最終更新日 2025-08-26

砥石崩れ(1548)

天文十九年「砥石崩れ」の徹底分析:武田信玄の挫折と戦国史の転換点

第一章:序論 ― 砥石崩れに至る道程、信玄の野望と村上義清の壁

1-1. 甲斐の若き虎、信濃への野望

天文10年(1541年)、父・信虎を駿河へ追放する形で甲斐国の実権を掌握した武田晴信(後の信玄)は、父の代から続く信濃侵攻を本格化させました 1 。晴信はまず、同盟関係にあった諏訪氏を巧みに滅ぼし、信濃攻略の重要な足掛かりを築きます 1 。その戦略は、武力と謀略を巧みに織り交ぜたものであり、同盟相手であった諏訪頼重を甲府へ連行した後に自害に追い込むなど、その非情さと野望の大きさを早くから示していました 3 。甲斐統一を成し遂げた若き虎の目は、明確に信濃全土の掌握に向けられていたのです。

1-2. 立ちはだかる北信濃の雄、村上義清

しかし、晴信の信濃侵攻は決して平坦な道ではありませんでした。その前に立ちはだかったのが、当時「信濃最強」と謳われた北信濃の戦国大名、村上義清でした 2 。義清は晴信より20歳年長であり、多くの小豪族が割拠する信濃において、北部の葛尾城を本拠に確固たる勢力を築き上げていました 2 。父・信虎の代には武田氏と同盟を結んだこともありましたが、晴信の代になるとその関係を破棄し、信濃に侵攻する武田氏に対して明確な敵対姿勢を取ります 2 。義清は、戦局を鋭く読む野生的な勘と、自ら長槍を振るって先陣を切る勇猛さを兼ね備えた、当代屈指の武将として知られていました 4

1-3. 最初の屈辱 ― 「上田原の戦い」での大敗

天文17年(1548年)2月、両者の対立はついに軍事衝突へと発展します。小県郡上田原において、武田軍と村上軍が激突しました 5 。この「上田原の戦い」で、武田軍は宿老である板垣信方、甘利虎泰といった重臣を一度に失うという、壊滅的な敗北を喫します 5 。晴信自身も左腕に手傷を負うほどの惨敗であり、これは彼の輝かしい軍歴における最初の大きな挫折となりました 2

この敗北が持つ意味は、単なる軍事的な損失に留まりませんでした。常勝を誇ってきた晴信の権威を失墜させ、信濃の国人衆に「武田恐るるに足らず」という意識を植え付けた可能性があります。そして何より、晴信個人にとってこの敗北は拭い難い屈辱となり、村上義清への雪辱という強い感情が、後の戦略判断に影響を及ぼすことになります。二年後の砥石城攻めは、単なる戦略目標の攻略という側面だけでなく、晴信にとって上田原のトラウマを払拭するための、個人的なリベンジマッチという性格を色濃く帯びていたと分析できます。

1-4. 中信濃制圧と砥石城への道

上田原での敗戦後、晴信は戦略を立て直します。同年7月には塩尻峠の戦いで中信濃の雄・小笠原長時を奇襲によって大破させ、雪辱への第一歩を踏み出しました 5 。そして天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原氏の本拠地であった林城などを攻略し、中信濃一帯を制圧します 8 。晴信は小笠原氏の支城であった深志城(後の松本城)を改築し、ここを信濃経営の新たな拠点と定めました 5

中信濃を平定したことで、晴信の次なる目標は、宿敵・村上義清が支配する北信濃へと絞られました。砥石城は、村上氏の本拠・葛尾城を守る支城ネットワークの要であり、この城を落とすことは、村上領の心臓部へ至る道を切り開き、義清を軍事的・心理的に追い詰める上で決定的な意味を持っていました 3 。晴信は、上田原の雪辱を果たすための最終決戦の舞台として、砥石城に狙いを定めたのです。

第二章:戦いの舞台 ― 難攻不落の要塞、砥石城

2-1. 天然の要害 ― 砥石城の地理と構造

砥石城は、現在の長野県上田市に位置し、その名の通り、天然の要害として知られていました。城は東西を切り立った崖に阻まれ、正規の攻城口は南西から続く急峻な尾根筋に限られていました 8 。その尾根は砥石のように滑らかで、兵が一度に殺到することを許さない地形であったと伝えられています 8

城の構造は、本城、米山城、枡形城など複数の曲輪が尾根上に連なる連郭式の山城であり、それぞれの曲輪の間は「堀切」によって分断されていました 11 。この堀切は、敵兵の横移動を妨げる「竪堀」と組み合わせることで、攻撃側を特定のルートに誘導し、集中攻撃を可能にする設計でした 11 。さらに、曲輪の斜面を人工的に削り出した「切岸」が、兵の侵入を一層困難にしていました 11 。これらの防御施設は、武田軍が誇る大軍の数的優位性を無力化し、攻撃側は少数で一つ一つの防御線を突破せざるを得ない状況を作り出していました。

2-2. 城兵の士気 ― 復讐に燃える志賀城の残党

この難攻不落の城を守る村上方の兵力は、わずか500名ほどであったと記録されています 9 。しかし、その兵力とは裏腹に、城兵の士気は異常なまでに高かったとされます。その最大の理由は、城兵の半数が、天文16年(1547年)に晴信によって攻め滅ぼされた佐久郡・志賀城主、笠原氏の残党で構成されていたためです 8

志賀城の戦いにおいて、武田軍は降伏した城兵やその家族を奴隷として売り払うなど、極めて過酷な処置を行いました 8 。このため、砥石城に籠もる彼らにとって、武田晴信は一族の仇であり、その憎悪は骨身に徹していました。「降伏すれば死よりも惨めな運命が待っている」という共通認識が、彼らを死兵に変え、絶望的な状況下での驚異的な抵抗を可能にしたのです。晴信が過去に行った非情な仕打ちが、数年の時を経て、自らの行く手に最強の抵抗勢力を生み出すという皮肉な結果を招いたと言えます。

2-3. 両軍の兵力と戦前の情勢

この戦いにおいて、武田軍は総勢7,000の大軍を動員しました 8 。対する城兵は前述の通り500名であり、その兵力差は実に14倍にも達しました 9 。客観的な戦力比から見れば、武田方の圧勝は疑いようのないものでした。

晴信は攻撃に先立ち、信濃の地理に明るい真田幸隆を用いて村上方の国人衆への調略を進め、寺尾城の清野氏らを寝返らせることに成功していました 8 。これにより、晴信は砥石城を周辺から孤立させ、短期間で攻略できると確信していたと考えられます 8 。しかし、この計算には、数字には表れない城兵の「士気」という決定的な変数が欠落していました。晴信は物理的な戦力の優位性を過信し、城兵が抱く「質の高い抵抗」の可能性を軽視していました。この戦いは、単なる兵力同士の衝突ではなく、「物理的な戦力」と「心理的な戦力」の激突であり、晴信のこの誤算が、後の大敗の伏線となっていたのです。

第三章:合戦詳報 ― 天文十九年、秋の攻防(リアルタイム時系列分析)

砥石城を巡る攻防は、天文19年(1550年)8月の武田軍の出陣から10月の敗走に至るまで、約2ヶ月に及びました。その詳細な経過を時系列で追うことで、戦局がいかにして推移し、武田軍が「崩れ」に至ったのかが明らかになります。

日付(天文19年)

武田軍の動向

村上軍(および周辺勢力)の動向

戦況・特記事項

8月5日

先陣・長坂虎房が出発 8

武田軍、砥石城攻略作戦を開始。

8月19日

晴信本隊が甲府を出陣、長窪に着陣 8

8月24日-28日

偵察部隊を派遣。28日に砥石城近傍の屋降に本陣を設営 8

砥石城にて籠城の準備を固める。

包囲網が完成。

8月29日

晴信自ら城際まで物見を行い、「矢入れ」の儀式を執行 8

攻撃開始の合図。

9月1日

村上方の清野氏が武田方に降伏 8

9月3日

城際まで本陣を寄せ、圧力を強化 8

9月9日

夕刻より総攻撃を開始 8

投石、煮え湯などで激しく抵抗し、武田軍を撃退 8

武田軍、多大な損害を出し攻撃失敗。

9月10日-22日

力攻めを断念し、城を包囲したまま膠着状態に陥る 8

籠城を継続。

戦線は膠着。武田方は調略を継続。

9月23日

村上義清、高梨政頼と和睦。連合軍で武田方の寺尾城を攻撃 8

戦局の転換点。武田軍、挟撃の危機に。

9月30日

軍議を開き、全軍の撤退を決定 8

10月1日 午前6時

撤退を開始 8

城兵が城門を開けて出撃。後方から義清本隊が襲来し、追撃戦となる 1

「砥石崩れ」発生。

10月1日 終日

殿軍の横田高松らが奮戦するも、大混乱に陥り敗走 8

猛烈な追撃で武田軍に甚大な損害を与える。

武田軍、死者1,000人以上。横田高松ら討死。

10月2日-7日

晴信は大門峠を越えて諏訪へ退却。7日に甲府へ帰還 8

3-1. 【前段】八月:包囲網の形成

天文19年8月5日、武田軍の先陣が砥石城へ向けて出発し、作戦は開始されました 8 。晴信の本隊は19日に甲府を出陣し、小県郡長窪まで進軍します 8 。晴信は性急な攻撃を避け、24日以降、今井藤左衛門や横田高松といった部将を立て続けに派遣し、砥石城の地形や守備状況を念入りに偵察させました 8 。そして28日、城に近い屋降(やふり)の地に本陣を構え、7,000の兵力で城を完全に包囲しました 8 。29日には、晴信自らが馬を寄せ、城の間際まで進み出て物見を行い、攻撃開始を告げる「矢入れ」の儀式を執り行いました 8 。これは全軍の士気を鼓舞し、圧倒的兵力による勝利を確信しての行動であったと考えられます。

3-2. 【中段】九月:攻城戦の激化と膠着

9月に入ると、事前の調略が功を奏し、1日には村上方の有力国人であった清野氏が武田方に降伏します 8 。これに勢いを得た武田軍は、9日の夕刻、満を持して総攻撃の火蓋を切りました 8 。武田の足軽部隊は、砥石城の急峻な崖を蟻のように這い上がりますが、それを待ち構えていたのは、死を覚悟した城兵たちの凄まじい抵抗でした。城の上からは大石が雨のように落とされ、煮え湯が浴びせかけられ、武田兵は次々と崖下へとはじき返されました 7 。圧倒的な兵力を投入しながらも、武田軍は城の一角すら崩すことができず、多大な損害を出して攻撃は失敗に終わりました。

この総攻撃の失敗により、晴信は力攻めでの攻略を断念し、兵糧攻めによる持久戦へと方針を転換したとみられます 7 。しかし、戦況は完全に膠着し、いたずらに時間だけが過ぎていきました 8 。そして9月23日、この膠着状態を根底から覆す急報が、晴信のもとにもたらされます。これまで敵対関係にあった村上義清と高梨政頼が電撃的に和睦を結び、連合軍を率いて武田方の後方拠点である寺尾城を攻撃し始めたというのです 8 。この瞬間、砥石城に釘付けにされていた武田軍は、城兵と村上本隊に挟撃されるという、絶体絶命の危機に陥ったのです。

3-3. 【後段】十月一日:退却戦、そして「崩れ」へ

挟撃の危機を察知した晴信は、9月30日に軍議を開き、苦渋の決断を下します。全軍の撤退です 8 。翌10月1日の午前6時頃、武田軍は密かに陣払いを開始しました 8 。しかし、この動きは村上方に完全に見抜かれていました。武田軍が動き出したのを合図としたかのように、砥石城の城門が開かれ、飢えた狼のような城兵が討って出ます。時を同じくして、後方に布陣していた村上義清率いる2,000の精鋭が、撤退する武田軍の側背に猛然と襲いかかりました 1

不意を突かれた武田軍の撤退行は、統制を失った凄惨な敗走へと変わりました。兵士たちは混乱に陥り、組織的な抵抗は不可能となります。この乱戦の中、殿(しんがり)という最も危険な任務を担った足軽大将・横田高松は、自らの部隊を率いて村上軍の猛追を一手に引き受け、味方を逃がすために獅子奮迅の戦いを見せましたが、衆寡敵せず討死しました 8 。彼の犠牲的な奮戦も虚しく、武田軍の崩壊は止まりませんでした。この一日で武田軍が失った将兵は、横田高松や渡辺出雲守といった将を含め、1,000人以上に達したと記録されています 8 。この惨状から、この戦いは武田家中で「砥石崩れ」と長く語り継がれることになったのです 8

第四章:敗因の徹底分析 ― 「常勝」武田軍はなぜ崩れたのか

4-1. 晴信の戦略的誤算 ― 過信と情報分析の甘さ

砥石崩れにおける武田軍の最大の敗因は、総大将である晴信の油断と過信に帰することができます。中信濃の小笠原氏を容易に打ち破った直後であったため、砥石城のような一支城は、大軍で包囲すればすぐに陥落させられると侮っていました 8 。彼は7,000対500という圧倒的な兵力差という「定量的」な情報に頼りすぎるあまり、志賀城の残党が抱く武田への激しい憎悪という「定性的」な要素、すなわち兵士の心理状態を戦略的計算から完全に除外していました。これが、予想を遥かに超える城兵の頑強な抵抗を招き、短期決戦の目論見を打ち砕きました 8

さらに、敵対していた村上義清と高梨政頼が和睦するという、戦局を左右する重要な外交情報を事前に察知できなかったことは、情報戦における完全な敗北を意味します。これにより、武田軍は敵の掌の上で戦況を動かされ、常に対応が後手に回る結果となりました。軍事的な敗北は、その前提となる情報分析の甘さに起因していたのです。

4-2. 村上義清の戦術的勝利 ― 籠城と野戦の巧みな連携

対照的に、村上義清の采配は戦術家としての非凡さを示すものでした。まず、彼は砥石城の地形的利点を最大限に活用した籠城戦を城兵に徹底させ、武田軍の焦りを誘い、その戦力を効果的に削ぎ落としました 8

それと並行して、背後の脅威であった高梨氏と迅速に和睦を結ぶという、卓越した外交手腕と戦略的柔軟性を見せました 8 。これにより後顧の憂いを断ち、全兵力を武田軍との決戦に集中させることが可能となりました。そして何よりも、大軍が最も脆弱になる「撤退の瞬間」を正確に見極め、籠城していた城兵と温存していた本隊による挟撃・追撃という、最も効果的な戦術を選択しました 1 。籠城による持久戦と、機動的な野戦を巧みに連携させたこの一連の采配は、義清の戦歴の中でも白眉と言えるでしょう 4

4-3. 兵士の心理状態が分けた勝敗

この戦いの勝敗を最終的に決定づけたのは、両軍の兵士が置かれた心理状態の劇的な違いでした。武田軍の兵士の心理は、一ヶ月に及ぶ攻めあぐねによる「焦燥感」から、村上本隊の出現による「挟撃の恐怖」へと移行し、最終的には撤退時の追撃によって「集団的な恐慌(パニック)」へと、負の連鎖をたどりました 7 。一度恐怖に支配された大軍は、もはや統制された軍隊ではなく、個々の兵士が生存本能だけで動く烏合の衆と化します。「崩れ」という現象は、単なる軍事的な敗走ではなく、この集団心理の完全な崩壊状態を指すのです。殿を務めた横田高松の英雄的な奮戦も、この心理的な崩壊の奔流を食い止めるには至りませんでした。

一方、村上方の兵士の心理は、絶望的な籠城戦を耐え抜く「不退転の覚悟」から、義清本隊の到着による「希望と高揚」へと転じ、追撃戦においては「勝利への確信と復讐の熱狂」へと、正の連鎖を遂げました。この心理的な非対称性が、14倍もの兵力差を覆す原動力となったのです。砥石崩れは、兵の数や装備だけでなく、兵士一人ひとりの感情や覚悟がいかに勝敗を左右するかを示す、軍事心理学的な好例と言えます。

第五章:歴史的意義 ― 砥石崩れが戦国史に与えた影響

5-1. 晴信の戦術転換 ― 武力偏重から調略重視へ

上田原の戦いに続く、砥石での二度目の大敗は、若き晴信の信濃攻略方針に決定的な転換を促しました 4 。彼は、村上義清のような強敵との正面からの武力衝突がいかに危険であるかを痛感し、以後は力攻めを避け、敵の内部から切り崩す「調略」を戦術の主軸に据えるようになります 19 。この戦略転換には、当時、晴信の側近であった軍師・山本勘助の進言が大きく影響したとも伝えられています 19 。この敗北は、晴信が単なる猛将から、より狡猾で洗練された戦略家へと脱皮する上で、不可欠な試練となったのです。

5-2. 真田幸隆の台頭と、翌年の砥石城陥落

晴信の新たな戦略方針を象徴し、そして体現したのが、信濃の地理と人脈に精通した家臣、真田幸隆でした 4 。砥石崩れの翌年、天文20年(1551年)5月、幸隆は武田本軍が手も足も出なかった砥石城を、武力を用いることなく、調略のみで一夜にして陥落させるという離れ業を成し遂げます 15 。これは、城内で足軽大将を務めていた実弟の矢沢頼綱を内応させ、内部から城を崩壊させたためとされています 8 。難攻不落とされた要塞が、謀略によっていとも簡単に落ちたこの事件は、砥石崩れの敗戦の教訓がいかに効果的に活かされたかを示す象徴的な出来事でした。

5-3. 村上義清の没落と、越後の龍の登場

武田軍を二度も破った義清でしたが、戦術の主軸を調略に切り替えた晴信の前に、次第に劣勢に立たされます。堅城であった砥石城の失陥は、村上氏の軍事・心理的な支柱をへし折る決定的な一撃となりました 8 。これを機に、これまで義清に従っていた信濃の国人衆は次々と武田になびき、義清は急速に孤立していきます 4 。義清は「戦には勝ったが、謀略に負けた」と悔しがったと伝わります 20 。そして天文22年(1553年)、ついに本拠・葛尾城を維持できなくなった義清は、故郷を捨て、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って亡命の途につきました 3

5-4. 「川中島の戦い」への序曲

村上義清や高梨政頼ら、北信濃から追われた国人衆からの救援要請は、越後の長尾景虎に信濃出兵を決意させる直接的な動機となりました 3 。これは、武田の勢力が自国の喉元である越後国境にまで迫ることへの強い危機感もあってのことでした。これにより、武田信玄と上杉謙信という、戦国時代を代表する二人の英雄が、北信濃の覇権を巡って十数年にわたり激突する、壮大な「川中島の戦い」の幕が切って落とされることになります。砥石崩れという一合戦が、結果的に戦国史に名高い宿命の対決を生み出す、直接的な引き金となったのです。

第六章:結論 ― 砥石崩れが後世に遺した教訓

天文19年の「砥石崩れ」は、武田信玄の生涯における最大級の敗北として、また戦国史上有数の番狂わせとして記憶されています 9 。しかし、この合戦の歴史的価値は、単なる若き英雄の失敗談に留まるものではありません。それは、晴信が自らの過信と戦略の未熟さを猛省し、力と謀略を使い分ける老獪な戦国大名「信玄」へと成長を遂げる上で、不可欠な通過儀礼でした。

この一戦は、戦における地の利の重要性、兵士の士気が勝敗に与える決定的な影響、そして情報戦と外交戦略が武力に勝る局面があることを、後世に鮮烈に示しました。また、村上義清という一人の傑出した武将の存在が、大国の野望を一時的にであれ、いかに打ち砕きうるかの証明でもあります。

そして何よりも、この敗北という結末がなければ、晴信の戦略転換は遅れ、真田幸隆が歴史の表舞台で活躍する機会は限定されていたかもしれません。村上義清が越後に逃れることもなく、ひいては戦国最大のドラマである「川中島の戦い」も、我々が知る形では起こらなかった可能性があります。砥石崩れは、武田信玄個人の物語における一挿話に留まらず、戦国中期の勢力図を大きく塗り替え、新たな歴史の潮流を生み出した、まさに「歴史の転換点」と評価できる重要な戦いなのです。

引用文献

  1. 砥 石 (戸石)城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/297/297shiro.pdf
  2. めっちゃ強い!? あの武田信玄を2度も破った信濃最強の武将・村上義清【知っているようで知らない戦国武将】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/37503
  3. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第9回【武田信玄・前編】父子の相克と龍虎相打つ川中島 https://shirobito.jp/article/1466
  4. 村上義清は何をした人?「信玄に二度も勝ったけど信濃を追われて謙信を頼った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikiyo-murakami
  5. 年表で見る川中島の戦い https://kawanakajima.nagano.jp/timeline/
  6. 村上義清~武田信玄を二度負かした信濃の勇将 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4908
  7. ~砥石崩れ~武田晴信が挑んだリベンジマッチ、その結末とは? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=MJygzWp02PM&t=406s
  8. 「砥石崩れ(1550年)」舞台は信濃の砥石城!信玄の生涯で唯一の ... https://sengoku-his.com/772
  9. 1542 武田的信濃攻略: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/14704623/
  10. 砥石城跡のクチコミ一覧 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_20203af2172093471/kuchikomi/
  11. 山城の仕組みを知ろう!古城探検!第十二弾 | トマト工業のブログ-建材の加工と自転車通勤 https://tomatokogyo.com/nikki/archives/%E5%8F%A4%E5%9F%8E%E3%80%81%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8D%E3%81%86%EF%BC%81%E5%8F%A4%E5%9F%8E%E6%8E%A2%E6%A4%9C%EF%BC%81%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%8C.html
  12. 上田城 砥石城 戸石城 米山城 枡形城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/nagano/uedasi.htm
  13. 砥石城の戦い古戦場:長野県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/toishijo/
  14. 砥石城 - お城散歩 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-61.html
  15. 真田の庄-その1 砥石城を守る「雀の槍」 - 自然観察大学ブログ https://sizenkan.exblog.jp/21846497/
  16. [合戦解説] 10分でわかる砥石城の戦い 「武田晴信は村上義清にリベンジを挑むも痛恨の砥石崩れ」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=fIpbAvURuKQ&t=0s
  17. 横田高松 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E9%AB%98%E6%9D%BE
  18. 砥石崩れ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A5%E7%9F%B3%E5%B4%A9%E3%82%8C
  19. 砥石城跡[といしじょうあと] /【川中島の戦い】史跡ガイド https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/siseki/entry/000444.html
  20. 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu3.php.html