最終更新日 2025-08-28

羽衣石城の戦い(1581)

羽衣石城の戦い(天正九年)― 織田・毛利の山陰東部支配を巡る戦略的攻防の詳細分析

序章:天正九年、伯耆国 ― 織田・毛利、二大勢力の衝突点

天正9年(1581年)に伯耆国で繰り広げられた「羽衣石城の戦い」は、単に一つの城の攻防戦として語られるべき事象ではない。それは、織田信長による天下統一事業の一環として展開された中国方面侵攻と、西国の雄・毛利氏による必死の防衛戦略が、山陰東部の地で激突した複合的な方面作戦であった。この戦いの理解には、利用者様が提示された「南条氏の山城を羽柴勢が攻略」という簡潔な概要を、より複雑で長期的な戦略的文脈の中に再配置する必要がある。

全ての始まりは、天正7年(1579年)に遡る。伯耆国東部三郡(河村・久米・八橋郡)を支配する国衆・南条元続が、長年の主家であった毛利氏に反旗を翻し、織田信長に恭順したのである 1 。この離反は、織田方にとって山陰攻略の重要な橋頭堡を獲得したことを意味し、同時に毛利方にとっては自らの支配圏の東端に敵の楔を打ち込まれたことを意味した。これにより、羽衣石城を本拠とする南条氏の領国は、織田・毛利両勢力がしのぎを削る最前線へと変貌した。

翌天正8年(1580年)、織田の中国方面軍総帥・羽柴秀吉は因幡国へ侵攻し、鳥取城をはじめとする主要な城を次々と攻略する。しかし、毛利方の猛将・吉川元春がすぐさま反撃に転じ、東伯耆へ進出。織田方に寝返った南条元続の羽衣石城を攻撃し、落城寸前まで追い詰めるという事態が発生した 2 。この一連の動きは、天正9年の戦いが前年からの熾烈な攻防の延長線上にあったことを明確に示している。

したがって、「羽衣石城の戦い」とは、天正9年における鳥取城攻めという主戦場と密接に連動しながら、兵站線の維持と破壊、在地勢力を駆使した調略とゲリラ戦、そして両軍の総帥である羽柴秀吉と吉川元春による主力の睨み合いといった、多様な軍事的要素が凝縮された一連の戦役の総称と捉えるべきである。さらに、この戦いの結末は1581年中には訪れなかった。真の決着は、翌天正10年(1582年)に京都で発生した中央政局の激変、すなわち本能寺の変という外的要因によってもたらされる。この戦いは、戦国末期の局地戦がいかに中央の動向に翻弄されたかを示す、象徴的な事例でもあるのだ。

第一章:戦いの舞台 ― 羽衣石城と伯耆の国衆

第一節:要害・羽衣石城の構造と防御網

羽衣石城は、現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町に位置する、標高372メートルの羽衣石山山頂に築かれた典型的な山城である 3 。その縄張りは、山頂部に本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪を階段状に配置し、その周囲を帯曲輪や腰曲輪が幾重にも固めるという堅固なものであった 4

しかし、羽衣石城の真価は城単体の防御力に留まらない。本丸から放射状に伸びる北方と西方の尾根筋には、実に90余りにも及ぶ砦群が設けられていたとされ、城郭本体と支城群が一体となった広域防御体制を構築していた 1 。これは、特定の方向からの攻撃に対して、多層的な迎撃を可能にするための設計思想であり、南条氏が長年にわたりこの地で勢力を維持してきた経験の蓄積が窺える。

特に注目すべきは、周辺に配置された大規模な支城の存在である。城の南方、標高423メートルの山頂に築かれた十万寺所在城は、土塁や堀切、空堀を広範囲に備えた本格的な城郭であり、羽衣石城を見下ろす戦略的要地を確保していた 5 。一方、城の北方、標高413メートルの山頂には番城が構えられていた。この番城の構造は極めて示唆に富んでおり、発掘調査によって確認された二重の横堀は、明らかに北側、すなわち毛利方の吉川元春勢が布陣した方面を意識して構築されたものであった 5 。これは、南条氏が毛利氏との対決を想定し、自らの本拠地の防御網を計画的に改修・強化していた動かぬ証拠と言える。羽衣石城は、これら支城群との連携によって、難攻不落の要塞として東伯耆に君臨していたのである。

第二節:城主・南条氏の系譜と苦境

羽衣石城主・南条氏は、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む名門であり、室町時代から伯耆国の守護代を務めるなど、この地の有力国衆として重きをなしてきた 6 。しかし、戦国時代に入ると、出雲の尼子氏の勢力が伯耆国へ伸長。南条氏もその強大な軍事力の前に屈し、一時は本拠である羽衣石城を追われるという屈辱を味わった 4

その後、尼子氏を滅ぼした毛利氏の支援を得て、南条宗勝は羽衣石城への復帰を果たす。これにより、南条氏は毛利氏の傘下に入り、東伯耆三郡の統治を任されることとなった 1 。しかし、この従属関係は盤石なものではなかった。天正3年(1575年)、当主の南条宗勝が月山富田城の吉川元春らを訪れた帰途に急死する 1 。家督を継いだ子の南条元続は、この父の死を単なる病死ではなく「毛利方による謀略ではないか」と深く疑念を抱いたとされる 1

この不信感は、織田信長の勢力が中国地方に迫る中で、元続の心を毛利から離反させる決定的な要因となった。毛利方は元続の不穏な動きを察知し、忠誠の証として人質の提出を再三にわたり要求した。しかし元続はこれを断固として拒否。それどころか、毛利方との交渉窓口であった山田重直の居館を自ら襲撃し、その命を狙うという挙に出るなど、両者の関係は修復不可能なまでに悪化していた 9 。天正7年(1579年)、元続はついに毛利氏との手切れを宣言し、織田方へ寝返る。これは単なる日和見的な選択ではなく、父の死への疑念と、強大な毛利氏の支配下で埋没することへの危機感が絡み合った、一族の存亡を賭けた決断であった。

第二章:前哨戦 ― 山田重直による執拗な切り崩し

羽衣石城を巡る戦いは、羽柴秀吉や吉川元春といった大軍が動く以前から、より小規模かつ執拗な形で始まっていた。その中心にいたのが、毛利方の武将・山田重直である。彼の存在と活動は、天正9年の大規模な軍事衝突の様相、そして羽衣石城の最終的な運命を理解する上で決定的に重要である。

山田氏は伯耆国久米郡を本拠とする一族で、重直は一度は南条氏の奉行衆として、毛利氏と南条氏の間の連絡役を務めていた 9 。しかし、その立場はあくまで毛利氏への忠誠を前提としたものであり、南条氏の内情に精通した、いわば毛利方が送り込んだ監視役でもあった 10 。それゆえ、南条元続が毛利からの離反を決意した際、山田重直は真っ先に排除すべき危険な存在と見なされた。前述の通り、元続は重直の館を襲撃するが、重直父子は辛くもこの難を逃れ、以後、打倒南条氏の最前線に立つこととなる 9 。両者の間には、政治的な対立を超えた個人的な遺恨が深く横たわっていた。

南条氏と袂を分かった山田重直は、吉川元春の麾下に入り、天正8年(1580年)以降、羽衣石城とその周辺地域に対して、大規模な城攻めとは異なる、浸透・破壊工作とも言うべき戦術を展開した。それは、羽衣石城の物理的な城壁ではなく、南条氏の支配基盤そのものを内部から崩壊させることを目的としていた。

その戦術は多岐にわたる。天正8年11月には、南条氏の重臣・泉養軒長清の館を夜襲し、南条兵数十人を討ち取ると同時に、人質とされていた自身の息女を救出するという離れ業を演じた 9 。また、天正9年に入ると、羽衣石城周辺に「野伏(のぶし)」と呼ばれる在地武装集団を派遣。彼らは山野に潜んでゲリラ戦を展開し、羽衣石城から秀吉軍へ向かう使者を討ち取るなど、城の孤立化を着実に進めていった 9 。さらに、同年8月には、南条軍が兵糧を確保するために行っていた「苅田」(敵地の稲を収穫すること)を襲撃し、経済的な打撃も与えている 9

山田重直の強みは、彼自身が東伯耆の地理と人間関係に精通していた点にある。彼は、現地の案内役や調略を担う「案内者(あないもの)」、南条方から寝返ってきた「落人(おちうど)」、そして地侍や農民からなる「野伏」といった、地域社会に根差した多様な人材を巧みに組織し、自軍に組み込んでいた 9 。これらの非正規戦力は、羽衣石城周辺の地理を熟知しており、夜襲や待ち伏せといった奇襲戦法を極めて効果的に実行できた。

この一連の活動は、一つ一つの戦闘規模こそ小さいものの、南条氏の支配領域をじわじわと蚕食し、城兵の士気を削ぎ、外部との連絡を遮断することで、羽衣石城を物理的にも心理的にも追い詰めていった。天正10年に羽衣石城が内応によって落城するが、その伏線は、山田重直によるこの2年以上にわたる地道かつ執拗な切り崩し工作の中に既に敷かれていたのである。戦国時代の城の強度は、物理的な防御力のみならず、城主の地域支配の安定性に大きく依存していることを、彼の戦いは雄弁に物語っている。

第三章:【本編】羽衣石城の戦い ― 天正九年の攻防(時系列解説)

天正9年(1581年)の伯耆・因幡戦線は、羽柴秀吉による鳥取城攻めという主軸と、羽衣石城を巡る攻防という副軸が、相互に影響を及ぼしながら展開した。両者の動きを時系列で追うことで、戦局のリアルタイムな変転を明らかにすることができる。

天正九年 伯耆・因幡戦線 主要動向年表

日付(天正9年)

出来事

関連勢力・人物

1月16日

宮吉城主・田公高家が毛利から離反

織田方

2月10日~26日

吉川勢が宮吉城を攻撃、26日に落城させる

毛利方(吉川勢)

4月9日

南条勢が山田重直を攻撃するも、返り討ちに遭う

南条勢、毛利方(山田重直)

6月12日

山田重直の家臣が羽衣石城周辺で敵兵を討ち取る

毛利方(山田重直)

6月25日

羽柴秀吉、2万余の軍を率いて姫路を出陣、鳥取城へ向かう

織田方(羽柴秀吉)

6月29日

秀吉の先鋒(蜂須賀正勝ら)が因幡私部城へ入る

織田方

7月4日

秀吉、因幡平定後に南条氏支援に向かう意向を示す

織田方(羽柴秀吉)

7月12日

秀吉、鳥取城近くに着陣。兵糧攻めを開始

織田方(羽柴秀吉)

7月28日

吉川元春、鳥取城救援のため出雲安来に着陣

毛利方(吉川元春)

8月27日

元春、本陣を伯耆八橋城へ前進させる

毛利方(吉川元春)

9月16日

織田方の松井康之が泊城を攻略、毛利船団65艘を破壊

織田方

9月23日

吉川元長、羽衣石城近辺に付城を構築。秀吉と南条の分断を図る

毛利方(吉川元長)

9月29日

羽衣石城下で合戦。吉川勢が城下を攻撃

南条勢、毛利方

10月25日

鳥取城落城 。城主・吉川経家が自刃

織田方、毛利方

10月27日

秀吉、羽衣石城救援(後巻)のため伯耆へ出陣

織田方(羽柴秀吉)

10月下旬

吉川元春、馬ノ山に本陣を構え、秀吉軍を迎え撃つ

毛利方(吉川元春)

11月上旬

馬ノ山対陣 。両軍が20町(約2.2km)の距離で対峙

織田方、毛利方

11月6日頃

秀吉、羽衣石城への兵糧・弾薬補給を完了し、姫路へ帰還

織田方(羽柴秀吉)

11月~12月

元春、馬ノ山に在番衆を残し、冬に備える

毛利方(吉川元春)

(注:上記年表は、主に 5 の記述に基づき、 2 などの情報を統合して作成した。)

時系列に沿った詳細解説

1月~6月(吉川方の攻勢と南条方の抵抗)

年明け早々、伯耆国内では毛利方と織田方に与する国衆との間で激しい攻防が繰り広げられた。1月には宮吉城の田公高家が毛利から離反するも、2月には吉川勢の猛攻により落城 5 。この間、羽衣石城周辺では山田重直によるゲリラ的な活動が継続しており、4月には南条勢の攻撃を撃退し、6月には羽衣石城の後背で敵兵を討ち取るなど、着実に戦果を挙げていた 5 。吉川元長がこれらの戦功を度々賞賛していることから、毛利方が山田重直の活動を高く評価し、南条氏切り崩しのための重要な戦術と位置づけていたことがわかる。

7月~9月(秀吉の因幡侵攻と伯耆戦線の膠着)

6月25日、羽柴秀吉は2万余の大軍を率いて播磨姫路を出陣し、因幡鳥取城へと向かった 5 。秀吉の主目標は鳥取城の攻略であったが、その戦略的視野は伯耆の南条氏救援まで含まれていた 5 。7月12日に鳥取城を包囲し、世に名高い「鳥取の渇え殺し」を開始すると、これに呼応して毛利方も動く。吉川元春は鳥取城救援のため、7月28日に出雲安来、8月27日には伯耆八橋へと本陣を前進させ、秀吉軍を牽制した 5

この間、伯耆戦線では一進一退の攻防が続いた。毛利方は吉川元長が羽衣石城近辺に付城(攻撃拠点となる砦)を築き、秀吉軍と南条氏の連絡を遮断しようと試みる 5 。一方、織田方も手をこまねいていたわけではない。9月16日、秀吉配下の松井康之が日本海沿岸の泊城を奇襲し、停泊中だった毛利方の輸送船団65艘を焼き払うという大きな戦果を挙げた 5 。これは、毛利方の海路からの補給・連携を断ち、鳥取城と羽衣石城を孤立させようとする秀吉方の明確な意図を示すものであった。そして9月29日、ついに羽衣石城下で大規模な合戦が勃発。吉川勢が城下に攻め寄せ、南条勢がこれを迎え撃った。この戦いでは織田方の福屋隆兼も戦功を挙げており、秀吉から賞されていることから、既に織田方の支援部隊が南条氏と共同で戦っていたことが確認できる 5

10月~12月(鳥取城落城と馬ノ山対陣)

10月25日、凄惨を極めた籠城戦の末、鳥取城は開城し、城主・吉川経家は将兵の命と引き換えに自刃した 5 。この報は、山陰戦線の力学を根底から覆すものであった。因幡における最大の抵抗拠点を失った毛利方と、主目的を達成した織田方。両者の視線は、伯耆国で唯一残された織田方の拠点、羽衣石城へと一斉に注がれた。

鳥取城の始末を宮部継潤らに任せた秀吉は、10月27日、自ら主力を率いて羽衣石城の後詰(救援)のために伯耆国へ向けて出陣した 5 。鳥取城落城の報を受け、弔い合戦に燃える吉川元春は、この秀吉の動きを待っていたかのように、橋津川を天然の要害とする馬ノ山に本陣を構え、決戦態勢を整える 1 。こうして、天正9年の山陰戦役のクライマックスとなる「馬ノ山対陣」の幕が切って落とされたのである。

第四章:頂上対決 ― 馬ノ山対陣、秀吉と元春の睨み合い

鳥取城落城後、伯耆国東郷池のほとり、馬ノ山と御冠山(または十万寺城)を挟んで対峙した羽柴秀吉と吉川元春の両軍は、戦国史上有数の緊張感に包まれた睨み合いを展開した。これは単なる軍事的な対峙に留まらず、両将の戦略思想と戦術的計算が交錯する、高度な心理戦でもあった。

第一節:両軍の布陣と兵力

毛利軍を率いる吉川元春は、東郷池の東岸に位置する標高約107メートルの馬ノ山に本陣を置いた 5 。この地は、北と西を橋津川に囲まれ、天然の堀を形成する要害であった 12 。毛利輝元が「山柄もよく、要害を取り構えて、普請等も調えてある」と評したように、堅固な陣城が築かれていたことがわかる 5 。兵力は1万数千から2万程度と推定されるが、鳥取城で吉川経家を見殺しにしたという無念と、その弔い合戦であるという大義名分から、その士気は極めて高かった 14

対する羽柴秀吉は、元春の本陣からわずか20町(約2.2キロメートル)という至近距離にある御冠山、あるいは羽衣石城南方の十万寺城に本陣を構えたとされる 5 。鳥取城を攻略した2万余の兵に加え、後続の部隊や南条氏の兵力を合わせれば、その総兵力は毛利方を大きく上回っていたと考えられる。秀吉は羽衣石城と連絡が取れる位置に布陣することで、救援対象である南条氏を自軍の防御線に取り込む形をとり、万全の態勢で元春と対峙した。

第二節:戦術的応酬と両将の狙い

両将が抱いていた目的は、明確に異なっていた。

秀吉の最優先目標は、第一に、毛利軍に包囲されている羽衣石城を救うことにあった。具体的には、城内に兵糧と弾薬を運び込み、南条氏が来春まで籠城を継続できる態勢を整えることである 5 。第二に、この救援作戦を達成した上で、いたずらに血を流す決戦を避け、因幡・東伯耆における織田方の支配権を既成事実化することであった。兵力で優位に立つ秀吉にとって、無理にリスクを冒す必要はなかった。

一方、兵力で劣る元春の狙いは、より攻撃的であった。第一に、地の利と兵の高い士気を活かして秀吉本隊に決戦を挑み、一撃を与えることで戦局を打開することである 12 。鳥取城での敗北を挽回するには、秀吉本体に打撃を与える以外に道はなかった。第二に、秀吉軍による羽衣石城への補給を実力で阻止し、南条氏を兵糧攻めによって屈服させることであった。

この目的の違いが、両軍の具体的な行動に現れた。元春は積極的に攻撃を仕掛けた。戸谷直忠らを指揮して秀吉の本陣に夜襲を敢行し、兵舎を焼き討ちにするなどの戦果を挙げている 12 。また、秀吉軍が峰伝いに羽衣石城へ物資を輸送しようとすると、松崎付近に部隊を派遣してこれを妨害。蜂須賀正勝が率いる輸送部隊と、吉川方の今田春政らの部隊が激しく衝突した 12 。元春は、秀吉の本隊を馬ノ山で釘付けにしながら、別動隊を用いて敵の補給路を断つという、巧みな戦術を展開したのである。

第三節:対陣の終結と戦略的評価

激しい小競り合いは続いたものの、両軍主力が激突する大規模な会戦は、ついに起こらなかった。11月上旬、秀吉は妨害を乗り越えて羽衣石城への兵糧・弾薬の補給を完了させる。11月8日付の書状で、秀吉は「南条の城へ取り続き、居城して、兵糧・玉薬を来春まで気遣いないよう差し籠め」「特段の動きもなく一段落した(かたが付いた)」と記し、作戦目標の達成を宣言した 5 。そして同月6日頃、主力を率いて鳥取城経由で姫路へと帰還を開始した。

この結末は、両者の戦略的評価に明確な差をもたらした。

戦術的なレベルで見れば、この対陣は「引き分け」であった。吉川方は夜襲などで戦果を挙げたが、秀吉本隊に決定的な打撃を与えることはできず、秀吉方も元春を打ち破ることはできなかった。

しかし、戦略的なレベルで見れば、これは紛れもなく「秀吉の勝利」であった。秀吉は、この伯耆遠征の主目的であった羽衣石城の救援を完全に達成し、南条氏の当座の安全を確保した。これにより、東伯耆における織田方の橋頭堡は維持され、山陰東部における織田方の優位は確定的なものとなった。一方、元春は弔い合戦という目的を果たせず、秀吉の補給作戦を阻止することもできなかった。敵の拠点存続を許し、秀吉本隊を取り逃がしたことは、毛利方にとって戦略的な敗北を意味した。馬ノ山には在番の兵が残されたものの、戦いの主導権は完全に織田方の手に渡ったのである 5

第五章:本能寺の変と落城 ― 予期せぬ幕切れ

天正9年(1581年)末の馬ノ山対陣によって、羽衣石城は当面の危機を脱した。しかし、それは戦いの終わりを意味するものではなかった。城の最終的な運命は、戦場の力学ではなく、日本の歴史を揺るがす巨大な政治的変動によって、予期せぬ形で決定づけられることとなる。当初の「羽柴勢が攻略」という認識は、この最終局面において完全に覆される。

天正10年(1582年)に入っても、伯耆国東部では毛利方と南条方の睨み合いが続いていた。馬ノ山には吉川方の在番衆が駐留を続け、羽衣石城への圧力を維持していた 5 。一方、羽柴秀吉は織田信長の命令を受け、中国方面軍の主力を率いて山陽道へ転進。同年4月には備中国へ侵攻し、清水宗治が守る高松城の攻略を開始していた 15 。これにより、山陰方面は二次的な戦線となり、羽衣石城の南条元続が期待していた秀吉からの直接的な大規模支援は、事実上、望めない状況となっていた。

そして、6月2日、京都・本能寺において、明智光秀が謀反を起こし、主君・織田信長を討つという未曾有の事変が発生する。この報は、備中高松城で毛利軍と対峙していた秀吉のもとにもたらされた。秀吉はすぐさま毛利方と和睦を結ぶと、世に言う「中国大返し」を敢行し、主君の仇を討つべく京へと軍を返した。この秀吉の劇的な転進は、山陰方面に残された南条元続にとって、最大の支援者を失い、毛利の大軍の前に完全に孤立無援となることを意味した。

この権力の空白を見逃すほど、吉川元春と山田重直は甘くはなかった。織田方の後ろ盾という「重し」が取れた南条氏に対し、毛利方は最後の切り崩し工作を仕掛けた。その決定打となったのは、武力による強攻ではなく、長年にわたる調略の結実であった。

同年9月29日、事態は急変する。史料には「羽衣石衆少々申し通じ、固屋以下焼き崩され候」と記録されている 5 。これは、羽衣石城の守備兵の中に毛利方に内応する者が現れ、城内の主要施設である「固屋」などを焼き払い、内部から城を崩壊させるというクーデターが発生したことを示している。この内応劇の背後には、秀吉という強力な支援者を失った南条氏の将来に絶望した家臣たちの動揺と、そこへ巧みにつけ込んだ山田重直による執拗な調略活動があったことは想像に難くない。

内部から完全に崩壊した羽衣石城を、もはや南条元続が維持することは不可能であった。元続は城を放棄し、播磨国へと落ち延びる。その退却路では、山田重直の軍勢が待ち構えており、敗走する南条勢に追撃をかけた 5 。こうして、難攻不落を誇った羽衣石城は、天正10年9月29日、毛利方の武将・山田重直の手によって、一滴の血を流す大規模な攻城戦を経ることなく占拠されたのである 1 。天正7年から続いた南条氏の抵抗は、主家の滅亡という中央の激変によって、あまりにも呆気ない幕切れを迎えた。

終章:戦いの歴史的意義

羽衣石城を巡る一連の戦いは、天正10年(1582年)の落城をもって一つの区切りを迎えたが、その歴史的な意義は、単なる一つの城の帰趨に留まるものではない。この戦いは、戦国時代の終焉期における日本の政治・軍事状況を多角的に映し出す、重要な事例として位置づけることができる。

第一に、この戦いの最終的な決着は、豊臣政権下における山陰東部の支配体制を確立する上で、決定的な役割を果たした。羽衣石城は一度毛利の手に落ちたものの、本能寺の変後の政治的力関係の変化、すなわち秀吉が中央の覇権を握ったことにより、状況は再び南条氏に有利に働く。天正12年(1584年)、秀吉と毛利氏の間で和睦が成立すると、伯耆国東部三郡は正式に南条氏の所領として安堵された 1 。これは、天正9年の秀吉による救援がなければあり得なかった結果であり、この一連の戦いが、最終的に豊臣政権下での国分(領土配分)に直結したことを示している。因幡・伯耆東部における抵抗は終息し、この地域は豊臣大名である宮部継潤や南条元続らによって統治されることとなる。

第二に、この戦いは、羽柴秀吉や吉川元春といった歴史の主役級の武将の戦略だけでなく、南条元続や山田重直といった在地国衆の動向が、戦局を大きく左右したことを鮮明に示している。特に、毛利方として南条氏と対峙した山田重直の活躍は、特筆に値する。彼は、在地社会のネットワークを駆使したゲリラ戦と調略によって、大軍を動かすことなく敵の支配基盤を内部から切り崩し、最終的な内応による落城へと導いた 9 。これは、戦国末期の戦争が、単なる兵力の衝突だけでなく、情報戦や心理戦、地域社会を巻き込んだ総力戦の様相を呈していたことを物語る好例である。

第三に、この戦役は、当時の戦争様式の複合性を凝縮して示している。秀吉が鳥取城で見せた徹底した兵糧攻め、松井康之による海上補給路への奇襲、山田重直が展開した在地勢力を活用したゲリラ戦、そして秀吉と元春による大軍同士の睨み合い(対陣)。これら多様な戦争の形態が、因幡・伯耆という限られた地域で、わずか数年の間に展開された。これは、戦国時代が終焉を迎え、統一政権が誕生する過程で、戦争がより大規模かつ多角的、そして組織的に進化していったことを象徴する出来事であったと言えるだろう。羽衣石城の戦いは、まさに時代の転換点に起きた、旧来の国衆の抵抗と、新しい時代の覇者の戦略が交錯した戦いであった。

引用文献

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  7. 武家家伝_南条氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nanjo_k.html
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  14. 東郷町誌 https://www.yurihama.jp/town_history2/2hen/2syo/03020126.htm
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