最終更新日 2025-08-28

筒井城の戦い(1567)

永禄十年、松永久秀と筒井順慶は大和で激突、南都対陣にて東大寺大仏殿が炎上。翌年、信長上洛で久秀が臣従、孤立した順慶は筒井城を失う。大和の中世を終焉させ、近世の幕開けを告げし戦いなり。

永禄後期大和動乱史観:1567年南都対陣から1568年筒井城陥落に至る軌跡

序章:大和国を巡る情勢 - 永禄年間の畿内動乱

永禄10年(1567年)から翌11年(1568年)にかけて大和国で繰り広げられた一連の戦いは、単なる地域的な領土紛争ではない。それは、畿内中央の政治的激動と、大和国が内包する特異な社会構造が交錯する中で発生した、時代の転換点を象徴する出来事であった。松永久秀と筒井順慶という二人の武将の宿命的な対決の根源を理解するためには、まず、この時代背景を深く掘り下げる必要がある。

三好政権の分裂と松永久秀の台頭

永禄7年(1564年)7月、畿内に絶大な権勢を誇った三好長慶が病没すると、これまで彼の一人の力量によって維持されていた権力構造は急速に流動化し始めた 1 。長慶という絶対的な重石が失われた三好家では、後継者である養子・三好義継を補佐する宿老たちの間で、政権の主導権を巡る深刻な対立が表面化する。その中心にいたのが、稀代の梟雄として知られる松永久秀と、三好長逸、三好宗渭、岩成友通らから成る三好三人衆であった 1

この両者の対立は、単なる個人的な確執に留まらなかった。それは、三好政権の今後の在り方を巡る路線対立でもあった。三好三人衆が阿波公方・足利義栄を擁立し、室町幕府の権威を自らの正統性の拠り所としようとしたのに対し、久秀はより実力主義的であり、時には将軍家さえも政治的道具として利用する革新的な思考の持ち主であった 2 。永禄8年(1565年)5月、彼らは一時的に協調して将軍・足利義輝を暗殺する(永禄の変)ものの、共通の標的を失った後、その対立は決定的なものとなる 1 。同年11月、三人衆は久秀派の重臣を粛清し、当主・義継に久秀との断交を強要。ここに三好家は、松永派と三人衆派に分裂し、畿内全域を巻き込む内戦状態へと突入したのである 1

大和国の特殊な支配構造

この畿内の動乱が、大和国に特有の形で波及した背景には、この国の特殊な支配構造が存在した。大和は、鎌倉時代以来「守護不設置の国」とされ、特定の武家が守護として一元的に支配することがなかった 4 。その代わりに、藤原氏の氏寺である興福寺が事実上の守護として君臨し、広大な寺領と宗教的権威を背景に、国政に絶大な影響力を行使していたのである 7

この興福寺の支配体制下で、在地武士たちは「衆徒(しゅと)」あるいは「国民(こくみん)」と呼ばれる独自の身分を形成していた 5 。衆徒は興福寺の僧籍を持つ武士、国民は春日大社の神人(じにん)の系譜を引く武士であり、彼らは寺社の被官として、その権威を盾に在地支配を展開していた。筒井氏は、興福寺の筆頭塔頭である一乗院方の衆徒の棟梁であり、その大和における正統性は、この伝統的な寺社権力との深い結びつきに根差していた 1

このような旧来の秩序が根強く残る大和国は、外部から実力で成り上がってきた松永久秀にとって、まさに自らの力を試すに格好の舞台であった。久秀は、永禄2年(1559年)に大和へ本格的に侵攻すると、信貴山城を改修し、次いで奈良の中心部にほど近い佐保丘陵に多聞山城を築城した 2 。興福寺の目と鼻の先に、壮麗かつ堅固な近世城郭を築くという行為は、単なる軍事拠点の確保以上の意味を持っていた。それは、大和の支配者が寺社から武家へと移り変わる時代の到来を告げる、旧権威に対する明確な挑戦状だったのである。久秀の行動は、大和における支配のパラダイムそのものを転換させようとする、強い意志の表れであった 11

筒井順慶の雌伏と再起

父・筒井順昭の早世により、わずか2歳で家督を継いだ筒井順慶(当時は藤勝)は、松永久秀の侵攻によって本拠地である筒井城を追われ、大和東部の山間地帯(東山内)での潜伏とゲリラ戦を余儀なくされるという苦難の少年時代を送っていた 1 。しかし、彼はただ雌伏していたわけではなかった。畿内情勢の変動を冷静に見極めていた順慶は、三好家中の内紛を千載一遇の好機と捉え、松永久秀と敵対する三好三人衆との同盟を締結する 1 。この戦略的判断により、順慶は自らの戦いを大和国内の局地戦から、畿内全体の覇権争いの一翼を担う広域的な戦いへと昇華させることに成功した。こうして、大和国を舞台とした松永久秀と筒井順慶の長きにわたる抗争は、新たな局面を迎えることとなったのである。

第一部:前哨戦 - 永禄九年(1566年)、筒井城奪還

永禄10年(1567年)に奈良市中で繰り広げられる大規模な対陣、いわゆる「南都対陣」の直接的な引き金となったのは、その前年に起こった筒井順慶による劇的な本拠地奪還であった。この出来事は、両者の力関係を一時的に逆転させ、松永久秀に大和での決戦を強いる戦略的必然性を生み出した。

松永久秀の孤立と筒井順慶の攻勢

三好三人衆との同盟という強力な後ろ盾を得た筒井順慶は、大和国内で一気に攻勢を強めた。畿内中央で三人衆との戦いに忙殺される松永久秀の隙を突き、順慶は着実に勢力を回復していく。これまで久秀の威勢に服していた大和国人衆も、形勢の変化を敏感に察知し始めた。井戸氏をはじめとする有力国人が次々と筒井方へと寝返り、松永方は大和国中において急速に孤立。その勢力圏は、多聞山城と信貴山城という二大拠点周辺にまで縮小していった 1

この状況下で、多聞山城と信貴山城の中間に位置する筒井城は、松永軍にとって両拠点を結ぶ連絡線上の要であり、何としても維持しなければならない戦略的拠点であった 2 。松永方は、孤立した筒井城へ兵糧や兵員を繰り返し搬入しようと試みるが、周辺の制圧権を掌握しつつあった筒井軍の妨害に遭い、多大な損害を被った。特に永禄9年(1566年)1月24日には、久秀の嫡男・久通が率いる輸送部隊が筒井軍の奇襲を受け、多くの死傷者を出している 2 。この事実は、もはや筒井城周辺が筒井方の勢力圏内にあり、松永方による城の維持が極めて困難になっていたことを物語っている。

永禄9年6月8日:筒井城、順慶の手に還る

同年5月、松永久秀は劣勢を挽回すべく、畠山高政軍と合流して三人衆の本拠地である堺を攻撃するという奇策に出る 2 。しかし、この動きは三人衆に即座に対応され、逆に大軍に包囲される結果に終わった。久秀が堺で釘付けになっている、まさにその間隙を、順慶は見逃さなかった 2

堺の戦況が膠着し、筒井城の守りが手薄になったことを見計らった順慶は、満を持して本拠地奪還作戦を決行する。筒井軍はまず、筒井城の周囲に築かれていた松永方の陣所を急襲し、これを焼き払った 2 。これにより、城外からの支援や連携を断ち、筒井城を完全に孤立させることに成功する。その後、一気呵成に城へと攻めかかり、永禄9年6月8日、ついに筒井城を陥落させた。永禄2年(1559年)に城を追われて以来、実に7年ぶりの本拠地への帰還であった 1 。この奪還作戦は、畿内で三人衆が松永軍主力を引きつけていたとはいえ、大和国内においては筒井軍が単独で実行した可能性が高い 2 。これは、順慶が単に三人衆の武力に依存するだけでなく、自立した軍事力と的確な戦略判断能力を備えていたことを示す証左と言えよう。

陽舜房順慶の誕生:興福寺官符衆徒棟梁としての権威確立

悲願であった筒井城への復帰を果たした順慶は、次なる一手として、自らの支配の正統性を確立するための行動に出る。同年9月28日、順慶は筒井氏ゆかりの興福寺成身院において剃髪・得度し、名を藤勝から「陽舜房順慶(ようしゅんぼうじゅんけい)」へと改めた 1

これは単なる改名や出家ではなかった。筒井氏は代々、興福寺一乗院の官符衆徒(かんぷしゅと)であり、その棟梁として大和武士団を率いてきた家柄である。得度して僧形となることは、官符衆徒の棟梁としての正式な資格を得るための必須条件であった。この儀式を経て、順慶は名実ともに大和国の伝統的支配者としての地位を内外に宣言したのである。これにより、彼は松永久秀を「大和の秩序を乱す外部からの侵略者」、自らを「古来からの伝統と権威を受け継ぐ正統な守護者」として明確に位置づけることに成功した。この大義名分は、今後の戦いにおいて、大和国人衆の支持を集める上で極めて重要な意味を持つことになった。

第二部:永禄十年(1567年)の攻防 - 南都対陣と東大寺大仏殿の炎上

永禄9年(1566年)の筒井城奪還と「陽舜房順慶」の誕生により、大和国における力関係は完全に筒井方優位に傾いた。畿内でも三好三人衆の攻勢の前に劣勢を強いられていた松永久秀は、絶体絶命の窮地に立たされる。しかし、永禄10年(1567年)、事態は誰もが予測し得なかった形で急展開を迎え、戦いの舞台は古都・奈良の市中へと移ることになる。この約半年にわたる対峙は、後に「南都対陣」と呼ばれ、大和の歴史に深い爪痕を残した。


表1:永禄10年 南都対陣 主要な出来事の時系列表

月日

出来事

松永方の動向

筒井・三人衆方の動向

特記事項

2月16日

三好義継の出奔

堺に潜伏中の久秀、三好家当主・義継と合流。

高屋城の義継が三人衆のもとを離反。

久秀は「三好家当主の保護者」という大義名分を獲得し、劣勢を挽回する。

4月6日

久秀、信貴山城へ帰還

義継を奉じて信貴山城に入る。

-

大和での決戦に向けた動きを本格化させる。

4月11日

久秀、多聞山城へ入城

嫡男・久通が守る多聞山城に入り、防衛体制を固める。

-

奈良市中が緊張状態に陥る。

4月18日

連合軍、奈良へ進駐

戒壇院、宿院城を前線とし、般若寺などを焼き払う。

1万の軍勢で奈良へ侵攻。大乗院、天満山、東大寺に布陣。

奈良市街を南北に分断する形で両軍が対峙。半年にわたる「南都対陣」が始まる。

5月18日

宿院城への夜襲

宿院周辺の院坊を焼き払い、防御を固める。

池田勝正が宿院城に夜襲を敢行。

散発的な戦闘が続くも、戦線は膠着状態に。

6月27日

和睦交渉

-

筒井順慶が両者の和睦を試みるも、不調に終わる。

長期戦による疲弊が見られ始める。

7月23日

松永方からの内応

戒壇院千手堂が焼失。

-

水面下での調略戦が活発化していたことを示唆する。

10月10日夜

東大寺大仏殿の戦い

東大寺に陣取る三人衆本隊に夜襲を決行。圧倒的勝利を収める。

三人衆軍は総崩れとなり潰走。順慶軍は戦闘に加わらず筒井城へ撤退。

戦闘中の失火により、大仏殿を含む東大寺の主要伽藍が焼失。


転機(2月~4月):三好義継の離反と松永久秀の帰還

永禄10年2月16日、畿内の勢力図を根底から揺るがす事件が発生した。三好家の名目上の当主であった三好義継が、彼を傀儡として擁立していた三好三人衆との対立の末、居城である高屋城を突如出奔。堺に潜伏していた松永久秀のもとへ保護を求めたのである 1 。この行動は、久秀にとってまさに起死回生の一手となった。これまで「三好家の反逆者」という立場に置かれていた久秀は、一夜にして「正統な主君を三人衆の専横から保護する忠臣」という大義名分を手に入れた。

この好機を逃さず、久秀は迅速に行動を開始する。4月6日、義継を奉じて本拠地の一つである信貴山城に堂々の帰還を果たすと、わずか5日後の4月11日には、嫡男・久通が固守していた奈良の多聞山城へと入城した 1 。これは、大和国での最終決戦を覚悟した久秀の、断固たる意志の表れであった。

対陣(4月~9月):奈良市中における両軍の布陣と小競り合い

主君に離反された三好三人衆は激怒し、松永久秀の完全な殲滅を決意する。4月18日、三人衆は筒井順慶と合流し、総勢1万の大軍を率いて奈良へと進駐した 1 。連合軍は、興福寺の塔頭である大乗院、その南の天満山、そして東大寺の広大な境内を占拠し、陣を構えた。神聖であるべき寺社境内が、大規模な軍事拠点と化したのである。

これに対し、松永方は多聞山城を司令部とし、その南に位置する東大寺戒壇院や、さらに南の宿院城を前線基地として防衛線を構築した 9 。奈良の市街地は、北の松永方と南の筒井・三人衆方によって、さながら佐保川を境界線とするように南北に分断され、一触即発の対峙が始まった。久秀は、連合軍の陣地として利用されることを防ぐため、多聞山城に近い般若寺などの寺社を躊躇なく焼き払う焦土作戦を展開した 1 。この非情ともいえる合理的な判断は、彼の戦に対する徹底した姿勢を物語っている。

膠着と調略(5月~9月):長期戦の様相と水面下の動き

対陣は長期に及んだ。5月18日には三人衆方の池田勝正が宿院城に夜襲を仕掛け、松永方もこれに応戦して周辺の院坊を焼き払うなど、散発的な戦闘は続いたものの、両軍ともに決定的な打撃を与えるには至らず、戦線は完全に膠着状態に陥った 9

長期化する戦いは、双方の将兵を疲弊させ、戦況は新たな局面を迎える。6月27日、筒井順慶が両者の和睦を仲介しようと試みたが、これは不調に終わる 9 。この動きは、三人衆との同盟関係を維持しつつも、自らの領国である大和が戦火に晒され続けることを憂慮する、在地領主としての順慶の複雑な立場を浮き彫りにしている。さらに7月23日には、松永方の武将5名が裏切り、その影響で戒壇院の千手堂が焼失するという事件も発生した 9 。これは、長期戦による士気の低下と、水面下で繰り広げられる激しい調略戦の実態をうかがわせる。

決着(10月10日夜):東大寺大仏殿の戦い

半年にも及ぶ膠着状態を打破すべく、ついに松永久秀が動いた。永禄10年10月10日の夜、久秀は東大寺の境内に本陣を置く三好三人衆の主力部隊に対し、決死の夜襲を敢行したのである 1

闇夜の奇襲は絶大な効果を発揮した。不意を突かれた三人衆の軍勢は混乱に陥り、組織的な抵抗もままならないまま総崩れとなって潰走した 1 。この戦いの最中、悲劇が起こる。戦闘の混乱の中で、穀屋(食堂)付近から出火した炎が強風に煽られ、法華堂、そして大仏殿の回廊へと次々に燃え移り、ついに日本仏教の象徴たる大仏殿を飲み込んだ。『多聞院日記』には、「猛火天に満ち、さながら雷電の如し」「言語道断」と、その凄惨な光景が記録されている 19 。後世、この大仏殿炎上は松永久秀の三大悪事の一つとして語られることになるが、同時代の一次史料によれば、戦闘中の偶発的な失火であった可能性が極めて高い。

この時、筒井順慶の軍勢は、主戦場となった東大寺境内からやや離れた大乗院山(現在の奈良ホテル付近)に布陣していた 1 。そのため、夜襲の直接的な被害を免れることができた。順慶は、同盟者である三人衆が敗走するのを確認すると、深追いすることなく、速やかに全軍を筒井城へと引き上げた 1

この一連の戦いは、軍事的には松永久秀の戦術的な大勝利であった。彼は宿敵である三好三人衆を大和から駆逐し、奈良市中の支配権を回復した。しかし、その勝利は限定的なものに過ぎなかった。なぜなら、大和における最大の敵である筒井順慶の主力部隊は、この戦いでほとんど損害を受けることなく、健在のまま撤退したからである。順慶にとってこの戦いは、敗北ではなく「戦略的な損失の回避」であった。彼は同盟軍の壊滅という危機的状況下で、自軍の戦力を温存するという最も現実的で冷静な判断を下したのである。この結果、大和国内における筒井方の優位という大局は実質的に揺らがず、久秀の次なる標的が、無傷で撤退した順慶の筒井城に向けられることは、もはや時間の問題であった。

第三部:決戦 - 永禄十一年(1568年)筒井城の陥落

永禄10年(1567年)の南都対陣は、松永久秀の戦術的勝利に終わったものの、大和国内の筒井順慶の勢力を根絶するには至らなかった。両者の睨み合いは続くかに見えたが、翌永禄11年(1568年)、畿内外部からの巨大な力が大和のパワーバランスを根底から覆し、筒井城の運命を決定づけることになる。軍事力のみならず、中央の政治力学がいかに地方の戦況を左右するかを、この戦いは如実に示している。

力関係の逆転:織田信長の上洛と松永久秀の臣従

永禄11年9月、尾張の織田信長が、先の将軍・足利義輝の弟である足利義昭を奉じて、怒涛の勢いで上洛を開始した 1 。この軍事行動は、畿内の政治情勢を一変させた。

信長の上洛軍に正面から抵抗した三好三人衆は、各地で敗北を重ね、畿内での足場を完全に失って本国の阿波へと敗走した 1 。これにより、筒井順慶は最も強力な軍事的・政治的同盟者を失い、一気に孤立無援の状態に陥った。

一方、松永久秀はこの千載一遇の好機を見逃さなかった。彼は、時代の流れが信長にあることを即座に見抜き、いち早く恭順の意を示した。同年10月4日、久秀は三好義継と共に芥川山城で信長に拝謁し、臣従を誓う 1 。信長は、上洛戦において三人衆を大和に釘付けにした久秀の功績を評価し、彼に大和一国を「手柄次第切り取るべし」との許可を与えた 2 。これは事実上、信長政権が久秀の大和支配を公認したことを意味する。対照的に、同日に筒井方の国人衆が足利義昭を通じて織田方への帰順を願い出たが、これは久秀への配慮からか、信長によって冷徹に拒絶された 1 。この瞬間、筒井方の政治的敗北は決定的となったのである。

内応と孤立:大和国人衆の雪崩を打った離反

織田信長という、それまでの畿内の勢力とは比較にならない強大な後ろ盾を得た松永久秀の威勢は、大和国人衆の心を一気に揺り動かした。これまで筒井方として久秀に抵抗してきた国人領主たちは、もはや順慶に味方することに未来はないと判断し、生き残りをかけて次々と松永方へと寝返っていった。


表2:筒井城攻城戦(1568年)における主要国人衆の動向一覧

国人衆(氏名)

拠点

従来の立場

離反後の動向

考察

郡山向井氏

郡山

筒井方

松永方に寝返り、筒井城攻撃の先鋒を務める 2

筒井城の目と鼻の先に拠点を持ち、地理を熟知した彼らの離反は、筒井方にとって致命的な打撃となった。

箸尾高春

箸尾城

筒井方

松永方に通じ、十市城への攻撃などに参加 2

大和四家の一つに数えられる有力国人。彼らの離反は、他の国人衆の動向にも大きな影響を与えたと考えられる 24

高田当次郎

高田城

筒井方

永禄8年の時点で既に松永方に内応しており、この戦いでも松永方として行動 2

早期からの離反者であり、松永方の大和国内における調略の拠点となっていた可能性がある。

菅田備前守

菅田城

筒井方

松永方に合力し、十市城への放火などに加担 2

在地の有力者であり、彼らの離反は筒井方の地域支配網の崩壊を意味した。

小泉秀元

小泉城

筒井方

松永久秀に通じたことが記録されている 2

筒井氏の重臣格であったが、中央権力の変動を前に離反。戦国期における主従関係の現実を示す。


この雪崩を打ったような離反劇の中でも、特に筒井城のすぐ西に位置する郡山を本拠とする郡山向井氏が攻撃の先鋒を務めたことは、順慶にとって軍事的にも心理的にも計り知れない打撃であった 2 。昨日までの味方が、今日は敵の先兵として城に攻め寄せてくる。この絶望的な状況が、筒井城の運命を急速に手繰り寄せた。

攻城戦の三日間(10月6日~8日)

永禄11年10月6日、松永久秀の嫡男・久通は、寝返ったばかりの大和国人衆を主力部隊として、ついに筒井城への総攻撃を開始した。同時代の記録である『多聞院日記』には、その生々しい戦況が記されている 30

攻撃の火蓋は、城を取り巻く惣構え(城下町を囲む外堀と土塁)への焼き討ちによって切られた 2 。これは城兵の士気を挫き、城下町に混乱を引き起こして防衛機能を麻痺させるための攻城戦の常道である 31 。炎は瞬く間に広がり、城の際まで迫ったという。

筒井方の将兵は必死に防戦したものの、敵は地理を熟知し、城の弱点を知り尽くした元味方であった。加えて、織田信長からの援軍2万が間もなく大和へ到着するという報も、松永方の士気を大いに高めていた 2 。内部からの裏切りと外部からの圧倒的な圧力の前に、筒井城の広大な防衛線は次々と突破されていった。

激しい攻防の末、10月8日の夕刻、筒井城はついに陥落した 2 。もはやこれまでと悟った順慶は、燃え盛る居城を後に、わずかな家臣と共に脱出。一族であり、信頼の置ける福住氏が守る東山内の山城、福住中定城へと落ち延びていった 2 。こうして、筒井氏累代の本拠地は、再び松永久秀の手に落ちたのである。

第四部:主要人物の動向と戦略

この大和動乱を主導した松永久秀と筒井順慶、そして彼らの間で揺れ動いた大和国人衆。彼らの人物像と戦略を深く掘り下げることで、合戦の背後にあった思想や時代の力学がより鮮明になる。

松永久秀:革新性と多面性

松永久秀は、単なる「梟雄」という言葉では捉えきれない、複合的で革新的な人物であった。彼の行動は、常に時代の最先端を見据えていた。

第一に、卓越した軍略家・調略家としての側面が挙げられる。三好義継の保護や織田信長への迅速な臣従に見られるように、彼は政治情勢の変動を即座に自らの利益に転換する、驚異的な政治的嗅覚と決断力を持っていた。

第二に、築城家としての先進性である。彼が築いた多聞山城は、日本の城郭史における画期的な存在であった。城門と櫓を一体化させた「多聞櫓」は彼の創始とされ、その名は後世の城郭建築に広く受け継がれた 34 。また、燃えにくい瓦葺きの屋根や、鉄砲の弾を防ぐ漆喰塗りの壁を本格的に導入したのも多聞山城が最初期であり、これは後の近世城郭の標準仕様となっていく 12 。この城は、織田信長の安土城のモデルになったとも言われ、その影響の大きさがうかがえる 37

第三に、一流の文化人としての一面である。久秀は茶の湯を深く愛し、「九十九髪茄子」や「平蜘蛛釜」といった天下の名物を多数所持していた 39 。当時の茶の湯は、単なる趣味ではなく、大名間の社交や情報交換、さらには政治交渉の場としても機能する高度な政治的ツールであった 42 。久秀は、この文化の力を巧みに利用し、自らの権威とステータスを高めていたのである。このように、久秀は冷徹な策略家であると同時に、時代の文化を牽引する教養人でもあった。彼の多面性こそが、その魅力と恐ろしさの源泉であったと言えよう 43

筒井順慶:若き当主の苦難と成長

この動乱の時点において、筒井順慶はまだ20歳前後の若き当主であった。経験豊富で老獪な松永久秀に翻弄され、度重なる敗走と雌伏を経験するが、その苦難が彼を戦国大名として大きく成長させた。

彼の特筆すべき点は、その不屈の精神力である。本拠地を追われ、潜伏生活を余儀なくされても、彼は決して諦めなかった。常に再起の機会を窺い、大和国人衆との関係を維持し続けた。

また、彼は時勢を読む柔軟な外交戦略も身につけていた。当初は三好三人衆と同盟を結び、その勢力を利用して勢いを盛り返した。そして、三人衆が没落すると、今度は明智光秀を介して織田政権への接近を図り、最終的にはその麾下に入ることに成功する 16 。敵と味方が目まぐるしく入れ替わる戦国の世において、大局を見極め、最も有力な勢力と結ぶという現実的な判断力は、彼が生き残る上で不可欠な能力であった。この1568年の敗北は、順慶にとって決して終わりではなかった。むしろ、この手痛い経験こそが、後の辰市城の戦いでの雪辱を果たし、最終的に大和一国を統一する大名へと飛躍するための、重要な礎となったのである 47

大和国人衆:揺れ動く在地勢力の実像

箸尾氏、高田氏、小泉氏、郡山向井氏といった大和国人衆は、この動乱において重要な役割を果たした。彼らの行動は、一見すると「裏切り」や「日和見」と映るかもしれない。しかし、それは激動の時代を生き抜くための、極めて現実的な生存戦略であった。

大和国人衆は、長年にわたり興福寺の権威の下で自立性を保ってきた在地領主であり、特定の主君に対する絶対的な忠誠という観念は希薄であった 24 。彼らの行動原理は、何よりもまず自家の存続と領地の安堵である。そのため、中央の権力構造が変動すれば、それに合わせて自らの立ち位置を変えるのは当然のことであった 23 。織田信長という新たな覇者が登場し、松永久秀を支持した時点で、彼らが順慶を見限ったのは、戦国時代の論理としては必然的な選択であった。彼らの離反は、中世的な主従関係の脆弱さと、より実利に基づいた近世的な権力力学への移行を象-徴する出来事であったと言えるだろう。

第五部:戦場の舞台裏 - 多聞山城と筒井城

松永久秀と筒井順慶の抗争は、彼らが拠点とした二つの城、多聞山城と筒井城の性格の違いを鮮明に映し出している。城は、単なる軍事施設ではない。それは城主の思想、権力基盤、そして時代の要請を体現する鏡である。両城を比較分析することで、この戦いの深層に迫ることができる。


表3:多聞山城・筒井城 比較分析表

特徴

多聞山城(松永久秀)

筒井城(筒井順慶)

立地

平山城(奈良市街を見下ろす丘陵上) 11

平城(奈良盆地中央の平坦地、交通の要衝) 50

城郭構造

集権的・要塞的。石垣を多用し、天守を持つ 11

分散的・共同体的。「惣構え」により城下町全体を防御 52

主要な防御施設

多聞櫓、瓦葺き、漆喰壁、大規模な堀切 11

広大な内堀と外堀(二重の堀)、土塁 50

革新性/伝統性

革新的。後の近世城郭の先駆けとなる要素を多数導入 37

伝統的。中世平城の集大成ともいえる構造 52

政治的・象徴的意味

旧権威(興福寺)への挑戦。新たな武家支配の象徴 12

伝統的権威(興福寺衆徒)の拠点。領主と領民の共同体 52


多聞山城:権力の象徴と近世城郭の萌芽

松永久秀が築いた多聞山城は、戦国時代の城郭の常識を覆す、革新性に満ちた城であった。奈良市街を一望する丘陵上に築かれたこの城は、軍事拠点であると同時に、支配者の権威を可視化する装置でもあった 55

その最大の特徴は、後の近世城郭に繋がる数々の先進的な構造である。高くそびえる四層の天守、防御と美観を兼ね備えた総石垣、火矢に強い瓦葺きの屋根、鉄砲の攻撃に耐える漆喰塗りの白壁 11 。そして、久秀が創始したとされる、長屋状の防御施設「多聞櫓」は、防御力を飛躍的に向上させた 34

さらに、城内には壮麗な御殿や複数の茶室が設けられ、畿内屈指の文化サロンとして機能していた 37 。来訪したイエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダが「世界中この城のごとく善かつ美なるものはなし」と書き残したほど、その建築は壮麗を極めた 37 。多聞山城は、単に戦うための場所ではなく、政治を行い、文化を育み、そして権力を見せつけるための、複合的な拠点だったのである。

筒井城:惣構えを持つ中世平城の集大成

一方、筒井順慶が本拠とした筒井城は、中世的な城郭思想の集大成ともいえる構造を持っていた。奈良盆地のほぼ中央、交通の要衝に位置するこの平城の最大の特徴は、城主の館を中心とする主郭部を内堀で囲み、さらに家臣団の屋敷や城下町、市場までをも広大な外堀と土塁で取り囲む「惣構え」と呼ばれる防御システムにあった 50

この構造は、領主と家臣、そして領民が一体となって城を守るという、中世的な共同体の思想を色濃く反映している。城は領主一人のものではなく、そこに住まう人々全体の生活圏を防衛するものであった 56

しかし、この惣構えは、永禄11年(1568年)の戦いにおいて、その構造的弱点を露呈することになる。惣構えという広大な防御システムが十全に機能するためには、その内部にいる家臣や国人、町衆の絶対的な忠誠と結束が不可欠であった。ところが、この戦いでは、織田信長という新たな権力者の登場により、その前提が根底から崩壊した。郡山向井氏をはじめとする内部の勢力が敵に寝返り、攻撃の先鋒となったことで、惣構えはもはや意味をなさなくなった。外部からの攻撃には強い防御壁も、内部からの崩壊にはあまりにも脆弱であった。筒井城の陥落は、物理的な防御施設が、調略や内応といった政治的な攻撃の前には無力となりうるという、戦国後期の厳しい現実を象徴する事例となったのである。

結論:戦いの影響と大和支配の遷移

永禄10年(1567年)の南都対陣から永禄11年(1568年)の筒井城陥落に至る一連の動乱は、大和国の歴史、そして松永久秀と筒井順慶の運命に、決定的かつ長期的な影響を及ぼした。

松永久秀による一時的な大和支配の確立

筒井城を攻略し、順慶を東山内へと追いやった松永久秀は、織田信長という強力な後ろ盾を得て、名実ともに大和国の支配者としての地位を確立した 10 。元亀元年(1570年)には、大和国内で大規模な知行割(領土配分)を実施し、自らの支配体制を盤石なものにしようと試みた 10 。多聞山城を拠点とする久秀の権勢は、この時期に頂点を迎えたと言える。しかし、彼の支配は、信長との関係悪化や、不屈の闘志を燃やす順慶の執拗な反攻により、長くは続かなかった。

筒井順慶の再起と大和統一への道

筒井城の陥落は、若き順慶にとって最大の屈辱であり、最大の試練であった。しかし、それは彼の物語の終わりではなく、新たな始まりを告げる序章に過ぎなかった。福住の山中で雌伏の時を過ごした順慶は、着実に反撃の機会を窺い、元亀2年(1571年)の辰市城の戦いで松永・三好義継連合軍を破るという劇的な勝利を収める 16

この勝利が、彼の運命を再び好転させた。明智光秀の仲介を通じて織田信長への臣従が正式に認められ、長年の宿敵であった久秀との立場は逆転する 16 。以後、順慶は信長の家臣として大和国内での戦いを優位に進め、天正5年(1577年)には信長に背いた久秀を信貴山城に攻め滅ぼし、十数年にわたる因縁の対決に終止符を打った。

郡山城への拠点移転と中世的支配体制の終焉

大和の覇権を掌握した順慶のキャリアにおける最後の、そして最大の転換点が、天正8年(1580年)に訪れる。織田信長から発せられた、大和国内の城を郡山城一つに限り、他の城はすべて破却せよという、いわゆる「一国一城令」である 57

この命令に従い、順慶は先祖代々受け継いできた本拠地・筒井城を自らの手で廃し、新たな拠点として郡山城の築城を開始した 22 。この拠点移転は、単なる居城の変更ではなかった。それは、大和国の支配体制が、歴史的な大転換を遂げたことを象徴する出来事であった。

筒井城は、興福寺衆徒としての権威を基盤とする、中世的な在地領主「筒井氏」の象徴であった。一方、郡山城は、織田政権という中央集権体制に組み込まれた、近世的な「大名」筒井順慶の新たな拠点であった。低湿地で防御に難があった伝統的な平城から 63 、より近世的な支配に適した丘陵上の城へと移ることで、大和国の支配は、古来の寺社権力の影響下から脱し、中央政権と直結した武家による一元的な支配の時代へと完全に移行したのである。1568年の敗北と、その後の苦難の末に下した政治的決断が、結果として順慶自身を、そして大和国を、新たな時代へと導いた。この意味において、「筒井城の戦い」は、大和国における中世の終わりと近世の始まりを告げる、分水嶺となる戦いであったと言えるだろう。

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