最終更新日 2025-08-28

玉縄城の戦い(1590)

天正十八年、小田原征伐にて玉縄城は無血開城。山中城の敗戦を経験した城主北条氏勝は、家康の調略に応じ、血を流さず城を明け渡す。この決断は北条支城網を崩壊させ、家康の関東経営の礎となりし一戦なり。

天正十八年 玉縄城開城異聞 ―ある名門の終焉と徳川の調略―

序章:巨星、関東に迫る

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長の後を継ぎ、破竹の勢いで天下統一事業を推し進めていた豊臣秀吉。その眼前に立ちはだかる最後の巨壁が、関東に君臨する後北条氏であった。この章では、玉縄城で繰り広げられる局地戦を理解するための大局的な戦略状況と、北条氏が拠り所とした防衛思想、そしてその中で玉縄城が担った重要な役割について詳述する。

天正18年の天下情勢

天下統一の最終段階に入った秀吉は、諸大名に臣従を誓わせるため、再三にわたり北条氏当主・北条氏政とその嫡男・氏直の上洛を要求した 1 。しかし、関東に240万石の広大な領国を築き上げた北条氏は、この要求を拒み続ける 2 。北条氏内部では、秀吉との和睦を模索する穏健派と、徹底抗戦を主張する主戦派との間で意見が対立し、遅々として方針が定まらない「小田原評定」が繰り返されていた 4 。この膠着状態は、秀吉に北条討伐の口実を与える結果となり、ついに天正18年3月、秀吉は自ら20万を超える大軍を率いて関東へ進発。ここに、戦国時代最後の大規模な合戦である小田原征伐の火蓋が切られたのである 5

北条氏の防衛戦略 ― 支城ネットワークと総構え

北条氏の防衛戦略の根幹をなしていたのは、本城である小田原城と、領内各所に網の目のように配置された支城が有機的に連携する「支城ネットワーク」であった 6 。これらの支城には一族や重臣が配され、敵の侵攻に対しては相互に支援し合い、進軍を遅滞させ、補給線を脅かすことで敵を消耗させる多層的な防衛システムを構築していた 8

そして、このネットワークの最終防衛線となる小田原城は、城下町全体を約9kmにわたる長大な土塁と空堀で囲い込んだ「総構え」によって、当代随一の堅城と化していた 9 。北条氏の基本戦略は、この難攻不落の城に潤沢な兵糧を備蓄し、長期籠城戦に持ち込むことで、敵軍の疲弊を待つというものであった 10

この戦略は、過去に越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄といった名将の侵攻を幾度となく退けてきた成功体験に裏打ちされていた 12 。しかし、その輝かしい成功体験こそが、天正18年においては北条氏を破滅へと導く罠となった。彼らがこれまで対峙してきた敵は、兵力や補給能力に限界があり、長期にわたる小田原包囲は不可能であった。だが、秀吉が動員した兵力と、それを支える圧倒的な兵站能力は、謙信や信玄とは比較にならない、まさに規格外のものであった 5 。秀吉は、支城を個別に撃破するのではなく、複数の軍団を並行して投入し、支城ネットワーク全体を同時に麻痺させるという、北条氏が経験したことのない「戦争の質」の違いを見せつけたのである 8 。旧来の成功方程式に固執した北条氏は、この戦略的な前提条件の変化を認識できず、自らが築き上げた堅固な殻の中へと追い詰められていくことになった。

玉縄城の戦略的価値

北条氏が誇る支城ネットワークの中でも、玉縄城は特別な戦略的価値を有していた。この城は、初代当主・北条早雲が永正9年(1512年)に、相模の旧勢力である三浦氏を攻略するための拠点として築城したのが始まりである 13 。以来、玉縄城は北条氏の東相模における最大の拠点として機能し続けた 13

その地理的位置は絶妙であった。古都・鎌倉の防衛という政治的な意味合いを持つと同時に 16 、三浦半島全体を抑える軍事的な要衝でもあった。さらに、城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を出すことが可能であったため、北条水軍を統括する拠点としても重要な役割を担っていた 16 。過去には上杉謙信や武田信玄の侵攻にも屈しなかったことから、「当国無双の名城」と称えられるほどの堅固さを誇っていたのである 12 。この関東有数の名城が、天正18年、その歴史上最大の試練に直面することになる。

第一章:前兆の崩落 ― 山中城、半日の悪夢

玉縄城の無血開城という結末を理解するためには、その直接的な伏線となった山中城での戦いを避けて通ることはできない。この戦いは、玉縄城主・北条氏勝にとって、豊臣軍の圧倒的な力を骨身に染みて知る悪夢のような体験であり、彼のその後の運命を決定づける出来事であった。

西の関門・山中城

小田原征伐が現実のものとなると、玉縄城主であった北条氏勝は、北条本家からの命令により、小田原の西の玄関口であり、箱根道を押さえる最重要拠点・伊豆山中城の守備へと派遣された 14 。山中城は、北条氏特有の築城術である、堀底に畝を残して敵兵の移動を妨げる「障子堀」などを備えた、北条流城郭の粋を集めた堅城であった 19

天正18年3月29日 ― 攻防の開始

天正18年3月29日、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次を総大将とし、徳川家康の軍勢も加わった約6万8千の豊臣軍が、津波のように山中城へ殺到した 20 。これに対する北条方の守備兵は、城主・松田康長の手勢に氏勝の援軍を加えても、わずか4千ほどであった 20 。その兵力差は、実に15倍以上にも達していた。

氏勝は、本丸や西ノ丸を見渡せる「北条丸」と呼ばれる曲輪に布陣し、戦況に応じて打って出る逆襲部隊としての役割を期待されていたと考えられる 21 。そして、城の最前線である岱崎出丸では、氏勝が率いてきた玉縄衆の重臣・間宮康俊らが、決死の覚悟で豊臣軍を迎え撃った 19

半日の攻防と落城

午前中に始まった戦いは、しかし、あまりにも一方的な展開を辿った。豊臣軍の猛攻は凄まじく、北条方が誇った堅城は、わずか半日で蹂躙されることとなる 14 。岱崎出丸では、老将・間宮康俊が豊臣方の勇将・一柳直末を銃撃で討ち取るという奮戦を見せるも、衆寡敵せず、弟らと共に壮絶な討死を遂げた 19 。北条丸の高台にいた氏勝は、眼下で自らの家臣たちが大軍に飲み込まれていく様を、為す術もなく見つめていることしかできなかったであろう 22

屈辱の敗走

城の各所で防御が破られ、落城が目前に迫る中、氏勝は自害を図る。しかし、それは家臣らによって制止され、城主・松田康長の「北条一門である貴方様だけでも生き延びてほしい」という必死の説得により、城を脱出する決意を固めた 18

この敗走の際、氏勝は諸将が集う本城・小田原城を素通りし、手勢を率いて自らの居城である玉縄城へと直接向かった 29 。この行動は、後に北条本家から「戦を放棄した」との疑念を抱かれる一因となったが、彼が玉縄城へ率いて帰還できた兵は、わずか700騎ほどだったと記録されている 28

この山中城での戦いは、単なる前哨戦の敗北ではなかった。それは、北条氏勝にとって、豊臣軍が持つ桁違いの物量と攻撃速度、そして北条伝統の防衛戦略の限界を、身をもって体験する「実地演習」となった。彼が守るべき玉縄城も、山中城と同じ思想で築かれた堅城である。しかし、その山中城が、わずか数時間で血の海に沈む現実を目の当たりにしたことで、氏勝の心には「玉縄城に籠城しても、山中城の二の舞になるだけだ」という冷徹なリアリズムが深く刻み込まれた。玉砕を覚悟する武士としての矜持と、兵と民を無駄死にさせてはならないという将としての責任感。この経験が、後の玉縄城での苦渋の決断、すなわち無血開城への精神的なリハーサルとなったのである。

第二章:静かなる包囲網 ― 徳川家康、鎌倉へ

山中城での惨劇を経て、物語の舞台は玉縄城へと移る。敗将として帰還した北条氏勝が籠城するこの名城に対し、豊臣軍の先鋒・徳川家康は、軍事的圧力と外交的揺さぶりを巧みに組み合わせた「静かなる包囲網」を築いていく。力攻めだけが戦ではないことを示す、家康の老練な戦略が展開される。

籠城、そして孤立

3月29日の山中城落城後、手勢700騎を率いて玉縄城へ帰還した氏勝は、ただちに籠城の準備を固めた 28 。城内には、山中城での大敗による動揺と、もはや城を枕に討ち死にするしかないという悲壮感が漂っていたと推察される 24 。しかし、彼らを待っていたのは、壮絶な攻城戦ではなく、静かなる孤立であった。

徳川軍の進発と小田原包囲

一方、豊臣軍の先鋒を命じられた徳川家康は、3万の兵を率いて東海道を疾駆していた 5 。天正18年2月25日には沼津に着陣 31 。その後も順調に進軍を続け、4月3日には小田原へ到達。翌4月4日には小田原城の東方、今井から山王原にかけての地に布陣し、秀吉本隊と共に、巨大な小田原城包囲網の一角を形成した 4

玉縄城への分遣隊

家康は、小田原城の包囲を固めるという主目的を果たしつつ、その視線は周辺の支城群にも向けられていた。これらの支城を一つずつ無力化していくことが、小田原城を完全に孤立させるための鍵であった。玉縄城も、当然その標的の一つであった。

4月中旬、家康は配下の軍勢を分遣し、玉縄城を包囲させた 15 。しかし、徳川軍は山中城の時のように、力任せの総攻撃を仕掛けることはなかった。城を遠巻きに囲み、外部との連絡を遮断するにとどめたのである。家康の狙いは、戦闘による自軍の消耗を避け、調略によって城を内側から降伏させることにあった。

この家康の行動は、秀吉から与えられた「先鋒」としての軍事任務を忠実に遂行しつつも、同時に北条氏との旧縁(家康の娘・督姫が北条氏直の正室であった)を利用した調略を水面下で進めるという、巧みな二正面作戦であった 1 。彼は、北条氏滅亡後の関東統治をすでに見据えていた可能性が高い。無用な戦闘で関東の地を荒廃させ、人々の恨みを買うことは、将来の支配者にとって得策ではない。

特に、北条氏勝は名門・玉縄北条家の当主である。彼を無傷で降伏させ、味方として活用することができれば、他の支城への降伏勧告を円滑に進めることができ、戦後の関東経営においても大きな利益となる 33 。したがって、玉縄城を「攻めずに囲む」という家康の選択は、単なる戦術ではなく、戦後処理までを視野に入れた高度な政治戦略であった。彼は武力という「ハードパワー」を背景に見せつけながら、交渉という「ソフトパワー」で目的を達成しようとしたのである。

第三章:決断の刻 ― 無血開城への道

静かな包囲網の中、玉縄城内では、城主・北条氏勝による苦渋の決断が下されようとしていた。この章では、一人の武将の葛藤と、それを巧みに利用した徳川家康の調略の妙、そして無血開城に至るまでの緊迫した数日間を時系列で追う。

降伏勧告の開始

天正18年4月20日、徳川家康は玉縄城への本格的な説得工作を開始した 31 。この時、家康が使者として選んだのは、単なる武将ではなかった。氏勝が深く帰依し、玉縄北条氏の菩提寺でもある龍寶寺の住職であった 16 。龍寶寺は、氏勝が父・氏繁を弔うために建立した寺であり、彼にとって極めて個人的で神聖な場所であった 34 。家康は、武力ではなく、氏勝の精神的な拠り所に働きかけるという、極めて巧みな手を選んだのである。

氏勝の葛藤

龍寶寺住職から家康の降伏勧告を伝えられた氏勝の心中は、察するに余りある。山中城での敗北により、豊臣軍への抵抗がいかに無意味であるかは痛感していた。しかし、北条一門としての誇り、山中城で散った家臣や先祖への面目、そして降伏が「裏切り」と見なされることへの恐怖が、彼の心を激しく苛んだ。城を枕に玉砕することこそが武士の本分であるという伝統的な価値観と、これ以上の戦いが城兵や領民を無益な死に追いやるだけだという現実的な配慮との間で、彼は進退窮まる状況に追い込まれていた 24

住職による説得

龍寶寺住職による説得の具体的な内容は、残念ながら史料に詳述されていない。しかし、おそらくは仏教的な死生観に基づき、「いたずらに殺生を重ねることは仏の道に背く行いであり、民の命を救うことこそが、為政者たる武将が果たすべき真の道である」といった内容で、氏勝の心を解きほぐそうとしたのであろう。

同時に、家康からの具体的な降伏条件も提示されたはずである。氏勝自身と城兵の生命の保証は最低限の条件であり、後の処遇として徳川家への仕官といった道が示唆されていた可能性も高い 36

この家康の戦略は、単なる調略を超えた心理戦の傑作であった。戦国武将にとって菩提寺の住職は、先祖の霊を祀る精神的な支柱である 35 。その高僧からの言葉は、他の誰からの言葉よりも重く響く。敵将からの勧告に易々と応じれば武士の名折れとなるが、「仏の道を説く高僧の勧めに応じて民を救う」のであれば、それは降伏のための大義名分となり、精神的な救済にも繋がる。家康は、氏勝と龍寶寺の関係性を正確に把握し、そこをピンポイントで突くことで、氏勝の心理的な障壁を巧みに取り払ったのである。

天正18年4月21日 ― 開城

住職による心のこもった説得と、家康からの現実的な条件提示を受け、氏勝はついに降伏を決断する。籠城から約3週間後の天正18年4月21日、関東無双と謳われた名城・玉縄城は、一度も矢を交えることなく、その門を開いた 16 。氏勝は髪を落として降伏の意を示し、城は徳川軍の管理下へと移された 14

この一連の出来事を時系列で整理すると、以下のようになる。

表1:玉縄城開城に至る時系列(天正18年3月29日~4月22日)

日付(天正18年)

豊臣・徳川軍の動向

北条方(主に北条氏勝)の動向

典拠

3月29日

豊臣秀次・徳川家康らの軍勢(約6万8千)が山中城を攻撃、半日で陥落させる。

北条氏勝、山中城で奮戦するも敗北。城を脱出し、玉縄城へ敗走を開始する。

14

4月3日

徳川家康、小田原へ進軍。

氏勝、玉縄城に到着し籠城を開始(兵力約700)。

28

4月4日

家康、小田原城東方の今井~山王原に布陣。小田原城包囲網を完成させる。

(玉縄城にて籠城中)

31

4月中旬

家康、分遣隊を派遣し玉縄城を包囲。ただし、直接攻撃は控える。

徳川軍に包囲され、外部との連絡を絶たれる。

16

4月20日

家康、龍寶寺住職らを介して玉縄城への降伏勧告を本格化させる。

徳川方からの説得を受け、城内にて評定。氏勝、降伏か玉砕かで苦悩する。

31

4月21日

(玉縄城開城)

氏勝、降伏を決断。玉縄城を無血開城する。

16

4月22日

家康、江戸城も説得により無血開城させる。氏勝を案内役として下総方面へ向かわせる。

氏勝、徳川軍の指揮下に入り、北条方諸城への降伏勧告役を担うことになる。

31

第四章:落日の連鎖 ― 開城がもたらした波紋

玉縄城の無血開城は、単に一つの城が落ちたという以上の、遥かに大きな意味を持っていた。それは、北条氏が誇った支城ネットワークに最初の大きな亀裂を生じさせ、ドミノ倒しのように他の支城の戦意を喪失させる引き金となった。この章では、玉縄城開城が戦局全体に与えた戦略的影響と、降将となった北条氏勝の皮肉な運命を追う。

相模南部の防衛線崩壊

古都・鎌倉と三浦半島を押さえる軍事・政治上の要衝であった玉縄城が、一戦も交えずに降伏したという事実は、北条方にとって大きな衝撃であった。これにより、小田原城の南東方面における防衛線は完全に崩壊し、豊臣軍は後顧の憂いなく、小田原城の包囲に全戦力を集中させることが可能になった。北条氏の籠城戦略は、その根幹を支えるべき支城の一つを、内部から失ったのである。

降将・氏勝の新たな役割

降伏した北条氏勝の運命は、皮肉なものであった。彼は徳川家康の指揮下に入ると、昨日までの敵であった豊臣方として、いまだ抵抗を続ける北条方の諸城へ降伏を促す「案内役」という新たな役割を与えられた 16

北条一門の中でも名門・玉縄北条家の当主である氏勝自らが説得にあたることは、他の城主たちに「もはや北条宗家に勝ち目はない」という動かしがたい現実を突きつけ、彼らの戦意を削ぐ上で絶大な効果を発揮した。山中城の惨状をその目で見た氏勝の言葉には、抵抗の無益さを物語る重い説得力があったであろう。

これは、家康の冷徹な合理主義と、天下統一後の統治までを見据えた長期的ビジョンを示すものであった。彼にとって、敵将は殺すべき相手であると同時に、活用可能な「人材」でもあった。氏勝を殺害すれば、他の支城の抵抗をより頑なにさせるだけである。逆に、氏勝を助命し、説得役として用いることで、「降伏すれば助命され、相応の処遇が与えられる」という前例を示すことができる。この戦略により、家康は自軍の兵力を温存しながら関東の平定を効率的に進め、秀吉の歓心を買うと同時に、来るべき徳川の時代のために、関東の地盤を固めるという二重の目的を果たしたのである。

戦後の処遇

天正18年7月、小田原城はついに開城し、5代100年にわたり関東に君臨した北条宗家は滅亡した。その後、氏勝は約束通り家康の家臣として取り立てられ、下総国岩富に1万石を与えられて大名として家名を存続させることを許された 16

彼はその後、関ヶ原の戦いなどで徳川方として功績を挙げ、二代将軍・徳川秀忠からも厚い信頼を得たと伝えられている 18 。氏勝の降伏は、単なる敗北ではなく、滅びゆく旧時代の支配者から、新しい時代の覇者の下で生き残りを図るための、戦国武将としてのしたたかな「転身」の第一歩であった。

終章:玉縄城開城の歴史的意義

天正18年4月21日の玉縄城無血開城は、小田原征伐という巨大な戦役の中の一つの出来事でありながら、戦国時代の終焉を象徴するいくつかの重要な歴史的意義を持っている。

第一に、 北条氏の支城ネットワーク戦略の限界を露呈させた ことである。かつて上杉謙信や武田信玄といった強敵の侵攻を阻んできた北条の防衛網は、特定の方面からの「線」の攻撃に対しては有効であった。しかし、豊臣・徳川連合軍が展開した、圧倒的な物量による多方面からの同時制圧、すなわち「面」の攻撃の前には、いかにも脆弱であった。玉縄城の開城は、その戦略的破綻を象徴する出来事であった。

第二に、この一件が、 軍事力と調略を組み合わせた新しい時代の「ハイブリッド戦争」の姿を示している ことである。秀吉と家康は、単に圧倒的な軍事力で敵を圧殺するだけでなく、敵将の個人的な信仰心や人間関係といった内部事情を的確に把握し、そこを突く心理戦を巧みに展開した。武力と知略、ハードパワーとソフトパワーを融合させたこの戦い方は、来るべき新しい時代の到来を告げるものであった。

そして第三に、 徳川家康の関東経営における重要な布石となった ことである。家康が氏勝に示した温情的な処置は、彼が戦後の関東の支配者となることを見据え、無用な遺恨を残さずに統治を円滑に進めるための、計算された政治的判断であった。関東の名門である玉縄北条家を家臣として取り込むことで、他の関東の国人衆への示しともなった。その意味で、玉縄城の開城は、徳川による250年の平和の時代の、まさに序章を飾る出来事であったと言えるだろう。

引用文献

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