最終更新日 2025-08-25

第一次上田合戦(1585)

天正十三年、真田昌幸は徳川家康の7000の大軍を寡兵で撃退。偽装退却と城下町の罠、そして挟撃により徳川軍を翻弄し、真田家の名を天下に轟かせた。この勝利は、知略が武力を凌駕する戦国史の金字塔である。

第一次上田合戦(1585年)の徹底分析:戦国史に刻まれた知略の金字塔

序章:天正壬午の刻、動乱の信濃

天正10年(1582年)は、日本の戦国史において、一つの時代が終焉し、新たな動乱の時代が幕を開けた画期的な年であった。3月、織田信長による甲州征伐が完遂し、東国に一大勢力を誇った武田氏が滅亡。甲斐、信濃、上野にまたがる旧武田領は織田家の支配下に組み込まれた 1 。しかし、その安定は束の間のものであった。同年6月2日、天下統一を目前にした織田信長が、京都本能寺にて家臣・明智光秀の謀反により横死する。この「本能寺の変」は、中央集権の崩壊を意味し、日本全土、とりわけ旧武田領に巨大な「力の真空」を生み出した。

この権力の空白地帯を巡り、周辺の大名たちが一斉に行動を開始する。越後の上杉景勝、相模の北条氏直、そして三河の徳川家康が、旧武田領の覇権を賭けて信濃、甲斐、上野へと雪崩を打って侵攻したのである 1 。世に言う「天正壬午の乱」の勃発である。この未曾有の混乱期において、信濃や上野の国衆(在地領主)たちは、自らの家と領地を存続させるため、いずれかの大勢力に属するという過酷な選択を迫られた。

この激動の渦中にあったのが、信濃小県郡を本拠とする真田昌幸であった。武田信玄にその才を見出され、「我が両眼の如し」とまで言わしめた知将は、この存亡の機に驚くべき政治的嗅覚と行動力を見せる。当初は織田家臣・滝川一益に属していたが、一益が神流川の戦いで北条氏に大敗し関東から撤退すると、地理的に最も脅威となる北条氏に一時的に従属。しかし、それも束の間のことで、甲斐・南信濃を平定し旧武田家臣団の新たな受け皿となりつつあった徳川家康の麾下へと、間を置かずに鞍替えした 1

この目まぐるしい主君の変更は、一見すると単なる日和見主義や裏切りと映るかもしれない。しかし、その行動原理の根底には、大国の狭間で独立を維持しようとする小領主としての、極めて合理的かつ冷徹な「生存戦略」が存在した。昌幸の行動は、常に「真田家の領土保全と独立性の維持」という一貫した目的に貫かれていた。大義名分よりも実利と存続を優先するこの姿勢は、戦国乱世のリアリズムを体現するものであり、後に豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評されることになる彼の生き様の原点が、この天正壬午の乱における巧みな立ち回りに見て取れるのである。

第一章:亀裂 ― 沼田領問題と徳川からの離反

天正壬午の乱は、徳川・北条間の和睦によって一応の終結を見る。しかし、この和睦こそが、真田昌幸と徳川家康の間に修復不可能な亀裂を生じさせ、第一次上田合戦の直接的な引き金となった。和睦の条件として、徳川が確保した甲斐・信濃の領有を北条が認める見返りに、徳川は真田昌幸が支配する上野国沼田領を北条氏へ引き渡すという密約が交わされたのである 1

天正13年(1585年)、家康から沼田領の引き渡しを正式に命じられた昌幸は、これを断固として拒絶する。彼の反発には、明確かつ正当な論理があった。第一に、沼田領は家康から与えられた土地(拝領地)ではなく、真田家が自らの知略と武力をもって、再三にわたり北条氏の攻撃を退けて確保・維持してきた土地であるという自負であった 5 。第二に、現場の領主の意向を無視し、大名同士の都合だけで領地を勝手に割譲する「国分」という行為そのものへの強い反発があった 5 。これらに加え、沼田には真田家代々の墓があるという情に訴える主張もなされたが、これは交渉を有利に進めるための戦術的な口実であった可能性も指摘されている 5

ここに、一つの歴史的な皮肉が存在する。後の合戦の舞台となり、徳川の大軍を撃退することになる難攻不落の城・上田城は、もともと対上杉の拠点として、徳川家康の命令と資金援助によって築城が開始されたものであった 1 。家康にしてみれば、沼田引き渡しの見返りの一つという意図があったかもしれないが、昌幸にとっては徳川の資金で自らの本拠地を盤石にする絶好の機会となった。結果的に家康は、自らが築城を命じた城で手痛い反撃を受けることになり、この経緯が彼の怒りを一層増幅させることになった 9

徳川との決裂が不可避と判断した昌幸は、新たな活路を外交に求めた。彼が目を付けたのは、それまで敵対関係にあった越後の上杉景勝であった。徳川・北条という二大勢力に挟撃されることを避けるため、昌幸は上杉という新たな「後ろ盾」を確保するという大胆な外交転換を図る 9 。そして、その臣従の証として、天正13年(1585年)7月、次男の真田信繁(後の幸村)を人質として越後へ送った 9 。この時点で、昌幸の徳川からの離反は決定的となった。

この一連の動きは、単に沼田領問題への反発という局地的な理由に留まるものではなかった。当時の天下の情勢は、小牧・長久手の戦いを経て、羽柴秀吉がその覇権を確立しつつある時期であった。昌幸は、徳川から離反し上杉に付くことで、自動的に「反徳川・反北条」陣営、すなわち秀吉が主導する天下統一の潮流に乗ることを意味すると正確に理解していた 10 。事実、昌幸は上杉に従属する以前から、秀吉への接近を水面下で図っていた形跡も確認されている 15 。したがって、昌幸の離反は、旧来の勢力である徳川・北条連合を見限り、天下の新たな覇者となるであろう羽柴(豊臣)陣営に未来を賭けた、極めて高度な戦略的判断であった。沼田領問題は、その壮大な戦略を実行に移すための、格好の口実となったのである。

第二章:両軍の対峙 ― 兵力、編成、そして戦略

徳川家康は、昌幸の離反を知るや、直ちに真田討伐軍の派遣を決定した。天正13年(1585年)8月、両軍は上田盆地を挟んで対峙することになる。その戦力と編成には、後の勝敗を予見させる著しい差異が存在した。

徳川軍の編成と兵力

徳川軍の総兵力は、約7,000から7,800名に達したと記録されている 1 。これは、真田軍の三倍以上という圧倒的な物量であった。しかし、その内実には構造的な脆弱性を抱えていた。まず、明確な総大将が置かれず、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉といった徳川譜代の重臣たちによる集団指導体制が採られた 1 。これは、指揮系統の統一性を欠き、迅速な意思決定を妨げる要因となり得た。さらに深刻だったのは、その兵員構成である。徳川譜代の精鋭に加え、諏訪頼忠、保科氏、小笠原氏ら、天正壬午の乱を経て徳川に服属して間もない信濃の国衆が多く含まれる「寄せ集め」の軍勢であった 18 。彼らの忠誠心や士気は一様ではなく、手柄を焦る一方で、劣勢になれば容易に戦意を喪失する危険性を内包していた。

真田軍の編成と兵力

対する真田軍の総兵力は、わずか1,200から2,000名程度であった 1 。兵力数では絶望的な劣勢にあったが、その編成と戦略は極めて合理的かつ洗練されていた。指揮は真田昌幸が一手に掌握し、一族・家臣団は固い結束で結ばれていた。昌幸は、この寡兵を最大限に活かすため、巧みな兵力配置を行った。

  • 上田城(本城): 総大将・真田昌幸が自ら籠城し、全軍の指揮を執る 1
  • 戸石城(支城): 長男・真田信幸が約300の兵を率いて守備。上田城の背後を固めると同時に、戦況に応じて敵の側面や背後を突く「遊軍」としての役割を担った 3
  • 矢沢城(支城): 昌幸の従兄弟である矢沢頼綱(あるいは頼康)が守備し、防衛網の一角を担った 1
  • 沼田城(上野国): 叔父の矢沢頼綱が、徳川と連携して侵攻してくるであろう北条軍に備えた 1

また、同盟を結んだ上杉景勝は、領内の反乱(新発田重家の乱)への対応に追われ、大規模な援軍を派遣することはできなかった。しかし、象徴的に少数の兵(一説には老人や若輩も含まれたという)を派遣し、上田城近郊の虚空蔵山城などに布陣させた 18 。これは直接的な戦力以上に、徳川軍に対して「真田の背後には上杉本隊が控えている」という心理的な圧力を与える上で、大きな効果を発揮した。

昌幸の防衛戦略は、単一の城に全軍で籠もる「点」の防衛ではなかった。上田城を敵を誘引し殲滅する「罠」と位置づけ、戸石城や矢沢城といった支城と有機的に連携させた「面」の防衛、すなわち「城郭ネットワークシステム」を構築したのである。特に、戸石城に信幸率いる別動隊を配置したことは、この戦略の要であった。これにより、徳川軍が上田城攻撃に兵力を集中させた瞬間に、背後や側面から奇襲をかけることが可能となった。これは、かつての主君・武田信玄が得意とした戦術の応用であり、昌幸が信玄から多くを学んだことを示している 11 。このネットワーク化された防衛体制こそが、寡兵で大軍を破るための鍵であり、戦術家・真田昌幸の真骨頂であった。

第一次上田合戦における両軍の編成比較

項目

徳川軍

真田軍

総兵力

約7,000名

約1,500 - 2,000名

総大将

不在(鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉による合議制)

真田昌幸

主要武将

鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉、柴田康忠

真田昌幸、真田信幸、矢沢頼綱、須田満親

兵員構成

徳川譜代兵 + 信濃国衆(寄せ集め)

真田一門・家臣団(結束が固い)

戦略目標

上田城の攻略と真田氏の討伐

上田城を中心とした防衛網による徳川軍の撃退

強み

圧倒的な兵力数

統一された指揮系統、地の利、堅固な城郭ネットワーク

弱み

指揮系統の不統一、兵員の士気のばらつき

圧倒的な兵力差

第三章:神川の激闘 ― 第一次上田合戦、そのリアルタイムな時系列分析

天正13年(1585年)閏8月2日、上田盆地を舞台に、戦国史に残る知略戦の火蓋が切られた。その戦闘経過は、あたかも一つの脚本に沿って進むかのように、真田昌幸の周到な計画通りに展開していく。

閏8月2日 未明~早朝:徳川軍の進軍と布陣

鳥居元忠、大久保忠世らが率いる徳川軍約7,000は、北国街道を南下し、上田城の東方約2キロメートルに位置する信濃国分寺周辺に布陣した 1 。大軍の威容を誇示し、城内の真田方に心理的圧力をかけることが狙いであった。夜が明け、立ち込める朝霧の向こうに、徳川軍の無数の旗指物が林立する光景は、城兵に少なからぬ畏怖を与えたであろう。

閏8月2日 午前:序盤戦 ― 神川での接触と偽装退却

徳川軍の先鋒が上田城へ向けて神川(かんがわ)を渡り始めると、これを待ち構えていた真田軍の少数精鋭部隊が敢然と迎撃した 6 。しかし、これは本格的な抵抗ではなかった。真田の部隊は、しばらく激しく戦うと見せかけた後、計画通りに敗走を装い、上田城方面へと整然と後退を開始する 3 。徳川軍の将兵は、この光景を見て「真田は戦わずして逃げた」「腰抜けめ」と侮り、戦功を焦るあまり、何の疑いもなく追撃に移った 3 。寄せ集め部隊ゆえの功名心と、小勢の真田を完全に見下していた慢心が、昌幸が仕掛けた第一の罠へと自ら足を踏み入れさせたのである。

閏8月2日 昼前:中盤戦 ― 上田城下での罠と城内での攻防

逃げる真田軍を追撃した徳川軍は、勢いに乗って上田城下町へとなだれ込み、大手門を突破して二の丸まで殺到した 1 。しかし、そこは巧妙に設計された巨大な罠の内部であった。昌幸の第二の罠が、ここで一斉に発動する。

  • 千鳥掛けの柵: 城下町の道筋には、侵入は比較的容易だが、退却しようとするとジグザグの進路を強いられ、動きを著しく阻害する「千鳥掛け」と呼ばれる可動式の柵が巧みに配置されていた 13
  • 城からの集中攻撃: 徳川軍が二の丸で動きを乱し、密集状態になった瞬間を狙い、城壁や櫓に潜んでいた真田の鉄砲隊が一斉に火を噴き、無数の矢を射かけた 13 。さらに、櫓からはあらかじめ用意されていた大木や大石が投下され、徳川軍の兵士たちを混乱の渦に叩き込んだ 18

進むことも退くこともできず、狭い空間で一方的に攻撃を受け続ける徳川軍は、完全に真田軍の術中にはまっていた。

閏8月2日 昼過ぎ:終盤戦 ― 挟撃作戦と徳川軍の総崩れ

城内から徳川軍の混乱が頂点に達したのを見計らい、昌幸はついに勝負を決する行動に出る。この時、昌幸は家臣と囲碁を打ちながら、数度の注進にも動ぜず、冷静に戦機が熟すのを待っていたという逸話が残るほど、戦況は彼の掌中にあった 18

「時、至れり」。昌幸は城門を開かせ、自ら精兵を率いて城内から打って出た 18。そして、この動きに完璧に呼応したのが、上田城の背後に位置する戸石城に待機していた長男・真田信幸の別動隊であった。信幸は手勢を率いて山を下り、徳川軍の側面および背後を猛然と強襲した 1。

前方からは昌幸本隊、側面と後方からは信幸隊の猛攻を受けるという完全な挟撃態勢に陥った徳川軍は、指揮系統を完全に喪失。パニック状態となり、我先に逃げ出そうとする潰走が始まった。

閏8月2日 午後:最終局面 ― 神川での追撃と壊滅

敗走する徳川兵は、行きに渡った神川を再び渡って逃げようとするが、退路には千鳥掛けの柵が立ちふさがり、思うように進めない。そこへ真田軍の追撃が襲いかかり、次々と討ち取られていった 21

神川まで追い詰められた徳川兵を、最後の悲劇が見舞う。折からの増水、あるいは真田軍が事前に上流の堰を切り落としていたことによる鉄砲水が、川を渡ろうとする兵士たちを飲み込んだのである 13。多くの兵が戦わずして濁流にのまれ、溺死した。

この一連の戦闘は、昌幸が設計した「劇場型殲滅戦」であった。上田城とその城下町は、敵を誘い込み、無力化し、そして殲滅するための巨大な舞台装置として完璧に機能した。偽装退却による「誘引」、城下町の構造と城からの攻撃による「罠」、そして昌幸・信幸父子による完璧なタイミングでの「挟撃」。これら一連の流れは、偶然の産物ではなく、事前に計算され尽くした脚本に沿って展開された、まさしく戦術の芸術であった。

第四章:戦後の波紋 ― 石川数正の出奔と天下の動向

閏8月2日の激戦は、真田軍の圧倒的な勝利に終わった。その損害の差は、勝敗を雄弁に物語っている。徳川方の記録である『三河物語』でさえ死者約300名と記しており、これは徳川の威信を保つために過小に記された数字である可能性が高い 3 。一方、真田方の記録や後世の伝承では、徳川軍の死者は1,300名から2,000名以上に達したとされる 3 。対照的に、真田軍の損害はわずか40名程度と伝えられており、まさに完勝であった 6

上田城攻略を諦めた徳川軍は、翌日以降、矛先を真田方の支城である丸子城に向けるが、これも堅固な守りに阻まれ攻略に失敗する 1 。上杉からの援軍が増強されるとの情報も入り、徳川軍は閏8月28日、ついに上田盆地からの撤退を開始した 1

しかし、この合戦がもたらした影響は、信濃一国に留まるものではなかった。徳川家康の天下戦略、ひいては日本の政治情勢そのものを揺るがす巨大な「波紋」を広げることになる。その象徴が、合戦から約3ヶ月後の天正13年(1585年)11月に起きた、徳川家の屋台骨を揺るがす大事件であった。家康の腹心中の腹心であり、宿老筆頭であった石川数正が、突如として徳川家を出奔し、豊臣秀吉のもとへ走ったのである 3

数正は、徳川家の内情、特に軍事機密のすべてを知り尽くした人物であった。彼の離反は徳川家にとって致命的な打撃であり、家康は急遽、軍制を武田流に改めるなどの対応に追われるほどの衝撃を受けた 32 。数正出奔の理由は複合的であったとされるが、第一次上田合戦での惨敗が、彼の決断に大きな影響を与えたことは想像に難くない。

石川数正は、徳川家中で親秀吉派の筆頭と目されていた。小牧・長久手の戦い後の和平交渉を担当した彼は、秀吉の器量の大きさと、もはや天下の趨勢が秀吉にあることを肌で感じていた。しかし、主君家康は秀吉への臣従を拒み、強硬な姿勢を崩さなかった。数正は、このままでは徳川家が秀吉によって滅ぼされるという強い危機感を抱いていたと考えられる。

そこへ、第一次上田合戦での手痛い敗北という事件が起こった。天下に武威を誇る徳川軍が、小国の真田に完膚なきまでに叩きのめされたという事実は、家康の軍事的能力、ひいては天下の情勢を読む力に対する深刻な疑問符を、数正の心中に投げかけたであろう。「小国の真田にすら勝てない家康に、天下人秀吉と渡り合える未来はあるのか?」という絶望感が、数正の出奔という最終的な決断を促す重要な一因となった可能性は高い。

つまり、第一次上田合戦の敗北は、徳川家内部の路線対立を先鋭化させ、数正が「徳川家を見限る」という行動の引き金を引く「触媒」として機能したのである。この事件は、上田合戦が単なる一地方の局地戦ではなく、天下の政治情勢を動かすほどのインパクトを持っていたことを、何よりも明確に証明している。

第五章:歴史的意義と評価 ― 「表裏比興の者」の誕生

第一次上田合戦は、一晩の戦闘が歴史の潮流を変え得ることを示した、戦国史における象徴的な戦いである。この勝利は、真田昌幸個人の評価、真田家の地位、そして徳川家康の戦略に、長期的かつ決定的な影響を与えた。

真田昌幸の名声確立と真田家の飛躍

この一戦により、「真田安房守昌幸」の名は、天下に轟く知将・戦巧者として、不動の評価を確立した 3 。それは、大大名である徳川家康を、圧倒的寡兵で、しかも完璧な計略をもって打ち破ったという、他に類を見ない戦果によるものであった。これにより、真田家は信濃の一国衆という立場から、誰からも認められる独立した「大名」へと、事実上の飛躍を遂げたのである 29

この報は、天下人・豊臣秀吉の耳にも達した。秀吉は、家康を手玉に取った昌幸の類稀なる知略を高く評価し、彼を「表裏比興の者」と評したと伝えられている 9 。これは、単に「裏表があり、卑怯だ」という非難ではない。主君・武田氏滅亡後の混乱期を、巧みな外交と策略を駆使して生き抜き、ついには大大名を撃退したその手腕を認めた上での、畏敬の念のこもった賛辞であった 34 。この勝利をきっかけに、昌幸は豊臣政権に直接臣従する道を開かれ、真田家は豊臣大名の一員として認知されることになった 34 。人質として大坂に出仕した次男・信繁は秀吉に大いに気に入られ、側近である大谷吉継の娘を娶るなど、破格の待遇を受けるに至った 14

徳川家康に刻まれた屈辱

一方、徳川家康にとって、この敗戦は生涯忘れ得ぬ屈辱となった 38 。彼は昌幸に対して「稀代の横着者」「危険な姦人」として、終生、深い嫌悪と警戒心を抱き続けることになる 34 。この苦い記憶は、後の第二次上田合戦において、徳川秀忠が昌幸の挑発に乗って関ヶ原の本戦に遅参するという、徳川家にとってのさらなる失態の伏線ともなった 19

しかし同時に、家康は真田家の実力を認めざるを得なかった。力でねじ伏せることが困難と悟った家康は、後には懐柔策に転じ、重臣・本多忠勝の娘である小松姫を昌幸の長男・信幸に嫁がせるという手を打つ 1。この婚姻が、後の関ヶ原の戦いにおいて、真田家が父子兄弟で東西両軍に分かれて戦うという、家の存続を賭けた究極の選択に繋がっていくのである。

結論

第一次上田合戦は、戦国時代の終焉期において、「武力」の優劣が必ずしも勝敗を決めないこと、そして「知略」と「外交」が小国の生存を可能にすることを証明した金字塔であった。織田・豊臣といった巨大権力が地方勢力を吸収・淘汰していく時代の中で、圧倒的な兵力差を覆したこの戦いは、軍事的な勝利以上の意味を持っていた。それは、優れた情報収集能力、的確な情勢分析、大胆な外交戦略、そして地形と敵の心理を巧みに利用した戦術があれば、小が大を打ち破ることが可能であるという、不変の真理を実証したのである。

昌幸の「表裏比興」と評された生き方は、まさにこの時代の生存術そのものであった。彼は、忠誠や義理といった旧来の価値観よりも、家の存続という至上命題を優先し、そのために利用できるあらゆる手段を躊躇なく行使した 22 。この勝利によって、真田家は単なる武勇の家ではなく、「知」をもって大国と渡り合う稀有な存在として、戦国史にその名を不滅のものとした。第一次上田合戦は、その輝かしい伝説の、輝かしい序章だったのである。

引用文献

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  35. 真田昌幸 - 株式会社 吉川弘文館 歴史学を中心とする、人文図書の出版 https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33555.html
  36. 真田昌幸(さなだ まさゆき) 拙者の履歴書 Vol.33〜謀略と忠義、生き残りの術 - note https://note.com/digitaljokers/n/n33840ca44414
  37. 豊臣秀吉でも上杉景勝でも石田三成でもない…家康が生涯で最も苦しめられた戦国最強の「くせもの武将」【2023編集部セレクション】 家康に敵対し続けたのに、明治維新まで家を残した (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/81095?page=3
  38. 圧倒的な兵数の差でなぜ勝てたのか?真田と徳川の因縁の始まり『第一次上田合戦』の勝因を解説 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/205907
  39. 上田合戦とは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16980_tour_061/