箕輪城の戦い(1566)
永禄九年、箕輪城陥つ ― 武田信玄の西上野平定と関東の動乱 ―
序章:ある名家の終焉
永禄9年(1566年)9月29日、上野国(こうずけのくに)・箕輪城は、燃え盛る炎と鬨の声に包まれていた。城主・長野業盛(なりもり)は、父祖伝来の持仏堂にて、もはやこれまでと覚悟を決める。眼前に迫るは、甲斐の虎・武田信玄が率いる2万の大軍。対する城兵は、度重なる激戦で百数十名にまで減り、満身創痍であった 1 。父・業正の「我が身は城を枕に討死する。そなたも命を惜しんではならぬ」という遺言が、若き城主の脳裏をよぎる 2 。
最後の抵抗として城門を開き、残る兵を率いて武田軍の只中へ突入。奮戦の末に城内へ引き返した業盛は、静かに筆を執った。
春風に うめも桜も散りはてて 名のみぞ残る 箕輪の山里 2
享年23 5 。辞世の句を遺し、一族郎党と共に自刃。ここに西上野に覇を唱えた名門・長野氏は滅亡し、難攻不落を誇った箕輪城はその歴史に一旦の幕を下ろした 6 。
この一城の陥落は、単なる戦いの一つではなかった。それは、長年にわたり膠着していた関東の勢力図を大きく塗り替える、決定的な転換点であった。なぜ、鉄壁を誇った箕輪城は落ちたのか。なぜ、智勇兼備と謳われた長野氏は滅びなければならなかったのか。その答えを探るには、時計の針を遡り、甲斐の虎が関東にその鋭い爪を向けた、その背景から紐解く必要がある。
第一章:甲斐の虎、関東を望む ― 戦略的背景
箕輪城の戦いは、武田信玄が描く壮大な国家戦略の一環として位置づけられる。その戦略の根幹には、生涯の宿敵・上杉謙信との熾烈な覇権争いが存在した。
第一節:信濃平定と川中島の膠着
甲斐を統一した武田信玄は、次なる領土拡大の目標を西の信濃国に定めた 8 。信濃の豪族、村上義清らを打ち破り、その版図を着実に広げていくが、その前に立ちはだかったのが「越後の龍」長尾景虎、後の上杉謙信である 8 。信濃を追われた豪族たちが謙信に救援を求めたことを直接の原因とし、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの12年間に、両者は信濃北部の川中島を主戦場として5度にわたる大規模な軍事衝突を繰り返した 9 。
しかし、この一連の戦いは、双方に多大な消耗を強いたものの、決定的な勝敗がつくには至らなかった。特に永禄4年(1561年)の第四次合戦では、武田軍が信玄の実弟・信繁をはじめとする多くの将兵を失うなど、その戦いは熾烈を極めた。この長期にわたる膠着状態は、信玄に新たな戦略的判断を促すことになる。
第二節:戦略目標の転換 ― なぜ上野だったのか
川中島での戦線が停滞する中、信玄は次なる主戦場として、信濃の東に隣接する上野国に狙いを定めた。この戦略転換には、明確な地政学的・軍事的理由が存在した。箕輪城攻めは、単なる領土欲からではなく、「対上杉戦争の第二戦線」としての意味合いを色濃く帯びていたのである。
信玄の最大の脅威は、依然として上杉謙信であった。川中島での直接対決で決着がつかない以上、別の側面から謙信の力を削ぐ必要があった。謙信は、越後を追われた関東管領・上杉憲政の名跡を継ぎ、「関東管領」として関東の秩序回復を大義名分に、頻繁に関東への出兵を繰り返していた。この関東出兵の経路上にあり、かつ親上杉派の国人衆が多く存在する西上野は、謙信にとって関東における最重要の足掛かりであった。
したがって、この西上野を制圧することは、謙信の関東における影響力を削ぎ、その出兵ルートを遮断し、さらには越後を背後から脅かすことにも繋がる。これは、信玄の多角的な戦略思考の現れであり、西上野の親上杉派の盟主であった長野氏が守る箕輪城の攻略は、対上杉戦略における死活的に重要な一手となった 1 。
また、当時の関東は、古河公方と関東管領の権威が失墜し、相模の北条氏康が急速に勢力を伸長していた。上杉憲政が越後に逃れたことで、上野の国人衆は上杉方につくか、北条方につくかで揺れ動く、まさに権力の空白地帯となっていた 12 。信玄にとって、この混乱に乗じて関東への橋頭堡を築くことは、将来の天下を見据える上で極めて魅力的な選択肢であった。
第三節:甲相同盟の役割
信玄は、この上野侵攻を円滑に進めるため、外交戦略を駆使した。天文23年(1554年)に娘を北条氏康の嫡男・氏政に嫁がせ、甲相同盟を締結 1 。これにより、背後である南からの脅威を取り除き、上野侵攻に戦力を集中させることが可能となった。
この同盟は、西上野の親上杉勢力にとって致命的であった。彼らは、西から侵攻する武田軍と、南から圧力をかける北条軍という、二正面作戦を強いられる状況に陥ったのである 4 。信玄の巧みな外交戦略が、箕輪城を巡る軍事バランスを、開戦前から武田方へ大きく傾けていた。
第二章:西上野の堅塁、長野業正
武田信玄の前に、長年にわたり巨大な壁として立ちはだかったのが、箕輪城主・長野業正(なりまさ)であった。彼の存在こそが、信玄の上野侵攻を10年近くも停滞させた最大の要因であった。
第一節:「上州の黄斑」の人物像
長野業正は、後世の軍記物において「上州の黄斑(虎の意)」と称され、その武勇と智略は高く評価されている 12 。武田信玄をして「業正一人が上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆かせたと伝えられるほどの人物であった 4 。
彼は単なる勇将ではなく、卓越した外交手腕と人心掌握術を併せ持っていた。その統治は領民からも深く信頼されており、「業正どのは民を大切にする。だから我らも命を懸けて従う」と語られていたという 14 。彼の死後、信玄の侵攻が本格化したという事実そのものが、業正という一個人の存在がいかに大きかったかを物語っている 12 。
第二節:婚姻政策と防衛ネットワーク「箕輪衆」
業正の真骨頂は、彼が築き上げた広域防衛システムにあった。これは、単に箕輪城という「点」で守るのではなく、西上野全体を「面」として防衛する、当時としては極めて高度な戦略であった。
その根幹をなしたのが、巧みな婚姻政策である。業正は、12人いたとされる娘たちを、和田城の和田氏、倉賀野城の金井氏、室田鷹留城の長野氏など、西上野の有力な国人領主たちに次々と嫁がせた 12 。これにより、血縁を基盤とした強固な同盟関係を構築したのである。
これらの国人領主たちは「箕輪衆」と呼ばれる連合体を形成し、箕輪城を本拠として、その周囲に50余りにも及ぶ支城網を張り巡らせた 16 。さらに、越後の上杉謙信を介して、白井・惣社の両長尾氏や沼田氏といった上野北部の勢力とも攻守同盟を締結 16 。これにより、武田軍が侵攻してきた際には、各所の城砦で抵抗し、敵の兵站線を伸び切らせ、箕輪城本体に到達する前にその戦力を削ぐという、縦深防御態勢を確立した。この人的ネットワークと物理的な城郭網が有機的に結合した地域防衛システムこそが、信玄を長年手こずらせた長野氏の力の源泉であった。
第三節:難攻不落の要塞・箕輪城
長野氏の防衛システムの中核を担った箕輪城は、榛名山東南麓の丘陵上に築かれた、東西約500m、南北約1,100mにも及ぶ広大な平山城である 17 。
城の縄張りは、本丸を城郭の一方に置き、その周囲二方ないし三方を二の丸、三の丸が梯子のように連なって囲む「梯郭式」を採用している 19 。各曲輪(くるわ)は、最大で幅約40m、深さ10mにも達する巨大な空堀によって厳重に区画されており、容易な侵入を許さない構造となっていた 17 。城の南側には榛名沼、西側には榛名白川といった自然の要害も備え 16 、さらに城門前には「馬出し」と呼ばれる小郭を設けて防御力を高めるなど、戦国時代の城郭として最高水準の防御機能を誇っていた 20 。この堅城が、業正の巧みな指揮と箕輪衆の結束力と相まって、武田軍の猛攻を幾度となく跳ね返してきたのである。
第三章:巨星墜つ ― 箕輪城、孤立への道
永禄4年(1561年)、西上野のパワーバランスを根底から揺るがす事件が起こる。長野業正の死である。この巨星の墜落は、甲斐の虎にとって、長年の宿願であった上野攻略の絶好機を意味した。
第一節:永禄4年(1561年)、業正の死
業正の死は、箕輪衆にとって計り知れない打撃であった。長野家はその死をしばらく秘匿し、結束を維持しようと試みたが、信玄の優れた情報網はこれを間もなく察知する 4 。信玄が「これで上野を手に入れたも同然だ」と大いに喜んだという逸話は、彼がいかに業正の存在を警戒していたかを如実に示している 4 。
家督を継いだのは、業正の子・業盛であった。当時17歳(一説には14歳)と若く、父に劣らぬ武勇の持ち主と評されてはいたものの、長年にわたり箕輪衆を束ねてきた父ほどの求心力と政治的手腕を発揮することは困難であった 4 。業正という重石を失った箕輪衆の結束は、信玄の巧みな調略の前に、次第に脆くも崩れ去っていく。
第二節:包囲網の漸進的構築(永禄4年~8年)
業正が築いた「面」の防衛システムを熟知していた信玄は、その死後も性急な力攻めを避けた。彼の戦略は、孫子の兵法にある「戦わずして勝つ」を地で行くものであり、箕輪城を攻める前に、その手足を一本ずつ切り落としていく周到なものであった。
まず、信玄は調略を本格化させ、箕輪衆の一角であった甘楽郡の小幡氏を早々に従属させる(永禄4年) 4 。次いで、謀将・真田幸隆を用いて吾妻郡の岩櫃城を攻略し、箕輪城の北方からの圧力を強化した 10 。
永禄6年(1563年)12月には、箕輪城の重要な支城であった室田の鷹留城を攻略し、城主の長野業通を討ち取った 6 。この時、箕輪城下や長野氏の菩提寺である長純寺も焼き払われたが、業盛は籠城して辛うじて持ちこたえている 6 。
そして永禄8年(1565年)、信玄は攻勢をさらに強める。業正の娘が嫁いでいた倉賀野城を攻略し 4 、和田城、安中城といった周辺の主要な城も次々と武力で制圧、あるいは調略によって寝返らせていった 4 。
この5年間にわたる信玄の執拗な切り崩し工作により、かつて西上野に張り巡らされていた長野氏の防衛ネットワークは完全に解体された。箕輪城はすべての支城を失い、救援の望みも絶たれ、関東平野に孤立する裸の城と化したのである 22 。永禄9年の総攻撃は、この周到な準備の末に行われた、いわば勝利が約束された戦いであった。
第四章:攻防三千日 ― 箕輪城総攻撃、血戦の記録
永禄9年(1566年)9月、5年間にわたる外堀埋めの末、武田信玄はついに箕輪城への総攻撃を命令した。これは、西上野の覇権を賭けた、壮絶な攻防戦の始まりであった。
第一節:永禄9年(1566年)9月、運命の出陣
信玄は、2万と号する大軍を率いて甲府の躑躅ヶ崎館を出陣 22 。これに対し、箕輪城に籠もる長野軍の兵力は、わずか1,500であった 13 。10倍以上の兵力差という、絶望的な状況下での戦いを強いられることとなった。
武田軍は箕輪城と鷹留城の中間にあたる白岩に本陣を構え、城を完全に包囲した 25 。『箕輪軍記』によれば、その布陣は南は生原(いくはら)、東は保渡田、西は高浜、北は相馬山方面から城に迫り、その鬨の声は「百千万の雷より恐ろしい」と描写されている 3 。
第二節:若き城主の決断 ― 城外での前哨戦
圧倒的な兵力差にもかかわらず、城主・長野業盛はただ籠城に徹する道を選ばなかった。彼は城から打って出て、板鼻から若田原にかけての地域で武田軍に野戦を挑んだ 4 。この果敢な迎撃戦において、長野軍は善戦し、武田方の有力武将である内藤昌豊の部隊に損害を与え、一時後退させるほどの奮戦を見せたという 1 。しかし、兵力の絶対的な差はいかんともしがたく、長野軍は次第に押し込まれ、城内への撤退を余儀なくされた 22 。この戦いは、業盛の勇猛さを示すと同時に、もはや城外での抵抗は不可能であるという厳しい現実を突きつけるものであった。
第三節:籠城戦 ― 大手・搦手の攻防
野戦での抵抗を断念した業盛は、箕輪城での籠城戦に最後の望みを託した。武田軍は大手口(正面)と搦手口(裏門)から、波状攻撃を開始する。この時、信玄の子・武田勝頼が搦手口の攻撃部隊の一翼を担い、初陣を飾ったと伝えられている 4 。
長野軍は、堅固な城の構造を最大限に活用して抵抗した。城兵は城壁や櫓から、鉄砲、弓矢を雨のように降らせ、さらには大石や丸太を投げ落として攻め手を阻んだ 1 。『箕輪軍記』や『妙法寺記』などの記録によれば、武田軍は数百人単位の死傷者を出し、攻城戦は序盤から熾烈を極めた 3 。特に搦手口の守りは固く、長野家の筆頭家老・藤井友忠が陣頭指揮を執り、勝頼の部隊に肉薄するほどの奮戦を見せたが、乱戦の中で討死を遂げたとされる 27 。
表1:両軍の兵力と主要指揮官
軍 |
総兵力(推定) |
主要武将 |
武田軍 |
約20,000 |
総大将:武田信玄 部隊長:山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、武田勝頼、真田幸隆 ほか |
長野軍 |
約1,500 |
城主:長野業盛 家老・将士:藤井友忠、上泉信綱、長野主膳、青柳忠家 ほか |
第四節:内なる敵 ― 密約と裏切り
長野軍の必死の抵抗により、武田軍は多大な犠牲を払いながらも、城を攻めあぐねていた。しかし、この堅城を内側から崩壊させる要因が存在した。長野家臣・小暮弥四郎による内応である 30 。
残された書状から、小暮弥四郎が武田方の重臣・跡部勝資を通じて信玄に内通していたことが確認されている 31 。この裏切りが具体的にどのような形で実行されたか、例えば城門の開門に手引きしたのか、あるいは城内の機密情報を漏洩したのかといった詳細は不明である。しかし、籠城戦という極限状況において、内部からの裏切りが城兵の士気を著しく低下させ、城の防御体制に致命的な亀裂を生じさせたことは想像に難くない。難攻不落の城も、内からの崩壊には抗えなかったのである。
第五節:剣聖・上泉信綱の奮戦
絶望的な状況下で城兵の士気を支えたのが、長野十六槍の一人に数えられ、後に剣聖と称される新陰流の創始者・上泉信綱(当時は秀綱)であった 12 。彼は主君・業盛と共に城に籠り、その卓越した武勇をもって最後まで奮戦したと伝えられている 29 。彼の存在は、滅びゆく長野家の最後の輝きであったと言えるだろう。
第六節:九月二十九日、最後の突撃と自刃
数日間にわたる攻防の末、城兵は百数十名にまで減り、城の各所で武田軍の侵入を許した 1 。もはや落城が時間の問題であることを悟った長野業盛は、父の遺言に従い、城を枕に討死する覚悟を決める。
『箕輪軍記』によれば、業盛は残った兵を率いて城門から最後の突撃を敢行 22 。馬場信春の陣に斬り込み、敵兵18騎を討ち取るという獅子奮迅の働きを見せた後、静かに城内へと引き返したという 29 。
そして永禄9年9月29日、父・業正の位牌が安置された持仏堂にて、一族郎党と共に自刃して果てた 6 。こうして、約半世紀にわたり西上野に君臨した長野氏の歴史は、その幕を閉じたのである 7 。
第五章:戦後の新秩序 ― 武田の支配と関東の未来
箕輪城の陥落は、西上野における武田氏の支配を決定づけた。信玄は、単に武力で制圧するだけでなく、巧みな戦後処理によってこの地を自らの勢力圏に組み込み、関東戦略の新たな拠点として再編した。
第一節:城代・内藤昌豊の統治
信玄は、箕輪城攻略で大きな功績を挙げた譜代の重臣・内藤昌豊(昌秀)を城代に任命し、西上野7郡の統治を委ねた 22 。これは、軍事拠点としての重要性だけでなく、この地域全体の行政を統括する郡代としての役割も担うものであった。
信玄の統治術が優れていたのは、旧支配者を徹底的に排除するのではなく、巧みに取り込むことで占領地の安定化を図った点にある。彼は昌豊に対し、旧長野家臣団を積極的に登用することを許可した 22 。これにより、長野一族の長野若狭守や浜川右京といった人々が所領を安堵されたほか、多くの旧臣たちが「箕輪衆」として武田家の家臣団に編入された 31 。
この政策は、複数の効果をもたらした。第一に、旧臣たちの反乱や離反を防ぎ、治安を安定させることができた。第二に、西上野の地理や人事に通じた有能な人材を確保し、自軍の戦力を増強することに繋がった。これは、敵を滅ぼした後にその力を吸収し、自らの支配体制を強化するという、信玄の優れた政治家としての一面を示すものであった。
第二節:剣聖の旅立ち
主家滅亡の悲運に立ち会った上泉信綱のその後の動向については、諸説ある。信玄はその武勇を高く評価し、家臣として仕えるよう熱心に説得したと伝えられる。一説には、信綱はこれを固辞し、武芸の道を究めるため、弟子と共に諸国流浪の旅に出たとされる 33 。武士としての忠義を尽くした彼が、以後は一介の兵法家として生きる道を選んだというこの逸話は、彼の生き様を象徴するものとして語り継がれている。一方で、一時期は武田氏に仕官し、その証として起請文を提出したとする史料も存在し 39 、その動向は必ずしも一様ではなかった可能性も指摘されている。
第三節:関東三国志の新たな局面
箕輪城の陥落により、武田氏は利根川以西の西上野をほぼ完全に掌握し、関東における確固たる橋頭堡を築くことに成功した 6 。これは、関東の勢力図に大きな地殻変動をもたらした。
まず、上杉謙信にとっては、関東出兵における重要な足場を失い、その影響力を大きく削がれる結果となった。これにより、武田・上杉間の抗争の主戦場は、信濃から関東へと拡大していくことになる。
一方で、同盟者であった北条氏にとっては、武田氏の勢力が自国の喉元にまで迫ることを意味した。箕輪城は、それまでの「対上杉」の最前線から、今度は「対北条」の最前線へと、その戦略的役割を徐々に変えていく 6 。この勝利が、後の甲相同盟の破綻と、武田・北条・上杉の三者が関東の覇権を巡り複雑に争う「三国志」の新たな局面を導く伏線となったのである 40 。
終章:名のみぞ残る ― 箕輪城の戦いが残したもの
永禄9年の秋風と共に散った長野氏であったが、その名と記憶は、時代の奔流の中で完全に消え去ったわけではなかった。
第一節:長野氏の血脈
落城の混乱の中、城主・長野業盛には2歳になる亀寿丸という幼子がいた。家臣の藤井孫蔵らに守られた亀寿丸は、城を脱出し、近隣の極楽院に匿われて生き延びたと伝えられている 5 。彼は後に出家して鎮良と名乗り、その血脈を後世に伝えた。また、武田氏に仕えた一族や、後に徳川家康に召し出されて井伊家の家老職を務めた者もおり、長野氏の系譜は様々な形で受け継がれていった 31 。
第二節:城の変遷と終焉
一方、主を失った箕輪城は、戦国乱世の荒波の中で目まぐるしくその支配者を変える。武田氏の滅亡後、天正10年(1582年)には織田信長の家臣・滝川一益が入城するが、本能寺の変の混乱に乗じて北条氏の手に渡り、北条氏邦が城主となった 2 。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡すると、関東は徳川家康の所領となる。家康は、徳川四天王の一人である井伊直政に箕輪12万石を与え、箕輪城はその居城となった 2 。直政は城の大規模な改修を行い、石垣を多用した近世城郭へと姿を変貌させた。現在、城跡に残る遺構の多くは、この井伊氏時代のものである 17 。
しかし、慶長3年(1598年)、井伊直政が交通の要衝である高崎に新たな城を築いて本拠を移したため、箕輪城はその歴史的役割を終え、廃城となった 2 。
結び
長野業盛が辞世の句に詠んだ「名のみぞ残る」という言葉は、奇しくもその後の歴史を予見していたかのようである。強大な武田信玄の前に滅び去った長野氏であったが、故郷を守るために最後まで抵抗を続けた長野業正・業盛父子の名は、悲劇の英雄として今なおこの地に語り継がれている。
国の史跡として整備された現在の箕輪城跡に佇む時、我々は空堀の深さや土塁の高さに、かつての激戦の記憶を垣間見ることができる 20 。それは、春風に梅も桜も散り果てた後も、確かに残り続けた一つの「名」の物語なのである。
引用文献
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- 『箕輪軍記』(口語訳) - 箕輪城と上州戦国史 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E3%80%8E%E7%AE%95%E8%BC%AA%E8%BB%8D%E8%A8%98%E3%80%8F%EF%BC%88%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%EF%BC%89
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- 武田信玄の戦略図~豪族の群雄割拠が続く信濃に活路を求めた甲斐の虎 (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/736/?pg=2
- 武田信玄の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482/
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- 箕輪城 - 長野氏について http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/siro/misato/minowa/minowa5.htm
- 箕輪城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/minowajo/
- 箕輪城(群馬県) - 全国史跡巡りと地形地図 https://www.shiseki-chikei.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC100%E5%90%8D%E5%9F%8E/16-%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%9F%8E-%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C/