石山合戦(1570~80)
織田信長と石山本願寺の11年にわたる戦いは、本願寺の徹底抗戦と信長の殲滅戦が激突。鉄甲船による制海権奪取と毛利氏の支援途絶で本願寺は孤立し、勅命講和で終結。信長の天下統一を阻んだ最大の宗教戦争であった。
石山合戦全史:信長の天下布武を阻んだ十一年の聖戦
序論:天下布武と一向宗 ― 衝突に至る道
日本の戦国時代において、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)にかけての十一年にわたる石山合戦は、単なる一地方の攻防戦ではない。それは、旧来の権威を武力によって刷新し、強力な中央集権国家の樹立を目指した織田信長と、信仰を基盤に巨大な経済力と軍事力を擁し、一大独立勢力として君臨した浄土真宗本願寺教団との間で繰り広げられた、時代の転換点を象徴する総力戦であった。この戦いは、宗教と政治、伝統と革新、そして地方分権と中央集権という、当時の日本が抱える根源的な対立軸をすべて内包していた。本報告書は、この十一年にわたる大乱の全貌を時系列に沿って詳述し、その歴史的意義を深く考察するものである。
表1:石山合戦 詳細年表(1570-1580)
和暦/西暦 |
月日 |
織田方の動向 |
本願寺・反信長方の動向 |
主要な戦場・場所 |
戦局の要点 |
元亀元年 |
9月12日 |
三好三人衆を野田・福島城に包囲中。 |
織田軍の背後を突如攻撃、蜂起する。 |
摂津国 野田・福島 |
石山合戦勃発 。本願寺が信長包囲網の一角を形成。 |
(1570) |
9月14日 |
本願寺勢と直接戦闘。 |
淀川堤で織田軍と激突。 |
摂津国 淀川堤 |
織田軍、本願寺の参戦で苦境に。 |
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9月16日 |
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浅井・朝倉軍が南下、比叡山に籠城。 |
近江国 坂本 |
志賀の陣。信長、二正面作戦を強いられる。 |
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11月 |
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伊勢長島で一向一揆蜂起。弟・信興が自害。 |
伊勢国 長島 |
全国の一向宗ネットワークが連動。 |
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12月 |
朝廷工作により浅井・朝倉らと和睦。 |
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第一次信長包囲網、一時的に瓦解。 |
元亀二年 |
5月 |
5万の兵で長島を攻めるも大敗。柴田勝家負傷。 |
ゲリラ戦で織田軍を撃退。 |
伊勢国 長島 |
第一次長島攻め。信長の惨敗。 |
(1571) |
9月 |
浅井・朝倉を匿った比叡山延暦寺を焼き討ち。 |
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近江国 比叡山 |
宗教勢力への徹底した姿勢を示す。 |
元亀三年 |
10月 |
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武田信玄が西上作戦を開始。 |
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第二次信長包囲網の形成。 |
(1572) |
12月 |
三方ヶ原で武田軍に敗北(援軍の佐久間信盛が参戦)。 |
信玄と連携し、信長を東西から挟撃。 |
遠江国 三方ヶ原 |
信長、最大の危機を迎える。 |
元亀四年/ |
4月 |
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武田信玄が病死。 |
信濃国 駒場 |
包囲網の最有力者が脱落。 |
天正元年 |
7月 |
将軍・足利義昭を京から追放。室町幕府滅亡。 |
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山城国 槇島城 |
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(1573) |
8月-9月 |
浅井・朝倉両氏を滅ぼす。 |
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越前・近江 |
包囲網の主力が壊滅。 |
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11月 |
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孤立し、信長と一時的な和睦を結ぶ。 |
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石山合戦、第一次休戦。 |
天正二年 |
7月-9月 |
8万の大軍で長島を海上・陸上から完全封鎖。 |
兵糧攻めの末に降伏するも、許されず虐殺される。 |
伊勢国 長島 |
長島一向一揆殲滅(根切り) 。門徒2万人が死亡。 |
(1574) |
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天正三年 |
8月 |
3万の兵で越前へ侵攻。 |
一向一揆勢を殲滅。 |
越前国 |
越前一向一揆鎮圧。本願寺の二大拠点が壊滅。 |
(1575) |
10月 |
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再び信長に有利な条件で和睦。 |
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石山合戦、第二次休戦。 |
天正四年 |
4月 |
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毛利氏の支援を得て、再び挙兵。 |
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(1576) |
5月3日 |
塙直政らが木津砦を攻撃するも敗北、直政は戦死。 |
1万5千の軍勢で反撃。 |
摂津国 三津寺 |
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5月7日 |
信長自ら3千の兵を率いて出陣、本願寺勢を撃破。 |
天王寺砦を包囲するも、信長の急襲に敗れる。 |
摂津国 天王寺 |
天王寺の戦い 。信長、自ら銃創を負いながら勝利。 |
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7月13日 |
九鬼水軍が毛利水軍を迎撃するも大敗。 |
毛利水軍が焙烙火矢で織田水軍を壊滅させ、兵糧搬入に成功。 |
摂津国 木津川口 |
第一次木津川口の戦い 。制海権を失い、兵糧攻めが破綻。 |
天正五年 |
2月-3月 |
10万の大軍で紀伊へ侵攻。 |
鈴木孫一ら雑賀衆がゲリラ戦で抵抗。 |
紀伊国 雑賀 |
雑賀攻め。信長、制圧できず和睦して撤退。 |
(1577) |
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天正六年 |
11月6日 |
九鬼嘉隆率いる6艘の 鉄甲船 が毛利水軍600艘を撃破。 |
焙烙火矢が通用せず大敗。 |
摂津国 木津川口 |
第二次木津川口の戦い 。織田方が制海権を奪取。 |
(1578) |
10月 |
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荒木村重が信長に謀反。 |
摂津国 有岡城 |
包囲網に亀裂が生じるも、本願寺の孤立は続く。 |
天正八年 |
閏3月5日 |
正親町天皇に仲介を要請。 |
勅命を受け入れ、講和が成立。 |
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勅命講和 。 |
(1580) |
4月9日 |
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法主・顕如が石山本願寺を退去。 |
摂津国 石山 |
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8月2日 |
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抵抗を続けていた長男・教如も退去。直後に本願寺が炎上。 |
摂津国 石山 |
石山合戦終結 。11年にわたる戦いが終わる。 |
巨大宗教勢力・石山本願寺の実像
石山本願寺の起源は、浄土真宗中興の祖・蓮如が隠居所として開いた大坂御坊に遡る 1 。天文元年(1532年)、細川晴元と法華一揆によって京都の山科本願寺が焼き討ちに遭うと、本願寺教団は新たな本拠地をこの大坂の地へと移した 1 。この地は、淀川河口に位置する上町台地の先端にあり、京都、堺、そして西国を結ぶ水運の要衝であった 2 。経済と交通の結節点という絶好の立地は、本願寺に絶大な富をもたらした。
しかし、石山本願寺を単なる寺院と見るのは本質を見誤る。山科での教訓から、教団は石山の武装化を推し進め、周囲に幾重もの堀と土塁を巡らせた、さながら難攻不落の城郭都市を築き上げた 1 。その内部には広大な寺内町が形成され、全国から集まった門徒や商工業者が居住し、一大経済圏を確立していた 3 。さらに、加賀国においては守護の富樫氏を滅ぼして以来、約100年にわたり門徒による自治支配(「百姓の持ちたる国」)を実現するなど、その影響力は一宗教団体の枠を遥かに超え、戦国大名に匹敵する政治的・軍事的実体となっていた 5 。
この石山本願寺の実態は、信仰で結束した「宗教国家」というよりも、むしろ経済力と軍事力を背景に自立した「武装商業都市国家」と評するのがより正確であろう。その独立性は、当時のいかなる権力者にとっても無視できない存在であり、信長との対立は、単なる宗教弾圧への反発という一面的な図式では捉えきれない。それは、独立した政治・経済圏を持つ勢力と、それを統一された秩序の下に組み込もうとする中央集権化を目指す勢力との、国家の主権を巡る根源的な衝突だったのである。
織田信長の上洛と新たな秩序の胎動
永禄十一年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて京へ上り、畿内一帯を瞬く間に平定した 1 。信長が掲げた「天下布武」の印は、単に武力で天下を制圧するという意味に留まらない。それは、室町幕府や寺社勢力といった旧来の権威や特権を武力によって解体し、信長自身を頂点とする新たな中央集権体制を構築するという、国家の構造改革を目指す強い意志の表明であった 8 。楽市楽座や関所の撤廃といった政策は、既得権益を破壊し、経済を活性化させる一方で、その恩恵を受けてきた寺社や公家との間に深刻な対立を生む素地を形成していった 8 。
信長の前に立ちはだかった最大の旧勢力こそ、石山本願寺であった。信長にとって、畿内の中心に位置し、絶大な経済力と動員力を誇るこの独立勢力は、天下統一事業を推し進める上で看過できない存在であった 2 。
両者の初期接触と緊張の高まり
上洛直後、信長は「京都御所再建費用」という名目で、石山本願寺に矢銭5000貫の支払いを要求した 1 。これは本願寺だけでなく、自治都市・堺など畿内の主要勢力に対して行われたものであり、信長の支配権を認めさせるための服従儀礼、いわば「踏み絵」としての性格が強かった 12 。本願寺法主の顕如は、この要求に応じ、矢銭を支払っている 1 。この時点では、両者ともに全面対決は望んでおらず、一定の共存の道を探っていたことが窺える。
しかし、信長の真の狙いは、本願寺を単に従属させることではなかった。やがて信長は、石山本願寺そのものの明け渡しを要求したとも伝えられている 3 。この要求は、本願寺の独立性を完全に否定し、織田政権の統制下に組み込もうとするものであり、顕如にとっては到底受け入れられるものではなかった。矢銭の要求から明け渡し要求へのエスカレーションは、信長が本願寺を庇護すべき宗教団体ではなく、解体・再編すべき旧勢力と見なしていたことを明確に示している。この両者の根本的な認識の齟齬が、やがて十一年に及ぶ血で血を洗う大戦争へと発展する直接的な原因となったのである。
第一章:開戦と信長包囲網の形成(元亀元年~天正元年 / 1570-1573)
元亀元年(1570年)9月:野田・福島の戦い ― 本願寺、突如の蜂起
元亀元年(1570年)9月、織田信長は、畿内で反抗を続ける三好三人衆を討伐するため、摂津国の野田・福島城に大軍を差し向け、包囲していた 5 。戦況は織田方の優位に進んでいたが、9月12日の夜半、事態は誰もが予期せぬ形で急変する 18 。それまで中立を保っていた石山本願寺が、突如として寺内の鐘を合図に蜂起し、背後から織田軍に襲いかかったのである 1 。
法主・顕如は、「信長が本願寺を破却(破壊)しようとしている」という檄文を全国の門徒に向けて発し、決起を促した 1 。この本願寺勢の奇襲により、織田軍は挟撃される形となり、大混乱に陥った 16 。この蜂起は、単なる信仰防衛のための受動的な行動ではなかった。本願寺は、信長と敵対する三好三人衆や、近江の浅井長政、越前の朝倉義景らと事前に連携しており、三好氏が窮地に陥ったこの絶好の機会を捉えて、信長包囲網の一角として能動的に参戦したのである 1 。信仰防衛という大義名分は、全国に散らばる数十万の門徒という巨大な軍事力を動員するための強力なプロパガンダであり、その実態は、反信長連合という大きな戦略の一環として仕掛けられた、高度に計算された政治的・軍事的介入であった。この夜の奇襲こそが、十一年にわたる石山合戦の火蓋を切った瞬間であった。
淀川堤の戦いと志賀の陣 ― 畿内全域への戦火拡大
本願寺の蜂起は、畿内の戦局を一変させた。9月14日には、石山から打って出た本願寺勢が淀川堤で織田軍と直接激突 1 。さらに、この動きに呼応して、北近江の浅井長政と越前の朝倉義景の連合軍が約3万の兵を率いて南下し、京の目と鼻の先である比叡山に立てこもった 21 。世に言う「志賀の陣」である。
これにより、信長は南に石山本願寺・三好三人衆、北に浅井・朝倉連合軍という二大勢力に挟撃される絶体絶命の窮地に陥った 1 。この時、信長の妹・お市が嫁いでいた浅井長政から、両端を縛った小豆袋が送られ、信長が「袋の鼠」であることを知らせたという逸話は、当時の信長の危機的状況を象徴している 22 。四方を敵に囲まれた信長は、軍事力による打開を断念し、正親町天皇の権威を利用した朝廷工作によって、辛うじて浅井・朝倉らとの和睦にこぎつけ、この危機を乗り越えた 21 。
各地で連動する一向一揆 ― 長島での激闘と信長の苦境
石山本願寺の脅威は、畿内だけに留まらなかった。顕如の檄文は、全国の門徒ネットワークを通じて瞬く間に各地へ伝播した。石山での蜂起とほぼ時を同じくして、信長の領国である尾張と伊勢の国境に位置する長島・願証寺を中心とした地域で、大規模な一向一揆が発生した 12 。一揆勢は尾張の小木江城を攻め落とし、城を守っていた信長の弟・織田信興を自害に追い込んだのである 21 。
この一向宗のネットワークは、信長の得意とする「各個撃破」戦略を無力化する、極めて厄介な存在であった。信長が畿内で浅井・朝倉と対峙している間に、本拠地に近い長島で反乱が起きる。これにより、信長は兵力を分散せざるを得ず、主戦線に全力を投入することができなくなった。翌元亀2年(1571年)5月、信長は5万の大軍を率いて長島へ報復攻撃を仕掛けるが、複雑な地形と一揆勢の巧みなゲリラ戦術の前に苦戦を強いられ、殿(しんがり)を務めた重臣・柴田勝家が負傷するなどの大敗を喫して撤退した 24 。この敗北は、一向一揆が単なる農民の反乱ではなく、高度な組織力と戦闘能力を持つ武装集団であることを信長に痛感させた。
信玄の西上と包囲網の崩壊 ― 第一次講和への道
元亀3年(1572年)、甲斐の武田信玄が、将軍・足利義昭の要請に応える形で遂に西上作戦を開始し、信長包囲網はその頂点に達した 21 。信玄の正室と顕如の室が姉妹という姻戚関係もあり、武田と本願寺は密接に連携していた 1 。信玄は遠江の三方ヶ原で徳川家康の軍を壊滅させ、その勢いは信長の喉元にまで迫った。
しかし、元亀4年(天正元年、1573年)4月、信玄は進軍の途上で病に倒れ、急死する 28 。包囲網の最大の支柱を失ったことで、反信長勢力の連携は急速に瓦解した。この好機を逃さず、信長は怒涛の反撃に転じる。同年7月には将軍・足利義昭を京から追放して室町幕府を事実上滅亡させ、8月から9月にかけては浅井・朝倉両氏を立て続けに攻め滅ぼした 21 。強力な同盟者を次々と失い、完全に孤立した石山本願寺は、同年11月、信長との一時的な和睦を受け入れざるを得なくなった 1 。こうして、3年以上にわたった第一次信長包囲網は崩壊し、石山合戦は一旦の休戦期間に入った。
第二章:信長の反攻と一向一揆の殲滅(天正二年~天正四年 / 1574-1576)
天正二年(1574年):長島一向一揆の根切り ― 殲滅戦の実態
浅井・朝倉・武田という背後の脅威が取り除かれたことで、信長は積年の恨みを持つ一向一揆の殲滅に全力を注ぐことが可能となった。天正2年(1574年)7月、信長は織田軍の総力を結集した8万ともいわれる大軍を動員し、三度目の長島攻めを開始した 16 。今回は、過去の失敗を教訓に、陸路と海路から長島一帯を完全に包囲し、補給路を断つという徹底した兵糧攻めの策をとった 1 。
水陸からの執拗な攻撃と兵糧攻めに耐えかねた一揆勢は、やがて降伏を申し出る。しかし、信長はこれを許さなかった。砦から船で退去しようとする門徒たちに一斉射撃を浴びせ、さらに残った中江・屋長島の砦に立てこもる老若男女約2万人を、周囲に柵を築いて閉じ込め、四方から火を放って生きたまま焼き殺したのである 24 。
この「根切り」と呼ばれる凄惨な殲滅戦は、信長の残虐性を示す逸話として語られることが多い。しかし、これは単なる感情的な報復行為ではなかった。信長にとって、信仰を基盤とし、指導者を失っても何度でも再蜂起する一向一揆は、もはや交渉や懐柔の対象ではなく、天下統一事業を完遂するために根絶すべき「病巣」と化していた。長島の殲滅は、他の反抗勢力に対する強烈な見せしめであると同時に、物理的に抵抗の芽を摘み取るという、極めて合理的だが非人道的な戦略的決断であった。この事件は、信長が一向一揆という存在をいかに深刻な脅威と捉えていたか、そして彼の天下布武が、旧来の秩序に対する一切の妥協を許さないものであったことを物語っている。
天正三年(1575年):越前一向一揆の制圧と第二次講和
長島の悲劇から一年後の天正3年(1575年)8月、信長は次なる標的として、朝倉氏滅亡後に一向一揆が実効支配していた越前国に狙いを定めた。信長は3万余りの大軍を率いて越前に侵攻 16 。一揆勢は木ノ芽峠などに防御線を敷いて抵抗するも、織田軍の圧倒的な兵力の前に次々と突破され、瞬く間に制圧された 35 。戦後、信長は長島と同様に徹底した「一揆狩り」を命じ、捕らえられた門徒1万2000人以上が処刑されたと記録されている 34 。
長島、越前という二大拠点を立て続けに、しかも壊滅的な形で失ったことは、石山本願寺にとって致命的な打撃であった 16 。外部からの大規模な支援が期待できなくなった顕如は、同年10月、再び信長に有利な条件での和睦を申し入れ、信長もこれを受諾した 3 。
天正四年(1576年):天王寺の戦い ― 信長、自ら前線へ
二度の和睦も、両者の根本的な対立を解消するものではなかった。天正4年(1576年)、追放されていた将軍・足利義昭の呼びかけに応じ、中国地方の雄・毛利輝元が反信長包囲網に参加を表明し、本願寺への支援を約束した 36 。この強力な後ろ盾を得た顕如は、再び信長との対決を決意し、畿内の門徒に動員令を発した。
これに対し、信長は明智光秀、塙直政、荒木村重ら畿内方面の軍団を動員して本願寺を包囲させた。5月3日、織田軍の先鋒・塙直政が本願寺方の木津砦を攻撃するが、雑賀衆などの数千丁の鉄砲による猛烈な反撃に遭い、直政自身も一門の多くと共に討死するという大敗を喫した 37 。勢いに乗った本願寺勢1万5千は、そのまま明智光秀と佐久間信栄が守る天王寺砦に殺到し、これを包囲した 38 。
砦陥落の急報を受けた信長は、京から僅か100騎ほどの手勢を率いて出陣するという驚くべき行動に出る 37 。河内の若江城で兵を集め、総勢3千ほどになると、5月7日、自ら軍の先頭に立って1万5千の本願寺勢に突撃した 38 。信長自身も足に鉄砲による軽傷を負うほどの激戦であったが、その鬼気迫る指揮に応えた織田軍は本願寺勢の包囲を突破し、砦の光秀らと合流 37 。さらに勢いを駆って反撃に転じ、本願寺の木戸口まで追撃し、2700余りの敵を討ち取るという劇的な大勝利を収めた 37 。この戦いは、信長の類稀なる戦術眼とカリスマ性、そして危機的状況における決断力を如実に示すものであった。
同年7月:第一次木津川口の戦い ― 毛利水軍の焙烙火矢、織田水軍を破る
天王寺での陸戦の勝利に勢いづいた信長は、石山本願寺の周囲に複数の付城を築き、完全な兵糧攻めを開始した 42 。しかし、石山本願寺は海に面した要塞であり、その攻略には制海権の確保が不可欠であった。7月、本願寺の救援要請に応じた毛利輝元は、瀬戸内最強と謳われた村上水軍を中心とする約800艘の大船団を大坂湾へ派遣した 14 。
織田方は九鬼嘉隆率いる水軍など約300艘でこれを木津川河口に迎え撃ったが、戦いの様相は織田方の予想を遥かに超えるものであった 42 。毛利水軍は「焙烙火矢」と呼ばれる、火薬を詰めた陶器製の手榴弾のような兵器を巧みに使用 14 。これを投げ込まれた織田方の木造船は次々と炎上し、なすすべなく壊滅的な敗北を喫した 42 。毛利水軍は悠々と本願寺に兵糧や弾薬を運び込み、信長の兵糧攻め作戦は完全に破綻した 48 。
この敗戦は、信長に陸戦での優位性だけでは石山を落とせないという冷徹な事実を突きつけた。そして何より、制海権の戦略的重要性を骨身に染みて理解させた。既存の兵器や戦術では毛利水軍に到底太刀打ちできないことを悟った信長は、この屈辱的な敗北を機に、日本の海戦史を塗り替える画期的な技術革新へと舵を切ることになる。この敗戦こそが、後の「鉄甲船」誕生の直接的な契機となったのである。
第三章:制海権を巡る攻防と消耗戦(天正五年~天正七年 / 1577-1579)
天正五年(1577年):雑賀攻め ― 鉄砲集団との死闘
第一次木津川口の戦いでの敗北は、本願寺方の士気を大いに高めた。その勝利の立役者の一つが、傭兵として本願寺を支えた紀伊の雑賀衆であった。彼らは日本有数の鉄砲生産地であり、優れた射撃技術と集団戦法を誇る、戦国最強の鉄砲傭兵集団であった 49 。信長は、本願寺の主戦力であるこの雑賀衆を叩き、兵站を断つべく、天正5年(1577年)2月、10万ともいわれる大軍を率いて紀伊国へ侵攻した 49 。
しかし、雑賀衆は一枚岩ではなかった。信長はまず調略によって雑賀衆の半数を味方に引き入れ、さらに近隣の鉄砲集団である根来衆の協力も得て、万全の態勢で臨んだ 52 。それでもなお、鈴木孫一らに率いられた本願寺方の雑賀衆は、紀ノ川の複雑な地形を巧みに利用したゲリラ戦を展開 49 。織田の大軍を相手に一歩も引かず、巧みな鉄砲戦術で多大な損害を与え続けた 53 。長期戦を嫌った信長は、雑賀衆の完全制圧を断念し、和睦という形で兵を引かざるを得なかった。これは実質的に雑賀衆の戦略的勝利であり、彼らの戦闘能力の高さを改めて証明する結果となった 49 。
天正六年(11月):第二次木津川口の戦い ― 鉄甲船、大坂湾を制す
雑賀攻めが膠着する一方で、信長は水軍の再建と強化を着々と進めていた。第一次木津川口での惨敗の直後、信長は志摩の海賊大名・九鬼嘉隆に対し、「燃えない船」、すなわち鉄で装甲した巨大な軍船の建造を厳命していた 42 。そして2年後の天正6年(1578年)、前代未聞の軍船が完成する。全長約24メートル、幅約12.5メートル、船体を厚さ3ミリほどの鉄板で覆い、大砲3門と多数の大鉄砲を備えた巨大安宅船、世に言う「鉄甲船」である 42 。
同年11月6日、再び石山本願寺への兵糧搬入を試みる毛利水軍600艘が、大坂湾・木津川口に姿を現した。これを迎え撃つは、九鬼嘉隆率いるわずか6艘の鉄甲船と滝川一益の白船1艘であった 36 。毛利水軍は数的優位を頼りに、得意の焙烙火矢で攻撃を開始する。しかし、鉄の装甲に覆われた鉄甲船には全く効果がなく、逆に鉄甲船から放たれる大砲や大鉄砲の集中砲火を浴びて、次々と撃沈、あるいは炎上していった 1 。戦いはわずか4時間ほどで決着し、織田水軍は雪辱を果たすとともに、大坂湾の制海権を完全に掌握した。この勝利は、石山合戦の戦局を決定づける極めて重要な転換点であった。
海上封鎖の完成と本願寺の孤立
第二次木津川口の戦いの勝利により、石山本願寺への海からの補給路は完全に遮断された 12 。陸からは佐久間信盛率いる大軍が幾重にも付城を築いて包囲し、海からは九鬼嘉隆の鉄甲船団が睨みを利かせる 12 。これにより、本願寺は外部からの兵糧や弾薬の援助を一切絶たれ、籠城する門徒たちは絶望的な消耗戦を強いられることになった。
天正六年~七年:荒木村重の謀反 ― 包囲網への最後の亀裂
本願寺が絶体絶命の窮地に陥る中、天正6年(1578年)10月、信長にとってまたもや想定外の事態が発生する。本願寺包囲の最前線を担っていた重臣の一人、摂津国主・荒木村重が突如として信長に反旗を翻し、本願寺方に寝返ったのである 14 。村重の謀反により、陸の包囲網に大きな穴が開き、一時的に本願寺に兵糧が運び込まれるなど、戦況は再び緊迫した 16 。
しかし、この頃の信長の力は、かつて包囲網に苦しめられた頃とは比較にならないほど強大になっていた。信長は即座に明智光秀や羽柴秀吉らを討伐軍として派遣し、村重の居城・有岡城を包囲。一年以上にわたる長期の攻城戦の末、天正7年(1579年)9月、村重は城を捨てて単身逃亡し、反乱は鎮圧された 60 。この荒木村重の反乱鎮圧により、本願寺は畿内における最後の有力な同盟者を失い、完全に孤立無援の状態に陥ったのである。
第四章:勅命講和と石山本願寺の終焉(天正八年以降 / 1580-)
天正八年(閏3月):正親町天皇の仲介と勅命講和の成立
天正8年(1580年)を迎える頃には、石山本願寺の状況は限界に達していた。10年以上にわたる籠城により兵糧は完全に尽き、城内では餓死者や病人が続出し、士気も著しく低下していた 62 。一方、信長にとっても、これ以上の長期戦は西国攻略など天下統一事業全体の遅滞を意味するため、早期の決着を望んでいた。
武力による最終的な殲滅も可能であったが、信長はより巧みな手を用いる。正親町天皇に働きかけ、天皇の権威をもって和睦を命じる「勅命講和」という形での終結を図ったのである 1 。法主・顕如は、これ以上の抵抗は無益な殺戮を招くだけであると判断。特に、荒木村重の有岡城や播磨の三木城での籠城戦の末に、女子供に至るまで徹底的に処刑された凄惨な結末を目の当たりにし、石山の門徒たちが同じ運命を辿ることを深く憂慮していた 1 。門徒の生命を救うことを第一に考えた顕如は、ついに勅命を受け入れ、信長との和睦を決断した。
同年4月~8月:顕如の退去と教如の抵抗 ― 本願寺内部の分裂
閏3月5日に講和が成立し、4月9日、顕如は和睦の条件に従い、紀州鷺森(現在の和歌山市)へと退去した 63 。しかし、この決定は本願寺内部に深刻な亀裂を生んだ。徹底抗戦を主張してきた顕如の長男・教如は、父の決断を弱腰と見なし、講和に猛反対 65 。一部の強硬派門徒や雑賀衆らと共に石山に立てこもり、信長への抵抗を続行したのである 64 。
顕如は、自らの命令に従わない教如を「義絶」(勘当)するという苦渋の決断を下し、ここに本願寺内部の対立は決定的となった 64 。この父子の路線対立と、それに伴う教団内の分裂は、単なる戦時下の一時的な混乱に留まらなかった。それは後の豊臣政権、徳川政権下においても尾を引き、最終的に本願寺が西本願寺(顕如・准如派)と東本願寺(教如派)に分裂する直接的な原因となったのである 14 。
同年8月:謎の炎上 ― 難攻不落の要塞、灰燼に帰す
教如らの抵抗も長くは続かなかった。信長の圧力の前に、約4ヶ月後の8月2日、教如もついに石山本願寺からの退去に応じた。しかし、彼が城を明け渡した直後、原因不明の火災が発生。火は二日一夜にわたって燃え続け、壮麗を極めた伽藍も、繁栄を誇った寺内町も、そのすべてが灰燼に帰した 3 。
この火災の原因については、信長方の破壊工作であったとする説、教如ら強硬派が信長に明け渡すことを潔しとせず自ら火を放ったという焦土戦術説、あるいは単なる失火説など諸説あるが、真相は歴史の闇の中である 2 。いずれにせよ、十一年にわたり織田信長という当代随一の権力者の猛攻に耐え抜いた難攻不落の要塞は、武力によって陥落することなく、炎の中にその姿を消した。ここに、戦国史上最大規模の宗教戦争、石山合戦は幕を閉じた。
合戦の終結とその後の主要人物
本願寺顕如
顕如は紀州鷺森、貝塚へと拠点を移しながらも、教団の再建に尽力した。本能寺の変後、天下人となった豊臣秀吉から大坂天満に寺地を与えられ、さらに後には京都・七条堀川の地に広大な寺地を寄進された 14 。これが現在の西本願寺の基礎となる。彼は戦国大名さながらの政治力と指導力で教団を率い、信長との絶望的な戦いを生き抜き、最終的には教団の存続と再興を成し遂げたのである 62 。
佐久間信盛
石山合戦の終結は、織田家筆頭家老であった佐久間信盛にとって、栄光の終わりを意味した。合戦終結直後の8月、信長は信盛に対し、19ヶ条にもわたる折檻状を突きつけた 16 。その内容は、5年間にわたる本願寺包囲戦において、積極的に攻勢に出ず、ただ籠城を続けるだけで何ら戦功を挙げなかったという怠慢を厳しく糾弾するものであった 16 。
信盛の追放は、単なる一個人の処罰に留まらない。それは、石山合戦が最終的に武力による殲滅ではなく、勅命講和という不完全な形で終結したことへの信長の深い不満の現れであった。信長は、信盛のような旧来の慎重な「守りの武将」ではなく、羽柴秀吉や明智光秀のように、リスクを冒してでも能動的に戦果を追求する次世代の将帥を求めていた。信盛の追放は、「結果を出せない者は、たとえ譜代の重臣であろうと容赦なく切り捨てる」という信長の苛烈な能力主義を全家臣に示すための見せしめであり、織田軍団がより効率的で攻撃的な戦闘集団へと質的変革を遂げていく過程を象G徴する事件であった 73 。信盛は長年の功績を全て否定され、高野山へ追放された後、失意のうちにこの世を去った 70 。
結論:石山合戦が残したもの
織田信長の天下統一事業における意義
石山合戦の終結は、織田信長の天下統一事業における決定的な画期であった。十一年にわたり信長の行動を縛り付けてきた畿内最大の抵抗勢力が消滅したことにより、信長の支配権は盤石なものとなった 1 。これ以降、信長は後顧の憂いなく、羽柴秀吉の中国攻め、柴田勝家の北陸攻め、そして武田氏を滅ぼした甲州征伐といった、天下統一の最終段階へと本格的に乗り出すことができた 76 。石山本願寺の降伏は、信長が名実ともに畿内とその周辺地域を完全に掌握し、日本の新たな支配者としての地位を確立したことを天下に示す出来事であった。
宗教勢力の在り方の変容
石山合戦の敗北は、日本の宗教勢力の在り方を根本的に変容させた。一向一揆に代表されるように、中世を通じて巨大な荘園と僧兵を擁し、時には世俗権力と対等、あるいはそれ以上の力を持って政治に介入してきた武装宗教勢力の時代は、ここに終わりを告げた 10 。この戦いを経て、宗教は政治・軍事の領域から切り離され、為政者の権力下に組み込まれることで存続を許される存在へと変わっていった 78 。これは、日本の政教関係における大きな歴史的転換点であり、近世的な国家体制が確立していく上での重要な一歩であった。信長は、本願寺を滅ぼすこと自体が目的ではなく、あくまで自らの統治下に組み込むことを目指しており、和睦後に教団の存続を許したことは、その証左と言える 15 。
大坂城の礎へ ― 歴史の継承
信長自身、「日本無双の名城と成すべき地」と、その戦略的重要性を高く評価していた石山本願寺の跡地 79 。本能寺の変で信長が斃れた後、その後継者となった豊臣秀吉は、この地に天下人の新たな拠点として壮麗な大坂城を築城した 80 。石山本願寺の遺構は、秀吉、そして徳川幕府による度重なる大規模な改築によって地中深くに埋もれてしまったが、その地が持つ政治的・経済的な重要性は失われることなく引き継がれた 79 。十一年の長きにわたる戦いの舞台となった石山の地は、近世日本の政治・経済の中心地の一つとして、新たな歴史を歩み始めることになるのである。石山合戦は、一つの時代の終わりと、新しい時代の幕開けを告げる壮大な叙事詩であった。
引用文献
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