田辺城の戦い(1600)
慶長五年 丹後田辺城籠城戦詳報 ―武と文が交錯した五十日間の攻防―
序章:もう一つの関ヶ原
慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と石田三成らが擁立した西軍が激突した「関ヶ原の戦い」は、日本の歴史を決定づけた天下分け目の決戦として知られる。しかし、その勝敗を決した美濃国関ヶ原での一日だけの戦闘は、日本各地で繰り広げられた数多の戦いの集積点に過ぎない。本報告書が詳述する「田辺城の戦い」は、そうした広義の関ヶ原の戦いの一環として戦われた攻防戦でありながら、単なる「前哨戦」という言葉では到底捉えきれない、極めて特異かつ重要な意義を持つ戦いであった 1 。
この戦いの舞台は、京から遠く離れた丹後国田辺城(現・京都府舞鶴市)。城に籠もるのは、わずか500の手勢を率いる老将・細川幽斎(藤孝)。対するは、1万5千という圧倒的な兵力を誇る西軍の包囲網。軍事的な常識からすれば、その結末は火を見るよりも明らかであった。しかし、この絶望的な状況は、約50日間にわたる籠城の末、武力ではなく一首の和歌と、それが象徴する文化的権威によって終結を迎えるという、戦国史上類を見ない結末をたどる。
本報告は、この田辺城の戦いを、天下の趨勢が定まるまでの政治的・軍事的背景から、戦闘のリアルタイムな推移、そして戦いの帰趨を決定づけた文化的価値の力学、さらには戦後の関係者たちの運命に至るまで、あらゆる側面から徹底的に分析・詳述するものである。武力による覇権争いが最終局面を迎えた時代にあって、なぜ「文」の力が「武」を制し得たのか。細川幽斎という一人の傑出した人物の存在が、いかにして軍事的劣勢を覆し、朝廷の権威を動かし、ひいては関ヶ原の本戦そのものにまで影響を及ぼしたのか。その複雑かつ深遠な歴史の力学を、時系列に沿って解き明かしていく。
第一部:戦雲、丹後へ
第一章:天下分け目の序曲
豊臣秀吉の死後、慶長の世は新たな動乱の時代へと突入していた。五大老筆頭の徳川家康がその影響力を急速に拡大させる一方、豊臣政権の維持を掲げる五奉行の石田三成との対立は、もはや避けられない状況にあった。慶長5年(1600年)6月、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑ありとして、諸大名を率いて大規模な討伐軍を組織し、関東へと進軍を開始する 1 。
これは、三成にとって待ち望んだ好機であった。家康が主力を率いて畿内を空けた軍事的空白を突き、三成は毛利輝元を総大将として擁立し、反家康勢力を結集。7月、ついに家康打倒の兵を挙げたのである 1 。西軍の最初の戦略目標は、家康が東下した後の畿内近国に点在する東軍方勢力を一掃し、後背の憂いを断つことであった。その主要な標的の一つとされたのが、丹後国を治める細川家の本拠地、田辺城であった 1 。
細川家当主・細川忠興は、豊臣恩顧の大名でありながら、三成との個人的な確執もあり、早くから家康への与力を表明していた。彼は家康への忠誠を示すべく、丹後国の主だった兵力を率いて会津征伐に従軍しており、その結果、本国・丹後は極めて脆弱な防衛体制を晒すこととなった 2 。この忠興の決断は、単なる政治的選択に留まらない。それは、本国の守りを老父・幽斎の力量に託すという、計算されたリスクテイクであった。そして家康の視点から見れば、忠興のような有力大名を完全に自陣営に引き込むことは、他の豊臣恩顧大名への強力な牽制となる。丹後が攻められることは、西軍の貴重な兵力を畿内に釘付けにする上で、むしろ望ましい展開ですらあった。こうして、天下分け目の争乱は、丹後の地をも必然的に巻き込んでいったのである。
第二章:細川家の決断と悲劇
西軍が畿内制圧の初手として打った非情な策が、東軍に味方する諸将の妻子を人質に取り、その戦意を削ごうとするものであった 3 。この策は、田辺城の戦いの様相を決定づける悲劇を引き起こす。
慶長5年7月17日、石田三成の兵が、細川忠興の妻・玉(洗礼名ガラシャ)が留守を守る大坂玉造の細川屋敷を包囲した 3 。ガラシャは、夫・忠興から「いかなることがあっても人質となってはならぬ」と言い渡されており、西軍からの入城要請を断固として拒絶する。追い詰められたガラシャは、キリスト教の教えにより自害が許されないため、家臣筆頭の小笠原少斎に自身の胸を長刀で突かせ、その壮絶な生涯を閉じた。享年38。屋敷は火に包まれ、彼女の亡骸は灰燼に帰した 3 。
この報せが、会津へ向かう途上の伊豆三島にいた忠興のもとへ届いたのは、8月3日のことであった 3 。最愛の妻を無慈悲な手段で奪われた忠興の西軍への憎悪は、筆舌に尽くしがたいものがあった。そして、丹後でこの悲報に接した父・幽斎もまた、西軍との和睦という選択肢を完全に断ち切り、玉砕を覚悟しての徹底抗戦を決意する。
ガラシャの死は、この戦いを単なる東軍対西軍という政治的・軍事的構図から、細川家の「私怨」が深く絡み合う復讐戦へと変質させた。幽斎の籠城は、徳川家への「忠義」と、息子の妻の「仇討ち」という二重の意味合いを帯びることになったのである。この揺るぎない抵抗の意志こそが、攻城側の躊躇を誘い、最終的に朝廷の介入という異例の事態を招く、全ての連鎖の起点となった。もしこの悲劇がなければ、老練な幽斎は、より早い段階で政治的な交渉に応じた可能性も否定できない。一つの悲劇が、戦いの様相をより先鋭化させ、文化的な解決という他に類を見ない結末へと歴史を導いていったのである。
第三章:籠城への道
西軍による丹後侵攻が現実のものとなる中、細川幽斎は冷静かつ的確な防衛戦略を展開する。彼は、丹後国内に点在する宮津城などの支城に寡兵を分散させることの不利を悟り、戦力を田辺城の一点に集中させることを決断した 5 。そして、西軍に拠点として利用されることを防ぐため、放棄した城には火を放ち、焼き払うという徹底した焦土作戦を実行した 5 。この判断は、彼が単なる文化人ではなく、織田信長や豊臣秀吉の下で数多の戦場を駆け抜けてきた一流の武将であったことを雄弁に物語っている 7 。
こうして田辺城に集結した兵力は、侍50名、雑兵などを合わせてもわずか500名程度であったと伝えられる 4 。この中には、幽斎の長年の恩顧に報いるため、決死の覚悟で馳せ参じた桂林寺の僧侶・大渓和尚と14人の弟子たちも含まれていた 4 。また、幽斎の妻・麝香(じゃこう)も具足を身につけ、共に戦ったと記録されている 8 。籠城軍は数こそ少ないものの、主君への忠誠心と固い結束で結ばれていた。
対する攻城軍は、丹波福知山城主の小野木重次(重勝とも)を総大将に、丹波亀山城主・前田茂勝、丹波山家城主・谷衛友、小出吉政、赤松政広といった丹波・但馬の諸将を中心に編成された、総勢1万5千にも及ぶ大軍であった 2 。その兵力差は実に30対1であり、軍事的には勝敗は明白であった。
しかし、幽斎には兵力差を補う二つの砦があった。一つは、田辺城そのものの堅固さである。この城は川と海に囲まれた湿地帯に築かれ、二重、三重の水堀と塁壁によって守られた要害であった 2 。そしてもう一つが、彼自身が持つ「細川幽斎」という文化的な権威であった。彼は、寡兵での籠城という自ら作り出した戦略的状況下で、物理的な城と文化的な名声という二重の盾を手に、この絶望的な戦いに臨んだのである。その真の狙いは、単に城を死守することではなく、西軍の主力を可能な限り長くこの地に拘束し、関ヶ原の本戦へと向かうはずの敵兵力を削ぐという、天下の大局を見据えた壮大な遅滞戦術にあった。
【表1:田辺城の戦い 両軍勢力比較】
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籠城側(東軍) |
攻城側(西軍) |
総兵力 |
約500名 |
約1万5千名 |
総大将 |
細川幽斎(藤孝) |
小野木重次(福知山城主) |
主要な将 |
細川幸隆(幽斎の次男) |
前田茂勝(亀山城主)、谷衛友(山家城主)、小出吉政、杉原長房、赤松政広、織田信包、藤掛永勝、川勝秀氏など 5 |
その他戦力 |
家臣団、桂林寺僧兵、城下の町民 |
丹波・但馬衆を中心とする諸大名の連合軍 |
この圧倒的な兵力差は、籠城がいかに絶望的な戦いであったかを物語る。しかし同時に、攻城側の将の多くが、後に示すように幽斎と個人的な繋がりを持っていたことが、この戦いの行方を複雑にしていくのである。
第二部:五十日間の攻防 ―リアルタイム・クロニクル―
第四章:包囲網の完成(慶長5年7月19日~7月末)
慶長5年7月19日(西暦1600年8月27日)、小野木重次率いる西軍1万5千の軍勢が、ついに丹後国への侵攻を開始した 5 。田辺城の細川方は、城外に遊撃隊を繰り出して鉄砲を撃ちかけるなど、緒戦から激しい抵抗を見せる 5 。この日に幽斎が発したとされる書状も現存しており、開戦当初の緊迫した状況を今に伝えている 11 。
7月22日、西軍は田辺城を完全に包囲し、本格的な攻城戦の火蓋が切られた 5 。連日のように攻防が繰り返されたが、幽斎の巧みな采配と城兵の奮戦により、寡兵ながら城はよく持ちこたえた。現存する『田辺籠城図』には、7月22日から25日にかけての戦闘の様子が詳細に描かれているとされ、その激戦の模様がうかがえる 13 。
しかし、7月末に至っても城が陥落しなかった最大の理由は、物理的な防御力以上に、攻城側の心理にあった。西軍の諸将の中には、細川幽斎を和歌の師と仰ぎ、深く敬愛する者が少なくなかったのである 1 。彼らは、尊敬する師が籠もる城に本気で矢を射かけることを躊躇した。
その象徴的な逸話が「谷の空鉄砲」である 2 。攻城軍の有力武将であった丹波山家城主・谷衛友は、幽斎の熱心な弟子の一人であった。彼は師に弓を引くことができず、実弾の入っていない鉄砲を撃つことで、戦っているふりをしていたという 2 。幽斎の妻・麝香は、この籠城中の出来事を詳細に記録しており、口紅と白粉を使って描いたとされる絵地図には、「鉄砲の音はすれども、空砲であった」と記され、どの家の幟が手心を加えていたかまでが示されていた 2 。
この逸話は、単なる師弟愛の美談ではない。それは、西軍という組織が抱える構造的な脆弱性を露呈するものであった。総大将である小野木重次は、石田三成から丹後平定という軍事的任務を負っている。しかし、前線で戦う谷衛友のような有力大名は、軍令よりも個人的な情誼を優先した。これは、西軍が様々な大名の寄り合い所帯であり、三成のリーダーシップが末端まで完全には浸透していなかったことの証左に他ならない。幽斎は、敵が抱えるこの指揮系統の機能不全という弱点を的確に見抜き、自らの文化的名声を利用してそれを最大限に助長させたのである。関ヶ原の本戦で小早川秀秋の裏切りを招くことになる西軍の結束の脆さは、この丹後の地でもすでにその兆候を見せていた。
第五章:文化の砦(8月)
8月に入ると、戦況は完全に膠着状態に陥った。西軍は城を遠巻きにするばかりで攻めあぐね、一方の幽斎は徹底抗戦の構えを崩さなかった。この静かな睨み合いの中、幽斎は戦の主導権を握るため、驚くべき一手を打つ。
7月27日(日付には異説あり)、幽斎の身を案じた彼の高弟の一人であり、後陽成天皇の弟宮でもある八条宮智仁親王が、密かに家老を田辺城へ派遣し、和議を結ぶよう勧告した 5 。武士としての意地とガラシャの仇討ちを誓う幽斎は、この申し出を丁重に、しかし断固として断った。
だが、彼は同時に、一個の武将としてではなく、文化の継承者としての責務を痛感していた。もし自分がこの戦で命を落とせば、師である三条西実枝から受け継いだ和歌の最高奥義「古今伝授」が、この世から永遠に失われてしまう 14 。死を覚悟した幽斎は、武士としての死と、文化の継承という二つの使命の間で、ある決断を下す。彼は、自らが所持する「古今伝授の箱」と、その証明状、そして『源氏抄』や『二十一代集』といった貴重な典籍を、八条宮を通じて朝廷に献上することにしたのである 5 。その際、彼は自らの心境を託した一首の和歌を添えた。
いにしへも 今もかはらぬ 世の中に こころの種を 残す言の葉 14
(昔も今も変わることのないこの世に、人の心の種子となる和歌の道だけは、こうして後世に残していきたいのだ)
「古今伝授」とは、単なる和歌の解釈書ではない。それは、日本初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の正統な解釈の奥義を、選び抜かれた師から弟子へと秘儀の形で相伝するものであり、その継承は当代最高の文化人であることの証明であった 6 。当代において、その奥義を伝えることができるのは幽斎ただ一人であり、彼の死は日本の古典文化における重大な断絶を意味した 15 。
幽斎のこの行動は、単なる文化財の保護を目的としたものではなかった。それは、戦いの土俵そのものを「武」の世界から「文」の世界へと意図的に転換させる、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。自らの命と「古今伝授」という文化的至宝を天秤にかけることで、彼は朝廷と西軍に対し、「私を殺すことは、日本の文化そのものを滅ぼすことだ」という無言の、しかし絶大な圧力をかけたのである。これは、武力では到底抗うことのできない敵に対し、文化的な権威という非対称な武器を用いて対抗する、究極の心理戦であった。彼はただ勅命を待つのではなく、この一手によって、朝廷が介入せざるを得ない状況を自ら作り出したのである。
第六章:天勅、下る(9月1日~9月13日)
幽斎の決死の覚悟と「古今伝授」献上の報は、八条宮を通じて後陽成天皇の耳に達した。当代随一の文化人であり、自らも和歌を嗜む天皇は、「古今伝授」が永遠に失われることを深く憂慮した 4 。
朝廷はまず、幽斎の弟である大徳寺の僧・玉甫和尚や、西軍に属する五奉行の一人でありながら朝廷との繋がりが深い前田玄以を通じて、幽斎に開城を促したが、彼の決意は揺るがなかった 5 。
事態が動かないことに業を煮やした天皇は、ついに前代未聞の手段に打って出る。慶長5年9月12日(日付については9月6日や13日など諸説ある)、三条西実条、中院通勝、烏丸光広という三人の公家を勅使として、丹後田辺城へと派遣したのである 3 。
勅使一行はまず、城を包囲する西軍の陣営を訪れ、天皇の命令である勅命を伝えた。その内容は、武士同士の争いに朝廷が介入するという、まさに異例中の異例のものであった 18 。
「幽斎玄旨(藤孝)は文武の達人にて、ことに古今伝授を伝えられたる帝の御師範である。もし幽斎が落命することになれば、世にこれを伝える者がいなくなってしまう。速やかに城の囲みを解くように」 5
この時代の朝廷は武力を持たず、武家の争いには勝者を追認することで権威を保つのが常であった。しかし、一個人の命を救うために、しかも抗争の真っ只中に勅命が発せられたのである 18 。天皇の命令は絶対であり、勅命に背くことは「朝敵」となることを意味する。西軍の諸将はこれに逆らうことができず、ただちに攻撃を停止した 14 。
続いて勅使は城内に入り、幽斎を説得した。三度にもわたって下された勅命の重みに、さすがの幽斎もこれ以上抗うことはできず、ついに開城を受け入れることを決意した 3 。
9月13日、講和が正式に成立した。その条件は、「幽斎は田辺城を明け渡すが、城と幽斎の身柄は西軍にではなく、攻城側の将でありながら幽斎と親交のあった前田茂勝(前田玄以の子)個人に預ける」というものであった 18 。これは、西軍に降伏したのではなく、あくまで天皇の命令に従ったという、幽斎の武士としての名誉を最大限に尊重した内容であった。この勅命講和は、戦国乱世の価値観から、秩序と権威を重んじる新たな時代の到来を告げる、象徴的な出来事となった。武の論理だけでは世が治まらないことを、丹後の小さな城が天下に示した瞬間であった。
第三部:戦後の波紋
第七章:開城、そして関ヶ原へ
慶長5年9月18日(開城日には諸説あり)、講和条件に基づき、細川幽斎は50日以上にわたって守り抜いた田辺城を前田茂勝に明け渡し、その居城である丹波亀山城へと身を移した 18 。
この籠城戦の戦略的意義は、計り知れないものがあった。小野木重次を総大将とする丹波・但馬衆1万5千という西軍の有力部隊が、天下分け目の決戦が迫る最も重要な時期に、丹後の地に完全に釘付けにされたのである 2 。
そして、歴史の皮肉というべきか、幽斎が開城するわずか3日前の9月15日、美濃国関ヶ原において東西両軍の主力部隊が激突し、戦いはわずか半日で東軍の圧倒的勝利に終わっていた 18 。田辺城を包囲していた1万5千の兵力は、当然のことながら関ヶ原の本戦には間に合わなかった 9 。もしこの大軍が関ヶ原に投入されていたならば、西軍の兵力は大幅に増強され、戦いの趨勢に重大な影響を与えた可能性は極めて高い。
田辺城の戦いの真の功績は、単に1万5千の兵を足止めしたこと以上に、西軍の「戦略的柔軟性」を根こそぎ奪った点にある。この部隊は畿内に位置し、関ヶ原へ向かうだけでなく、同じく東軍方の京極高次が籠城していた大津城攻めへの増援や、家康本隊の後方を脅かす別動隊としても機能し得た。幽斎の籠城は、西軍が取り得たであろう戦略的選択肢を一つ、また一つと削ぎ落としていく効果があったのである。関ヶ原の勝敗は小早川秀秋の裏切りによって決したとされるが、そこに至るまでの全体のパワーバランスを東軍有利に傾かせた重要な要因の一つとして、この丹後での「見えざる戦功」は、最大限に評価されるべきである。軍事的には「開城」という形で終わったこの戦いは、その戦略的目的を完璧に達成した、「戦術的敗北にして戦略的勝利」の典型例であった 9 。
第八章:それぞれの結末
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、田辺城をめぐる攻防に関わった武将たちは、それぞれ異なる運命をたどった。
細川家 は、この戦いにおける功績を最大限に評価された。関ヶ原終結の報を受けるや、細川忠興は父が受けた屈辱と妻の仇を晴らすべく、怒涛の反撃を開始。田辺城を包囲していた張本人である小野木重次の居城・福知山城へと攻め寄せた 3 。戦後の論功行賞において、忠興の働きと幽斎の功績は高く評価され、細川家は丹後12万石から豊前国中津30万石へ、さらに後には小倉藩39万9千石へと大加増され、近世大名として不動の地位を築いた 20 。
一方、西軍の将たちの運命は過酷であった。総大将の 小野木重次 は、西軍敗北後に福知山城に籠もったが、忠興の猛攻の前に開城。捕らえられた後、亀山の浄土寺にて自刃を命じられ、慶長5年10月18日(あるいは11月18日)にその生涯を終えた。彼の首は京都の三条河原に晒されたという 21 。
しかし、同じ西軍にありながら、運命が分かれた者もいた。勅命講和の仲介役を務めた 前田茂勝 は、その功績や父・玄以が朝廷と深い繋がりを持っていたことなどが考慮され、西軍に与しながらも戦後の処罰を免れ、所領を安堵された 20 。だが彼の栄光は長くは続かず、慶長13年(1608年)に「乱心」して家臣を惨殺したという理由で改易され、大名の座を追われた 25 。
そして、「谷の空鉄砲」の逸話で知られる 谷衛友 は、師である幽斎への手心を加えた行動が、麝香の記録や幽斎自身の証言、そして忠興の取り成しによって家康に伝わり、罪を問われることなく所領を安堵された 2 。田辺城での彼の行動が、結果的に自身の家名を救うことになったのである。
【表2:主要関係者の戦後】
人物名 |
所属 |
田辺城での役割 |
戦後の処遇 |
細川幽斎 |
東軍 |
籠城軍総大将 |
隠居の身ながら評価を高め、文化の守護者として尊敬を集める |
細川忠興 |
東軍 |
(会津征伐に従軍) |
豊前小倉39万9千石へ大加増 |
小野木重次 |
西軍 |
攻城軍総大将 |
敗戦の責を負い自刃、家は断絶 |
前田茂勝 |
西軍 |
攻城軍の将、講和仲介役 |
一時所領安堵されるも、後に不行跡により改易 |
谷衛友 |
西軍 |
攻城軍の将 |
師への敬意が認められ、所領安堵 |
この対照的な結末は、田辺城の戦いにおける個々の行動が、その後の人生を大きく左右したことを示している。それは、戦国乱世の終焉期における処世術の複雑さと、個人的な人間関係が時に生死をも分かつ重要性を持っていたことを浮き彫りにしている。
第九章:後世への遺産
田辺城の戦いは、後世に多くの遺産を残した。まず、この一件は細川幽斎の名を「文武両道の極致」として、歴史に不滅のものとして刻み込んだ 7 。彼の名は、一人の優れた武将としてよりも、戦乱の世にあって日本の古典文化を守り抜いた守護者として、より強く記憶されることとなった。
幽斎が命を懸けて守った「古今伝授」は、無事に次代へと受け継がれた。一説には、開城に先立ち、城内において勅使として訪れた三条西実条(かつての師・三条西実枝の孫)に直接伝授が行われたともいう 14 。これにより、和歌の道は断絶を免れ、泰平の世である近世へと継承されていったのである。
この戦いの記憶は、物としても現代に伝えられている。籠城中に幽斎が帯びていたとされる鎌倉時代の名刀「行平」は、この出来事にちなんで「古今伝授の太刀」という異名を持ち、国宝として今に伝わっている 27 。また、戦いの舞台となった田辺城は、後に舞鶴城(ぶかくじょう)とも呼ばれ、これが現在の地名「舞鶴(まいづる)」の由来となった 16 。城跡は現在、舞鶴公園として市民の憩いの場となっており、往時の激戦を静かに物語っている 8 。
さらに、この戦いは後世の「武士道」という理念の形成にも影響を与えた可能性がある。武力のみが支配した時代が終わり、江戸時代に入ると、武士には武芸だけでなく学問や教養を修める「文武両道」が理想として求められるようになった。細川幽斎の生き様、とりわけこの田辺城での一件は、その理想を体現した最高の模範として語り継がれた。彼の物語は、単なる戦の記録を超え、武士がいかに生きるべきかという規範を示す「文化的記憶」として、日本の歴史の中に昇華されたのである。
結論:田辺城の戦いが残したもの
慶長5年に丹後国で繰り広げられた田辺城の戦いは、その規模こそ小さいものの、日本の歴史の転換点において極めて多層的な意義を持つ出来事であった。本報告の分析を通じて明らかになったその重要性は、以下の三点に集約される。
第一に、 軍事戦略の観点 から、この戦いは寡兵が大軍を長期間にわたり拘束するという、遅滞戦術の輝かしい成功例である。細川幽斎は、物理的な城の堅固さと、自らの文化的名声を巧みに利用した心理戦を組み合わせることで、1万5千もの西軍主力を50日以上にわたって丹後の地に釘付けにした。この結果、西軍は関ヶ原の本戦における貴重な兵力を失い、その戦略的柔軟性を大きく損なった。田辺城の粘り強い抵抗がなければ、天下分け目の決戦の帰趨は異なっていた可能性すらある。
第二に、 文化史の観点 から、この戦いは武力至上主義が支配した戦国時代において、「文」の力が「武」の論理を覆した画期的な事件であった。「古今伝授」という文化的至宝の存亡の危機が、当代最高の権威である天皇を動かし、最終的に武士同士の争いを終結させた。これは、戦乱の世にあっても失われることのなかった古典文化への畏敬の念と、朝廷が持つ伝統的権威の健在ぶりを示すものであった。
第三に、 人間ドラマの観点 から、この戦いは忠義、私怨、師弟愛、夫婦の絆といった、様々な人間の情念が複雑に絡み合い、歴史の行方を左右した物語である。特に、武将としての卓越した戦略眼と、文化人としての至高の権威を兼ね備えた細川幽斎という類稀なる個人の存在なくして、この奇跡的な結末はあり得なかった。
結論として、田辺城の戦いは、単なる関ヶ原の戦いの一局地戦ではない。それは、戦国という時代の終わりと、秩序と権威を重んじる新たな近世の価値観の到来を告げる、象徴的な出来事であった。一本の筆と一振りの刀を両手に、乱世の終焉に立ち会った老将の姿は、武と文が交錯した時代の精神を、今なお我々に鮮やかに伝えている。
引用文献
- 丹後の関ヶ原、田辺城の戦い - 迷い犬を拾った https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanabejou_tatakai.html
- なぜ田辺籠城戦は手強かった? 京都・舞鶴に受け継がれる「幽斎への ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10582
- 田辺城の戦い ~細川幽斎の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/tanabe.html
- 舞鶴物語 ~其の参~ 田辺城籠城戦記 - 舞鶴観光ネット https://maizuru-kanko.net/tanabejyo
- 田辺城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/TanabeJou.html
- 和歌が上手すぎて命拾いした戦国のスーパーマン、細川幽斎。ゆかりの地、京都と彼を支えた人を追ってみた - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/121463/
- 細川幽斎シリーズ 熊本偉人伝Vol.7 https://kumamoto.tabimook.com/greate/detail/7
- Vol.05|田辺城跡・桂林寺(京都府舞鶴市)/熊川宿(福井県若狭町) | まるごと北近畿 https://kitakinki.gr.jp/mitsuhide/05mitsuhide
- 田辺城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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- 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (前半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-1/
- 古地図アプリで舞鶴再発見!「京都舞鶴まち探検マップ」が完成 ... https://www.city.maizuru.kyoto.jp/kyouiku/0000008299.html
- 古今伝授 https://tanabejoumaturi.sakura.ne.jp/kokinndennju/shasinnshuu.htm
- 古今伝授とは - 古今伝授の里 フィールドミュージアム http://www.kokindenju.com/kokindenju.html
- 田辺城跡(京都府舞鶴市) - すさまじきもの ~歌枕 探訪~ http://saigyo.sakura.ne.jp/tanabejo.html
- 田辺城と古今伝授(その1) - 武士道美術館 https://bushidoart.jp/ohta/2013/11/05/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E5%9F%8E%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BC%9D%E6%8E%88%EF%BC%88%E3%81%9D%E3%81%AE1%EF%BC%89/
- 戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【中編】:2ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/133021/2
- 関ヶ原の戦いと中山道① - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト https://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93%E2%91%A0/
- 関ヶ原の戦いの戦後処理 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%87%A6%E7%90%86
- 福知山城 https://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/lab/shimazaki_kazushi/shimazaki/JAPANCasle/158fukuchiyama/panf02.pdf
- 小野木重次(おのぎ しげつぐ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%9C%A8%E9%87%8D%E6%AC%A1-1063764
- 福知山城の戦い ~小野木重勝の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/fukuchiyama.html
- MD01 前田忠貞 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/md01.html
- 家臣を次々に斬り殺したキリシタン大名・前田茂勝、入信後の豹変ぶりと“果てしない転落の道” https://diamond.jp/articles/-/355011
- 前田茂勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E8%8C%82%E5%8B%9D
- 永青文庫美術館 https://www.eiseibunko.com/collection/bugu3.html
- 古今伝授行平/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/search-noted-sword/kokuho-meito/56084/