最終更新日 2025-08-27

肥後国人一揆(1587)

肥後国人一揆(天正15年):戦国末期、九州を揺るがした抵抗の全貌

第一章:前夜 ― 肥後の大地と佐々成政の着任

天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定は、破竹の勢いで進められた 1 。しかし、長年の戦乱が続いた九州、とりわけ肥後国(現在の熊本県)は、中央の新たな支配者を容易には受け入れない、複雑で根深い問題を内包していた。この地に新たな国主として着任した佐々成政と、独立の気風に富む在地領主たちとの衝突は、必然であったのかもしれない。肥後国人一揆は、単なる一地方の反乱ではなく、戦国という中世的秩序が、豊臣政権という近世的で中央集権的な体制へと移行する際に生じた、最後の、そして最も激しい陣痛の一つであった。

九州平定直後の肥後国:火種を抱く大地

秀吉が九州を平定した直後の肥後国は、いわば「国人割拠」の状態にあった 2 。肥後には52家もの国人衆と称される在地領主たちが存在し、それぞれが自らの領地と領民を直接支配していた 3 。彼らは菊池氏の衰退後、大友氏や龍造寺氏、そして南からは島津氏といった大勢力の間で、巧みに、あるいは必死に生き残りを図ってきた独立性の高い武士団であった 2

特に、秀吉の九州征伐直前には、島津氏の勢力が肥後全域に及んでおり、国人衆は親島津派と、それに抵抗する親大友派に分かれて激しく争っていた 4 。この複雑な対立構造が、平定後の統治を一層困難にする要因となる。彼らにとって土地とは、単に経済的な基盤であるだけでなく、先祖代々受け継いできた一族の誇りと存続そのものであり、その領主権は不可侵であるという中世的な価値観が深く根付いていたのである 6

豊臣秀吉の九州国分:期待と失望

天正15年6月、秀吉は肥後の国人衆52人に対し、一旦は彼らの所領を安堵するという内容の朱印状を与えた 4 。これは、秀吉に恭順の意を示した者たちへの懐柔策であり、国人衆はひとまず安堵した。特に、島津氏に最後まで抵抗し、いち早く秀吉に味方した隈部親永(くまべ ちかなが)のような親大友派の国人たちは、島津氏に奪われた旧領が回復されるであろうと大きな期待を寄せていた 4

しかし、その後に示された「九州国分」と呼ばれる領地再編の内容は、彼らの期待を無惨に裏切るものであった。秀吉の裁定は、論功行賞よりも「惣無事(そうぶじ)」、すなわち現状の勢力関係を追認し、天下の平穏を優先するものであった。結果として、隈部氏らの旧領回復は認められず、一方で秀吉に敵対した親島津派の国人の多くも所領を安堵され、存続が許されたのである 4

この裁定は、国人衆の間に深刻な失望と不信感を植え付けた。秀吉への期待は一夜にして豊臣政権そのものへの反感へと変わり、肥後の大地は一触即発の火薬庫と化した。この燃え広がりつつあった不満の炎の前に、新たな国主として送り込まれたのが、佐々成政であった。国人衆の怒りの矛先は、必然的に豊臣政権の代理人である成政へと向けられることになった。

「歴戦の勇将」佐々成政の肥後入国

佐々成政は、織田信長の重臣として数々の武功を挙げ、「黒母衣衆」にも名を連ねた歴戦の勇将であった 8 。加賀一向一揆の鎮圧などで見せたその統治手法は、強権的で妥協を許さないものであったと評される 6 。しかし、彼はかつて小牧・長久手の戦いに連動して秀吉と敵対し(富山の役)、一度は降伏した過去を持つ武将でもあった 9

九州征伐で戦功を挙げたことで、成政は肥後一国を与えられるという破格の待遇を受けた 10 。しかし、これは中央から遠く離れた難治の国への事実上の左遷であったという見方も根強い 11 。成政は隈本城(後の熊本城)を本拠と定め、肥後の統治に着手する 9 。彼のプライドの高さと、功を焦る性急さが、肥後の国人衆との間に決定的な亀裂を生むのに、時間はかからなかった。

秀吉の朱印状:「三年間の検地見合わせ」命令の真意

秀吉は、肥後国人衆の気性の荒さと独立性の高さを熟知しており、成政に対して極めて慎重な統治を求めていた。具体的には、「検地は3年間は行わず、国人衆の懐柔を優先せよ」という内容の朱印状を与えていたとされる 3 。これは、性急な改革が大規模な反乱を招くことを警戒しての指示であった。

しかし、この命令には別の解釈も存在する。秀吉は、かつて敵対した成政の性格を深く理解していたはずである。豊臣政権の根幹政策である太閤検地を禁じるという一見矛盾した命令は、功を焦る成政が命令違反を犯すことを予期した、巧妙な罠であった可能性も指摘されている 6 。もし成政が一揆を誘発すれば、秀吉は「命令に背いた成政」と「反乱を起こした国人」の両方を、正当な理由をもって一掃することができる。そして、その跡地には加藤清正や小西行長といった信頼できる子飼いの直臣を送り込むことができる。この一揆の背後には、秀吉の冷徹かつ壮大な政治戦略が隠されていたのかもしれない。

表1:肥後国人一揆 主要関連人物一覧

分類

人物名

役職・立場

備考

一揆勢

隈部 親永(くまべ ちかなが)

隈府城主

一揆の主導者。旧菊池家臣団の中心人物 5

隈部 親泰(くまべ ちかやす)

城村城主

親永の子。父と共に蜂起 5

和仁 親実(わに ちかざね)

田中城主

隈部氏に呼応し、田中城で徹底抗戦 2

辺春 親行(へばる ちかゆき)

-

和仁親実の姉婿。共に田中城に籠城 2

甲斐 親英(かい ちかひで)

-

旧阿蘇家臣。隈本城包囲に参加 4

佐々成政方

佐々 成政(さっさ なりまさ)

肥後国主

隈本城主。強引な検地が一揆を誘発 16

佐々 成能(さっさ なりよし)

-

成政の甥。隈本城への撤退戦で戦死 4

豊臣鎮圧軍

小早川 秀包(こばやかわ ひでかね)

-

鎮圧軍総大将。毛利元就の九男 9

安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)

-

外交僧。調略と降伏勧告で活躍 2

立花 宗茂(たちばな むねしげ)

筑後柳川城主

卓越した戦術で劣勢を覆し、多大な武功を挙げる 4

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)

肥前佐賀城主

鎮圧軍の一翼を担う 2

黒田 孝高(くろだ よしたか)

-

秀吉の軍師。降伏勧告に関与 19

加藤 清正(かとう きよまさ)

-

鎮圧に参加。戦後、肥後北半国の領主となる 4

小西 行長(こにし ゆきなが)

-

鎮圧に参加。戦後、肥後南半国の領主となる 4

第二章:導火線 ― 一揆の勃発(天正15年7月~8月)

佐々成政の肥後統治は、着任早々から大きなつまずきを見せた。国人衆の複雑な利害関係と、土地に対する彼らの強い執着心を理解せぬまま、彼は自らの経験と実績にのみ基づいた強硬策を推し進めてしまう。それは、火薬庫に自ら火を投じるに等しい行為であった。

【時系列】天正15年7月上旬:検地強行と隈部親永の蜂起

天正15年7月、成政はついに秀吉の「三年間の検地見合わせ」という命令を公然と破り、肥後国内での検地の強行を宣言する 9 。『小早川家文書』に残る秀吉の朱印状によれば、成政の失政は三点に集約される。第一に、秀吉が朱印状で保証した通りの領地を国人たちに与えなかったこと。第二に、翌年実施の命令であったにもかかわらず、検地を即時強行したこと。そして第三に、農民に対し過酷な年貢を課したことである 6

この性急かつ強引な政策に、真っ向から反旗を翻したのが、肥後北東部の有力国人であり、旧菊池家臣団の中心人物であった隈部親永であった 22 。彼は「秀吉公の朱印状に背く暴挙である」と成政の検地を断固として拒否し、居城である隈府城(わいふじょう、菊池城とも)に籠城した 5 。この動きに呼応し、親永の子である隈部親泰も、自身の居城である城村城(じょうむらじょう)で挙兵の準備を整えた 9 。隈府城には、弓や鉄砲の扱いに長けた兵500から600人を含む、1,000人余りが立て籠もったと記録されている 9

【時系列】8月6日~7日:隈府城の攻防と陥落

隈部氏の蜂起の報を受けた成政の対応は迅速であった。彼は自軍の兵力に絶対の自信を持ち、反乱の芽を早期に摘み取るべく、直ちに軍事行動を開始した。8月6日、成政は7,000(一説に3,000余騎)と号する大軍を率いて本拠の隈本城を出陣し、隈府城へと進軍した 4

二日間にわたる激しい攻防の末、兵力で圧倒的に優位に立つ成政軍の猛攻により、8月7日、隈府城は陥落する 9 。しかし、首謀者である隈部親永は、城が落ちる寸前に脱出に成功していた。彼は子の親泰が守る、隈府城よりもさらに堅固な山城である城村城へと逃れ、抵抗を続ける姿勢を鮮明にした 4

【時系列】8月中旬以降:戦線の拡大と成政の窮地

この時点で、成政は自らの戦略的誤算にまだ気づいていなかった。彼は、一揆を隈部氏という「点」の反乱としか捉えておらず、その首謀者を叩けば事態は収束すると考えていた。しかし、肥後の国人衆は婚姻関係などを通じて密接なネットワークを築いており、隈部氏の蜂起は彼らにとって、豊臣政権の支配に対する共同での抵抗を開始する号砲となったのである 5

成政軍が城村城の堅固な守りに手を焼き、攻略に時間を費やしている間に、事態は彼の想定をはるかに超えて悪化する。隈部氏の挙兵に呼応し、玉名郡の和仁親実、辺春親行、内空閑氏、さらには旧阿蘇家臣団の甲斐親英といった国人衆が一斉に蜂起した 2 。一揆勢の総兵力は、瞬く間に35,000人余りにまで膨れ上がったとされる 4

そして、一揆勢は驚くべき戦術に出る。彼らは、成政の本拠地であり、主力が不在で手薄となっていた隈本城を逆包囲したのである 6 。報告を受けた成政は狼狽し、城村城の攻略を断念。急遽、隈本城を救うために軍を転進させ、撤退を開始した 9 。しかし、この撤退戦は悲惨な結果に終わる。追撃してきた一揆勢、特に内古閑鎮房(うちこが しずふさ)の部隊の攻撃により、成政軍は大きな損害を被り、成政の甥である佐々成能をはじめとする多くの有力家臣が討ち死にした 4

もはや独力での鎮圧は不可能と悟った成政は、屈辱を忍んで秀吉に援軍を要請する。歴戦の勇将は、肥後の国人衆の土着性と水平的な連携力を見誤り、わずか一ヶ月余りで戦略的窮地に追い込まれたのであった。

第三章:救援と反撃 ― 豊臣軍の介入(同年9月~10月)

佐々成政からの救援要請は、豊臣秀吉を激怒させた。肥後を将来計画する大陸出兵の重要な兵站基地と位置づけていた秀吉にとって、この大規模な反乱は自身の天下統一事業そのものへの挑戦と映った 25 。事態の早期収拾を絶対目標とし、豊臣政権は迅速かつ大規模な軍事介入を決定する。

【時系列】9月:秀吉の怒りと第一次救援の失敗

一揆勃発の報は、京都で北野大茶会を主催していた秀吉のもとに届いた。秀吉はこの壮大な催しを急遽中止させ、自ら一揆鎮圧の指揮を執ることを宣言。その怒りのほどが窺える 7

最初の救援部隊として、九州の諸将に先駆けが命じられた。肥前国の鍋島直茂と、外交僧である安国寺恵瓊が兵糧を輸送する輜重隊を編成し、包囲された隈本城へと向かった。しかし、彼らは肥後国人衆の地理を活かした戦術の前に苦杯を嘗めることになる。天正15年9月、救援隊は肥後南関(現在の熊本県玉名郡南関町)付近で、一揆方の大津山出羽守が仕掛けた巧みな伏兵に襲撃され、兵糧の大部分を奪われて壊滅。第一次救援作戦は完全な失敗に終わった 4

【時系列】9月下旬:立花宗茂、戦局を覆す

第一次救援の失敗は、一揆勢の士気を大いに高め、佐々成政をさらなる窮地へと追い込んだ。この絶望的な状況を打開すべく、白羽の矢が立てられたのが、筑後柳川城主・立花宗茂であった。彼は養父・立花道雪、実父・高橋紹運譲りの武勇と、冷静な知略を兼ね備えた、当時まだ20歳の若き将であった。

宗茂は、弟の高橋直次と共にわずか1,200の兵を率いて出陣する 4 。彼の戦術は、力で押し通そうとした成政や、油断から敗北した鍋島勢とは全く異なっていた。まず、宗茂は鍋島勢が敗れた原因を徹底的に分析し、敵が竹林などを利用した伏兵戦術を得意とすることを突き止めた 20 。その上で、彼は敵の戦術を逆手に取る作戦を立案する。自軍を騎馬隊、鉄砲・輜重隊、長槍隊の三隊に巧みに分割し、敵の伏兵が現れるであろう場所に、逆に自らの伏兵を配置したのである 4

宗茂の予測は的中した。南関に差し掛かった立花勢に襲いかかろうとした一揆勢は、逆に立花方の伏兵による側面攻撃を受けて混乱。激戦の末、立花勢は一揆方の将・大津山出羽守を討ち取り、その居城である大津山城をも攻略した 4

勢いに乗った宗茂は、さらに進軍を続け、兵糧が尽きかけていた佐々軍が籠る前線拠点(平山東・西付城)への兵糧輸送を、敵の妨害を排除しつつ見事に成功させる 4 。この一連の戦いにおいて、宗茂は「一日に十三度戦い、七つの城を落とし、650余の敵兵を討ち取った」と記録されるほどの、獅子奮迅の活躍を見せた 20

佐々成政の硬直した正攻法と、立花宗茂の柔軟で知略に富んだ戦術の対比は、この時代の転換点を象徴している。もはや単なる個人の武勇だけではなく、情報分析能力、戦術的柔軟性、そして兵站管理能力といった近代的な司令官としての資質が、新たな時代を生き抜く武将には求められていた。宗茂の鮮やかな戦功は、成政の「旧世代の武将」としての限界を浮き彫りにすると同時に、一揆の戦局を豊臣方優位へと大きく傾ける転換点となった。

【時系列】10月:豊臣鎮圧本隊の編成と進軍

立花宗茂の活躍により、隈本城の包囲は解かれ、佐々成政は一時の猶予を得た。しかし、秀吉の目標は一揆の根本的な鎮圧にあった。彼は九州・四国の大名に総動員令を発し、一揆勢を完全に殲滅するための本格的な鎮圧軍を編成した 4

総大将には、毛利元就の末子で小早川隆景の養子である小早川秀包が任命された 9 。その麾下には、先の戦いで武功を挙げた立花宗茂、鍋島直茂、筑紫広門といった九州の諸大名に加え、安国寺恵瓊、黒田孝高といった知将、さらには四国から戸田勝隆、福島正則、生駒親正、蜂須賀家政といった秀吉子飼いの猛将たちも馳せ参じた 2 。数万規模に及ぶこの大軍団は、肥後国人衆の最後の抵抗拠点を粉砕すべく、進軍を開始した。

第四章:最後の攻防 ― 田中城と城村城(同年10月~12月)

豊臣鎮圧本隊の進軍により、肥後国人一揆は最終局面を迎えた。各地で散発的な抵抗を続けていた国人衆は、圧倒的な兵力の前に次々と鎮圧されていく。最後まで徹底抗戦の意志を捨てなかったのは、和仁一族が籠る田中城と、一揆の首謀者・隈部親子が立て籠る城村城であった。

【時系列】10月28日~12月5日:田中城の攻防

肥後国衆の一人である和仁氏の居城・田中城は、和仁川東岸の小高い丘に築かれた、実戦的な平山城であった 2 。当主の和仁親実、その弟の親範、親宗、そして姉婿の辺春親行らは、一族郎党約900の兵と共にこの城に立て籠もり、最後の抵抗を試みた 2

天正15年10月28日、小早川秀包を総大将とする一万余の豊臣軍が田中城に到着し、完全な包囲網を敷いた 2 。この攻防戦の様子は、奇跡的に現存する『辺春和仁仕寄陣取図(へばるわにしよりじんとりず)』によって、今日に詳細に伝えられている 2 。この絵図は、現存する日本最古の城攻め図とされ、当時の戦いの実態を知る上で極めて貴重な史料である 18

図によれば、豊臣軍の布陣は以下の通りであった 15

  • 西(主攻正面): 総大将・小早川秀包
  • 南西: 安国寺恵瓊
  • 南: 立花宗茂および筑前・筑後衆
  • 北: 鍋島直茂および肥前衆

豊臣軍は城の周囲に二重の柵を巡らせ、兵糧攻めと直接攻撃を併用する、秀吉得意の戦術で城を追い詰めていった 2 。また、図には「軍中法度」として喧嘩や略奪行為の禁止が明記されており、これが規律の取れた大軍団であったことを示している 18

10倍以上の兵力差にもかかわらず、和仁一族の抵抗は凄まじかった。彼らは巧みな防衛戦術で豊臣軍の猛攻を幾度となく跳ね返し、実に38日間もの間、城を守り抜いた 2 。しかし、武力だけでは落ちないと見た豊臣軍は、調略に切り替える。軍監として参陣していた安国寺恵瓊が、和仁親実の姉婿である辺春親行に内応を働きかけたのである 2 。この内応工作が成功し、城内の結束は崩壊。天正15年12月5日、ついに田中城は落城し、和仁一族はその歴史に幕を閉じた 2

【時系列】12月15日~26日:城村城の開城と一揆の終結

田中城の陥落は、最後まで抵抗を続けていた隈部親子に大きな衝撃を与えた。彼らが籠る城村城は完全に孤立し、もはや落城は時間の問題となった。

この状況を見て、豊臣軍の安国寺恵瓊と黒田孝高が降伏勧告の使者として城村城へ赴いた。彼らは戦意を喪失していた隈部親子に対し、「もし開城するのであれば、我らが責任をもって関白殿下(秀吉)に所領安堵の儀を嘆願して差し上げよう」という、極めて魅力的な条件を提示した 19

この甘言を信じた隈部親永・親泰親子は、ついに抵抗を断念。天正15年12月15日頃(一説に2日)に降伏勧告を受け入れ、12月26日、城村城の門を開いた 4 。この城村城の開城をもって、同年7月から約5ヶ月にわたって肥後全土を揺るがした肥後国人一揆は、完全に鎮圧されたのである 4

第五章:戦後処理 ― 新たな秩序と旧勢力の末路

一揆の鎮圧後、豊臣秀吉による苛烈な戦後処理が始まった。それは、肥後の中世的秩序を根底から破壊し、豊臣政権の絶対的な支配を確立するための、容赦のないものであった。反乱の責任者、そして反乱に加担した者たちの末路は、悲惨を極めた。

佐々成政の責任追及と最期

一揆鎮圧の立役者であるはずの佐々成政であったが、秀吉の評価は冷徹であった。彼は「一揆の原因を作った張本人」として、その責任を厳しく追及されることになる。

天正16年(1588年)2月、成政は謝罪と状況報告のために大坂へ出頭するが、秀吉は面会を一切拒絶。彼はそのまま摂津国尼崎の法園寺に幽閉される身となった 4 。安国寺恵瓊らが助命を嘆願したものの、秀吉の決意は変わらなかった 29

そして同年閏5月14日、成政に切腹が命じられる 4 。享年52 30 。その最期は壮絶を極め、伝承によれば、成政は短刀で腹を横一文字に切り裂いた後、自らの臓腑を掴み出し、天井に投げつけたとされる 29 。歴戦の勇将の、あまりにも無念な幕切れであった。

隈部親永の「放し討ち」

一揆の首謀者として降伏した隈部親永とその一党12名は、身柄を立花宗茂に預けられ、筑後柳川城で蟄居生活を送っていた 5 。彼らは、安国寺恵瓊らの「所領安堵」の約束を信じていた。

しかし、天正16年5月26日、秀吉から隈部一党全員の処刑を命じる非情な通達が柳川にもたらされた。検使として浅野長政が派遣され、命令の即時執行が求められた 31 。降伏勧告の約束を反故にし、いわば「騙し討ち」の形で処刑することに、立花宗茂は激しく苦悩した。武士の信義を重んじる彼は、単なる斬首を良しとせず、武士としての名誉を保った最期を迎えさせたいと考えた。

宗茂は検使の浅野長政に対し、前代未聞の提案を行う。それは、処刑される隈部一党と同数の討手を立て、双方真剣での決闘によって処刑を行う「放し討ち(はなしうち)」であった 31 。長政は宗茂の武士としての信義を貫こうとする決意に心を動かされ、これを許可した。

翌5月27日の朝、柳川城の黒門前の広場が、その舞台となった。立花家からは十時伝右衛門(ととき でんえもん)をはじめとする選りすぐりの家臣12名が討手として立った。対する隈部一党12名も、帯刀を許され、決闘に臨んだ。巳の刻(午前10時)、凄惨な戦いの火蓋が切られた。高齢で足に傷を負っていた隈部親永は、十時伝右衛門の一太刀のもとに倒れたが、他の者たちは肥後武士の意地を見せ、激しく抵抗した。半刻(約1時間)にも満たない激闘の末、隈部一党12名は全員討ち死にした。立花方にも死者1名、多数の負傷者を出すという壮絶な結果となった 31

この「放し討ち」の顛末を伝え聞いた秀吉は、宗茂の独断を罰するどころか、「さすがは西国一の弓取りよ」と、その器量を高く評価したと伝えられている 31

肥後国の再編:新時代の到来

佐々成政の死と、国人衆の徹底的な粛清を経て、肥後国は完全に豊臣政権の支配下に置かれた。秀吉は肥後国を二つに分割し、北半国を加藤清正に、南半国(球磨郡を除く)を小西行長に与えた 4

この一揆において、参加した国人衆はもちろんのこと、中立を保った者たちでさえも厳しく処罰され、52家いたとされる国人のうち48家が戦死または処刑によって取り潰された 4 。これにより、肥後において中世から続いてきた国人領主層は事実上解体され、彼らの土地と人々は、秀吉の信頼厚い直臣大名が支配する近世的な大名領国制へと完全に再編されたのである。肥後の大地に、新しい時代が幕を開けた瞬間であった。

第六章:歴史的意義 ― 肥後国人一揆が残したもの

肥後国人一揆は、単なる一地方の反乱に終わらず、その後の豊臣政権、ひいては日本の歴史全体に大きな影響を及ぼした。この一揆の鎮圧は、戦国時代の終焉と、新たな近世社会の到来を象徴する画期的な出来事であった。

中世的国人領主制の終焉

この一揆が持つ最大の意義は、肥後という地域において、中世的な国人領主制が完全に終焉を迎えたことにある 7 。一揆を起こした国人衆にとって、土地は先祖代々受け継いできた不可侵の権利であり、たとえ天下人であっても、その支配権に介入することは許されないという強い意識があった。彼らの抵抗は、この中世的な「土地と武士の一体性」を守るための最後の戦いであった。

しかし、秀吉による徹底的な鎮圧と、それに続く加藤・小西という中央直結の大名の入封は、その価値観を根底から覆した。国人衆はもはや独立した領主ではなく、大名の支配下に入る家臣(与力)となるか、あるいは歴史から消え去るかの二者択一を迫られた。結果として、肥後の国人衆のほとんどは後者の道を辿り、土地は完全に新たな領主の支配下に置かれた。これは、全国で進められた兵農分離と大名領国制確立の、最も劇的な一例であった。

天正16年「刀狩令」発布への直接的影響

肥後国人一揆の鎮圧に豊臣政権が多大な労力を要した原因の一つは、一揆勢に刀、脇差、さらには鉄砲で武装した多数の百姓(農民)が加わっていたことであった 4 。当時の社会では、武士と農民の身分はまだ明確に分かれておらず、農民が武装して戦闘に参加することは珍しくなかった 33 。この「武装する民衆」の力は、豊臣政権にとって大きな脅威と映った。

この肥後での苦い経験が、秀吉にある歴史的な政策を決断させた。それが、一揆終結の翌年、天正16年(1588年)7月8日に全国へ向けて発布された「刀狩令」である 4 。この法令は、表向きには方広寺大仏殿建立のための釘や金具にするとしながら、その真の目的は、百姓から武器を没収し、一揆の能力を削ぐことにあった 34

肥後国人一揆は、秀吉に「兵農分離」を全国規模で、かつ強制的に断行する必要性を痛感させた決定的な契機となった。この一揆という地方の反乱が、日本の社会構造を大きく変える国家的な政策へと直結したのである。刀狩令によって、武士は支配階級として帯刀を許可され、百姓は武器を持たない被支配階級として明確に区別されることになり、近世封建社会の基礎が固められていった 36

豊臣政権の支配体制確立と未来への布石

秀吉にとって、九州、とりわけ肥後の平定は、国内統一の総仕上げであると同時に、次なる壮大な計画への布石でもあった。それは、大陸、すなわち明への出兵(後の文禄・慶長の役)である。

この構想を実現するためには、後方の兵站基地となる九州、特に朝鮮半島への玄関口に近い肥後国の完全な安定が絶対条件であった 4 。国人一揆という不安定要素を徹底的に排除し、隈部氏や和仁氏といった在地勢力を一掃した上で、加藤清正や小西行長といった自らの意のままに動かせる直臣大名を配置したことは、肥後を巨大な軍事基地へと再編するプロセスの一環であった。

この意味で、肥後国人一揆の鎮圧は、豊臣政権の国内支配体制を盤石にすると同時に、その目を国外へと向けさせるための重要な準備段階であったと言える。肥後の国人衆の流した血は、皮肉にも秀吉の野望を支える礎となったのである。

巻末付録

表2:肥後国人一揆 詳細年表

年月

出来事

天正15年 (1587)

6月

佐々成政、肥後国主として隈本城に入国。

7月上旬

成政、秀吉の命令を無視し検地を強行。隈部親永が隈府城に籠城し蜂起。

8月6日~7日

成政軍、隈府城を攻略。隈部親子は城村城へ退却。

8月中旬

和仁氏、甲斐氏らが呼応し蜂起。一揆勢が手薄な隈本城を包囲。成政、撤退戦で苦戦し甥の成能が戦死。

9月

鍋島・安国寺の第一次救援隊、南関で一揆勢の伏兵に敗れ、兵糧輸送に失敗。

9月下旬

立花宗茂が救援に出陣。南関で一揆勢を破り、佐々軍への兵糧輸送を成功させる。

10月28日

小早川秀包を総大将とする豊臣鎮圧本隊が、和仁氏の籠る田中城を包囲。

12月5日

安国寺恵瓊の調略により、38日間の抗戦の末、田中城が陥落。

12月26日

安国寺・黒田の降伏勧告を受け、隈部親子が城村城を開城。一揆が終結。

天正16年 (1588)

2月

佐々成政、謝罪のため大坂へ出頭するも、秀吉に面会を拒絶され、尼崎の法園寺に幽閉される。

閏5月14日

佐々成政、一揆を招いた責任を問われ、法園寺にて切腹。

5月27日

隈部親永とその一党12名、預かり先の柳川城黒門前にて、立花家の討手との「放し討ち」により処刑される。

7月8日

豊臣秀吉、肥後国人一揆の教訓から、全国に刀狩令を発布。兵農分離を徹底する。

引用文献

  1. No.080 「 肥後の国衆(くにしゅう)一揆 」 - 熊本県観光連盟 https://kumamoto.guide/look/terakoya/080.html
  2. 田中城 (肥後国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%9F%8E_(%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD)
  3. 田中城跡(国史跡)|自然・景観・公園|観光マップ - 玉名郡 - 和水町 https://www.town.nagomi.lg.jp/kanko/map/shizen/3_624/
  4. 肥後国人一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E4%B8%80%E6%8F%86
  5. 隈部親永とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%9A%88%E9%83%A8%E8%A6%AA%E6%B0%B8
  6. 肥後国衆一揆 | オールクマモト https://allkumamoto.com/history/higo_uprising_1587
  7. 山鹿市「隈部氏館跡」 - 走る・登る・食べる - FC2 https://tor5.blog.fc2.com/blog-entry-1206.html
  8. 名誉か刑罰か?佐々成政のあいまいな切腹 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/899/
  9. 「肥後国人一揆(1587年)」豊臣政権の試練と、佐々成政失脚の戦!九州国衆の大反航戦 https://sengoku-his.com/119
  10. 佐々成政の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46493/
  11. 佐々成政(さっさ なりまさ) 拙者の履歴書 Vol.282~志高く 荒波に散る~|デジタル城下町 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf50873d596ec
  12. 秀吉と争い続け、信長への忠誠心を失わなかった男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【佐々成政編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1025938/2
  13. 【信長の野望 覇道】隈部親永の戦法と技能 - ゲームウィズ https://gamewith.jp/nobunaga-hadou/article/show/377370
  14. 和仁親実 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%BB%81%E8%A6%AA%E5%AE%9F
  15. 田中城跡 | 熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト https://kumamoto-museum.net/blog/archives/chiiki/1209
  16. 国衆一揆というのは、豊臣秀吉から肥 https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/31543.pdf
  17. 肥後国衆一揆で豊臣秀吉の九州統一の功労者 佐々成政を切腹に追い込んだ (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/21193/?pg=2
  18. 田中城の写真:辺春和仁仕寄陣取図[きゃみさんさん] https://kojodan.jp/castle/805/photo/276883.html
  19. 2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介1・千寿の ... https://kusennjyu.exblog.jp/23852670/
  20. 立花宗茂と武士道 - BBWeb-Arena http://www.bbweb-arena.com/users/ikazutia/tatibana1.html
  21. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  22. 特別寄稿佐々成政と肥後国衆一揆 ~中世から近世への歴史的転換点 - 富山県商工会議所連合会 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0205.html
  23. 肥後一揆(ひごいっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E4%B8%80%E6%8F%86-863139
  24. 隈部親永 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%88%E9%83%A8%E8%A6%AA%E6%B0%B8
  25. 〜中世肥後の終焉〜 肥後国衆一揆最後の砦⚔️田中城跡|Desert Rose - note https://note.com/dessertrose03/n/nfcdcc25d3007
  26. No.043 「 肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき) 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/043.html
  27. 田中城(熊本県和水町)前編 | 旅人のブログ https://tabi-bito.net/tanaka-castle-nagomi-town-kumamoto-prefecture-part-1/
  28. 「戦国肥後国衆祭り」ライド - くまもと自転車紀行 https://kumajiki.hatenablog.com/entry//201802/article_2.html
  29. 佐々成政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF
  30. 忠節を貫いた自己信念の武将 佐々成政|まさざね君 - note https://note.com/kingcobra46/n/n84541b4ef0a1
  31. 2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介2・千寿の ... https://kusennjyu.exblog.jp/23861025/
  32. 2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介5・千寿の楽しい歴史 - エキサイトブログ https://kusennjyu.exblog.jp/23880218/
  33. 刀狩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9
  34. 刀狩(カタナガリ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%88%80%E7%8B%A9-44956
  35. 刀狩りとは 豊臣秀吉刀狩令と太閤検地との関係 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/katanagari.html
  36. 豊臣秀吉の刀狩り/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/sword-basic/hideyoshi-katanagari/
  37. 山川/変更箇所[近世(その1)] https://tsuka-atelier.sakura.ne.jp/kyoukasyo/yamakawa/yamakawa03.html