竹田城の戦い(1580)
竹田城の戦い(1580)は、羽柴秀吉の中国経略における但馬平定戦。太田垣輝延は織田軍の圧倒的兵力と三木城の悲惨な末路を目の当たりにし、無血開城。
天正八年 但馬国・竹田城の戦い ― 羽柴秀吉の中国経略、天空の要害陥落の刻―
序章:天正八年、天下の趨勢
天正八年(1580年)、織田信長による天下統一事業は、最終段階を迎えつつあった。この年を理解することは、但馬国(現在の兵庫県北部)の一山城である竹田城で起こった合戦の歴史的意義を把握する上で不可欠である。竹田城の戦いは、単なる一地方の局地戦ではなく、信長が描く天下平定という巨大な戦略構想の一部として展開された、必然の出来事であった。
織田信長の天下統一事業、最終段階へ
天正八年は、織田家にとって画期的な年であった。十年以上にわたり信長を苦しめ続けた石山本願寺との抗争が、正親町天皇の勅命を介した講和という形でついに終結したのである 1 。これにより、信長は畿内における最大の抵抗勢力を排除し、その軍事力を西方、すなわち中国地方に君臨する毛利氏の討伐へと、本格的に傾注することが可能となった。
この時期、信長政権は方面軍制度を確立しており、柴田勝家を北陸方面、滝川一益を関東方面、そして羽柴秀吉を中国方面の司令官に任じ、各方面の攻略を一任する効率的な支配体制を構築していた 3 。中でも、毛利氏と直接対峙する中国方面は、天下統一を完遂するための最重要戦線と位置づけられていた。
中国方面軍司令官・羽柴秀吉の躍進と播磨平定
中国方面軍の総帥に抜擢された羽柴秀吉は、天正五年(1577年)の着任以来、得意の調略と粘り強い戦術を駆使して、播磨国(現在の兵庫県南西部)の平定を着実に進めていた 4 。そして天正八年一月、二年近くに及んだ三木城への兵糧攻めが、城主・別所長治一族の自刃という壮絶な結末をもって終結する 1 。これにより、秀吉は播磨一国を完全に掌握し、毛利氏との直接対決に向けた一大拠点を確保した。
三木城の落城は、単に播磨一国が織田家の支配下に入った以上の、深刻な意味を持っていた。播磨の名門であり、毛利氏の支援を受けて頑強に抵抗した別所氏が、補給路を完全に遮断され、餓死者が続出する地獄絵図の果てに滅亡したという事実は、西国の諸勢力に対して強烈な心理的圧迫を与えた。それは、「織田に逆らえば、いかなる名門であろうと、家臣や領民に至るまで徹底的に滅ぼされる」という、織田軍の非情さと作戦遂行能力を見せつける「見せしめ」であった。天正八年春の時点で、隣国である但馬の国衆たちは、織田家と戦うことの現実的な結末を目の当たりにしていたのである。この恐怖は、後の但馬平定戦において、彼らの戦意を著しく削ぐ要因となったことは想像に難くない。
対毛利戦線の最前線、但馬国の戦略的価値
但馬国は、織田家の勢力圏である播磨・丹波と、毛利家の勢力圏である因幡・伯耆の間に位置する、まさに戦略的緩衝地帯であった。この地を制圧することは、毛利氏の本拠地たる安芸国へ侵攻するための進撃路を確保すると同時に、織田軍の背後(丹波方面)の安全を保障する上で極めて重要であった。
さらに、但馬南部に位置する生野銀山は、当時日本有数の鉱山であり、その経済的価値は計り知れない。この銀山を確保することは、織田家の財政基盤を一層強固にし、長期にわたる遠征を可能にするための重要な要素でもあった 7 。軍事的にも経済的にも、但馬の平定は、秀吉の中国経略における次なる一手として、絶対不可欠な作戦だったのである。
本報告書では、この合戦に関わる主要な人物の動向を明確にするため、以下に関係者一覧を提示する。
表1:竹田城の戦い 主要関係者一覧
勢力 |
人物名 |
役職・立場 |
天正八年時点での動向 |
織田方 |
織田信長 |
右大臣・右近衛大将 |
天下統一事業の総指揮者。対毛利戦線を最重要課題とする。 |
|
羽柴秀吉 |
中国方面軍司令官 |
播磨を平定し、但馬・因幡攻略の指揮を執る。 |
|
羽柴秀長 |
秀吉の弟・部将 |
但馬侵攻軍の実質的な総大将。竹田城・有子山城を攻略。 |
|
桑山重晴 |
秀吉の部将 |
竹田城開城後、初代城代として入城。 |
山名・太田垣方 |
山名祐豊 |
但馬守護 |
毛利氏と同盟を結び織田家に反抗するも、有子山城で敗北し病没。 |
|
太田垣輝延 |
竹田城主・山名氏重臣 |
第一次侵攻では抵抗するも、第二次侵攻では戦わずに降伏・没落。 |
毛利方 |
毛利輝元 |
安芸国等の領主 |
織田家と全面対決。但馬の山名氏らを支援するが、救援は間に合わず。 |
|
吉川元春 |
輝元の叔父・毛利氏重臣 |
山陰方面の軍事を担当。山名氏との同盟を主導。 |
第一章:動乱の但馬 ― 織田と毛利の狭間で
羽柴秀吉の軍勢が但馬国へと侵攻する以前、この地は織田と毛利という二大勢力の狭間で激しく揺れ動いていた。名門守護家の衰退と、それに伴う国衆たちの苦悩と離反が、外部勢力の介入を招く土壌を形成していたのである。
名門守護・山名氏の衰退と当主・山名祐豊の苦悩
室町時代、日本の六分の一の国を支配したことから「六分の一殿」と称された名門・山名氏も、戦国乱世の荒波の中でその勢力を大きく減退させていた 8 。但馬守護であった山名祐豊は、弱体化した家勢を維持するため、畿内から急速に勢力を拡大する織田信長と、中国地方に覇を唱える毛利輝元という二大勢力の間で、極めて難しい舵取りを迫られていた 9 。
当初、祐豊は信長の上洛(永禄十一年、1568年)以降、織田家に恭順する姿勢を見せていた。しかし、毛利氏の勢力が山陰地方から但馬へと及んでくると、領国を維持するために毛利方へと傾斜せざるを得なくなる。天正三年(1575年)頃には、毛利氏との同盟(芸但同盟)を締結し、明確に反織田の旗幟を鮮明にした 11 。この祐豊の「裏切り」とも言える外交方針の転換が、信長の怒りを買い、但馬侵攻を決定づける直接的な原因となったのである。
但馬国衆が毛利方へと与した背景には、単なる軍事バランスの問題だけではなく、より複雑な経済的・地政学的な要因が絡み合っていた。但馬は日本海に面しており、海運を通じて毛利領と経済的に強く結びついている勢力、例えば垣屋氏などが存在した 11 。彼らにとって、毛利氏との関係を維持することは、交易上の死活問題であった。一方で、生野銀山に近い竹田城を領する太田垣氏などは、鉱山利権を巡って織田氏と対立していた可能性も指摘されている 11 。主君である山名祐豊は、こうした家臣団の異なる利害をまとめきれず、結果として国全体が毛利方へと流されていった。この内部の不統一と、経済的利害に基づく複雑な関係性が、後に羽柴軍の調略や分断工作を容易にした一因と考えられる。
山名四天王・太田垣氏と竹田城主・太田垣輝延
太田垣氏は、垣屋氏、八木氏、田結庄氏と並び「山名四天王」と称される、山名家譜代の重臣であった 12 。彼らは守護・山名氏を支える有力国人として、但馬国内で大きな影響力を持っていた。
天正八年の合戦当時、竹田城主の座にあったのは太田垣輝延(てるのぶ)である 7 。彼は主家である山名氏の決定に従い、毛利方として織田軍と対峙する立場にあった。輝延は単に城を守るだけの城主ではなく、山名祐豊の命を受けて因幡の武田高信と戦うなど、山名家の中核を担う武将として活動していた記録も残っている 15 。彼の決断は、竹田城のみならず、但馬国全体の趨勢に影響を与えるものであった。
第二章:天空の要害 ― 戦国期における竹田城の構造
合戦の舞台となった竹田城は、しばしば「天空の城」と称されるが、天正八年(1580年)当時の姿は、現在我々が目にする壮麗な石垣の城郭とは大きく異なっていた。当時の城の構造を正しく理解することは、太田垣輝延が下した決断の背景を探る上で極めて重要である。
播磨・丹波・但馬の結節点としての地政学的重要性
竹田城は、標高353.7メートルの古城山山頂に位置し、その立地自体が天然の要害をなしていた 16 。南の播磨、東の丹波からの侵攻路を直接見下ろすことができるこの地は、但馬防衛における最重要拠点の一つであった 17 。特に、織田軍の主たる進撃路となる播磨からのルートを扼する竹田城の戦略的価値は、計り知れないものがあった。
太田垣氏時代の縄張り ― 中世山城としての防御機能
現在、竹田城跡を訪れる者を圧倒する総石垣の威容は、天正八年の落城後、豊臣政権下で城主となった赤松広秀によって、文禄年間(1592年~)以降に整備されたものである 16 。したがって、太田垣輝延が守っていた1580年時点の竹田城は、石垣を主たる防御施設とする近世城郭ではなく、土を主材料とした中世山城であったと考えるのが妥当である。
当時の防御の中心は、土を削り固めて築いた土塁、尾根筋を人工的に断ち切って敵の移動を阻む堀切、そして山の斜面を削って急峻な壁とする切岸であった 20 。もちろん、部分的に石を積んだ「野面積み」の石垣が用いられていた可能性は否定できないが、城全体の構造は、あくまで「土の城」としての性格が強かった 13 。本丸を中心に三方へ曲輪が放射状に伸びるという、現在の縄張りの基本骨格は当時から存在したと考えられるが、その防御設備はより素朴なものであった。
この中世山城としての構造は、同時代の大規模な攻城戦、特に織田軍が得意とする大量の鉄砲を用いた集団戦術に対しては、構造的に脆弱であったと言わざるを得ない。中世山城の防御思想は、険しい地形そのものを最大の防御とし、小規模な部隊による侵攻を食い止め、籠城によって時間を稼ぎ、援軍の到着を待つというものであった。しかし、織田軍は鉄砲の集中運用に加え、兵站を維持しての大規模かつ長期間の包囲戦を得意としていた。三木城攻めがその好例である。土塁や木柵を中心とした防御施設は、鉄砲の斉射に対しては限定的な効果しか持たず、大軍による完全な包囲網が敷かれれば、いかに険しい山城でも補給は途絶え、孤立は免れない。
太田垣輝延自身、この事実を誰よりも痛感していたはずである。なぜなら彼は、後述する天正五年(1577年)の第一次但馬侵攻において、羽柴秀長軍が用いた鉄砲三百挺による猛攻の前に、一度降伏を余儀なくされているからだ 7 。輝延は、自らの居城の防御能力の限界と、織田軍の圧倒的な攻撃力の高さを、身をもって知っていた。この三年前の苦い経験こそが、天正八年における彼の決断の重要な伏線となっているのである。
第三章:第一次但馬侵攻(天正五年)― 序章としての攻防
天正八年の竹田城開城を「戦わずしての降伏」と結論づける前に、その三年前、天正五年(1577年)に起こった出来事に目を向ける必要がある。この第一次但馬侵攻における攻防と、その後の意外な展開は、太田垣輝延の心理と、織田家との力関係を理解する上で欠かせない序章である。
羽柴秀長による最初の侵攻と竹田城攻防戦
天正五年、播磨平定を進める羽柴秀吉は、弟の羽柴秀長(当時は木下小一郎と名乗っていた)に一軍を預け、但馬へと侵攻させた 7 。その目的は、毛利方についた但馬国衆の制圧と、生野銀山の確保にあった。
信頼性の高い史料である『信長公記』には、この時の様子が簡潔に記されている。それによれば、秀長軍はまず岩洲城を攻略し、その勢いのままに「小田垣(太田垣)楯籠る竹田へ取懸り、是又退散」させたとある 7 。この記述から、竹田城で籠城戦が行われ、結果的に太田垣輝延が城を放棄、あるいは降伏したことが確認できる。
一方、史料的価値には議論があるものの、より具体的な戦闘の様子を伝えているのが『武功夜話』である。同書によれば、輝延は竹田城の険しい地形を最大限に活用し、岩石を投げ落とすなどして激しく抵抗した。しかし、秀長軍はそれをものともせず、諸方面から鉄砲三百挺を揃えて一斉に撃ちかけたため、輝延はついに抗しきれず降参し、城を明け渡したとされている 7 。この記述が事実であれば、第一次侵攻において、輝延は決して無抵抗だったわけではなく、激しい攻城戦の末に敗れたことになる。
一時的な降伏と、輝延による城の奪還
落城後、秀長は竹田城の城代として一時的に在城するが、すぐに明智光秀が指揮する丹波攻略戦を支援するため、城を離れることになった 7 。
この秀長の不在こそが、輝延にとって千載一遇の好機となった。毛利方としての立場を崩していなかった輝延は、秀長が城を離れた隙を突き、竹田城を奪還することに成功するのである 7 。この輝延による城の奪還は、当時の但馬における織田家の支配が、まだ表層的で磐石ではなかったことを象徴している。秀長が城をすぐに離れたのは、但馬平定が未完了であり、より優先度の高い丹波戦線への増援が必要だったためであり、織田軍とてそのリソースは有限であった。輝延が城を奪還できたのは、秀長が残した守備兵が少数であったことに加え、地元の地理や人脈を熟知していた輝延に地の利があったからであろう。
しかし、この成功体験は、輝延にとって諸刃の剣であった。それは、織田家、特に執念深い性格で知られる秀吉に対して、輝延を「一度降伏しておきながら、再び裏切った許されざる敵」として明確に認識させる結果となった。天正八年の第二次侵攻が、単なる制圧作戦ではなく、輝延個人に対する「懲罰」的な意味合いを帯びることになったのは、この奪還劇が直接的な原因であると考えられる。
第四章:第二次但馬侵攻(天正八年)― 但馬平定戦のリアルタイム再現
天正八年春、播磨を完全に手中に収めた羽柴秀吉は、満を持して但馬平定作戦を発動する。ここからは、月日を追いながら、羽柴軍の電撃的な進撃と、それに伴う但馬勢力の崩壊、そして竹田城が無血開城に至るまでの過程を、時系列で再現する。
表2:但馬平定戦 関連年表(天正八年)
年月日(旧暦) |
出来事 |
関連史料・情報 |
備考 |
天正8年1月17日 |
三木城落城 。別所長治自刃。 |
1 |
播磨平定が完了。秀吉軍が但馬へ転用可能になる。 |
天正8年4月 |
羽柴秀長、第二次但馬侵攻を開始 。 |
11 |
播磨から朝来郡へ進軍したと推定される。 |
天正8年5月上旬 |
岩洲城など、但馬南部の諸城が次々と陥落。 |
7 |
羽柴軍の電撃的な進撃。 |
天正8年5月16日 |
有子山城落城 。 |
1 |
但馬守護・山名氏の本拠地が陥落。 |
天正8年5月21日 |
山名祐豊、城内で病没。 |
11 |
但馬国の求心力が完全に失われる。 |
天正8年5月下旬 |
竹田城、無血開城 。太田垣輝延は降伏・逃亡。 |
7 |
戦闘は行われず、太田垣氏による支配が終焉。 |
天正8年5月以降 |
桑山重晴が竹田城代に就任。 |
25 |
織田方の支配体制が確立。 |
天正8年5月 |
(並行して)秀吉本隊、因幡へ侵攻。鹿野城を攻略。 |
1 |
但馬平定が、即座に次の因幡攻略作戦へと繋がる。 |
【卯月(4月)】進軍開始
三木城での過酷な戦いを終え、播磨の戦後処理に一定の目途をつけた秀吉は、弟の秀長に但馬攻略の全権を委ね、大軍を派遣した 11 。軍勢は播磨から但馬への最短経路である生野峠を越え、朝来郡へと雪崩れ込んだ。三木城での勝利の勢いをそのままに、将兵の士気は最高潮に達していた。彼らの進軍を阻むものは、もはや但馬には存在しなかった。
【皐月(5月)上旬】雪崩を打つ戦線
秀長軍は、但馬南部の玄関口にあたる諸城に猛攻を加えた。第一次侵攻の際に一度は落とされた岩洲城などが、再び抵抗する間もなく、次々と制圧されていく 7 。隣国・播磨の名門、別所氏の悲惨な末路を伝え聞いていた但馬の国衆たちは、織田の大軍を前にして完全に戦意を喪失していた。城を捨てて逃亡する者、戦わずして降伏する者が続出し、但馬の防衛戦線は、まさに雪崩を打ったかのように崩壊していった。
【皐月十六日(5月16日)】但馬の盟主、墜つ
秀長軍の最終目標は、但馬守護・山名祐豊が籠る出石の有子山城であった。秀長は進撃の手を緩めることなく、但馬国の府城たる有子山城に総攻撃を敢行する。山名軍も最後の意地を見せて奮戦するが、圧倒的な兵力差と、破竹の勢いで進撃してくる織田軍の前に持ちこたえることはできなかった。ついにこの日、有子山城は陥落する 1 。当主・山名祐豊は、落城からわずか五日後の二十一日、失意のうちに城内で病没したと伝えられる 11 。これにより、但馬国を束ねるべき精神的支柱は、完全に失われた。
【皐月下旬】竹田城、孤立無援の刻
有子山城の落城と、主君・山名祐豊死去の報は、絶望的な知らせとなって竹田城の太田垣輝延のもとへ届いた。主家は滅び、但馬の諸城は軒並み織田軍の手に落ちた。期待していた毛利からの援軍が来る気配は全くない。北からは有子山城を落とした秀長の本隊が、南からは播磨からの別動隊が迫り、竹田城は完全な孤立状態に陥った。
【日付不詳】下された決断 ― 無血開城
太田垣輝延の前に残された選択肢は、もはや二つしか無かった。城を枕に討死し、武士としての名誉を全うするか。あるいは、降伏して一族と領民の命を繋ぐか。
彼は三年前の苦い経験から、織田軍の鉄砲隊の威力を熟知していた。また、隣国で二年近くも抵抗を続けた別所氏が、一族郎党もろとも無残な最期を遂げたことも知っていた。そして今、忠誠を誓うべき主君の山名氏も滅びた。もはや、誰のために、何のために戦うのか、その大義名分すら失われていた。
これらの絶望的な状況を冷静に分析した結果、輝延は抵抗を断念。秀長軍に対し、城を明け渡すことを決断した。史料が「さしたる抵抗もせずに降伏」と記す通り、天正八年の竹田城「落城」は、激しい戦闘を伴わない、圧倒的な軍事的・政治的状況が生んだ必然の帰結であった。輝延は城を明け渡した後、播磨方面へ落ち延びたとされている 30 。
第五章:戦後処理と戦略的帰結
竹田城の無血開城は、但馬平定戦の終結を象徴する出来事であった。この一戦が、但馬国、そして秀吉が推し進める中国方面全体の戦局に与えた影響は計り知れない。
太田垣氏の没落と織田支配体制の確立
この降伏により、嘉吉年間(1441-43年)以来、約130年以上にわたってこの地を治めてきた太田垣氏による竹田城支配は、完全に終焉を迎えた 7 。輝延の没落は、但馬における旧来の支配体制が崩壊したことを意味していた。
戦後、竹田城には秀吉配下の桑山重晴が城代として入城し、織田政権による直接的な支配体制が確立された 13 。これにより、竹田城は山名氏配下の国人の城から、織田家の中国経略における前線基地へと、その性格を大きく変えることになる。
一方、但馬平定の最高指揮官であった羽柴秀長は、この戦功により信長から但馬七郡と播磨二郡を与えられ、旧主・山名氏の本拠地であった有子山城を居城とする十万石超の大大名へと躍進した 1 。
但馬平定の戦略的意義 ― 因幡への道
但馬一国を完全に勢力下に置いたことで、秀吉は後顧の憂いなく、次の戦略目標である因幡国(現在の鳥取県東部)へと兵を進めることが可能になった。丹波・但馬の国境に連なっていた反織田勢力の城砦線は完全に崩壊し、山陰口の安全が確保されたのである。
事実、但馬平定が完了した直後の天正八年五月から、秀吉本隊は間髪入れずに因幡へ侵攻し、毛利方の重要拠点である鳥取城への第一次攻撃を開始している 1 。この迅速な軍事展開は、但馬平定が単独の作戦ではなく、播磨から因幡、そして毛利本国へと至る、連続した中国経略の一環であったことを明確に示している。その意味で、竹田城の戦いは、秀吉が天下取りへの階を一段上るための、極めて重要な布石であったと言える。
終章:竹田城の戦いが残したもの
天正八年の竹田城の戦いは、一見すると戦闘すら行われなかった静かな出来事に見える。しかし、その背景には戦国乱世の終焉を告げる、時代の大きなうねりが存在した。
一国衆の時代の終焉
山名氏や太田垣氏のように、一国あるいは一郡という地域に深く根を張り、時には中央の権力に反抗し、時には従いながらも、一定の自立性を保ってきた「国衆」と呼ばれる在地領主の時代は、織田信長が推し進める強力な中央集権化政策の前に、終わりを告げようとしていた。太田垣輝延の無抵抗降伏は、個人の武勇や城郭の堅固さだけでは抗うことのできない、時代の不可逆的な変化を象徴する出来事であった。彼の決断は、旧来の価値観が通用しなくなった戦国末期の、一地方領主の苦悩と現実的な選択を物語っている。
戦いの城から見せる城へ
落城後、豊臣政権下で赤松広秀によって築かれた壮大な総石垣の城郭は、もはや在地領主が自らの身と領地を守るための「砦」ではなかった。それは、中央から派遣された新たな領主が、その権威を民衆に示威するための「象徴」であり、天下人の統治機構の一部としての「行政拠点」であった。竹田城の姿の変貌は、戦国乱世の終焉と、新たな統一政権による統治体制の到来を、静かに、しかし雄弁に物語る歴史の証人と言えるだろう。竹田城の戦いは、単なる城の受け渡しではなく、一つの時代が終わり、新しい時代が始まる転換点だったのである。
引用文献
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- 日本史/安土桃山時代 - ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-azuchimomoyama/
- 織田信長の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91113/
- 織田信長の家臣団まとめ。組織図・変遷・各方面軍団の顔ぶれなど。 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/202
- 【合戦解説】上月城の戦い 織田 vs 毛利 〜毛利軍に囲まれた上月城を救うべく羽柴秀吉は救援に向かうも…〜 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=UW0cSu4WjJY
- 国指定史跡 三木城跡及び付城跡・土塁 ウォーキングマップ - 三木市 https://www.city.miki.lg.jp/uploaded/attachment/46299.pdf
- 竹田城、雲海に浮かぶ天空の城の歴史〜いつ、誰がつくったのか ... https://hojo-shikken.com/entry/takedajyo
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