最終更新日 2025-08-28

白石城の戦い(1600)

慶長五年 白石城の戦い ― 関ヶ原前夜、奥州に燃え上がった野望と戦略の交錯

序章:天下分け目の序曲、奥州に燻る火種

慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を終えると、日本は再び巨大な政治的変動期へと突入した 1 。秀吉が遺した幼い嫡男・秀頼を頂点とする豊臣政権は、その強力な求心力を失い、内部から静かに崩壊の兆しを見せ始める。この権力の空白を突くかのように、五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を拡大し始めた 2 。家康は、秀吉が生前に固く禁じた大名間の私的な婚姻を伊達政宗らと結ぶなど、巧みな政治手腕で諸大名を自らの陣営へと引き込み、天下の実権掌握へと着実に布石を打っていった 1

この家康の露骨な覇権掌握の動きに対し、豊臣政権の屋台骨を支える五奉行の一人、石田三成は強い危機感を抱き、反家康勢力の結集を画策する 2 。そして、この対立構造の中で、家康にとって最大の障壁の一つとして立ちはだかったのが、会津120万石を領する五大老の一人、上杉景勝であった。景勝は三成と気脈を通じ、反徳川の旗幟を鮮明にする 2

慶長5年(1600年)に入ると、景勝は家康からの年賀挨拶のための上洛要求を公然と拒否 1 。さらに、領内において新たな城(神指城)の普請や街道の整備、武具・兵糧の備蓄といった軍備増強を隠そうともせず推し進めた 1 。この一連の動きは、隣接する最上義光や堀秀治らによって、「謀反の企てあり」として逐一家康へ報告される 1 。家康は景勝に対し、これらの軍事行動について弁明するための上洛を厳命するが、景勝の腹心である家老・直江兼続は、痛烈な皮肉と反骨心に満ちた書状、後世に「直江状」として知られる返書を送りつけ、家康の要求を事実上拒絶した 1

この返書は家康を激怒させ、ついに諸大名に対し「上杉討伐」、すなわち会津征伐の大号令を発するに至る 1 。しかし、この上杉の挑発的な行動は、単なる血気や反骨心によるものではなかった。それは、家康の巨大な軍事力を奥州の地に引きつけ、その隙に畿内で三成が挙兵するという、壮大な挟撃戦略の一環であった。家康が北へ向かえば、政治の中心地である畿内は手薄になる。その機を捉えて三成が西軍を組織し、家康を東西から挟み撃ちにする。この国家規模の謀略において、奥州の地は天下分け目の戦いの、まさに最初の戦場となる運命にあった。そして、その壮大な戦略の最前線で、最初に火蓋が切られることになるのが、奥州南部の要衝・白石城を巡る攻防戦だったのである。

第一部:独眼竜の野望と百万石の夢

徳川家康による会津征伐の号令は、奥州の独眼竜・伊達政宗にとって、まさに干天の慈雨であった。彼にとってこの戦は、単に家康への忠誠を示す機会である以上に、長年の宿願を果たすための千載一遇の好機と映った 5 。政宗がその戦略の第一目標として見据えた白石城、そしてそれが位置する刈田郡は、かつて紛れもなく伊達家が代々支配してきた土地であった。しかし、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置によって無情にも没収され、会津領に組み込まれたという苦い過去を持つ因縁の地だったのである 1 。家康が掲げた上杉討伐という大義名分は、この旧領を武力によって奪還するための、またとない口実を政宗に与えた。

政宗の野心をさらに燃え上がらせたのが、家康からの破格の提案であった。家康は、上杉領の北方に位置し、奥州最大の勢力を誇る政宗を味方に引き入れることが、上杉を挟撃する上で不可欠であると考えていた 6 。そのために家康が提示したのが、後に「百万石のお墨付き」と称される密約である。これは、政宗が上杉との戦において自力で奪い取った旧領7郡(およそ49万石に相当)の領有を、戦後に正式に認めるという内容であったとされる 6 。当時58万石であった政宗の所領は、これが実現すれば一躍100万石を超える大大名へと飛躍することになる。この壮大な夢は、政宗を東軍へと駆り立てる最も強力な動機となった 8

しかし、この約束は、家康の老獪な知略の産物でもあった。約束の条件は、あくまで政宗が「自力で」旧領を回復することにあった 8 。政宗が成功すれば上杉の勢力を削ることができ、たとえ失敗しても伊達・上杉双方が疲弊するだけで、家康自身に損失はない。政宗の野心と旧領への執着を巧みに利用し、最小限のコストで奥州の戦線をコントロールしようとする家康の計算がそこにはあった。

伏見城において家康から直接、上杉領の南の玄関口である信夫口(現在の福島市方面)からの侵攻を命じられた政宗は、誰よりも早く領国へと帰還し、ただちに出兵の準備に取り掛かった 1 。彼の脳裏にあった戦略は明確であった。まず、信夫口への侵攻路を確保するための最重要拠点である白石城を電撃的に攻略し、そこを足掛かりとして上杉領奥深くへと侵攻する。百万石の夢の実現に向けた第一歩は、この白石城の奪還から始まるはずであった。政宗は家康の壮大な戦略の駒として動員されながらも、その胸中では自らの野望の炎を激しく燃やしていたのである。

第二部:白石城の攻防 ― 慶長五年七月二十四日~二十五日

天下の趨勢が大きく動く中、奥州の南の玄関口である白石城は、伊達・上杉両軍の激突の舞台となった。この戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦であると同時に、伊達政宗の野望の行方を占う試金石でもあった。


表1:白石城の戦い 両軍戦闘序列

項目

伊達軍

上杉軍(白石城守備隊)

総大将

伊達政宗

上杉景勝(会津)

現地指揮官

石川昭光(総大将代理)

登坂勝乃(城代代理)

主要武将

片倉景綱、片倉重長、白石宗実、伊達成実

鹿子田右衛門

城主

甘粕景継(不在)

推定兵力

約20,000

数百~1,000


第一章:開戦前夜の静寂

上杉方の白石城主、甘粕備後守景継は、上杉謙信の代から仕える歴戦の勇将であり、その武勇は広く知られていた 3 。本来であれば、伊達軍の侵攻に対し堅固な守りを見せたであろう。しかし、運命の悪戯か、景継はこの重要な時期に白石城を不在にしていた。主君・景勝の厳命により、会津若松城での軍議に参加、あるいは来るべき決戦に備えた神指城の普請に関わっていたためである 3 。この絶対的な指揮官の不在こそ、伊達軍が突くべき最大の弱点であった。

城の守りを一身に背負うことになったのは、景継の甥である登坂勝乃であった 5 。城主代理という重責を担う彼の指揮下には、上杉譜代の兵だけでなく、かつて政宗によって滅ぼされた二本松畠山氏の旧臣といった、複雑な背景を持つ者たちも含まれていた 1 。彼らの忠誠心は、必ずしも一枚岩ではなかった。

一方、伊達政宗は、城主不在という絶好の機を逃さなかった。彼は迅速に軍を動かすと、かつての自領であった地の利を最大限に活用する。白石城の北側に位置し、城全体を見下ろすことができる段丘上(現在の「陣場」の地名が残る場所)に本陣を構えた 14 。眼下に広がるのは、奪われた故地と、今まさにそれを守る敵の城。政宗の戦術眼は、すでに勝利への道筋を明確に捉えていた。

第二章:攻城戦の火蓋(七月二十四日)

慶長5年7月24日、申の刻(午後4時頃。午後2時とする説もある 9 )、ついに伊達軍による白石城への総攻撃が開始された。政宗は、まず城下町、そして外曲輪、三の丸へと次々に火を放たせた 1 。黒煙と炎が天を焦がし、城兵たちの動揺を誘う。これは、守備側の士気を削ぎ、城の防御機能を麻痺させるための、政宗が得意とする戦術であった。地の利に明るい伊達軍の攻撃は的確かつ迅速で、上杉方の防衛線は瞬く間に切り崩されていった。

この攻城戦において、最も目覚ましい働きを見せたのが、城の西側から攻撃を仕掛けた片倉景綱・重長父子の部隊であった 14 。特に、この戦いが初陣となった景綱の嫡男・片倉重長(当時17歳)の勇猛さは、敵味方の目を奪った 16 。伊達家の公式記録である『伊達治家記録』には、その鮮烈な初陣の様子が記されている。重長は、敵の矢弾が降り注ぐ中、臆することなく自ら石垣を駆け上がり、本丸への一番乗り、すなわち「先登の功」を果たしたという 18 。その際、重長に続こうとした味方二名が、城内から放たれた弩(いしゆみ、強力な射出力を持つクロスボウに類似した武器)によって討ち取られたとあり、上杉方が先進的な兵器を配備していたことと、戦闘の凄まじさを今に伝えている 19

片倉隊の奮戦をはじめとする伊達軍の猛攻の前に、上杉守備隊は善戦空しく、わずか一日にして本丸を除く城の全域が伊達軍の手に落ちた 1 。援軍の望みも絶たれ、白石城は完全に孤立無援となった。落城は、もはや時間の問題であった。

第三章:城内の相克と落城(七月二十五日)

一夜明け、7月25日の朝。本丸に立て籠もる上杉方の将兵が目にしたのは、自軍の旗がことごとく引き抜かれ、城の至る所に伊達家の「竹に雀」の紋が翻る絶望的な光景であった。圧倒的な兵力差と、もはや挽回不可能な戦況を前に、城代代理の登坂勝乃は、これ以上の籠城は無益な殺戮を招くだけであると判断し、降伏を決意する 1

しかし、この決断に「否」を突きつける者がいた。旧二本松畠山氏の家臣、鹿子田右衛門である 1 。彼の旧主君である畠山氏は、かつて伊達政宗との抗争の末に滅亡の道を辿っており、右衛門にとって政宗は主君の仇、不倶戴天の敵であった 13 。彼にとって、上杉家への忠義以上に、亡き主君への忠節と政宗への復讐心がその行動原理となっていた。仇敵に膝を屈することは、武士としての誇りを捨てることであり、彼は玉砕覚悟の徹底抗戦を強く主張した 2

降伏を主張する登坂勝乃と、徹底抗戦を叫ぶ鹿子田右衛門。城内の意見は真っ二つに割れ、指揮系統は麻痺状態に陥る。このままでは降伏の好機を逸し、城兵全員が犬死にしかねない。進退窮まった登坂勝乃は、ついに非情の決断を下す。降伏を断行するため、主戦派の筆頭である鹿子田右衛門を謀殺したのである 1

この城内の悲劇によって内部対立が終結すると、7月25日、登坂勝乃は正式に伊達政宗に降伏し、白石城の城門は開かれた 1 。こうして、二日間にわたる激しい攻防戦の末、政宗は長年の悲願であった旧領の要衝を、再びその手に収めたのである。

この電撃的な落城の背景には、伊達軍の圧倒的な軍事力のみならず、上杉守備隊が抱えていた「内部の脆さ」が存在した。それは、正規の指揮官である甘粕景継の不在という物理的な弱点と、寄せ集めの城兵が抱える、それぞれの旧主君への忠誠心と歴史的怨恨という心理的な断層であった。鹿子田右衛門の忠誠は上杉家ではなく、滅びた畠山家へと向いていた。この「忠誠心のベクトル」の相違が、城の結束を内部から破壊した。政宗の猛攻は、物理的な城壁を打ち破るより先に、城兵たちの士気という内なる城壁を崩壊させたのである。これは、戦国末期の大名たちが、拡大した領地とそこに住まう人々の複雑な忠誠心をいかに統治していくかという、時代の大きな課題を象徴する出来事でもあった。

第三部:一城の陥落、天下への波紋

伊達政宗が白石城攻略の勝利に沸いていた頃、遠く離れた下野国小山(現在の栃木県小山市)では、天下の趨勢を決定づける重大な軍議が開かれていた。この情報の断絶が、政宗の勝利に皮肉な影を落とすことになる。


表2:慶長五年七月 奥州・中央情勢 対照年表

年月日

奥州での出来事

中央での出来事

慶長5年7月21日

徳川家康、江戸を進発し会津へ向かう 21

7月24日

伊達政宗、白石城への攻撃を開始 1

7月25日

政宗、白石城を攻略 1

家康、小山評定で石田三成挙兵を知り、会津征伐を中止し西上を決定 9

7月27日

直江兼続、白石城奪還のための後詰について言及した書状を発給 23

8月上旬

上杉軍の白石城奪還部隊、地元の親伊達勢力のゲリラ戦により敗退 1


時を同じくして下野小山で下された家康の決断

政宗が白石城をその手中に収めたまさにその日、7月25日に、徳川家康は小山の陣中にて、石田三成が畿内で挙兵したとの報に接していた 9 。家康はただちに諸将を集めて軍議、世に言う「小山評定」を開き、上杉討伐を中止して西へ転進し、三成を討つことを決定する。この瞬間、政宗が参加するはずだった会津征伐という大戦略そのものが消滅した。政宗の輝かしい戦術的勝利は、彼が知らぬ間に、その戦略的価値の根幹を失っていたのである。やがて家康から「勝手な行動は慎むように」との命令が届き、政宗が描いていた上杉領への大規模侵攻計画は、実行に移されることなく頓挫した 9

「北の関ヶ原」への影響

しかし、白石城の陥落が全くの無意味であったわけではない。この勝利は、奥州全体の戦局、すなわち「北の関ヶ原」と呼ばれる慶長出羽合戦に決定的な影響を与えた。白石城を確保したことで、伊達領と最上領を結ぶ連絡線が確立され、両家の連携が格段に容易になった。これにより、上杉景勝は南方(対徳川)と北方(対伊達・最上)の二正面作戦を強いられることになり、その軍事行動は著しく制約された 25

特に大きかったのは、上杉軍が西上する徳川軍本隊を追撃できなかった点である。直江兼続は、失陥した白石城を奪還すべく後詰の部隊を派遣するが、この部隊は刈田郡小原村付近で、伊達軍本隊ではなく、旧領主である伊達氏に味方する地元の百姓や野伏(のぶし)たちによるゲリラ戦に遭遇し、敗退を喫した 1 。これは、上杉氏が新たな領地における民衆の掌握に失敗していたことを示すと同時に、伊達氏の旧領における根強い影響力を物語っている。この敗北により白石城奪還は不可能となり、兼続は徳川軍の背後を脅かすという重要な戦略的選択肢を失った。結果として、家康は後顧の憂いなく関ヶ原へと兵を進めることができたのである。

戦後の論功行賞

9月15日、関ヶ原の本戦がわずか一日で東軍の圧勝に終わると、戦後の論功行賞が行われた。政宗の戦功として家康に認められたのは、彼が自力で奪取した刈田郡二万石の加増のみであった 7 。政宗が和賀氏の一揆を裏で扇動したという疑惑が家康の不興を買ったことも一因とされるが、最大の理由は、約束の地を自力で切り取ることができなかったという単純な事実であった 8 。政宗が夢見た「百万石のお墨付き」は、こうして反故にされた。彼の野心は、白石城一城と刈田郡の回復という、限定的な成果に終わったのである。

関係者たちのその後

この戦いは、関わった武将たちの運命にも大きな影響を与えた。

  • 伊達家 : 政宗は攻略した白石城を、まず叔父の石川昭光に預けた後 1 、慶長7年(1602年)、腹心の片倉小十郎景綱に与えた 7 。以後、白石城は幕府の一国一城令の例外として存続を許され、明治維新に至るまで約260年間にわたり片倉氏の居城として、仙台藩南方の守りの要であり続けた 7
  • 上杉家 : 一方、城を失った責任を問われた甘粕景継の運命は悲惨であった。彼は主君・景勝の勘気を被り、以後、不遇の日々を送ったと伝えられる 11 。そして慶長16年(1611年)、失意のうちにこの世を去った。自害であったとも言われている 11 。一つの城の失陥が、歴戦の勇将のキャリアと生命を絶つ。そこには、戦国武将が背負う責任の過酷さが示されている。

終章:白石城の戦いが歴史に残した意味

慶長5年(1600年)7月の白石城の戦いは、わずか二日間の局地的な攻城戦であった。しかし、その歴史的意義は、関ヶ原という天下分け目の戦いという大きな文脈の中に置くことで、初めて明らかになる。

第一に、この戦いは「北の関ヶ原」とも呼ばれる奥州・出羽の戦線の帰趨を、開戦初期の段階で決定づけた重要な一戦であった。伊達政宗による白石城の電撃的な攻略は、東軍に与する伊達・最上両氏の連携を確固たるものとし、西軍方の上杉氏を南北から挟撃する態勢を構築した 25 。これにより、上杉軍は戦略の主導権を失い、徳川軍本隊への追撃という最も効果的な軍事行動を封じられた。白石城の陥落は、奥州における東軍優位を確立する分水嶺となったのである。

第二に、この戦いは独眼竜・伊達政宗という武将の野望と、彼が直面した時代の現実との狭間を象徴する出来事であった。彼は卓越した戦術眼と迅速な行動力で、戦術的には完璧な勝利を収めた。それは、旧領回復への彼の執念の結晶であった。しかし、その勝利の価値は、彼が関知し得ない中央の政治力学の急変によって、一夜にして変質してしまった。彼は奥州という自らの舞台では最高の演者であったが、天下というより大きな舞台の脚本は、もはや徳川家康によって書かれていた。

白石城の奪還は、政宗にとって輝かしい成功であると同時に、彼が夢見た「百万石の夢」が潰えた出発点でもあった。この一戦は、戦国乱世の気風を色濃く残す最後の英雄の一人、伊達政宗の野望の煌めきと、徳川による新たな秩序の前にその野望が屈せざるを得なかった時代の転換点を、鮮やかに映し出している。

引用文献

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  30. 歴史のまち白石|白石城の変遷とロマン溢れる歴史スポット | しろいし旅カタログ https://shiroishi.ne.jp/feature/1794
  31. 甘糟景継 あまかす・かげつぐ - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/amakasu.html