神吉城の戦い(1578)
神吉城の戦い(1578)は、織田信忠率いる大軍が神吉頼定の神吉城を攻めた激戦。別所氏の離反に端を発し、織田軍の物量と最新兵器で落城。三木合戦の転換点となり、信長の苛烈な天下統一事業を象徴する。
神吉城の戦い(1578年):播磨における織田信長天下統一事業の苛烈なる縮図
序章:天正播磨、動乱の序曲
天正年間、日本の歴史は織田信長という一人の傑物の手によって、大きな転換点を迎えつつあった。尾張の小大名から身を起こし、「天下布武」の印を掲げて畿内を席巻した信長は、その視線を西へと向けていた。彼の前には、中国地方に一大勢力を築き上げた西国の雄、毛利氏が立ちはだかっていた 1 。信長に京都を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭を庇護し、反信長勢力の一大拠点である石山本願寺を支援する毛利氏は、信長の天下統一事業における最後の、そして最大の障壁であった 1 。
この織田と毛利という二大勢力の狭間に位置し、否応なく地政学的な要衝となったのが播磨国である 2 。畿内と中国地方を結ぶこの地は、どちらの勢力にとっても戦略上の緩衝地帯であり、その向背は天下の趨勢を左右するほどの重要性を持っていた。播磨の国衆たちは、室町時代以来の守護・赤松氏の権威が衰える中で半独立状態を保ち、織田と毛利の双方と巧みに通じることで、その自立性を維持しようと図っていたのである 1 。
しかし、天正5年(1577年)、信長が腹心の将・羽柴秀吉を総大将として中国攻めの軍を発すると、播磨国が享受してきた束の間の平和は終わりを告げる 4 。秀吉の播磨入りは、在地勢力に対し、「織田か、毛利か」という究極の選択を迫るものであった。それは、旧来の多極的なバランスの上に成り立っていた地方の政治秩序が、中央集権化という巨大な地殻変動によって破壊され、再編されていく過程の始まりに他ならなかった。本報告書で詳述する天正6年(1578年)の「神吉城の戦い」は、この巨大な歴史のうねりの中で発生した、一つの局地戦である。しかし、その背景と経過、そして結末を深く掘り下げることは、信長の天下統一事業がいかに苛烈なものであったか、そしてその過程で地方の武士たちが如何なる運命を辿ったのかを解き明かす上で、極めて象徴的な事例となるであろう。
第一章:播磨三国志—織田、毛利、そして別所氏の狭間で
羽柴秀吉が播磨に足を踏み入れた当時、この国は群雄割拠の状態にあった。室町幕府の四職に数えられた名門・赤松氏が嘉吉の乱で一度没落し、再興後も往時の勢いを取り戻せずにいたため、その一族や有力家臣たちが各地で半ば独立した勢力を築いていたのである 1 。その中でも、東播磨一帯に広大な影響力を誇っていたのが、赤松氏の庶流である別所氏であった 1 。
三木城を本拠とする別所氏は、当時の当主・別所長治が若年であったため、叔父である別所吉親(賀相)と別所重宗(重棟)が後見役として一族を支える体制にあった 7 。彼らは東播磨における事実上の盟主であり、その動向は播磨全体の勢力図を塗り替えかねないほどの重みを持っていた。
天正5年(1577年)10月、秀吉が織田軍の司令官として播磨に入ると、中播磨の御着城主・小寺政職(黒田官兵衛の主君)をはじめ、多くの国衆がその勢威に服し、織田方への恭順を表明した 1 。別所長治も当初はこの大きな流れに逆らわず、秀吉に協力する姿勢を示していた 1 。秀吉は播磨の国衆から人質を徴収し、毛利方の拠点であった西播磨の上月城を攻略するなど、播磨平定は順調に進むかに見えた 1 。しかし、水面下では、織田という新たな支配者の出現に対する不信と反発が渦巻き始めていた。
第二章:亀裂—三木合戦、勃発の真相
天正6年(1578年)2月、別所長治は突如として織田方から離反し、毛利氏に与することを表明する 1 。この決断は、播磨全土を巻き込む約2年にも及ぶ大戦乱「三木合戦」の幕開けとなった 9 。長治離反の理由については、これまで様々な説が唱えられてきた。
古くからの通説として知られるのが、加古川城で開かれた軍議、いわゆる「加古川評定」における秀吉との確執である 3 。この席で、別所氏の代表として出席した叔父・吉親が、足軽出身である秀吉の尊大な態度や、別所氏が提案した戦術を一蹴されたことに激怒し、両者の関係が決定的に悪化したというものである 1 。また、赤松氏の血を引く名門としての誇りが、出自の低い秀吉の麾下に入ることを潔しとしなかったという名誉意識の問題や 1 、秀吉が上月城攻めで行ったとされる残虐な処置への嫌悪感 1 、さらには毛利氏の保護下にあった足利義昭からの執拗な離反工作が影響したとも考えられてきた 1 。
しかし、これらの要因に加え、より直接的かつ政治的な理由が存在したことが、近年の研究で明らかになっている。2024年2月、兵庫県立歴史博物館と東京大学史料編纂所の共同研究により、秀吉が信長に宛てた書状の写しが分析され、驚くべき事実が公表された。それは、「秀吉が東播磨にある別所方の城をいくつか破城したことに、別所方が不満を持って離反した」という経緯である 1 。
この新事実は、別所氏の離反が単なる感情的な反発に留まらない、より深刻な政治的対立であったことを示唆している。城とは、戦国武将にとって軍事拠点であると同時に、領地支配の正当性を示す象徴であり、一族の財産そのものである。秀吉は、中国攻めを効率的に遂行するため、後方の兵站線を整理する目的で、戦略的価値が低いと判断した城の破却を進めた可能性が考えられる。これは織田政権という中央の論理に基づいた合理的な判断であったかもしれない。しかし、別所氏をはじめとする在地領主の視点から見れば、これは一方的な支配権の侵害であり、自らの軍事力と権威を根底から覆す行為に他ならなかった。彼らにとって、それは服従ではなく、解体を意味すると受け取られたであろう。この実利と安全保障に関わる深刻な対立こそが、別所氏をして、織田との手切れという破滅的な決断へと踏み切らせた根本的な要因であった可能性は極めて高い。
この別所氏の決断に、一蓮托生として運命を共にしたのが、神吉城主・神吉頼定であった。神吉氏もまた赤松氏の一族であり、別所氏とは同族としての強い連帯感があった 11 。主家筋である別所氏の離反に伴い、神吉氏もまた、織田信長という巨大な権力に弓を引く道を選んだのである 19 。
第三章:戦いの舞台—神吉城と守将・神吉頼定
神吉城の構造と戦略的価値
これから始まる血戦の舞台となる神吉城は、現在の兵庫県加古川市東神吉町に位置していた 20 。加古川の西岸に広がる河岸段丘上に築かれた、環郭式の平城である 18 。江戸時代の地誌『播磨鑑』には、城の中核部である中の丸(本丸に相当)の規模が東西五十七間(約104m)、南北四十三間(約78m)であったと記されている 23 。
現在、城跡には常楽寺が建立され、往時の遺構の多くは失われているが、境内北東部には土塁らしき高まりが残り、周囲の地形からも城郭の存在を偲ぶことができる 18 。平城でありながら、周辺の集落全体を堀や土塁で囲んだ「総構え」の構造を持つ、堅固な城であったと推測されている 27 。神吉城は、別所氏の本拠・三木城から見て南西に位置し、西からの脅威に備えるための重要な支城ネットワークの一翼を担っていた。この城の陥落は、三木城の防衛線に致命的な穴を開けることを意味していたのである 28 。
城主・神吉頼定の肖像
この堅城を守る将は、神吉頼定(かんき よりさだ)。通称を民部少輔(あるいは民部大輔)と称した 17 。彼は赤松氏の庶流である神出氏を祖とし、神吉荘を領して神吉氏を名乗った一族の当主であった 29 。別所氏の一門衆として一万石を領する有力な重臣であり、その武勇は広く知られていた 17 。
後世の軍記物である『播州太平記』には、頼定が「卯の花威(うのはなおどし)」の白糸で威した美しい鎧を身にまとい、家宝の名刀「菊一文字」を振るって獅子奮迅の働きをしたと描かれている 22 。その姿は、滅びゆく播磨武士の意地と誇りを体現するかのようである。
しかし、この戦いの悲劇性を何よりも深くしているのは、彼の置かれた複雑な人間関係である。神吉頼定の妻は、羽柴秀吉軍の若き天才軍師・黒田官兵衛孝高の娘であった 21 。つまり、官兵衛は自らの娘婿が守る城を、主君の命によって攻め滅ぼさねばならないという、過酷な宿命を背負わされていたのである。官兵衛自身、この時期は主君・小寺政職の離反や、同僚であった荒木村重の謀反に巻き込まれ、有岡城に幽閉されるという苦難の渦中にあった 1 。記録によれば、官兵衛は神吉城攻めの軍には直接加わっていない 33 。これが秀吉による配慮であったのか、あるいは官兵衛自身の苦渋の選択であったのかは定かではない。いずれにせよ、この戦いは、戦国という時代の非情さが、個人の絆をいかに無慈悲に引き裂いていくかを物語っている。
第四章:黒鉄の奔流—織田軍の侵攻と布陣
神吉城に迫る織田軍の陣容は、異常とも言えるほど豪華絢爛なものであった。総大将に任じられたのは、信長の嫡男であり、織田家家督を継ぐ織田信忠 1 。そして、その麾下には、方面軍司令官クラスの武将たちがずらりと顔を揃えていた。中国方面軍を率いる羽柴秀吉、北陸方面軍の重鎮・佐久間信盛、畿内統治の中核を担う明智光秀、北伊勢を任される滝川一益、そして当時はまだ織田方であった摂津の荒木村重など、まさに織田軍のオールスターとも言うべき布陣であった 19 。
彼らが率いる軍勢の総数は約3万に達したと記録されている 19 。これに対し、神吉城に籠もる兵力は多く見積もっても2,000程度であり、その兵力差は実に15倍以上にも及んだ 21 。
表1:両軍の戦力比較 |
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勢力 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
攻城軍(織田方) |
織田信忠 |
羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益、佐久間信盛、丹羽長秀、荒木村重、織田信雄など |
約30,000 |
籠城軍(神吉方) |
神吉頼定 |
神吉貞光(藤太夫)、梶原冬庵など |
1,000~2,000 |
一介の支城に過ぎない神吉城に対し、信長がこれほどの主力を投入した背景には、高度な戦略的意図があったと考えられる。当時、織田軍は西播磨の上月城で毛利の大軍と膠着状態にあり、背後で発生した別所氏の反乱を迅速かつ徹底的に鎮圧する必要に迫られていた 1 。信忠率いる本隊が圧倒的な武力で神吉城を粉砕する様を播磨全土に見せつけることで、他の反織田勢力の戦意を挫き、早期降伏を促す。それは、信長が得意とした「恐怖による支配」を体現する、軍事力と政治的プロパガンダを融合させた「見せしめ」の戦いであった。神吉城は、そのための戦略的生贄として選ばれたのである。
五章:神吉城の攻防—血戦の二十日間を辿る
天正6年(1578年)6月下旬、播磨の地に集結した織田の大軍は、遂に神吉城へと牙を剥いた。ここから約20日間にわたる、播磨武士の誇りを賭けた壮絶な籠城戦の幕が上がる。
開戦前夜と緒戦(天正6年4月~6月下旬)
三木合戦の火蓋が切られた当初、神吉頼定は決して籠城一辺倒ではなかった。同年4月4日から5日にかけて、頼定は三百余りの兵を率いて三木城の別所軍と合流し、秀吉の本陣に夜襲を敢行。この「大村坂の戦い」で織田軍に一撃を加え、勝利を収めている 11 。この手痛い敗北が、秀吉に力攻めの非効率さを悟らせ、まずは三木城の羽翼をもぐべく、神吉城をはじめとする支城群の各個撃破へと戦略を転換させる一因となった 36 。
天正6年6月26日-27日:攻城戦開始、織田軍大損害
6月26日、織田信忠を総大将とする3万の軍勢が神吉城への本格的な攻撃を開始した 7 。圧倒的な兵力差にもかかわらず、神吉城兵の抵抗は凄まじく、城兵は果敢に城から打って出て織田軍を迎え撃った。初日の戦闘は熾烈を極め、一説には織田方に3,000人もの死傷者が出たと記録されている 19 。この予想外の大損害は、神吉城が堅固な防御施設を備えていたこと、そして何より城主・頼定に率いられた播磨武士たちの士気が極めて高かったことを雄弁に物語っている。頼定は織田軍に降伏を申し出たが、野口城の戦いとは異なり、これは認められなかった 34 。織田方には、徹底的に殲滅する意志があったのである。
膠着と織田軍の攻城兵器(6月下旬~7月上旬)
初日の力攻めに多大な犠牲を払った織田軍は、戦術の転換を余儀なくされる。それは、個々の武勇に頼る伝統的な戦法から、技術と物量で城の防御機能を無力化する、より近代的で合理的な攻城戦への移行であった。『信長公記』によれば、織田軍は城の周囲に「城楼(せいろう)」、すなわち攻城櫓を二つも組み上げ、城壁を見下ろす高所からの攻撃を可能にした 23 。
特に、南東方面を担当していた滝川一益の部隊は、この城楼から「大鉄砲(おおでっぽう)」、すなわち大口径の火縄銃(大筒)を城内に向けて撃ち込んだ。轟音と共に放たれる鉛玉は、神吉城の塀や矢蔵を次々と粉砕し、ついには火を放って焼き払ったという 23 。これは、近江国友村などで大量生産体制を確立していた織田軍だからこそ可能な、当時の最先端戦術であった 37 。伝統的な武勇で抵抗する神吉方と、最新兵器で城郭そのものを破壊しようとする織田方。神吉城の攻防は、戦国末期の戦術転換点を象徴する光景を呈していた。
7月15日夜:東の丸、陥落
数日にわたる砲撃と消耗戦の末、遂に戦局が大きく動く。7月15日の夜、滝川一益と丹羽長秀の部隊が、闇に紛れて城の東の丸への夜襲を敢行した 23 。度重なる攻撃で疲弊し、防御施設を破壊されていた東の丸は、この奇襲を防ぎきることができなかった。城の一角が破られたことで、神吉城の防御体制には致命的な亀裂が生じた。
7月16日:落城の刻
翌16日、織田軍は陥落した東の丸を突破口として、城の中核である中の丸へ雪崩れ込んだ 23 。城内に火が放たれ、城主の館、あるいは天守に相当する「天主」と呼ばれる建物が、黒煙を上げて燃え上がった 23 。城内は阿鼻叫喚の地獄と化し、両軍が入り乱れての壮絶な白兵戦が展開される。
この乱戦の最中、城主・神吉頼定は壮絶な最期を遂げた。その死については、二つの異なる伝承が残されている。一つは、最後まで武士としての本分を貫いたという「討死説」である。『播州太平記』は、頼定が鹿毛の馬にまたがって敵陣に突入し、瞬く間に300の敵兵を斬り伏せ、馬を降りてからは家宝の菊一文字を手に、鬼神のごとく戦い、力尽きて討ち取られたと、その勇戦ぶりを賞賛している 30 。
もう一つは、内部の裏切りによる「暗殺説」である。『別所長治記』や『印南郡誌』などによれば、頼定の叔父である神吉貞光(藤太夫)が、織田方の武将・佐久間信盛の調略に応じ、頼定を謀殺。その首を織田信忠に差し出して降伏したという 17 。どちらが真実であるかを断定することは困難だが、いずれにせよ、頼定の死をもって神吉城の抵抗は終わりを告げた。燃え盛る天主は轟音と共に崩れ落ち、多くの城兵が炎に呑まれて命を落としたと伝えられる 23 。こうして、約20日間にわたる激戦の末、神吉城は落城した。
第六章:落日の後—戦いの影響と神吉氏の運命
神吉城の陥落は、三木合戦全体の戦局に決定的な影響を与えた。三木城の西の守りの要を失ったことで、別所氏の防衛網は大きく後退する。織田軍は神吉城攻略の勢いを駆って、その北西に位置する志方城へと進軍した 28 。志方城主・櫛橋政伊もまた奮戦したが、衆寡敵せず、同年8月10日に開城を余儀なくされた 7 。これにより、三木城は西からの支援ルートをほぼ断たれ、秀吉による兵糧攻め、「三木の干殺し」を完成させるための包囲網が、着々と狭められていったのである 1 。
戦後、神吉城は歴史の舞台から姿を消す。三木合戦が終結した天正8年(1580年)、秀吉の命により副田甚兵衛の手で破却され、廃城となった 19 。城主・神吉頼定の死により、神吉氏の嫡流は滅亡したとされるが、一説には頼定の子・長右衛門が生き延び、後に黒田官兵衛に仕えたとの記録も残る 42 。また、江戸時代には姫路藩領の大庄屋や平福領の年寄に、神吉氏の末裔を称する家が存在したことが確認されている 22 。
神吉城の戦いは、一つの物にも数奇な運命をもたらした。落城の際に焼け残った城の梵鐘である。この梵鐘は織田軍によって戦利品として接収された 19 。勝者によって文化財が収奪され、再利用されるのは戦国の常であったが、この梵鐘の辿った運命は特に劇的であった。神吉城陥落から22年後の慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、この鐘は西軍の将・大谷吉継の陣鐘として用いられたと伝えられている 19 。播磨の一城で鳴らされた鐘の音が、奇しくも豊臣政権の終焉を告げる戦場で再び響き渡ったのである。この逸話は、一つの器物が、播磨の在地勢力の滅亡から豊臣政権の確立、そしてその崩壊という、壮大な歴史の転換点を見届けた証人であったことを物語っており、歴史の偶然と皮肉を我々に強く感じさせる。
落城後、神吉城の本丸跡には、戦火で焼失した常楽寺が再建された。時の住職であった性春上人が、城主・神吉頼定とその家臣たちの霊を弔うために建立したものである 44 。現在、常楽寺の境内には頼定の墓が静かに佇み、400年以上前の激戦の記憶と、強者たちの夢の跡を今に伝えている 13 。
終章:播磨の一戦が映し出す天下統一の現実
天正6年(1578年)の神吉城の戦いは、播磨国の一角で繰り広げられた局地的な攻防戦に過ぎないかもしれない。しかし、その詳細を丹念に追うことで、我々は織田信長が進めた天下統一という事業の、苛烈な本質を垣間見ることができる。
この戦いは、三木合戦の序盤における極めて重要な転回点であった。神吉城の陥落は、別所氏の防衛ネットワークに致命的な打撃を与え、最終的に秀吉による「三木の干殺し」という非情な兵糧攻めを成功させるための布石となった。それはまた、織田軍が有する圧倒的な物量、大鉄砲や攻城櫓といった高度な兵器技術、そして敵の内部を切り崩す巧みな調略といった、総合的な戦争遂行能力の高さを証明するものであった。
その一方で、神吉頼定と千余の籠城兵が見せた抵抗は、中央から押し寄せる巨大な権力の波に対し、自らの土地と誇りを守ろうとした播磨武士の最後の意地であった。彼らの壮絶な滅亡は、天下統一という華々しい歴史の陰で、数多の在地勢力が切り捨てられ、忘れ去られていった悲劇を象承している。
結局のところ、神吉城の戦いが我々に示すのは、戦国時代の終焉が、旧来の価値観や地域に根差した秩序の死を伴う、血塗られた変革であったという厳然たる事実である。神吉城跡に立つ常楽寺の静寂は、天下統一という大義名分のもとで流された無数の血と涙を、今も静かに語り続けているかのようである。
引用文献
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- 神吉の常楽寺(かんきのじょうらくじ)神吉城跡 私の住む街「加古川」の紹介です - 未来家不動産は https://miraie-f.co.jp/contents/1247
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- 加古川城(加古川評定)と三木城(三木の干殺し)を歩く - 小さなアマチュア無線局のブログ https://kasagokawahagi.hatenablog.com/entry/2024/05/03/184153
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- 神吉城 : 三木支城の1つで播磨攻めでの激戦の地。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2014/03/03/kanki/
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- 神吉合戦ノ記 〜神吉勢二千対織田勢三万〜 | 五郎のロマンチック歴史街道 https://rekishigoro.amebaownd.com/posts/8377770/
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- 鉄砲の産地として名を馳せた町!近世日本のテクノシティ「国友」を歩く(滋賀県長浜市) | サライ.jp https://serai.jp/hobby/163372
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- 常楽寺 見どころ - 加古川市/兵庫県 | Omairi(おまいり) https://omairi.club/spots/101430/point