

犬山城を確保した秀吉方に、さらなる動きがあった。恒興の娘婿であり、「鬼武蔵」の異名を持つ猛将・美濃金山城主の森長可が、恒興に呼応して兵3,000を率いて南下。3月16日、小牧山の東に位置する羽黒の八幡林に布陣した 18 。これは、小牧山へ入ろうとする家康軍を牽制し、秀吉本隊の到着を待つための動きであった。

家康の情報網は、この森長可の動きを正確に捉えていた。彼は即座に、酒井忠次、榊原康政、松平家忠、奥平信昌ら精鋭部隊5,000を派遣する 18

そして3月17日未明、徳川軍は羽黒に布陣する森勢に対し、奇襲を敢行した。不意を突かれた森勢は混乱に陥る。特に、松平家忠が率いる鉄砲隊による側面からの射撃は効果的で、森勢は大きな損害を被った 18 。激しい戦闘の末、森長可は300名もの兵を討ち取られ、金山城へと敗走を余儀なくされた 18

この「羽黒の戦い」は、小牧・長久手の戦いにおける最初の組織的な野戦であり、徳川軍の完勝に終わった。この勝利は、犬山城失陥で揺らいだ連合軍の士気を大いに高めるものであった。一方、屈辱的な敗北を喫した森長可は、この雪辱を果たすことに執念を燃やし、後の「三河中入り作戦」を強硬に主張する大きな動機の一つとなった 26

戦線の構築(3月18日~27日)

羽黒での勝利によって当面の脅威を排除した家康は、来るべき秀吉本隊との決戦に備え、防衛体制の強化に全力を注ぐ。3月18日、家康は榊原康政に命じ、小牧山城の大規模な改修に着手させた。急ピッチで堀や土塁、各種の防御施設が築かれ、小牧山は単なる城から、一大野戦陣地へとその姿を変貌させていった 5

一方、秀吉は3月21日、ついに3万の大軍を率いて大坂城を出陣 26 。京、近江を経て美濃へと入り、3月27日、先着していた池田恒興らが確保した犬山城に到着。ここを尾張方面軍の総司令部と定めた 26

この緒戦における一連の応酬は、両将の戦略思想の違いを鮮明に映し出している。秀吉方が池田恒興の奇襲によって敵地深くに「点」としての拠点を確保したのに対し、家康方はその「点」に対抗するもう一つの「点」(小牧山)を即座に確保し、そこから砦や土塁を連結させて強固な「線」としての防衛線を構築することで対抗した。羽黒の戦いは、その防衛線を脅かす可能性のあった突出部を、線が完成する前に叩くという、極めて合理的な戦術行動であった。これは、家康が武田信玄との長年の戦いで培った、強大な敵に対しては有利な地形で守りを固め、相手の消耗を待つという、彼の真骨頂たる持久戦の思想の表れであった 30 。結果として、秀吉は犬山城という戦術的成功は収めたものの、家康に防衛線を築く時間と機会を与えてしまい、緒戦の優位を戦略的な決定打に繋げることはできなかったのである。

第四章:戦線の構築と膠着

秀吉の犬山城着陣と、家康の小牧山城入城により、小牧・長久手の戦いは新たな局面を迎えた。それは、両軍の主力が至近距離で対峙し、一大野戦陣地を構築し合う、壮大な睨み合いの始まりであった。

両雄、対峙す(3月28日~)

3月28日、秀吉は犬山城からさらに南下し、小牧山から目と鼻の先である楽田城に本陣を移した 5 。これは、家康に対する圧力を一層強めるための前進であった。時を同じくして、家康も正式に小牧山城に入城。翌29日には盟主である織田信雄も合流し、織田・徳川連合軍の司令部が完成した 5

これにより、北の犬山・楽田に陣取る羽柴軍(総兵力約10万)と、南の小牧山に陣取る織田・徳川連合軍(総兵力約1万7千)が、わずか数キロメートルの距離を隔てて直接対峙するという、壮大な構図が完成した 6

砦の応酬と戦線の固定化

対峙が始まると、両軍は互いに自陣の防御を固めるため、大規模な土木工事に着手した。

秀吉方は、楽田城を本陣とし、その前面に二重の堀を持つ「二重堀砦」を築き、さらに岩崎山、小松寺山、青塚、内久保といった要所に次々と砦を構築した 5 。これは、小牧山を半包囲し、その動きを封じ込めようとする攻撃的な布陣であった。

対する家康方も、小牧山城を中核として、その周囲に蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦などを築き、防衛線を幾重にも張り巡らせた 5 。家康の築いた陣城は、小牧山から清洲城、さらには本国三河へと至る連絡線を確保しつつ、秀吉軍のいかなる方向からの攻撃にも備える、極めて堅固な防御網であった。

両軍が互いに堅固な陣地を構築した結果、小規模な小競り合いは頻発したものの、どちらも決定的な大会戦を仕掛けることができず、戦況は完全な膠着状態に陥った 1

膠着状態がもたらしたもの

この睨み合いは、兵力で圧倒的に劣る家康にとっては、むしろ望ましい状況であった。秀吉が最も得意とする大軍による物量作戦を、地形と野戦築城によって無力化し、戦いを長期戦に持ち込むことに成功したからである 6

一方、10万もの大軍を動員しながら、小牧山を攻めあぐねる秀吉方には、次第に焦りが生じ始めた。この膠着状態を打破しなければ、兵站の負担が増大し、士気の低下を招きかねない。この状況を打開すべく、羽黒の戦いで敗れた池田恒興と森長可が中心となり、家康の守る小牧山を迂回し、手薄な本拠地・三河を直接攻撃して家康をおびき出すという、大胆かつ危険な奇策「三河中入り作戦」を献策するに至るのである 18

犬山城を巡る攻防から始まったこの戦いは、結果として両軍の総力を挙げた「野戦築城合戦」へと発展した。これは、単一の城に籠もる籠城戦でも、平野で一挙に勝敗を決する野戦でもない、広大な地域全体を要塞化するという、戦国時代の合戦様式の一つの頂点を示すものであった。この戦いは、武力だけでなく、兵站、土木技術、そして持久力といった国力が問われる総力戦の様相を呈しており、その引き金となったのが、まさしく「犬山城の戦い」だったのである。

結論:犬山城の戦いが決定づけたもの

天正12年3月13日の犬山城陥落から始まった一連の緒戦は、小牧・長久手の戦い全体の戦局に決定的とも言える影響を与えた。この戦いの意義を、戦術的成果と戦略的影響の両側面から総括する。

戦術的成果と戦略的影響

秀吉方にとって、池田恒興による犬山城の奇襲成功は、戦術的には見事な勝利であった。敵国・尾張の中心部へ進出するための最重要拠点を、最小限の損害で、かつ電光石火の速さで確保することに成功したからである 7 。これにより、秀吉は尾張国内に大軍を展開させるための確固たる足掛かりを得た。

しかし、戦略的な視点で見ると、その評価は変わってくる。徳川家康は、犬山城陥落という危機に対し、驚異的な速さで対応した。小牧山という最適な対抗拠点を即座に確保し、羽黒の戦いで敵の突出部を叩き、強固な防衛線を構築することで、秀吉のそれ以上の進撃を完全に食い止めたのである。これにより、家康は秀吉の圧倒的な数的優位を無効化し、戦いを自らが望む持久戦の形に持ち込むという、戦略的目標を達成した 6

小牧・長久手の戦い全体への波及効果

犬山城の戦いから始まった一連の攻防が作り出した「膠着状態」こそが、この戦役の次の段階である「三河中入り作戦」、そしてそれに続く「長久手の戦い」へと繋がる直接的な原因となった 18 。もし家康の対応が遅れ、秀吉が尾張国内を自由に席巻できていたならば、戦いは早期に決着していた可能性が高い。犬山城を巡る攻防は、家康に「秀吉と正面から戦って勝つことは難しいが、戦略と地の利を活かせば十分に対抗できる」という確信を与え、秀吉には「家康を力攻めにするのは容易ではない」と認識させる重要な契機となったのである。

歴史的意義:戦略家・家康の成長の原点

この「犬山城の戦い」における経験は、徳川家康という戦略家の成長を考察する上で、極めて示唆に富んでいる。16年後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である「伏見城の戦い」と比較すると、その進化は明らかである。

天正12年の犬山城では、家康は情報戦で後れを取り、奇襲によって重要な拠点を「受動的」に失った。これは、彼のキャリアにおける数少ない戦略的失敗の一つと言える。

しかし、16年後の伏見城では、家康は状況を完全に掌握していた。彼は忠臣・鳥居元忠にわずかな兵で城を守らせ、あえて西軍に攻めさせることで、西軍主力の足止めと時間稼ぎ、東軍諸将の士気高揚、そして自らが西上する大義名分の強化という、複数の戦略的目標を同時に達成した 36 。これは、犠牲を前提とした「能動的」な戦略、すなわち「捨て駒」戦術の完成形であった。

犬山城での手痛い経験が、情報網の整備の重要性 40 と、戦略における「時間」という要素のかけがえのない価値を、家康に深く認識させたことは想像に難くない。「犬山城の戦い」は、単なる一合戦に留まらず、若き日の家康が天下人・秀吉を相手に繰り広げた壮大な戦略学習の第一幕として、そして後の天下取りへの布石として、歴史的に位置づけることができるのである。


表2:主要参戦武将一覧

陣営

武将名

当時の主な役職・居城

本合戦における役割・動向

羽柴方

池田恒興

摂津大坂・伊丹城主

犬山城奇襲作戦の実行者。元犬山城主としての地の利を活かし、城を占拠。

森長可

美濃金山城主

池田恒興の娘婿。犬山城に呼応して南下するも、羽黒の戦いで徳川軍に敗走。

羽柴秀吉

摂津大坂城主

総大将。大軍を率いて犬山城に着陣し、方面軍の司令部とする。

織田・徳川方

中川定成

尾張犬山城主

織田信雄の筆頭家老。伊勢方面へ出陣中に居城を奪われる。

中川清蔵主

瑞泉寺龍泉院住職

中川定成の伯父。犬山城の留守居役として奮戦するも、討死。

徳川家康

三河・遠江・駿河等の領主

総大将。犬山城失陥に対し、小牧山城を拠点に迅速な防衛体制を構築。

酒井忠次

三河吉田城主

徳川四天王筆頭。羽黒の戦いにおいて、徳川軍の指揮官の一人として勝利に貢献。

榊原康政

上野館林城主

徳川四天王の一人。羽黒の戦いで活躍し、小牧山城の改修を担当。

織田信雄

尾張・伊勢等の領主

盟主。家康と共に小牧山城に入り、秀吉と対峙。

引用文献

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  2. 「小牧・長久手の戦い」は、誰と誰が戦った? 場所や経緯もあわせて解説【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/470311
  3. 『小牧長久手の戦い』勝敗は秀吉の勝ちで家康は負けたのか?全国規模の合戦を解説 https://sengokubanashi.net/history/komaki-nagakutenotatakai/
  4. 中川定成(なかがわさだなり)【小牧・長久手の戦い】 | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/nakagawa_sadanari/
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  6. 犬山城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/08/
  7. 【羽柴秀吉VS徳川家康 小牧・長久手の戦いを知る】第1回 戦いの概要 - 城びと https://shirobito.jp/article/1417
  8. 史跡長久手古戦場保存活用計画 https://www.city.nagakute.lg.jp/material/files/group/14/keikaku_1_1.pdf
  9. シリーズ小牧・長久手の戦いその2-両軍対峙 - Network2010.org https://network2010.org/article/1577
  10. 2025年6月 犬山市章と犬山城 | miyakawa-clinicのブログ https://ameblo.jp/miyakawa-clinic/entry-12910135332.html
  11. 【小牧・長久手の戦い/犬山城の戦い】④当時の犬山城の姿。 https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/battle-of-komaki-nagakute-inuyama-castle/
  12. 【ホームメイト】犬山城(国宝5城) https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/43/
  13. 織田信長の戦略地図~尾張を統一後、上洛を見据えて美濃攻略へ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/894/
  14. 戦国合戦の舞台 犬山をめぐるプラン - 大人アガル犬山 旅のしおり | 名古屋鉄道 https://www.meitetsu.co.jp/pr/inuyama_cp/course/course_sengoku.html
  15. 織田信長公三十六功臣 | 建勲神社 https://kenkun-jinja.org/nmv36/
  16. 【小牧・長久手の戦い/犬山城の戦い】①池田恒興、犬山城を奪う! https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/battle-of-komaki-nagakute-ikeda-tsuneoki/
  17. 【小牧・長久手の戦い/犬山城の戦い】②犬山城主・中川定成は伊勢へ出陣中だった https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/battle-of-komaki-nagakute-nakagawa-sadanari/
  18. 1584年 小牧・長久手の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1584/
  19. 中川清蔵主(なかがわせいぞうす)/犬山城の戦いで奮戦した男【小牧・長久手の戦い】 https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/nakagawa_seizosu/
  20. 犬山城 - 中川清蔵主の碑[片桐且元さん] - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/3/photo/205422.html
  21. 第3章 指定地および追加指定候補地の概要 - 犬山市 https://www.city.inuyama.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/011/548/3-4syou.pdf
  22. 愛知県犬山市 犬山城① | 試撃行 https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/13897
  23. 信玄、信長の共通点は情報の収集・活用能力|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-040.html
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  34. 【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2023/02/11/100000
  35. 【秀吉VS家康 小牧・長久手の戦いを知る】第2回 織田・徳川連合軍の城・砦① https://shirobito.jp/article/1457
  36. 伏見城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  37. 伏見城の戦い 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/WarFushimi.html
  38. 【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原の戦い、鳥居元忠の伏見城篭城 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2019/11/18/193920
  39. 鳥居元忠は三河武士の鑑~伏見城での壮絶な最期 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4155
  40. はじめに - アメリカ人の見た徳川家康 ~日本合衆国を造った男・徳川家康~ https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/01_03.htm
  41. まだある、家康公の魅力 - 家康公が成功したのは「情報戦」 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/08_01.htm
  42. 泣かぬまで 待っただけでは 勝てません〜家康が天下を取れた理由を組織論で考える〜 | 識学総研 https://souken.shikigaku.jp/19974/