最終更新日 2025-08-27

石垣原の戦い(1600)

慶長五年 豊後石垣原血戦録 ― 鬼神の奮戦と天下人の智謀

序章:天下分け目の刻、九州に燃え上がるもう一つの戦火

慶長3年(1598年)、天下人豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢に巨大な権力の空白を生み出した 1 。秀吉が築き上げた微妙な均衡は瞬く間に崩れ、その遺臣たちは二つの巨大な派閥へと分裂していく。一方は、五大老筆頭として関東に二百五十万石を領し、次なる天下の座を虎視眈々と狙う徳川家康を頂点とする東軍。もう一方は、秀吉の遺志と豊臣家の安泰を掲げ、五奉行の一人である石田三成が中心となり、毛利輝元を名目上の総大将に戴く西軍である 3

慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、三成はこの機を捉えて大坂で挙兵。ここに、日本の運命を二分する「関ヶ原の戦い」の火蓋が切られた 3 。しかし、この天下分け目の戦いは、美濃関ヶ原という一地点に限定されたものではなかった。その戦火は全国へと飛び火し、各地で東軍方と西軍方の諸大名による熾烈な局地戦が繰り広げられたのである 3

中でも九州は、複雑な政治的背景を持つ火薬庫であった。秀吉による九州平定後、多くの在地大名が改易や減封、あるいは国替えの憂き目に遭い、その跡には秀吉子飼いの武将が配置された 6 。この措置は、旧来の勢力と新興の勢力との間に根深い対立の火種を燻らせていた。関ヶ原の動乱は、この地に燻る怨恨、野心、そして再興への悲願を一気に噴出させる絶好の機会となった。徳川に与する者、豊臣への恩義を貫く者、そして混乱に乗じて漁夫の利を得ようとする者。九州は、それぞれの思惑が渦巻く、もう一つの関ヶ原と化そうとしていた。

この九州における動乱の序盤、その後の勢力図を決定づける極めて重要な一戦が、豊後国速見郡の石垣原で繰り広げられることになる。対峙するのは、二人の対照的な武将。一人は、豊前中津城に隠居の身でありながら、天下の動乱を好機と捉え、再びその智謀を戦場に解き放とうとする伝説の軍師、黒田如水(官兵衛)。もう一人は、かつて豊後一国を支配した名門の嫡流でありながら、秀吉によって国を追われ、お家再興という一途な願いを胸に故郷の土を踏んだ大友義統。

石垣原の戦いは、単なる局地戦ではない。それは、隠居した老軍師の燻る野望と、没落した名門当主の再起を賭けた悲願が激突する運命の舞台であった。この戦いの帰趨が、九州における関ヶ原の戦いの流れを決定づけ、豊後・豊前地域の新たな支配構造を確立することになるのである。

第一章:両将、起つ ― 黒田如水の野望と大友義統の悲願

黒田如水 ― 隠居の虎、天下を睨む

関ヶ原の戦いが勃発した慶長5年、黒田家の当主・長政は、主力軍を率いて徳川家康に従い、会津征伐へと向かっていた 5 。豊前国中津城には、家督を長政に譲り「如水軒円清」と号して隠居していた父、黒田如水孝高が留守居として残っていた 1 。表向きは静かな隠居生活を送るこの老将こそ、かつて豊臣秀吉をして「官兵衛に百万石を与えれば、たちまち天下を奪うだろう」と言わしめ、その智謀を恐れさせた稀代の軍師であった 9

石田三成挙兵の報が中津城にもたらされた時、如水はこれを単なる主家の危機とは捉えなかった。むしろ、生涯に一度の「好機到来」と判断したのである 10 。息子の長政が東軍の主力として遠く関東にいる今、この九州は自らの才覚で自由に動かせる広大な盤面であった。如水の胸中には、単に家康を支援するという次元を超えた、壮大な戦略が描かれていた。

その行動は電光石火であった。如水はまず、長年にわたり蓄財してきた金銀を惜しげもなく解放。これを元手に、主家を失い仕官を求める浪人たちを次々と召し抱えた 1 。その数、実に3,600人。さらに城内の留守兵に加え、領内の百姓や商人までをも動員し、わずかな期間で約9,000人もの軍勢を編成したのである 5 。この「黒田如水軍」は、旧来の主従関係に縛られた軍団ではない。如水の個人的な才覚と財力、そして勝利への期待感によって結びついた、極めて近代的な「機会の軍隊」であった。

如水の描いた戦略は、三段階からなる壮大なものであった。第一段階として、まず九州に割拠する西軍方の諸城を掃討し、背後の憂いを断つ。第二段階として、中国地方へ進撃し、西軍の総大将である毛利家の本領を制圧する。そして最終段階として、平定した西国全土を手土産に京へ上り、家康と合流する 11 。もし関ヶ原の戦いが長引けば、家康と並び立つ、あるいはそれ以上の功労者として、天下の采配に大きな影響力を持つことができる。石垣原の戦いは、この壮大な野望を実現するための、絶対に落とせない第一歩であった。

大友義統 ― 没落の名門、再興を賭ける

一方、黒田如水と対峙することになる大友義統は、失意の底にいた。大友氏は鎌倉時代以来、約400年にわたって豊後国を支配してきた守護大名の名門である 12 。その勢力は義統の父、大友宗麟の代に最盛期を迎え、九州六ヶ国を窺うほどの威勢を誇った 7 。しかし、耳川の戦いでの大敗を機にその勢威は陰りを見せ始める 15

義統にとって決定的な失墜となったのは、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)であった。この戦役において、義統は敵の猛攻に晒された小西行長からの救援要請に応じず、戦線を放棄したと見なされた 15 。この「敵前逃亡」の咎により、秀吉の怒りを買い、先祖伝来の豊後国を没収されるという屈辱的な改易処分を受けたのである 7 。一族の歴史と誇りを一身に背負う義統にとって、この不名誉は耐え難い苦痛であった。

秀吉の死後、幽閉を解かれた義統のもとに、西軍からの誘いの手が伸びる 18 。総大将の毛利輝元は、豊臣秀頼の名において「西軍に味方するならば、旧領である豊後一国を安堵する」という破格の条件を提示した 19 。これは、お家再興を悲願とする義統にとって、抗うことのできない魅力的な提案であった。嫡男・義乗が徳川秀忠の近侍を務めていたことから東軍に与すべきだという諫言もあったが、義統は西軍に与することを決断する 20

毛利家の支援を受けて故郷・豊後に上陸した義統のもとには、奇跡のような光景が広がった。かつて大友家に仕え、改易後は帰農したり、他家に仕官したりしていた旧臣たちが、主君帰還の報を聞き、次々と馳せ参じたのである 2 。その兵力は2,000人程度と、如水の軍勢に比べればはるかに小規模であったが、その士気は天を衝くほど高かった 21 。彼らを突き動かしていたのは、金銭や恩賞ではない。失われた故郷を取り戻し、主家の名誉を回復するという、純粋で強固な忠義の念であった。

石垣原で対峙する両軍の性質は、まさしく戦国時代の権力構造の変化を象徴していた。大友軍が、中世以来の土地と主従関係に根差した伝統的な「守護大名」の力を代表するならば、黒田軍は、個人の才覚と経済力、そして現実的な利益によって人々を動かす、新たな時代の「実力主義」の力を体現していた。この戦いは、二人の将軍の運命だけでなく、時代の趨勢をも決するものであった。

第二章:豊後への道 ― 大友軍の上陸と黒田軍の急進

慶長5年(1600年)9月、関ヶ原を巡る東西両軍の緊張が頂点に達する中、九州の物語は静かに、しかし急速に動き出した。

9月8日~9日:義統、故郷に立つ

西軍の総大将・毛利輝元の支援を受け、大友義統は周防国大畠から船団を組んで出帆した 19。その途上、長門国上関に停泊中、義統のもとに一人の使者が訪れる。豊前中津城の黒田如水からの使者であった。如水は、義統に東軍へ味方するよう説得を試みたが、豊後一国の安堵という西軍の約束を信じる義統は、これをきっぱりと拒絶した 19。

運命の9月9日、義統の船団は豊後水道を抜け、別府湾に入る。そして、かつての所領であった速見郡浜脇の浜辺に上陸を果たした 19 。故郷の土を再び踏んだ義統は、眼前に広がる扇状地を見渡し、天然の要害である立石の台地に本陣を構えた 2 。彼の帰還の報は瞬く間に広がり、田原親賢や宗像鎮続といった旧臣たちが、忠義を胸にその旗の下へと集結し始めた 5

9月9日:如水、機を見るに敏

義統が浜脇に上陸した、まさにその同じ日、黒田如水は中津城から約9,000の軍勢を率いて出陣した 5。如水は、義統が時間をかけて旧臣を集め、その勢力を拡大させることを何よりも警戒していた。敵が根を張る前に叩く。軍師としての長年の経験が、即座の行動を促した。その進軍速度は驚異的であり、如水の決断がいかに迅速かつ的確であったかを物語っている。

9月10日~12日:杵築城の攻防

豊後に入った大友軍の当面の目標は、国東半島に点在する東軍方の拠点を制圧することであった。その中でも最重要拠点と目されたのが、細川忠興の領地であり、その重臣・松井康之が守る木付城(現在の杵築城)であった 3。大友軍は木付城に猛攻を加え、一時は二の丸を陥落させるなど、戦いを優位に進めた 21。城の陥落は時間の問題かと思われた。

この報に接した黒田如水は、卓越した戦略的判断を下す。彼は自らの軍を二手に分けた。本隊はそのまま国東半島の他の城に圧力をかけつつ進軍し、井上九郎右衛門や時枝平太夫らが率いる2,000の精鋭を別動隊として編成、木付城の救援へと急派したのである 19

この一手は戦況を完全に変えた。木付城を包囲していた大友軍は、背後から迫る黒田軍の救援部隊の存在を知り、挟撃される危険を悟る。攻城戦を継続することは不可能と判断した大友軍は、やむなく木付城の包囲を解き、黒田軍の別動隊を迎え撃つために軍を転進させた 21 。こうして、両軍は鶴見岳の麓に広がる石垣原の地で、雌雄を決することとなった。

義統にとって、この木付城攻めは結果的に戦略的な失策であったと言える。彼の最大の武器は、帰還した旧主という大義名分と、それに応える旧臣たちの高い士気であった。その力を最大限に活かすには、時間をかけて支持を広げ、政治的に豊後を掌握することが先決であった。しかし、性急な攻城戦に固執したことで、(1) 黒田如水に貴重な対応時間を与え、(2) 救援部隊の派遣という形で、如水に戦いの主導権を握られてしまった。本来ならば自らが選ぶべき決戦の場所と時期を、敵である如水に定められてしまったのである。この時点で、戦いの天秤はすでに黒田方へと傾き始めていた。

第三章:石垣原の対峙 ― 地形と両軍の布陣

決戦の地となった石垣原は、現在の別府市街地が広がる、鶴見岳の麓から別府湾に向かって緩やかに傾斜する扇状地である 22 。この地形そのものが、両軍の戦略に決定的な影響を与えた。

大友軍の布陣:地の利を得た守勢

大友義統は、立石の台地に本陣を置いた。この場所は、後方を断崖と朝見川に守られ、前方には石垣原の戦場と別府湾を一望できる、まさに「天然の要塞」であった 2。眼下の戦況を手に取るように把握できるこの高台から、義統は采配を振るった 19。

軍の配置は、この本陣を中心に翼を広げる形で行われた。

  • 右翼: 鬼神の如き武勇で知られる吉弘嘉兵衛統幸が、坂本村(現在の杉乃井ホテル周辺)に陣を構えた 12
  • 左翼: 宗像掃部鎮続が、御堂ヶ原(現在の堀田温泉付近)に布陣し、左翼を固めた 12

大友軍は数で劣るものの、高地を占めるという地理的優位性を最大限に活かし、攻め寄せる敵を迎え撃つという、守勢に徹した布陣を敷いた。

黒田・細川連合軍の布陣:丘陵からの攻勢

一方、木付城から転進してきた黒田軍の別動隊と松井康之率いる細川勢は、大友軍が陣取る立石の台地と境川を挟んで対峙する丘陵地帯に陣を構えた。

  • 細川勢: 松井康之の部隊は、東側の実相寺山に布陣した 2
  • 黒田勢: 井上九郎右衛門らが率いる黒田軍の主力は、西側の角殿山(かくどのやま、現在のルミエールの丘)に展開 2
  • 先鋒: 母里太兵衛や時枝平太夫らが率いる黒田軍の先鋒部隊は、実相寺山と角殿山の間の谷間にあたる犬の馬場に位置し、攻撃の機会を窺った 2

この配置は、立石の台地に籠る大友軍を、東西の丘陵から挟み込むような形となり、平野部での決戦を強いる攻勢的な布陣であった。

両軍の兵力と編成は、この戦いの性格を如実に示している。以下の表は、石垣原における両軍の戦闘序列をまとめたものである。

項目

黒田・細川連合軍(東軍)

大友軍(西軍)

総大将

黒田如水(この時点では後方で戦略を指揮)

大友義統

現場指揮官

井上九郎右衛門、母里太兵衛、時枝平太夫、松井康之

吉弘嘉兵衛統幸(右翼)、宗像掃部鎮続(左翼)、田原紹忍親賢

総兵力

約10,000人 21 (如水本隊を含むが、緒戦では一部のみが交戦)

約2,000人 21 (一説には900人とも 19

布陣

実相寺山、角殿山、およびその間の谷間 2

立石台地(天然の要害) 2

この圧倒的な兵力差は、戦いの行方を占う上で最も重要な要素であった。大友軍が勝利を掴むためには、地の利と兵士の高い士気を活かし、緒戦で敵の戦意を挫く以外に道はなかった。対する黒田・細川連合軍は、数の利を活かして敵を消耗させ、決定的な瞬間に総攻撃をかけるという、正攻法での勝利を期していた。かくして、石垣原の扇状地を舞台に、両軍の運命を決する一日が始まろうとしていた。

第四章:合戦詳報:慶長五年九月十三日、血戦の刻一刻

関ヶ原で徳川家康と石田三成が対峙するわずか二日前、慶長5年9月13日、豊後石垣原の地で九州の覇権を巡る激戦の火蓋が切られた 22

午前 - 開戦

夜が明けると、実相寺山と角殿山に布陣していた黒田・細川連合軍が、丘陵を下りて石垣原の平野部へと進軍を開始した 10。これに対し、立石の高台で待ち構えていた大友軍も、数的劣勢をものともせず、果敢に打って出た。両軍は境川を挟んで対峙し、互いに鬨の声を上げ、戦機を窺った。

正午頃 - 激突

昼頃、ついに両軍は石垣原の中央で激突した 23。故郷奪還の念に燃える大友軍の兵士たちは、一人一人が鬼神の如き働きを見せた。兵力で数倍する黒田・細川勢を相手に一歩も引かず、凄まじい白兵戦を展開する。この日の戦いは、一度の衝突で決着がつくものではなく、進んでは退き、退いてはまた進むという、消耗の激しい攻防が繰り返された。後世の軍記物では、この日の激戦を「七番掛」と記し、七度にわたる猛烈な突撃と反撃があったと伝えている 22。

午後 - 大友軍、優勢に立つ

戦いの中心で、大友軍の士気を支えていたのが、右翼を率いる猛将・吉弘統幸と、左翼を率いる宗像鎮続であった。彼らの卓越した指揮と自らの武勇により、大友軍は徐々に連合軍を圧倒し始める 21。黒田軍の第一陣、第二陣は次々と突き崩され、母里太兵衛らが率いる先鋒部隊は後退を余儀なくされた 29。黒田方の久野次左衛門といった名のある武将も討ち取られ、戦況は大友方優勢へと大きく傾いた 19。この瞬間、兵力差を覆す奇跡の勝利が現実味を帯びて見えた。

転機 - 猛将・吉弘統幸の最期

しかし、この大友軍の猛攻を支えていたのは、吉弘統幸という一人の武将の超人的な奮戦であった。この男こそ、豊後の「鬼神」と謳われた、忠義の化身であった。

統幸は、かつて主君・義統が改易された後、浪々の身となり、一時は黒田官兵衛のもとに身を寄せたこともあった 30 。その際、この日の敵将の一人である井上九郎右衛門之房とは、旧知の間柄となっていた 31 。義統が西軍に与すると決めた際、統幸は敗北を予見し、東軍につくよう主君を諫めたという 22 。しかし、その諫言が容れられないと知るや、滅びの道と知りながらも主君への忠義を貫き、大友軍に馳せ参じたのであった。彼の存在そのものが、大友軍の精神的支柱であった。

戦いの終盤、数十人の敵兵を斬り伏せ、自らも深手を負った統幸は、乱戦の中でかつての知己、井上九郎右衛門と相まみえる 32 。ここでの彼の最期については、二つの説が伝えられている。一つは、満身創痍の統幸が、井上との壮絶な一騎討ちの末に力尽き、討ち取られたというもの 12 。もう一つは、より悲劇的な物語である。自らの死と大友軍の敗北を悟った統幸が、旧知の井上に武士としての誉れである「高名な敵将の首」を譲るため、あえて自ら死を選び、その首を差し出したというものである 31

いずれの説が真実であれ、確かなことは、吉弘統幸の死がこの戦いの決定的な転換点となったことである。彼は、武士としての忠義という、ある意味で時代遅れになりつつあった価値観に殉じた。彼の死は、単なる一将兵の戦死ではなく、大友軍の魂が失われたことを意味していた。

夕刻 - 総崩れ

統幸戦死の報は、奮戦していた大友軍の兵士たちの心を砕いた。精神的支柱を失った軍は、統率を失い、総崩れとなって立石の本陣へと敗走を始めた 30。この好機を、黒田軍が見逃すはずはなかった。温存されていた第三陣が一斉に攻勢をかけ、大友軍の残存兵力を蹂躙した 21。

そして、この日の戦いの趨勢がまさに決しようとしていた夕刻、黒田如水が率いる本隊が戦場に到着した 10 。如水は実相寺山の山頂に本陣を構え、眼下の戦況を見定めると、立石に籠る大友軍の退路を断つように布陣した。ここに、大友義統の再興の夢は、事実上潰えたのである。

第五章:落日 ― 降伏と戦後処理

吉弘統幸という最大の支柱を失い、石垣原での野戦に敗れた大友軍は、立石の本陣へと退却した。しかし、それはもはや籠城戦ではなく、絶望的な最後の抵抗に過ぎなかった。

9月14日:如水の降伏勧告

翌9月14日、戦場に到着した黒田如水は、立石の台地を三方から完全に包囲した 10。黒田軍の諸将は、勢いに乗じて一気に本陣を攻め落とすべきだと息巻いたが、如水はこれを制した。彼は、無益な血を流すことを好まなかった。それ以上に、この降伏勧告は、彼の冷徹な計算に基づいた戦略的判断であった。

ここで大友軍を力攻めにすれば、自軍にも少なからぬ損害が出る。これから九州各地の西軍諸城を攻略せねばならない如水にとって、兵力の消耗は是が非でも避けたかった。むしろ、降伏した大友の将兵を寛大に扱い、自軍に組み込むことができれば、戦力を温存しつつ増強することさえ可能となる。如水の慈悲は、彼の野望を実現するための、極めて有効な武器であった 10 。彼は使者を送り、義統に丁重な言葉で降伏を勧告した。

9月15日:大友義統、降伏

本陣で絶望的な状況を悟った大友義統は、武将として自刃して果てることを決意する。しかし、側近の田原親賢らがこれを必死に諫め、主家の血筋を絶やさぬことこそが真の忠義であると説得した 5。説得を受け入れた義統は、髪を剃り、僧衣をまとって降伏を決断した 17。

奇しくもこの9月15日は、遠く美濃国関ヶ原で、天下分け目の本戦が行われた日であった 23

義統は、降伏の使者として田原親賢を黒田の陣へと送った。その降伏先として指定されたのは、黒田二十四騎の一人として名高い猛将・母里太兵衛友信の陣であった 5 。母里太兵衛の妻は、義統の父・宗麟の娘、つまり義統にとっては義理の弟にあたる。この血縁関係を考慮した如水の配慮により、義統は武将としての名誉を傷つけられることなく、丁重に扱われた。

その後、義統は勝者である如水と対面した。かつて豊後一国を支配した名門の当主と、一代でその地位を脅かすまでに成り上がった新興勢力の軍師。二人の会見は、時代の移り変わりを象徴する光景であっただろう。『黒田家譜』などの記録は、この戦いを「良将如水の下、名高き勇士たちが、音に聞こえし騎馬武者たちと勝負を決した戦いであり、後世まで美談として語り継がれるだろう」と称賛している 3

戦後処理:大友家の終焉

降伏した義統の身柄は、如水に伴われて大坂の徳川家康のもとへ送られた 19。戦後、家康は義統の命を助けたものの、その身柄は厳しく管理された。最初に出羽国の秋田実季に預けられ、その後、実季の転封に伴い常陸国宍戸へと移送され、生涯を幽閉の身として過ごした 12。慶長15年(1610年)、義統は配流の地でその波乱の生涯を閉じた 12。

石垣原での敗北により、鎌倉時代から約400年続いた豊後大友氏の、大名としての歴史は完全に幕を閉じた 23 。義統の再興の夢は、故郷の地で儚く消え去ったのである。ただし、大友の家名そのものは、嫡男の義乗が江戸幕府に旗本として召し抱えられ、後に儀式典礼を司る高家として存続することを許された 13 。それは、かつての栄光とは比べるべくもないが、名門の血統がかろうじて保たれたことを意味していた。

終章:九州の勢力図、新たに ― 石垣原の戦いが残したもの

石垣原の戦いは、単に大友家の再興の夢を打ち砕いただけではなかった。それは、九州全体の勢力図を塗り替え、新たな時代の到来を告げる分水嶺であった。

黒田如水の九州平定

最大の脅威であった大友軍を排除した黒田如水は、その勢いを駆って破竹の進撃を開始した。石垣原の勝利は、九州における西軍方の諸大名の戦意を大きく削いだ。如水は巧みな交渉と圧倒的な軍事力を背景に、豊後・豊前の西軍方の城を次々と攻略、あるいは無血開城させていく 1。富来城、臼杵城、そして柳川城や久留米城に至るまで、わずか一ヶ月余りの間に、九州北東部から筑後にかけての広大な地域を平定してしまった 34。秀吉さえ恐れた老軍師の智謀と行動力は、天下分け目の動乱の中で遺憾なく発揮された。

黒田家の飛躍と福岡藩の誕生

九州における如水の戦功は、関ヶ原本戦における息子・長政の功績と相まって、黒田家に絶大な恩賞をもたらした。長政は、関ヶ原の戦いの勝敗を決定づけた小早川秀秋の寝返り工作において中心的な役割を果たしており、その功績は東軍第一と称された。家康は、父子の功績を合わせて評価し、黒田家を豊前中津18万石から、筑前一国52万3千石へと大幅に加増移封した 6。これは、石高にして約三倍という破格の栄転であり、黒田家は一躍、九州を代表する大大名へと飛躍を遂げた。長政は新たな本拠地として福岡城を築き、以後、黒田家は江戸時代を通じて福岡藩主としてこの地を治めることになる。

天下人の夢の終焉

しかし、この輝かしい結果の裏で、黒田如水自身の壮大な野望は、静かに終わりを迎えていた。如水の計画では、関ヶ原の戦いは長期化し、その間に自身が平定した西国を背景に、家康と天下を二分する交渉を行うはずであった。だが、家康がわずか一日で西軍主力を壊滅させたという報せは、如水にとって大きな計算違いであった 10。彼が九州を完全に手中に収めた頃には、天下の趨勢はすでに決していた。石垣原の勝利は、彼の計画の完璧な第一歩であったが、その計画自体が、歴史の速すぎる展開によって時代遅れとなってしまったのである。

戦いの記憶

石垣原の戦いは、歴史の大きなうねりの中に消えていった数多の合戦の一つかもしれない。しかし、その記憶は、戦いの舞台となった別府の地に深く刻まれている。

敗れた大友義統は、悲運の将としてその名を残した。一方で、主君のために命を散らした吉弘統幸は、忠義の武将の鑑として、敵であった黒田家の『黒田家譜』においてさえ称賛され、後世に語り継がれた 30 。彼の墓は地元の人々によって手厚く祀られ、その武勇と忠節は今なお敬われている 30

また、この合戦の物語は、別府の郷土芸能である「ヤッチキ踊り」として、民衆の間に生き続けている 27 。「さても大友義統様は、故郷豊後の速見を指して…」という歌詞で始まるこの踊りは、合戦の様子をリズミカルに、そして哀愁を込めて描き出す。それは、400年以上前にこの地で繰り広げられた血戦が、単なる歴史的事件ではなく、地域の文化と人々の心の中に生きる遺産となっていることの証左である。石垣原の戦いは、九州の戦国時代の終焉と、新たな時代の幕開けを告げた、忘れ得ぬ一幕として、今も静かにその存在を主張している。

引用文献

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  9. 黒田孝高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
  10. 石垣原の戦い ~黒田如水の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/ishigakibaru.html
  11. 秀吉の死と関ケ原の合戦~黒田官兵衛はその時、九州で何を目指していたのか? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2086?p=1
  12. 石垣原の合戦 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/battle13.html
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  15. 「大友義統」悲運の豊後大友家第22代当主。六ヵ国の国持大名から流罪の身へ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/757
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