最終更新日 2025-08-28

田野の戦い(1582)

天正十年、甲州征伐にて武田勝頼は家臣の裏切りと織田の大軍に追い詰められ、新府城を焼く。岩殿山城への道も閉ざされ、田野にて土屋昌恒らの奮戦の中、妻子と共に自害。武田家は滅亡し、戦国の転換点となりし一戦なり。

天正十年三月十一日、田野—武田家終焉の刻、その全貌—

序章:落日の名門

天正10年(1582年)3月11日、甲斐国田野(現在の山梨県甲州市大和町)において、かつて戦国最強と謳われた甲斐武田氏の嫡流が、その歴史に終止符を打った。世に言う「田野の戦い」、あるいは「天目山の戦い」である。この戦いは、単なる一合戦ではなく、織田信長による周到な殲滅戦略と、武田家が内包していた構造的脆弱性が複合的に絡み合い、必然的にもたらされた破局であった。武田勝頼一行が田野という死地に追い詰められるまでの過程を理解するためには、まず、この戦いを準備した甲州征伐の全体像と、末期的な状況にあった武田家の内情を解き明かす必要がある。

1. 甲州征伐—周到なる殲滅戦

甲州征伐の直接的な発端は、天正10年2月3日、武田氏の一門であり信濃木曽谷の領主であった木曽義昌が織田信長に寝返ったことに始まる 1 。この報に接した信長は、長年膠着していた対武田戦線に、完全なる終止符を打つ好機と判断。直ちに武田家討伐の総動員令を発した。

信長の戦略は、圧倒的な兵力による多方面からの同時侵攻を核としていた。これは、武田領を網のように包囲し、物理的な逃げ道を塞ぐと同時に、武田家臣団に「もはや勝ち目はない」という心理的圧迫を与え、内部からの崩壊を誘発することを目的とした、極めて高度な殲滅戦であった。

主力の侵攻軍は、信長の嫡男・織田信忠を総大将とし、森長可、団忠正を先鋒、河尻秀隆、そして軍監として滝川一益らが率いる約3万の軍勢で、信濃の伊那方面から甲斐心臓部を目指した 1 。これに呼応し、飛騨からは金森長近が 1 、駿河からは同盟者である徳川家康が約1万5千の兵を率いて侵攻 1 。さらに、かつては同盟相手でありながら、越後の「御館の乱」を機に敵対関係へと転じていた北条氏政・氏直父子も、約5万の大軍を動員し、関東方面および駿河東部から武田領へと雪崩れ込んだ 1

この圧倒的な包囲網に対し、武田方の抵抗は脆くも崩れ去る。織田軍の進軍速度は凄まじく、2月28日には駿河・伊豆国境の戸倉城が陥落 1 。そして3月2日には、勝頼の弟・仁科盛信が守る信濃の要衝・高遠城が、織田信忠軍の猛攻の前にわずか一日で落城し、盛信以下将兵は玉砕した 1 。この高遠城の陥落こそ、武田勝頼に組織的抵抗の断念を決意させる、決定的な一報となったのである。

2. 崩壊する家臣団—裏切りと天変地異

織田軍の侵攻が成功したのは、単にその兵力が優越していたからだけではない。むしろ、武田家が内部から崩壊していたことが、その最大の要因であった。天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける壊滅的な敗北は、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊といった信玄以来の宿老を一度に失い、武田軍の軍事力を著しく低下させただけでなく、当主・勝頼の求心力にも深刻な打撃を与えた 7

勝頼は失われた権威を取り戻すべく、高天神城の攻略 10 などで戦果を挙げるが、それは国力を疲弊させる結果を招いた 8 。外交面では、越後の後継者争いである「御館の乱」において、当初支援していた北条氏政の実弟・上杉景虎を見限り、上杉景勝からの黄金と領地割譲の申し出に応じて支持を転換した 11 。この決定は、長年の同盟国であった北条氏との甲相同盟を完全に破綻させ、甲州征伐において北条氏を敵に回す致命的な失策となった。

こうした状況下で、家臣団の離反が相次ぐ。まず、信濃の木曽義昌が織田方へ寝返り、甲州征伐の直接の引き金を作った。さらに衝撃的だったのは、武田一門の重鎮であり、駿河方面の統治を任されていた穴山梅雪(信君)の裏切りである 7 。梅雪は密かに徳川家康と内通し、家康軍を甲斐国内へ手引きする役割を果たした 2 。最も信頼すべき一門衆が、敵を本拠地へと導いたという事実は、武田家の崩壊が末期症状であることを物語っていた。

人心の動揺に追い打ちをかけたのが、天変地異であった。天正10年の初頭、浅間山が48年ぶりに大噴火を起こした 6 。当時の人々が強く信じていた「天道思想」において、これは人知を超えた凶兆と受け止められた。「天が武田を見放した」という言説は領内に瞬く間に広まり、兵の士気を著しく低下させ、さらなる家臣の離反を誘発する心理的要因として機能したのである 6

甲州征伐の成功は、織田軍の軍事力のみならず、長篠敗戦後の勝頼による性急な権威回復策が招いた外交的孤立と、それに伴う家臣団の離反という、武田家が自ら招いた内憂外患の状況を信長が的確に突いた結果であった。軍事行動と調略が一体となった信長の総合戦略の前に、名門武田家は滅亡への坂道を転がり落ちていったのである。

勢力

侵攻方面

総大将/方面軍司令官

主要武将

総兵力(推定)

織田軍

信濃・伊那

織田信忠

森長可, 団忠正, 河尻秀隆, 滝川一益

約30,000

織田軍

飛騨

金森長近

-

不明

徳川軍

駿河

徳川家康

大久保忠世, (案内役:穴山梅雪)

約15,000

北条軍

関東・駿河東部

北条氏直/氏政

北条氏邦

約50,000

武田軍

全域防衛

武田勝頼

仁科盛信, 小山田信茂, 依田信蕃

約3,000 (高遠城)

第一章:決断—新府城炎上

高遠城落城の報は、武田勝頼に最後の決断を迫った。武田家の新たな拠点として、そして勝頼自身の権力の象徴として築かれた新府城。しかし、その未完の王城は、一度もその真価を発揮することなく、主の手によって炎に包まれる運命にあった。

1. 新府城—未完の王城、その戦略的意図

勝頼が、父・信玄以来の居館であった躑躅ヶ崎館(甲府市)から、韮崎の地に新府城を築城し、本拠を移したのは天正9年(1581年)12月のことであった 13 。この遷都には、勝頼の明確な戦略的意図があった。韮崎は、甲斐・信濃・西上野・駿河にまたがる広大な武田領国のほぼ中央に位置する交通の要衝であった 14 。ここに新たな政治・軍事拠点を置くことで、領国全体への支配を強化し、各地に分散する家臣団を城下に集住させ、権力の一元化と兵農分離を促進する。それは、旧来の統治体制から脱却し、より近世的な大名権力を確立しようとする、勝頼の野心的な国家構想の現れであった 13

普請奉行には真田昌幸が任じられ、築城が進められた 13 。近年の発掘調査では、丸馬出しや三日月堀といった、当時の最先端技術を駆使した堅固な防御施設の遺構が確認されており、新府城が極めて高い防衛能力を持つ城として設計されていたことが明らかになっている 17 。また、釜無川を利用した舟運による物資輸送も計画されており、新府城は単なる居城ではなく、政治・経済・軍事を統べる複合拠点となるはずであった 13

しかし、天正10年3月2日、高遠城がわずか一日で落城したという衝撃的な報がもたらされる 12 。織田信忠率いる大軍が目前に迫る中、未だ普請の途中であった新府城での籠城は不可能と判断せざるを得なかった 13

2. 最後の軍議—岩櫃か、岩殿か

新府城において、最後の軍議が開かれた 13 。議題は、どこへ落ち延び、再起を図るかであった。ここで、二つの有力な選択肢が提示される。

一つは、真田昌幸が強く進言した、自身が城主を務める上野国の岩櫃城への退避であった 12 。昌幸は、岩櫃城が天然の岩山を利用した難攻不落の要害であり、半年から一年は籠城可能な兵糧も備蓄してあると説き、そこで織田の大軍を迎え撃つべきだと主張した 20 。この案は、甲斐を一時的に放棄することにはなるが、同盟関係にある越後の上杉景勝との連携も視野に入れた、戦略的に最も合理的な選択肢であったかもしれない 22

しかし、これに異を唱えたのが、勝頼側近の長坂光堅(釣閑斎)と、武田家譜代の重臣である小山田信茂であった 12 。彼らは、信茂が城主を務める甲斐国東部の岩殿山城への退避を主張した 24 。その理由として、岩櫃城までの道のりは遠く、冬の深い雪に阻まれる危険性を挙げた 1 。岩殿城は甲斐国内にあり、距離も近く、こちらもまた難攻不落の堅城として知られていた。

最終的に、勝頼は小山田信茂の進言を受け入れた。この決断の背景には、軍事合理性だけでは測れない、複雑な要因が絡み合っていた。滅亡の瀬戸際にありながらも、「甲斐の主」として本国に留まり再起を図りたいという勝頼の矜持。そして、信玄以来の譜代家臣である小山田への信頼が、外様であり新興の側近である真田の提案を上回ったのである。この意思決定は、武田家が末期においてもなお、旧来の権力構造と地縁のしがらみから自由になれなかったことの証左であり、その後の悲劇的な運命を決定づける分水嶺となった。

3. 炎と脱出—68日間の夢の終わり

天正10年3月3日、決断を下した勝頼は、自らの手で新府城に火を放った 13 。わずか68日間という、あまりに短い期間しか居城としなかった夢の王城は、焦土と化した 13 。この放火は、武田家による組織的抵抗の終焉を天下に示す、痛切な宣言であった。

勝頼は、嫡男・信勝、正室の北条夫人をはじめとする妻子、そして約500名ほどの家臣や女中たちを伴い、最後の希望を託した岩殿山城を目指して、絶望的な逃避行を開始したのである 12

第二章:裏切り—閉ざされた道

新府城を後にした勝頼一行にとって、小山田信茂が守る岩殿山城は最後の希望であった。しかし、その希望は最も信頼していたはずの譜代家臣によって、無惨に打ち砕かれることになる。笹子峠で鳴り響いた銃声は、武田家への弔鐘であった。

1. 駒飼宿での七日間—浪費された時間

3月3日に新府城を脱出した一行は、翌3月4日には駒飼宿(現在の甲州市大和町駒飼)に到着した 26 。しかし、ここで一行の足は完全に止まってしまう。岩殿山城からの迎えを待つという名目で、3月10日までの約7日間もの間、この地に滞在し続けたのである 26 。織田の追手が刻一刻と迫る中でのこの不可解な遅延は、結果的に勝頼の命運を決定づける致命的な時間の浪費となった。

この停滞の間に、小山田信茂は不穏な動きを見せていた。彼は勝頼一行のもとに赴き、人質として同行させていた自身の母親を「迎えの準備のため」と称して連れ出したのである 26 。この行動は、彼がすでに裏切りを決意し、そのための最後の障害を取り除くためのものであった可能性が極めて高い。勝頼一行は、知らぬ間に裏切りのための時間稼ぎに利用されていたのであった。

2. 笹子峠の銃声—最後の希望の断絶

3月10日、痺れを切らした勝頼一行はようやく駒飼宿を出発し、岩殿山城へと続く笹子峠に差し掛かった。しかし、そこで彼らを待ち受けていたのは、歓迎の使者ではなく、無情にも封鎖された関門と、銃口を向ける小山田の兵たちであった 19

小山田勢は、峠を越えようとする一行に対し、威嚇射撃を行ったと伝えられている 12 。信頼していた重臣からの突然の敵対行為に、勝頼一行は驚愕と絶望に包まれたであろう。岩殿山城への道は完全に閉ざされ、進むことも退くこともできなくなった一行は、完全な窮地に陥った。

3. 「逆臣」信茂の真意—再評価の視点

小山田信茂のこの行動は、後世「主君を裏切った卑劣な逆臣」として長く語り継がれてきた。しかし、彼の行動原理を単純な自己保身のみで断じることには、慎重であるべきだという見方も近年では有力になっている。

まず考慮すべきは、信茂が治めていた郡内領の特殊性である。郡内領は甲斐国にありながら、地理的にも歴史的にも国中(甲府盆地)とは一線を画し、小山田氏は武田宗家に服属しながらも、半独立的な領国経営を行っていた 32 。信茂にとって、滅びゆく武田宗家への忠誠と、先祖伝来の領地・領民を戦禍から守るという領主としての責務は、天秤にかけざるを得ない問題であった。彼の裏切りは、武田家を見限ったというよりも、自らの領国を守るための苦渋の政治的決断であったとする「領民・領土保全説」は、説得力を持つ 31

さらに近年では、この裏切り自体が勝頼との間に交わされた密約に基づく「芝居」であったのではないか、という大胆な新説も提唱されている 36 。すなわち、勝頼が自らの首を信長への手土産とさせることで、信茂と彼の郡内領の安堵を図ったというものである。

いずれの説が真実であったにせよ、信茂の目論見は成功しなかった。彼は勝頼の死後、織田信忠のもとへ出頭するが、信忠は「主君を裏切る不忠の輩に会う必要はない」として面会を拒否。信茂は妻子共々、甲斐善光寺にて処刑された 24 。彼の行動は、武田家の滅亡過程において、最も信頼されるべき譜代重臣層から崩壊が始まったことを象徴している。木曽義昌、穴山梅雪、そして小山田信茂。彼らの離反は、信玄という絶対的なカリスマを失った後、勝頼には独立性の高い有力家臣を統制しきれなかったという、武田家の統治システムの構造的欠陥が露呈した結果であった。

日付

主な場所

主な出来事

随行者数(推定)

3月3日

新府城

城に放火し、岩殿山城へ向け脱出

約500~700名

3月4日

柏尾→鶴瀬→駒飼宿

駒飼宿に到着

-

3月5日~9日

駒飼宿

小山田信茂の迎えを待つ(停滞)

徐々に脱落者が出始める

3月10日

駒飼宿→笹子峠

小山田信茂が人質の母を奪還し、離反。笹子峠で入城を拒否される。

約200名

3月11日未明

天目山麓・田野

行き場を失い、田野で最後の陣を構える。

43名 (男女含む)

第三章:最後の刻—田野における時系列全記録

天正10年3月11日。この日、甲斐国田野の地は、戦国最強を誇った武田家の最後の舞台となった。夜明けから正午にかけての数時間に凝縮された、絶望と抵抗、誇りと辞世の物語を、時間の経過と共に再現する。

黎明(午前5時~6時頃):死地の覚悟

小山田信茂の裏切りにより、岩殿山城への道を断たれた勝頼一行は、武田家先祖の墓所がある天目山栖雲寺を目指した 37 。しかし、その道中で兵は次々と逃亡し、さらには目的地の栖雲寺や周辺の地下人(地元住民)からも受け入れを拒絶され、ついに田野の地で行き場を完全に失った 38

この時、勝頼に付き従っていたのは、譜代家臣の土屋昌恒、小宮山内膳友晴らわずか41名(一説に43名)の武士と、正室の北条夫人をはじめとする婦女子23名のみであった 12 。勝頼は、ここを自らの死に場所と定めることを決意する。勝頼の従兄弟にあたる麟岳和尚と、北条夫人に落ち延びるよう諭すが、二人は毅然としてこれを拒み、運命を共にすることを誓った 39 。一行は、この世の別れとなる最後の盃を静かに酌み交わし、迫り来る敵を迎え撃つべく、最後の準備に取り掛かった。

午前8時頃:追手迫る

夜が明けると、織田信忠軍の軍監として追撃の指揮を執っていた滝川一益率いる軍勢が、ついに田野の勝頼一行を発見した 1 。その兵力は約3,000から4,000 1 。対する武田方は、婦女子を除けばわずか40名余り。その兵力差は、絶望的という言葉ですら生ぬるいほどであった。

武田方の家臣たちは、わずかな抵抗を試みるべく、周辺の百姓家を利用して粗末な柵を構えたと記録されている 37 。それは、勝利のためではなく、主君が武士としての最期を遂げるための、わずかな時間を稼ぐための陣であった。

午前9時頃:最後の儀式—武田家嫡流の継承

死を覚悟した勝頼は、敵の攻撃が本格化する前のわずかな時間を見計らい、嫡男・信勝(当時16歳)のために、最後の儀式を執り行った。それは、信勝の元服の儀であった 30

勝頼は、松の根元に武田家当主の証である家宝「御旗(日の丸の御旗)」を立て、信勝に同じく家宝である「楯無(楯無の鎧)」を着せ、武田家の家督を正式に譲った 30 。物理的な敗北が確定した中で、勝頼は武田家の「正統性」という精神的な価値を守り、それを正式な後継者へと継承させることを選んだ。これにより、信勝は単なる「勝頼の子」としてではなく、「武田家第21代当主・武田信勝」としてその最期を迎えることになった。この儀式は、滅びゆく名門がその最後の瞬間に見せた、誇り高き統治行為であった。

午前10時頃:戦闘開始—忠臣たちの奮戦

滝川軍の総攻撃が開始された。圧倒的な兵力差の中、武田方の家臣たちは獅子奮迅の働きを見せる。

その中でも、後世にまで語り継がれる壮絶な戦いぶりを見せたのが、殿(しんがり)を務めた土屋惣蔵昌恒であった。彼は、日川沿いの狭く険しい崖道にただ一人で立ちはだかり、片手で岩肌の藤蔓を掴んで自らの体を支え、もう一方の手に持った太刀で、押し寄せる織田兵を次々と斬り伏せ、谷底へと蹴落としていった 37 。まさに鬼神の如きその奮戦は「片手千人斬り」の伝説を生み 6 、敵である織田方の公式記録『信長公記』にすら「比類なき働き」と賞賛されるほどであった 42 。彼が流させた血で日川が三日間赤く染まったという逸話から、この川は後に「三日血川」と呼ばれるようになった 42 。土屋昌恒のこの決死の抵抗が、勝頼父子や北条夫人が自害を遂げるための、かけがえのない時間を稼いだのである。

また、この土壇場において、かつて勝頼の不興を買って逼塞していた小宮山内膳友晴が馳せ参じ、最後の奉公を願い出た 39 。勝頼に許された彼は、生母と妻子を逃がした後、土屋らと共に奮戦し、その命を主君に捧げた。

午前11時頃:辞世—それぞれの最期

忠臣たちが時間を稼ぐ中、勝頼たちは静かに最期の時を迎えた。

  • 北条夫人(享年19) :侍女たちと共に自害。辞世の句は「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒」と伝えられる 44
  • 武田信勝(享年16) :元服を終えたばかりの若き当主は、父と共に奮戦するも衆寡敵せず、壮絶な最期を遂げた。辞世の句は「あだに見よ 誰もあらしの 桜花 咲き散るほどは 春の夜の夢」 44
  • 武田勝頼(享年37) :妻子と忠臣たちの最期を見届けた後、静かに自刃して果てた。辞世の句は「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端」 44

正午:静寂

勝頼の自害をもって、田野での戦闘は終結した。最後まで残った家臣たちも、主君の後を追うように、あるいは討ち死にし、あるいは自害し、正午までには武田方で生き残っている者は一人もいなかった 44 。滝川一益の軍は、勝頼・信勝父子の首級を確保し、諏訪の本陣にいる織田信忠のもとへと送った 6

ここに、清和源氏の流れを汲み、甲斐国を拠点として戦国時代に覇を唱えた名門・武田氏の嫡流は、完全に滅亡した 1

氏名

役職・続柄

最期の様子

武田勝頼

武田家当主

自刃

北条夫人

勝頼正室

自刃

武田信勝

勝頼嫡男

討死

土屋昌恒

譜代家臣

奮戦の末、討死

小宮山友晴

譜代家臣

奮戦の末、討死

秋山紀伊守

譜代家臣

奮戦の末、討死

安西伊賀守

側近

奮戦の末、討死

麟岳和尚

一門(勝頼の従兄弟)

信勝と共に討死

第四章:登場人物たちの相貌

田野の悲劇は、幾人かの主要な登場人物たちの決断と行動によって織りなされた。彼らの人物像を深く掘り下げることで、この歴史的事件の人間的な側面に光を当てる。

1. 武田勝頼—偉大なる父の影で

武田勝頼は、しばしば父・信玄と比較され、武田家を滅亡させた「暗君」という評価を受けがちである。しかし、その実像はより複雑であった。信玄存命中、高遠城主であった勝頼は、三方ヶ原の戦いなどで武功を挙げるなど、優れた武将としての器量を示していた 8

彼の悲劇は、信玄というあまりに偉大な父の後を継いだことに始まる。常に家臣団から父と比較され、厳しい評価の目に晒され続けた。長篠での大敗後、失われた権威を取り戻そうと焦るあまり、周囲の意見を聞かず独断で物事を進める傾向が強まったとされる 8 。一方で、旧来の統治体制を刷新しようとした新府城の建設は、彼の革新的なビジョンを示すものであった 13 。田野での最期に見せた、嫡男・信勝への家督相続という毅然とした態度は、彼が最後まで武田家当主としての誇りを失わなかったことを物語っている。勝頼は、時代の転換期において、父の遺産と自身の理想との間で苦悩し続けた悲劇の当主であった。

2. 滝川一益—信長の先鋒大将

勝頼を最後の死地へと追い詰めた追撃軍の指揮官、滝川一益は、織田信長の先進的な軍団を象徴する人物である。近江国甲賀の出身で、若い頃は素行不良であったが、堺で鉄砲の技術を学び、その腕前を信長に見出されて仕官したという、異色の経歴を持つ 45

彼は、長篠の戦いで3,000挺ともいわれる鉄砲隊を指揮して武田騎馬隊を破る原動力となり 45 、甲州征伐では軍監として信忠軍の中核を担った 4 。彼の役割は、単なる戦闘指揮官に留まらない。鉄砲や水軍の運用に長けたテクノクラートであり、戦後の関東統治を任される「関東御取次役」に任命されるなど、外交・統治能力にも優れた武将であった 45 。田野における彼の任務遂行は、感情を排し、冷静かつ効率的に主君の命令を実行する、織田軍団のプロフェッショナリズムを体現していた。

3. 土屋昌恒と忠臣たち—滅びの美学

武田家が滅亡の淵に立たされた時、その最後の輝きを放ったのが、土屋昌恒をはじめとする忠臣たちであった。土屋昌恒は、長篠の戦いで父と兄を亡くし、若くして家督を継いだ人物である 48 。彼にとって、武田家への奉公は、家代々の責務であり、自らの存在意義そのものであった。

田野での「片手千人斬り」という伝説的な奮戦は、単なる武勇伝ではない。それは、滅びゆく主君と運命を共にし、その最期の尊厳を守るために自らの命を捧げるという、武士道精神の極致であった。彼の働きは敵方からも賞賛されたという事実が、その忠義の純粋さを物語っている 8 。また、一度は不遇をかこちながらも、主君の最後の危機に馳せ参じた小宮山内膳のような家臣の存在は、武田家が末期においてもなお、強固な君臣の絆を失ってはいなかったことの証左である 39 。彼らの生き様は、滅びの物語の中に、人間の忠誠と義という普遍的な光を灯している。

終章:武田家滅亡の歴史的意義

田野における武田家嫡流の滅亡は、一個の戦国大名の終焉に留まらず、戦国時代の勢力図を大きく塗り替え、新たな動乱の時代を招来する画期的な出来事であった。

1. 権力の空白と「天正壬午の乱」

武田氏の滅亡により、甲斐・信濃・上野という広大な領国は、主を失った権力の空白地帯と化した 3 。信長は、滝川一益を関東管領として上野に、河尻秀隆を甲斐に、森長可を信濃に配置し、新たな統治体制を敷こうとした。しかし、田野の戦いからわずか3ヶ月後の天正10年6月2日、本能寺の変で信長が横死すると、この新体制はあっけなく崩壊する。

旧武田領を巡り、徳川家康、北条氏直、上杉景勝、そして在地の国衆たちが覇権を争う、世に言う「天正壬午の乱」が勃発したのである 3 。田野での一戦は、信長による天下統一事業の一つの頂点であったと同時に、その死後における新たな大乱の直接的な引き金となった。

2. 徳川家康と武田遺臣団

天正壬午の乱を巧みな戦略で制し、甲斐・信濃を手中に収めたのは徳川家康であった。家康は、武田家滅亡後に離散していた旧武田家臣団を積極的に召し抱え、自らの家臣団に組み込んだ 3

これは、単なる人材の確保に留まらなかった。家康は、武田家が長年培ってきた先進的な統治システムや軍事制度を、遺臣団を通じて吸収したのである。信玄堤に代表される高度な治水技術、黒川金山などの鉱山経営ノウハウ、そして井伊の赤備えとして再編される武田軍の精強な軍事組織。これらの「武田の遺産」は、その後の徳川家の国力増強に大きく貢献し、ひいては江戸幕府の盤石な支配体制の礎の一部となった 50

武田家は田野で滅びた。しかし、その血と魂、そして知恵は、徳川という新たな器の中で生き続け、日本の歴史を形作っていくことになる。田野の戦いは、一つの時代の終わりであると同時に、次なる時代の始まりを告げる、歴史の大きな転換点であった。

補論:もし岩櫃城へ向かっていたら

歴史に「もしも」は禁物であるが、新府城での軍議におけるもう一つの選択肢、すなわち真田昌幸が提案した岩櫃城への退避を選んでいた場合、武田家の運命はどう変わっていたかを考察することは、田野の戦いが持つ決定的な意味を逆照射する上で有益である。

1. 岩櫃城の戦略的価値

昌幸の居城であった上野国・岩櫃城は、吾妻川の断崖にそびえる天然の岩山を利用した、天下に名だたる難攻不落の要害であった 20 。城内には十分な兵糧が備蓄され、長期間の籠城が可能であったとされる 21

地理的にも、甲斐国内で行き場を失う状況とは全く異なっていた。上野国は関東の北条氏と越後の上杉氏の勢力がぶつかる最前線であり、同盟関係にあった上杉景勝との連携も期待できた。織田の大軍といえども、この天険の要害を攻め落とすのは容易ではなかったであろう。

2. 歴史は変わったか

もし勝頼が昌幸の進言を受け入れ、岩櫃城での籠城に成功していたならば、歴史は大きく変わっていた可能性がある。田野の戦いからわずか3ヶ月後に起こる本能寺の変まで持ちこたえることができれば、織田の主力軍は畿内へ引き返さざるを得ず、武田家は滅亡を免れ、存続したかもしれない 22

そうなれば、天正壬午の乱の主役は徳川家康ではなく、再起した武田勝頼となっていた可能性すらある。関東、甲信越の勢力図は全く異なるものとなり、その後の豊臣秀吉による天下統一、そして徳川家康の台頭も、史実とは違う道を辿ったであろう。

この歴史のIFシナリオは、新府城でのあの日の決断が、単に逃走ルートの選択に留まらず、武田家の、ひいては日本の戦国史そのものの行方を左右する、極めて重大な分岐点であったことを我々に示唆している。田野での悲劇は、避けられたかもしれない未来の可能性を内包していたのである。

引用文献

  1. 甲州征伐- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  2. 甲州征伐- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  3. 甲州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  4. 滝川一益 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
  5. 神流川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%B5%81%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  6. 『武田勝頼の最期』度重なる裏切り、凛々しく天目山での自害 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/takeda-katsuyori-saigo/
  7. 武田勝頼は何をした人?「信玄の跡を継いだけど信長に大敗して武田家を滅ぼした」ハナシ https://busho.fun/person/katsuyori-takeda
  8. 武田勝頼の敗因について 意見を受け入れる重要性 | Study Vista(スタディビスタ) 公式ブログ https://ameblo.jp/study-vista/entry-12864351779.html
  9. 長篠の合戦の真相~武田勝頼はなぜ無謀な突撃を繰り返したのか https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3918
  10. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第11回【武田勝頼・前編】なぜオレが?四男に転がり込んできた名門当主の座 - 城びと https://shirobito.jp/article/1507
  11. 【どうする家康】戦国最強・武田氏はなぜ滅亡したのか? 決定打となった“金山管理の重臣”穴山梅雪の寝返り | マネーポストWEB - Part 2 https://www.moneypost.jp/1043998/2/
  12. [合戦解説] 10分でわかる天目山の戦い 「信長の甲州征伐で武田氏滅亡」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=-_eGJCKTbR0
  13. 【山梨県】新府城の歴史 武田勝頼が築いた悲運の城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1906
  14. 武田勝頼の新府城阯を歩く~山梨観光 歴史と文学の旅 https://sirdaizine.com/travel/Shinpujyou.html
  15. 国指定史跡 新府城跡を探る - 山梨県 https://www.pref.yamanashi.jp/documents/34469/68936213006.pdf
  16. ふる.さとの城を語ろう https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/9/9167/7099_1_%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%B5%AA%E6%BC%AB%E6%96%B0%E5%BA%9C%E5%9F%8E.pdf
  17. 【ビギナー女子の山城歩き】新府城 勝頼が自ら火を放った悲運の城の謎に迫る! https://shirobito.jp/article/334
  18. お城の現場より〜発掘・復元最前線 第26回【新府城】わずか68日で灰燼に帰した悲劇の城 https://shirobito.jp/article/681
  19. 新府城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BA%9C%E5%9F%8E
  20. 【上野国 岩櫃城】武田勝頼に選ばれなかったお城!?武田氏を滅亡から救ったかもしれない!?の難攻不落の山城 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=KnEoCeK69MM
  21. 真田昌幸が岩櫃城に武田勝頼を迎えたら - 吾妻の歴史を語る https://denno2488.com/2021/05/28/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8%E3%81%8C%E5%B2%A9%E6%AB%83%E5%9F%8E%E3%81%AB%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%A0%BC%E3%82%92%E8%BF%8E%E3%81%88%E3%81%9F%E3%82%89/
  22. いわびつ座談会 Part3「勝頼が岩櫃に来ていたら、歴史は変わった?」 | 岩櫃(いわびつ)~大河ドラマ「真田丸」東吾妻町公式ホームページ~ http://iwabitsu-sanadamaru.com/zadankai/part3
  23. 真田/岩櫃の歴史 | 岩櫃(いわびつ)~大河ドラマ「真田丸」東吾妻町公式ホームページ~ http://iwabitsu-sanadamaru.com/history
  24. 鉄道唱歌にも悪しざまに唄われる小山田信茂の岩殿城 https://yamasan-aruku.com/aruku-319/
  25. 武田勝頼によって築かれた武田氏最後の居城「新府城」。決戦に備えた難攻不落の城であったが https://hkpt.net/event/shinpujyo/
  26. 駒飼宿(→山梨県甲州市)を訪問しました | らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~ https://rashimban1.blog.fc2.com/blog-entry-491.html
  27. 大善寺(山梨県甲州市)を訪問しました | らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~ https://rashimban1.blog.fc2.com/blog-entry-461.html
  28. 北条夫人(桂林院殿)―芝蘭と称えられた甲州淑女之君6 https://rashimban3.blog.fc2.com/blog-entry-163.html
  29. 武田勝頼を裏切った小山田信茂にも事情があった? - 旦さまと私 https://lunaticrosier.blog.fc2.com/blog-entry-869.html
  30. 甲州征伐・天目山の戦い~武田勝頼の滅亡~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/koshu-seibatu.html
  31. 信茂と小山田家 https://oyamada-nobushige.com/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82%E5%85%AC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
  32. 小山田氏の郡内領支配」「戦国大名武田氏領の支配構造』収録 https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/tyusei/pdf_b/b014_3.pdf
  33. 郡内小山田氏の物語 | 小山田信茂公顕彰会 公式Webサイト - Wix.com https://greenforestnagasak.wixsite.com/nobushige17/web-2
  34. 末代まで裏切り者の汚名を着た武田二十四将の一人・小山田左衛門尉信茂 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10124
  35. 世間は小山田信茂をまだ、どう、観ているのか?|夢酔藤山 - note https://note.com/gifted_macaw324/n/ne48884423d76
  36. 小山田信茂公顕彰会が大成功 - 藤本 みのる 通信 https://fujimoto-minoru.com/%E9%80%9A%E4%BF%A1402%E5%8F%B7%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82%E5%85%AC%E9%A1%95%E5%BD%B0%E4%BC%9A%E3%81%8C%E5%A4%A7%E6%88%90%E5%8A%9F.pdf
  37. 天目山の戦い(甲州征伐)古戦場:山梨県/ホームメイト https://www.touken-world.jp/dtl/tenmokuzan/
  38. 【武田氏滅亡】織田信長・徳川家康に追い詰められた武田勝頼、天目山手前の田野で自決し https://m.youtube.com/watch?v=nU81OFLtecM&pp=ygUKI-W5s-WxseWEqg%3D%3D
  39. 武田勝頼の最期とその辞世……歴史家が語る天目山、武田滅亡の瞬間とは | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8919
  40. 武田勝頼の亡骸と墓所 (1) –田野合戦と景徳院 https://yukimufort.net/haka/takedakatsuyori01/6457/
  41. 土屋惣蔵片手切り https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/katatekiri.k/katatekiri.k.html
  42. 土屋昌恒 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E6%98%8C%E6%81%92
  43. 徳川家康との偶然の出会いが運命を変えた!「片手千人斬り」の父と息子のちょっといい話 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/161683/
  44. 武田勝頼の最期とその辞世……歴史家が語る天目山、武田滅亡の ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8919?p=1
  45. 滝川一益は何をした人?「甲州征伐で大活躍したが清洲会議に乗り遅れてしまった」ハナシ https://busho.fun/person/kazumasu-takigawa
  46. 滝川一益の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46490/
  47. 「滝川一益」伊勢攻略の立役者だが、ツイてない晩年には同情してしまう https://sengoku-his.com/496
  48. カードリスト/武田家/武056土屋昌恒 - 戦国大戦あっとwiki - atwiki(アットウィキ) https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/411.html
  49. 滅亡後の武田家はどうなったのか?江戸時代にも存続していた? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/takedake-extinction/
  50. 徳川家康がしたこととは?「時」が来るまで自分の持ち場で最善を尽くす!後世にも残る徳川家康の仕事 (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/24714/?pg=2
  51. 岩櫃城址と潜龍院、郷原城址、真田道周回コース 浅間・吾妻エコツーリズム協会 http://ecotourism.or.jp/climbing_mountain/iwabitsu02/index.html