最終更新日 2025-08-25

稲葉山城攻略(1567)

織田信長は難攻不落の稲葉山城を攻略。斎藤家の内紛と西美濃三人衆の調略で城は内部から崩壊。信長は電光石火の進軍と心理戦で城を陥落させ、本拠を岐阜と改め「天下布武」を掲げ、天下統一を本格化した。

稲葉山城攻略(1567)— 天下布武への転換点、その全貌

序章:美濃を制する者

戦国時代の日本において、特定の地域が持つ地政学的な価値は、時に一国の、ひいては天下の趨勢を左右するほどの重要性を帯びた。「美濃を制する者は天下を制す」。この言葉が示す通り、美濃国(現在の岐阜県南部)は、織田信長の拠点である尾張国と、天皇を擁する京の都とを結ぶ東山道の要衝に位置していた 1 。この地を掌握することは、上洛への道を確保し、天下統一事業を本格化させるための絶対条件であった。

その美濃国の心臓部に聳えるのが、稲葉山城である。金華山(当時の稲葉山)の険峻な自然地形を最大限に活用して築かれたこの城は、まさに天然の要塞と呼ぶにふさわしく、難攻不落の名をほしいままにしていた 1 。斎藤道三の時代より、織田家はこの堅城の前に幾度となく苦杯をなめさせられており、その攻略は積年の悲願となっていた 1

永禄十年(1567年)、この城を巡る攻防は、戦国史の大きな転換点を迎える。一方には、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、破竹の勢いで版図を拡大する尾張の織田信長。もう一方には、「美濃の蝮」と恐れられた祖父・斎藤道三と、その跡を継いだ父・義龍という偉大な先代の遺産を継承するも、その重圧と若さゆえに統率力を欠き、家臣団の離反を招いていた当主・斎藤龍興 4 。両者の対決は、時代の必然であった。本報告書は、この稲葉山城攻略戦について、その背景、周到な準備、そして合戦のリアルタイムな経過を詳細に分析し、この一戦が織田信長の「天下布武」へと至る道程にいかなる意味を持ったのかを徹底的に解明するものである。

第一章:亀裂の序曲 — 斎藤家の内憂

稲葉山城の陥落は、永禄十年(1567年)の織田軍による軍事行動のみによって引き起こされたわけではない。その強固な城壁の内側では、数年前から深刻な亀裂が走り、崩壊は静かに始まっていた。その根源は、斎藤家三代にわたる葛藤と、若き当主・斎藤龍興の孤立にあった。

道三から龍興へ、三代の葛藤

かつて、斎藤家と織田家は同盟関係にあった。天文十七年(1548年)、斎藤道三は敵対していた尾張の織田信秀と和睦するため、娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡男・信長に嫁がせた 3 。この政略結婚により、美濃と尾張の間には束の間の安定が訪れ、道三は信長の類稀なる才覚を高く評価していたとされる 7

しかし、この蜜月関係は長くは続かなかった。弘治二年(1556年)、道三は実子である斎藤義龍との対立の末、「長良川の戦い」で討死する 3 。義龍は父が結んだ織田家との同盟を破棄し、両家は再び敵対関係へと逆戻りした。この対立は、義龍の急死後、その子である龍興の代にも引き継がれ、美濃・尾張国境では局地的な戦闘が繰り返されることとなる 8

当主・斎藤龍興の孤立と家臣団の離心

若くして家督を継いだ龍興は、偉大な祖父と父が築いた遺産を継承するという重圧に常に晒されていた。しかし、彼は政治に関心を示さず、耳の痛い諫言をする重臣を遠ざけ、追従する側近ばかりを重用したという 4 。経験不足から評定の場で意見を一蹴されることが続くと、龍興は次第に政務から距離を置くようになり、酒色に溺れることで現実から逃避する傾向を強めていった 5

このような当主の姿勢は、斎藤家の結束を著しく損ない、家臣団の信頼を失墜させる決定的な要因となった。特に、森部の戦いでの敗北は、龍興の統率力に対する疑問を家中に広げ、重臣たちの心は急速に主君から離れていった 5

決定的事件:竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取り(1564年)

斎藤家の内部崩壊を象徴する、前代未聞の事件が発生したのは永禄七年(1564年)のことである。家臣の一人であった竹中半兵衛(重治)が、わずか十数名の手勢で難攻不落の稲葉山城を乗っ取ったのである 9 。半兵衛は、人質として城内にいた弟・重矩が病に倒れたと偽り、見舞いを口実に堂々と入城 11 。城内でかねてより私怨のあった斎藤飛騨守らを討ち取ると、混乱に乗じて城を完全に制圧した。当主の龍興は、寝巻き姿のまま城から逃げ出すという屈辱を味わった 4

この事件の動機については、主君の惰弱な態度を諫めるための行動であったという「諫言説」が広く知られている 9 。しかし、半兵衛が岳父であり西美濃三人衆の一人である安藤守就と連携していたことや、龍興方の重臣数名を斬殺している事実から、単なる諫言を超えた計画的なクーデターであったとする説も有力である 11

この報に接した信長は、好機と見て半兵衛に「城を明け渡せば美濃の半分を与える」と持ちかけたが、半兵衛はこれを拒絶 14 。約半年後、彼は城を龍興に返還し、自らは隠棲した 11 。しかし、この事件がもたらした影響は計り知れなかった。斎藤家の権威は地に落ち、当主が家臣に居城を奪われ逃亡するという事実は、西美濃三人衆をはじめとする有力家臣たちが、もはやこの主に美濃の将来を託すことはできないと見切りをつける決定的なきっかけとなったのである 4 。1567年の軍事的な陥落は、実質的にはこの1564年の時点で精神的に、そして政治的に約束されていたと言っても過言ではない。信長の侵攻は、内部から崩壊しつつあった空虚な城に対する、最後の一押しに過ぎなかったのである。

第二章:尾張の虎、美濃を窺う — 信長の周到なる準備

斎藤家が内部から崩壊していく様を、織田信長は冷静に見据えていた。稲葉山城攻略は、単なる好機に乗じた偶発的な行動ではなく、長期的な戦略眼に基づいた周到な準備の集大成であった。信長は「軍事」と「調略」という二つの車輪を完璧に連携させ、美濃攻略への包囲網を着実に狭めていった。

東の安定、西への布石

永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いにおける奇跡的な勝利の後、信長はすぐさま次の一手を打った。東方の今川氏の脅威が薄れた機を逃さず、三河国の松平元康(後の徳川家康)と「清洲同盟」を締結したのである 4 。これにより背後の憂いを完全に断ち切った信長は、全勢力を西方、すなわち美濃攻略へと傾注できる戦略的態勢を構築した。これは、彼の天下取り事業における極めて重要な布石であった。

前線基地の構築:墨俣一夜城

美濃攻略を本格化させるにあたり、信長はまず最前線に確固たる拠点を必要とした。そこで白羽の矢が立ったのが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)であった。彼がわずか一夜にして斎藤領との国境地帯である墨俣に城を築いたという「墨俣一夜城」の伝説は、秀吉の立身出世物語としてあまりにも有名である 16

信頼性の高い史料である『信長公記』にはこの逸話の記述がなく、その史実性については議論が分かれる 18 。しかし、同史料には信長が永禄四年(1561年)の時点で、もともと斎藤方が築いた墨俣の砦を奪取し、補強して在陣したという記録が残っている 18 。伝説の真偽はともかく、信長が美濃攻略のための兵站・出撃拠点として墨俣を極めて重要視し、ここに堅固な前線基地を設けたことは間違いない。この軍事的圧力は、常に国境を脅かされているという心理的負荷を斎藤方に与え続ける上で、絶大な効果を発揮した。

見えざる刃:西美濃三人衆への調略

軍事的な圧力をかけると同時に、信長は水面下で巧みな調略活動を展開していた。その最大の標的が、斎藤家の屋台骨を支える重臣、稲葉一鉄(良通)、氏家卜全(直元)、そして安藤守就からなる「西美濃三人衆」であった 14 。彼らはいずれも土岐氏の時代から美濃に根を張る有力国人であり、その動向は美濃一国の趨勢を決定づける力を持っていた 21

信長は、主君・龍興への不満と斎藤家の将来への不安を募らせていた彼らに接近し、内応工作を進めた。これは単なる裏切り行為の教唆ではない。信長の圧倒的な軍事力を背景に、彼らにとって斎藤家に殉じるよりも織田方につくことが、自らの家名を保つための最も現実的な選択肢であることを理解させた、高度な政治交渉であった。この調略の成功は、稲葉山城攻略の難易度を劇的に引き下げた。外部からの攻撃と同時に、城の守備を担うべき中核が内部から崩壊することが約束されたからである。この「圧力と懐柔」「軍事と政治」を巧みに組み合わせた複合的アプローチこそが、信長の真骨頂であり、難攻不落の城を短期決戦で陥落させることを可能にした最大の要因であった。

第三章:落日の刻 — 稲葉山城攻略、永禄十年八月の詳細な時系列

永禄十年(1567年)八月、信長の周到な準備はついに結実の時を迎える。この月の出来事は、物理的な戦闘よりも、「時間」と「情報」を支配したことによる心理戦の様相を色濃く呈していた。『信長公記』の記述を基軸に、稲葉山城が陥落に至るまでの詳細な時系列を再現する。

稲葉山城攻略戦 核心的タイムライン(永禄十年八月)

日付(永禄10年)

織田軍の動向

斎藤軍・城内の状況

典拠史料・備考

八月朔日(1日)

西美濃三人衆からの内応申し入れを受諾。人質受領の使者として村井貞勝らを派遣。

西美濃三人衆、信長への内応を最終決定し、人質提出を申し出る。

『信長公記』 22

八月上旬(日付不明)

人質の到着を待たず、突如として全軍に出陣命令。木曽川を渡り美濃へ電撃的に侵攻。

織田軍の予期せぬ侵攻に大混乱。「敵か味方か」と判別できず、初動が完全に遅れる。

『信長公記』 14

同日

稲葉山城に隣接する瑞龍寺山に布陣。城下町に放火し、城を裸城(孤立無援の状態)にする。

城下から火の手が上がり、外部との連絡・補給路を断たれ、城兵の士気は大きく低下する。

『信長公記』 20

翌日〜八月十四日

城の四方を鹿垣(仮設の柵)で幾重にも包囲し、物理的な封鎖を完成させる。

籠城を余儀なくされるも、脱出も反撃も不可能な状態に陥り、抵抗の意志を完全に削がれる。

『信長公記』 24

八月十五日(15日)

包囲を継続。斎藤方の降伏を受け入れ、城を接収。戦闘らしい戦闘はほぼ発生せず。

斎藤龍興、舟で長良川を下り伊勢長島へ脱出。城兵は戦わずして降伏し、開城。

『信長公記』 8

時系列に沿った詳細解説

八月朔日(1日):決断の時

この日、西美濃三人衆から「信長公の味方に参じるので、その証として人質をお受け取りください」との正式な申し入れが信長のもとに届いた 22。信長はこれを受諾し、村井貞勝と島田秀満を人質受領の使者として西美濃へ派遣する。しかし、これはあくまで表向きの儀礼的な手続きに過ぎなかった。信長の心中では、すでに次の一手が決まっていた。

八月上旬:電光石火の進軍

『信長公記』は、この時の信長の行動を「未だ人質も参らず候に、俄かに御人数出だされ」と記している 23。人質の到着を待つという当時の常識を完全に無視した、まさに電光石火の出陣であった。この常識外れの速度こそが、信長の最大の武器であった。予期せぬ大軍の出現に、斎藤方は「敵か味方か」と判別すらできず、組織的な抵抗を行うための「時間」を完全に奪われた 4。

包囲網の形成:心理的・物理的圧迫

織田軍は一切の躊躇なく進軍し、稲葉山城の峰続きである瑞龍寺山に布陣した 14。これは、敵の喉元に刃を突きつけるに等しい威圧的な行動であった。さらに信長は、城下町に火を放つ。これは単なる破壊活動ではない。城の兵站線を断ち、城兵の家族が住む町が燃える様を見せつけることで士気をくじき、城を完全に孤立させるための、極めて効果的な心理戦であった 23。翌日には、城の四方を鹿垣で厳重に包囲し、物理的な封鎖を完成させた 24。視覚的な情報による絶望的なメッセージと、物理的な完全包囲。これにより、城内の抵抗意欲は完全に粉砕された。

八月十五日(15日):落城と敗走

包囲開始からわずか半月後の八月十五日、斎藤龍興はもはや抵抗は不可能と悟り、舟で長良川を下って伊勢長島へと脱出した 8。主を失った城兵は降伏し、難攻不落を誇った稲葉山城は、大規模な戦闘を経ることなく信長の手に落ちた。信長は兵力や兵器といった物理的なリソースではなく、時間と情報という非物理的なリソースを巧みに操ることで、この偉業を成し遂げたのである。それは、彼の戦術が極めて近代的であったことを如実に物語っている。

第四章:天下布武の産声 — 岐阜の誕生と信長の野望

稲葉山城の攻略は、単なる一地方の制圧に終わらなかった。この軍事的勝利を契機として、織田信長は自らの政治的ビジョンを天下に宣言し、「戦国大名」から「天下人」へと大きく飛躍する。それは、地名の改称と新たな印判の使用という、極めて象徴的な形で行われた。これは、自らの支配の正統性を構築するための、高度な「政治的ブランディング戦略」であった。

「井口」から「岐阜」へ:地名に込められた壮大な意図

美濃を平定した信長は、本拠地を尾張の小牧山城から稲葉山城へと移した 25 。そして、この地の名称を古くからの「井口(いのくち)」から、新たに「岐阜」へと改めたのである 3

この「岐阜」という名は、信長の教育係ともいえる禅僧・沢彦宗恩の進言によるものとされている 28 。その由来は、中国の古典に求められる。まず「岐」の字は、古代中国で周の文王が拠点とし、殷王朝を打倒して天下統一を成し遂げた聖地「岐山」にちなむ 29 。そして「阜」の字は、儒教の祖である孔子の生誕地「曲阜」に由来する 30

つまり信長は、この改名を通じて、自らを周の文王になぞらえ、武力によって天下の争乱を平定する(岐山)だけでなく、孔子の教えのような徳による文治政治を行う(曲阜)という、壮大な政治理念を表明したのである。これは、自らの行動を単なる領土拡大ではなく、歴史的な偉業と結びつけて正統性を付与しようとする、卓越した政治的感覚の現れであった。

「天下布武」朱印の使用開始:その真意を探る

岐阜への拠点移転とほぼ時を同じくして、信長は「天下布武」と刻まれた朱印を公式に用い始める 4 。この四文字は、一般的に「武力をもって天下を統一する」という、信長の野心をストレートに表現したものと解釈されてきた。

しかし近年の研究では、この言葉に込められたより深い意味が注目されている。その鍵となるのが「七徳の武」という思想である 28 。中国の古典『春秋左氏伝』に見えるこの思想は、真の「武」とは、暴力を禁じ、戦争を止め、民を安心させ、衆を和し、財を豊かにすることなど、七つの徳を備えたものであると説く 31 。また、「武」という漢字自体が「戈(ほこ)」を「止める」と分解できることから、「武力を用いて争いを止めさせる」という意味が本来備わっている 32

このことから、「天下布武」とは、単なる武力による支配の宣言ではなく、「七徳の武を天下に布き、争乱の世を終わらせて平和な秩序を構築する」という、より高度な統治理念の表明であった可能性が高い。信長は、このスローガンを掲げることで、自らの戦いを私利私欲のためのものではなく、天下泰平を実現するための「正義の戦い」へと昇華させたのである。

新たな本拠地の確立と畿内進出への加速

美濃平定により、信長は尾張と美濃にまたがる広大で肥沃な濃尾平野を完全に掌握し、その経済的・軍事的な基盤は飛躍的に強化された。そして、京に近接する戦略拠点「岐阜」を得たことで、信長の視線は明確に「天下」、すなわち畿内に向けられることになった 3 。稲葉山城攻略は、信長の天下統一事業が、まさにここから本格的に始動したことを告げる号砲だったのである。

終章:その後の軌跡 — 龍興の流転と半兵衛の選択

稲葉山城の陥落は、織田信長の天下取りへの道を大きく開いた一方で、この戦いに関わった者たちの運命を大きく変えた。旧勢力の滅亡は、有能な人材が新たな活躍の場を求めて新興勢力へと吸収される「人材の流動化」を加速させ、戦国時代のダイナミズムを象徴する出来事となった。

抗う者:斎藤龍興の執念と最期

美濃を追われた斎藤龍興は、決して再起を諦めなかった。彼は伊勢長島の一向一揆に身を寄せ、その後も三好三人衆や朝倉義景らと結び、反信長勢力の一員として執拗に抵抗を続けた 5 。旧来の権威と家名の回復に固執した龍興は、信長包囲網という枠組みの中で戦い続けたが、時代の大きな潮流に抗うことはできなかった。天正元年(1573年)、越前・刀根坂の戦いにおいて朝倉軍の一員として奮戦するも、織田軍の前に敗れ、26歳(または27歳)の若さでその生涯を閉じた 25 。彼の流転の人生は、失われた権威を取り戻そうとした者の悲劇として幕を閉じた。

待つ者:竹中半兵衛の新たな道

一方、斎藤家を見限り、一時は隠棲していた竹中半兵衛の元には、新たな時代の担い手からの誘いが届く。信長は半兵衛の類稀なる知略を高く評価し、家臣の豊臣秀吉に勧誘を命じた 34 。秀吉が三度も半兵衛の庵を訪ねて礼を尽くしたという「三顧の礼」の逸話は、後世の創作である可能性が高いものの 35 、秀吉が彼の才能を渇望し、破格の待遇で参謀として迎えたことは事実である 9

斎藤家という旧来の「所属」から解放された半兵衛は、家柄よりも実力を重んじる織田家、そして秀吉のもとでその才能を完全に開花させる。彼は秀吉の軍師として数々の戦功を挙げ、後の秀吉による天下統一事業に不可欠な存在となった 38 。斎藤家の滅亡は、皮肉にも半兵衛という卓越した才能を「人材市場」に放出し、それを的確に登用した新興勢力がさらに強大化するという、戦国時代の実力主義への移行を象徴する結果をもたらした。

結論:戦国史に刻んだ不滅の意義

永禄十年(1567年)の稲葉山城攻略は、単なる一城の攻防戦ではない。それは、織田信長が尾張・美濃という強固な地盤を得て、その政治理念「天下布武」を掲げ、天下統一事業を本格的に始動させた、疑いようのない歴史的転換点であった。

斎藤家の滅亡は、旧来の権威や家柄だけでは生き残れない戦国乱世の厳しさを示し、信長の勝利は、革新的な戦略と実力が時代を動かすことを証明した。この一戦は、その後の日本の歴史の潮流を決定的に変え、新たな時代への扉を開いたのである。

引用文献

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  4. 稲葉山城の戦い古戦場:岐阜県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/inabayamajo/
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  9. 竹中半兵衛は何をした人?「稲葉山城を16人で奪った天才軍師が秀吉を出世させた」ハナシ https://busho.fun/person/hanbee-takenaka
  10. 【信長の野望 新生 PK】もし竹中半兵衛が稲葉山城を兵1万の大軍で乗っ取って返さなかったらどうなるのか!? AI観戦【ゆっくり実況】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=_VttjLtfcWs
  11. 織田信長も失敗した難攻不落の城を1日で?若き竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取った驚きの理由 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/104953/
  12. 岩手氏から竹中氏へ - 垂井町 https://www.town.tarui.lg.jp/uploaded/attachment/4301.pdf
  13. まるで婦人のような優男! 織田信長が惚れ込んだ戦国時代の天才軍師「竹中重治」の逸話【後編】 https://mag.japaaan.com/archives/234016
  14. 稲葉山城の戦い(2/2)織田信長が美濃を制覇 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/156/2/
  15. 信長を苦しめた斎藤龍興と、知られざる猛将・岸信周、信房親子「美濃平定」 - 草の実堂 https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/50743/
  16. 墨俣一夜城とは?豊臣秀吉の出世伝説を紐解く - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/building/sunomartaichiyajo/
  17. 信長の美濃侵略を味わう墨俣城の地形 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/7350
  18. 第79回 墨俣一夜城は本当にあったのか? それを考えながら行ってみるのも一興かと https://nobunaga.blog/?p=203
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