最終更新日 2025-08-28

福原城の戦い(1580)

福原城の戦い(1580)は、秀吉の播磨平定における二つの局面。1577年の福原城攻略と、1579-80年の三木城支城掃討戦。秀吉は兵糧攻め「三木の干殺し」で三木城を落とし、播磨平定を完成させた。

播磨平定の二つの局面:福原城の電撃戦(1577)と三木城包囲下の殲滅戦(1579-1580)

序章:播磨を巡る激動と三木合戦の勃発

天正5年(1577年)、天下統一事業を推し進める織田信長は、西国に一大勢力を築く毛利氏との全面対決を不可避と判断し、腹心の将である羽柴秀吉を総大将に任命、中国方面への大々的な侵攻を命じた 1 。これは、織田軍団が方面軍を編成して各地の平定を同時並行で進めるという、壮大な戦略構想の一環であり、秀吉にとっては方面軍司令官としての真価が問われる最初の舞台であった。

播磨国に入った秀吉は、まず在地勢力である国人衆の懐柔から着手した。播磨の事情に精通した小寺孝高(後の黒田官兵衛)の巧みな斡旋もあり、東播磨に最大勢力を誇る別所長治、中播磨の小寺政職、西播磨の赤松則房といった有力国人衆から人質を徴収し、服属させることに成功する 1 。秀吉はこの成果を信長に報告し、播磨平定は短期間で完了したかのように見えた 3 。官兵衛から姫路城を譲り受けた秀吉は、ここを中国攻めの拠点と定め、さらなる西進を図ろうとしていた 3

しかし、天正6年(1578年)3月、事態は急変する。織田方への恭順を誓ったはずの別所長治が、突如として織田信長に反旗を翻し、毛利方へと寝返ったのである 5 。この離反には、同じく織田と毛利という二大勢力の間で自立を模索していた東播磨の国人衆の多くが同調し、秀吉の播磨平定計画は根底から覆されることとなった 7 。別所氏が織田と毛利の緩衝地帯として双方と友好関係を保ってきた歴史を鑑みれば、この決断は単なる裏切りとは言い切れない側面を持つ 8 。織田信長の苛烈な支配、すなわち抵抗勢力に対しては女子供に至るまで処刑も辞さないというやり方への恐怖と反発が 2 、播磨国人衆の存亡をかけた政治的決断を促したのである。彼らにとって、織田の急速な中央集権化は、自らの独立性を脅かす最大の脅威と映ったのであった。

長治は居城である三木城に籠城し、毛利からの援軍を待つ策をとった。これに対し、信長の逆鱗に触れた秀吉は、播磨平定をやり直すべく三木城への攻撃を開始する。天正6年3月から天正8年(1580年)1月まで、実に1年10ヶ月(約22ヶ月)にも及ぶ、世に言う「三木合戦」の幕開けであった 10 。この戦いは、秀吉が後に得意戦術とする徹底的な兵糧攻め、「三木の干殺し」として戦国史にその名を刻むことになる 5 。秀吉にとってこの戦いは、方面軍司令官としての面目を保ち、その能力を信長に示すための試金石であり、後の鳥取城攻めや備中高松城攻めへと繋がる城攻め戦術の壮大な実験場となったのである。

本報告書では、この三木合戦の文脈の中で語られる「福原城の戦い」について、利用者の認識と史実との間に存在する時間的な差異を解明し、二つの異なる局面を詳細に分析する。第一部では、三木合戦の序盤、天正5年(1577年)に行われた播磨平定の先鋒戦としての「福原城(佐用城)攻略戦」。第二部では、利用者が想定していた三木合戦の最終盤、天正7年(1579年)から8年(1580年)にかけて行われた「三木城支城掃討戦」。これら二つの戦いを時系列に沿って再構成し、羽柴秀吉の播磨平定戦略の全貌を明らかにする。


【表1】三木合戦 主要関連年表(天正5年~8年)

年月

出来事

天正5年(1577年)10月

羽柴秀吉、播磨へ入国。姫路城を拠点とする。

天正5年(1577年)11月

**福原城(佐用城)の戦い。**黒田官兵衛らが攻略。

天正5年(1577年)12月

第一次上月城の戦い。秀吉、赤松政範を滅ぼす。

天正6年(1578年)3月

別所長治が織田方から離反。三木城に籠城し、 三木合戦が開始 される。

天正6年(1578年)4月~7月

第二次上月城の戦い。毛利軍が上月城を奪還。尼子勝久・山中幸盛ら自刃。

天正6年(1578年)7月~10月

織田信忠軍が播磨へ来援。神吉城・志方城など三木城南方の支城を攻略。

天正6年(1578年)10月

荒木村重が有岡城にて謀反。三木城への新たな補給路が生まれる。

天正7年(1579年)4月

織田信忠軍が再度播磨へ。三木城包囲のための付城網が強化される。

天正7年(1579年)6月

軍師・竹中半兵衛が陣中にて病没。

天正7年(1579年)9月

毛利方の援軍が淡路岩屋城を攻撃するも、秀吉軍に敗れる(第二次木津川口の戦いの影響)。

天正7年(1579年)後半

秀吉軍による 支城掃討戦が本格化 。三木城は完全に孤立。

天正8年(1580年)1月17日

別所長治らが自刃し、 三木城が開城 。三木合戦が終結する。


第一部:先鋒戦としての福原城攻略(天正5年 / 1577年)

第一章:西播磨の要衝・福原城(佐用城)の実像

三木合戦の勃発に先立つこと約4ヶ月、天正5年(1577年)11月、羽柴秀吉の播磨平定戦における最初の重要な戦闘の一つが、西播磨の福原城で繰り広げられた。この戦いを理解するためには、まずその舞台となった城の地理的、軍事的特性を把握する必要がある。

福原城は、別名を佐用城とも呼ばれ、播磨、美作、備前の三国が国境を接する交通の要衝、佐用郡に位置していた 13 。西に上月城、東に利神城といった城郭と連携し、赤松氏系の国人領主による防衛ネットワークの一角を成していた 15 。西の毛利領から播磨へ侵攻する、あるいは播磨から西へ進出する上で、この城の支配は避けて通れない戦略的要点であった。

城郭の構造は、佐用川に面した比高約20メートルの丘陵上に築かれた平山城である 15 。本丸、二の丸、三の丸が南から北へ向かって段々に連なる連郭式の縄張りで、防御設備としては土塁や空堀が確認されている 17 。特に本丸の西面と北面には比較的規模の大きい土塁が残り、西側の土塁上には落城後に城主を祀るために建立された福原霊社(通称:頭様 こうべさま)が鎮座している 15 。しかし、織田軍が用いるような先進的な石垣や複雑な虎口(出入り口)は見られず、その構造は国人領主同士の小規模な紛争や、領地経営の拠点を主目的としたものであったことが窺える。数万の軍勢による計画的な大攻勢は、築城時の想定を遥かに超える脅威であり、この構造的な脆弱性が、後の比較的短期間での落城の一因となったと考えられる。

この城の歴史を語る上で、最も謎に包まれているのが城主の正体である。史料によってその名が異なり、大きく二つの説が存在する。一つは「福原則尚(ふくはらのりひさ)」説である。『播磨鑑』をはじめとする多くの地誌や伝承で城主とされ、城に自ら火を放った後、菩提寺である福円寺にて一族と共に自刃したと伝えられている 17 。もう一つは、黒田家の公式史料である『黒田家譜』に記された「福原助就(ふくはらすけなり)」説である 15 。こちらでは、助就は黒田家臣の平塚為広によって討ち取られたとされている。

則尚と助就が同一人物なのか、あるいは助就が則尚の娘婿や義弟といった姻族であったのか 23 、はたまた『黒田家譜』が黒田家の武功を際立たせるために創作した人物なのか、その真相は未だに解明されていない 19 。この記録の不一致は、単なる誤記や混乱として片付けるべきではない。むしろ、戦国時代の「歴史記述」が持つ政治性を象徴している。勝利者である黒田家が、家臣個人の武勇伝として戦いを記録し、その功績を後世に伝えようとしたのに対し、敗れた地元佐用の人々は、一族郎党が運命を共にした悲劇として記憶を継承した。歴史が誰によって、何のために語られるのかによって、その姿を大きく変えるという好例が、この福原城主の名を巡る謎に凝縮されているのである。

第二章:電光石火の攻略戦 ― 時系列による再構成

利用者の要望の核心である「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」で、天正5年11月に行われた福原城攻防戦の推移を再構成する。羽柴秀吉の播磨平定における初期の重要な一戦は、知略と物量、そして苛烈さが交錯する、まさに電撃的な攻略戦であった。

【天正5年(1577年)11月初旬~中旬】 秀吉軍、佐用郡へ進駐

播磨の主要な国人衆を一旦は服属させた秀吉であったが、西播磨の佐用郡には依然として従わない勢力が存在した。秀吉は中国攻めの本格化に先立ち、後方の憂いを断つべく、この地域への軍事行動を開始する。この時の攻撃目標は、上月城、福原城、そして利神城の三城であった 25 。秀吉は自ら大軍を率いて正面から攻撃するのではなく、軍監として帯同していた小寺孝高(黒田官兵衛)と竹中半兵衛に福原城の攻略を命じた 16 。これは、両兵衛の軍才を試すとともに、播磨国人である官兵衛に手柄を立てさせることで、他の国人衆への影響力を高め、心服させようという政治的な狙いがあったと考えられる。

【11月中旬~下旬】 包囲網の形成と心理戦

官兵衛と半兵衛が率いる部隊は、速やかに福原城へと進軍し、包囲網を形成した。『黒田家譜』によれば、この時、官兵衛は中国の兵法書『孫子』に記された「囲師必闕(いしひっけつ)」の策を用いたとされる 22 。これは、包囲網の一角を意図的に開けておくことで、城兵に「ここからなら脱出できるかもしれない」という希望を抱かせ、決死の覚悟で抵抗する意志を挫くという高等な心理戦術である。この記述は、官兵衛が単なる武辺者ではなく、高度な戦略眼を持つ「軍師」であることを後世に伝えるための意図的な物語化である可能性も指摘される。実際に、この策が決定的な効果を上げたとは言い難く、むしろ福原城兵の士気は依然として高かったようである。

【11月下旬】 攻城戦の激化と戦況の転換

福原城の抵抗は、織田軍の予想を上回る激しいものであった。『播州佐用軍記』などの記録によれば、竹中・黒田隊は攻城に手こずり、戦況は膠着状態に陥った 20 。城主・福原則尚は、籠城に徹するだけでなく、城から打って出て秀吉の本陣があったとされる高倉山の乗っ取りを計画するなど、積極果敢な反撃を試みたとの伝承も残っている 21

計略だけでは城が落ちないと判断した秀吉は、躊躇なく次の一手を打つ。腹心であり、武勇に優れた蜂須賀正勝(小六)が率いる部隊を増援として派遣したのである。この予備兵力の投入により、戦況は一変する。蜂須賀隊の加勢を得た織田軍は猛攻を再開し、数に劣る福原城方は次第に追い詰められていった 20 。この一連の戦況推移は、後の秀吉の戦における勝利の方程式、すなわち「知将による計略」が手詰まりになると、即座に「圧倒的な物量(増援)」を投入して敵を粉砕し、「抵抗勢力への徹底的な殲滅」によって見せしめとする、という戦術の雛形を示している。

【11月27日】 落城の瞬間

織田軍の圧倒的な総攻撃の前に、福原城はついにその抵抗力を失い、天正5年11月27日、陥落の時を迎えた 20 。城主・福原則尚は、もはやこれまでと覚悟を決め、城に自ら火を放ち、炎上させた 17 。そして、一族の菩提寺である福円寺へと退き、一族郎党五十余名と共に自刃して果てたと伝えられる 17 。落城後の城内は凄惨を極め、城兵や城内に避難していた領民は、女子供に至るまでことごとく斬り殺されたという記録も残っており 20 、織田軍の容赦ない一面を物語っている。

第三章:福原城落城の戦略的意義

天正5年(1577年)11月の福原城陥落は、単なる一城の攻略に留まらず、羽柴秀吉の播磨平定戦全体、ひいては中国攻めの序盤戦において、極めて重要な戦略的意義を持っていた。

第一に、西播磨における反織田勢力への強烈な示威行為となった点である。福原城を電光石火で攻略し、落城後には城内の者をことごとく処断するという苛烈な処置をとることで 20 、秀吉は「織田に逆らう者はどうなるか」という明確なメッセージを播磨全土に発信した。これは、秀吉が播磨国人衆に対して用いた「アメとムチ」の戦略における、最初の「ムチ」であった。懐柔策という「アメ」に従わない勢力には、徹底的な武力行使という「ムチ」が待っていることを、この戦いは明確に示したのである。事実、この後、近隣の利神城主であった別所氏は、戦わずして人質を差し出し秀吉に降伏しており 25 、福原城での見せしめが即座に効果を発揮したことを物語っている。

第二に、次の軍事目標であった上月城攻略への重要な布石となった点である。福原城を制圧したことで、秀吉軍は上月城へ向かうための後方の安全を確保し、兵站線を安定させることができた 27 。福原城は、上月城攻めのための前線基地、あるいは兵站拠点として機能し、続く第一次上月城の戦いにおける勝利に大きく貢献した。

第三に、この戦いは、秀吉軍団内部の結束と信頼関係を醸成する上でも重要な役割を果たした。黒田官兵衛や竹中半兵衛といった軍師たちが、実際の攻城戦で成果を上げたことは、秀吉の彼らへの信頼を一層深め、後の作戦指導における彼らの発言力を高めることに繋がった。

しかし、この勝利は予期せぬ副作用ももたらした可能性がある。同じ赤松一門である福原氏が、一族郎党もろとも滅ぼされたという事実は、東播磨の雄、別所長治をはじめとする有力国人たちに大きな衝撃と危機感を与えたはずである。「次は我が身か」「織田の支配下では、我々の自立性は完全に失われ、少しでも意に沿わなければ福原のように滅ぼされるのではないか」。このような疑念と恐怖が、数ヶ月後の別所氏の離反、そして播磨全土を巻き込む三木合戦の勃発へと繋がる遠因となった可能性は否定できない。福原城の攻略は、短期的には秀吉に戦術的勝利をもたらしたが、長期的には播磨国人衆の織田への不信感を増大させ、より大規模な反乱を誘発する火種を蒔く結果となったのかもしれない。

第二部:三木城の命脈を断つ支城掃討戦(天正7年~8年 / 1579年~1580年)

第四章:膠着と新たな補給路、そして包囲網の再構築

別所長治の離反により始まった三木合戦は、当初秀吉が想定した短期決戦とはならず、長期にわたる壮絶な籠城戦へと発展した。その背景には、三木城の堅固さに加え、それを支える支城ネットワークと、予期せぬ同盟者の出現があった。

別所長治が籠城した三木城には、東播磨一帯から集まった兵士だけでなく、その家族や浄土真宗の門徒など、約7,500人もの人々が立てこもっていた 1 。これは「諸篭り(もろごもり)」と呼ばれる形態で、城内の結束を高める一方、膨大な量の兵糧を必要とするという致命的な弱点を抱えていた。当初、別所方は瀬戸内海の制海権を握る毛利氏の支援を受け、海沿いの高砂城や魚住城で兵糧を陸揚げし、加古川や山間の道を通じて各支城と連携しながら三木城へ運び込むという補給路を確保していた 7

この状況を打破すべく、秀吉は三木城周辺の支城攻略を進めていたが、天正6年(1578年)10月、戦況を根底から揺るがす大事件が発生する。摂津国を任されていた織田軍の有力武将・荒木村重が、突如として信長に謀反を起こし、有岡城(伊丹城)に立てこもったのである 7 。三木城から六甲山地を挟んだ南に位置する摂津が敵の手に落ちたことで、別所方には「摂津の港→花隈城→丹生山越え→三木城」という新たな補給ルートが生まれた 7 。この予期せぬ援軍の出現により、別所方は息を吹き返し、秀吉は三木城と有岡城という二つの敵を同時に相手にしなければならないという最大の危機に直面した。説得に向かった黒田官兵衛が捕らえられ、有岡城に幽閉されるという人的損失も重なり、戦線は完全に膠着状態に陥った 7

この危機的状況が、秀吉に戦略の根本的な転換を促した。従来の力攻めや単純な包囲では勝利できないと悟った秀吉は、より時間と労力を要するものの、より確実性の高い「兵站破壊」へと戦術の主軸を移す。すなわち、三木城本体への攻撃から、その生命線である支城と補給路を一つずつ、しかし確実に破壊していくという、壮大な消耗戦への転換である 9

この戦略を実現するために秀吉が用いたのが、三木城の周囲に「付城(つけじろ)」と呼ばれる攻撃・監視用の城砦群を構築することであった 1 。その数は最終的に40以上に及び、東西約6km、南北約5kmという広大な範囲に、三木城を完全に包囲する一大要塞群を築き上げた 1 。これらの付城は、単なる監視所ではなく、兵の駐屯地であり、攻撃拠点でもあった。さらに付城同士は長大な土塁で連結され、人一人、米一粒たりとも城内に入れることを許さない、物理的な壁として機能した 11

この付城ネットワークの構築は、戦況に応じて三段階に分けて計画的に行われた 32 。天正6年7月にまず三木城の北側、翌7年4月に南側の外縁部、そして同年10月には最前線まで包囲網を狭めるというように、徐々に締め付けを強化していったのである。この40以上の城砦と長大な土塁からなる包囲網は、単なる軍事施設ではなく、数万の兵士を2年近くにわたって維持するための兵站、測量、土木技術の粋を集めた、さながら一つの巨大な「軍事都市」であった。それは、秀吉が単なる武将ではなく、卓越した行政官・経営者であったことを何よりも雄弁に物語っている。


【表2】三木城を支えた主要支城と攻城担当武将一覧

支城名

城主(別所方)

主な攻城担当武将(織田方)

概要・特記事項

野口城

長井政重

羽柴秀吉

三木合戦初期に攻略。教信寺と連携して抵抗 7

神吉城

神吉頼定

織田信忠、滝川一益、明智光秀

織田本隊の投入により陥落。南からの補給路遮断の要 7

志方城

櫛橋政伊

織田信忠、丹羽長秀

神吉城と同時に攻略される。黒田官兵衛の妻・光の実家 7

高砂城

梶原景行(景秀)

羽柴秀吉

毛利からの海上輸送による兵糧の陸揚げ拠点。落城は大きな打撃となった 28

魚住城

魚住頼治

(織田信忠軍)

高砂城と同様、海からの補給路の重要拠点であった 7

淡河城

淡河定範

羽柴秀長、有馬則頼

知将・定範の奮戦により、一度は羽柴軍を撃退したことで知られる 30

端谷城

衣笠範景

(羽柴秀吉軍)

三木城の西を守る重要な支城の一つであった 28

御着城

小寺政職

(羽柴秀吉軍)

黒田官兵衛の旧主君。荒木村重に呼応し、後に毛利領へ逃亡 8


第五章:播磨平定の総仕上げ ― 支城群陥落の時系列

羽柴秀吉が兵站破壊へと戦略を転換した後、播磨の戦場は三木城という一点を巡る攻防から、その周辺に点在する無数の支城を一つずつ潰していく、広域かつ執拗な殲滅戦へと移行した。これは、利用者が当初イメージしていた「周辺の支城を次々制圧」する局面であり、播磨平定の最終段階を飾る、血塗られた総仕上げであった。

【天正6年(1578年)4月~10月】 初期攻勢と南の補給路遮断

別所氏離反直後の天正6年4月、秀吉はまず三木城の南西に位置する野口城を攻略し、幸先の良いスタートを切る 7 。しかし、直後に毛利の大軍が西播磨の上月城を包囲したため、秀吉は主力を西に向けざるを得ず、東播磨の支城攻略は一時中断を余儀なくされた 7

7月に上月城が毛利の手に落ちると、織田軍は再び東播磨に戦力を集中させる。ここで信長は、秀吉軍だけでは戦線の膠着を打開できないと判断し、嫡男である織田信忠を総大将とする本隊の精鋭を播磨へと派遣した 7 。この強力な援軍の到来により、戦況は大きく動く。信忠軍は、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀といった織田家の宿将を率い、三木城の南方を固める神吉城と志方城に猛攻を加え、これを陥落させた 7 。さらに、毛利からの海上輸送による兵糧の陸揚げ拠点であった高砂城も制圧 28 。これにより、海から三木城へ至る南の主要な補給路は、ほぼ完全に遮断された。この一連の戦いは、秀吉個人の戦功というよりも、織田家の中央軍と方面軍が効果的に連携した結果であり、信長の中央集権的な軍事システムがもたらした勝利であった。

【天正7年(1579年)】 包囲網の強化と残存支城の掃討

荒木村重の謀反により戦線は一時的に膠着したものの、秀吉はその間も三木城を囲む付城ネットワークの構築を着実に進めていた。天正7年に入ると、この包囲網を拠点として、残存する支城の掃討作戦を本格化させる。

この年、特筆すべきは淡河城の攻防戦である。知将として知られた城主・淡河定範は、巧みな采配で羽柴秀長が率いる軍勢を一度は撃退するという目覚ましい奮戦を見せた 30 。しかし、こうした個々の城主の武勇や知略も、織田軍という巨大な「面」の圧力の前には、長くは続かなかった。淡河城もまた、度重なる攻撃の前に陥落する。彼ら国人領主たちは、中世以来の分権的な体制の中で自立を保ってきたが、織田という巨大権力に飲み込まれていく時代の大きなうねりには抗えなかった。彼らの戦いは、旧時代の終焉を告げる悲劇的な縮図でもあった。秀吉は、30ほどあったとされる三木城の支城を、一つ、また一つと丹念に、そして冷徹に潰していったのである 9

【天正7年後半~8年1月】 最終攻勢と完全な孤立

天正7年の後半には、三木城を支える主要な支城はほぼすべて陥落した。秀吉は攻撃の手を緩めることなく、付城網をさらに三木城の間近まで前進させ、包囲の輪を狭めていく 32 。この段階に至り、三木城は外部からの支援を完全に絶たれ、文字通り裸城となった。播磨平定の総仕上げは完了し、あとは飢餓地獄の中で、巨大な城が静かに朽ち果てるのを待つのみとなったのである。

第六章:孤立無援の三木城と別所長治の決断

全ての支城を失い、補給を完全に絶たれた三木城内は、この世の地獄と化していた。2年近くに及ぶ壮絶な籠城戦の末路は、戦国時代の数ある籠城戦の中でも、最も凄惨なものの一つとして記録されている。

【天正7年後半~】 城内の惨状

天正7年の後半には、城内に備蓄されていた兵糧は完全に底をついた。城兵や領民たちは、飢えをしのぐために壁土を水で溶いてすすり、草の根や木の皮を食べ、やがては牛馬や犬猫までも食い尽くした 9 。それでも餓死者は後を絶たず、栄養失調から病に倒れる者も続出した。骨と皮ばかりに痩せ衰えた人々が城内に溢れ、ついには亡くなった者の肉を食べる者まで現れたと伝えられている 9 。別所氏の菩提寺である法界寺に現存する「三木合戦絵図」には、やせこけた兵士たちが馬を解体してその肉を分け合う様子や、もはや戦う気力もなく座り込む人々の姿が生々しく描かれており、当時の惨状を今に伝えている 1

【天正8年(1580年)1月】 降伏勧告と最後の決断

年が明けた天正8年1月、城内の惨状を見かねた秀吉は、これ以上の無益な犠牲を避けるため、別所長治に降伏を勧告した。これを受け、織田方についていた長治の叔父・別所重棟が仲介役となり、交渉が行われた 34 。1月15日、ついに条件がまとまる。それは、「城主である別所長治、その弟の友之、叔父の吉親(賀相)ら一族が切腹することと引き換えに、城内にいる全ての兵士と領民の命を助ける」というものであった 34

この決断は、2年近くも織田の大軍を相手に一歩も引かなかった武将としての面目と、飢えに苦しむ領民を守るべき領主としての責任との間で、長治が苦しみ抜いた末の選択であった。1月16日、長治は秀吉から礼として送られた酒や食料で、城兵たちと最後の宴を催したと伝えられる 9

【1月17日】 別所一族の自刃と開城

そして運命の1月17日、別所長治は、

「今はただ 恨みもあらじ 諸人の いのちに代はる 我が身と思えば」

という辞世の句を残し、弟の友之、叔父の吉親ら一族と共に自刃して果てた 5。享年23(満22歳)であった。この長治の最後の句は、自らの死を個人的な敗北としてではなく、多くの人々を救うための尊い犠牲として意味づけようとする、領主としての最後の責務を果たそうとする姿を映し出している。

長治の自刃をもって、1年10ヶ月にわたった三木合戦はついに終結した。秀吉が城兵の助命の約束を守ったかについては、約束通り助命したとする説と 9 、反故にして多くを殺害したとする説があり 8 、記録が分かれている。しかし、この「三木の干殺し」の記憶は、合戦後、この地に深く刻み込まれることとなった。法界寺では、毎年4月17日に「三木合戦絵図」を用いた「絵解き」が行われ、合戦の悲劇を語り継ぐ行事が現代まで続いている 40 。この記憶の継承こそが、この戦いが地域社会に与えたインパクトの大きさを物語っているのである。

結論:福原城の戦いから三木城落城まで ― 羽柴秀吉の播磨平定戦略の完成

本報告書で詳述した天正5年(1577年)の「福原城の電撃戦」と、天正7年から8年(1580年)にかけて行われた「三木城支城掃討戦」は、時間的にも地理的にも離れた、性質の異なる二つの軍事行動である。しかし、これらは羽柴秀吉による「播磨平定」という一つの大きな戦略目標の下で有機的に結びついた、一連の軍事作戦として理解されなければならない。

福原城の戦いは、播磨平定の序盤戦において、抵抗勢力への見せしめと、西への進撃路の安全確保を目的とした「点の制圧」であった。秀吉は、黒田官兵衛らの知略を用いつつも、最終的には圧倒的な物量で迅速に城を攻略し、その後の苛烈な処置によって「織田への反逆」が何を意味するかを播磨全土に知らしめた。

一方、三木城支城掃討戦は、長期化した籠城戦の最終盤において、敵の継戦能力を根底から破壊することを目的とした「線の遮断」と「面の包囲」であった。秀吉は、荒木村重の謀反という危機に直面しながらも、それを戦術転換の好機と捉え、付城ネットワークという壮大な土木事業によって三木城の補給路を完全に遮断。一つ一つの支城を丹念に潰していくことで、巨大な城を内側から崩壊させた。

この二つの戦いは、秀吉が状況に応じて戦術を柔軟に変化させながら、最終的な戦略目標を達成していく過程を鮮やかに示している。そして、「三木の干殺し」で完成された、大規模な包囲網の構築と徹底的な兵站破壊という戦術は、秀吉の代名詞となり、後の鳥取城の「渇え殺し」、備中高松城の「水攻め」へと受け継がれ、彼の天下取りを軍事的に支える最大の武器となった。

播磨の完全平定により、織田家は中国の雄・毛利氏と本格的に対決するための、安定した前線基地と兵站線を確保した。これにより、日本の統一は大きく前進することになる。福原城の戦いと三木合戦は、その長大で血塗られたプロセスにおける、極めて重要な一里塚であったと言えるだろう。

引用文献

  1. 三木合戦古戦場:兵庫県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/mikijo/
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  36. 【三木合戦】羽柴勢、三木城の包囲戦を決定す - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2022/01/30/miki_hiraiyama/
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  38. 「三木合戦絵図」絵解き - 三木合戦と天正年間の播磨国の情勢 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ https://amago.hatenablog.com/entry/2013/11/05/193019
  39. 知っておきたい観光情報が盛りだくさん! - 三木城 | 観光スポット | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/spot/419
  40. 兵庫県三木市 - まちから探す - ふるラボ - 朝日放送 https://furusato.asahi.co.jp/city/detail/282154
  41. 三木合戦軍図絵解き 附 軍図3幅2組(市指定文化財) - 三木市役所 https://www.city.miki.lg.jp/site/mikirekishishiryokan/12027.html